3月3日午前7時、東京都千代田区所在、帝国ホテルスイートルーム。
カーテンが掛かってる窓際から客室の中に光が差してるのでもないし、アラームが鳴ってるのもないけど、普段だったらとっくに起きてるはずの時間。身に付いた舞台少女としての習慣が勝手に花柳香子を目覚めさせた。
目もちゃんと開けてないのに自分が眠りから目覚めたって事実だけは気づいた香子は布団にしがみ付いたまま手だけを動かした。
「ううん……確かここら辺に置いたはずやけど……」
体を起こす気は無くベッドに横になったまま肩から指先までを使い、寝る前ベッドの何処かへほったらかしたのだけは覚えてるスマホを探すその姿は哀れで見づらい。すぐ起きてからベッドを片付けたら体力を無駄遣いする事も無かっただろうに、香子は時間と体力を浪費して結局はスマホを探し出した。
半分は枕に埋もれてる顔の近くまで持って来たスマホで花柳香子が最初にやったのは最近の現代人と同じく着信メッセージの確認。未確認メッセージが有ると知らせる赤い表示が浮かんでるアイコンを押すと幾つかが並んでる。もう午前7時が過ぎてる時刻。当然舞台少女なら既に今日と言う日を始めた筈だ。今から1時間ほど前に来たメッセージも、数分前に来たのも有るし、中には寝る前に送ったのか午前0時ぴったりに転送されたのも。ありがたいがちょっと執着が強い感があるそのメッセージには香子も引いちゃう。
「バナナはんたら、真面目過ぎやな」
香子に送られたのは言葉付きや話し口は違くとも内容はみんな似たものたちだった。みんなは今日3月3日がどの日なのか忘れたないようだ。
花柳香子は友達からもらった誕生日祝いを一つづつ確認しながら、18歳を迎えた。
スマホだけ弄ってベッドの上から何分かたち、少し眠気が弱くなった香子は重い上半身を起こしやっとベッドから抜け出す事が出来た。生きた屍のように歩いて行った洗面場の鏡の向こうから、めちゃくちゃに歪んだ顔をした女を見かけて冷たい水で眠気を消した。それでやっと今日を始められる。
「はぁ……疲れたわ。まったくもう」
香子が今日も洗面台の前でひょろひょろしてるのは過労したからではない。昨日は一日中ずっとホテルの中で休んでただけ、出かけたりもしなかった。普段自己管理を粗末にしたのでもない。常時万全の状態とは言えなくても、他人の手を借りても最善の状態を維持する努力くらいはしてきた。花柳香子はもう日本舞踊という分野で頂上に近い舞台人。権威有る日本舞踊の家で生まれ、自分がどんな人間なのかアイデンティティーを自覚する前から厳しい教育を受けながら育ち、もうすぐ襲名する家の名前に相応しいきらめきを持った天才エリート俳優にそんな基礎的な問題は残ってる筈など無い。
だけど、18歳の花柳香子はまだ大人と自称するには幼く、少女と言うには大きい歳に過ぎない。香子は自分に欠けてる事が何か知ってる故に、まだ自分の舞台に戻らなかった。
朝一番にシャワーを浴びた香子は客室の窓全部に掛けたカーテンをひとつづつ開けた。睡眠を邪魔する要素を排除する為の一環で眠りに着く前に掛けたんだが、結局朝遅くまで寝坊をするという方向性が歪んだ努力は報われなかったのだ。十数年間に身に焼き付いた習慣は一日くらいでは取れないと、再確認しただけ。寝坊とは、やるからってやりこなせる物でもないと感じながら香子は窓の外を眺めた。
「ほぅ、ええやないか」
帝国ホテルのスイートルームで見下ろす景色は、結構それっぽい物出会った。別に広いなら良いと適当にお任せして取った部屋だったけど、窓のすぐ下には日比谷公園の緑が広がっていてその向こうには霞ヶ関方面の都会感が交わって悪くない風光だ。
京都で生まれ京都で育った香子は、京都こそが中心で歴史からの
訳も無く外を眺めるのをやめた香子は今まとったシャワーガウンを脱ぎ捨てて着替えた。
「ほな、お客さんがいらっしゃる前に朝飯くらいは食べなくきゃ」
眠りから目覚めた人間は誰れでも腹ペコ。食事などいらない女神を演じる舞台人でも、舞台の外ではただの人間なのだ。
二日前3月1日聖翔音楽学園第99期の卒業式が有った日、香子は仲間と3年間を一緒にした星光館を去った。荷物は業者を使って京都の家に送り、99期の皆んなとは違う道に小さいキャリーバック一つだけを持って。
石動双葉は駅まで見送ると言ってきたんだけど、香子はその好意を断った。双葉は居なくても一人で新幹線くらい乗れるし、昔一度だけ挑んだ時は結局乗らなかったけど取り敢えず一人でも何の問題もなく乗り場までは行った。だから見送りは要らない。
皆んなに別れを告げやがて一人になった香子はタクシーに乗った。なのに香子がタクシーから降りた所は東京駅はなかった。
帝国ホテル本館の向こう、車道の挟んで向き合ってる建物。東京のど真ん中、日本最高棒と言われるカンパニー。その劇場が目の前に有った。
「新国立第一歌劇団……か」
白く派手な建物と今上演してる劇のポスターが見えると、香子の胸の中から数ヶ月も積もったモヤモヤした気持ちが湧き上がった。花柳香子はこの数ヶ月かん、来た事もないここに捉われた気持ちから抜け出せなかった。結局3年生の時の見学には参加出来なかった。原因を辿ればキリンとなながやらかした事のせいもあるが、最初からそこの役者達が繰り広げる演技を目に留める考えする無かったから、その二人のせいにするつもりはない。
劇場を見上げた香子はそのまま横断歩道を渡りホテルにチェックインして、二日もホテルの外には出なかった。万が一ここでは絶対出会したくない人と会えるかも知らないから。
12時がちょっと過ぎた時刻、香子が待っていたお客は前触れも無く尋ねドアをノックした。
「花柳さん、いらっしゃいますか?」
ノックの音の後に聞こえる聴き慣れた声に香子はすぐに客室の入口まで走り出す。ドアを開けると外にはジャージ姿に上掛けだけの見慣れた顔が立っている。
「お誕生日おめでとうございます、花柳さん」
天堂真矢、新国立第一歌劇団の団員である彼女は前髪が少し汗で濡れていた。今すぐお稽古から出てきたのかもと思いながら香子は挨拶をする。
「お久しぶりどす、天堂はん」
たった二日ぶりに会った中に使う言葉ではないと思ったけど、天堂真矢はこの勝手なお嬢さんに言い返したくは無かった。ただ要件をすませば良い、それだけ。
「これは頼まれた物です。お誕生日祝いと思ってください」
「おほほっ、これはありがたいお言葉」
真っ白い封筒を渡された香子はそれをすんなりとバックに入れたのだが、急に目が変わって天堂真矢の目をジッと睨む。
「もしや、昔の仕返しをするおつもりではありませんわね?」
「仕返し……?」
急に何を言い出すんやら訳の分からない話に真矢は首を傾げた。だけど、香子の目にはむしろそれっぽく感じたのか、慌てて声を上げた。
「お菓子の事どす、お菓子!あめちゃん!」
真矢は香子の黒く染まった心の底が見えるような眼を見て、もう2年前に近い事を思い出す事が出来た。それは確か香子が京都に帰ると騒ぎを起こした次の日に有った朝の事。先に悪戯を仕掛けたのは自分のくせに過ぎた事を持ち出すとは、器の小さいこのお嬢には驚いたが、天堂真矢は冷静沈着を維持する。
「御心配なく。私は何方とは違ってそのような些細なことで恨みを持つなどしませんよ」
天堂真矢の余裕のある返事に香子は気後になってしまう。
真矢が渡したのは紛れも無く新国立第一歌劇団の今日昼公演の入場券だ。ここの定期休演日は月曜。昨日3月2日がそうだったので卒業式以後は今日のが一番早い。そんなチケットを手に入れるのもさぞ難しかったのに、こんな仕打ちに怒ってもおかしくないが、真矢はむきにならない。香子がどんな子かは経験でよく知ってるから。
「私も一団員に過ぎません。でも花柳さんの頼みだったから応じたのです。下心などありません」
「流石天堂はん、頼りになるお方」
先まで疑っていたくせにすぐ手のひらを変えて、世の中の汚れなど一滴も見つからない大和撫子となってる香子には、真矢も驚きを隠せないが、それも3年間馴染んだ。
それより聞きたい事は他になる。
「それにしても、どうしてここの公演が見たいとおっしゃったのですか?」
天堂真矢が花柳香子に聞きたかったのはそれだった。今更新国立の公演が見たいとは。チケットくらいホテルまで足を運んで直接渡す必要は無かったのだが、こうやって顔を合わせて聞かないと香子は絶対この質問には返事してくれないだろう。
だから香子も返事もせずにこのままドアを閉めて真矢を追い払うなど出来なかった。どうせ天堂真矢には答えなくてもバレる。バレるなら明かしてしまえばいいと、香子は思った。
「勝ちたいから、それだけどす。学生時代は終わったんや。ウチも、あんたも」
「だから確かめたかったのですか?新国立の劇を見て」
「まぁ、日本一のカンパニー。そこならウチにも意志を与えてくれるかも知らんでしょう?ウチにジャンルを超越し舞台人として闘う意志をどす」
その気持ち、真矢にも理解出来ないもんでは無かった。運命のライバルとしても社会では同じ舞台に立つ事すらままならない。
「もうウチとあんさん達は同じ舞台には立てまへん。双葉はんが私と違う道に行くって言った時怒った理由の一つでもありますんや」
香子は客観的な立場で過去の自分を批評するような口振りだったが、真矢の目にはこの時から変わってないように見えた。
でも疑問はもう一つ残ってる。
「なら、何故石動さんではなく私にこんな頼みを?」
「はぁ?こんなん双葉はんに頼む訳ないっしょう」
「その、訳が分からんのですが」
鈍いふりなのか空気が読めないのか更に問い詰めてくると、香子は面倒臭さそうに答えてあげる。
「目指すって言ったのを無惨に否定して、今更見たいから予約して〜って言える訳あらへんやろ」
「そんな理由なら石動さんだけじゃなく、皆んなの前でも結構酷く言っていたと思いますが」
「何をおっしゃるかと思ったら。天堂はんの前でウチがどんなにけなしたって、天堂はんは何か思いました?例えるなら……そう、天堂はんから千華流に対してどうのこうの言われったらウチがどう感じると思います?」
「おそらくは……何も感じないでしょう」
「ほら〜、良く存じてらっしゃる。やっぱウチらは同類どす」
彼女達は他人からどう言われようが関係ない。自分の領域に対しては絶対と言えるくらいの信念を持ってる人間だから。天堂真矢も、花柳香子も。
「そんなお方でも石動さんの前なら「花柳彗仙では居られない」という事ですね」
「なんでそんな話になるんや!」
双葉の事になると怒ってしまう香子を可愛く思いながら、天堂真矢は一歩後ろに引いた。
「では私はこれで。楽しい観劇になりますように」
腕を大きく動かす派手な挨拶を残して天堂真矢は去って行った。今回も花柳香子は、天堂に負けた気持ちになってしまった。
その夜、京都に帰る東海道新幹線の列車の中で、香子は真矢と短いメッセージを取り合った。
『天堂はんは、大したことのない人間になってしまうのが怖いですか?』
『だからこそ何度も舞台に上がるのでしょう』
『ウチも同じどす』
京都弁難しいんやわ。
皆はん、かんべんどす。