雨か。この時期には少し堪えるな。
自分に降り掛かる冷たい雫を浴びながら、これから温まるからちょうど良いかと思い直す。
京成杯からしばらく経った今日。いよいよGⅡ『弥生賞』へ挑む。
来る皐月賞に向けて、ひたすらに身体を鍛えた。弱点だったスタミナとパワーを鍛えるため、坂路とプール調教がメインになった。
それをこなしていくたび、より純粋なスピードへと直結していくのが分かって、楽しくなった。楽しいからもっと調教に身が入り、さらに速くなり……。
結果、自分でも満足いく素晴らしい仕上がりになりましたわ。見てこのパッツンパッツンのハムストリング! ケツから腿にかけてのぶっとさ! 水も滴る艶々の毛並み!! あちこちの牝馬から人間の嬢ちゃんまでキャーキャー黄色い悲鳴が聞こえてくるようだ! 幻聴だけど。
だが手に入れたこの強さと代償に、併せ馬ではより馬体がでかくなった俺に相手が萎縮してしまい、まともに付き合える奴がほぼいなくなってしまった。例外はオルフェとジョーダンぐらい。
そのため、競り合いになった際無意識に掛かってしまう癖は対策しきれなかった。オルフェとジョーダン相手だと余計に力入ってしまうから上手く出来なかったし。
どうも見知った相手というか、仲良くなった奴とだと余計に負けたくない気持ちが出て力んでしまうらしい。自分のことなのにコントロールが効かないっていうのは嫌になってしまうな。
その上初めての雨天レース。纏わりつくような芝の感触に辟易してしまう。いやもうホント馬の立場になって分かったわ、わざわざ雨ん中レースとかしたくねえわ人間鬼か?
どうすんのこれ、一歩踏み出すたびにぬるぐちょの芝の感触が気色悪いし、しかも意外と脚が沈むから引き抜こうとするのも大変だし。こんなコンディション最悪の場所で走れって? マジでふざけんじゃないわよ馬だからって莫迦にしてんじゃないわよ、まあ走れって言われたら走りますけどね仕事ですから。
「寒いなあ」
「ヒィン(せやなあ)」
大変なのは俺ら馬だけじゃないけど。そら騎手だってこんな雨のなか走りたくねえよなあ。どうしたって薄着になっちゃうから、気温も相まってクッソ寒いだろうし。
はやく終わらせて帰ろう。池谷殿も寒さでブルブル震えてるのが鞍越しに伝わってくる。俺の相棒が風邪でも引いたらJRAはどう責任とってくれるのかね。
……ともかく初めての重馬場なわけだが、うん、いつもよりぬるぐちょな芝に脚突っ込んでぬるぐちょな芝から脚引っこ抜かなきゃならんのだ。脚をとられないよう注意していこう。しょーもない怪我するよりは流した方がいい。
さーて、返し馬再開…………ん? あそこにいるのは……。
んん?
んんん!?
『前日から降り続きました冷たい雨。太陽を望む声も空しく、灰色の分厚い雲が中山の芝を重く湿らせます。馬には厳しい重馬場、脚に纏わりつく泥のような芝をどう攻略するか? クラシックレースの前哨戦、狭き門。ここを勝ち抜く馬は一体どの馬か? GⅡ芝2000m『報知杯弥生賞』、13頭立てです』
『今回注目なのはやはりヴィクトワールピサとウッドストックの再戦でしょうか。ピサが前回の雪辱を晴らすのか、それともウッドが無敗記録を更新するのか。注目のレース…………なんですが』
(ピサ~~~~~~!!!!)
(おい……)
(久しぶりじゃねーかピサ!! 会いたかったぜピサ!! 元気だったかピサ!! ちょっと痩せたかピサ!? 飯食ってるかピサ!?)
(おい、ウッド……)
(んほおぉ~~~~ピサの鬣モフモフであったかいナリィ~~~~)
(怒るぞ)
(ごめん)
『え~…………ウッドストックがヴィクトワールピサに……なんでしょうね、勢い良く駆けていったと思ったら激しく馬体を擦り付けていますね』
『久し振りに会って嬉しいんでしょうかね……? ピサの方は若干引いている、ようにも見えますが……』
『あー騎手もこれには双方苦笑いですね。まあ馬同士仲が良いに越したことはないですけども、今回は競争相手、ライバルですからね。レースに影響しないことを祈ります』
いかんいかん、久々にピサと会ったもんだからテンション上がってしまった。落ち着け俺。
(……お前、そんなキャラだったか?)
(いや嬉しくてつい)
(……牡に求愛されたくない)
(失敬だな親愛だよ)
(礼儀ありきだろ……)
む、ピサの言う通りだ。親しき仲にもって言うもんな、確かにこれは俺が悪い。反省。
(……それはそれとして、ウッド)
(ん? おう)
(…………今日はリベンジさせてもらう)
嗚呼、このピサの圧を感じる視線、久々だ。
そうだ、お前はそうでなくちゃな。
無愛想だけどクールな眼。その眼の奥で「勝利」を渇望する炎が燃えている。それでこそお前だ、ピサ。
(かかってこい)
だがタダで勝ちを譲る俺じゃねえ。人間から馬なんて数奇な生まれ方したなあと自分でも思うが、それでも競走馬として半年以上走ってきた。未だに無敗なのも相まってそれなりに勝利への欲求もプライドもある。
弥生賞。クラシック三冠へ向けて、ここでさらに勝ちを重ねておきたい。
お前には負けないぞピサ。
『ベストブルーム、スマートジェネシス揃ってコーナーを回ります。半馬身離れてコスモヘレノス、内にマコトヴォイジャー、そのすぐ後ろにアドマイヤテンクウ。少し開きまして外にヴィクトワールピサ、内にウッドストック、間に挟まれるアースステップちょっと落ち着かないか? ダイワバーバリアンその後ろ、殿でダイワファルコン、ミッションモード、ビッグバンが連なっています』
ううむピサの奴め、外側にピッタリ付いていやがる。俺が大外からぶっちぎるのを牽制して、内に留めとくつもりか?
前は開いていない、というほどでもないが、抜け出すのは容易じゃねえ。
おまけにこの泥もかくやと言った芝が重苦しいこと! 前を走る馬どもが散々に荒らしてくれたせいで走りにくい。うっかり脚を滑らせでもしたら大惨事だ。俺だけじゃなく背中の池谷殿も無事では済まない。
こりゃ厳しいぞ。足元に気を配りつつ抜け出すタイミングを伺わなくてはならん。
池谷殿は……………絞っている手綱を弛める様子はない。まだ仕掛けるつもりはないようだ。
にしたってなあ……このままだと本当に抜け出せなくなるぞ。おまけに……。
(ひえええ! 内も外も怖い! やべーやついて怖い!!)
俺とピサの間に挟まれてるアースステップくんがどうにも落ち着かない様子。
まあこんなガチムチの牡馬二頭に挟まれちゃ焦るのも仕方ないけど、頼むからビビって斜行してぶつかるとかは勘弁してくれよ。パニックになった奴ほど何するか分からないからな。
特に内ラチにいる俺にぶつかられると、池谷殿が弾かれてラチに激突する可能性もある。そうなったら最悪内臓破裂も有り得るぞ。頼むから落ち着いてくれよ。
『さあヴィクトワールピサ動いた! 先頭集団に向かって突き進む! ウッドストックまだ抑えたままだがどこで仕掛けるのか!? 間もなく最終コーナーに向かいます!』
おいおい悠長にしてたらピサが行っちまったぞ。こっちはアースステップくんが邪魔で外側に行けねえってのに。
これもピサ、というか鞍上の作戦か? いや流石にアースくんがこの位置で挟まれていたのは偶然だと思いたいが。
で、どうすんだい池谷殿。このままだと着争いにも入れないぜ?
「…………ここだ」
池谷殿が手綱を弛めたが、同時に内側へ手綱を引っ張った。おいおいこのまま内側から仕掛けるのか!? そんなことしたって前は馬群が…………。
『さあコーナーを回る! 前は変わらずベストブルームとスマートジェネシスが争っている! 三番手は変わってアドマイヤテンクウ、その後ろでマコトヴォイジャーコスモヘレノスの二頭だが! ヴィクトワールピサ上がってくる! ここからぐんぐんと上がってくる仕掛けてきた! 便乗とばかりに後ろへピッタリくっつくアースステップ! ウッドストックは遅れたか!?
いや! 来ている! ウッドストック来ているぞ! なんと他が避けた内ラチ一杯から仕掛けてきた!! 大荒れの田んぼを一頭力強く駆け抜ける!! これがウッドストックの剛脚か!!』
「行け行け行けぇ!!」
「ヒヒッ!(っしゃあ!)」
誰もいない内ラチをひた走る。横で馬も騎手もぎょっとした顔でこっちを見ているのが流れていく。
池谷殿の狙いはこれか。確かにこの雨だ、普段なら必ずと言っていいほど馬が通る最内は、直前までのレースで大荒れ、こんなところに好き好んで突っ込みたがる奴はいないよな。
だがあえて池谷殿はこの道を選んだ。
他の馬なら避けるだろうと。俺なら問題なく走り抜けるだろうと。そう確信を持って作戦を立てたんだ。
言うて俺もこんな道得意じゃないけどね!? 普段より沈むしそのくせ滑るし! 転ばんように落とさんようにって余計に神経使うわ!!
行くけどね!? 行きますよそりゃ池谷殿の指示だし池谷殿が俺なら行けるって信じてくれてんだし! 俺自身勝ちたいから行きますけどね!? こんなとこ突っ込ませるとか命知らずなの池谷殿は!?
でも実際問題わりと走れてるんだよなあこれが! コース空けてくれて感謝だよ他のみんな! おかげで俺はみんなが避けていく道を走る羽目になっちまったぜ笑いたきゃ笑えよ!! ああもう芝じゃなくてもはやダートだよ感触気持ち悪りぃ!! 馬使いの荒い野郎だぜ恨むぞ池谷殿!!
うわどうしよう段々ムカついてきた! なんでわざわざこんな田んぼ走って泥まみれになってんだ俺! 元はと言えばピサが外塞いだせいだなアイツ絶対ぇ許さねえ!!
あっ、いたいた見付けたぞピサ! この野郎涼しい顔して走りやがって!
(よおピサァ!!)
(…………ウッド!?)
(よくも内側に押し込めてくれたなあ!? おかげさまで見ろよこの泥だらけの有り様をよぉ!!)
(いや、それは……)
(言い訳無用!! このレース終わったらこの泥だらけの身体擦り付けてやっから覚悟しとけよ!?)
(やめろ!!!)
あっ、ピサが加速した。流石にこの身体で近付かれるのは本気で嫌らしいな。
いいぜぇ、それならマジで擦り付けに行ってやらぁ! 俺ってばこういう嫌がらせって前世から結構好きなんだよなあ!? 人の嫌がることを進んで実行しますってなぁ!!
『ヴィクトワールピサさらに加速!! ウッドストックも飛び出してさあ最終直線四頭が争う大激戦!! 弥生賞を掴むのはどの馬か!? 残りは400m!!』
(待てやピサァァアアア!!)
(やめろぉぉお!!?)
(なんじゃアイツら!?)
(ふざけた加速しやがる!!)
ああん!? 誰だ失礼なこという奴は! こちとら真剣なんでい!
いいや今は追い抜かした奴等のことなんざどうでもいい! このままピサを恐怖のズンドコ、じゃなかったどん底に陥れてやるぜ!! そらそらもっとスピード上げろォ!!
『ヴィクトワールピサ粘る粘る凄まじいスピード!! 重馬場であることを忘れてしまいそうな勢いで直線を駆ける!! その後ろからウッドストックも猛追!! ウッドストック猛追!! 荒れた芝を更に抉り飛ばしてグングンと加速!! 恐ろしいパワー!! その差は二馬身から一馬身へ!! あっという間に並んだ二頭最後の叩き合い!! 容赦ない扱きと鞭!! 残り200m!!』
(ピーサーくううん!! 一緒に泥んこ遊びしましょおおおおお!!!)
(ふざけんなやめろ莫迦!!!)
『ピサか!? ウッドか!? 大武か池谷か!? 後ろは三頭が迫るがもはや追い付けない!! 大激戦!! 大激戦だ!! 互いに譲らない!!
いや!? 抜けた!! 抜けた抜けた抜けたウッドが抜けた!! ピサを躱してウッドが抜けた!! 池谷が先頭を奪った!! 弥生賞を制したのは!! ウッドストックだあああ!!』
っしゃおらあああああ!!?
あー危なかった!! マジで危なかった!! ギリッギリで差し切れたわ!!
途中でピサが失速しなかったらワンチャン負けてたわ! 八つ当たり気味に嫌がらせしたけど意外と効力あったな!
「っし!」
おーおー池谷殿もガッツポーズ決めちゃって! 泥まみれなのに笑顔が爽やかですこと、これがイケメンのみに許された笑顔ですか!
あーしかしなんというか、やっぱりついつい掛かってしまうのはどうにも治らんなあ。これ本当にどうにかしたいな。
(ウッド…………)
(あっ)
(お前よくもやってくれたな……)
やっべ、散々嫌がらせしたせいでピサくんがちょっとお怒りだ。作戦とはいえ八つ当たりしたのが不味かったかな。
(ごめんピサ)
(許さん)
(許してお願い)
(許さん)
『おっと、ウッドストックとヴィクトワールピサが……なんでしょう、なにやら喧嘩でしょうか?』
『相当競り合いましたからねえ、お互いに思うところがあるんでしょうか。それにしては勝ったウッドの方が謝っているようにも見えるのは気のせいでしょうか……?』
(ピサくんホントお願い次は真面目に勝負するから許して)
(許さん)
(お願い人参お裾分けするから)
(許さん)
(お願いだってばよお~この通りだからさあ~)
(うわっ、やめろ擦り付けるな泥を!!)
(許してくれるまでベットリ擦り付けるぞお~)
(わ、分かった分かった! 許すから! マジでやめろ!!)
(ホントに!? わーいピサしゅきい~~!!!)
(ぎゃああ!? 余計に擦り付けてるじゃねえかやめろ莫迦野郎!!!)
(ぴしゃ~~~!!!)
(やめろおおおお!!!)
『仲直りしたんですかね、ウッドがまたピサに身体を擦り付けていますね』
『というよりもピサに泥を擦り付けてますね、あの嫌がりっぷりから見てもそうでしょう』
『あー双方騎手も笑っていますね。観客席からも笑いが聞こえてきます』
『いやー面白いですねえ、ウッドストックという馬は。次はどんな姿を見せてくれるのか楽しみですね』
(んほおお~~~~ピサの身体ホッカホカであったかいナリィィ~~~~)
(助けてえええ!!)
こいつ回が進む毎に知能指数低下してないか?