「よし、そこまで!」
予定通りのメニューを消化したグレイテンペストに声をかけ、タオルを手渡す。
「お疲れ様グレイス、今日はここまでにしよう」
プールから上がったグレイスがタオルで髪を拭う。
「はい、ありがとうございます」
グレイスはタオルを肩にかけたまま俺に一礼した。
プール主体のトレーニングも今日が最後だ。明日からはいよいよコースに出て三段跳びの練習を始める。
春の京都大障害まであと2週間、ここからが正念場だ。
「トレーナー、ちょっとお願いが」
「ん、どうした?」
「着替えたらフガクオーさんの本の続き、読みに行ってもいいですか?」
「あぁ、いいぞ。俺はちょっとコースを見て戻るから鍵開けといてくれ」
グレイスにトレーナー室の鍵を渡す。
「じゃあまた後で!」
更衣室に向かうグレイスの足取りは軽い。
「うーん」
一般の男性諸兄なら水着姿のウマ娘たちの尻に目が行ってしまうのだろうが、俺はもう少し下が気がかりだった。
――少し太い? いや、気のせいか。
ほんの僅かに浮かんだ疑問を振り払い、俺はプールを出て練習コースへ向かう。
練習する他のウマ娘やトレーナーの邪魔にならないよう10分ほど歩くと障害練習用のコースに着いた。
「ゲンさーん、お疲れさんです!」
「へい冨岡さん、本物そっくりに仕上がりましたよ」
声をかけると、刈り機を片付けていたコース整備担当のゲンさんが手を止めて俺を振り返った。
「ゲンさん、いつもありがとうございます」
「こりゃどうも」
差し入れの缶コーヒーを渡し、きれいに整備された三段跳びに登って確かめる。
芝の丈も実物とほぼ同じで凹凸や石もない。
「三段跳びは今と秋くらいしか使いませんからねぇ。阪神を勝った芦毛の子ですか? たしか名前は……」
「グレイテンペスト、可愛いやつですよ」
翌日から練習用障害でグレイスの特訓が始まった。
確認の意味を込めて飛ばせた練習コースの直線3本はどれも文句なしの飛越。
しかし、はじめて挑戦させた三段跳びは違った。
「くっ……」
8回目の挑戦、着地でよろけたグレイスは悔しそうに耳を絞った。
「さっきよりは良くなってる。少し休んでからもう一度やろう」
無理に回数をやるよりは落ち着かせてから感覚をつかんでほしい。
「……はい」
浮かない表情でグレイスがプロテクターの面ファスナーを剥がすと、肘の絆創膏がめくれた。
「焦らなくていい、京都の大障害に挑むウマ娘はみんなこれに苦労してるんだ。右腕ちょっと見せてみろ」
「お願いします」
救急ポーチから新しい絆創膏と消毒綿を取り出し、古い絆創膏を貼りかえる。
少し滲みたのか、グレイスが身じろぎする。
今度は剥がれないよう、防水フィルムとサージカルテープで絆創膏の回りを保護する。
「これでよし」
「トレーナー、コウハクさんも、これをやったんですよね?」
使った道具をポーチに戻していると、グレイスが訊ねてきた。
「オウバコウハクは一昨年の秋・春だったな……多分、同じように練習してたと思う」
去年グレイスと一緒に観に行った中山大障害で競走を中止したあのウマ娘も京都大障害を連覇している。
「ちょっとスマホ見ていい?」
「ん? いいぞ」
グレイスから預かっていた彼女のスマホを渡す。
ロックを解除し、なにか検索欄に打ち込んだグレイスは真剣な表情で横向きにした画面に見入っている。
「ふん、ふんふんふんふん、ふん……?」
首を動かしてリズムを取るグレイスの背後から覗き込むと、京都大障害コースを走るウマ娘の姿があった。
画面の上側には「京都大障害(春) オウバコウハク」と表示されている。
「トレーナー、もう一回やらせてください!」
押し付けるようにスマホを俺に渡すと、グレイスは駆け出す。
「あ、コラ! プロテクター!」
そのまま距離を取ると、グレイスは三段跳びめがけて加速を始める。
タンッ、タッタッタッタッ、タンッ!
きっちり4完歩で障害の上段を使い切って着地したグレイスは少し走ってから俺のところに戻ってきた。
「トレーナー! いま私……やりました!」
「フォームもタイミングもさっきより格段にいい、今のを忘れるな……あと、プロテクターも」
俺は目を輝かせて尻尾をブンブンと振るグレイスに釘を刺した。
「はいっ!」
小雨のなか、京都の空にファンファーレが響いた。
「京都レース場、第9競走は京都大障害(春)、障害の芝3270メートル。12人のウマ娘が挑みます」
私は軽く足踏みしてもう一度バ場の感覚を確かめる。
前の阪神より足元はいいけれど、帰ってくる頃には全身ずぶ濡れの泥まみれは確実。
勝負服のジャケットは既に雨を吸って水色より青に近い色に変わっている。
「現在の一番人気は阪神障害ステークスを制したグレイテンペスト。果たして連勝となるでしょうか?」
感謝祭でのあんな失態を見ても、ファンの皆は再び私を信じてくれた。
「2番人気には秋に優勝経験のあるスコリアイーデン、3番人気には愛嬌抜群アイアンハートが続いています」
係員に促されてゲートの中に身体を収める。
「態勢完了っ!」
開いたゲートの金網から飛び散った水しぶきを浴びながらコースへ飛び出す。
「内グレイテンペスト好スタート!」
スタートを決めた私の前に生垣が迫ってくる。
「最初の生垣踏み切って飛越!」
最初の生垣を跳んだだけで下半身もびしょ濡れになった。
「ワースウチも出てまいりましたがこれらをかわしてスコリアイーデン先頭。リードは2バ身から3バ身」
トレーナーとの予想通り、スコリアイーデンが押し出してハナを奪いにいった。他にも何人かのウマ娘が先頭に立とうと上がっていく。
少し外よりで追走する私の外を回って他のウマ娘が前方のバ群に食いついていく。
「グレイテンペストは4番手集団、少し抑えています」
一周目の向正面。分岐を右に折れて私たちは内回りの大障害コースへ入る。
「各ウマ娘はこれから大障害コースへ入ります。大竹柵をスコリアイーデン先頭でいま飛越!」
湿っているおかげで竹柵はいつもより痛くなかった。
私の感覚があっていればペースは少し遅いくらいのはず。早く仕掛けないと前残りになる。
34コーナー中間の生垣を飛び越え、ホームストレッチに入る。
「スタンド前最初の障害は大生垣。高さ160センチ、幅2メートルの大生垣がウマ娘を待ち受けます!」
未勝利やオープン戦の生垣より大きな大生垣はほとんど壁のように見える。
「中団から後方まで無事飛越!」
スカートの裾が少し引っかかったけど、スピードは緩めない。
「続いて幅3メートル80センチの大水濠! スコリアイーデン先頭リード半馬身で飛越!」
セオリー通り低く、遠くへ。
「水しぶきは上がりません!」
着地で減速したりヨレるウマ娘はいるけど、大きく崩れるウマ娘はいない。
「さぁこれから跳び上がり飛び降り台、大障害名物です!」
コースの一部がせり上がったような三段跳びが近づいてくる。
トレーナーに褒めてもらったあのリズムを思い出す。
ーー今っ!
「スコリアイーデン先頭1,2,3,4完歩目うまい飛越。後方も続々と飛越!」
2周目の向正面に入って前はあと5人、先頭までは8バ身。
この先は何度も走ったオープンや未勝利と同じコース。
「グレイテンペストあがってまいりました。ブリーズグライダーの外から並んできた!」
ーー届くはず。違う、絶対に届かせる!
「うぐっ……」
私は着地時にうめいて下がったブリーズグライダーをかわして前に出た。
「4番手にグレイテンペストあがってきた! 先頭までは5バ身!」
垂れてくるワースウチを避け、スパートを掛ける。
「34コーナー中間の最後の障害です! 前は3人固まった状態で踏み切って飛越!」
「外からグレイテンペスト現在2番手! 内アイアンハートは3番手!」
手を伸ばせば届く距離までスコリアイーデンの赤い勝負服が近づいた。
湿ったダートコースを踏みしめ、彼女に並ぶ。
ーー今日は逃さない!
「第4コーナーを抜けて最終直線! スコリアイーデン! 外からはグレイテンペスト!」
「グレイテンペストわずかに先頭!」
スタンドの歓声が大きくなる。
「グレイテンペスト、リードは半バ身! 楽な手応え200を切った!」
後ろからもう一人、追ってくる足音が聞こえるがまだ差がある。
ゴール板まであと少し、両隣には誰もいない。
「グレイテンペスト3連勝で京都大障害を制覇! 人気に応えました!」
「やった……!」
トレーナーや応援してくれたファンの皆によく見えるよう、私は高く拳を突き上げた。
「二着は接戦となりましたがこれはどうやら外のアイアンハートが優勢に見えます。掲示板は2番10番4番の着順で点滅しています」
背後に殺気を感じた私はちらりと後ろを振り向く。
「……ふん」
唇を噛み締めていたスコリアイーデンがぷいと顔を背けた。
「えっ、わたし2着だったんですか!? わーっ! やったやったー!」
対称的にぴょんぴょん飛び跳ねながら全身で喜んでいるのは2着に食い込んだアイアンハートさん。
「今度はグレイちゃん捕まえられると思ったんだけどなぁ」
最後に背後から迫っていたもう一人の足音はこの子だった。
左耳の耳飾りを弄りながら私に右手を差し伸べた。
「いいライブにしようね!」
「うん」
アイアンハートさんとお互いの健闘を讃える握手をして、私はトレーナーの待つ控室へと戻った。