世界渡りの鬼から始まった、あり得ない可能性のお話 作:り け ん
世界渡りの鬼から始まる、あり得なかった可能性の序章
「何をしている?」
その声がするのには、何の前兆もなかった。
声の持ち主の姿も、気配も。その声がするまで、何一つ感じ取ることができなかった。
決して大きくもない、むしろ囁く様なたった一言の小さな声。
だけどその声は…”彼”にとって、他のどれほど大きな声にも勝るほどの恐怖をもたらした。
彼の生命を永久に脅かし続ける、三つの存在のうちの、一つ。
そして、その三つのうちで…彼が最も恐れる者の声が、背後から聞こえる。
「なぜだ?」
その声がするたびに、彼の体は凍え、震え、恐怖する。
──ああ、
「お前は…”誰”の”血”を飲んだというのだ?」
──これで…
「お前を”鬼”にしたのは…誰だ?」
──頼む…成功してくれ…!
彼は、素早く振り返った。
だがそれは、自分に語りかけてくる恐怖の声の持ち主の顔を見るためではない。
振り向きざまに、彼の体が前のめりに倒れ込む。
その動きは、おそらくあの声の持ち主から見れば、恐怖のあまり立っていられなくなったか、もしくは頭を垂れて蹲う
倒れ込み、地に引っ張られるかのように落ちていく自分の体。
その倒れる動作…たったの1秒あれば、充分だった。
──血鬼術 流界転々!
どさりと、自分の体が地面と触れ合った。
痛みがない訳ではない。だが、この体からしてみれば微々たるものである。それに…この痛みが、今の彼にとって何よりの喜びであった。なぜならこの痛みは、自分の血鬼術が成功した何よりの証。
あの声は、もう聞こえない。
うつ伏せになったまま、顔だけを上げてみる。そこには誰もいない。
足を曲げ、手に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。
景色は変わらない。どこかの空き家の庭。
時間も変わらない。半月が静かに当たりを照らすのみ。
ほう…と、彼は心の底からの安堵の息を吐いた。
──39回目の転移、成功。
──この”世界”は果たして…”我輩の求めた世界”なのだろうか。
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我輩は鬼である。名前はまだない。
かつて出会った同族にそう語った時、その鬼は笑ってこう言った。せっかく知性のある鬼になったのだから、何かしら名前を名乗ってみるのも悪くないだろう。いらぬとする者もあるが、やはり区別の文字は利便なるものだと。そう語る割には、その鬼は自らの名前を名乗ることなく去っていった。曰く、腹が減っている。同族はいくら食っても減らぬのはいいが、やはり味は人間に劣ると言い残していった。この時ようやく、我輩は鬼に共食いの性質があることを知った。
この頃の我輩は既に、血肉を食らうことに”限界”が来ていた。
こうして理性を得るまでの間に、多くの人間を食ってきたからだろうと思う。初めて心を得た時、食い散らかされた血溜まりの後に茫然と座っていたことを覚えている。血の匂いも、中途半端に残っていた人肉の跡も全く不快には思わなかったが、食欲はわかなかった。
食欲はわかない。しかし、飢えは毎日のようにおとずれる。苦しかった。人の肉も、獣の肉も、ほぼ味の違いが分からなくなってきた。もはや食事ではなく、薬の類のように我輩は思えた。何をいくら食らおうとも何も変わらぬ。ただその日その日を生きるのみ。
また別の鬼に出会った。そいつは食事の最中だった。
俺の飯だ、手を出すなと唸るその鬼に対し、我輩は言った。別に取りやしない。我輩はもう腹一杯だと。相手の鬼は一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、またすぐに食事を再開した。どうも山に住む家族を食らったようで、数人の死体が転がっている。まだ食事は続きそうだった。
やがてその鬼も落ち着いてきたらしく、相変わらず血肉を引き裂き口に持っていくのは変わらねども、そのペースを少し遅めて喋る余裕が生まれたらしい。壁に寄りかかって座り、ただ鬼の食事を眺めるだけの我輩を見て、そいつは不思議そうに尋ねた。
「妙なやつだ。手を出すなと言われて本当に何もしねえとはな。おまけに満腹だあ? んな言葉を吐く鬼なんざ見たことねえ」
「事実だから仕方ない。もはや我輩は腹が空いてる時でさえ、肉を食うのが億劫なのだ」
「…ハッ! なるほどなァ、”鬼の限界”ってやつか。じゃあテメエ、”血鬼術”はどうなんだよ? 限界まで喰らったんだ、なんかあんだろ?」
“血鬼術”
それも聞いたことがある。多くの人肉を喰らった鬼が発現する特異能力のことだ。何度か他の鬼がそれを用いて鬼殺しの剣士と戦闘を繰り広げたところを見たし、危うく巻き込まれそうになったことすらもあった。だが正直なところ、我輩は一度たりともそれを自覚したことはない。我輩が他の鬼と違って少々自慢できるのは動きの速さくらいなもので、それを“血鬼術”と称せるほど自惚れている訳でもなかった。それを正直に話すと、そいつは目をパチクリとさせた後に、また無言で人肉を貪り始めた。なんとなく居心地が悪くなって、我輩は血ぬれの家屋から立ち去った。そいつが肉を咀嚼する音が、やけに耳に残っていた。
その鬼と別れてから、一週間が過ぎた。
肉を食うだけではなく、自らに名前をつけるのも億劫なので、まだ名前もないままだ。
だがこの日、我輩は名前以外のものを得ることになった。
永久に変わらぬ飢えを満たし続けるだけだったと思っていた生涯に、
一つの目的を生み出したもの。
──自分の”血鬼術”だった。
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“流界転々”
それが、何もかも億劫になっていた我輩がつけた唯一の名前。
自分自身にすら名をつけないのに、血鬼術には名をつける。おかしいとは思っていても、つけてしまったものは仕方ない。ともすると、この血鬼術だけが自分を表す唯一の証明なのかもしれない。
その血鬼術は…異常なものだった。
さして他の鬼の血鬼術を多く見てきた訳ではない我輩だが、それでもこの血鬼術がいかに異様なものかよく分かる。それほどまでに…とてつもない力だった。
この血鬼術を端的に、一言で表すとしたら、こうなる。
──自分自身を”別の可能性の世界”へ飛ばす能力
何を言っているんだと、せせら笑われてもおかしくはない戯言。人間にも、鬼にも。
しかしながら、こう表現するより他にない。
この血鬼術の発動条件は、脱力しながら倒れることだけだった。
例えば、前のめりに倒れようとしたとする。そうなったら普通、視界に地面が迫り来る中でやがて痛みと共にその地面と接吻する羽目になる。だがこの血鬼術が発動した場合、倒れ始めてから約一秒後に、視界の地面が消えて目の前が真っ黒に染まる。それだけではなく、かろうじて地面と接していたはずの足の感覚も消え、まるで何もない黒い空間を浮遊している感覚となる。そうなってからさらに一秒後、またすぐに目の前に地面が現れ、結局その地面と接吻することになるのは変わらない。
だが…そうなった場合、その地面はさっきの地面とは全く違うものなのだ。地面だけではなく、世界そのものがさっきまで自分がいたものと違うのだから、当たり前でもある。
無意識ながら、初めてこの能力を使ったのは、雪の降り積もる真冬の夜山を彷徨っていた時だ。
我輩は飢えていた。肉を食えぬ時間が長く続いたからだ。人も動物も見当たらない。山を降りるために自慢の健脚で走り抜ける体力すらもない。鬼は陽の力以外では死なぬと言うが、飢餓状態が続けば知性を失い、獣同然となりて肉を求める。我輩にとってはそういう末路も今と対して変わりはしない。だが将来の末路より、今の飢えをどうにかしたかった。肉を食いたい訳ではないが、肉を食わねば苦しみが続く。ふらふらと彷徨い続けているうちに、大きく出っ張った木の根に足をひっかけてしまった。我輩には受け身を取る体力すらなく、ただただ脱力したまま倒れ込む。それこそが血鬼術の発動条件とも知らず。
飢えに身を震わせながら顔を上げると、我輩は一瞬飢えを忘れるほどに驚いた。
なぜなら、あれほど山に降り積もっていた雪が綺麗さっぱり消え失せていたからだ。
霜が積もるほど寒い気候なのは変わらないが、それでもさっきまで降っていた雪も、積もっていた雪も、一瞬で消えてしまったことの説明がつかない。それに、うつ伏せの状態から我輩が顔を上げると、その視線の先には…薪を運ぶ老人の姿があった。
数秒前まではいなかったはずなのに、突如視線の先に現れた人間。
その理屈を考えるより早く、我輩は駆け出してその老人の首を一息にへし折って殺した。
無理やり口に肉を押し込んである程度飢えを満たすと、我輩にも余裕が出てきた。我輩は考える。先ほど木の根に躓いて倒れるときに感じて奇妙な感覚。あれが明けた瞬間に、雪景色は変わり、先ほどまでは影も形も見えなかったはずの人間の姿が現れた。しかし、そのときに考えてみても我輩は納得いく理屈を思いつくことはなかった。
だが、日々を過ごすにつれ、違和感はますます募るばかりだった。
一度行ったことのある人里に再び向かってみると、明らかに一部の街並みが違っていた。無論、深夜に向かったがために多少の見違い記憶違いもあろうが、それでも米屋が宿屋に変わっていたり、空き地に巨大な豪邸が立っていたり…明らかに見間違い記憶違いでは済まない変化、時の流れによる建て直しでも理屈のつかない変化があった。
人通りの全くない、眠りについた街を見て、我輩は一つの実験をしてみることにした。
先ほど、木の根に足をひっかけて転びかけた状況。それを再現し、もう一度あの感覚を感じてみることに。
極力再現をするため、我輩は試しにまた極力血肉を我慢してふらふらになり、律儀に足をひっかけて転ぶようの小さめの岩まで用意した。もっとも、この二つの条件は必要ないと気づいたのは後になってからだが。
試してみたのは、街の真ん中。そしてこの実験は、成功を収めた。
真っ黒な世界で体が浮かぶ奇妙な感覚が終わって起き上がると、夜の街並みの建物がまた一部変わっていた。
我輩が辺りをゆっくり見渡していると、急に背後から声をかけられた。
「だ、大丈夫ですか!?」
我輩に声をかけたのは、人間の女だった。鬼の特徴である異様な目と手は、夜の暗さであまり見えていないようだった。鬼は変異が進むにつれ異形化する者も多いが、自分のように人の形を留めているとこういうときに騒がれず便利だ。
しかし我輩は血肉に飢えていた。それでもあと一歩のところで、この女に襲いかかりたい気持ちを踏みとどまった。なぜなら、この女には聞きたいことがあったからだ。
「あ、ああ…わ、我輩は……ど、どうしてた?」
「ど、どうって…こっちが聞きたいですよ!
「そ、そうか……済まない」
聞きたいことを聞けた。
我輩は一言謝ると、女の喉元を握り潰して即死させた。
他に人間がいないことを確認していない、
少々迂闊な殺し方だったが、飢えに耐えきれなかった。
とりあえず女の死体を抱え、人の気配のない山奥に逃げ込んで血肉を貪ってから、
ようやく確信した。
──最初は、我輩の術で世界を変えているのかと思ったが、そうではない。
──我輩が、別の世界へとやってきたのだ。
明らかなる異能。これが我輩の血鬼術なのだと悟った。
転がるように別の世界へ自らを落とし込むこの術を、我輩は“流界転々”と名づけた。
次にこの能力を使ったのは……
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鬼舞辻無惨様
その名は、全ての鬼に刻まれる絶対的存在である。
無論、知性を得たときに何も覚えていなかったはずの我輩でさえ、その名は焼印を押されたかのように刻み込まれていた。それと同時に、鬼となった瞬間から強制的に理解しているのは”呪い”のこと。その名を口に出した瞬間、自分という存在は必ず捻り潰されること。そのお方の情報の一つたりとも、決して敵に漏らすことは許されない。反逆も許されない。
鬼が恐れるのは三つ。
太陽の光。
鬼殺の剣士が握る日輪刀。
そして…鬼舞辻無惨。
我輩は、鬼殺の剣士とは出会ったことがある。彼らには”柱”と呼ばれる鬼殺しの最高戦力がいると聞いていたが、我輩が出会ったのはそれではなく、階級の低いと思われる隊士だった。出会った事はあっても、我輩は戦う事はしなかった。逃走したのだ。血肉を喰らいらいほど腹も減ってなかったし、我輩は戦うよりも、逃げることに自信があった。その時は無事に逃走に成功したが…我輩は想像する。もし、例の”柱”とやらと出会ったら、我輩は逃げ切れるだろうか。
そして…未だ姿を知らぬ主 鬼舞辻様は、鬼殺しから逃げる自分のことを…どう思うだろうか?
「何の真似だ?」
その声を聞くのは、初めてだったのに。
我輩の理解は恐ろしいほどに早く、脳裏を叩いた。
──鬼舞辻様だ。
──背後にいるのは、鬼舞辻様だ。
自分の細胞が、鬼としての心臓が、悲鳴を上げている。
呼吸が、ほとんど、できない。体が、動かない。
恐怖。
今まで感じたことのない恐怖が、我輩の体を縛りつける。
──見られていたのか?
──鬼殺しから逃げたところを。
──殺される。
自分自身の末路が、鮮明に脳裏に張りつく。
「私の”呪い”を外すとは…不愉快だ。不遜、極まりない」
──は?
我輩は、一瞬恐怖を上塗りする形で疑問が脳裏を埋め尽くす。
なんだ?鬼殺しから逃げたことの罰ではない…?
──いや待て、鬼舞辻様はなんて言った?
──”呪い”を外した…? 我輩が…?
「私を前にして、いつまで立ち惚けるつもりだ」
声が。
その声が、我輩の体を再び恐怖で縛りつける。
「頭を垂れて蹲え。平伏せよ」
我輩はすぐに平伏すべく、振り向きざまに土下座の姿勢に移行しようと…した。
だが、恐怖のあまり足がもつれ、体が前のめりに…脱力しながら、倒れこむ。
────しまった!
無意識に、発動してしまった…我輩の血鬼術。
最初はしまったと思った。鬼舞辻様の前で、血鬼術を発動するなど。
だが、いつもと同じように…一瞬の黒い空間の後に…
また我輩は、別の世界へと転がり落ちた。
そして目の前から、鬼舞辻様は消えていた。
考えてみれば、当然だった。ここはまた、別の世界なのだから。
我輩は考える。
鬼舞辻様が、我輩に向かって「”呪い”を外した」と言ったことを。
おそらく…今の我輩の体に残っている”呪い”とは、我輩が生まれ落ちた…”最初の世界にいた鬼舞辻様”からの呪い。我輩を鬼にしたのも、その際に呪いを植えつけたのも、最初のあの世界にいた鬼舞辻様だった。
だが、我輩は世界を渡った。別の世界にも、鬼舞辻様はいる。
だがその鬼舞辻様は、我輩を鬼にした鬼舞辻様とはまた違う存在。だからこそ、我輩はあの世界の鬼舞辻様の呪いを受けていない。
我輩の呪いは、たった一つの世界の、たった一人の鬼舞辻無惨様から受けたものに他ならないのだから。
今まで惰性で、飢えないために血肉を食うことしかしていなかった我輩に、一つの生きがいが首をもたげてきた。
そう、”流界転々”の血鬼術によって、我輩は鬼舞辻様からも逃げおおせたのだ。
倒れるという動作によって血鬼術が発動するとは、鬼舞辻様も思わなかったことだろう。
そして…世界を跨いで我輩を追いかける事は例え鬼舞辻様でも、できなかった。
世界を隔てれば、鬼を統べる鬼舞辻様からも…
おそらくは、鬼殺しの最高戦力たる”柱”からも、逃げられる。
陽の光を避けることも、至極簡単。さほど苦痛にもならない。
自分は血鬼術によって…鬼が恐れる三つの存在から、
ほぼ完全なる防御手段を手に入れたのではないだろうか。
「…生きたいなあ」
空虚に生きてきた我輩の中に生まれた、一つの生きがい。
それは”生きること”だった。
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しかし、”流界転々”の血鬼術も弱点のない万能逃走術ではない。
我輩が恐れる事はただ一つ。”流界転々”が発動する前に、我輩が殺される事だ。
”流界転々”の発動時間は、倒れ込み始めてからおよそ1秒ほど。その間に鬼舞辻様によって我輩の細胞が破壊されたり、鬼殺しに太陽の刀で首を切られたりすれば、我輩は死ぬ。だからこそ、我輩はあらゆる出来事に細心の注意を払うことにした。
我輩はこれまで、合計39回の”流界転々”を使ってきた。
最初は偶然の1回。2回目は実験のために。そして3回目は、図らずも鬼舞辻様から逃げるために。
残り36回の転移のうち、22回は鬼殺しの剣士から逃れるために。
そして後の14回は、今さっきのように出食わしてしまった鬼舞辻様から逃れるためだった。
22回の逃走の中で、”柱”には15回ほど出会った。世界が変わるにつれ、柱の人員には微妙に変化があるようだったが、度重なる会合を経て、柱の顔ぶれは大体覚えてきた。他で出会った”柱”でない剣士についても、実は別の世界では”柱”に就任していることもあった。我輩を逃走に追いやるほどの実力を持っているのは、常にどこかの世界で”柱”である可能性の者だった。
鬼殺しの剣士もそうだが、鬼舞辻様に関しては特に注意する必要があった。我輩は鬼舞辻様からみれば呪いを持たない鬼。鬼舞辻様に反逆しようと思えば、できる存在。無論、流石の我輩もそこまで自惚れているつもりはないが。
もし出会ってしまえば、まず間違いなく不審がられる。だが、問答無用で殺される事は今までの14回中1度もなかった。おそらく、いかにして呪いを外したのかを調べる、もしくは問いただすつもりだったからだ。ならば自然に平伏の姿勢に移行するのに乗じて、”流界転々”を発動すればなんとかなる。もし、平伏することも許されぬ程の不況を買ってしまったら、自分の命はないかもしれないが。
自分に命の危機が訪れるたび、我輩は敏感に血鬼術を発動させ、別の世界に逃げてきた。
だが、それはある意味では賭けなのだ。次の世界が、安全なものとは限らないからだ。
次に転がり落ちた世界にいる鬼舞辻様はとても冷酷で、
自分のような外れ者の鬼は問答無用で殺す性格なのかもしれない。
次に転がり落ちた世界で出会った”柱”はとても強く、
自分が血鬼術を発動させるよりも早く首を落としてくるかもしれない。
別の可能性の世界とは、そういうことだ。
以前の世界と何が違うのか分からない。
誰がいるのか分からない。
何が起きるか分からない。
だから我輩は、出来る限り”流界転々”はしない。
自分が別世界へ逃げるのは、鬼舞辻様と出会った時。
もしくは”柱”及び別世界で”柱”となっている者と出会う時、それだけだ。
そして別世界へ転がり落ちるたびに、我輩は願う。
願わくば、鬼舞辻様も鬼殺隊も存在しない世界へ。
もしくは…太陽以外に怯えることなく、鬼でも平和に生きられる世界へ。
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我輩にとっての第一の転機が血鬼術の覚醒で、
第二の転機が鬼舞辻様から逃げおおせたことなのだとしたら、
三度目の転機は…この39回目の転移で、とある鬼殺しの剣士と出会うことに違いなかった。
我輩が”鬼殺し”と呼ぶ者たちは、正確には”鬼殺隊”と呼ばれる政府非公認の戦闘部隊。彼らの持つ日輪刀と呼ばれる太陽の光を吸い込んだ刀を用いて首を切られることで、鬼は殺される。
だが、鬼殺しの剣士の強さも実に様々。”柱”と呼ばれる最高戦力は、我輩の血鬼術発動が数秒遅れただけでも死に直結しかねないほどに、卓越した戦闘能力の持ち主だ。反面、戦闘が得意でない我輩でも容易に殺せるような、未熟な子供すら所属している。無論、面倒なのでそんな相手でも逃げるようにはしているが。飢えを満たすなら面倒ごとにならない動物か、人を食うにしても油断している一般人を拐って食べた方がずっと楽だからだ。
そうして多くの鬼殺しの剣士と相対してきた我輩は、
見ただけでもその者の強さを大まかに判別できるほどには眼が育っていた。
そして、とある山の中腹で”その鬼殺し”と相対した時…
我輩は無意識にその強さを測っていた。
初見の相手だ。今まで渡ってきた世界では一度も出会った事はなかった。という事は、最近鬼殺隊に入隊した剣士だろう。見た目も若い。我輩の”流界転々”は世界を渡れても、時間や場所が変化する訳ではない。だから時を経て鬼殺隊に入隊した剣士とは、初見の状態で相見えることもある。
とりあえず我輩の目の前に立つ”その鬼殺し”は、柱には到底及ばない実力なのは見て分かる。この世界にも鬼殺隊が存在するのは悲しいことであったが、仕方あるまい。また、隙を見て逃げ出そう。
だが…そこまで考えて、ふと不思議な気配を感じ取った。
あの鬼殺しに、ではない。
刀を構えたままこちらを見据えて動かない鬼殺しが
「…おい」
人間に話しかけるなど…いや、そもそも声を出すことなど、何年ぶりだろうか。
箱を背負った鬼殺しは、構えを崩さないまま鋭い視線を返す。
「その箱……鬼か? 鬼が、いるのか?」
「…ええ。大事な、たった一人の家族が、いるの」
馬鹿な、と我輩は思わず呟いた。鬼が、鬼殺しと一緒にだと?
そんな馬鹿な話が、ある訳ないじゃないか。
「…なぜだ? お前は鬼殺しの剣士ではなかったのか? それとも、肩書は建前で…その家族の鬼とやらのために、人肉でも集めているのか?」
「…違う!
「……は?」
嘘だ。
我輩は、とっさにそう思った。この鬼殺しの
二年以上人を食わぬ、鬼だと?ありえない。ありえない。そんなの、鬼ではない。
気持ちの問題とか、我慢の問題とか、そういう次元の話ではない。
鬼という生物としての、根幹を揺るがす問題だ。
そんなことが、鬼にできる訳が、ない。
そんなことができるならば…我輩だって…
「…嘘つきめ」
我輩の心のうちから、今まで感じたことのない感情が湧いてくるのが分かる。
怒りが…目の前の鬼殺しの少女に対する、闘争心を掻き立てる。
「……お前の嘘を、我輩が暴いてやる」
姿勢を低くして、体を構える。
とても久しぶりな、戦闘体勢だった。
鬼殺しの少女も、刀を構えた。
だが、我輩が狙うのは…鬼殺しの少女ではない。
鍛えた我輩の健脚は、腕も合わせて四足とすることで、随分と速くなる。
「シッ!」
「…!」
だが鬼殺しの少女もそれなりに速かった。低位置への攻撃も充分に上手い。もし我輩が鬼殺しの少女を狙った攻撃をしていたら、肩の辺りくらいは斬られていたかもしれない。だが、鬼殺しの少女は我輩の狙いを見誤った。我輩の体は既に鬼殺しの少女の背後にあり…そのまま後ろ足を用いて、鬼殺しの少女の背負う箱を蹴り上げた。
「あ…!」
「ほうら…出てくるがいい、鬼よ!」
我輩の爪で両の肩紐の下の部分を切り裂いていた。それにより少女の肩から離れた箱が我輩の蹴りによって宙を舞う。月を背に一瞬宙で止まった箱からガタガタと、音がする。
そしてガタリという音と共に、衝撃で開いた箱の扉から影が飛び出してきた。
その影の姿を認識するよりも、早く
我輩の右腕が、体から切断されて地に落ちた。
「グ、アアアアアア!?」
慣れぬ痛みが、我輩の右腕の付け根を中心として全身に広がっていく。
飢餓感は慣れていても、痛みを感じるのは随分久しぶりだった。
我輩の右腕を切り裂いたのは、鬼殺しの少女ではなかった。
「…………フーッ……!」
赤みがかった髪と瞳。なぜか口に咥えた竹が大きく目立つ少年。
人の形は従順に保っているものの…縦に裂けた瞳孔と鋭き爪、
化け物じみた牙を持つその姿は、間違いなく、鬼だ。
そしてその鬼は…鬼殺しの少女を庇うように、我輩の前に立ちはだかった。
なぜ
何故
何故だ!?
我輩が空腹感と引き換えに右腕を再生するのと同時に、鬼の少年がこちらに飛びかかってくる。我輩は反射的に逃走を図るが、鬼の少年はそれを読んでいたかのように、我輩の後ろに回り込んできた。皮肉にも我輩が鬼殺しの少女の背後に回り込んだときのように。
振り向き様、鬼の少年との肉弾戦へと移行せざるをえなかった。だが…戦い慣れていない我輩に比べて、この鬼の少年は恐ろしいほどに威力の高い打撃を繰り出してくる。本当に人を食わないのならば、鬼は普通弱体化を免れないというのに。
逃走する隙すらもない。下手に背中でも見せようものなら、逆に叩き伏せられることに間違いない。だが、かといってこのままでは…。
畜生。
なんとか拳をいなし、時に後退して裂けながらも我輩は呻いた。数年単位で人を食わずに生きながら得ることだけでもあり得ないというのに、それでいてここまで強い鬼だと?
何故だ。こいつには飢餓感がないのか? 我輩がいつも苦しめられている飢餓に狂うことなく、人間と共に暮らせているのか?
なんだというのだ、こいつは…?
我輩は、こいつのようになる事は…できないのか?
我輩の中に生まれた新たな感情…おそらく、一言で呼ぶならば”羨望”
それによって、我輩はとうとう決定的な隙を晒した。
目の前の鬼の少年が、大きく首を後ろにもっていって勢いをつけると…
勢いよく頭を前に突き出した。
それは、恐ろしい勢いの”頭突き”として我輩の頭蓋を振動で揺らす。
鬼の体はいかなる傷を受けても再生するが、苦痛がなくなる訳ではない。
頭が、クラクラする。割れるような痛み、戦いどころかまともな思考も…できない…!
「お兄ちゃん! そのまま抑えて、頭を低くして!」
「んん!」
鬼の少年に胴体にしがみつかれて、動けない。逃げられない。
相変わらず、なんという力。
そして我輩の視線の先では、日輪刀を構え足を踏み出す鬼殺しの少女の、姿が
───やむを得ないっ!
───だが、間に合うかっ!?
我輩は、いつもの手順に移行するが…
まずい、鬼殺しの少女が既に距離を詰め過ぎている!
間に合うのか…ギリギリすぎる!
脱力。
まずは肩の力……そして首がガクリと落ちるように、力が抜ける。
その動きが終わるのと…鬼殺しの少女の刀が、自分の首に触れるのとが、同時だった。
だが、まだ首は切られていない。
発動条件は、間に合った!
──血鬼術 流界転々!
ふっ、と体が黒き世界に沈む。
してやった。これでなんとか、別の世界へ逃げ込める。
成功、したのだ…。
だが、そう思えたのも…ほんの一瞬。
我輩は、信じられないものを見た。
我輩の体にしがみついてた、異様なる鬼の少年。
我輩の首に刀を振るった、鬼の兄をつれた鬼殺しの少女。
二人も共に、この数瞬だけの黒き世界へと沈み込んでいたのだ。
我輩は、四十回目の転移にして初めて気がついた。
血鬼術 流界転々の効力範囲は…我輩自身だけではない。
我輩に触れている物も、人も、鬼も、その全てと共に別の世界へ転移させる。
そういう、力なのだと。
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お兄ちゃんが鬼の体を抑えることで動きを止めて、私が日輪刀で鬼の首を斬る。
即興の単純な作戦。お兄ちゃんの戦いで鬼は随分追い詰められていたし、それに乗じて私は距離を詰めることができた。”呼吸”を使わずとも充分に鬼の首を刎ねられるはず、だった。
だけどその直前、目の前が突然真っ暗になった。
鬼と、それにしがみつくお兄ちゃん。それに私自身の体。それ以外、全て真っ黒な世界を私は落ちていった。突然発生した浮遊感覚のせいで鬼の首から刀は離れていってしまった。これはおそらく、あの鬼の血鬼術か。そう私が理解した瞬間、唐突に黒の世界が消え去った。
代わりに目の前に現れたのは、地面だった。
「っ!」
受け身を取ることもままならない。私はそのまま頭から地面に衝突した。
痛いけど、あまり痛くはない。せいぜいちょっと転んだ程度。
落下の距離が少ないからかもしれない。
痛みはすぐさま忘れ去って、バッと体勢を立て直して起き上がる。お兄ちゃんと、鬼はどこに!?
「ん!」
「お兄ちゃん!」
無事だった。自分が顔を上げるのとほぼ同時にお兄ちゃんも顔を上げていたのか、ちょうど視線がかち合った。でも…私たちの相対していた鬼は既にその姿はなかった。この山の中腹の木々に紛れ、素早く逃走したのだろう。自分の血鬼術で難を逃れたのだから、私たちより早く動けるのも当然のこと。
だけど、逃す訳には行かない。
「お兄ちゃん! お願い、あの鬼の匂いを辿って! 私たちで追いかけて、首を斬る!」
「ウー!」
頷いてくれる。拳を作って腕を上に伸ばして気合いもいれてる。私のお願いを、意図をすぐに理解してくれたお兄ちゃんは、地面を這って匂いをたどる。まるで動物のようだが、お兄ちゃんは人間の頃でも、こうした形で匂いを辿ることができた。十秒もたたずに目的の方角を見定めたお兄ちゃんは、こちらに軽く目配せした後に走り出した。私も、その跡を追う。
…だけど、お兄ちゃんの歩みはすぐに止まった。
「ムゥ……ウー……」
「お兄ちゃん? …そっか、ここ……”あの山”みたいに、変な匂いがあるせいで…」
必死に地面を這って匂いを嗅ごうとするも、すぐに立ち上がって鼻を抑えて首を振っていた。”那田蜘蛛山”での時と同じく、奇妙な臭にお兄ちゃんの鼻が阻害されて、匂いが上手く辿れないようであった。お兄ちゃんはトテテとこちらに駆け寄ってくると、目元に小さな涙を浮かべて、頭をグリグリと押しつけてくる。おそらくは「ごめん」の現れだろうか。
鬼となって以降のお兄ちゃんは、こうして小さい子のような振る舞いをよくする。いや実際、鬼の力で体も小さくできるんだけど。本来は鬼化によって完全に失うはずだった知性。その鬼化に精一杯抵抗した結果が、この年齢退行した振る舞いではないかと珠世さんは推測していた。その仕草にはすごく愛おしく感じてしまうけど…今のお兄ちゃんだって必ずしも私が守ってやらないといけないほど弱いわけじゃない。戦いの時は、いつだって私を危険から助けてくれた…自慢のお兄ちゃんなのだから。
鬼は見失ってしまった。でも、あの鬼を野放しにしていたらまた人を喰うのかもしれない。
止めなくては。この山を降りれば、ひょっとしたらお兄ちゃんでも辿れる匂いが残ってる場所があるのかもしれない。
私はお兄ちゃんの手をとって、共に麓に向かって走り出した。
二人一緒に走っている間、ふと疑問に思うことがあった。
この山…入った時は、こんなに匂いが強かったっけ?
私でも強く感じる刺激臭。お兄ちゃんはさっきからもう片方の手で鼻を抑えてウーウー唸ってる。ここまで強い匂いなら、入山したときにも気づきそうなものだけど…。 他にも、なんだかこの帰る道筋も来る前の道とは違っているかのような…正直これは、気のせいだと言われたらそう納得してしまいそうなくらいの小さな違和感だけど。
(…ひょっとして、あの鬼の血鬼術で、どこか別の山に場所を移動したとか?)
(仮にも血鬼術。ただ私達から一瞬隙を作って逃げるだけの力とは考えにくいし…他にも何か変化してると考えるべきだと思う……けど)
けど、そう。血鬼術によって何が変化したのか…まだ確信がつかない。
どこか遠くの山に飛ばされたのではないか、って推測してるけど…それだけならまだいい。蝶屋敷へ帰るのが大変になるくらいなら。ただ、もし私達でも自覚できない…何か大きな変化があるとしたら。
念のため警戒をしながら、山を降っていく。だけどその最中、何も不審なことは起こらない…
そしてそのまま、私達二人は無事に麓まで辿り着いた。
広がる畑に、ポツポツと見える農家や民家。月の微かな灯りを頼りに、私達は進んでいく。
この麓の光景も、記憶にあるものと”ほぼ”一緒だった。だが…最初に見た時と比べて、畑の作物の育ち具合が少し違っていた。やっぱり…ここは私達が今朝到着した場所とは別のところ? それにしては、逆に地形が似すぎているような…
私が立ち止まって、念のため辺りを注意して見ていると……ぐい、と腕が強く引っ張られた。
「ン! ン!」
「…お兄ちゃん、ひょっとしてさっきの鬼の匂い、見つけたの?」
「ウ…ンーン…」
私の問いかけに、お兄ちゃんはふるふると首を振った。
その後に不思議そうな顔でコテン、と首を傾ける。
分からない、ということなのかな? それでもお兄ちゃんは、何かを伝えたいかのようにグイグイと私の腕を引っ張る。いつも通り爪が腕に食い込まないような形で。
お兄ちゃんは私を指さしたり自分を指さしたり、身振り手振りをして何かを伝えようとしてたけど、私はうまくお兄ちゃんの言いたいことを汲みとれなかった。そんな私の様子をみたお兄ちゃんは「とにかく行ってみよう」とでも言うかのように、私の腕をとって走り出した。
なんだろう。鬼じゃないけど、お兄ちゃんが気になる匂いでもあったのかな。
誰か知り合いの匂いとか? いや、お兄ちゃんは何か分からないように首を傾げていたし、「分からないけど気になる」って感じ…とか?
私は、お兄ちゃんが追う匂いの正体について、情報が少ないながらも色々と考えていた。
私の頭で考えつく可能性なんて…全部無駄だったと、知るのは、すぐだった。
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お兄ちゃんの、足が止まる。
目的だった、匂いの元の人の姿が、見えたからだ。
私にも、見える。その人が。
だけど…見えていることが、信じられなかった。
最初は、夢だと思った。
無限列車で出会ったあの鬼のような血鬼術で、
また良い夢の中に閉じ込められているんじゃないかと。
また自分の首を斬って夢から醒めるべきなんじゃないかという、
既に終わったはずの考えがぶり返してくるほどに、混乱した。
それでも、手は刀を握れない。動かない。動けない。
目があったまま…私も、その人も、動かない。動けない。
動いたのは、今まで私の手を握っていた
パタパタと走って、その人の元へ向かっていくお兄ちゃん。
私もその人も、なんとか目玉だけ動かしてお兄ちゃんを視線で追う。
近くまで寄ったお兄ちゃんは、その人を見上げる。
見上げたその先には、お兄ちゃんと
「…ウー?」
「……き、み……は」
ああ。
声が、聞こえた。
あの残酷な日からずっと、私と一緒に戦ってくれたお兄ちゃんも、
視線の先で茫然自失と立ち尽くしている、
二人とも…同じ、声だ。
なんでだろう。
どうしてだろう。
どうして、人間のお兄ちゃんが、目の前にいるのだろう。
やっと、私の足が、一歩だけ動いた。
だけど…私が一歩歩くより前に、既にお兄ちゃんが動いていた。
竹を咥えた、私と共に過ごしてきた鬼のお兄ちゃんの方が。
動いたお兄ちゃんは、その人の…人間のお兄ちゃんが背負っている箱の方に回り込んだ。
背負っている。
箱。
人間の お兄ちゃんが。
ドクン。
心臓が、より大きく跳ねた。
ま、さ、か…?
鬼のお兄ちゃんが、コンコンと人間のお兄ちゃんが背負う箱を叩く。
カリカリと、箱の中から引っ掻くような音が、返事として帰ってきた。
それからすぐに、ガタリと箱が開いて。
ポテンと、人の姿がこぼれ落ちて。
ヒョコリと上げたその顔は……私とほとんど同じだった。
そう…小さい体に、鬼と化した顔つきをしていることを除けば。
「…ン?」
「ウ! …ン、ウン!」
「…ムー……ム、ンンッ!」
鬼の
互いに顔を手をぺたぺた触り合っていたけど…お互い何か納得したように、手を握り合って頷いている。
そして……私達も。
「ほ、んとう……に、本当に、お兄ちゃん…なの…?」
「……ね…禰豆子……! 禰豆子!」
人間の
とても予想外の形で……私はもう一度、夢にまで見たお兄ちゃんの姿と再会を果たした。