出走を取り消した東京大障害の出バ表発表の日、彼女は退院を迎える。
私の退院は、皮肉にも東京大障害の出バ表発表の日だった。
「MRIの結果も脚に異常はなかったのでトレーニングやレースには問題ありません、擦り傷のほうは軟膏を毎日2回塗ってください」
「内服薬とかは?」
「化膿もしていませんし、ぶつけたところに痛みが出るようなら鎮痛剤と湿布で様子を見てください」
私の隣に座ったトレーナーは主治医の先生の話に安心した様子で頷く。
「私からは以上です」
「グレイス、なにか聞いておくことあるか?」
「私はないです。先生、お世話になりました」
トレーナーと一緒に頭を下げ、私たちは面談用の小部屋をあとにした。
「俺は先に会計いってくるから、グレイスは荷物をまとめてロビーで待っててくれ」
「わかりました」
私は一旦トレーナーと別れて病室に戻った。
ベッドに荷物をまとめ、使い捨てのアメニティ類をゴミ箱に放り込む。
「あら、グレイテンペストさん。今日退院でしたね、お大事にどうぞ」
「ありがとうございます」
エレベーターで一緒になった担当の看護師さんにお礼を言って一階で降りる。
ドアが開くと、ちょうど会計窓口から戻ってきたトレーナーが私に手を振った。
「荷物持つぞ」
「でも」
「いいからいいから」
トレーナーは私の荷物を持って歩きだす。
玄関の自動ドアが開くと、冷たい風が私の耳を揺らした。
客待ちをしていたタクシーにトレーナーが合図する。
運転席から出てきた初老のドライバーにトレーナーが荷物を預ける。
「グレイス、先に乗っててて」
背後でトランクが閉じると、私の隣にトレーナーが腰を下ろす。
「トレセン学園でよろしいですか?」
「ええ、正門でお願いします」
「43号車、トレセン学園。どうぞ」
「了解」
ドライバーが事務所に無線連絡をいれ、タクシーが雨の中へ走り出す。
「グレイス、今日はゆっくり休んで明日の午後トレーナー室に来てくれ」
「……はい」
栗東寮の部屋のドアには私の名前の下に知らない名前があった。
ローマン先輩の名前のあった上段に私が繰り上がり、下段には「ディスタントスター」と書かれたネームプレートがあった。
ノックしてドアを開けると、机にむかっていた栗毛のウマ娘が私に顔を向けた。
「グレイテンペストさん……ですよね?」
「ディスタントスターさん?」
真新しいジャージ姿のディスタントスターは固さの残るお辞儀をして顔をあげる。
「はい、長かったら好きに呼んでください、これからよろしくお願いします!」
「私の名前も長いから、好きに呼んでね。スターさん」
「グレイテンペスト先輩はトレーナーさんから何て呼ばれてるんですか?」
「秘密。スターさんがデビューしたら教えてあげる」
「えーっ! それじゃメイクデビューのある夏までわからないじゃないですか!」
栗毛の後輩の相手をしているうちに、その日の消灯時間はやって来た。
翌日、3時を過ぎてもトレーナー室のドアはノックされなかった。
「出ないか……」
俺は「ただいま電話に出ることができません」とお決まりの自動音声を流す携帯をデスクの上に置くとため息をついた。
グレイテンペストが時間に遅れることはこれまで一度もなかった。
こういう時頼れそうなトウカイローマンは引退済み、学園中を探し回ろうかとため息をつきながら窓の外に目を向けた俺は、たった一人で練習コースを走るウマ娘の姿を見つけた。
「あのバカ!」
ジャケットを羽織ってトレーナー室を飛び出す。
「何もこんな日に走らなくてもいいのに」
「トレーナーもスパルタだよね」
雑談をするウマ娘たちの横を通り過ぎ、俺は練習コースに出た。
降り続く雨で沼地のようになったダートコースを芦毛のウマ娘が黙々と走っている。
ジャージの裾は泥で真っ茶色に汚れ、尻尾も栗毛と間違えるほどに染まっている。
だが担当の目印である芦毛と真ん中の黒く残った髪を間違えるはずがない。
「グレイスーッ、止まれっ!」
第4コーナーを抜けようとするウマ娘に向かって叫ぶ。
両手を広げて止まるよう合図するが、返事も止まるそぶりもない。
グレイテンペストは最後のハロン棒の横を通りすぎた。駆歩だとしてもあと15秒ほどで俺のところに来る。
「止まれ!」
グレイスはわずかに顔を背ける。
「止まれってんだよっ!」
だめ押しで腹の底から声を上げて叫んでようやく彼女の耳が動き、脚の動きが緩やかになる。
が、不良という表現を通り越した足場のせいで減速が間に合わない。
「きゃあっ!」
グレイスの行き足は止まらず、ぬるりと滑った彼女が俺に突っ込んでくる。
「うおっとぉ!」
衝撃で一瞬だけ、呼吸がとまった。
「グレイス、大丈夫か?」
なんとか踏みとどまって二人仲良く泥まみれにならずにすんだ。
「なんで避けなかったんですか? 全力で走るウマ娘の前に飛び出すなんて自殺行為ですよ!?」
「グレイスがこれ以上無茶をするよりずっといい」
俺の言葉になにか言い返そうとしたグレイスはばつの悪そうな顔を浮かべて口をつぐんだ
「とにかく戻るぞ!」
放課後からずっと走っていたとしてもおよそ2時間。これ以上体を冷やすのはまずい。
今度は低体温症で入院なんて御免だ。彼女の冷えきった手を引いてトレーナー室に向かった。
「とにかく全部脱げ、今ストーブつけるから」
「はい……」
俺はグレイスにそう指示すると暖房の温度を最大に設定して棚から粗品やノベルティのタオルを引っ張り出して彼女に渡す。
「これでよし」
俺はソファーの前でジャージを脱いで体を拭くグレイスにファンヒーターを向けて電源をいれる。
「あの、トレーナー……あっち向いてて」
さっき自分が言ったことを思い出し、俺は部屋の隅で壁に向かい合う。
「ん……しょ……」
濡れた体操服を脱ごうと格闘するグレイテンペストの声と脱いだ服が床に落ちる湿った音がやけに大きく部屋に響く。
余計なことを考えないように壁に入ったひび割れの本数を数える。
ーー誰かに見られたら色々と不味い状況である。
「ねぇトレーナー……」
「終わったか?」
「なにか着るもの、ある?」
「ロッカーに俺の礼服がいれてあるからとりあえずそれを着てくれ」
過去の自分のファインプレーに感謝して俺は胸を撫で下ろした。
「もう大丈夫です」
俺のワイシャツを羽織ったグレイスは肩にかけたタオルで髪に残った水気を吸わせていた。
これはこれでかなり問題があるような気がする。
「担当トレーナーとして、二つ言っておくことがある」
彼女だって何を言われるか分かっているはずだ。
「ひとつ、連絡なしにいなくなるな。ふたつ、雨の中ダートを走るな。せめてニューポリにしろ」
「え、あの……」
こっぴどく叱られることを予想して怯えていた彼女の耳がくるくると回る。
「悔しくてどうしようもなくてあんなことしたんだろ?」
俺の指摘が図星らしくグレイスは小さくうなずいた。
「私がもっと速く走れていたら、あんなことにならなかったんです。あと半バ身前にいたら……」
「もういいんだ、グレイス。模擬レースだから戦績には響かない」
「ごめんなさい、トレーナー」
素直に謝ったグレイスの目に偽りはない。俺はようやく本題を切り出した。
「よしいい子だ。昨日の話覚えてるか?」
「はい」
URAのレーシングカレンダーを持ってきてグレイスの目の前に広げた。
「まず来週まではグレイスの回復に充てる、トレーニングは後半から負荷をあげていく」
今は4月7日だから、本格始動は再来週からだ。
「じゃあ今月はもうレースにはでないってことですか?」
「次の目標は5月の京都大障害・春だ。本当は秋まで待つつもりだったがこの際ぶっつけで行くしかない」
「春もあるのに秋まで様子見するつもりだったんですか?」
「距離やコースは問題ない、一番厄介なのが障害なんだ。大生垣はともかく……」
京都大障害コースの「アレ」はウマ娘によっては飛越拒否や大失速にもつながりかねない厄介な代物だ。
「なにかあるんですか?」
「京都名物のバンケット障害『三段跳び』だ」
「さんだん……とび?」
グレイスは不思議そうに首をかしげた。