しかし障害レース出走のためにはまず障害試験に合格しなければならない……
「よし、そこまで!」
トレーナーの号令で私は徐々にペース落として減速する。
「最後の生垣は文句なしにいいジャンプだった。お疲れ様」
「ありがとうございます」
トレーナーのところに戻った私は受け取ったスポーツドリンクを一気に飲む。
「ぷは……」
控えめの甘みと丁度いい塩気がカラカラの喉と火照った体に染みわたった。
「よし、落ち着いたら脚を見せてくれ」
「はい」
コース脇のベンチに腰を下ろし、プロテクター外すと障害の練習を始めて一週間で穴だらけになったジャージを脱ぐ。
ローマン先輩に教わりながらあて布をした穴は今日だけで二、三個増えた。部屋に戻ったらまた繕わないと。
「どうぞ」
靴下をくるぶしまでおろしてトレーナーに診てもらう。
最初の飛越練習後に「ジャージを脱げ」と言われたときは思わず蹴飛ばそうかと思ったけど、この一週間ですっかりこれにも慣れてしまった。
「2本目でひっかけたところがちょっと傷になってるな」
トレーナーはポーチから取り出したボトルの水をかけて傷口を洗うとガーゼの封を破って傷口の周りを拭う。
「ぅ……」
「滲みたか?」
トレーナーが心配そうな顔を向けてくる。
「ちょっとだけ」
絆創膏を貼ってもらい、私は再びジャージを履いた。
「来週からは飛越の練習はやらなくていい。プールとダートだけやって水曜は」
明日は秋分の日で休みだから、飛越の練習ができるのはあと2日だ。
「えっ、飛ばなくていいんですか?」
「本番前に転んで受験できませんでした、は嫌だろ?」
納得した私はトレーナーに挨拶して栗東寮へと戻った。
10月最初の木曜日、試験を終えた私は控室で結果発表を待っていた。
――大丈夫。飛越はトレーナーだって太鼓判を押してくれたし、二位で入線したからタイムもクリアしたはず。
そう分かってはいても、この待っている時間が一番落ち着かない。
他のウマ娘も皆せわしなく耳や尻尾を動かしてチラチラと時計と何も書かれていないホワイトボードを見比べている。
足音が聞こえて、ついにその時は来た。
ノックの音に続いて、URAの徽章をつけた試験官たちが入室してくる。
「それでは本日の試験結果を発表します。10月1日、トレセン学園障害コースにて実施。コース状態は芝が良、ダート良」
控室に居るウマ娘全員に緊張が走った。
「受験番号1番、ブラッククラウン。タイム98秒3、合格」
4コーナーから私をかわして先着したウマ娘は当然合格。
「受験番号2番、マローダーハーン。タイムオーバー、踏切不安定、不合格」
かなり遅れてゴールしたウマ娘は不合格だった。
「受験番号3番、プリッキキチ。外斜飛、不合格」
私と同じ中団にいて、グリーンウォールで外ラチ側に斜めに飛んでしまったウマ娘も不合格だった。
いよいよ次は私の結果発表だ。
「受験番号4番、グレイテンペスト。タイム98秒7、合格」
「はふぅ……」
全身の緊張がようやくほぐれた。
「受験番号5番、カストディアン。タイム102秒6、合格」
「受験番号6番、スペクトラルレイス、タイム99秒2、合格」
残りの二人も合格。
合格率は8割とトレーナーが言っていたから、平均値よりは少し悪い。
「以上で結果発表を終わります。合格者はそのまま着席してください。不合格者は退出してください」
「うぅ……」
「失礼します……」
試験官の指示で不合格だった二人が退出したあと、合格した私達には合格証書が授与された。
「明日より障害競走への出走登録が可能になります。その前に、私から障害競走で最も大切なことを伝えます」
試験官は私達全員の顔をじっくりと見回し、こう続けた。
「無事に完走し、ゴールすること。皆さんの帰りを待っている人たちがいます」
「ん……よーし!」
俺は携帯のアラームを止めると、大きく伸びをした。
眠る前は色々と考えてなかなか寝付けなかったが、バッチリ目が覚めた。
今日はグレイテンペストの大切な障害初戦の日。
前日入りした俺は京都レース場近くのURA提携ホテルに、グレイテンペストはレース場に併設の宿舎に泊まっている。
身なりを整え、荷物をフロントに預けると俺は京都レース場へ急いだ。
「2番、グレイテンペスト」
パドックに姿を表したグレイテンペストはいつもより表情が硬かったが、落ち着き自体は十分。
ゆっくりとパドックに集まったファンに笑顔を向け、俺に気づくと小さく手を振った。
「……京都第5レースは障害の未勝利戦、最終直線ダートの3000メートルです」
こちらも手を振り返すと携帯のラジオアプリを起動し、イヤホンを片耳につけてレース番組のチャンネルを選ぶ。
「現在圧倒的1番人気は1番スコリアファスト、2番人気は2番のグレイテンペスト。グレイテンペストは今回が初障害です」
ちょうどパドックの様子を実況と解説の専門家が伝えているタイミングだった。
一番人気のスコリアファスト、彼女は姉のスコリアイーデンが障害オープン戦を三連勝し彼女自身も前回の未勝利戦で半バ身差の2着と健闘したことで評価を上げている。
「やはりスコリアファストを本命、対抗にグレイテンペスト。あとはシエラグリーンとマウントホープ。この4人に期待したいですね」
障害試験のタイムが評価され、グレイテンペストは2番人気に推されていた。
「以上京都第5レース、パドックでした」
止まれの号令とともに誘導ウマ娘に続いて出走するウマ娘たちはぞろぞろ地下バ道へ向かっていく。
イヤホンを外すとレーシングプログラムを片手にパドックを後にする二人組の会話が耳に入った。
「あのグレイテンペストって子、去年はダート走ってなかったっけ?」
「そりゃ平地の未勝利だろ」
「あーそっか、ダートからさらに障害転向なんてかわいそうに」
「これでダメだったら引退かなぁ。オレ芦毛の子好きだから頑張って欲しいんだけどな」
雑音は気にしないで帰ってこい、グレイテンペスト。
ゲートが開いた。
「スタートしました! まずまず揃ったスタート。まず最内1番スコリアファストが行きました。最初の障害ジャンプ!」
スタートはまずます。それに多少出遅れたところで長丁場の障害ならチャンスは有る。
「各ウマ娘バラけながら第1コーナー」
グレイテンペストは中団につけている。周りに数名居るが一周目で囲まれても不利にはならない。
案の定、向こう正面の登り坂と竹柵障害でバ群はバラけて少し縦長になった。
最長が2000までの経験しかない彼女がペース配分を間違えて掛かったりしてしまわないか心配だったが、これなら周囲を気にせずペースを維持できる。
「向こう正面生垣障害をジャンプしていきます。シンガリまで無事飛越。先頭は第3コーナー」
一週目の1400メートルは全員が無事に走り切った。
「スタンド前水濠障害をジャンプ!」
グレイテンペストは高さの求められる生垣や竹柵とは違う水濠の長いジャンプもこなしてみせた。
ホームストレッチを駆けていく芦毛が初秋の陽に照らされて輝く。
「依然として先頭スコリアファストのまま二周目に入ります」
二周目の第1コーナーで先行集団が動いた。
「3番手に並んだトルティーとマウントホープ、グレイテンペストがスッと位置を上げていきます。マウントホープも進出開始」
「向こう正面竹柵障害飛越していきます!」
竹柵で少しためらったのか、二番手のウマ娘が後続にかわされる。
「この飛越でキラキラワルツ少し位置を下げました。変わって2番手にマウントホープ、それをマークするようにグレイテンペストが3番手」
「まもなく第3コーナーカーブ。先頭はスコリアファスト! 3バ身離れてマウントホープ」
グレイテンペストは最終障害の生垣を無事飛び越えた。
「最終障害飛越! 最後はダートの脚比べです!」
第4コーナーの出口でついにグレイテンペストは2番手のウマ娘に並びかけた。
理想的なレース展開だ。
「さぁダートコースに入った! 2番手にはグレイテンペスト! 少し遅れてマウントホープ」
ダートを力強く掻きながらグレイテンペストが伸びてくる。
「残り200! スコリアファスト粘る! グレイテンペストが追う! リード3バ身!」
グレイテンペストは一着のウマ娘にわずかに遅れて芦毛をなびかせてゴール板を駆け抜けた。
「スコリアファスト人気に応えた!」
「二着グレイテンペスト。三着はマウントホープ、あとは大差で続々とゴール」
「全ウマ娘完走です!」
スタンドから温かい拍手が沸き起こる。
「いやー、ファストちゃんもこれで一安心だね。イーデンとの姉妹対決とかやってくれないかな」
「しっかし2着の……グレイテンペストだっけ。あの子本当に初障害かよ!?」
「戦績見て短距離かマイラーだと思ってたけど3000走って食らいつくんだもんなぁ」
「あの感じなら次は来るでしょ。いや絶対来るね。うどん賭けてもいい」
「だなぁー。オレも今度は投票しよっと」
俺は自分の成果でもないのに心のなかでガッツポーズをすると足早に控室へと向かった。
控室のドアを開けると、グレイテンペストはちょうど最後のプロテクターを外したところだった。
「トレーナーさん!」
ぴんとこちらに向いた耳が彼女の気持ちを伝えている。
「おかえり。よく頑張ったな」
「でも、負けちゃいました」
「障害練習一ヶ月で完走して、連対したんだ。十分すごいことだぞ!」
そのレースが初障害のウマ娘は消し。それはデータが証明している。
初めて障害を走るウマ娘は2着以内に入る連対はおろか、3着に入る複勝率だって障害経験のあるウマ娘と比べて有意に低い。
その常識を彼女は見事にひっくり返してみせた。
「私、歌ってきていいんですよね?」
「あぁ、もちろん!」
グレイテンペストの背後でゆさゆさと尻尾が揺れる。
センターは譲ったが、彼女は9ヶ月ぶりにバックダンサーとしてではなくメインボーカルとしてウイニングライブのステージに立つ。
それはなにより負け続けの彼女にとってスポットライトを浴びること自体が大きなプラスになるだろう。
「じゃあ、ウイニングライブ行ってきます」
3キロを駆け抜けた後とは思えない軽い足取りで控室を出ようとするグレイテンペストを呼び止める。
「あ、待った!」
「え?」
「尻尾に葉っぱつけたままじゃかっこ悪いぞ」
俺はグレイテンペストの尻尾に引っかかっていた生垣の葉をつまみ上げた。