バレンタイン前日、窮地に陥った彼女は決断を迫られる――
2月、それはトレセン学園がにわかに騒がしくなる時期。
G1開幕戦にあたるフェブラリーステークスに出走するダートウマ娘たちは最終調整に余念がないし、クラシックタイトルを目指して春のステップレースに挑戦するウマ娘たちの緊張感も高まってくる時期である。
しかし彼女たち最大の関心事はレースは当然ながら2月14日、バレンタインデーである。
「味見のし過ぎで体重が増えてしまった」とか「相手に渡すかどうか悩んで寝不足気味になった」など、ウマ娘だけでなくコンディションやモチベーションを管理する立場である俺達トレーナーもなにかとピリつくのが2月の前半だった。
「うん、いい時計だ!」
坂路のゴールラインで彼女を待っていた俺はストップウォッチのボタンを押してこれまでの記録と比べる。
前回よりもコンマ4秒短縮。来月の阪神障害ステークスに向けてグレイテンペストは順調にトレーニングを重ねていた。
障害オープン勝ちまでは過酷なローテを強いる羽目になったが、ここまでの6戦3勝二着3回は完璧と言って良い。
初障害から数えても連対率100%は驚異的な数字だ。
「はっ、はっ……戻りました」
グレイスはダクを踏んで呼吸を徐々に落ち着けながら俺のもとに戻ってきた。
「タイムはどうですか?」
「コンマ2秒短縮、頑張ったな!」
クリップボードに挟んだ記録用紙のタイムは微妙に増減しながらも少しずつ早くなっていた。
腕時計を見るとコースの利用枠の終了時間が近い。今日はここまでにしておこう。
「クールダウンが終わったら上がってくれ」
「うー……」
「いつもより多めに唸ってるね? バレンタイン何作るか決まった?」
お風呂を上がって部屋に戻った私が画面とにらめっこしていると、ローマン先輩に肩を叩かれた。
「2番グレイテンペスト、トレーナーに渡すお菓子が決まらない様子」
「ローマン先輩、茶化さないでください」
振り返ると実況風に大げさにそう言ったローマン先輩がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
私は「料理苦手でもおすすめ! 簡単バレンタインレシピ7選」のページを閉じて机の上にスマホを置いた。
「定番だけどチョコは温度管理がシビアだからね~、焼き菓子とか良いんじゃない?」
「焼き菓子……タルトとかですか?」
「クッキーなんかも割と簡単だよ。でもせっかくだから『一緒に食べませんか?』って誘えるやつだといいかもね?」
「一緒に……」
トレーナー室で手作りのお菓子を一緒に食べる。そんな光景を思い浮かべた私は慌ててその妄想を頭から追い出す。
「いや、やっぱりできません!」
尻尾と耳が動きそうになるのを慌てて隠そうとするが、ローマン先輩のほうが早かった。
「この耳が! この耳が白々しくそれを言うか!」
ローマン先輩に耳を掴まれ、私はそれを振り払おうともがく。
「ちょっ、先輩やめてください! はにゃっ! 耳に息吹きかけるの禁止です!」
「でもトレーナーに普段の感謝の気持ちを伝えるのにはいい機会でしょ?」
ようやく解放された私にローマン先輩が優しく声をかける。
「まぁ、あの人に替わってから障害走るようになって3回もセンター取れたけど……」
「けど?」
「障害練習のたびに怪我はないかって脚触ってくるし月曜日はだいたい寝癖ついてるしそのくせ妙なときだけ鋭いし……」
トレーナーの気になるところを列挙していくと文句を言ってるのか褒めているのか自分でもわからなくなってきた。
「あーはいはいご馳走様、まったく素直じゃないなぁ。じゃあ質問するよ。レイちゃんはトレーナーにお菓子あげたいの?」
「あげたいです」
「せっかく作ったんだから一緒に食べるよね?」
「食べたい……です」
ローマン先輩の狙う方向に追い込まれている気がする。
「レイちゃんの好物は?」
「りんご……」
「はい決定! りんごブラウニー!」
ローマン先輩はタブレットで「りんご バレンタイン」と検索した画面の最初のページを私に突きつけた。
「うーん……」
今週は課目をダートに切り替えてグレイテンペストの宿題になっている勝負どころでの瞬発力をもう少し伸ばすつもりだったのだが、結果は今ひとつだ。
というより、日毎にタイムが微妙に悪化している。それを自覚してなのか、グレイス自身も浮かない表情をしている。
もうすぐ次のレースまで一ヶ月を切る。できる限り彼女の心配事や体調面での不安要素は取り除いてやりたいが、俺の予感があたっている場合こっちから動くのは悪手だ。
「グレイス、少し飛越をやるか」
「え? でも……」
「グレイスが飛んでる姿が見たくなった」
「トレーナーの趣味じゃないですか!」
「でも、気分転換にはなるだろ?」
障害飛越は踏み切りのタイミングやバランスの維持など考えることが多い。
練習のことだけを考えてもらうにはこれが一番だ。
「わかりました、ちょっと飛んできます」
今日は障害コースの使用予定はなかったから、そのままメニューを変えてもよそに迷惑はかからないはずだ。
バレンタイン前日、オーブンの中から出てきたのは黒鹿毛のブラウニーだった。
「うぅ」
「レイちゃん……」
「もうお嫁に行けません」
「ブラウニーに人生賭けないでよレイちゃん!」
何回も試作を重ねて、よりによって本番でタイマーを10分長くかけてしまった。
「ちょっと焦げ目はついちゃってるけどイケるって」
ブラウニーを検分したローマン先輩はそう励ましてくれた。
「でも……」
これではせっかく用意した勝負服とおそろいの水色の包装紙も、赤いリボンも無駄になってしまう。
「いいレイちゃん? こういうのはね、気持ちが大事なの」
「だからってこんな失敗作渡せないです!」
消灯まであと30分。今からでは作り直しも間に合わない。
「わかった。レイちゃんデッサヌのアップルパイ好きだったよね?」
「……え?」
デッサヌは立川にあるアップルパイの名店だ。初めて平地で勝利したお祝いにローマン先輩にご馳走になって以来は私のお気に入りでもある。
「明日の授業が終わったら私が立川まですっ飛んで買ってくるから、レイちゃんはどっちを渡すか決めて」
「でも先輩にそんな事させられないです!」
「美味しいものを渡したいのか、素直な気持ちを渡すのか。それはレイちゃんが決めることだよ」
凛としたローマン先輩の言葉に思わず私は気圧される。
「……ずるいです、そんなの」
「とにかくここはあと20分で片付けないとフジ寮長に怒られるよ!」
ローマン先輩に急かされ、私達は大慌てで消灯までにキッチンの後片付けを終えてベッドに潜り込んだ。
バレンタイン当日、案の定トレセン学園はどこもかしこも甘ったるい香りが充満していた。
トレーナーを探して鋭く目を光らせて小走りで駆けていくウマ娘もいれば、もらった大量のお菓子を抱えていくスターウマ娘もいる。
七色に発光しているトレーナーもいれば台車が必要そうな巨大な包みを抱えたウマ娘もいる。
いつも以上に混沌とした学園内を抜けてトレーナー室に戻ると、ドアの前でグレイテンペストが待っていた。
「グレイス?」
「トレーナー!」
そのあとの言葉が続かず、しばし沈黙が俺と彼女の間に横たわる。
思い出したように鞄から包みを出したグレイテンペストは俺にそれを押し付けるように渡す。
「いつもお世話になってるので!」
渡された包みには彼女の勝負服と同じ水色の包装紙に赤いリボンがかけられていた。
「グレイスの勝負服と同じ色だね」
思わずそうこぼすと彼女の頬にも赤いリボンがかかった。
「その……ちょっとウェルダンかもしれないですけど……」
「もしかして、最近調子悪かったのはこのせい?」
「……はい」
消え入りそうな声でグレイスは頷いた。
「バレンタインの時期だし、初めての重賞も近いし聞きづらかったんだ、ごめんな」
「トレーナーのいじわる……」
焦げ目の苦味が甘めに味付けされたりんごとちょうどよくバランスした美味しいブラウニーをグレイテンペストと分け合って、俺たちの2月14日は終わった。
寮に戻ってことの顛末を伝えると、トウカイローマン先輩は満足げに頷き、
「……かくして二人の絆は深まったのであった~」
とわざとらしいナレーション風に付け加えた。
「もうローマン先輩!」
デッサヌのアップルパイを美味しそうに頬張るローマン先輩に私は消灯まで突っつかれる羽目になった。