使っていたボールペンを丁寧に置いてから、竜宮レナは両手を上げて大きく伸びをした。
ボールペンをうっかり乱暴に放り捨てて、壊れたりでもしたら嫌だからだ。
なんといっても、ここしばらくで一番お気に入りの『かぁいい』文具なのだから、大切に扱わないといけない。
もっとも、『かぁいい』という口癖はだいぶ昔に封印することにしていた。
あまり連呼していると、生徒達に示しがつかないからだ。
だから最近のレナは、心の中でだけ『かぁいい』を溢れさせていた。
一日で彼女が内心で使う『かぁいい』はそれこそ無限だ。
なぜなら、彼女の担当している生徒達はほとんど『かぁいい』子供達ばかりで、わずかにいる『かぁいくない』子供達でさえ、彼女がちょっと工夫(ニヤリ)すれば見事に『かぁいい』姿に変身するからである。
まさに、職場は彼女の楽園。
お持ち帰りしなくても、ここが彼女のコレクションルームなのである。
ふと壁時計を見上げると、お弁当を食べてからまだ三十分ほどしかたっていない。
残った事務仕事を早めに終わらせれば、夜までには先行した子供達に追いつけるだろう。
彼女は今、雛見沢の学校の教師であり、生徒達は臨海学校という名の泊り込みの海水浴に出かけているのだ。
子供達が居ない間に、仕事の常としての書類整理をするためにレナだけが半日居残りをすることになっていたというわけである。
学校内でもっとも下っ端なのだから、それも仕方ないことだろう。
だが、レナには気がかりがあった。
尊敬できる先達にして同僚の知恵先生はともかくとして、ちょうど暇だからと自己申告して引率に立候補した連中は信用できない。
信頼ということなら、世界の誰より信頼できる連中だが、何をしでかすかわからないという点でははっきりいって誰よりも危ない。
「早く行かないとね」
レナはもう一度ボールペンを手に取った。
その時、
「すいません、あなたが竜宮さんですか?」
職員室の戸を開けて、廊下から一人の青年が顔を覗かしていた。
最初は、北条悟史かと思った。
青年は雛見沢の若い男にはあまり多くない、華奢な体格と繊細そうな雰囲気の持ち主だった。
雛見沢でのこういうタイプの代表格は、悟史と診療所の監督ぐらいなものだろう。
あとは多かれ少なかれ、ちょっと逞しい連中ばかりだ。
レナの基準で行くと、あんまり「かぁいく」はない。
「どなたですか?」
外から来た者だろう。
雛見沢は皆顔見知りの村人ばかりだから、彼女が知らない顔であるということは余所者だということだからだ。
それにレナのことを知らないというのも推測を裏づけする。
それにしても珍しいことがあるものだ。
最近は観光にも力を入れているので、雛見沢特有の排他的な雰囲気が薄れていたとはいえ、外からの来訪者がこんな観光スポットでもない学校にくるとは。
青年は手にしたファイルを小脇に抱え、礼儀正しく頭を下げた。
「あの、雛見沢の歴史に詳しい人ということで、あなたを紹介されたんです。竜宮レナさんですよね?」
「あら、それで私ですか」
レナはいぶかしんだ。
彼女より雛見沢の歴史に詳しい人物は何人もいると思ったからだ。
幼少期から、高校時代まで村から離れていたレナが適材とは考えにくい。
「実は僕はサラリーマンをしながら小説を書いているのですが、このたび雛見沢には取材をしにきたんです。突然の依頼で恐縮なんですが、よろしかったら取材にお付き合いしていただけませんか。本当なら前々から、電話とかでお願いしておくのが筋なんですが、本業でいきなり休暇が取れて、今日しか時間が取れなかったんです。お願いできますでしょうか?」
必死だな。
無碍に断る気はハナからなかったが、これだけ一生懸命に頭を下げる人をすげなくできるほどレナは冷たいタイプではなかった。
「作家さんなんですか。へえ、どんな作品を書いてるんですか」
「はい、これでも一応二冊出しているんですよ」
背負ったカバンの中から新書サイズの小説を取り出す。
なんか随分とおどろおどろしい戦国武者のイラストが表紙で、「あー、圭一くんやみぃちゃんなら喜んで読むかもしれないねー」と自ら手に取ることはないだろう突き放しまくった感想を抱く。
間違ってもお持ち帰りしたくなる類のものではない。
「もしかしたらご存知かもしれませんが、僕は後醍醐天皇をモデルにした伝記小説とか書いているんですよ。これなんですけど、荒廃した京都を舞台に、天皇家の秘伝を盗んだ魔人・足利尊氏が出てきて―――」
「あは、わたし、小説は恋愛物しか読まないんですよ」
レナにしか読みきれない抜群のタイミングで青年の語りを止める。
興味のない話を延々とされてはかなわないし、多分この青年は延々とするんだろうな、と直感したからだった。
なんとなく圭一くんのお父さんや診療所の監督を思わす、マニアックな感じを漂わせる人だなとレナは思った。
放っておくと、いつまでも自分の世界に埋没し続けそうなところもよく似ている。
ようは趣味についてのブレーキが利かない人なのだろう。
かつての部活の時間で、勝負に負けた罰ゲームを決めるときの自分たちのことを思い出した。
ブレーキがないとクラッシュしたときの破壊力がまたハンパないんだよね。
それにしても、後醍醐天皇とはまた渋いものを書く人だ。
まだ若いのに。
えっと、後醍醐天皇って南北朝時代に権力争いで敗れた天皇さまだったっけ?
雛見沢で教師になり、専門でない科目についてもある程度は詳しくないといけないという必要上、レナも日本史はそれなりに勉強してきている。
受験レベルとなるとちょっと怪しいが、雛見沢のレベルでは充分なぐらいだ。
だが、詳しいというほどではないので、滔々と語られてもどう受け答えしていいかわからない。
雛見沢で天皇と言えば、園崎天皇なんて恐れられていた雛見沢の母、お魎おばあちゃんのことである。
そういえば、お魎おばあちゃん、入院しそうになっていたな。今度、お見舞いに行ってあげよう。
「そうなんですか、残念です」
もの凄く残念そうだ。
しかしすぐに作家の青年は気を取り直し、
「―――今回は、このあたりを舞台にしたホラーを構想中でして。雑誌に載っていた写真が素晴らしくて、もうすぐに跳んできてしまいたいぐらいでした」
ホラーの舞台にされて、素晴らしいと言われても複雑である。
そんなレナの内心に気づくこともなく、青年がファイルから出してきた写真は、おどろくほどに懐かしいものだった。
(富竹のおじさまが撮った写真じゃない)
それは梨花の住む古手神社から、俯瞰的に撮った村の写真だった。
少し古くて、でもあまり変わっていない。
レナたちが青春のときをすごしていた時代の雛見沢。
泣きたいほどに懐かしい匂いがした。
「役場に紹介してもらったのは、古手神社の当主の方と、園崎家の当主の方だったんです。それで話を窺う予定だったんですが、どちらも留守でして」
レナは納得した。
二人とも確かに雛見沢には居やしねえわな。
「で、他に雛見沢の歴史に詳しい方はいないかと、役場に勤めていた公由のお嬢さんに聞いたら、あなたならと教えてもらえまして」
ようやく話がわかったので、レナは青年に応接スペースのイスを薦めた。
壁の時計を見てもまだ夕方までは余裕がある。
少しぐらいだったら、話をする時間もあるだろう。
「どうですか、雛見沢は?」
「空気が綺麗で、とてもいいところですね。しかも、村中になぜか盛り上がりのような活気みたいなものが感じられてワクワクしました」
「もう少し早くこられてたら、綿流しのお祭りの時期だったから、もっと盛り上がっていましたよ」
「『綿流し』。このあたりでは有名なお祭りなんですってね」
「ええ、うちの村には、小さな種を山火事ぐらいに燃え上がらせる真っ赤な炎の男がいますから。もうすぐ、県内有数のお祭りになりますよ」
青年の顔が微妙になった。
レナはぴんときた。
綿流しについて、何かを知っているんだなと感じたのだ。
そして、青年はちょっと言いにくそうに姿勢を正した。
本題に入るのだろう。
青年はリュックサックから一冊のスクラップブックをとりだした。
なんとなく、見覚えがあるような気がしたが、もちろん気のせいだ。
あのときのスクラップブックはみんな富竹が回収しているからだ。
「実は、僕は『オヤシロ』さまについて知りたくてここに来ました」
「『オヤシロ』さま?」
レナはわずかに眉をひそめた。
彼女にはその名前には嫌な思い出があるからだが、青年はそんな彼女の心情には気づかない。
ただにっこりと微笑んでいるだけにしか見えないのだろう。
だが、内心では昔よく村にやって来た、オカルト雑誌やゴシップ目当ての記者の同類なのかと警戒したのだ。
事件や事故を『オヤシロさま』の祟りの名の下に起こされた怪事件や事故であると、まるで雛見沢を呪われた土地に仕立て上げようとする目的なのか。
ホラー小説を梳きたいと言っていたし。
もしそうなら、早いうちにお帰り願わないとならないだろう。
彼女の大好きな雛見沢を悪く書かれてはたまらない。
「あ、あの『オヤシロ』さまと言っても、例の祟りについてじゃありません。それはここに来る前に色々と噂は聞いていましたし、実際に調べてもきましたけど、僕が知りたいのはそっちじゃないんです」
レナの雰囲気が変わったのに、気づいたらしい。
思ったよりも洞察力のある青年のようだ。
いや、洞察力と言うよりも、危険を察知する第六感が働いているのか。
確かに今のレナはちょっと危険な爆弾になりかけていた。
だが、そんな彼女の様子を無視して、青年は言う。
「僕はですね、『オヤシロ』さまの正体が知りたいんです」
と。
以前、個人的な趣味で書いたお話です。
四話ほどで終わると思います。