「僕に何か隠してない?」
それだけは、言われたくなかったのに。
突き付けられた後で無視するわけにもいかなくて。
「あー……俺、その」
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
何を考えてるのかわからなくて、自分のことすらわからなくなりそうだった。
それでも何か答えなきゃいけないって思ってたのは事実で。
気付けば俺は、本当に考えていたことを言ってしまっていた。
「マネージャーになろうかなって、思ってたんです」
不二先輩は驚いていたみたいだった。普段は目を細めて微笑んでいることが多いのに、きれいに開いているのを見る機会はあまり多くない。
言うつもりはなかった。言ってしまった後で怒られる覚悟をした。
きっと、先輩はそんなこと望んじゃいない。
でもなぜか、いつの間にか俺はそんな気持ちになっていて、嘘をついているわけじゃなかった。この場を切り抜けようと冗談を言ったつもりもない。
「去年もそうでしたけど、先輩のお世話をするのは好きだし、今年になって後輩ができて、あれこれ面倒看てるのも結構向いてるなって。ほら、指導役ってのも向いてると思うんですよ。練習には参加するけどチーム力の向上に集中するとか――」
「それでいいの?」
ひやりとした声。そんな声色、初めて聞いた。
少なくとも、今まで俺に向けられたことはない。
あの不二先輩が怒っているのだと、一瞬で理解した。
「君は本当に、それで納得できるの?」
……何も言えなくなってしまう。
良い考えだと思っていた。先輩も同級生も後輩も、みんなから頼りにされてる自負はあったし、俺も部の雑務をするのは嫌いじゃなかった。三年生が引退すればきっと桃城と海堂が部長と副部長を引き継いでチームを支える。俺はそのサポート。考え得る最高の布陣だと思っていたんだけど。
そう言ってしまえば、不二先輩をさらに怒らせてしまう気がして。
それ以上に、一度問いかけられただけで、確信を持とうとさえしていた自分の考えに自信を失いそうになって、本当にそれで納得できるのか、わからなくなる。
何も言えない俺を見て、先輩は静かに目を伏せた。
失望、されたんだと思う。
今までどんなことよりも恐れていたことだ。憧れるこの人にだけは失望されたくない。心底そう思っていたのに今、現実になってしまった。
足元がぐらついた気がして、顔を上げられなくなる。
「僕は今でも待ってるよ。君と一緒にプレーできるのを」
地面を見つめていた時、いつもと変わらない、先輩の優しい声を聞いた。
「君が僕を本気にしてくれたからだ。だから僕は、君と一緒にテニスがしたい。それまでずっと待ってる」
*
ライン上を狙った正確無比なストロークを返した途端、悠介は驚愕した。
素早く前に出た手塚がすでに待ち構えている。それだけならまだしも、ラケットを構えるその姿は忘れられるはずもなく、次の光景が簡単に想像できてしまう。
「前!」
的確な指示もできず端的に叫んだ。
瞬時に理解したリョーマは全力で前へ走る。
それでも間に合わず、繰り出された伝家の宝刀“零式ドロップ”は、地面に触れた途端に強烈なスピンで地面を転がり、前に居るリョーマではなくネットの向こうに居る手塚目掛けて戻っていく。
完成された必殺の一打に観衆はわっと沸いた。ほんの一球で場の空気を自分の物に変えている。あれほどの凄技を見せられればそうなるのは当然だろう。
呆然と立ち尽くす二人はしばし身じろぎすることもできなかった。
「ゲーム手塚・乾! 4-3!」
「うおおおおっ!? 手塚部長スゲー!」
「宮瀬先輩と越前君がノッてきても、確実に決めてくる……!」
「か、勝てるのかな? 越前君……」
他のプレイヤーならばすでに心を折られていてもおかしくないゲーム展開だ。
あらゆる手を尽くして攻撃を続ける悠介とリョーマに対し、どれだけ揺さぶられようとも即座に対処して、冷静な攻撃と防御で着実にポイントを重ねている。
悠介とリョーマはすでに初戦と今とではまるで別人のように成長している。それなのにリードされているのは、ただ純粋に相手の地力が上回っているからに他ならない。
「だから嫌なんだよ。どっちもバリバリのシングルスプレーヤーなのに、どこ打っても返してきやがんの。防御力高過ぎ」
「攻撃し続けて抜けばいいでしょ。攻撃力ガン上げっスよ」
「それで負けてるんですが?」
「まだまだ。もっと、もっと」
「ハァ……ほんと、楽しい後輩」
大きく息を吐き出して、コートチェンジのため移動をしようとする。
コートに入る寸前、軽いステップで疲労を感じさせずに、唐突に菊丸がやってきた。足を止めた悠介とリョーマが迎える。
「助っ人さんじょー。ほいドリンク」
「ありがとうございます」
「どうも」
「しっかし強いね、あの二人。部長だってほとんどダブルスやったことないはずなのにフツーに上手いでやんの。あれじゃどうしようもないじゃん」
「ですね。うちの越前と大違い」
「ちょっと」
リョーマの抗議はさらりと受け流して、悠介は菊丸に注意を向ける。わざわざここへ来てくれたのはただドリンクを渡すためではないはずだ。
期待に応えるべく菊丸はビシッと悠介を指差す。
「そこで先輩からアドバイス! 有り難いからよーく聞いとけよ」
「おっ、待ってました」
悠介の表情がパッと明るくなると、菊丸は悪戯っぽく笑って声を大きくした。
「攻めて攻めて攻めまくれ!」
「期待して損した……」
「やっぱそうっすよね」
「あり? だめだった?」
落胆してがっくり肩を落とす悠介とは反対に、リョーマは心得たと言わんばかりに頷く。
俯いた悠介の背をぽんぽんと叩いて菊丸は手塚と乾を見ながら言う。
「でもさぁ、やっぱダブルスなんだからシングルスとは違うじゃん? みんな頭じゃわかってても経験で知ってんのはユースケだけだよ」
「乾先輩もダブルスやってましたけど……」
「乾だってシングルスの方が長いじゃん。俺と大石の練習に一番付き合ってんのはユースケなんだからさ、アレやんなよ」
そう言うと多少のアドバイスにはなったようだ。悠介がわずかに表情を変える。
にやっと笑った菊丸は退散すべく二人からドリンクを受け取り、来た時と同様に飄々と元の位置へ帰っていった。
改めてコートに入り、並んで立つ二人は敵を見据えながら話す。
「越前。後ろのボール、全部取れるか?」
「もちろん。一個も逃がしませんよ」
「揺さぶるぞ。これはダブルスなんだ。シングルスとは違うってこと、先輩方に教えてやろう」
「言いますね。珍しい」
次のサーブは乾から。
位置につくまでの短い間、悠介はリョーマに声をかけ続けた。
「逐一指示する余裕はないだろうから、なんとなく俺の考え感じ取ってくれよ。こういう時に日頃の信頼関係が出るんだぞ」
「先輩だって無茶言うじゃないっすか」
「信じてるからな。お前も俺を信じろ」
「……っス」
「まだ折れていないみたいだな」
フッと笑って、乾が得意の高速サーブを放った。
ワンバウンドの後、ベースラインで待ち構えていた悠介がクロスで打ち返し、ボールは再び乾の下へ戻っていく。
打ち返そうとするスイングの最中、乾は不意に呆気にとられた。
普段から攻撃を好むリョーマが後ろへ走り、サポートを主としていた悠介が前へ出てくる。今までとまるで逆の体制。戦法を変えようとしている。
構わずに乾はスイングを続行し、敢えて先程の狙い通り、悠介の正面へ打った。
さあ、どう出る。
楽しみにしながら乾が待っていると、瞬時に悠介が見せた構えで驚く。
バックハンドのスイング。その挙動は別に珍しくもないがよく似ていた。
彼の場合はこれがある。多種多様の技と、不意を衝くための戦法。あらゆる人物から学んだために予想を裏切って攻め込む強みがある。
「手塚!」
油断せずに身構えていた手塚は驚きもせずに、自身の方へ来た急角度の打球を迎える。
海堂の“スネイク”だ。冷静沈着な手塚でなければ反応できなかったであろう一打である。
おおっと観衆が声を漏らす中、手塚は的確に打ち返し、拾いに走ったリョーマが再び手塚の前へボールを出した。
インパクトの寸前、飛び込むようにして悠介が眼前に現れた。
強靭なボディバランスと冷静な判断力によって、手塚はストレートで打とうとしたスイングを咄嗟に変え、クロスで返す。悠介の背中を抜こうとしたのだ。
本来ならば取れない打球。しかし、乾は取れると判断した。
後ろへ跳んだ悠介が、まるで菊丸のように背面へ腕とラケットを伸ばして、打ち返す。
落とすようにコートの端を叩いたボールには乾も間に合わず、ポイントが入る。
コールが少し遅れていた。審判を務める大石が驚いていたのだろう。ハッと我に返った後で得点を告げ、観衆は盛大な拍手で迎え入れた。
背中から倒れた悠介はぼんやりと空を見上げる。
疲れた。体の節々が痛い。明日は確実にきつい筋肉痛だろう。
こんなことなら、もっと普段から試合形式の練習をしておけばよかった。
頭上に影が差したことでリョーマを見上げる。
「ナイスファイト」
「あの人絶対おかしいよ……こんなのやってたら絶対体壊れる」
「筋肉の付き方が違うんでしょ。先輩いまだに体硬いし」
差し出された右手を握って、ぐいっと引いてもらって起き上がる。
立ち上がった悠介には盛り上がる歓声も応援の声も聞こえていなかった。
集中力が増し、今は対戦相手のことしか見えない。
「アレってなんすか?」
「菊丸流ダブルスの心得だよ。攻めて攻めて攻めまくれってこと。主な戦場はネット際」
「へぇ。気に入りましたよ」
簡単に言葉を交わして定位置へ戻る。
乾がサーブをして、リョーマが打ち返した。
その時にはすでに悠介がネットに張り付いており、リョーマがリターンを終えた直後に手塚の目の前へ移動した。視線がかち合い、正面から対峙する。
挑むだけではない。勝とうという意思を感じた。今までとは別人のように、苦手とさえしていた手塚に対して強い挑戦の意思をぶつけている。
逃げるつもりはなかった。応じるために手塚も本気を尽くそうと再度決意する。
その後で、まるで逃げ出すように悠介が走り出す。
ラリーを続けていた乾とリョーマの間へ割って入ってボールを奪う。姿勢が流れて満足な状態ではなかったが、力を込めて打球を上げた。
手塚の頭上を越えてやろうと考える一球。だが手塚も読んでいたのだろう、悠介と時を同じくして後ろへ下がって、絶好の位置でストロークを打つ。
二人とも下がった。絶好の状況。
手塚の強烈な打球へ向かって飛び込み、激突の心配をされる中、ラケットを差し出した悠介が柔らかくボールを受け止める。
ネット際に優しく転がして、素っ気なく背中を向け、どっと地面が揺れる歓声が沸いた。
待っていたリョーマの手をぱしんと叩いて、大きく息を吐き出す。
一球ごとに生きた心地がしない。試合が止まる度に生きててよかったと思うのだ。
「先輩だって、人のこと言えないじゃないすか」
「何が?」
「十分普通じゃないっすよ」
「いやいや、お前が言ったって説得力ないって」
フォーメーションを変えた途端に印象ががらりと変わった。
観衆の盛り上がりも当然だ。
フゥと息を吐く乾に、冷静さを崩さない手塚が言った。
「よく見ている」
「ああ。しかも度胸もある」
「待った甲斐があったようだ。だが、俺たちは負けない」
「フッ、そうだな。あいつらには同情する。どうやら、厄介な男を本気にさせたようだ」
乾のサーブでゲームが始まる。
先程同様、リターンの後で悠介とリョーマが入れ替わり、あくまでもネットプレーで攻め続ける選択を提示してきた。
勝つためには、こちらからも攻めなければならない。
得心した手塚は悠介より先に動き、ラリーの最中にボールを奪った。
急角度で手前を狙われ、咄嗟に反応した悠介がダイビングボレーで辛うじて返すのだが、甘い球が手塚の眼前へ向かってしまう。
起き上がりは素早く、悠介は迷わずに走る。
手塚の鋭い打球がネットを越えた。
後先考えずに走ったおかげか、悠介が追いつく。しかしなぜか打たずに避けてしまう。
今度こそ手塚が驚愕して目を見開いた。
悠介が打球の傍を通り過ぎるフェイントを行った直後、スライディングしてきたリョーマが力強く跳び上がり、渾身の力を込めて打ち返した。
手塚の頭上を飛び越え、乾の予想を裏切って、ボールは誰も居ないスペースを通過する。
観衆が沸くと同時に二人は軽くハイタッチしていた。
振り返れば誰も居ない。自分たちのコートは隙だらけだった。
仮にミスをすればどちらもフォローできない、攻撃にのみ専念した危険な賭け。それでもやり通してポイントを取った二人は大きな達成感を覚えていた。
やれやれと苦笑する乾に対し、手塚は早くも気持ちを切り替え、集中力を高めている。
「何が何でも勝たないとな。正攻法で無理なら、攻めて攻めて攻めまくるぞ」
「りょーかい。そっちの方が性に合ってていいや」
不敵に笑う後輩二人。いまだ発展途上なのが恐ろしい。
その成長を見ているのは喜ばしいが、かといって手を抜くのは失礼で考えられない。ならば本気で勝ちを取りに行く必要がある。
手塚と乾もますます気合いが入り、留まることなくさらに動きを良くしていった。