振り返れば想う、命の路を駆け抜けた日々よ 作:fell@かぶとがに
無責任な信仰が、祈りが、「信じる人々」が嫌いだった。
誰も保証はしてくれない。だって私は裏切られたから。
そう吐き捨てつつ、行き惑うアドマイヤベガは毎夜、丘で夜空を見上げる――。
小高い丘の上で草葉の間に立って、夜空を見上げた。
あの日から十数年目の夜。
私は星一つない、白みを帯びた夜空を見つめる。
ここの空は、何も見えない。
いくらあの星を探しても、背後の明かりが眩しすぎて。
「気持ち悪い」
振り返って、街の明かりを眺めながら思う。
背高のっぽの教会のてっぺんには、みんなが知ってる十字架がきらり。
教会のふもとには、たくさんたくさん、お祈りの姿。
なまじ目がいいから見えてしまう。
気持ち悪い。気持ち悪い。
こんなところ、気まぐれなんかで来るんじゃなかった。
十字架以外にも、街にはたくさんの明かり。
パンチパーマのあいつとか、鳥居を構えたあいつとか。
他にもよく聞く、なんとかかんとか。
みんなみんな、誰もがあいつらを信じてる。
何かを信じて縋ってる、弱い人たち。
そんなやつら、いるわけないのに。
ヴヴヴ、と上着のポケットが震える。
取り出したスマホにはトレーナーさんから、考え直してもらえないか、とのメッセージ。
「……出走しないって決めたのに」
一番人気だったクラシック初戦。
期待されながら宿敵たちにみっともなく敗れ。
積み上げてきたものを打ち砕かれて。
魂が欠けている今の私のココロでは、あのレースはまともに走れない。
そんな身でみんなの夢の舞台へ割り込むなんて、決して許されることじゃないから。
トレーナーさんからのメールを読み流して。
丘を下って、気持ち悪い明かりの前を通った。
「夜のお祈りはお済みですか」
十字架の教会の前で、人の良さそうな男が言う。
そんな気持ち悪いこと、するわけない。
返事もせず、仏頂面で通り過ぎる。
通り過ぎたあとも、男は屈託のない笑顔を私に向けていた。
たぶん、本当に善意のつもりなんでしょう。
「……一緒にしないで」
自己防衛的に吐き捨てる。
もちろん、私の声は男の耳には届かない。
この言葉は、私の小さなココロを守るためだけの、小さな小さな言葉だから。
それでもなお、周りからはたくさんの声が聞こえる。
お祈りはお済みですか。
辛いことはありませんか。
あなたは、何を信じていますか。
「気持ち悪いこと、言わないで」
信じる者は救われる。
祈りは必ず誰かへ届く。
人々の無邪気で、弱く、無責任な信仰が、祈りが。
街を歩く私に次々と襲いかかる。
「やめて、やめて!」
清い何かを信じれば、素晴らしい日々が訪れる。
そんなありがたい世界へ引き込もうと、誰もが善意のココロで私の手を引こうとする。
私が、いくら否定しようとも。
「私を巻き込まないで!」
私は信じない。何も、何も信じない。
だって、父と母のささやかな祈りは。
笑顔で信じた暖かいココロは。
誰にも届かなかったじゃない、誰も見向きもしなかったじゃない。
だからあの子は、そのまま遠いところへ行っちゃった。
「信じられないわ」
あのころは、私だって信じてた。
でも、あの雨の日。
弱かった私は全てを知って、信じることの弱さを知ったの。
私は、信じてたのに。信じてたのに。
離れてから、教会の上に立つ十字架を見た。
信じる人々が寄り合い創った、希望の塔。
そんな憩いの場に集まる人々の考えなしの弱さが、私の気分を一層悪くする。
道行くカップル。仲間連れ。親子。老夫婦。独り者。
この世界では老若男女の誰しもが、何かを信じて、生きている。
幸せの中で、疑問も抱かずにぬくぬくと生きている。
「莫迦みたい……」
誰も保証してはくれないわよ、その幸せがいつまでも続くなんて。
少なくとも、私たちには、続かなかった。
縋っている何かが崩れ落ちたとき、弱いあなたたちはどうなるんでしょうね。
街の賑わいを抜けて、住宅地の角を曲がる。
人もまばらな中、しばらく歩いて、寮の門に着く。
帰り着いた門の前で、もう一度夜空を見上げた。
丘の上で見たときと違って、いくつか星が瞬いてる。
気持ち悪い明かりが弱まったからか。
でもその数は、やっぱり少ない。
「あのころの空は、もっと綺麗だったのに……」
父や母とは、もっと田舎に住んでいた。
陽が落ちたあとは周りに光なんてほとんどないから、早い時間でもたくさんの星が見えた。
星座の本を片手に見上げても、どの星がどの星か分からないくらい。
たくさん、そう、たくさん。
五分も眺めていれば、流れ星が何個も見つかった。
そして私は、その中からあの星を。
父に教えてもらった一つの星を一生懸命探して。
毎日毎日三人で、小さな小さな、ささやかなお祈りをした。
「そろそろ戻らなきゃ」
ふと気が付くと、街は生活の時間を終え、僅かに届いていた明かりもほとんどなくなった。
こんなに遅くまで夜空の下にいたのは初めてかも。
感傷にふけっていたせいかしら。
夜空には、あの星が光っているのが微かに見えた。
「どうしたの」
横から声をかけられた。
声の主は、同い年くらいの女の子。
フードを被っていて、表情はよく見えない。
「こんな時間に突っ立って」
「何でもないわ」
知らない人。
高校生か、大学生か。よからぬ人か、気持ち悪い人か。
いずれにしても、相手にする気はない。
「帰るとこよ、さようなら」
門をくぐって、栗東寮を目指して歩みを進める。
でも、まだ後ろにいる気配がする。
寒空の下、はあっと息を吐く音がした。
「何か、用?」
「ううん、別に」
女の子はじいっとこっちを見ていた。
「ちょっと心配だっただけだよ」
そう言って、彼女は踵を返した。
そのまま一度もこちらを見ることなく、街とは反対の方へ歩いていく。
明かりがまったくない、暗い、暗い方へ。
******************
その日から毎夜、私は丘の上へ行った。
行き場をなくして、ふらふらと辿り着くように。
街の明かりがあるから、丘の上では星は見えない。
明かりは気持ち悪いけれど、行かずにはいられなかった。
星が見えもしない夜空を、どうして見上げているのだろう。
嫌いな明かりを背に、どうして立っているのだろう。
吐き気に襲われながら私はそれでも。
毎夜毎夜、取り憑かれたように丘の上へ赴いた。
そして街の明かりが消え始めるころ、丘を降りて街を歩いて、寮へ帰る。
寮の前に着くと、もう一度空を見上げる。
わずかに光る星々。
目を凝らして、その中にあるあの星を探す。
その星を見つけると、わずかの間。
あの子を思うことが許された。
寮の前で星空を見上げている間、女の子はいつも遠巻きに私を見ていた。
特に何を言うでもなく、するでもなく。
眉一つ動かさず、毎夜静かに私を見ていた。
最初に会ったとき以来、言葉は一言も交わしていない。
そして私が寮へ向かうと同時に、彼女は暗い暗い方へ去っていく。
私は迷子のように、日々、そんなことを繰り返した。
けれど、丘の上で街の明かりを見るたびに。
あの子への思いに浸ってから、我に返るたびに。
ココロの中で、気持ち悪さがどんどん膨らんでいった。
あのころを思えば思うほど、人々の弱さが際立っていく。
時折吐き気さえ覚えながらも、この繰り返しから抜け出すことができなかった。
膨らむ嫌悪感を何とか丸め込みながら、私は毎夜、寮の前で星空を見上げる。
それにしても、付き纏う女の子は奇妙だった。
夜空を見上げる横に、距離を置いて彼女がいるという光景。
彼女は毎夜毎夜、飽きもせずに私を見ている。
最初は、路傍の石ころほどにも意識していなかったけれど。
世界への嫌悪感が日々、大きくなっていく中で、いつも変わらない定位置にいる彼女。
そこには、ある種の様式美のような安心感があった。
街の人々とは違う、どこか馴染みのある雰囲気。
彼女がそこにいるだけで、ココロに少しの平穏が訪れた。
彼女からはあの気持ち悪さを感じない。
街の光のような気持ち悪さを感じない。
この街で唯一、嫌悪感の外にいる者。
ずっと気持ち悪さに囚われ続けている私にとって、彼女の存在は一時の休息のようにも思えた。
ある夜、いつものように私を見ていた彼女に、何となしに声をかけてみた。
「ねえ」
「なに?」
声をかけると、すぐに返事があった。
驚いた様子も待ちわびた様子もなく、のんびりと、自然な声。
「あなたは、何かを信じているの?」
「何か?」
「十字架とか、極楽とか」
彼女は顎に手を当てて、しばらくの間考えていた。
「アヤベは信じていないのかな?」
私の名前、知ってるんだ。
答えが来るかと思いきや、質問を質問で返された。
一瞬イラっとしたけれど、元より何となしの質問だから気にしないことにする。
「信じてないわ」
「へえ、どうして?」
「何かを信じるなんて、弱い人のやることだから」
何かを信じなければ、確信を持てない。
何かを成し遂げる、確信を、根拠を持てない。
それは一人では何もできない、弱い存在。
今、微かに見える星光よりも、はるかに弱い。
「自分のことを、ぜんぶ何かに押しつけて、依存して」
「そういうの、嫌なんだね」
「誰も助けてくれないのに、なんでそんなに祈るのか、理解できないのよ」
街の明かりを思い出しながら、十数年前を想いながら。
星空を見上げて吐き捨てた。
でも、その言葉への返答は、どのような期待とも、失望とも違って。
「アヤベなら、理解できるはずだよ」
「え?」
私は視線を、彼女の高さまで下げた。
目が合っても疑問符を浮かべたままの私に、彼女はすました表情を変えずに告げた。
「明日の夜、丘の上で待ってるから来てごらん」
そう言い残すと、彼女は踵を返し、去っていった。
私の返答を待たずに、暗い、暗い方へ。
私は突然のことに何も考えられず、暗い方を見たまま、身動き一つできなかった。
丘の上では彼女と会ったことはない。
私が毎夜、丘の上に行っていることを知ってるのかしら。
たまたまかしら。
「丘の上で、待ってる……?」
彼女の言葉を復唱する。
その意図は分からない。
けれど、ただの勢いや、出任せには聞こえなかった。
少し、懐かしい感じがする。
この懐かしい気持ちは、いつのものだっただろう。
彼女は何を思い、待ってる、と口にしたのだろう。
******************
次の夜、私は丘の上に立っていた。
待っていると言われたからじゃない。
彼女の話が気になったからでもない。
いつものように、夜空を見上げに来ただけ。
街の明かりは、相変わらず気持ち悪かった。
天候は、悪い。
湿った風が吹き、空には厚い雲が立ちこめる。
「うそつき」
辺りには誰もいない。
別に、がっかりしてなんてしていない。
少しだけ、昨夜の言葉が気になっただけ。
祈りだけが信じられないわけじゃなくて。
人も信用できないというだけのこと。
街の明かりはいつにも増して気持ち悪かった。
ここしばらくで溜まりに溜まった、嫌悪の塊。
それらが私のココロを突き破ろうと暴れている。
気持ち、悪い。
「信じても、いいことなんて何もないのに」
あの子が遠くに行ってしまった夜も、空はこんな曇天だったらしい。
それを知った夜、ココロの路頭に迷った私は悲しみと虚無に包まれて。
どうしたらいいのか何も分からなくて、独りぼっちで、夜空に祈ったの。
どうか、こんな罪深い私を、お導きください。
けれども、答えはなかった。
誰も、何も、私を導いてはくれなかった。
その夜、私は一人、急に降り出した雨の中で立ち尽くして。なんにも、光が見えなくて。
びしょ濡れになりながら泣き続けた。
あの子を奪っただけでは飽きたらず、信じ続けていた私を裏切ったんだ、と。
そんなことを思い出してしまって、今夜はもう夜空を見上げる気にはなれなかった。
帰ろう。
そう思って、丘を下ろうと右足を上げた。
上げようとした。
けれど、私の足は動かなかった。
私は帰ることなく、そこに立ち続けていた。
そして否定的な想いとは裏腹に、小さく呟いた。
「待ってるって、言ったわよね」
自分でも、何故そんなことを呟いたのか分からない。
頭では、あの気持ち悪い街の明かりを走り抜け、何も見ないようにして寮に帰るつもりでいる。
でも、身体と言葉は、そうしようとしない。
「この、丘の上で」
昨夜、彼女の言葉を聞いたとき。私は確かに一瞬だけ。
父と母と三人で、信じて祈っていたころの気持ちを思い出した。
彼女の言葉は、信じていいんじゃないかな。
幼い私が、そう言う。
「大丈夫」
今の私は、そう口にする。
「すぐに来るわよ」
独り言とは裏腹に、小さな水滴が肩に当たる。
曇天が徐々に、牙を剥く。
私は、信じてなんてない。
今夜も、いつものように丘の上に来ただけ。
「待ってるって、言った」
たまに当たるだけだった水滴の数が、みるみる増える。
「丘の上で、待ってるって」
冷たさだけではなく、草の葉を叩く音に囲まれて。
私は独り、水に打たれて。
雫はあっという間にスコールのような雨へと変わる。
それでも私の足は、そこから動かず。
私は心許ない、細い折りたたみ傘を開いた。
でもこんな小さな傘では、激しい雨は到底凌ぎきれない。
足下からみるみるずぶ濡れになっていく。
彼女はこの丘の上で待っている、と言ったけれど。
泣いたあの夜と同じく今日の空には、天の全てを覆う雨雲。
予感がした。私はまた、裏切られる。
「まだかしら」
期待なんてしていない。しているはずがない。
「ねえ、来るのよね」
街から届く明かりが、軽薄な光が。
震える私のココロを刺すようにこの身を照らす。
雨は一層激しさを増して、私の身体に吹きつける。
来て。
お願いだから、早く来て。
慈悲のない風が、震える手から傘を吹き飛ばす。
あっ、と気付いたときにはもう遅く。
小さな傘は、暗闇へと消えていった。
遮る盾をなくして、私は一人立ちすくむ。
激しい風雨が、容赦なく私を打ちのめす。
まるで、あの夜のように。
全身に濡れそぼった服が張り付いた。
「寒い」
私の身体から、徐々に熱が奪われる。
冷えていく身体、冷えていくココロ。
それは、私がそこにいたことの証左。
この場所に留まったことの、紛れもない証左。
「どうして」
否定はできなかった。
ここまでくれば、もう言い逃れはできない。
できたとしても、言い逃れする気力がもう、ない。
「私、また」
私は、信じようとしてしまった。
あれだけ言っておきながら、私は弱いままだった。
幸せなあのころと同じ香りがする彼女なら、信じてもいいと思ってしまった。
でもやっぱり、信じてはいけなかった。
身が。ココロが。
冷たく、冷たく濡れていく。
私の身の内から溢れる、悲しい水で。
やっぱり、信じてもいいことなんて何もない。
信じるなんて、弱いこと。
信じなければ、良かった。
「やっぱり、ぜんぶ、うそつきよ」
祈ることは、弱いこと。
弱さは人を傷つける。
再び走るためにも、私はもう、決して弱くはなりたくない。
もう絶対に信じない。
私は。二度と。二度と。
そう考えたとき、私の中に嫌な光が差した。
「気持ち悪い」
街の明かりに感じるものと、まったく同じ……いや、そうじゃない。
「私、気持ち悪い」
髪を伝って滝のごとく流れ落ちる水が、頭から滲み出る負の感情を混ぜ込んで。
傷口から溢れる血のように、滴っていく。
その赤い水溜りに映る私は、今まで見てきた何よりも、気持ち、悪くて。
そもそもこの気持ち悪さははじめから、街の明かりのものなんかじゃなかった。
びしょ濡れになりながら街を見る。
目を凝らせば、街の明かりの中にはたくさんの人。
誰もが幸せそうで、楽しそうで、明るい未来を疑ってなくて。
気持ち悪かったのは、そんな人たちではなくて。
本当は、あの人たちと比べて、あまりにも醜い――。
「バ鹿みたい」
あの夜、どうして私は裏切られたのか。
今になって、気付いた。
「何言ってるの、私」
どうして私のココロは、裏切られたの。
簡単な話じゃない。
私ははじめから、裏切られてなんていなかったのよ。
あの子を贄にした罪悪感に呑み込まれて。
ココロを、分厚い分厚い雲で覆い尽して。
あの子を守ってくれなかった祈りも、自分自身のことすらも。
そもそもあの夜、私は、何一つ信じていなかったのだから。
信じてもいなかったのに、私は一体、何に裏切られたと喚いて、何を恨んでいたんでしょう。
「裏切ったやつが、悪いと思ってたのに」
私がずっと気持ち悪かったのは。
嫌悪感が、このココロを満たすのは。
何かに縋っていてもいずれ前へ進むみんなに対して、私は今も未来も、否定だけだったから。
その否定からも、理由を作って自分以外のものに押しつけて逃げていたから。
みんなを見ているとココロのどこかで、そんな弱い自分を直視せずにはいられないから。
在るのは、過去の思い出だけ。
みっともなく、過去の幸せに縋って停滞するだけ。
うそつきは、私の中身だったわね。
理屈も、意地も、悲しみも。
虚像がぜんぶ暴かれて。
もう、分からない。
私には、何も分からない。
否定することで、自分を保っていた私には。
「私は、どうすればいいの」
どうすれば、良かったの。
何が正しかったの。
何が間違っていたの。
私は、一体。
******************
あの夜のように泣きそうになったとき、雨音の狭間で、声が聞こえた。
迷ったときはこの星を探すんだ、と父は言った。
母と私と、家族三人で手を繋ぎながら。
迷い人に、行く先を指し示してくれるんだ、って。
ずっとずっと、たくさんの人が祈ってきたの、と母は言った。
父と私と互いに笑い合って、見つめ合いながら。
ああ、懐かしい。
そう、父と母がそんなことを言ってたの。
それは今も、本当なのかしら。
思わず口元が緩んで、目尻から、涙が溢れた。
「私の祈りは、今もあなたに、届くのかな」
そう、そこに佇んで導いてくれるあなた。
ねえ、答えてよ。
ねえ、返事をしてよ。
お願い。
ずうっとそこにいるんでしょう。
教えて。
「私は、どこへ行けばいいの」
こんな、哀れな私を。
自分から逃げ続けた愚か者を。
どうか、救ってください。
夜空を仰ぎ見て、あの星を想って。
私はもう一度、あのころのように。
何も見えない夜空に、祈った。
******************
ふっと、街の明かりが消えた。
眩しい明かりが消えて、見渡す限りが暗闇になった。
天上を雲に覆われた世界からは、全ての視界が失われる。
ずっと私を打っていた雨が止んで、びゅうと一息、風が吹いた。
丘の上を、優しい風が撫でる。
草の頭を風が掠め、そよそよと音が聴こえる。
身体は濡れていたけれど、風は不思議と冷たくなかった。
「あ……」
北の空の雲が消えていく。
分厚い分厚い雲が、カーテンが開くように分かれていく。
重苦しい覆いが少しずつ薄れて。
その隙間には、瞬く間にきらめく星空が広がった。
それは確かに、幼い私が祈りを捧げたあの空で。
父や母と見上げたあの空で。
懐かしい、数多の暖かい光が、私を包んだ。
「大丈夫。もう、迷わないよ」
いつの間にいたのだろう。
気付くと私は、独りじゃなかった。
声がしたところには、彼女がいた。
溢れんばかりの星々の下で、それらに祝福されるように。
彼女は微動だにせず、いつもと変わらぬその距離に。
「私はずうっと、そう祈っていたから。あなたという命が、私の隣で一緒に宿ったときから、ずうっと」
そう言って彼女は、砂糖菓子のようにさらりと消えた。
彼女がいた場所から目線を上げれば、北天の星が煌々と輝く。
物心が付いたころ、父と母が教えてくれた。
その星は、導。
遥か昔から迷える人々を導いてきた、救世の光だ、と。
私たちが信じた星は、迷える者に進むべき路を指し示そうと、そこに在って、強く輝いていた。
故郷に帰ろうと。
見果てぬ地を目指そうと。
愛する者に逢おうと。
この命を生きながらえようと。
迷える人々は何千年もの間、その光に祈ってきた。
どうか我々の進む路を、明るく照らしてください、と。
天国が生まれるよりも。
極楽が生まれるよりも。
高天原が生まれるよりも。
ずっとずっと前から、人々に信じられてきた光。
たくさんの祈りを、聞き届けてきた光。
その光は今確かに、縋った私に向けて輝いていた。
誰かの手が、私に差し伸べられた。
懐かしい気配がする、私と瓜二つの右手。
この手を取れば、私はもう迷わないのかな。
本当に、前に進めるのかな。
少しの不安が、私の手を鈍らせる。
「さ、行こうよ」
戸惑う私の右手が誰かに握られる。
じんわりと暖かい、たくさんの想いが伝わってくる。
遥か昔から人々が捧げてきた、祈りの熱。
その悠久の想いと入り混ざるように、私の中からもわずかな熱が混ざっていく。
「信じて、いいの?」
「もう信じてくれたでしょう?」
だから私はここに来たんだよ、と。
愛しい彼女の声がこの胸に染み入るのは。
きっと、母の胎内で一緒に寄り添っていたとき以来だった。
私も、暖かい手を握り返す。
すると街の方から、消えたはずの明かりが見えた。
その明かりはとてもとても、美しく見えた。
「祈ることは、自分を認めること。そうなっていい、そうなりたい、そう在るんだ、って」
声は言う。
「何かに助けられても、後押しされても、最後に確信して強く想うのは自分自身だから」
信じることは、意志を確かめること。
信じることは、意志を強く持つこと。
何に縋っても、何に祈っても。
最後に願いを受け入れ、何かを為そうとすることは、自分の意志であり、自分の力。
それは、自分はそこに辿り着けると、自分自身を認めること。
「目を凝らしてごらん。今のあなたなら見えるでしょう?」
「ええ」
街の方を見ると、その目に映ったのはいつもの嫌な明かりじゃなかった。
そこに生きる人々が持つ、祈りの光。
真摯に未来を見つめる、生命の光。
「気持ち悪いかな」
「……いいえ」
そうだった。幼い私はいつもああだった。
星の光に祈りながらいつも、必ず幸せになろうとココロに決めていた。
「私は、平穏な日々に生まれ、生きたいと願っていたわけじゃなかった」
生を受ける前以来、十数年ぶりに聞く声は、とても優しくて、愛おしくて。
「あなたが迷い、戸惑い、辛いときに手を差し伸べてくれと、ずうっと、ただそれだけを祈っていたんだよ」
私の祈りは届いていたんだ、と。
寂しがらせてしまっていたらごめんね、と。
あなたにそんな言葉を貰ったら、嬉しくて、でもなおさら寂しくて。
ついつい、涙が溢れてしまうの。
「さあ、あの光を目指そう」
「そうすれば、もう迷わない?」
「もちろん。あなたがそう、望んでくれれば」
私は懐かしい手に引かれ、星々の瞬きに向かって歩き出した。
「私、あの星に行きたい」
遠く遠く、幾星霜変わらず一所で瞬き続ける星を指さして言う。
急かす私を、彼女は優しく宥めた。
「大丈夫。あの光は、ずうっとそこに在るから」
いきなり辿り着こうとしなくても、大丈夫。
光はずうっと、そこに在る。
だからゆっくり、しっかり、一歩一歩踏みしめて。
導を目指して、進んでいきなさい、と。
そう、言われた。
「ええ、分かったわ」
だから、私は。
その光が、確かにそこにあることを信じて。
いつまでも、どこまでも、進んでいこう。
彼女の祈りを、ココロに秘めて。
******************
私は、丘の上で目を覚ました。
日付は既に変わっている。
スマホには、カレンさんとトレーナーさんからたくさんのメールと着信履歴。
少し、申し訳ない気持ちになった。
カレンさんに謝罪のメールを送り、トレーナーさんに電話をかける。
私を心配する、泣きそうな声。
「ごめんなさい。もう、こんな心配かけないから」
そしてもう一つ。
私の決意を、彼に伝える。
「私、走るわ。ダービーで」
誰が相手であろうと、全てを越えて、きっとあの星に辿り着くから。
返事が途絶え、息を呑む音が聞こえた。
話を終え、通話を切る。
街の明かりはとうに消え、見上げれば空には満天の星。
この辺りでも、こんな空が見えるのね。
夜空を見上げながら、随分久しぶりに自然と頬が緩んだ。
「綺麗な光……」
胸の内には、暖かな祈り。
かつてそこに在ったのは、私の名も指し示す一等星。
そしてまた永き時が過ぎたのなら、再び一等星がそこに輝く。
私もいつか、あの光のように。
人々を照らす祈りとなれますように。
天の北極には、一つの星が微動だにせず、静かに瞬いていた。
アヤベさんは何をしても美しい……儚い……一度折れかけてから決意を新たにして前へ進む姿が美徳すぎる……。
砕け散りそうになりながらもオペラオーとトップロードを捻じ伏せるんだよね……。
アヤベお姉ちゃん、きっと妹はきみのことが大好きだよ……。