彼女は最初に見た障害レースでの勝ちウマ、オウバコウハクを本命に挙げる。
12月26日――
俺とグレイテンペストは中山競馬場のパドックにいた。
第10レース、準メインの中山大障害に出走するウマ娘を一目見ようと押しかけたファンでパドックはすし詰め状態だ。
俺はレーシングプログラムを丸めてジャケットのポケットにねじ込んだ。
「グレイスは誰が勝つと思う?」
今年の中山大障害はかなりの強豪が肩を並べている。
出バ表には春の大障害を勝ったメジロ家のメジロアンタレス、同じく名家のシノンシンボリさらには昨年の覇者ラッキーブレンとそうそうたるメンバーが並ぶ。
「やっぱり私は――」
グレイスが白く息を吐きながら言いかけたとき、最初のウマ娘が登場した。
「1枠1番、オウバコウハク」
「コウハクさんです」
オウバコウハクは去年の春の大障害を制したウマ娘だ。
「初めてローマン先輩と障害レースの映像を見た時に走ってたのがコウハクさんなんです」
グレイスは目を輝かせながらそう教えてくれた。
明日の有馬記念に出走する同室のトウカイローマンともども良いレースをして来年からオープン戦に挑む彼女の背中を押してやって欲しい。
「2番、トウショウドリーム。1番人気です」
続いてパドックに現れたのは春の大障害で2着になったトウショウドリームだ。
カメラやスマホを向けるファンにウマ娘たちが思い思いの仕草やポーズで勝利への闘志とやる気をアピールして見せる。
「以上9人によって争われます。中山大障害の発走はこのあと午後2時45分です」
すべてのウマ娘の紹介が終えて号令がかかると、誘導ウマ娘に続いて列を作っていく。さすが歴戦の障害ウマ娘たちがそろった重賞だけあって列を作るのもスムーズだ。グランプリロードの柵沿いにも並んだファンに手を振りながらウマ娘たちがバ場へ向かっていく。
「グレイス、このレースはバ場内で観よう」
いずれ彼女にはこの大舞台で走ってもらいたい。だからこそ俺はバ場内からの観戦を選んだ。
地下通路を通ってバ場内に入ると、既に多くのファンがアルミケースやカメラバッグを並べて陣取っていた。
「すごい人……」
返しウマと障害物のスクーリングを終えたウマ娘たちがゲート前に集合していく。拍手とともにスターターが壇上に上がり、勇ましいファンファーレの演奏が始まる。
「このファンファーレ、いつもと違う……?」
グレイスは驚いた様子でファンファーレに耳を傾けている。
「年に2回、中山の大障害でしか流れないファンファーレだ」
障害重賞の中でも最も格の高い中山大障害は専用のファンファーレが演奏される。
「9人のウマ娘が挑みます、今年度最後の障害ビッグレース中山大障害――体勢完了!」
ガコン、とゲートの開く音が響く。
「スタートしました! ポンと飛び出したのはオウバコウハク!」
桃色の勝負服を翻し、オウバコウハクが勢いよく最初の障害を飛び越える。
「先行争いはメジロアンタレスとオウバコウハク、9人綺麗に最初の生垣を飛越!」
好スタートから先頭にたったオウバコウハクに並ぶようにメジロアンタレスが外につける。
一周目のスタンド前を拍手に迎えられながらウマ娘たちが駆けていく。
そしてバ場内広場を右回りに一周し、中山の深い谷を登りきった彼女たちを最初の難関が待ち受ける。
大竹柵障害ーー高さは160センチ、幅2メートル。
「大竹柵をオウバコウハクとメジロアンタレス先頭で……前方三人並んで飛越しました! 後方でちょっと躓いたか!? ピークシャイニーが後退しました」
中団につけていたウマ娘が着地に失敗して後退するが、なんとか持ち直す。
その間に先頭集団は逆回りで直線に向かう。
「オウバコウハク先頭、二番手メジロアンタレスですが――」
そいて第4コーナーを抜けたオウバコウハクが生垣障害を先頭で飛越し……姿を消した。
「オウバコウハク転倒! オウバコウハクが転倒!」
前に立っていたグレイテンペストの尾がピンと伸び、力なく垂れ下がった。
「トウショウドリームも……競争を中止しました! 一番人気トウショウドリーム競走中止!」
先頭を切っていたオウバコウハクの転倒と一番人気トウショウドリームの競走中止に驚くスタンドからのどよめきが空気を震わせる。
「メジロアンタレスが先頭に立ちました」
向こう正面側のコース脇に控えていた救護スタッフが慌ただしく動き出すが、バ場内に入れない。
中山大障害の襷コースは8の字を描くように逆回りに半周した後、最後に順周りに4コーナー手前の生垣――つまりオウバコウハクの転倒したところを飛越する。
「ラッキーブレンが動きました!」
実況だけがレースの展開を伝えているが、呆然と立ち尽くすグレイスの耳には入っていないだろう。
「先頭はシノンシンボリ。この差は縮まらないか! シノンシンボリ今ゴールイン!」
「グレイス……」
歓声が落ち着いてから、ようやくグレイスは口を開いた。
「……たんです」
耳は低く伏せられ、尻尾も力なく脚の間にしまわれている。
「聞こえちゃったんです、コウハクさんの。折れる音が……」
「グレイス!」
怯えるように自分の肩を抱くグレイテンペストの肩を掴んでこっちを向かせる。
憔悴しきった表情を浮かべる彼女に何度も呼びかける。
「お知らせいたします。只今のレースにおきまして1番オウバコウハクは6号障害において転倒、2番トウショウドリームは向こう正面にて故障が発生したため競争を中止しました」
無情なアナウンスが場内に響く。
「う、うぅ……」
堪えきれなくなったグレイテンペストが顔を覆った。
「帰ろう」
肩を震わせる彼女を促し、俺たちはそのまま地下道を通って駅へと向かった。
翌日、約束の時間を過ぎてもグレイテンペストは姿を現さなかった。
第11レース。グレイスと同室のトウカイローマンはまだ中団にいる。
「第3コーナー通過! ペースが上がりました!」
最終コーナーを抜けたウマ娘たちが最後の力を振り絞って中山の短い直線に挑む。
中団に控えていた一番人気のウマ娘が好位置に持ち出して前進——しなかった。
「故障発生か!?」
桜色の勝負服のウマ娘がずるずると減速してバ群の後方へ沈んでいく。
それでもレースは続く。
「外からミスウィスカーズ!」
残り1ハロンを切った。
先頭集団が横一団になり内と外、さらに間を突いた前三人の熾烈な追い比べ。
「激戦になった! メジロデュレンも来る!」
緑色の勝負服姿のウマ娘が外から一気に迫っていく。
「メジロデュレン先頭でゴールイン! メジロデュレンの勝利です! 今年の実力日本一はメジロデュレンであります!」
外から前三人をまとめてかわしたメジロ家のウマ娘がゴール板を先頭で駆け抜けた。
「なんてこった、スターオーが……」
「メリー大丈夫かな……」
スタンドからは称賛の拍手とともに心配そうな声が上がる。
上位人気のダービーウマ娘がゲートで躓き、一番人気の二冠ウマ娘が最終直線で故障発生。
今年の暮れの大舞台は大障害も有馬も1番人気が競争を中止したことになる。
俺は「明日も無理そうなら年末の挨拶はしないでいい」とだけグレイスに送信し、用意しておいた花束を持って席を立った。
どんな結果でも、最後のレースをゴールまで走りきったあのウマ娘に一言「よくばんばった」と言ってやりたい。
私はローマン先輩との約束を破った。
「ただいま。レイちゃん……まだ寝てたんだ」
「……」
荷物の置かれる音に私は布団に包まったまま、耳だけを僅かに動かした。
「いつまでいじけてるの!」
普段は温厚なローマン先輩が私の肩を掴んだ。
「どんなに心がボロボロでも、勝算がゼロに近くたってこの道を選んだからには走らなきゃダメなの!」
ラストランだった有馬記念の結果を、ローマン先輩の赤く腫れた目元が私に伝えていた。
私は、大好きな先輩のラストランを現地で見ることさえなかったのに。
「ごめんなさい、ローマン先輩」
ローマン先輩のいつも使っているボディソープの香りが私を包んだ。
「コウハクさんのことはレイちゃんのトレーナーさんから聞いたよ。怖かったよね」
背中に回されたローマン先輩の腕が温かい。辛いのはローマン先輩だって同じはずなのに。
「最後の1ハロン、脚が全然動かなかった……みんなどんどん前に行って、私だけ置いていかれてるみたいに」
私の肩にぽたぽたと温かいものが滴る。
「レイちゃん、来年のレース全部見に行くから。小倉でも福島でも札幌でも……ゴールで待ってる」
「私絶対帰ってきます。一番に……でもローマン先輩」
「どうしたの?」
「札幌は障害レースないです……」
「……ごめん」
ローマン先輩は笑いながら首をすくめた。
ようやく資料作りを終えた俺は椅子に背を預けて大きく伸びをした。
有馬記念が終わり、ようやく年中無休に近いトレセン学園にも年末らしい空気が漂ってきた。
明日の東京大賞典に出るわけでもないのに何故か毎年暮れにレース直前さながらの緊張感を漂わせているウマ娘も居るがーー
窓の外を見れば年末年始を実家で過ごすウマ娘たちが傾き始めた陽を浴びながら大きな荷物を抱えて駅の方へ向かっていく。
「失礼します」
ノックとともにドアが開いた。
「……大丈夫か?」
「すみません、メッセージも返信しなくて」
申し訳無さそうにグレイテンペストは頭と耳を下げる。
「気にしなくていい、挨拶に来てくれてありがとう」
憧れていたウマ娘が故障する瞬間を見て一日寝込むだけで済んだ。それだけでも今はありがたい。
あるいは、同室のトウカイローマンがグレイスに魔法をかけたのか。
「ご両親によろしくな」
グレイテンペストも、実家に帰省するという。
「はい、2勝できたって伝えたらすごく喜んでくれました」
一年ぶりの勝利と、2着2回。半年間着外だったのだから、両親もさぞ嬉しかっただろう。
「重賞に挑むときなんですけど、関係者チケットを三枚もらえませんか? ローマン先輩にも勝つところを見てほしくて」
三枚、と言われて首を傾げていた俺は合点がいった。
「そういうことか! もちろんいいぞ!」
「よかった……それじゃトレーナーも良いお年をお迎えください」
「あぁ、来年もまたよろしくな」
嬉しそうに揺れるグレイテンペストの尻尾を見送り、俺はようやく自分の仕事に取り掛かる。
条件戦を勝ち上がったグレイテンペストは来年からオープン戦に挑むことになる。
最低でも障害を2勝してきた連中相手に力押しのレースは通じない。飛越とスピードだけでなくスタミナや位置どりも重要になる。
春はグレイテンペストの走り慣れた京都や阪神のコースを使い、京都大障害を目指す。
間に合うなら阪神障害ステークスを叩いて春の中山大障害というローテーションも可能だがーー
ふとその時、俺は中山レース場の改修のことを思い出した。
「まてよ……?」
来年の中山大障害は改修工事のため府中での代替開催になる。
来年の障害重賞の日程と開催地を適当な裏紙に書き出して、俺の中に一つのプランが浮かんだ。
障害に三冠はないが、URA創設以来誰も成し遂げていない記録がある。
障害競走グランドスラムーー東京中山京都阪神のメイン4場の障害競走制覇は中山大障害を四連覇したフジノオーや平地の強豪を押しのけて年度代表ウマ娘に選ばれたグランドマーチスですら達成していない。
京都と阪神なら春と秋の2回チャンスがあるし、大障害の叩きとしても使える。
春と秋は毎月レースを走ることになるから、6月は回復に充てて夏合宿でじっくり地力と英気を養って秋の京都と中山大障害を目指す。
「よし……!」
俺はPCの電源を切ると有志主催のトレセン学園忘年会の会場へ向かった。