波乱に満ちた夏が始まろうとしていた。
トレーナー室のテレビには芦毛のウマ娘が大写しになっている。
勝負服の赤い差し色が青々としたターフに映える。
「タマモクロスが来た! タマモクロスが来た!」
好位につけて抜け出しを図った「マイルの帝王」アキツテイオーを並ぶ間もなく抜き去ると、阪神レース場のスタンドからわき上がる歓声が中継にも入ってくる。
「タマモクロスが先頭! リードは1バ身半! 二番手アキツテイオー、三番手にベルクート!」
後方に控えていたもう一人の芦毛のウマ娘も末脚を繰り出して猛追してくるがこれは届きそうにない。
「タマモクロスが抜け出しました。天皇賞(春)に続いて連勝でG1制覇!」
実況の熱の籠った叫びとともに大きくガッツポーズをするタマモクロスの姿が映された。
画面の左上のテロップも「芦毛の稲妻G1連勝、タマモクロスがグランプリ制覇」に変わる。
「芦毛の稲妻かぁ、いいなぁ」
俺の隣で食い入るようにレースに見入っていたグレイテンペストはため息をついてソファーに背中を預けた。
「グレイスだって、この前雑誌に載ってたじゃないか」
京都大障害(春)の快勝から1ヶ月あまり。今月発行のURAの月刊誌の「今月のレース回顧」にグレイスの記事が載った。
「だって、あれもタマモクロスさんのおまけみたいな書かれ方だったし」
不満そうにグレイスは頬を膨らませた。
「だいたい『今年の芦毛は激走傾向!?』って見出しひどくないですか?」
年々薄れているとはいえ、まだまだこの業界はゲン担ぎにジンクス果ては謎の因習とも言われるようなものが残っている。
「やっぱりこう、長いこと走らないと言われてきたからなぁ、芦毛は」
ぶんと唸りをあげたグレイスの尻尾が俺の肩を打った。
「いてっ」
「連対率100パーセントですけど」
「悪かった。それじゃ今日は早く戻って明日からに備えないとな」
夏合宿に出発する前の最後の打ち合わせのはずが、うっかりテレビ中継をつけたせいでずいぶんと長引いてしまった。
今年もトレセン学園恒例の夏の風物詩、夏合宿の時期がやって来る。
青い空、白い砂浜。そして真っ黒な冗談めいたサイズの重機用タイヤ。
「ふんっ、んぬぬぬぬぬぬぬっ!」
その巨大タイヤに結ばれたロープをグレイスが顔を真っ赤にして引っ張る。
「いいぞグレイス! その調子だ!」
ぴんと張ったロープが軋む。
「んぎぎぎぎぎぎぎ……」
砂浜に跡を残しながら巨大なタイヤが動き始める。
「すげー」
「やっぱウマ娘って強いんだな」
近くで見物していた観光客が思い思いの感想を漏らしながら見守ったり携帯を向けたりしている。
「すみません、撮影データをアップする際はガイドラインに沿ってお願いしますね」
興味本意で撮っているであろう若者グループに注意しながら俺はグレイスに並んで歩く。
「あの子タマモクロスじゃない!?」
「その割りには体格がいいぞ」
「ぬううううんっ!」
グレイスはうなり声をあげながら砂を掻く。
「わぁ、加速した」
「根性あるな~」
根性というか、今の加速は恐らく彼女の地雷を見物人達が的確に踏み抜いたせいだ。
目標のポールまであと数メートル。
「ぁたしは……ぐれい……テンペストぉ……」
陽炎をたたせながらグレイスの牽くタイヤの後端が目標のポールを超えた。
「お疲れさま、よくがんばった!」
グレイスは押し黙ったまま、腰のロープをほどいていく。
ひとしきり拍手を送った見物人達が散っていくと、グレイスは砂浜に拳を叩きつけた。
「今日で3回目ですよ!」
肩を震わせて拳を握りしめるグレイスの指の隙間から砂がこぼれる。
平地のウマ娘、しかもよりによって今をときめく同じ芦毛のタマモクロスと間違えられたことが相当悔しかったのだろう。
「グレイス、火傷するから立つんだ」
「うぅ……」
手を引いてグレイスを立ち上がらせる。
「ほら、これで冷やして少し休もう」
クーラーボックスから凍らせた麦茶のボトルを出してグレイスに手渡すと、
ひったくるようにそれを受け取った彼女は喉を鳴らしてそれを一気に飲みほした。
「富岡さーん、次タイヤお借りしていいですか?」
「どうぞー、うちはちょっと休ませます」
他のトレーナーとウマ娘にタイヤを渡し、俺はグレイテンペストと並んで休憩スペースに腰を下ろす。
潮風がいまだに不機嫌そうに水平線を睨み付ける芦毛の髪を揺らす。
「グレイス、そんなおっかない顔してると勝利の女神が逃げるぞ」
「……そんなにひどい顔してます?」
「二日酔いで出勤した俺みたいな顔してる」
今にも吐きそうな苦悶の顔を浮かべる俺にグレイスが吹き出す。
「ちょっとトレーナー!」
「よしよし、グレイスは笑ってる方がいい。美人なんだから」
グレイスの耳がぴんとこっちを向いた。
「勝ちまくって、他の芦毛が『平地のグレイテンペスト』って呼ばれるくらいになればいい」
「言うのは簡単ですけど……」
「グレイスならできるって信じてる」
「ほんと、トレーナーってずるい」
尻尾を大きく振ったグレイスは照れ隠しに麦茶を開けて一気に飲み干す。
ーー炎天下で彼女を応援しているうちにすっかりぬるくなった俺の飲みかけを。
「グレイス、それ俺の麦茶……」
「んぐっ!? げほっ、けほっ……」
むせこんだグレイスの背中をさする。
「大丈夫か?」
そのあとしばらく、グレイスは俺と顔を合わせてくれなかった。
その日の夜。
「はぁ……」
宿舎の大浴場に顎まで浸かった私は大きくため息をついた。
「どしたん芦毛ちゃん? そんな隅っこで深刻な顔して」
声の主は京都大障害で一緒に走ったキョウワソルジャーさんだ。
「ちょっとトレーナーと……」
「喧嘩でもした?」
ざぶんと湯船に体を沈めたキョウワソルジャーさんの立てた波が浴槽の縁に当たって砕ける。
「そうじゃなくて……」
私は小声で今日の休憩中に起きた出来事をかいつまんで伝える。
「へぇ……そりゃ青春だねぇ……はいはい、ノロケご馳走さまでした」
最初は頷いていたキョウワソルジャーさんの口元がどんどん緩んでいった。
「ほんとに気まずかったんです!」
「ふふ、くくくっ……芦毛ちゃん乙女だなぁ」
私の反応がツボにはまったのか、キョウワソルジャーさんは肩を震わせて笑った。
「むぅ……」
「じゃあそんな芦毛ちゃんに先輩からとっておきの情報を教えちゃおう」
「情報?」
首をかしげる私にキョウワソルジャーさんが続ける。
「芦毛ちゃん今年は行けるんでしょ? お祭り」
夏合宿の後半にある近くの夏祭りは、去年は台風で中止。その前の一昨年は条件戦に出るために北海道に行っていたから私は今年始めて参加できるかもしれない。
「毎年最後に花火やるってのは知ってるよね」
「はい」
「あの花火が終わる前にキスしたカップルは幸せになれるんだって」
「そんなまさか」
「ちなみにそれでゴールインした先輩が二人いまーす」
私がトレセン学園に入る前からトゥインクルシリーズを駆け抜けた先輩が言うと真実味がある。
「えっいやそういうのは……ダメっていうか……まだ……」
「んー? わたしは別に芦毛ちゃんのトレーナーの事とは言ってないけど?」
ーーまんまと嵌められた。
「あれ~? 芦毛ちゃんのぼせた? 顔が真っ赤だよ」
「うぅ~っ! ちょっと髪洗ってきます!」
私はタオルを掴んで湯船から逃げるように上がって洗い場へ向かう。
けれども頭のなかに一度浮かんでしまったイメージは、シャワーを浴びて着替えて布団に入っても消えてくれなかった。