逃げているだけだと知っていた。
諦める理由を他人に見つけて、やる気がないって言い聞かせて、それでも今まで通りのメニューを続けてるのは本当に諦め切れていないからだ。
本音は違うのに、なぜか諦めようと頑張っている。
一体何がしたいんだろう。そう思うことが増えていた。
「マネージャー?」
「うん。どう思う?」
「冗談でしょ?」
「あ、俺の本気が簡単に扱われてる」
越前に言ったのは相談のつもりじゃなかった。ただなんとなく、本当になんとなくだ。反応を期待しているわけじゃなかったし、普段の会話の一つ程度に思っていた。
言ってみたらやっぱり重く受け止めるわけでもなくて、だけどその時は、不思議と意外なほどに真剣な感じにも受け止められた。
「本気だったら俺に言わないでもうやめてますよ。やめたくないから言ってるんでしょ?」
「え……」
「続けましょうよ。じゃないと退屈になっちゃうんで」
笑いかけてくる越前は珍しく感じられた。
口は悪いし、微妙に俺を下に見てるんじゃないかって感じの後輩だけど、その時の顔はなぜか、俺に考えさせる優しいものだった。
別に何をするでもなく、缶ジュースなんて飲みながら歩く帰り道。
今日はやたらと町が静かで考える暇を与えてくれる。
越前は口数が多い男じゃなくて、何も考えずにぼけっとしてる瞬間も多い。俺がほっとくと隙あらば昼寝しようという特徴もあった。
「スランプくらい誰にでもあるでしょ。今やめたって後悔するだけっすよ」
「お前はそういうのなさそうだなぁ……」
「まあね」
「励ましたいのか煽りたいのかどっちなんだ」
その日の越前は、なんとなく普段よりも喋るような気がした。
気を使われてるんだろうと察しても指摘しなかったのは居心地の良さを感じたからだ。
「なんなら今から俺とやります? うちのコートで」
「え? ひょっとしてお前お金持ち?」
「そういうわけじゃないっす。柄の悪い坊さんが知り合いなだけ」
「それはそれで怖いんだけど。じゃあいいやとはならないぞ?」
以前にも別のどこかで感じたことがある感覚。
ここは妙に落ち着く。
会話の最中もつい考えてしまっていて、そんな俺に気付いているのかいないのか、越前はいつもとなんら変わらない口調で喋っていた。
「多分、俺、まだ本気の先輩と戦ってませんよね? だから勝っても勝った気がしない」
なんでかわからないけど驚いてしまった。
思わず立ち止まってしまった俺とは違って、越前は数歩進んでから振り返る。
「ちゃんと勝つまで逃がしませんよ。やめてもやめなくても勝負しに行くんでそのつもりで」
にやりと笑う顔は生意気。
いつも通りだけど今日はやけに心地が良かった。
*
試合は大方の予想を裏切って短期決戦となっていた。
熾烈さを増す度に展開するスピードが速くなり、互いに激しく点を取り合い、ゲームを取られても気にせず攻め続ける。
一進一退、それどころか進み続けて激突しようが道を間違えようが止まらない。
どちらも攻撃に重きを置いて、ミスを恐れずに俄然前へ出ようとしていた。
疲労を感じさせることもなく、間違いなく観衆の熱狂はこれまでで最も強くなっている。
もはや手塚が居るからという理由ではない。ただ純粋に熱くなる試合だったのだ。
すでに試合を終えたレギュラー陣まで拳を握り、何を考えるでもなく声を出して応援していた。
「いっけぇ~おチビ! ミスんなよ!」
「堪えろよお前ら! 歯ァくいしばれ!」
「まだ終わらせちゃだめだ! 頑張れー!」
熱くなった菊丸と桃城がコートのすぐ傍までやってきて身を乗り出し、河村も大声を出して支えようとしている。
他の部員もだんだん近くなっていて、いつになく熱中していた。
ぼたぼたと大量の汗を落としながら、リョーマは必死に走っていた。
もはや周囲を気にかける余裕も失われている。みんなの声も聞こえない。
集中力が増して、今は余計な情報が一切入ってこなかった。
だからか、手塚が見せたその姿勢が、試合を終わらせようとしているのだと悟り、限界を超えて追いつこうと全力で足を動かしていたのだ。
コートの中央を狙う必殺の一撃、零式ドロップ。
放たれると同時、怪我をする危険性も考慮せぬまま、菊丸よろしく飛び込んだ。
思い切りのいいダイビングボレーでリョーマが地面に触れる前にボールを拾って、ライン上を狙う正確さで相手コートへ返した。
「残念無念……!」
ずざっと滑るようにリョーマが倒れた。
咄嗟に踵を返した手塚がギリギリで拾い、ボールを返す。
ミスはなかった。危険な打球を放ったわけでもない。
振り返った時、しかし手塚は、待ち構えていた悠介が前方に向かってジャンプするのを見て表情を変える。
「また来週!」
強烈なスマッシュが地面に叩きつけられ、乾でも取れずにコートを貫いた。
わあっと大勢の人が声を出し、拳を突き上げて喜びを露わにする。
「よっしゃあっ! できんじゃねぇかダンクスマッシュ!」
「よく拾ったおチビー! ナイスガッツ!」
「すごい、本当にすごいよ……!」
歓声にかき消されぬよう少し間を置いてから、大石は改めてコールする。
「ゲーム宮瀬・越前! 6-6!」
「タイブレークだぁ~!!」
これまでで最も強い力で、二人は勢いよく互いの手を叩く。
力が漲り、全身から熱を放出している。
もはや自分たちでも制御ができない状態で、突発的に感情を爆発させた。
「っし!」
「追いついた!」
危機、また危機と流石に強く、勝つのは簡単ではないが、だからといって簡単には勝たせない。異様なしつこさで追撃する二人はまたしてもポイントを並べた。
ここから先はタイブレーク。7ポイント先取した方が勝ちというルールで、7ポイント時点で2点差がつけられていなければ、どちらかが2ポイント連取するまで無制限に試合が続く。
根比べはここからだと、どちらのペアも油断してはいなかった。
ふと気付けば手塚とダブルスを組むのは初めてであり、乾は苦笑する。
条件は同じ。個人技と経験で勝っている反面、ダブルスとしての成長では彼らに劣るだろう。試合の中で見る見るうちに強くなっていくのを見るのは嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
「まったく、大した奴らだよ。ここまで喰らいつかれるなんて」
「すまない乾。俺の返球をもう少し考えるべきだった」
「いや、あれは返した宮瀬がすごい。手塚がミスしたわけじゃないさ」
関係性が悪いわけでもない。だからといって際立って良いわけではなく、大石と菊丸のようにできないのは致し方ないことだ。
それでも、試合はいよいよ終盤。
何を思っていようと決着はつけられる。
「何にせよ、このタイブレークで終わる」
「ああ。油断せずに行こう」
気合いを入れ直した手塚と乾を見て、二人は集中を途切れさせていない。
動いている間は何も聞こえなくなるというのに、プレーが止まれば途端に応援が力になる。負けてたまるかと勝ち気が鮮明に戻ってくるのだ。
「タイブレークか……変則的だな」
「問題ないでしょ。今まで通りっす」
「ま、やることは変わらないよな」
「攻めあるのみ」
ぐりっと肩を回して位置へつく。
サーブを打って試合が始まり、すぐさま激しい攻防になった。
盛り上がる観衆に辺りを埋め尽くされながら、不二がふと話し始める。
「本当にすごいね」
「うん。始まるまではどうなるかと思ったけど、連戦した後でこの試合だもん……きっと竜崎先生も黙ってないよね」
応じたのは河村だった。
目が離せない試合とはいえ、ちらりと不二の顔を見て、浮かべられた微笑みを確認する。
「あんなに楽しそうにプレーする悠介を見るの、久しぶりだ」
「はは。最近は基礎と個人練習以外、ほとんど後輩の指導してたから」
「越前が変えてくれたんだね」
「うーん、それは違うよ」
予想外の返答に驚いて不二が河村の顔を見れば、にこりと笑いかけられる。
「不二が宮瀬に基礎を教えて、俺たちみんなでそれを育てて、今度は宮瀬が一年生に教えて、越前が引っ張ってくれた。そして今日の試合で、レギュラー陣が火を点けたんだ。宮瀬を変えたのは俺たち青学テニス部全員だよ」
「ふふ……そうだね」
「あ、でも師匠の不二としては、自分でなんとかしたかったかな?」
「そんなことないよ。これで十分」
必死になってボールを追いかける悠介を見ると、不思議と胸の内が暖かくなって、穏やかに微笑んだ不二は満足そうに頷く。
納得した様子の河村も上機嫌そうに、コートへ向けて悠介の名を呼んだ。
「そんなに時間は経ってないはずなのに、なんだか懐かしいや」
不二も珍しく大声を出し、悠介と越前の名を呼んで応援を始める。
本人たちだけでなく見ている人間まで熱くなり、ボルテージはますます高まっていった。
ラインギリギリに刺し込まれたストロークをなんとか返して、転びかけた悠介は厳しい表情で顔を上げ、チャンスボールだと危機感を覚える。
見逃してくれる相手であるはずがなかった。
ただでさえ長身。高く跳んだ乾が猛然とラケットを振り下ろし、鋭いスマッシュが二人の間を抜けて通り過ぎていく。
「3-2!」
「あ~やばい!」
「集中切らすなよ! 次だ次ィ!」
悠介がサーブして、スピードが衰えない打球を手塚が返す。
その直後にリョーマが飛んできて、鋭いドライブBで虚を衝いた。
あまりの勢いに辛うじて乾が拾った時、すでに悠介が高く跳んでいて、お返しとばかりに強烈なスマッシュを叩き込んだ。
「3-3!」
「よぉし! ナイスダンク!」
「いいぞユースケ~!」
再び悠介のサーブ。
乾が的確にリターンして、正面で捉えた悠介がストレートで返し、危なげなく手塚が打ち返す。
打った後になってリョーマの動きに気付き、タイミングを見計らい、バッチリ捉える。
手塚の打球をボレーで打ち返して、急角度をつけて手塚の眼前からポイントを奪ってしまった。
「4-3!」
「越前くーん!」
「いっけぇ~!」
サーブ権が移り、乾が打った。
冷静にリョーマが返すが、驚いたのは手塚の行動だ。突発的にポーチを行った彼は鋭い打球で、すでに駆け出していたリョーマの足元を撃ち抜くようにポイントを取る。
「4-4!」
「す、すげぇ!?」
「神業かよ!?」
どちらかが取れば、どちらかが取り返し、決して2ポイント差をつけさせない。
興奮冷めやらぬまま勝負は長引き、だが疲れて動けなくなるどころか、動きはさらに迫力を増して良くなる一方であった。
どう決着するのかはわからない。それでも観衆は応援を続けた。
こんなにすごい試合、滅多に見られない。
打球は強く、速く、狙った通りの場所へ落ちる。
息もつかせぬほど忙しなく、走って、走って、走り続けた。
もはや思考など構っている暇はなかった。考えもせずに動き続けるしかない。
足元へ来たボールを、自分の身を守るように打ち上げて、次に来る攻撃を理解しながら悠介は逃げようとしなかった。
最良のポジションを最速で取った手塚が強烈にスマッシュする。
落下地点へ入った悠介は体を回転させ、遠心力を使い、決め球を軽快に返してしまった。
スマッシュを無効化した羆落としだが、ダブルスの場合は危機が去ったわけではない。
先読みしていた乾が素早くボールの落下地点に入り、ゆっくり落ちてくるのを待った後で、高身長を利用したジャンピングスマッシュを行う。
その時にはすでに悠介は彼らへ背を向け、後方をフォローするため走っていた。
入れ替わりに前へ走ってきたリョーマが乾のスマッシュへ向かって跳び、衝突を恐れずに力尽くでラケットを叩きつける。
「9-8!」
攻められれば、攻め返す。
もはや防御は必要としていない。相手より多く点を取った方が勝つ。
手塚は針の穴を通すかの如きコントロールで、跳びついても取れない絶妙の位置を射抜いた。
「14-13!」
終わりの見えない展開の中で意識が冴え渡っていく。
まだ終わりたくない。終わってほしくない。
悠介が死に物狂いで着地を考えずにボールへ跳びつき、ラインを割るギリギリの足元を抜く。
「19-18!」
異様なほどハイになっているのは理解している。
理屈じゃない。考えることさえ無駄に思える本能のぶつかり合いだ。
乾は渾身のスマッシュをガラ空きになったスペースへ放り込み、思い切り地面へ叩きつけた。
「23-22!」
体は疲れ切っているのに、不思議と良い気分だった。
もう勝利しか見えていない。いつまでだって戦える気になってくる。
リョーマが跳び、らしくもなく叫びながら放ったストロークが、誰にも触れられずに落ちる。
「27-26!」
いつになったら終わるというのか。
限界を超えて、勝ちたい一心で諦めずに戦い続けている。
肉体の疲労とは裏腹に、気分はやけに晴れやかだった。
29-29まで追いついた時、悠介はプレーとプレーの間の短い隙間に、膝に手を置いて俯いて、激しい呼吸を繰り返していた。
いつ倒れてもおかしくない状態であろう。練習だとか、試合だとか、そんな些細なことはすでに頭から抜けている。倒れてもいいから勝ちたい。それが今、ふらふらの体を支える唯一にして絶対の動機だ。
「先輩。まだ限界じゃないっすよね」
リョーマに声をかけられて辛うじて顔を上げる。
帽子を捨て、にやりと笑い、楽しそうに悠介を見ている。
「俺はあと100ゲームいけますよ」
「ハァ、ゼェ……俺もだ」
上体を起こして再び臨む。
不思議な気分だ。そんな些細なやり取りでまた力が沸いてくる。
大石が言っていた、これがダブルスの力なのだろう。
二人はそう思い、手塚と乾を超えるためにゲームを始めた。