彼方ちゃんが好きって君が言うから付き合ったんだよ? 作:裏面が下駄
彼方さんと別れて、一週間が経った。学校での彼方さんとの距離感が、未だによく分からない。
廊下ですれ違えば、
「おはよう、凪くん」
彼方さんは、以前と変わらない笑顔で声をかけてくる。
「……おはようございます」
俺もそう返す。ただ、それだけだった。以前なら、そのまま少し話をしたり、一緒に教室まで歩いたりしていた。今は違う。俺たちはもう恋人じゃない。だからといって、完全に他人になったわけでもない。彼方さんが「友達でいてほしい」と言ったから、俺もそれを受け入れた。でも、別れたばかりの俺には、今までのように接することなんてできなかった。それでも彼方さんは、いつも通りだった。
「じゃあね、凪くん」
そう言って笑う彼方さんを見送るたび、胸の奥が少し痛んだ。
別れを選んだのは俺だ。だから、彼方さんと別れたことを後悔しているわけじゃない。
あのまま束縛され続けていたら、いつか本当に彼方さんのことを嫌いになっていたと思う。だから、あれでよかったんだ。
別れて以降、同好会以外の友達とも話すようになった。放課後に誰かと遊ぶこともできるようになった。何をするにも彼方さんに報告しなければならなかった頃と比べると、ずいぶん気持ちが楽になった。
そんな中、以前より一緒にいる時間が増えたのが、しずくだった。彼方さんと付き合っていた頃は、彼方さんの決め事もあって、しずくと二人で過ごすことはほとんどなかった。別れてからは、それが少しずつ戻っていった。昼休みに一緒にご飯を食べたり。帰り道にくだらない話をしたり。たまに、いつものファミレスへ寄ったり。特別なことをしているわけじゃない。ただ、昔と同じように過ごしているだけだった。それなのに、不思議と心が落ち着いた。
「ねえ、凪くん」
「ん?」
「最近、ちょっと元気になったよね」
「そうかな?」
「うん。前よりよく笑うようになった」
しずくは笑った。
その笑顔を見ていると、俺も自然と笑ってしまう。
「しずくのおかげかもな」
「……え?」
「いや、なんでもない」
「な、なによそれ!」
しずくが顔を赤くしながら、俺の肩を叩いてくる。そんなやり取りが、妙に心地よかった。
彼方さんと別れてから3ヶ月ほど経った頃。
俺は、自分の気持ちに気づき始めていた。しずくと一緒にいると、胸が温かくなる。もっと一緒にいたい。明日も話したい。そんな気持ちが、日に日に強くなっていた。
ある日の帰り道。いつものように二人で歩いていると、しずくが突然立ち止まった。
「凪くん」
「……ちょっと、話があるんだけど」
いつもと違う真剣な表情だった。
「どうしたの?」
「……私ね」
しずくは一度、深呼吸した。
「凪くんのこと、好きなんだと思う」
「……」
一瞬、言葉が出なかった。
「彼方先輩と別れたばっかりだし、こんなこと言うの迷惑かなって思った。でも……言わないままだと、絶対後悔すると思って」
しずくは顔を真っ赤にしていた。
「だから……ごめん。今すぐ答えなくてもいいから」
俺はしばらく黙っていた。でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ――嬉しかった。
「……俺も、しずくのことが好き」
そう答えていた。
「……え?」
しずくは目を丸くしたあと、耳まで真っ赤になった。
「……本当に?」
「本当」
「……そっか」
しずくは俯きながら、小さく笑った。
「……よかった」
それから俺たちは付き合い始めた。
一緒に登校して。昼休みには屋上で話して。放課後には寄り道をした。付き合う前と大きく関係性は変わってはいないが、しずくのことをより愛しく思えた。彼方さんと付き合っていた頃とは違う。何かを報告しなければいけないわけでもない。何をするか決められているわけでもない。ただ、一緒にいたいから一緒にいる。それだけだった。
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彼方side
凪くんとしずくちゃんが付き合い始めたことを知った時、私の気持ちはどこか落ち着いていた。いずれそうなるのだろうと思っていた。
ただ、いつものように笑っていた。
「そっかぁ。凪くん、しずくちゃんと付き合ったんだねぇ」
それだけだった。
自室で一人になった私は、ベッドに腰掛けながらスマートフォンを見つめていた。
凪くんの連絡先。以前なら毎日のように届いていたメッセージも、今はほとんど来ない。
私はスマートフォンを伏せた。友達に戻る。そう約束した。だから、今は何もできない。
――まだ。
けれど。
「しずくちゃんだけは……」
小さく呟いた。あの日の会話が頭から離れない。
『それだったら彼方さんと別れるしかないよね』
あの言葉。そして、凪くんがしずくちゃんと付き合ったという事実。やっぱり、あの子は凪くんを奪おうとしていた。
私はスマートフォンを手に取り、しずくちゃんの連絡先を開く。メッセージを打とうとして――やめた。
「まだ、早いよね」
今ここで動けば、凪くんに警戒される。だから、もう少しだけ待つんだ。
それから1ヶ月。
凪くんとしずくちゃんが一緒にいる姿を、何度も見かけた。
登校する二人。昼休みに話す二人。放課後、一緒に帰る二人。そのたびに、私は笑顔を浮かべた。「仲良しだねぇ」
でも、その笑顔の奥には、少しずつ黒いものが溜まっていった。
そして――ある日の放課後。
同好会の活動が終わり、部室にはしずくちゃん一人が残っていた。私は、忘れ物をしたふりをして部室へ戻った。
「あれ? しずくちゃん、まだいたんだ〜」
「彼方先輩……どうかされましたか?」
「うん。ちょっと忘れ物しちゃってねぇ」
私は何気ない様子で、しずくちゃんの隣に座った。
「ねえ、しずくちゃん」
「はい!なんでしょう?」
私は柔らかく笑った。
「凪くんのこと、好きなんだよね?」
しずくちゃんの手が止まった。
「……何が言いたいんですか」
「隠さなくていいよ。彼方ちゃん、全部分かってるから」
しずくちゃんは何も答えなかった。私は鞄の中から、一通の封筒を取り出した。
「ちょっとお願いがあるんだ」
しずくちゃんが封筒を見る。
「……それは?」
「しずくちゃんのお父さんの横領のこと」
しずくちゃんの顔から血の気が引いた。
「……なんで、それを……」
「彼方ちゃんのお父さん、色んな会社と繋がりがあるから」
私は封筒をテーブルに置いた。
「しずくちゃんのお父さん、4年前に職場で横領の疑いをかけられてたよね。結局うやむやになったみたいだけど。」
「……」
「これを今のお父さんの職場に送ったら、どうなるかなぁ」
しずくちゃんの顔から、さらに血の気が引いていく。
「……お父さんは関係ないじゃないですか」
「うん。そうだよね」
私は笑った。
「だから、しずくちゃんがお願いを聞いてくれれば、彼方ちゃんもこんなもの使わなくて済むんだよ」
「……何が目的ですか」
私は静かに答えた。
「凪くんと別れて」
しずくちゃんの拳が震える。
「……嫌です」
「凪くんを傷つけるようなことは、絶対に言いません」
「そっかぁ、ならお父さんの件を話していいんだね?お父さん、明日にはお仕事無くなっちゃうかもねぇ?」
そう言うと、しずくちゃんの肩が小さく震えた。
さっきまで私を睨んでいた目が、ゆっくりと伏せられていく。
「……っ」
何か言おうとしている。
でも、言葉が出てこないみたい。
握りしめた拳だけが、膝の上で震えていた。
「どうしたの?」
わざと優しく聞いてみる。
しずくちゃんはしばらくして顔を上げた。その目には、怒りと悔しさが浮かんでいた。
「……分かりました。絶対に誰にも言わないでください」
その声は、今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。
「もちろん」
私は笑って答える。私は笑顔のまま、封筒を鞄に戻した。
しずくちゃんは何も言わない。
「でもね」
私は少しだけ声を落とした。
「もう一つだけ、お願いがあるんだ」
「凪くんが、もう二度としずくちゃんを信じられなくなるくらいの言葉を言ってほしいの」
「……そんな……」
「凪くんは優しいから、理由が分からなかったら、きっとしずくちゃんを待ち続けちゃうでしょ?」
私は、鞄から一つのイヤホンを取り出ししずくちゃんに渡した。
「はい、これ」
「……これは?」
「凪くんと話している間、彼方ちゃんが指示するから」
しずくちゃんの顔が強張る。
「……そこまでしないといけないんですか」
「うん」
笑顔のまま答える。
「しずくちゃんが余計なことを言ってしまったら困るからねぇ」
一歩近づいて耳元で囁く。
「だから、彼方ちゃんが手伝ってあげる」
「……」
しずくちゃんはこちらを睨みながら唇を強く噛みしめているだけだった。
――ファミレスにて。
私は少し離れた場所から、しずくちゃんがファミレスへ入っていくのを見届けた。
私が渡したイヤホンを、ちゃんとしずくちゃんは耳につけている。そして私のイヤホンの向こうから、しずくちゃんと凪くんの声が聞こえてくる。
「……来てたんだ」
「……いきなり呼び出してどうしたの?話って何?」
凪くんがしずくちゃんに尋ねる。
しずくちゃんは黙っている。緊張しているんだろう。
当然だよね。これから、自分の好きな人を自分の言葉で傷つけなきゃいけないんだから。私はスマートフォンを操作しながら、静かに指示を出した。
『今から言うこと、そのまま言って』
しばらくして、しずくちゃんの声が聞こえた。
「……凪くん」
「なに?」
「私たち、別れよ」
その瞬間、凪くんの声が止まった。
「……え?」
私は思わず笑みを浮かべる。やっぱり。凪くんは、何も知らない。しずくちゃんが自分から離れるなんて、考えてもいなかったんだろう。
「なんで……?」
凪くんの声が震えている。私はイヤホン越しに、しずくちゃんへ指示を出した。
しずくちゃんが唇を噛みしめる気配が伝わってくる。
「……凪くんって、ほんと鈍いよね」
凪くんが戸惑う。
「え……?」
「私が凪くんのこと好きだと思ってた?」
声は震えている。でも、ちゃんと言えている。
「最初から、好きじゃなかった」
私は静かに画面を見つめる。凪くんは、きっと今頃ひどく傷ついている。
でも、まだ足りない。
『笑って』
しずくちゃんが無理に笑う。
「……全部、演技」
「演技……?」
「うん」
「私、もともと凪くんにそんな興味なかったんだよ」
少しの沈黙。私はそのまま続けるよう指示した。
「ただ、彼方先輩と別れて、凪くんが一人で落ち込んでて……」
しずくちゃんの声が止まる。
『続けて』
「……かわいそうで、惨めだったから」
凪くんが何かを返す。
「……惨め?」
「そう。だから、ちょっと揶揄ってみようかなって」
私は口元を緩めた。
「凪くんのことが好きな女の子のふりをしたら、どんな反応するんだろうって思ったの」
その言葉のあと、しばらく凪くんの声が聞こえなかった。きっと、何も言えなくなっている。私はさらに指示を出す。
「でも、思ったより簡単だった」
しずくちゃんが続ける。
「告白したら付き合ってくれたし。凪くんって、本当に単純だよね」
『もっと』
しずくちゃんの声が震える。それでも、私は止めない。
「正直、付き合ってからも楽しくなかった」
「凪くんと一緒にいても、特別嬉しくないし。話しててもつまらないし」
しずくちゃんの声が少しずつ苦しそうになっていく。それでも、もう少し。
もう少しだけ壊せばいい。
すると、凪くんの声が聞こえた。
「……俺は……」
一度、言葉が途切れる。
「…俺は、本当にしずくのことが好きだった」
私は目を細めた。
……そう。それでいい。凪くんには、しずくちゃんのことを完全に諦めてもらわないといけない。
私は最後の指示を出す。
『これを伝えて最後だよ?しずくちゃん』
しずくちゃんが目を閉じたのが分かった。
私は静かに見守る。
「凪くんみたいな人を、本気で好きになる人なんていないよ」
凪くんから声が返ってこない。
「彼方先輩を振ってまで、私を選んだんでしょ?」
「……」
「なのに、私に捨てられるなんて……本当に可哀想だね」
「これで分かったでしょ?凪くんは、誰にも必要とされないんだよ」
私は小さく息を吐いた。これで終わり。
しずくちゃんが鞄を持って立ち上がる。凪くんが、何かを言う。
「……しずく」
「…さよなら」
しずくちゃんは、そのまま店を出た。目には涙が溜まっているように見えた。
私は少しだけ時間を置いた。
すぐに入ってしまったら、不自然だから。スマートフォンを鞄にしまい、ファミレスの扉を開ける。
「あれ……?」
私は、凪くんのいる席へ近づいた。
「あっ、凪くん?」
偶然を装って声をかける。
「こんなところで会うなんて、偶然だねぇ」
凪くんが、ゆっくりと顔を上げる。その顔を見た瞬間、胸が高鳴った。目に光がない。いつもの凪くんじゃない。完全に打ちのめされている。
……うん。これなら大丈夫。
私はいつものように、ふわっと笑った。
「どうしたの? そんな顔してぇ」
凪くんは答えない。私は少し首を傾げる。
「何かあったのかな?」
それでも、凪くんは俯いたままだった。
私はそんな凪くんの様子を見つめたあと、自然な動作で隣の席に腰を下ろした。
「彼方ちゃんでよければ、話聞くよ?」
凪くんは何も言わない。ただ、俯いたまま動かなかった。私は少しだけ凪くんとの距離を縮める。
そして――
そっと、凪くんの頭に手を置いた。
「……よしよし」
優しく、ゆっくりと頭を撫でる。以前と同じように。何も変わっていないように。
「大丈夫だよぉ、凪くん」
凪くんは顔を上げない。私はそのまま、頭を撫で続ける。
「そんなに辛そうな顔しなくても大丈夫だからねぇ」
「……彼方さん」
小さな声が返ってくる。私は嬉しくなって、さらに優しく頭を撫でた。
「うん?」
「……俺……」
凪くんの声が途切れる。私は急かさない。
「うんうん。ゆっくりでいいよぉ」
「……」
「無理して話さなくてもいいからね」
そう言って、私は微笑む。
「今日は、彼方ちゃんがここにいるから」
凪くんの肩が、ほんの少し震えた。
(あぁ……)
(やっと戻ってきてくれた)
以前と同じ。凪くんが弱った時には、私がそばにいる。凪くんが苦しい時には、私が慰めてあげる。
それでいい。それが、私たちだったから。
(これで、もう誰も凪くんを奪えない)
しずくちゃんはいなくなった。もう、邪魔をする人はいない。私は凪くんの髪を優しく撫でながら、いつもの笑顔を浮かべる。
「大丈夫だよ、凪くん」
「彼方ちゃんが、ずっとそばにいるからねぇ」
凪くんは何も答えなかった。ただ、私の隣で俯いている。私はそんな凪くんを見つめながら、静かに微笑んだ。そして、もう一度だけ。優しく頭を撫でる。
(おかえり、凪くん)
(今度こそ――)
(ずっと彼方ちゃんのものだよ)