振り返れば想う、命の路を駆け抜けた日々よ   作:fell@かぶとがに

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マンハッタンカフェは一人、雨に打たれる。
何かを待つでもなく。何かを嘆くでもなく。
そこに座ってたことに、意味など何一つなかった。
けれども、その理由は何かが、確かに存在していて。
そんな頭上に重なる、傘の影。


その時私はきっと初めて、アナタと心を通わせたのです

あの日、私は雨が降りそうな曇天の下でひとり、ベンチに腰掛けていました。

 

人通りが殆どない、住宅街の中にある遊歩道。

そう多くはない貴重な休みの日に、どうしてそんなところでぼうっと座り込んでいたのか、そのときは自分でも分かりませんでした。

 

お友だちは朝からどこからへフラフラと出かけていました。

そのため、本当にひとりぼっち。孤独を辛いと思ったことはありませんが、どこか心の中が空虚で。

 

遠くから聞こえる子どもたちの声。ボールが弾む音。自動車のクラクション。

誰かが何かと関わり、互いに影響し合い、自らを補完していく。

 

私にはそういった経験はあまりありませんから。気味悪がられたり、私自身積極的に周囲に干渉はしなかったりで。

 

でもその日は何故か、そんな自分が少し寂しく思えたのかもしれません。

今となってはきっかけも何も分かりませんが。

 

「……ちょっと、寒いな……薄着過ぎたかな……」

 

自らを抱き締めて、吹きつけてきた冷たい風から身を守ります。

ですがすぐに、ぽたり、ぽたり、と。

 

「……あ……雨……」

 

手のひらを出すと、雫が何滴も落ちてきて。

空を見上げているうちに、すぐに雨は強くなりました。

 

あっという間に濡れそぼつ服。肌に貼り付き、私の体温を徐々に奪っていきます。

なのにこの後に及んで私は、雨から逃げるでもなく、雨宿りをするでもなく、その身を悪天候に晒し、座り込んだままでした。

ここまでずぶ濡れになってしまっては、今更何をしても意味はない、かな。

 

「あれ?」

 

そんなとき、少し離れたところから声が聞こえました。

しばらく前から聞くようになって、最近、ようやく馴染み始めた声色。

 

「そこにいるの、カフェか?」

「……こんにちは、トレーナーさん……」

 

現れたのは先日、専属契約を結んだトレーナーさん。コンビニ袋を片手に、傘を差して佇んでいました。

そういえば契約時に『何か緊急なことがあったときのため』と連絡先等を伺っていましたが、このあたりにお住まいだったのを思い出しました。

 

このトレーナーさんと契約したのに、大きな理由はなく。

お友だちについて話しても嫌悪も深入りもしてきませんでしたし、たまたま受けたアドバイスが的確だったこともあり、面倒事が少なそうなので深く考えずに契約を結びました。

 

「ずぶ濡れじゃないか、どうしたんだ一体」

「……いえ、特に理由はないです。何となくぼうっとしていたら、雨が降ってきたので……」

「だからってこの雨の中、そのままでいたら体調を崩すだろう……兎に角早く寮に帰って、湯船かシャワーで暖まって着替えなさい」

 

そう言うとトレーナーさんは、差していた傘を私に差し出してくれました。なのに私は指一本動かす気力もなく、ただ呆然とトレーナーさんを眺めていて。

雨は弱まることなく降り続けます。傘を差し出したトレーナーさんも、背中からどんどん濡れていきます。

 

「あの……私はもう傘を差す意味が……トレーナーさんが使ってください」

「だからといって、大切な教え子を雨風に晒したままってわけにもいかないだろう? さて、タクシー呼ぶか」

 

トレーナーさんは微動だにしない私の手を取ると、指をそっと開いて傘を持たせてくれました。

そして今度は自分が雨風に晒されながら、スマートフォンを操作し始めて。

 

「いえ……こんなびしょ濡れでタクシーに乗っては、運転手さんに迷惑が……」

「確かになあ……とはいえここから寮までは結構距離があるし、なるべく早く着替えたりしてもらいたい」

「…………でしたら」

 

今思えば、この場所で座り込んでいたのも。雨に打たれて尚も帰らなかったのも。このあと口にした言葉も。

 

ひとりが寂しくて。

けれど、お友だちからは得られない何かを求めていて。

こんな私も今更ながら、血の通った誰かとの繋がりが欲しくて。

 

だから、今一番身近に感じていたトレーナーさんの近くに、吸い寄せられるように来てしまったのかもしれませんでした。

 

「トレーナーさんのお部屋、お近くですよね」

「うん、歩いて数分だけど」

「シャワー、お借りしてもよろしいでしょうか」

「えっ!? いや、流石にそれはどうなのかな……」

 

私の言葉にトレーナーさんは戸惑い、狼狽し始めました。流石にご迷惑でしたでしょうか。

 

「……いえ、すみません、大丈夫です。寮まで歩いて帰ります」

「ううむ、それはそれで……ここからだと一時間はかかるし、これ以上風雨に晒すわけには……カフェは身体が丈夫な方じゃないし……」

 

頭を抱えて、悩みに悩んで。

決心したような表情で、トレーナーさんは言いました。

 

「あれこれ考えてる時間が勿体ないな……今は俺の職よりカフェの健康だ。こっちだよ」

「えっ、いえ、あの……そこまで重い話では……」

 

とは言ったものの、確かに学園に知られたら問題になるかもしれません。私、少々軽率でしたでしょうか……。

ですが、トレーナーさんも覚悟を決めて手を引いてくれた手前、今になって「やっぱりやめます」などとは口にできなくて。

 

私は拾われた子猫のように、トレーナーさんのあとをついていきました。

 

 

******************

 

 

「そしたらシャワーはそこの玄関横だから。服は俺のジャージでも貸すとして……」

 

トレーナーさんの部屋について、お借りしたタオルで軽く全身を拭って。

ここで再び、トレーナーさんは頭を悩ませていました。

 

「……その、肌衣の類もびしょ濡れだよな。流石に俺のを、ってわけにもいかないし、どうするか」

「洗濯機の乾燥で一度回していただければ、寮まで戻るくらいでしたら、それで」

「傷まないか?」

「自分のせいですし、肌着くらいなら駄目になっても構いませんよ」

「そうか……なら脱衣所の洗濯機を使ってくれ。俺は奥の居間にいるから」

 

そう言ってトレーナーさんは私に、綺麗に畳まれたジャージを差し出してくれました。

すぐそばの小さなキッチンや奥に見える居間は清潔かつ整頓されており、普段から丁寧に家事をこなしていることが伝わってきます。

割と家庭的な方なのかもしれません。

 

「アナタは、シャワーを浴びたりとかは……」

「ああ、俺は大丈夫。頑丈だからさ。タオルで拭いて着替えとくよ」

 

それじゃごゆっくり、と言い残し、トレーナーさんは居間へ入り、ドアを閉めました。

残された私は、それ以上滴る雨水で廊下を濡らさないように、急いで脱衣所に入ります。

服を脱ぎ、肌着は洗濯機へ。乾燥のボタンを押すと、ごうんごうんと動き始めました。

 

給湯器をつけて浴室に入り、シャワーからお湯を出します。

最初は雨水よりも冷たくて、まるで今の私の心のようで。

徐々に徐々に温まってくると、次第に心地良い、いつか両親に抱き締められたときのような温度を感じました。

 

「……温かい……」

 

頭からお湯を浴びながら、改めて思います。入浴など、普段ならただの作業でしかないのに。

 

ですが今日は、冷たい水も温かいお湯も、どれを取ってもその裏に何かの意図を感じてしまって。

少なくとも、私が普段とは違う気持ちでここにいるのは確かでした。

 

お湯の熱が、少しずつ私の心身を暖めていきます。普段使っているものとは違うシャンプーやトリートメントの香りもあってか、なんだか解放的な気分というか、自分に素直になってきている気がしました。

 

「……ふぅ」

 

長い黒髪からお湯が滴ります。随分と水分を含んでいるので、念入りに拭かないと……。

 

「……あ、タオル……借りてない……」

 

浴室を出ようとして、気付きました。着替えばかりに意識が向いていて、タオルをお借りするのをすっかり忘れていました。

先程身体を拭いたタオルはたっぷりと水分を含んでしまっていて、役目を果たせそうにありません。

致し方ないので……ここは、恥を忍んで……。

 

「あの……トレーナーさん」

 

脱衣所のドアを開け、私にしては少し大きな声で居間へ呼びかけました。

こっそり頭だけ廊下に出して待っていると、居間のドアがかすかに開きました。

 

「ん、どうした?」

「すみません、タオルをお借りするのを忘れていて……」

「洗濯機の横に積まれてない?」

「……見当たりませんね」

「あちゃ……さっきのが最後か……乾いてるの持ってくから、脱衣所のドア閉めて待っててくれ」

「はい……」

 

私は頭を引っ込め、脱衣所で待ちます。せっかく温まった身体が少しずつ冷えてきてしまいました。

そんな私の状況を察してか、廊下からバタバタと小走りで急ぐ音がして。

 

「悪い、気付かなくて。ドアの前に置いとくから……」

 

そう、トレーナーさんは言いかけたのですが。私はドアを小さく開けて、右手を廊下へと出しました。

 

「あ……すみません、直接受け取った方が早いかと思って」

「……あんまり年頃の子が素肌を見せるもんじゃないぞ……」

 

トレーナーさんの困ったような声が聞こえました。そしてすぐに、新品のようにふかふかなフェイスタオルとバスタオルのセットを渡されました。

 

そのとき、一瞬だけ。

私の手と、トレーナーさんの手が触れ合いました。

 

「あ……」

「わ、悪い、カフェ。すぐ居間に戻るから」

「いえ、あの……待って……」

 

そんな私の呟きはトレーナーさんには届かず。慌てるように居間へと駆けていく足音だけがしました。

 

何一つ身に纏っていない状態で、トレーナーさんの手に触れた私は。

やはりいつもとは違う、感情というか、生きていることを示すような熱を、その手のひらに感じて。

 

「……もう少しだけ、触れていたかった、かも」

 

そのときはまだ、理由が分かりませんでした。

 

 

******************

 

 

「バタバタしちゃったけど、とりあえず落ち着いてよかった」

「すみません、色々お手間を……」

「いいさ、トレーナーの仕事なんて普段から似たようなもんだ」

 

洗濯機で乾燥させた肌着も思った以上によく乾いたため、お借りしたジャージを着て、私は居間のビーズクッションに腰を下ろして休ませて頂いていました。

 

トレーナーさんの声は廊下のキッチンから聞こえます。わざわざ珈琲を淹れてくれる、とのことでした。

 

しばらくして二つのカップを手に、トレーナーさんが戻ってきます。香ばしい良い匂いが漂ってきました。

 

「初心者なもんで、お口に合うかは分からないけど」

「わざわざサイフォン、買われたんですか?」

「専属契約したからにはね、少しでもきみのことを知って近付きたいから。元々珈琲好きだし」

 

珈琲フレッシュと砂糖瓶を目の前の卓に置き、トレーナーさんはカップを口へ運びます。

私もブラックのまま口へ運ぶと、冷えかけた身体を再び温めるように、トレーナーさんの気遣いが四肢に染み渡っていきました。

用意されたフレッシュと砂糖は、私たちには不要だったみたいです。

 

「……美味しいです。本当に初心者なんですか?」

「おや、カフェにそう言ってもらえるのは嬉しいな。ハンドドリップで自分用にはたまに淹れてたけど、サイフォンは本当にここ最近からだよ」

 

トレーナーさんは嬉しそうに笑います。その顔を見ていたら、私もなんだか心がぽかぽかとしてきて。

 

……今日はなんとも、調子が狂う日です。こんな気持ちになったのはいつ以来でしょうか……。

あれこれ考えずに素直に両親に甘えていた頃は、日々こんな感覚の中で過ごしていた気もします。

 

温かい珈琲を二人、無言で飲みながら。

ふと、この数日間、時々考えていた疑問を口にしてみました。

 

「トレーナーさん」

「うん?」

「どうして、私に声をかけたんですか……?」

 

専属契約は私からお願いしましたが、私たちが話すようになったのは元はと言えば、自主トレーニング中にトレーナーさんが声をかけてきたのがきっかけでした。

訊ねると、トレーナーさんは少し悩むように答えてくれました。

 

「んー……似てたから、かな」

「え?」

「ああ、いや、なんでもない。いい走りしてたからさ、興味が湧いてね」

 

ちょっと取り繕うように言い直し、トレーナーさんは珈琲を一気に飲み干しました。

私も釣られて、半分ほど残っていたブラックを喉の奥へ流し込みます。

……少し、勿体ない飲み方だったでしょうか。

 

「さて、もう一休みしたら帰るかい? それとも何か軽いものでも食べてくか?」

「これ以上ご迷惑をおかけするわけにもいかないので、もう少ししたらお暇します」

「了解。そのときはタクシーを呼ぶから、のんびり休んで落ち着いたら声をかけてくれ」

「はい……何から何までありがとうございます」

「気にしないでくれ、明日からまたトレーニングを一緒に頑張ろう」

 

明るい声で笑うと、トレーナーさんは二人分のカップをキッチンへ下げに行きました。

 

面と向かってはあまりお話ししていませんでしたが、本当に優しくて、穏やかな人。

なんともなしにそばにあった鏡を覗いてみると、少しだけ口元が柔らかになっている私がいました。

 

「この人となら……充実した競技生活を送れそう、かな」

 

我ながら意外でした。私が家族やお友だち以外の他人に、こんなに関心を示すなんて。

本当に何故でしょうか。この日はそんなことばかり、一日中考えていて。

 

と、ぼんやりとしていたとき。

僅かに、視界がぐらつきました。

 

「……ぁ……?」

 

僅かな頭痛、目眩、そして弛緩する身体。

私は自分を支えきれず、ゆっくりとビーズクッションから崩れ落ち、倒れてしまいました。

その物音を聞きつけ、トレーナーさんが居間へと入ってきます。

 

「何か落としたか……ってどうした、カフェ!?」

「大丈夫、です……大丈夫、ですから……」

 

心配をかけまいとすぐに起きようとしたのですが、力が入らず。

駆け寄ってきたトレーナーさんが抱き起こしてくれました。

 

「すみません、何だか力が入らなくて……」

「気分が悪いとか頭痛が酷いとか、そういうのはないか?」

「少しだけ……でもそこまで酷くは……」

「疲れが溜まってたか、思ったよりも雨に打たれたのが響いたか……タクシーですぐに帰すか、それとも病院に……」

「いえ、そこまでじゃないですから……たまにこういうことがあるんです。少し横になって休ませていただければ……」

 

私は身体が強い方ではなく。昔から時折、こういうことがありました。

最近はなかったので油断していました……今日は本当に、トレーナーさんに迷惑をかけてばかり……。

 

「カフェがそう言うなら……俺の布団でもいいか?」

「ええ、構いません……むしろ、申し訳なくて……」

「そうだなあ、ちょっとは反省してもらおうか。もう雨の中で濡れ鼠なんて、金輪際やめてくれよ」

「……はい」

 

苦笑しながら、トレーナーさんは私を両手でお姫様のように抱き上げて。私の頭を抱えてこれ以上負担にならないようにしながら、隣の和室に敷かれた布団へ、静かにゆっくりと横たえてくれました。

 

「匂い、気にならない?」

「全然。お使いのボディーソープのいい香りがします」

「わざわざ実況はしなくていいぞ」

 

小さく笑って、掛け布団をかけてくれました。

程よい高さの枕。柔らかな布団。疲れた身体を覆う掛け布団。

穏やかな労りに包まれて、私は。

 

「一時間くらいしたら、一度声をかけるから。ゆっくり休みな」

「はい……ありがとう、ございます……」

 

最後に一度、優しく頭を撫でられて。

私はそのまますぅ、と、眠りに落ちていきました。

 

 

******************

 

 

私は、ひとりぼっち。

誰とも手を繋がず、微笑み合わず、共に歩まず。

ただひとり、てくてくとこの先も歩いていくだけ。

 

トゥインクル・シリーズを駆け抜けたあと、私には何が残るんでしょうか。

 

喫茶店をやる。それもいいかもしれません。

世界を巡る旅。それもまたいい経験になるかもしれません。

 

ですがそのとき、私はきっと一人で。

気まぐれなお友だちが時折傍らにいるかもしれないけれど、世界はきっと変わり映えなく、色褪せていて。

 

……どうしてでしょうか。

もう何年もずっと、そんなこと気にしていなかったのに。

今日はどうして、私はこんなにも怯えているのでしょうか。

 

そもそも私は、一体何を、求めているのでしょうか。

 

 

******************

 

 

「……ぅ……」

 

小さく呻く自分の声が聞こえて。

私は目を覚ましてしまいました。

 

体調は未だ、あまり良くはなく。倒れたときほどではありませんが、頭も四肢もずぅんと重みを感じます。

襖はほぼ閉められていて、真っ暗な和室に、居間への隙間から光が差し込んでいます。

 

私は無性に、その光にすがりたくなって。

きっと誰にも届かない、か細い声で叫びました。

 

「……トレーナー、さん……」

 

私自身の耳にも、なんとかぎりぎり届く程度の声量。

こんな声が隣室まで届くはずはなく。

 

届くはずは、なかったのですが。

 

「どうしたんだい、カフェ」

 

襖がゆっくりと開き、心配そうな面持ちのトレーナーさんが、そこに居ました。

 

「……なんで、聞こえてるんですか……」

「なんでって……カフェが呼んだんだろう?」

「呼びました……確かに、呼びましたけど……」

 

うたた寝の中で朧げに見た夢のせいか。

それとも、弱りきった私の心のせいか。

 

トレーナーさんの顔を見ていたら、声が震えてきてしまって。

涙が溢れてきそうになってしまって。

私はもう、自分で自分のことがどうにもできなくなってきていました。

 

「一人が……」

「うん」

「一人が……寂しいんです……怖いんです……」

「うん」

「こんなこと、ずっとずっと、なかったのに……」

 

絞り出すように呟きます。

いつの間にか枕元に歩み寄っていたトレーナーさんは、胡座をかいて私の手を握ってくれていました。

 

「カフェはずっと、頑張ってきたんだな。きっと何かの拍子に、それが今日、決壊してしまったんだよ」

 

トレーナーさんがそう語りかける声は、何かを思い出すようで。私の手を握る力が、少し強くなりました。

 

「一人でいるっていうのは大変なことだよ。お友だちとやらがそばにいてくれたとしても、どうしても誰かの温もりにすがりたくなるときはあるんじゃないかな」

「……もしかして、トレーナーさんも……?」

「親父が転勤族でね。高校を卒業するまでは、各地を転々としてたなあ」

 

私はようやく、今日、トレーナーさんのところへ引き寄せられてきた理由が分かった気がしました。

 

さっきトレーナーさんが口から漏らした、『似てたから』、という言葉。

私自身もトレーナーさんと出会ってから、その姿を見ているうちに。

無意識のうちにどこか、自分と似ているものを感じ取っていたんだと思います。

 

トレーニング中。トレーナー室での打ち合わせ中。カフェテリアでたまたま鉢合わせたとき。学園内ですれ違ったとき。

 

一人ぼっちの私を見るトレーナーさんの視線は、私をかつての自分と重ね、その辛さを慮るような、何とかしてあげたいと思い遣るような、そんなものでした。

 

だからきっと私は、この人ならば、私の心の底に溜まっていた孤独を取り払ってくれるんじゃないか、と。

もしかしたらそう、願っていたのではないでしょうか。

 

「……暖かいです、トレーナーさん」

「少しは楽になったかな」

「はい……でも……」

「?」

「もう少しだけ、我儘……言ってもいいですか……?」

「この際だから聞くよ」

 

優しく笑うトレーナーさん。その笑顔を見て、私は……。

 

「……隣で添い寝、してもらえませんか?」

「いっ!?」

 

私の我儘に、トレーナーさんはびくりと小さく飛び跳ねました。

流石の私も、トレーナーさんが動揺するようなお願いであることは分かっています。

けれど……そうでもしないと、今のこの心の震えは、止められそうになかったんです。

 

「ほんの少しの間だけで、いいですから……」

 

そう、切実に小さく告げると。

トレーナーさんは一瞬躊躇うように視線を逸らしましたが、すぐに私の方へ向き直ると。

 

「……頼むから口外しないでくれよ」

「ええ……勿論です……」

 

静かに掛け布団をめくり、私の隣へ横になりました。

 

私とトレーナーさんの間には、半身ほどの距離。

身体をトレーナーさんの方へと向けると、トレーナーさんもこちらへ身体を向け、私のことを見つめていました。

 

「……あの」

 

もう一つ、お願いしたいことがあったけれど、なかなか口にできなくて。

そんな私の泣きそうな顔と垂れた耳を見て察したのか、トレーナーさんは片手を挙げて言ってくれました。

 

「おいで、カフェ」

「っ……!」

 

私はもう、たまらなくなって、我慢も何もできなくて。

自身の体調不良も何も関係なく、トレーナーさんの胸にすがりつきました。

 

するとトレーナーさんは静かに、慰めるようにふわりと両手で包んでくれて。

その温もりの中で、私は小さな嗚咽を漏らしました。

 

「ぁ……ぅ……ひぐ……」

「これまで、よく頑張ってきたね」

 

そんなことを言われたら、尚更涙がこみ上げてきて。

 

「とれーなーさ……とれーなーさん……!」

「大丈夫、もう一人じゃないから」

「私の温度……感じますか……?」

「ああ」

「私の声が……聞こえますか……?」

「カフェはいるよ、俺の目の前に」

 

いつでも話しかけてくれていいんだよ、と。

いつでも隣に来てくれていいんだよ、と。

いつでも頼ってくれていいんだよ、と。

トレーナーさんはまるで言外に、そう語りかけてくれているようでした。

 

みっともなく泣きついて。

少しずつ心も落ち着いてきて。

私はトレーナーさんの体温を感じながら、目を瞑って微睡んでいました。

 

「カフェの気持ち、分かるんだ、俺も」

「気持ち、ですか?」

「一人ぼっちのとき、誰かにすがりたくなるのが。俺も小さいときは、時々こうして慰めてもらってた」

「小さいときって……子ども扱い、しないでください……」

「はは、悪い悪い」

 

親父だったかな、お袋だったかな。記憶を辿るように呟き、トレーナーさんは再び微笑みました。

 

「落ち着いたかい」

「はい……ありがとうございます」

 

そう答えましたが、私はまだ、トレーナーさんの暖かな熱が名残惜しくて。

ついついきゅっと抱き締め、その胸に頬を寄せてしまいました。

 

「ちょっとカフェ、甘えたすぎじゃないか?」

「こんなことそうそうないでしょうから……どうせなら、もう少しだけ……」

「随分と素直になっちゃって、まぁ……」

 

トレーナーさんが頭を撫でてくれます。それがまた、私の心をぽかぽかと暖めていって。

……なんてことをしているうちに。

 

「っと、体調はどうだ? そろそろ帰らないと、寮の門限だぞ」

「あ……」

 

とっくに陽は落ちていて、いつの間にか夜になっていたようです。

体調も悪くありません。

 

「そうですね……今度こそお暇します」

「ならタクシーを……」

「いえ、大丈夫です。雨も止んでますし、今日は歩いて帰りたいんです」

「こんな時間に女性を一人で帰すのは……」

「ウマ娘をどうこうしようなんて人、いませんよ」

 

布団からゆっくりと立ち上がります。

どうやら体調は回復したようで、ふらつきも倦怠感もありません。トレーナーさんのお陰でしょうか。

 

「うん、足取りもしっかりしてるな。なら、気を付けて帰れよ」

「はい……それでは、また明日」

 

トレーナーさんに頭を下げ、濡れた服を入れた袋を片手に部屋を出ようとします。

すると、後ろから。

 

「あのさ、カフェ」

「はい……?」

「……その、なんだ」

「歯切れが悪いですね……」

「寂しくなったら、いつでもおいで」

「あ……ぅ……」

 

その言葉に、私は返事をできなくて。

顔を真っ赤にして俯き、小さく頷くことしかできませんでした。

 

「それじゃおやすみ、カフェ」

「はい……おやすみなさい、トレーナーさん」

 

心配そうに手を振るトレーナーさんに頭を下げて。

私はトレーナーさんの部屋を後にしました。

 

 

******************

 

 

歩いて帰りたいと言ったのには理由があって。

トレーナーさんの住まいから少し離れた電信柱に、見慣れた影が身体を預けていました。

 

「お待たせ……帰ろっか」

 

そして私をじろりと睨んでくるのは、ずっと一緒に過ごしてきたお友だち。

何だか少しムッとしたような表情をしていました。

何かと思って首を傾げると、私を指さしながら抗議をしてきて。

 

どうやら、自分がいるのに一人ぼっちとは何事か、と腹を立てているようでした。

 

「ごめんね……勿論、アナタだけじゃ足りない、なんてことはないよ」

 

私はお友だちの手を取って。

 

「アナタがいたから、私はここまで頑張れた……トレーナーさんは私を褒めてくれたけど、アナタのお陰なんだよ」

 

そう伝えると、お友だちも段々、満更でもなさそうな表情になってきました。

 

「今日、トレーナーさんと話してね。改めて、アナタにいっぱい助けられてきたんだってことにも気付けたんだ」

 

この子がいなければ、私はきっととっくに心が砕けていて。

様々な怪異に囲まれて怖がっていた私を救ってくれたのは、間違いなくこの子で。

それがなければ私は、孤独を恐れることすら許されていませんでした。

 

「いつも、ありがとう」

 

その言葉を、二人きりのときに伝えたくて。

だから私はタクシーを断り、歩いて帰ることにしたんです。

 

そんな私の意図を察したのか、お友だちは照れくさそうに頬を掻いていました。

 

「さ、帰ろうか」

 

足取りは軽く。お友だちもスキップするかのように隣を歩いています。

 

そこからはお友だちと他愛ない話をしながら、小一時間ほど。

寮へ着いたとき、私の胸は随分と久しぶりに充実していました。

明日が待ち遠しいなんていつ以来でしょうか。

 

けれど、少しの怖さもあります。

 

今日、トレーナーさんから頂いた、沢山の労りと温もり。

それは果たして、明日から先も、これからも触れていいものなのでしょうか。

今日の出来事はたまたまのことで、同情とか遠慮とかそういった類で、日を跨いだら蜉蝣の命のように消えてはしまわないでしょうか。

 

私はこれからも、誰かと繋がって生きていても、いいのでしょうか。

 

夜にありがちな、そんなセンチメンタルな考えに頭が埋まりかけたとき。

クスクスと笑いながら、お友だちが後ろの方をこっそり指さしました。

『ほら、あそこ、こっそり見てご覧』と促され、ちらりと目線を向けると。

 

そこには、曲がり角に隠れながらこちらを心配そうに伺う、トレーナーさんの姿がありました。

 

私は寮の門を潜り、敷地へ足を踏み入れます。

するとトレーナーさんは安心したように息を吐きました。

 

「……アナタ、気付いてたの……?」

 

お友だちに訊ねると、『ずっと心配そうに着いてきてたよ』、とケラケラ笑いました。

 

ウマ娘の腕力があれば、心配なんてされることはないのに。

実際これまで、夜道の心配をされたことなど全くなくて。

けれどトレーナーさんは私のことを心配してくれていて、その気持ちが嬉しくて嬉しくて仕方なくて。

 

この人なら、明日から先も私の手を取って引いてくれる。

そう、信じることができました。

 

「っ……駄目、泣いちゃ……!」

 

私は必死に感情を堪えました。

今泣いてしまったら、トレーナーさんはきっと心配して駆けつけてきてしまいます。

そんなことになっては、私に気を遣って隠れてくれていた意味が、なくなってしまう。

 

「この涙は……取っておくの……」

 

滲む視界を拭って。

トレーナーさんが安心できるように、私は堂々と寮へと歩を進めました。

そんな私を見届けて、トレーナーさんは今来た暗がりへと引き返していきました。

 

 

******************

 

 

そんなことがあったのが、もう何年前のことだったでしょうか。

在りし日のことを思い出しながら私は、雰囲気で選んだのか執事服を着ているお友だちに訊ねました。

 

「お化粧、崩れてないかな」

 

そんな心配にお友だちは、『バッチグー』とハンドサインを返してきました。お友だちのセンスは、時々少し古いです。

 

私は黒いウェディングドレスに身を包み、窓の外を眺めていました。

あの日以前の私を思うと、こんな装いをしているのが、何だか可笑しくて堪らなくて。

ついお友だちのようにクスクスと笑っていると、控室のドアが控えめにノックされました。

 

「どうぞ」

 

ノックに応えると、ドアがゆっくりと開いて。

 

「準備はどうだい、カフェ」

「できてますよ。お友だちからもお墨付きです」

 

現れたのは、元トレーナーさん。

黒いフロックコートに身を包み、少し緊張しているのか、手足がギクシャクしています。

 

「でも改めて見ると、黒のウェディングドレスも綺麗なものだね。カフェはやっぱり黒が映えるな」

「アナタも似合ってます、そのコート」

 

あまり目にする機会が多くはない黒のドレス。

その意味合いは、『アナタ以外には染まらない』。

結論的には白のドレスと同じような意味にはなりますが、私は既に、アナタに染まってしまっていますので。

こんなことを恥ずかしげなく想うようになったのも、あの日あってのことでしょう。

 

「ねぇ、アナタ。今日が何の日か覚えてますか?」

「そういやカフェはずっとこの日に式を挙げるんだ、って言ってたね。大安吉日とかでも何でもないのに」

「……覚えて、ないんですか?」

 

とぼけるような表情と声。その仕草に、私は少しムッとしました。

アナタがそういう態度を取るときは、私を子ども扱いしてからかうとき。

 

「……酷い人。今日の式、取り止めにしましょうか」

「ごめんごめん、冗談だよ」

 

愛しい新郎はそう言って、あの日と同じように笑いました。

 

「きみと初めて触れ合って、心を通わせた日だ」

 

そうですよ。

あの日、私は新しい人生を歩み始めたんです。

 

一人きりの世界で、アナタに見つけてもらえて。

そこから二人で手を取り合って、レースを駆け抜け、何気ない日常を笑い合って。

 

そこにいつからか……。

互いに、アナタが、私がいなければ、胸が切なくなる想いを抱いてしまって。

 

そして、今日。

私たちはここから新しく、二人で手を取り合い、歩んでいくんです。

 

「……大丈夫、カフェ?」

「え?」

「涙……お化粧、落ちちゃうよ」

「あ……」

 

気が付くと、目尻から一滴。

あの夜、アナタが見送ってくれたときに堪えた涙が、遅ればせながらやってきたようでした。

 

「化粧が崩れないように……よし、拭けた」

「ありがとうございます」

 

どうか、いつまでも私の手を握って、離さないでいて。

そんな気持ちで愛しい人を見ると、照れくさそうに顔を赤くしていました。

 

今日、この月と日は、私たちの記念日。

アナタが私を見つけてくれて、私がアナタを見つけた日。

そして今日からはそれに加えて。

私たちが、もう二度と一人ぼっちにしないよ、と誓い合う日。

 

「……そういえば、お友だちは?」

「あれ、いつの間に……さっきまでいたのに……」

「あはは、気を利かせてくれたのかな」

「え?」

 

そう言うと、何がなんだか分かっていなかった私は、顎に手を添えられて。

優しく、唇を奪われました。

 

「……あの、どうせすぐに誓いの……するのに……」

「ごめん、つい我慢できなくて」

 

そんなことを言われたら、私ももう文句は言えません。

その代わり、ちょっとばつの悪そうな愛しい人を、たまには子ども扱いしたくなってしまいました。

 

「くす……一度だけで足りますか……?」

「いや、その……」

「ほら……おいで……?」

 

私はゆっくり立ち上がって、今度は私から静かに口づけを。

 

すると丁度、ドアの外から私たちを呼ぶ声がしました。

顔を真っ赤にして俯く新郎の手を、優しく引いて。

 

「さぁ、一緒に行きましょう」

「うん、一緒にね」

 

二人で手を繋いで、私たちは控室から未来へと踏み出していきました。




マンハッタンカフェがトレーナーと出会い、心を通わせて本当の気持ちに気付くお話です。
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