スピカに隠れて、デネブは輝く 作:とくめいトレーナーA
デビュー戦に向けて
――彼女の前には、いつだって名優がいた。
完全無欠、完璧なその背中を追いながら走る彼女は、自分はあんな風になれないと理解しながら走り続ける。
だからだろうか? その背中に手が届きそうになった時、つい心が弱ってしまうのは。
それを好機だとは思わず、自分なんかがこの背を掴んでいいのだろうかと迷い、折角のチャンスに手を伸ばさない理由は、そんな憧れと恐怖が同居した複雑な感情が理由だったのかもしれない。
だけど……今の彼女には、その背を押してくれる人がいる。
迷ってばかりの自分に声援を送り、背中を支え、勝利を期待してくれる誰かがいる。
進む道は平坦じゃあないのかもしれない。名優との距離は想像以上に開いているのかもしれない。
それでも、彼女はただ走り続ける。どこまでもどこまでも続く道を、ただただ真っ直ぐに。
夢へと続く
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
「お疲れ様、ライアン。いい走りっぷりだったよ」
「ありがとうございます、トレーナー。んふぅ、んくっ……」
本日のトレーニングの締めに行われた2000mの中距離走タイム計測において好成績を叩き出したライアンが、清々しい表情を浮かべながらトレーナーから受け取ったタオルで汗を拭い、スポーツドリンクで乾いた体を潤す。
実にスポーティで爽やかなその姿に一瞬だけ見とれた後、自身の職務を全うすべく彼女のトレーニングデータに視線を移したトレーナー……
(わかっていたことだが、
流石は名門メジロ家のウマ娘というべきか、ライアンの実力は並のウマ娘と比べて一線を画していた。
特に目を見張るのは長年の筋トレによって培われたパワーとスタミナで、基礎メニュー程度のトレーニングをこなしただけではまだまだ余裕を残している。
それに加えて、理解力も抜群だ。
効果的なトレーニングをするためにはまず理論を学ぶ必要があると聞くが、ライアンは見た目に反して理論派の筋トレマニアなのかもしれないと仁は思った。
だが、そんな彼女にも弱点はある。
以前にも指摘した精神面の弱さもそうだが、他にもまだまだ彼女には克服すべき部分は山ほど存在しているのだ。
前述した高い筋力とマックイーンにも引けを取らないスタミナに反して、彼女の最高速度は意外にもそう早いものではない。
差しウマとして必要な爆発的な加速力こそ有しているものの、それを十分に活かすだけのスピードが足りていないというのが正直なライアンの評価だ。
得意な差し戦術とこれらの要素から考えるに、ライアンの適性は中距離~長距離といったやや長めのレースであるといえる。
メジロ家もライアンにクラシック戦線での活躍を期待していることから考えても、彼女の適性はこの考えでほぼ間違いないはずだ。
であるが故に、仁はこの日のタイム計測をクラシック戦線の第1戦となる『皐月賞』と同じ距離である2000mに設定したわけではあるが……その戦いはまだ1年も先のものである。
ライアンの精神を強くするために、わかりやすくクラシック三冠制覇という目標を打ち立てたてる良いが、まずはそのレースに参加できるだけの実績を積む方が大事だ。
まずは地道に、1歩ずつ、目の前の課題を突破していくこともまた重要なことというわけである。
「どうですか? あたし、デビュー戦、勝てそうですか?」
「ああ。ただ、油断はできないぞ? 他の子たちだって気合を入れてデビュー戦に挑んでくるんだ。その覇気に飲まれたら勝てるものも勝てない」
「……はい、わかってます。でも、あたしだって負けていいだなんてこれっぽっちも思ってません。あたし自身の夢を見つけるためにも……このデビュー戦には、絶対に負けられませんから」
1か月後に迫った、トゥインクル・シリーズに挑むウマ娘たちのデビュー戦……通称『メイクデビュー』レースが、現在の2人の目標だ。
選抜レースを経て、自身のトレーナーを見つけたウマ娘たちが一堂に会し、その実力を披露すると共に本格的な戦いへと漕ぎ出すこのデビュー戦は、高い注目度も相まってウマ娘たちの今後に大きな影響を及ぼすレースとして広く認知されている。
現在も名を知られている高名なウマ娘たちがこのメイクデビューで華々しい初勝利を飾ってからトゥインクル・シリーズに臨んでいることからもわかる通り、このレースでの勝利がその後の活動の大きな弾みになることは間違いない。
クラシック三冠を目指すライアンにとっては絶対に落とせないレースであり、6月の頭に開催されるメイクデビューに向け、気合十分といった様子でトレーニングに励んでいた。
「そう固くなり過ぎるなよ。リラックスして、トレーニングの成果を発揮することを考えるんだ」
「は、はい! うぅぅ、ダメだなぁ……ついつい体に力が入っちゃって、筋肉がカチカチになっちゃいます……」
やはり、ここぞという場面での勝負弱さを持つライアンは、迫るメイクデビューに対して気負い過ぎている面があるようだ。
そういった彼女の弱点をフォローしつつ、仁はライアンにわかりやすい課題を提示し続けていた。
「メイクデビューの走行距離は2000mを申請しておいた。だからまずはその距離のレースでの立ち回りを身につけよう。差しウマ娘として必要なコース取りやスパートを仕掛ける位置なんかをしっかりと体に染み込ませて、それを実戦で活用できるようにするんだ」
「はいっ! 1つ1つの動作にしっかりと意識を払う、筋トレと同じですね!」
仁からの指示を受けたライアンがぐっと両拳を握り締めながら頷く。
バ郡に飲まれない、勝負所を理解する、といった簡単なれど重要なポイントを抑え、そこをしっかりと意識させることで、彼はライアンのメンタルの弱さを誤魔化そうとしていた。
(ライアンの譲り癖は長年の経験によって培われたものだ。これを1か月程度で完全に解消するのは難しい。まずは目の前のレースに集中させて、確実に勝つという意識を植え付けよう)
デビュー戦特有の緊張による失敗、勝利を目指すウマ娘たちとの競争の最中に発現してしまいそうな譲り癖、ここぞという時の勝負弱さ……そういった不安点がライアンには存在していることは確かだ。
だがしかし、逆にいえばそれさえどうにかしてしまえばメイクデビューで圧勝できるだけの実力を、既にライアンは有している。
だからこそ、その不安点を徹底的に潰す。彼女が長年続けてきた筋トレと同様に、1つ1つの動作に意識を払わせた上で勝利を掴ませる。
積み重ねた努力は彼女を突き動かす自信になってくれるだろうし、そうして掴み取った勝利はクラシック三冠を目指す彼女の弾みとなるはずだ。
自分の目に狂いはない。彼女は絶対、最高のウマ娘になる。
そう信じて疑わない仁は、ライアンの肩を掴みながら、彼女の目を真っ直ぐに見つめてその信頼を言葉としてみせた。
「ライアン、君は最強だ。同期たちにも、マックイーンにだって、君は負けてない。メイクデビューで君の強さを観客たちに見せつけてやろう。大丈夫、ライアンならできる!」
「……はいっ! トレーナーさんのお陰で、あたしも俄然燃えてきました!」
「ははは。それはいいことだけど、今日はもうトレーニングは終わりだよ。あと、ウイニングライブに備えて歌とダンスの練習もしておくのを忘れないようにね?」
「うぐっ!? あ、はははは……そ、そっか、勝ったらあたし、大勢の人の前で歌って踊るのかぁ……! なんか、意識したら急に恥ずかしくなってきちゃいました」
顔を赤らめ、ぽりぽりと頬を掻きながらそう呟いたライアンの様子に頬笑みを浮かべる仁。
ボーイッシュに見えるライアンだが、実はこういう乙女チックな部分もある。
そのことを知る仁の反応に対して膨れっ面になったライアンは、少し不機嫌な様子で彼に抗議の声を上げた。
「むぅ~……! 笑わないでくださいよ、トレーナーさん! そりゃあ、あたしなんかがウイニングライブで歌って踊るのは場違いだって気持ちはわかりますけど……」
「ごめんごめん。でも、俺はそんなこと思ってないよ。ライアンはかわいいし、ライブのパフォーマンスを見て、ファンになるお客さんも沢山いるんじゃないかな?」
「かっ、かわいい!? そ、そんなお世辞なんて言っても、何も出ないですよ! 冗談は止めてくださいよ、トレーナーさん!」
先程よりも激しく慌てるライアンの反応に浮かべる笑みを強めた仁は、心の中で冗談なんて言ってないと呟いた。
本当にライアンのことをかわいい少女だと思っている仁だが、そのことを彼女に伝えればもっと慌ててしまうだろうからと黙っていることに決めた彼は、改めてトレーニングの終了を告げると共に彼女に体を冷やさないよう注意をしてから、運動場を後にするのであった。