時は一刻ほど遡る。
宙を舞い踊る雪の花は、朝日をちかちかと弾く。
吐く息すら白く凍るこの地では、別段珍しくもない光景だ。
岩山を彩る銀世界の中では、そのきらめきはすぐに消えてしまう。
またあるものは、豊かな地熱で起こる湯気や煙突の燻りの中に溶けていく。
渡り着いた人々が雪に閉ざされた峡谷を開拓して創り上げた、温もりと静寂が共にある止まり木。
野心に溢れ新たな知を求める人々が、さらに活動範囲を広げんとして築き上げた砦。
それこそが、此処──前線拠点セリエナだった。
セリエナの北側には、赤い布の括り付けられた紐が、まるで結界のように張り巡らされている。
その下にあるのは、大掛かりな兵器を保管しておく兵器置き場だった。
手前には予備の弾などを保管したり見張りを担当する者が休んだりするための天幕が、両側には大砲やバリスタといった標準的な兵器が置かれている。
一見すると立体的な闘技場のようにも見えるが、その実は言ってしまえば物置だ。
普段は兵器の整備を担う者や物見櫓から見張りをする者がいる程度と、まず日頃の調査には用のない場所である。
しかし今は、セリエナの調査員の半数以上が弾薬の入った箱などを持って足速に行き来していた。
そんな中、ごった返す天幕の近くでぽつりと佇む人影がひとつ。
尖った耳は霜焼けしないよう帽子に仕舞い、長い髪も結ってしまい込んでいる。読み終えた竜皮紙を後ろに重ねるのに、悴んだ手は何度か滑って失敗した。
ほう、とその人物が息を吐くと、白い塊は空一面の鈍色に解けていく。来たばかりの頃は物珍しかったそれにも、もうすっかり慣れてしまった。
雪風が、首元を覆う毛皮から漏れた息で凍った前髪をなびかせる。
目を守る睫毛は、降った雪と息の凍った水滴で重く、白くなっていた。
周りでは、調査員たちが頻りに情報を伝え合っている。
清潔な水や包帯に十分な薬品が整っているか、長期戦になった場合に備えて食糧の備蓄は十分か。特にテスカトとの戦闘になれば火傷は避けられないため、輸液の為の生理食塩水は膨大な量が必要となる。
そして砲弾に弾を込め終えただの、速射砲の整備が整っただの、物見櫓からもまだ標的が観測できないだの。
班のリーダー達から報告を受けた司令官はそれら一つ一つに頷き、仲間を労う言葉を掛けた。
風通しは良いものの、なんとも物騒な情報交換である。
そんな言葉が飛び交うことは、やや稀ではあるが慣れたものだ。
長い航路の末に辿り着いたこの場所に足を踏み入れてから、新たな船は二度にわたってこちらへ来た。
特に最後の船が到着してからは、護衛を頼みながら自らも龍の域へと足を伸ばすことも増えている。
仲間がテントの天幕を持ち上げてこちらへと歩み寄ってくる気配を感じながらも、その人物はただ目を閉じていた。
「ずっと外にいては凍えてしまいますよ、ユウラさん」
ユウラと呼ばれたその人は、相手の目的が自分だとわかると柔らかな笑みを湛えて振り返る。
ニッと人好きのする笑みを浮かべるのは、セリエナの生態研究所で働く同僚だ。
同じ竜人族でも、調査団に所属しているのは腰の曲がった爺様方──豊かな知恵と経験を重ねた聡明な学者がほとんどだ。数少ない自分と同じ若者であるため、ユウラは学に対して情熱的な彼に対して親しみを覚えていた。
「ご心配をどうもありがとう。でも、今はどうしてか外に居たい気分なのです」
ユウラが「凍えないようには気をつけますね」とウインクをすると、学者はやれやれと溜息まじりに苦笑した。
都市ヴァルクスに近い火山地帯の出身であるユウラにとって、セリエナの寒さは身に堪える。
物心ついた頃から溶岩に慣れ親しんでいたため、きっちりと仕事をこなしつつも寒い寒いと騒いでいる者には、心の中でこっそりと共感していた。
温泉が沸いている分いくらかましになっているとはいえ、吹き付ける風は恐ろしく冷たい。
少し前に爺様方や若き期団長らは大峡谷の向こうへ行こうと勇んだが、ユウラはアステラに留まることを選んだのも、暖かさが心地よかったからだ。
セリエナへと派遣された当初はすぐにでも帰りたいと思っていたが、今は何故かこの雪風に当たっていたかった。
新大陸は龍脈が各地に張り巡らされているため、溶岩が湧き出ている場所は多い。
だが溶岩地帯と呼べるのは龍結晶の地か、導きの地の最下層くらいなものであった。少し奥地へ行くと硫黄のにおいのするあの暑さを懐かしむこともある。
「それで、炎王龍のほうはどうなんです?」
スッと笑みを収めた同僚に、ユウラは唇を一文字に引き締めた。
「アステラの現状はまだ報告が届いていないのでなんとも言えません。が、先程の伝令からして、セリエナのある方角は知られてしまっているのでしょう……だとすれば、準備は万全にしておくに越したことはありませんね」
月並みなことしか言えないが、これ以上はユウラ個人の力でどうにかなることではない。
現大陸の都市のように、他の街などとすぐに連携が取れるわけではないアステラとセリエナは、互いでまめに情報共有を行う他なかった。
現時点で分かっていることは、龍結晶の地に縄張りを構えていたテスカトの番のうち、雄が巣を残して立ち去ったことと、その大まかなルート。
雌がそれを追っており、黄金郷などのあちこちで痕跡が発見されているが、防衛戦の為の人材不足でまだ発見されていないこと。
そして、雄──炎王龍はヒトもしくはヒトに関する何かを探していること。
片角の年老いた炎王龍とその番の若い炎妃龍は、ユウラが発見してからずっと観察してきた個体だった。
調査団では青い星と牙を交えた個体らに注目が集まっていたが、ユウラはこちらの番の調査をさせて貰えるよう上に頼み込んだ。テスカトだけに、焦がれていたと言っても過言ではないかもしれない。
それは恋や愛欲とは異なるもの。自分は彼を独占したいとも、情を抱こうとも思わない。
ただ、釘付けにされてしまって目を離すことができない。そんな不思議な存在だった。
どうしてか、胸が苦しくなるほどの懐かしさを覚えるその姿。
護衛がいるとはいえ、学者の自分は安全のために双眼鏡で拡大した姿しか見たことがなかったが、遠目から見守れれば十分だった。
傍目からすれば、研究熱心な学者として映るだろう。対象に魅入られて、そのことしか頭に入ってこないような。
それは他の学者とも同じかもしれない。だが奥底にあるのは、研究への意欲ではなく個人的な感情だ。
この思いが何に由来するか理解できるまでは、周りに悟られてはいけない。いつしかそう思うようになった。
こういうところが、変わっていると言われる所以なのかもしれない。が、今は周囲も負けず劣らず奇人や変人ばかりだ。
ユウラはそっと目を伏せる。
「龍とヒトは異なる。……それでも私には、
含みのあるその言葉に、学者はぴくりと眉を上げて発言の主に視線を向けた。
ゾラ・マグダラオスや性別の判明するリオス種などのモンスターに対して代名詞を用いる者は時たま存在する。
しかし今のユウラの口振りからは、敢えて意味の籠った遣い方をしているように聞こえた。
もしくは、"何か意味を持っていると解っているのを隠していた上で"思わずポロリと溢れてしまったかのような。
学者は目を瞬かせる。
疑っている訳ではない。だが調査団にとって有益な情報を握っているのだとすれば、なぜ共有しないのか。
龍と人が異なることはよく解っているつもりだ。けれど、ユウラが言いたかったことの核心は別にある気がした。
「……あなたは、何を知っているんですか?」
実際、咎めるような言い方ではなかった。純粋に、疑問を投げかけただけといったような。
それに対してユウラは僅かに動揺を見せ、困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、私自身もよく分からないのです。……とはいえ、私がずっと研究対象として追っていた龍ですので。他の方よりも、ほんの少しだけ多く彼を観察しているというだけですよ」
言い方こそ柔和だが、それは"これ以上は踏み込むな"という線引き。
学者は尚も見つめていたものの、ユウラはそれ以上は何も言わず、再び雪の降り止まない空へと視線を移した。
***
いつしか窓からは、冷たい風が吹き込むようになってきていた。
アステラを出た時のままの格好ではもういられない。既に周りの者は分厚い毛皮のケープやコートを羽織っており、渡りの凍て地が近いことを如実に示していた。
いま乗船している者の多くは四期団と五期団だ。アステラから来た者もいれば、セリエナから出張に来ており戻る最中である者もいる。
その殆どがハンターであるため、こう──端的に言うならば、むさ苦しい。
出航当初と比べれば船の中は騒がしく、足音すらもかき消されてしまう。
そんな中、ジェナは奥のテーブルに移り、温めて香辛料を効かせた果汁に息を吹きかけていた。
果汁に香り高い木の皮を乾燥させたものと、芳香と辛みのある根を混ぜたそれは、身体を芯からぽかぽかとさせてくれる。
セリエナには香辛料が豊富にある。そのうちの一部はアステラにも輸入され、食材の貯蔵や食欲増進効果に一役買っていた。
これ以上ハンター達の食欲が増しても困ると、激務の給仕アイルーからの愚痴があったのはここだけの話だ。
リュカは用を足しに行っているため、今このテーブルに居るのはジェナ一人。
ふいにトン、と肩を叩かれ、ジェナは振り返った。
「はぁい、ジェナ。ご機嫌いかが?」
聞き覚えのある、低くも艶やかな声。
そこには上質な毒妖鳥の装いに身を包み、赤い唇に笑みを浮かべた大柄なハンターが立っていた。
「キャシー!」
キャシーことキャスリーンは、ジェナの同期だ。セリエナが創られてからは、渡りの凍て地の偵察を兼ねた食料調達係として奔走していたらしい。僻地生まれのキャスリーンは、自給自足術に長けている。
さっぱりとした姉御肌な性格の彼女は、皆から慕われていた。
ジェナはさっそく隣の椅子を引き、腰掛けるよう勧めた。そして料理を運び終えた給仕アイルーを呼び止め、キャスリーンの分を注文する。
「アステラに来てたなら、声を掛けてくれたら良かったのに。そのリップカラーも似合ってるわ」
「まったく呑気ねぇ……でもありがと。話したいのは山々だったけど、それどころじゃなかったんだから。アタシ達がセリエナに情報伝達をしてたのよ」
「うわ、そりゃ大変。お疲れ様」
キャスリーンは手を組んで肘をついた。それからトテトテとアイルーが運んできてくれたカップを受け取り、ふと辺りを見回す。
「そういえばセルマちゃんはどうしたの?」
「マム戦で怪我しちゃって、まだ療養中なの。その間、代わりにペアを組んでるのが──」
その時、席を立っていたリュカがこちらへ戻ってくるのが見えて手を振る。
彼が戻ってくるや、ジェナは相方の腕をぐいっと掴んだ。
「──この子ってわけ。こちらはリュカよ、彼女はキャスリーン」
「もー、この子って歳じゃないよ。……あ、僕はリュカです。こっちはジャック。よろしく」
ジェナに文句を言いつつ、リュカが手を差し出す。勿論ジャックの掴まっていないほうの手で。
キャスリーンは束の間目を瞬かせたが、やがて握手に応じた。
「アタシはキャスリーン、大剣使いよ。キャシーでいいわ」
挨拶もそこそこに、三人は飲み物を片手に談笑していたが、そのうち船の中が騒がしくなってくる。
そろそろセリエナも間近だ。
碇の用意やら天候確認やらで人々がばたついている中、キャスリーンはジェナにだけわかるように手招きした。
それから周りを少し見て、そっと耳打ちする。
「ジェナ、アナタあの子と組んで大丈夫なの?」
心配の言葉に、ジェナは息を吸い、曖昧に微笑む。
キャスリーンは、ジェナの過去を知っている数少ない存在だった。
自分はこれまで"性"で苦しんできた、だから新大陸で生き方を変えたいのだ、と打ち明けてくれた彼女なら、信頼できると思ったのだ。
この苦しみは、経験した者にしか解らない。そう心を閉ざしていたジェナに優しく触れたのは、セルマとキャスリーンだった。
「どんな経緯でペアになったかはアタシは知らないけど……でも、もしつらくなったら。その時は無理しないほうが良いわ」
「ありがと、キャシー。……でもね。リュカとは組んでまだ日が浅いけど、彼には色々救われてるの」
ジェナは静かな笑みを湛えた眼差しを、ウルムーの後ろ姿へと向ける。
「どうしてかは分からないけど、今はあたしにとっての転機なんじゃないかって。そう思うのよ」
ジェナの横顔に、キャスリーンは暫く何も言えずにいた。灰青の瞳の揺らぎが、どこか危うげに見えたのだ。
だが少しして、ふぅと溜め息を吐く。
「まあ、何かあったら言いなさいな。話を聞くくらいならアタシにもできるから」
「ありがと。あーあ、キャシーがずっとアステラに居てくらたらいいのに!」
「はいはい、褒めても何も出ないわよ」
ジェナを適当にあしらい、キャスリーンはカップの残りを飲み干した。コト、と空になったそれをテーブルに置くと、ハンカチで口元を拭く。
「さあ、もうじきセリエナに着くわ。降りる準備をしないとね」
ジェナはキャスリーンと別れ、戻ってきたリュカと共に甲板への階段を上った。
吹き込む雪混じりの風の中、あかい火の粉が舞っている。
何処かの国では、紅と白は縁起の良いものとされているらしい。
けれど今この地を染めるそれらの色は、常を超えるもの。
凍える寒さの中でもすぐに消えない生命の焔は、雪降る温もりの地で脈打っていた。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
最近多忙でヘロヘロだったので、いつにも増して誤字脱字が多いかもしれません。