彼女は帰りの車内でルームメイトのトウカイローマンとある約束をする。
初障害レースの翌日、私はトレーナーと一緒にどよめきに沸く京都レース場にいた。
本当は昨日の新幹線で戻る予定だったけれど、私にはどうしても観たいレースがあった。
G2、京都大賞典。
「最後の直線! 先頭は依然ビッグランナー、しかし後続が迫る!」
4コーナーの出口で白地に桃色と青の勝負服、ローマン先輩が仕掛けた。
逃げたウマ娘と二番手集団を外からかわし、ぐんぐん位置を上げていく。
「残り200を切った! 外トウカイローマン! 内からアラビアンパーソ!」
「いけーーーーーーーーーーーーーーっ!」
隣のトレーナーと一緒に拳を突き上げて叫ぶ。
「トウカイローマン! アラビアンパーソ! 三番手にプレジデントシチー!」
内から伸びてきたウマ娘を抑え、ローマン先輩はゴール板を駆け抜けた。
「トウカイローマンだ! オークスウマ娘復活!」
6番人気をひっくり返す、中団待機からの見事な差し。
「一着トウカイローマン、勝ち時計2分29秒9。二着はアラビアンパーソ、三着プレジデントシチー」
スタンドに優しく手を振るローマン先輩の笑顔に拍手が沸き起こった。
帰りの新幹線は私とローマン先輩、それぞれのトレーナーで席を向かい合わせにして帰った。
「ローマン先輩、ウマッターのトレンドになってますよ!」
私は「オークスウマ娘復活! トウカイローマン京都大賞典で勝利」の見出しをローマン先輩に見せる。
ローマン先輩はクラシックでオークスを獲ったけれど、その後は私と同じでなかなか勝ちきれない日が続いていた。
「重賞のセンターなんて久しぶりだから緊張しちゃった」
「そんなことありません、とっても素敵でした!」
今年の春季開催で引退の話も出たけれど、5月の新潟大賞典で2着に入って「今年いっぱいは走りたい」というローマン先輩の希望が通った。
「今度はレイちゃんが一着の番ね」
「絶対勝ちます!」
「じゃあ、指切りね。今度は必ずセンター取るって」
ローマン先輩の差し出した小指に自分の小指を固く絡める。
「指きりげんまん、嘘ついたら人参1000本おーごりっ!」
「指きった!」
「頑張ってね」
指を離すと、ローマン先輩は優しく私の頭をなでてくれた。
「……しかし、見事なレース運びでした」
ローマン先輩が席に腰掛け直すと、トレーナーの豊田さんが口を開いた。
「ローマンはクラシックディスタンスなら絶対に勝ってくれると信じてましたから」
自信たっぷりに答える豊田トレーナーの横で恥ずかしそうにローマン先輩は目を伏せた。
「となると次はアルゼンチン共和国杯ですか」
私のトレーナーは手帳に挟んだレーシングカレンダーとローマン先輩を見比べる。
「いえ、次は11月最後の東京……ジャパンカップです」
向かいのローマン先輩の身体に力が入るのが分かった。
世界に通用するウマ娘の育成を目的に創設されたジャパンカップは、今のところ圧倒的に海外勢が有利だった。
これまでに日本生まれのウマ娘で勝利を掴んだのは「皇帝」と呼ばれたシンボリルドルフ会長ともう一人だけ。
「距離もそうですが、ローマンはあのコースをオークスで勝っていますから」
褒められっぱなしのローマン先輩は目尻が下がりそうになるのをごまかそうと窓の外に顔を向け始めた。
「そういえばトレーナー、障害にもクラシック三冠みたいなのってあるんですか?」
私は流れで気になっていることを隣のトレーナーに尋ねることにした。
「障害の最高峰は年二回の中山大障害だな。さすがに今年の秋は今からじゃ無理だけど」
「じゃあ二冠かぁ……」
「まずは二冠のために次のレースは約束果たさなきゃな、グレイテンペスト」
「そういえばレイちゃんのトレーナーさんはフルネームで呼ぶんですね」
ローマン先輩がふっと気づいたように話に混ざってきた。家名を持たないのに長い私の名前は少し呼びづらそうだとは思っていた。
「グ『レイ』テンペストだから私はレイちゃんって呼んでます」
ローマン先輩が私の愛称の由来をトレーナーに説明してくれた。
「流石にレイちゃん呼びは馴れ馴れしいよなぁ。前のトレーナーはなんて呼んでたんだ?」
「グレイって呼ばれてました。でも、勝てなかったときのことを思い出しちゃうので……」
「じゃあレイちゃんの新しい名前を皆で考えようよ! 私からね、レイテ!」
「ローマン先輩、縁起が悪いです」
「じゃあ1文字足してレイテンは?」
すかさず豊田トレーナーが割り込んでくる。
「そしたらトレえもんって呼ばなきゃ」
「ならペスト」
「だから縁起ィ!」
私の新しい愛称でローマン先輩と豊田トレーナーが勝手に盛り上がっていく。
「……グレイス」
トレーナーがぼそっと口にしたその響きに思わず耳が動いてしまった。
「あ、レイちゃん耳が動いた。決まりだね!」
耳を抑えるより早くローマン先輩に気づかれてしまった。
「なるほど『グレイ』テンペ『ス』トでグレイスね」
豊田トレーナーはぽんと手を打つ。
「女神の名前にもなってるし、四文字できれいな名前だと思うんですよ」
「レイちゃん、耳隠せてないし」
「うぅ……」
――グレイス。
その響きをもう一度心のなかで繰り返す。もぞもぞと動きそうになる尻尾を私はシートに押し付けた。
三週あけて10月最後の土曜日、私は再び京都レース場のターフの上にいた。
「第5レースは障害の未勝利戦、最後ダートの3000メートルで争われます」
朝まで降り続いた雨のせいでバ場は芝ダート共に不良。返しウマだけで私の足元は泥だらけになっていた。
――大丈夫、重や不良でも連対してきたんだから。
そう自分に言い聞かせ、ゲートに身体を収める。
「各ウマ娘ゲートに収まっていきます」
スタンドに放送される実況が耳に届いた。
係員に促され、ゆっくりとゲートに向かう。
無骨な灰色のパイプと金網に囲まれているとそれだけで押しつぶされそうな緊張感がある。
ゲートが開いた。
最初の生垣障害を踏み切って、飛び越える。
生垣に残ったしずくが染み込んでくる。
背後ですぐにガサガサと生垣をかき分けて飛んでくる音が続く。
私と並ぶように走っていた子が着地に躓いて位置を下げた。
押し出されるように私は先頭に出てしまった。意識を背後に向けるが、追いかけてくる足音は2バ身くらい後ろ。
向こう正面に入ってもリードはそのまま。
一度走ったことがあるコースだから、リズムは体が覚えている。
3コーナーでちらりと後ろを見る。リードは変わっていない。
「スタンド前をウマ娘たちが駆け抜けていきます、先頭はグレイテンペスト。レッドボルドーとムーディーハナコ並んで2番手、少し離れてキングエドワーズ」
水濠障害の低い生垣が迫ってくる。
――低く、長く!
水面ぎりぎりのところに着地し、体勢を立て直す。
「いけー!」
「頑張れー!」
風切り音と実況、スタンドの歓声に蹄鉄が芝を蹴る音。後続が水濠にトモを落とした飛沫の音。
「グレイテンペスト先頭のまま二週目の第1コーナーに入っていきます」
荒れた上に雨でぬかるんだバ場がじわじわと体力を削ってくる。
シューズの中まで染み込んだ水が吹き込むたびに湿った音をたてる。
――いち、に、三歩目!
踏み切って向こう正面最初の生垣障害を飛び越える。
「きゃあっ!」
背後で誰かの悲鳴が上がった。少し遅れてスタンドからのどよめきが耳に届く。
「一人転倒です! ムーディーハナコ転倒競走中止です!」
最後の生垣障害はもうがむしゃらに飛び越えた。
「グレイテンペスト最終障害を飛越! 後続までまだ差があります」
最終コーナーを抜けた私は障害コースを斜めに横切り、ダートコースに入った。
水たまりだらけの沼のようになったコースを、ひたすらに進む。
さっきはあんなにうるさかった周囲の音が妙に静かだ。
最後のハロン棒が背後に遠ざかっていく。
「グレイテンペストだ! グレイテンペスト、大差でゴールイン! 人気に応えて障害初勝利!」
ゴール板を駆け抜けると、急に世界の音が戻ってきた。
スピードを緩めて後ろを振り向くと、ぽつぽつと他のウマ娘がゴール板を通過していくのが目に入った。
「勝っ……たぁ……!」
私は右手の拳を握り、高く突き上げた。