「ハア、ハア、ハア」
畜生、なんでこうなった?
走りながら彼は考える。
彼は今、何人もの人間に追われていた。
糞ったれ、こんな所来なきゃ良かった。
内心で先日の自分を呪いながら彼は走り続ける。止まれば、死ぬ。それが分かっているからだ。
彼は今、貪底街へと足を踏み入れていた。
治安は最悪、完全な無法、居場所のないモノが最後に流れ着く場所。故に、ドン底。
下手に足を踏み入れれば命の一つや二つ、あっさりと失う恐るべき街に何故彼は来ることになったのか。それは彼の職業に関係していた。
彼はフリーのライターだ。ジャンルも、場所も、だれかれ構わず、有る事無い事を書き連ねる、ライターの中でも底辺の部類。
そんな彼がこの貪底街へ来ることになった理由。それは極めて単純な物だった。
俺は取材をしに来ただけだっての! 聞いてねえぞ畜生!
彼はここに取材をしに来ていた。
しかし、碌な下調べもせず、適当にネットで調べただけの噂話程度を当てに貪底街へ踏み込んだのだ。当然、ルールや勢力図、危険な場所安全な場所などの判別はついていない。
結果として、彼はこの街でも大きな勢力のグループに追われることとなった。
「ハア、ハア、ハア……」
走る。
彼が見た物は人が解体され、臓器を取り出される現場。貪底街の中ならなんて事のない光景だが……外へ持ち出される事になれば話は変わる。
追う者達は彼を殺す気で追う。それが分かっているから彼も必死で逃げる。
思慮の浅さが招いたこの逃走劇は……彼が多少の幸運を引いたことで終わりを告げた。
「ハア、ハア、ハアァ……撒いた、か?」
辺りを見渡しても人が居ない。さっきまで延々と追い続けてきた集団は何処かへと消え去っていた。
幸運な事に、彼はこの貪底街の中心地──中央通りへとたどり着いていた。
彼は再度辺りを見渡す。矢張り誰もいない。
彼はあずかり知らぬことだが……この貪底街には三つのルールがある。
一つは不要な詮索をしない事
一つは三千屋敷に関わらない事
一つはその隣家より人が出てきたならばその日一日の外出禁止
彼のいる場所は貪底街中央通り。即ち、三千屋敷に面した通りでもある。貪底街の人間は三千屋敷に近寄らないので、当然、人は誰一人いない。いない、はずだった。
彼の視界に人が映る。
見えたのは、少女。
貪底街中央通り、三千屋敷から二百メートルほど離れた場所にその少女は座り込んでいた。
この時、万が一何かの間違いでそれを見たのが貪底街の住人だったなら──その人物はわき目も降らずに逃げ出しただろう。もちろん、その人物が見た後に生きていた場合だけの話だが。
貪底街へと取材をしに来た彼は……その少女に話しかける事を選んだ。
ここまで来て成果なしで帰れるか。
そんな精神が働いたのか──あるいはここで見た様々な物に正気を失っていたのか、彼は少女へと近づいて行った。
彼の幸運はそこで終わり、特大の不運が鎌首をもたげた。
近づき、話しかけようと──
「え?」
それが彼の最後の言葉となった。
少女が、笑う。
否。
口角を吊り上げ、大口を開ける。
ほんの一瞬にして少女へ歩み寄った男は血の一片へと変貌した。
「足りない」
少女が呟く。
「タリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイ……」
うつろな目で少女は呟き続ける。
瞳孔は見開かれ、眼球は忙しなく辺りを探り、口元からはぼたぼたと涎がこぼれている。
少女は空腹だった。
視界に入った食料全てを喰らい、喰らい、喰らい、喰らい……。
いつしか誰もいない場所へとたどり着いていた。
少女は辺りを探す。食べられそうなものを、胃へと収められそうなものを、探し、探し……。
「ミツケタ」
少女の足元が爆ぜる。
そうとしか思えない程の速度で少女が走り出した。
音も、衝撃も、重力さえ振り切る程の馬鹿げた速度で少女が駆ける。
狙いは前方の人間、血の一滴さえ残さず食い殺す。
少女は眼前の男へ飛び掛かった。その瞬間、意識が途絶える。
目が覚める。全身が痛い。何があった?
少女を疑問が支配する。最後の記憶は何かを食べようとしたこと。そこから先が無い。
腕を持ち上げようとして、足を動かそうとして、どちらも動かないことに気付く。
少女の背骨は砕け、四肢は折れ、頭蓋は割れていた。だが、少女はその事に気付かない。只動かない体を動かそうとあがき──
「おい」
何かが歩いてくる。
体が震える。本能が怯える。存在しない恐怖が湧き上がってくる。
あれは、駄目だ。
少女は必至で体を動かそうとする。餌の為に動かそうとしていたさっきまでとは違い、全速でこの場から逃げるために。
だが、動かない。
必死でもがく少女に、何かは悠々と歩いてきた。
「ただでさえあの馬鹿取り逃して機嫌悪いってのに……何噛みついて来てんだ雑魚」
何かが近づく。駄目だ。駄目。止めて。
「死ね」
轟音と衝撃。少女の意識は消失した。