前回のレースから数日。例によってしばらくの間、俺は馬なりの調教で調整を行っていた。ここの人たちは馬を馬とも思わないような人畜でなくて本当によかったと思う。
特に脚回りを気にしてくれている。まあかなり脚使ってぶっちぎったから心配されるのも当然か。
馬って言うと、一般的に俺のようなサラブレッドをイメージしがちだが、これはレース用により速く改良を施してきた歪な進化だ。馬という種族全体で見れば競走馬は大きさに対して病的なほど痩せているらしい。
特に脚回りはスピード特化しすぎて、時に「ガラスの脚」と揶揄されるほど脆い。なので競走馬にとって脚の怪我は死活問題だ。
なにせ血液を循環させるためにも、心臓だけでは足りず脚を使うのだ、馬というのは。脚を動かすことでポンプのような役割を果たし、全身に血液が行き届く。
脚が動かないというのは、血液が巡らない、つまりやがて訪れるのは死だ。脚が生命線である馬にとって、脚を酷使する競走馬は文字通り生きるか死ぬか。
故障や怪我をして引退した馬がどうなるかなど想像もしたくない。乗馬になるならまだいいほう、最悪は馬肉かミンチにされて家畜の飼料だ。
進むも地獄、引くも地獄。脚が壊れるか勇退して種牡馬入りかのチキンレースだ。
まあ、未来のことなどどうなるか分からん。俺はただ、レースの一つ一つに真正面から挑んでいくだけ。馬畜生になったことに少しでも意味を持たせたいだけだ。
「おーおー、向こうは大変だな……」
ある日いつものように馬具を付けてもらっていると、近くの馬房が騒がしいことに気付いた。方向からしてオルフェーヴルの坊主の馬房だ。
そういや今日はオルフェと一緒に走るんだっけ? 併せ馬というか、アイツに競馬の手本を見せるような感じになりそうだが。
気になって調教師の兄ちゃんに見に行きたいと、兄ちゃんと騒がしい馬房の方を交互に見て伝える。最近は俺に関してかなり頭がいい馬だという認識が関係者間で浸透しているので、このぐらいのジェスチャーでも伝わることが多い。
「見に行きたいのか? いいけどお前まで騒ぐなよ」
失敬な。よっぽどのことがない限り騒ぎませんよ。俺をなんだと思ってるんですか。馬ですかそうですか。そうです私が変なお馬さんです。
兄ちゃんの言葉に若干ムッとして鼻先で小突く。「いてて、悪い悪い」とそこまで悪びれていない様子で俺の引き綱を持って歩き出した。俺だからいいけど女性にまでそんなこと言ってんじゃないでしょうねあーた。
にしてもアイツ、何を暴れてるんだ?
(やだ! やだー! 行きたくない!)
予想通り騒いでいたのはオルフェーヴルだった。俺の引き綱を引いてきた兄ちゃんとは別の調教師の人が必死に抑えている。
「どうした?」
「コイツ今日は機嫌が悪いみたいで……頭絡着けようとしたら暴れだしたんスよ」
「なるほどな、こりゃー見事な暴れっぷりだ」
どうやら調教に嫌気が差したようだ。怪我させないように暴れてる辺り器用なやっちゃ。
しゃーない。ここは俺が一肌脱ぎますかね。
「あっ、おいウッド! 危ないぞ!」
兄ちゃんの制止を振り切ってオルフェの馬房の前まで近寄る。大丈夫、喧嘩する訳じゃないから。
(オルフェ!)
(へっ? あっ、兄貴!?)
よっぽど調教に行きたくないらしい。必死で暴れていたから俺にも気付かなかったようで、俺が声をかけたら驚いてピタリと動きを止めた。
というか最近は兄貴って呼ばれるんだけど慣れないから勘弁してくれないかな。以前はお兄ちゃんお兄ちゃんって可愛げがあったのに。
「おお? 止まった」
「ウッドが止めたのか?」
(兄貴助けて! 外行きたくない!)
(そんなこと言ったってしょうがないだろ、お前も俺も走るのが仕事なんだから)
(やだよ! まだ外暗いよ!? 熊とか出てきたらどうするのさ!!)
(野山じゃねーんだから出てこねえよ……)
コイツのビビりっぷりも筋金入りだな。
(お前そんなわがまま言ってるともう構ってやんねーぞ?)
(うぐ……それも嫌だ……)
(それにいいのか? あんまり駄々こねてたら)
(こ、こねてたら……?)
(お前最悪ミンチにされて豚の餌だぞ)
(ひぃいい!?)
「いやー助かったぞウッド」
「ブルルッ(おう)」
「ヒィン……(兄貴ひどい……)」
俺の脅しがよほど効いたらしく、その後オルフェはビックリするほど大人しくなって馬具一式を身に付け、俺と一緒にトラックへ歩いていく。
(兄貴の鬼……)
(失礼な)
俺も本当に体調が悪そうだとか、そういうのだったら兄ちゃん達の方を止めてたさ。でも今回はオルフェのワガママだから容赦しません。
「よし、行くか。ウッド、軽く走るぞ」
「ヒヒッ(あいよ)」
まずはウォームアップだ。これは本当に大事。筋肉も準備させないといらん怪我するからね。
(行くぞオルフェ。俺の真似して付いてこい)
(分かった)
いつまでも落ち込む暇なんて与えんぞ。俺と走るからにゃ馬視点からもビシビシしごいてやる。
「その調子だ」
「ブモッ(おう)」
風が気持ちいい。ウッドチップの感触を確かめながら筋肉を温める。
ちら、と後ろを見る。オルフェは…………付いてきているな。
(ヨレてるぞ! まっすぐ走れ!)
(押忍!)
こうしてみると、若駒としてのオルフェーヴルはやはりいい馬だ。粗削りだが、力強い走りをする。
さすが、俺の知っている歴史で三冠を獲った馬だ。ネタ要素も強いけど、それ以上に強い馬だ。俺のような中身人間の馬もどきとは違う。
(鞍上の指示を待つだけじゃ駄目だ! 自分でも考えて走れ!)
(お、押忍!!)
だから、俺の存在意義を少しでも増やす。今はまだダイヤの原石であるオルフェーヴルを、馬の視点からも鍛え上げる。
そうすれば、万が一俺が怪我で走れなくなったとしても、俺が教えたことをオルフェが覚えていてくれるはずだ。
未来の三冠馬に、俺と言う存在を刻み付けたい。
俺が、ウッドストックという馬として生きた意味を、少しでも多く、この世界に。
……ちょっと独り善がりが過ぎるか。反省。
「よし、一杯だ! いくぞ!」
「ヒヒッ! ブルルルッ!(おう! オルフェ、全力だ!)」
「ブモッ!(押忍ッ!!)」
今はまあ、この弟との時間を大事にすごそう。
将来、ライバルになるだろう、この強い弟と共に。勝負もなにも関係なく走った時間を心に刻み付けよう。
(ハハハッ! 楽しいなオルフェ!)
(余裕かよ! 僕もういっぱいいっぱいだよ!)
「今日のオルフェーヴル、すごく大人しかったッスね」
「やっぱウッドストックと居ると素直だよな……」
「……これからも、優先的に併せてくれませんか? 多分あの二頭なら相性もいいし、仮にオルフェが暴れてもウッドが抑えてくれるでしょうし……」
「あー…………まあ、上に掛け合ってみるよ。許可が出るかは分からんが」
ウッドストック流調教術初お披露目です。今後同じようなシーンがあるかは存じ上げません。