新たに担当となったトレーナーは彼女に障害競走への転向を持ちかけたが……
「うー……」
お風呂に入って部屋に戻ってから、私はずっと悩み続けていた。
スマホで「障害競走」と検索してみても「転倒」や「事故」とか不穏な単語が候補に出てくる。
「レイちゃん、戻ってきてからずっと唸ってるけど大丈夫?」
ルームメイトのトウカイローマン先輩が心配して声をかけてくれた。
2学年の上のローマン先輩は私のことを何かと気にかけてくれる。
「今日新しいトレーナーと会ってきたんだけど」
「なにかひどいこと言われたの!?」
耳を伏せて怒りをあらわにするローマン先輩に私はゆっくりと首を横に振った。
「障害を走れって……」
「障害って、あのお昼にやってるやつ?」
「うん……」
障害レースは障害物の設置や撤収の関係で、だいたいお昼休みの4レースか5レースに行われる。
「でもアレって2800とか3000とか走るやつだよ!? レイちゃん2000も走ったことないよね?」
「2000は……あるけど……」
確か、ジュニア級のときに12月の未勝利戦で走った。
クリスマスプレゼントは初勝利って、前のトレーナーに約束したからよく覚えている。
結果は、18人立ての10着。結局クリスマスプレゼントは半年お預けになった。
そのあとは1年間、私は勝利と無縁の日々を過ごしてきた。
「あ、でも聞いたことあるよ。有馬記念の前の日に障害のすごいレースがあるって。たしか、中山なんとか……」
「中山大障害……これかな?」
「中山」「年末」「障害レース」で検索したページの一番上にはURA公式の中山大障害の特集ページが表示されている。
「あ、レイちゃんレース映像あるよ。観てみよ」
同じようにタブレットで検索していたローマン先輩が去年のレース映像を見せてくれた。
ベッドに二人並んで腰掛け、再生ボタンをタップする。
「中山大障害、スタートしました。」
ウマ娘たちが大きな竹柵や生垣を次々に飛び越えていく。大竹柵で先頭を切っていたウマ娘が躓いて転倒し、後方でもうまく飛び越えられなかった二人が地面に転がった。
「スコリアイーデン転倒! 後方でも二人転倒!」
そして私の目は代わって先頭に立った一人のウマ娘に釘付けになっていた。
「三人転倒、オウバコウハク先頭です。オウバコウハク先頭!」
そして彼女はそこから最終直線まで鮮やかに逃げ切り、最後は5バ身突き放してみせた。
「二着に泣いていたオウバコウハクが中山大障害初勝利!」
波乱と歓喜で湧き上がるスタンドに彼女が手を振るところで映像は途切れた。
「す、すごいね……障害レースって」
「うん……」
トレーナー室でURAの障害競走日程とにらめっこしていた俺はノックの音に顔を上げた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきた制服姿のグレイテンペストは手にクリアファイルをもっている。
「トレーナー。私、障害やります!」
ぴんと耳を立てて俺に告げた彼女の目にはたしかな覚悟があった。
「わかった。書類をチェックさせてくれ」
グレイテンペストから受け取ったクリアファイルの中身を机に拡げて記入漏れを確認する。
障害転向の申請書、障害試験の受験願書、保険の記載事項変更届け。全て問題ない。
「お前ならきっといい結果を出せる。スケジュールはかなりキツイが我慢してくれ」
「……覚悟はできてます」
小さくうなずいた彼女の背後で尻尾が揺れる。
「まずは来月頭の障害試験、今度の京都開催で障害未勝利戦に出走する」
「ら、来月ですか!? あと二週間……」
グレイテンペストは目を丸くして壁のカレンダーと俺の顔を見比べる。
障害未勝利戦は毎週のように組まれているが、できれば彼女の走り慣れた京都か阪神で慣らしてやりたい。
「お前が一勝してることは知ってる。障害と平地は別にカウントされる。だから最初はみんな未勝利戦だ」
一応、障害試験を通過すれば条件戦やオープン戦にも挑戦できるが……初戦にオープン戦を使うようなウマ娘はまずいない。
いや、もしかしたら今後そういう破天荒なことをして入着するようなウマ娘が出てくるかもしれないが。
「規定タイム内にきちんと障害を真っ直ぐ飛んでゴールすれば試験はクリアできる。これがコースだ」
俺は透明なデスクマットの下に敷いてあるトレセン学園の練習用コースを指で示した。
「ここがスタート地点で、順に障害物を飛越していく。この太い線が障害物だ」
ぐるりと二週させて障害試験コースを
「障害物って、確か色々あるんですよね」
「予習してきたのか。えらいぞ」
それまで力の入っていたグレイテンペストの表情が少し和らいだ。
「生垣障害はこことここ、それとここの合計三箇所。障害の中では一番簡単だ。ジャンプが雑でも突っ切れる」
「突っ切っていいんですか?」
「突っ切って走るやつも居る」
これは未だに障害競走に出るウマ娘や指導するトレーナーの中でも答えが出ていない。
もちろんタイムは突っ切ったほうが早いのだが、痛いのは当然走っているウマ娘本人だ。
「これは竹柵障害。いうなれば竹箒をまとめてひっくり返したようなやつだ。刺さると痛いぞ」
「このGっていうのは?」
「グリーンウォールだな。人工生垣って事になってるが実際は竹柵のもっとゴツいやつと考えてくれ」
「これも痛いですか?」
「……ちゃんと飛べば大丈夫だ」
ちょっとグレイテンペストの耳がしゅんと垂れた気がするが、そのまま説明を続ける。
「で、こいつが水濠障害。低い生垣の先に水たまりがある。遠くまで飛べ」
「水に落ちたら失格になったりするんですか?」
「落ちるとタイムロスになるし、冬だと死ぬほど寒くなる」
「え、それは嫌です」
「なら頑張って飛んでくれ」
俺は両親から就職祝いにもらった腕時計をちらりと見る。今は午後2時を少し回ったところだ。
「ジャージに着替えて2時半にAコースに来てくれ。障害の現物を見せよう」
「二時半ですね、わかりました」
頷いたグレイテンペストは俺に背を向け、数歩歩いてからふと思い出したように俺の方を振り返る。
「これから、よろしくお願いします」
もう一度頭をさげてからグレイテンペストは静かにドアを閉じた。
「さて、やるか……」
救急道具の入ったポーチとストップウォッチ、クリップボードを手に俺はトレーナー室を後にした。
「お待たせしました」
ジャージに着替えた私は、トレーナーとAコースで合流した。
「よし、準備運動が終わったらあそこに練習用の生垣があるから何回か飛んで見せてくれ」
「あのジャンプ台みたいのはなんですか?」
私は練習用の低い生垣の奥にある小高い丘を指差した。
「あれはバンケット。障害の一つだがあれの練習はひとまず後回しだ」
ただの丘がどうして障害物になるのか不思議だったが、私はとにかく生垣を飛ぶ練習を始めることにした。
「タイムは気にするな、飛ぶことに集中しろ!」
準備運動を終えた私はトレーナーの合図で練習コースを走り出す。
まずは膝くらいの生垣、これは簡単。次に膝上くらい、これも大丈夫。そして最後に腰くらいの生垣を飛び越える。
抜き足が足りなくて、少し左足を引っ掛けた私はバランスを崩して着地の瞬間に少しよろめいた。
「大丈夫か!?」
すぐにトレーナーが飛んできた。
「大丈夫、ちょっとひっかけただけ」
「足をぐるぐる回してみろ」
トレーナーが片足を上げて自分の足をぐるぐると回してみせる。
「こうですか?」
「よし、大丈夫だな。脚に違和感があったらすぐに言ってくれ」
私の両足に異常がないとわかるとトレーナーはほっとしたようにもう一度と促した。
結局、その日は練習用の低い生垣をひたすら飛ぶだけで終わった。
障害試験まで、あと14日。