悲恋、恋心。綴った手紙は切ない。

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悲恋です。


稲穂神の回顧録

決して忘れられない。心に積もった雪のように。溶けることの無い愛。

 

…ふと、寒さ和らいできたこの季節になると思い出します。

なんということもありません。わたしを変えてしまった、過去の話です。その記憶と決別したい、というわけでも忘れたいわけでもありません。

ただ、覚えていたいからこうやって語るのです。

……始まりは、そうです。1人の少年と出会った時でした。

私は、そのころ諸事情あってたった1人で暮らしていました。慎ましく、穏やかに。

小さな家の縁側に腰をかけ、木を見て、風を聞いて、命の音を感じて。

そうした生活を何年も何年も続けて、代わり映えのしない1日を送る。たまに人が尋ねてはきますが、私とは接触せずに食べ物やら何やらを置いて帰る。

そんな生活が、当たり前でした。ずっとそうしていたのです。

しかし、"彼"は違いました。いつかは覚えていませんが、桜の木が満開になった頃に来たのでしょうか。私の住処へ1人で来たのがきっかけでした。

庭に置いてある石に腰掛けて、ぼーっとしていた彼になんとなく興味をひかれて話しかけたのです。

 

─────どうかしましたか?ここに来るなんて珍しいですね。

 

私からしてみれば、気まぐれの一遇でしかなかったのですが、彼は驚いていましたね。

びっくりして石から落ちて怪我をしてしまったのにはこちらも慌てたものです。

急に話しかけたわたしが悪いので、彼を家の中に招いて手当をしてあげました。軟膏くらいしかありませんでしたが、物珍しかったのかこれが何かと問われて教えたりもしました。

普段は絆創膏なるものを使うので、知らなかったとも教えてもらいました。

名前を聞きました。[文字が掠れて読めない]と言うようでした。

名前を問われました。その問いに私は、生憎答えられなかったのです。

なぜかと言えば、親から名前を貰っていなかったからです。そもそも、私に親という存在がいるかどうかも怪しいのですが、私はここに1人で住んでいたので特別そのことを意識したことがなかった、ということになりましょうか。

そのことを彼に伝えると、少し考えてから「よし、ではおれが名前をつけてあげよう」などと言い出したのです。

特に断る理由も無かったので、お願いしました。

彼は私に『稲穂』と名付けてくださいました。私の髪の毛から想像したと、言っていました。

私の髪は金のような色をしていますから、稲穂といえばうってつけでございましょう。

その日から、私は『稲穂』となったのです。

 

それから、私は彼に何故ここに来たのかと尋ねました。

私の住処は山の中にあるので、あまり村の人も寄り付かない場所です。特別用事でもなければそうなのですから、普通なら彼が来るはずもないと考えるのはおかしい事でもないでしょう。

問えば、やはり少し考えてから「勘だ、なにか誘われるようにここに来たのだ」と言います。

勘でここに来るとは物好きですね、と言えば彼は「物好きも悪くないだろう、お前のような別嬪と会えたのだ。僥倖僥倖」と笑っていました。

詳しく話を聞けば、彼は病であると話も聞きました。体が弱く、人の多い街ではすぐに体を壊してしまうから、私の住処にほど近い村に療養に来たのだと言います。

私は慌てました。そのような身なら出歩かないでいた方がよいのではないか。そう思ったのです。

彼にそれを伝えるとやはり、彼は笑って「なあに、この村に来てから体が軽いのだ。おれが多少出歩いても息切れせんのが証拠だな。見ろ、顔色も悪くはあるまい」などと顔を近づけて言うものですから、私は顔を赤くして頷くより他にはありませんでした。

彼は顔が良いのです。少年とはいえ、端正な顔立ちであることがよくわかります。大人になれば、一端の美男子になるでしょう。

その彼が、私が混乱しているとおもむろに私の手を取って言いました。

 

「おれは暇だ。体の調子がいいとはいえ、家に篭って寝ているだけでは休まるものも休まらん。どうだ、ここは一つしばらくお前の所に遊びに来てみたい。ここに通うと体力も付くだろう。お前もただぼんやりとここで座っているだけではもったいない」

 

私はびっくりしました。そのような事を言う人など初めてだったからです。私は、意思表示が苦手です。なので、その問いにもただ頷いて「は、はい」などと生娘のような、蚊の鳴くような、そんな弱々しい声で返すよりほかにありませんでした。

ただ、その彼の頼みに不思議と心が暖まって、嫌な気持ちがしなかったことはおぼえております。

 

そこから、彼の通う毎日が始まりました。村から住処まではそれなりに時間がかかるはずなのですが、彼は毎日通ってきました。

彼は私の知らない話をしてくれました。彼が元いた街は夜も光が灯っているのだとか、煉瓦作りの洒落た建物が建っているのだとかそういう話です。東京、と呼ばれていましたか。よく覚えていませんが、そのような名前であったはずです。

驚いたことに、馬や牛が引かなくとも走ることのできる乗り物もあるのだという話も聞いたものです。私が見たことあるものと言えば、そのような動物が引く乗り物でしたから、新鮮な気持ちでした。

そのような話を聞いて一息吐けば、大抵はそのまま住処のあるところから近い山に遊びに行くことがしばしばでした。

そこには川がありましたし、豊かな植物…柿やなにかが自生していましたから遊ぶにはもってこいでした。お腹が空けばその植物の果実を食べることも出来ました。

2人で水遊びをしたり、野山を駆けてみたり、野草の見分け方などを教えてみたりしました。

彼はそうしているうちに、みるみる体調が良くなっていきました。

山の空気が良かったのか、それとも自然の中で遊び回って体が鍛えられたのか。ともかく彼は以前のようにちょっとしたことで身を崩しがちであるというような体ではなくなっていったのです。

ある日、それを指摘してみたのですが彼はふーむと考えてからやはり笑顔で「やはり、稲穂と遊んでいるからだろうな。お前がいるとなぜだがおれの体は調子がいい。山の食べ物も美味い。気遣いとはいえ、1人で冷めた夕餉を食うより何倍もいい。お前と川遊びをして汗を流すのも楽しい。おれが生きているこの瞬間がおれにとって全ていい物なのだろう」と言いました。

その質問をする頃には彼と出会って2年ほど経とうとしていましたから、少年から大人に差し掛かる時分になっておりました。元々端正な顔であった彼は鍛えられてさらに美男子具合に磨きが掛かっておりましたので、私はやはり顔を赤くして頷くことしかできませんでした。

 

そうして過ごしたある日、私は彼から夏祭りに誘われました。彼は私に「お前と祭りに行きたいのだが」と言うのです。

とはいえ、私は普段ここから出ません。彼が来れば話は別でしたが、それに夏祭りという晴れの日に着ていくような着物もありません。

そういう次第でしたから、私は断りました。私などよりも彼と夏祭りに行きたいだろう女は多いでしょう。事実彼に好意を寄せる女は多かったようです。

しかし彼は首を振り、「そうかと思ってお前に似合うだろう着物を仕立てておいたのだ。諦めろ稲穂。おれはお前と行くと決めたのだ。誰にも邪魔などさせんよ」と言いました。

そう迄されてしまっては、私に断る術も理屈もございません。

ただ、ほんのりと胸が暖かかったことをよく覚えております。

 

夏祭りでは、彼と回りました。村の中心では大きな山車が燦然と姿を置いており、威容を放っておりました。

なんでも、山に住む神に感謝する豊穣のお祭りなのだとか。

彼は「ははは、神とかこつけて騒ぎたい村の衆の晴れの日だ。酒も飲めるし美味いものも食べられる」と笑っていました。

祭りが終わると、彼と私は私の住処へと戻りました。

彼はそっと私の手に手を重ね、「実は、おれの家の事情で東京に戻らねばならなくなった。稲穂、すまない」と伝えてきました。

私は、それに対してなんと答えたでしょうか。ああ、とかそうですか、とか言ったような気がします。

彼は続けて、「必ず戻る。その時は俺と夫婦になってほしい」とも言いました。

はっきりと、その事だけは覚えております。私は「あまり待たせないでくださいね」と返したのですから。

そうして、私は彼の頬に接吻をしました。初めて私から彼にしてあげたことです。彼は頬に手を当て、「やられたな」とだけ呟き、笑いました。

その夜は、月明かりが綺麗でした。影が一つ、月に照らされていたのではないでしょうか。

夫婦の契りとは、そういうものですから。

 

そうして彼は旅立ったのですが、彼がいない日々はまるで空虚ながらんどうのようでした。

元に戻っただけだというのに、その元は何も響かない、悲しいだけの日々でした。

その次の春は、桜の木の下で私は1人で佇むことになりました。なんとまあ、悲しいことでしょうか。誰もそばにいてはくれないのですから。

ですが、その中でも唯一癒しといえば手紙が届くことでした。

彼から私に、週に1度手紙が届くのです。それがとても心を温めてくれました。内容はといえば新聞に掲載されている小説が面白いとか、最近外国が騒がしいから心配だとか、そういう話です。

そうして、週に1度の手紙で私は私を慰める毎日でした。

それから、数年経ったでしょうか。

彼は戻ってきてくれました。私の住処へとその足で歩いてきてくれました。彼は見違えるように美男子の中の美男子となっておりました。軍人さんになったという彼に、その装いはピッタリであるように見えました。帰ってくるために憲兵さんに転属したというのですが、詳しいことはわかりませんが、とても似合っていました。

彼は出会い頭に私に接吻をすると「お前のいない東京は、寂しく、たまらなくつまらなかった。ただいま、稲穂。俺は我が妻の元へ戻って参りました。迎え入れてくれるか?」と聞くのです。

嗚呼、私に夫を迎え入れない非情な妻の熨斗を着けるつもりですか。と手を取った私の声は涙声であった、と彼に教えていただいた時ははしたない所を見せてしまったと思いました。

 

彼のせいです。私が弱くなったのは。

彼のせいです。私が寂しがり屋になったのは。彼のせいです。私が人肌恋しくて泣くようになったのは。

彼のせいです。私が───人になったのは。

 

彼のおかげです。私の心が豊かになったのは。

彼のおかげです。私が素直になったのは。

彼のおかげです。笑顔で彼の隣で歩けるようになったのは。

彼のおかげです。私が───人になれたのは。

 

どうしてこう。涙が止まらないのでしょうか。なぜ私は思い返して、泣いてしまうのでしょうか。これを弱さだと思いたくはないのです。

 

………それから、彼は私と睦まじく暮らしました。

山のふもとに屋敷を立てて、私と共にそこへ移り住みました。

毎日が色彩豊かになったのです。朝起きれば、彼の───旦那様の腕に抱かれて起き、昼は共に花を見て木を見て、お茶を飲む。夜は大きな腕に抱かれて共に床に入る。

その日その日、毎日が私にとって幸せでした。旦那様も私をかき抱いては幸せそうに笑うのですから、不満も何も無い時間でした。

そうこうしているうちに、私は子どもを授かりました。

玉のような、かわいらしい子を3人。男子1人に女子2人。

親もおらず、人の世の何も知らない私にとっては初めての経験でした。

子を産み育てると言った、当たり前の営みすら『知らなかった』私にとっては試練そのものであったかもしれません。

それでも、赤子をあやし、おしめを替え、乳をあげる時間全てに旦那様は助力をくださいました。

後ほど知った話によると、旦那様のような熱心な男は稀珍しく、そうはいないというのですから、私は恵まれているのでしょう。

 

そうして、数年が経ち、十数年が経ち、私の国は戦争に入りました。

そうなると、旦那様も元の配属に戻され、戦うことになります。

子どもは既に成長し、立派に旅立ちました。旦那様が居なければ私はまた独りになってしまいます。

しかし、涙を飲んで見送ることにしました。私は、旦那様の妻なのですから。

あの人の生還を願うのが、人らしくある心でしょうか。

その夜は酒を一献飲み、いつもより深く、愛し合いました。

離れる寂しさを埋めるように、深く、深く。

 

翌朝、旅立っていった旦那様の背を見ながら私にできることは、ただ無事を願って泣くことだけでした。

以前のように、頻繁に手紙が届くことはありません。内地ではなく、戦場へ行くのですから。

とはいえ、半年に一度くらいは届きます。その手紙を心待ちに私は再び耐える日々に入りました。

そうして1年、2年と過ぎて行きます。近況、数ヶ月分の話を記したお手紙を受け取り、読み、涙を流して無事を祈る。

それだけが私にできることでしたから、せざるを得ません。

そうして、ある日届いた手紙を見て、涙をまた私は流すことになりました。

 

『稲穂へ

 

俺は今、遥か祖国の南にいる。外地はまるで地獄変のように厳しく、米英共の攻勢は日に日に激しくなるばかり。

既に我らは、前線から退却して第二線を引いて防衛を行わなければならぬ程に追い詰められている。

嗚呼、我が愛しき細君よ。妻よ。どうか必ず帰ると誓いながら遠い異国で果てることになるだろう俺を許して欲しい。

君を守るために、国のために武器を取ったことは間違いではないと信ずる。

しかし、その果てに君を泣かせてしまうならそれは過ちて過ちざる行為である。だから、すまない。

我が肉体は滅びようと、魂は必ず君の元へ帰ろうではないか。

待っててくれ。今幾千の思いを抱いて君を想う。

 

届かざる 月夜の稲穂 思ふれば 抱きし願いは 夢をとぞ思ふ

 

君を泣かせてしまうこと。夫として恥ずかしく思う。すまない

 

犬養 白人 』

 

嗚呼、運命とはなぜ、こうして悲惨なことになるのでしょうか。

畳の上で看取ることも叶わず、死後の引き会いに縋らねば心も保てない。

辛く、悲しく、痛い。張り裂けんとする身のみが涙と化して手紙にぽたり、ぽたりと落ちるのです。

そうして、また数年、待つ日に戻りました。

手紙はそれっきり届かないと知らないまま。私はそうして、永久の別離と相成ってしまう事に気づかないままでした。

否や、目を逸らしていたのかも知れません。見たくないものから目を逸らして騙し続けていたのかもしれません。

 

そうして、その騙しが掻き消えてしまったのは、旦那様の戦死報告が届いてからでした。

たった1枚の紙切れが、骨壺の中に遺骨代わりに入っているだけのそれ。

うつつでしょうか、夢なのでしょうか。

それすらもわからないまま、私はその壺を抱いて幾月も虚ろな目でただそこに在るだけでした。

 

私は、1年ほどそうしていましたでしょうか。にわかに気配を感じとりました。

忘れもしない、旦那様の気配です。

ただ、魂だけが、帰ってきたのです。

ああ、ああ。戻ってきてくれた。帰ってきてくれた。

これでもう────二度と離れない。離さない。

誰にも渡さない、私の旦那様。

そうして、私は今もこうしているのです。

ええ、私の隣に。あの人は、いるのですから。

何も悲しいことは無いのですよ。

 

辛く悲しく、痛いあの日に─────さようなら。




短いなぁと思う次第です。

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