◇
「ここが
そこは小さな神社。地方に土着する人知らずの社。だが、確かに付近の人々の拠り所となる。
すなわち、人々の
「闇より出て闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
伊地知がそう唱えると、空から黒の幕が降りる。水のようにも、空気のようにも見えるそれが、伊地知のいる境外と、乙骨たちのいる境内とを確と分ける。それはまるで、彼岸と此岸とが分けられるような、薄く、絶対の区切り。それより内は。
「こんぶ」
「うん。頑張ろう!」
呪いの跋扈する闇の世界。現れたのは
「狗巻くんは下がってて。ここは僕が」
「しゃけ」
二人は軽く掌を叩いて、乙骨が一歩前に出る。狗巻が出ないのは、その力を温存するため。
一連の事件。蠅頭が引き起こせる事態ではない。黒幕は他にある。
そして狗巻の呪言にはリスクが存する。使えば使うほど、術者の喉にダメージが蓄積するのだ。強力ゆえに使い所を選ぶ。二人は黒幕に対してそれを放つために、なるべく温存することにしていた。
「……よし」
乙骨は背に背負っていたバットケースから一振りの日本刀を取り出す。それを身体の正面に、地面と水平、横向きに構える。そして。
呪力。それが身体から、腕を通して、刀へ。刀身に燃えるような呪力が灯る。
乙骨は
「ふっ!」
速度を落とすことなく、二太刀で一掃する。
「ツナマヨ」
「ありがと、狗巻くん。何だか最近調子いいんだ。なんでだろ?」
澱みのない呪力。乙骨の呪力操作技術は、交流戦の時と比較しても遥かに上へと昇華している。それには理由があるのだが、五条はまだその理由を教えていない。
「だぁるまあさんがぁ」
「「!!」」
蠅頭を祓った直後、鳥居の向こうから声。ちらりとその姿が覗く。
だるまのような頭身。赤色の部分には大きな黒の斑点模様が。目入れをするはずの部分からは凶々しい角が一本。そして、無いはずの両手両足。いわゆる赤鬼のようなそれらが。
「こおろん」
「! させない!」
「! おかか!」
子供でも解る。この呪霊が何を狙っているのか。その掛け声から推測する。
「だるまさんが転んだ」。子供の遊びとして広く知られているそれ。恐らく掛け声で相手に察知させることは「縛り」。格上であろうと自らの土俵に上げる策。想像通り、いやそれ以上に。
「だぁぁぁぁぁ!」
「っっ!!」
「ツナ!!」
狡猾。言葉を敢えてゆっくりと紡ぐことで相手の動きを誘導。動きを止めていた狗巻はそのままに。
乙骨だけを、自らの「領域」へと引き摺り込んだ。
◇
「やられた……狗巻くん……」
吸い込まれるように呪霊の生得領域へと誘われた乙骨。そこは外の神社と変わりのない風景。だが、明らかに違う点が一つ。
外にいた時、間違いなくまだ昼過ぎだったはず。しかしそこに広がっていたのは夕焼け。カラスの鳴き声。子供に帰るよう促す母親の呼び声。それが聞こえる
「領域……いや、これは術式だ。術式自体に領域が備わってるタイプ」
「おぉにさんこぉちらぁ」
再度姿を現した呪霊。先程とは異なる掛け声。ここは既に相手の土俵。後手をとるのはまずいと、乙骨は仕掛ける。
全身に呪力を漲らせ、地面を踏み締める。すると瞬きの間に呪霊の正面。そのまま刀で一刀両断。
「てぇのなぁるほぉえぇ」
「うええ!?」
したはずだった。刀は確実に呪霊を断ち切るような軌跡を描いていたはず。それが呪霊の手前、地面に叩きつけられた。
「遊びが変わった……何かルールがあるんだ……うーん、里香ちゃんとはこういう遊びあんまりしなかったんだよなぁ……」
不可解な事態でも冷静に対処を考える。この落ち着き様はやはり修羅場を潜ってきたからこそ。
「おにさんこちら……鬼ごっこ……? 僕が鬼ってことかな。あ、さっきだるまさんが転んだで負けたからか」
乙骨の推測は当たっている。この呪霊は知人の遊びを横目に一人孤独でいる子供の妬み嫉みがカタチになったもの。使用する術式は、「遊び」。
始動の「だるまさんが転んだ」で相手を領域に引き摺り込み、続く「鬼ごっこ」でトドメを刺す。
トドメ。この術式の終着は「時間切れ」。遊び相手の帰る時間、すなわち日が沈む時に鬼だったものはこの領域に囚われる。永遠に。
「じゃあ、タッチすればいいんだ!」
遊びのルールは領域内の者全てに適用される。それはこの呪霊自身も例外ではない。
「おにさんこぉちらぁ」
だが、この呪霊は逃げることに特化している。知人から距離をとる子供のように、その手足を用いて颯の如く駆け回る。
鬼となった者は、鬼の役割を降ろされる。鬼が変わるまで、特定の行動以外相手に届かせることはできない。
「黙ってタッチされるわけじゃ、ないよね」
その行動とは、掌での接触。それをもって鬼の交代が発生する。
この呪霊は直接攻撃を好んで行わない。ひたすらに相手を弄び、ギリギリでその手を躱し続ける。こうして徐々に事態を理解していく表情を観察する。
──楽しんでいるのだ。
「てぇのなぁるほぉ」
新たなエモノは呪力を操る。ただし、ズブの素人。呪力を垂れ流すことしか出来ない雑魚。そう考えている。
先の戦いを見ていた。あのやり方では呪力などあっという間に底をつく。強者であれば適切な部位に呪力を流す。この男にはそれすら出来ない。
ならば遊ぼう。ならば弄ぼう。夕暮れの、その先まで。
「え」
「はい、タッチ」
全速力で駆け回った。速度に抜かりは一つもなかった。あの男の身体では追いつけるはずのない速度のはずだった。
それなのに、この男は。
「よし。これで鬼は交代だね。あ、刀もちゃんと振れそう」
乙骨憂太は、息一つ乱さずについていく。
この呪霊には不運があった。
一つ。乙骨の呪力量。確かに常人であれば呪力を垂れ流しにするなど自殺行為。適所に振り分けるのがセオリー。
しかし、乙骨の呪力量は常識を超える。無限の呪力を備えた里香無き今でも、無限と錯覚するほどの呪力。それは、特級術師五条悟を凌駕するほど。
二つ。呪霊の知能。この呪霊は間違いなく狡猾。その知能は特級と称される呪霊と比較しても引けをとらないかもしれない。
それが、仇となった。乙骨という華奢な男の外見を。不器用に見える戦い方を。理解できてしまった。
「おおおにににににに」
「あれ? きみが鬼なのに逃げるの? 間違った……いや」
逃げる。鬼となって追うべき立場になったのに。
逃げる。漸く気づいたその異質さ。乙骨が、纏う呪力のギアをまた一段上げたから。
逃げる。その呪力に当てられて。身を呑み込むようなぬるりとした感触に、得体も知れない恐怖を感じたから。
逃げる。何故ならその先には。
「いやあ! 来ないで!」
この領域に囚われた子供たちがいるから。
領域の効果は、すべての者に適用される。
仮に、それが過去囚えた人間だとしても。
鬼の交代で役割を剥がし、この領域から抜け出す。
勝てない。この男は、自分では。
「鬼さん、こちら」
この呪霊には、不運があった。
前までの乙骨であれば、逃げ切ることも可能だっただろう。しかし、今の乙骨では、不可能。彼は今、呪術師として一段上の
「おにおにおにおにおにおにおに」
三つ。乙骨憂太は。
「手の鳴る方へ」
──黒閃を経験している。
遥か後方、不意を突かれたはずの乙骨は迸る呪力に任せて瞬きの内に呪霊に追い縋る。
そして、一閃。
「ふう……」
ザフッ、という音と共に、呪霊の存在は消え果てた。
「もう大丈夫だよ。さ、帰ろ」
「ひっ……」
普段呪霊を見ることが出来ない者でも生死の境に近づけばそれを感じることがある。
この子供も同様。感じとってしまった。乙骨の呪力を。途端に震え出してしまうが。
『眠れ』
「あ! 狗巻くん! ごめんね、勝手に突っ込んで」
狗巻が呪言で眠らせる。
あの時、彼が動きも、呪言を使いもしなかったことには理由があった。
それは乙骨の今の強さが解っていたから。黒閃を経験してからの彼。その進化を、そして、今回の任務の真意が乙骨の実力測定にあることをそれぞれ理解。敢えて乙骨に任せていたのだ。優しい彼にとっては身を切るような思いだったのだが。
「おかか。しゃけ」
「うん、ありがとう。じゃあ狗巻くんはあっち、僕はこっちで行方不明の子を探そう」
こうして、紆余曲折はあったが任務は完遂された。
◇
「分かって二人を送ったな、悟」
「え? 何のことです、学長?」
任務完了の報告を受け、東京校学長、夜蛾正道が五条に問う。
「とぼけるな。報告を聞く限り、今回の呪霊、一級に分類しても問題ないほど。二人の等級に対して分不相応。何を考えている」
「……学長、ムカつきません? 厄介だから特級。もう問題ないから四級。上層部の掌の上。気に入らないんですよねえ」
「──それだけか?」
五条の口ぶりは、まるで上層部への腹いせのために乙骨たちを使ったように聞こえる。だが、夜蛾は知っている。五条が生徒をそのようにぞんざいに扱う教師ではないことを。
「──知ってます、学長?」
五条の内心にあったのは信頼。教え子たちがあの程度の呪霊に遅れをとることなどあり得ないと。乙骨は、他でもない。
「──
自分の、たった一人の親友を、醒めない夢から救った子だったのだと。
◇
この事件の後のことは、あまり詳細には残されていない。五条が隠していたというのもあるが、あまりに荒唐無稽だったからだ。
──四級術師が一年も経たずに、特級術師になるなど。
そして。
──抑えきれない程の、呪いの渦。それがすぐに迫ってきたから。
これはそれまでの断章。あったかもしれない束の間の一幕。
乙骨憂太が、友人たちと過ごせた数少ない記録の一つ。