船から降りたジェナ達は、目の前の光景を固唾を飲んで見守っていた。
兵器置き場の広間では、龍と人が向かい合っている。
龍の炎は既に消えそうなほどに弱く揺れており、その鬣は冷たく濡れていた。それでも、青髪の竜人の元へと歩み寄る。
威風堂々。雪の中で衰弱していようとも、彼の姿はまさにその言葉を体現していた。
竜人は困惑しながらも、炎王龍に倣って少しずつ歩みを進めていく。
周囲で見守る精鋭たちは、ある者はいつでも武器が出せるように、ある者はすぐに救助に駆け付けられるようにと構えていた。
だが人々の心配をよそに、やがて一頭と一人の間の距離は投げナイフの投合すら届くほどに近づいた。
鳥の羽ばたきすら許さないほどに空気は張り詰めている。ただただ、龍の吹子のような呼吸と雪風の音のみが支配していた。
両者はやがて、歩みを止める。まるで何かの儀式のようだ。
炎王龍の巨大な牙が覗く。その瞬間、誰もが武器を構えて駆け出そうとしたが、ソードマスターが手で制止した。
その牙は竜人を傷つけることなく、喉奥から低い唸りを発するのみ。声が意味するところは、その場にいる誰にも分からなかった。
炎王龍はしばらくの間、竜人に何かを語り掛けていたようだったが、やがて口を閉じて黙り込んでしまった。
竜人──ユウラは束の間訝しげに眉を顰めていたが、炎王龍の目の奥に宿る光を認める。
その瞬間。
「あ……!」
ユウラは弾かれたように顔を上げた。
独りで泣いていた自分に寄り添ってくれた、大きな身体と包み込んでくれた尻尾。ザラザラとした舌の感触。温かな蒼い眼差し。そして、自分を優しく呼ぶ鳴き声。
それまで無かった筈の記憶が、次々と脳裏にフラッシュバックしていく。
夢で見た記憶かと思ったが、それにしては具体的で鮮明すぎる。ならばきっと、現実だったのだろう。
何十年、何百年前のことだろうか。それでも彼と自分は、昔会ったことがあったのだ。
自分は彼をなんと呼んでいたのだったか……そう、確かそれは。
「……おてんとう、さま?」
その言葉を聴き、炎王龍は懐かしげに目を細めて喉を鳴らした。
お天道様。
大地に恵みをもたらす太陽を、神と崇めるその呼び方。
炎王龍は"牙を持つ太陽"とも呼ばれる古龍だ。龍を、もしくは龍の姿が見えずとも彼らによる自然災害を畏れる地域は少なくはない。
よって、この名称もそういったところから来ているのであろうことは想像がつく。
だが一体、自分はいつどこでこの言葉を知ったのだろう。少なくとも、大人になってから数百年は聞いていない。
だとすれば、子どもの頃か。
そこまで辿り着いて、ユウラは目を見開いた。
(──そうだ、おばあちゃんが……)
あの山にはお天道様がいらっしゃるんだよ、わたし達をいつも見守って下さっているんだよ、と。祖母は幼い自分を膝に乗せて話してくれたのだ。
ユウラは額に拳を当てる。どうして今まで忘れていたのだろう。
そもそも、薄情にも家族のことすら忘れていた。
(お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん……集落の、皆……)
集落。
そうだ、昔住んでいたのは山の麓の小さな集落だったはずだ。アプトノスやケルビが草を食む、静かな場所。
ならば自分はいつお天道様と出会ったのだったか。母の胸に抱かれていた頃、父に遊んでもらっていた頃、祖父母と手を繋いでいた頃。
順々に思い出そうとするが、途切れ途切れの記憶はなかなか繋がらない。
ユウラは顔を顰め、必死に思い出そうとしていた。その様子を静かに見守っていた炎王龍は、大きな鼻面をユウラの頭に擦り寄せた。
その温かさと感触に触れた途端、再び記憶が花開いていく。
お天道様に連れられて入って行った、暑いけれど熱くない不思議な場所。お天道様の寂しげな横顔。悪夢にうなされ続けた毎日。
そもそも、あの時の自分が独りで泣いていた理由。それは、帰るべき場所がどこにも見つからない為だった。
年を重ねたからと、少し遠出したあの日。家族や友達に自分はもう大人なのだと証明するために、集落から離れた湿地へと出掛けたのだった。
しかし、幼い足ではすぐに疲れ果ててしまう。日が落ち、大きな音や降り注ぐ灰に驚き、泣きべそをかきながら光の方へと歩いて行った先で。
集落は、跡形も無くなっていた。家族の住む家も、友達と遊んだ高台も、何もかも。
幼いユウラを導いた光は、煮えたぎる溶岩だったのだ。大切なものすべてが、熱くぎらぎらとした溶岩の、中に。
「ぅ、あ、あああ……」
ユウラは口を手で覆い、首を横に振った。
あんなこと思い出したくない。
でもお天道様について思い出したい。
二つの望みが互いを引き裂いて、埋まっていたユウラの記憶を乱しながら弾き出していく。
混乱してその場にうずくまってしまったユウラを、炎王龍はじっと見つめていた。
その眼差しには、隠しきれない悲しみが浮かんでいた。
***
モンスターとヒトは相容れない。それが、狩る側に立つ者らの常識だった。
世界には乗り人なるものも存在するというが、この拠点にいる中では圧倒的に前者の価値観で生きてきた者が多い。
だが、ここは新大陸。これまでの常識など塗り替えられるのが当たり前の生活をしてきた人々の集まる場所だ。
いま目の前で起きている出来事にも、適応しつつあった。
「ユウラさん、大丈夫かな……」
リュカは、人々の視線の中心にいる人物を心配そうに見つめる。
自分たちはあくまで仕事を共にするという間柄だ。過去のことについて、深く詮索することはなかった。
だが、今のユウラはあまりにも辛そうだ。かの人を苦しめているのは、一体どのような記憶なのだろうか。
「あの反応からして、解離性健忘といったところだろうね」
「かいりせい、けんぼう?」
ジェナが鸚鵡返しをすると、その言葉を発した調査員が頷く。
人は何か事故や家族を失うなどの衝撃的な出来事が起こると、そのことに関する記憶が失われたり、関連するものを無意識に避けたりするのだという。
そんな脳のメカニズムが、ユウラを混乱させているのではないか。それが彼の推測だった。
その時、ひとりの竜人族の老女が深く嘆息した。
他の年老いた者と同じように若者の腰くらいまでしかないものの、その背筋はすっと伸びている。
聡明なその学者は、ゆっくりと口を開いた。
「あの子の生い立ちから考えれば、無理はない。何せ私の故郷──そしてあの子の生まれた集落は、炎王龍に滅ぼされたんだからね」
彼女の言葉に、皆が目を見張る。
「他人の過去を勝手に明かすのは私とて気が引けるが、このことは今の調査団にも関わる……よって、私の口から話そう」
学者曰く。
むかし、休火山の麓に小さな集落があったのだという。
そこでは竜人の一族が代々暮らしてきた。周囲の人里との交流は、細々とした交易や嫁婿のやり取りくらいのもの。伝統的で慎ましやかな暮らしを、長年続けてきたのだった。
ユウラはその集落の長の子だった。ユウラが生まれた頃、学者はちょうど嫁ぎに出る年頃だったという。
そんな彼らにはある特徴があった。
女も男も濃さや質は違えど、皆が青みがかった髪と金色の瞳をもって生まれてくるのだ。
「私はもう老いて色が抜けてしまったが、あの髪こそ我らが一族の色。青の炎妃からの祝福を受けた者の色なのさ」
その言葉に、皆の視線がユウラの元へと向く。
青みがかった銀色の髪。それは、現大陸で知られる炎妃龍ナナ・テスカトリの鬣と同じ色だ。
新大陸に飛来する炎妃龍の体色は婚姻色とされている。よってユウラの髪はもう番がいる、もしくは独り者の色だった。
「では、その集落では炎龍たちとなんらかの繋がりがあったと?」
ジェナが尋ねると、老女は頷いた。
「半ば形骸化していたがね。姿を見た者はほとんどいないが、太陽の恵みをもたらす龍として祀られていた。
まあ、我々の寿命でも一人がこの世に生まれて老いて死ぬくらいまでの間、火山は眠ったままだったから……きっとお天道様──山の主も、席を外していたんだろうさ」
「しかし」と学者は目を閉じた。
ある年、お天道様は戻ってきた。それも、蒼炎を纏うお月様を連れて。
苛烈で警戒心が強いことで知られる種族ではあるが、お天道様は温厚でおおらかな性格だったという。
よって、集落の何人かがその番の姿を目にしていた。今考えてみれば、学者らにとっては目を輝かせるような光景だっただろう。
お天道様とお月様の間には、やがて新しい生命が宿った。
そうなれば流石に目撃される回数は著しく減ったものの、集落の人々はめでたいことだと喜んだのだという。
御子が生まれればきっと、我々の住む地にも素晴らしい利益がもたらされるだろう、と。
老女は閉じていた瞼を開いた。
白いまつ毛に縁取られた金色が、暗く揺れる。
「だが、人々が待ち望んでいた未来は、訪れなかったのさ。御子は生まれることなく、お天道様の怒りと悲しみが辺り一帯を支配した。それに呼応して、眠っていた山が目を覚ましたんだ。
……酷い有様だったよ。尤も私はもう別の村へと嫁いでしまっていたから、見たのは全て終わった後の光景だったがね」
それはまるで、古龍の在り方をそのまま表したような話だった。
彼らにとっては、他の生き物と同じようにただそこに在るだけ。家族を持ち、喜びや悲しみを感じ、生きているだけなのだ。
それでも、自然は彼らの持つ強大な力に引き摺られてしまう。
おそらくは、元々浅いところまでマグマ溜まりが上昇してはいたのだろう。それが、炎王龍によるなんらかの原因によって圧力が下がり、溶岩が噴き出してしまった。
そしてその麓にあった集落には火山灰が降り注ぎ、溶岩流によって飲み込まれてしまった──。
なんという悲しい災害だろうか。
「村にいたほとんどの者は、巻き込まれて亡くなったよ。
だが、次に会った時。この調査団入りした時には、成長して大人になっていたあの子に集落の記憶はほとんど無かった。あまりの悲しみから、あの子自身の心を守ろうとしたんだろうね」
その災害が起きた後、しばらくしてから学者は故郷に何が起きたのかを探りに行ったのだという。
危険を承知で、それでも真実を突き止めるために。
「お天道様の怒りと悲しみ、と私は言ったね。怒りってのは私の推測だけれど、そう考えるに至った根拠はある。
……火山の麓に炎妃龍と、その腹の中から小さな炎妃龍のものらしき骨が見つかったのさ。おそらく、母体も胎児も助からなかったんだろう。哀れだが、よくあることだね」
それに巻き込まれたのだから哀れなどとは言っていられないが、と老女は苦く笑った。
龍と共に生きる者の達観は、周りには痛ましく映った。
「そんなことが……」
ジェナは唇を噛み、俯く。
あの炎王龍は、むかし妻と子を同時に亡くした過去があったのだ。だからこそ、新しい番にもずっと寄り添っていた。
「それなら、どうして新しい奥さんを置いてまでこっちに来たんだろう? そんな過去があるなら、尚更新しい家族も大事だろうに」
リュカは首を傾げる。
「その理由こそがおそらく……いや、きっとあの子なのさ」
老女は表情を和らげ、ユウラを優しい眼差しで見つめた。
***
故郷を失った記憶と、お天道様に守られて過ごした優しい記憶が綯交ぜになっていく。
思い出さなければ、どれほど平穏な日々を過ごせたことだろう。
けれど、思い出せたからこそ再び大好きだった龍に、本当の意味で会うことができた。
ユウラは思わず手袋を外して手を伸ばす。
炎王龍──お天道様は、それを厭わずに受け入れた。
ヒトの体温よりもずっと熱い筈の、ゴツゴツとした皮膚。
しかし今は、雪風に晒されて自分とそう変わらなく感じる。こんなふうになってまで、お天道様はどうして自分に会いに来てくれたのか。
その時、触れていたところの熱が急に上昇し、ユウラは思わず手を離した。
何事かと見やると、お天道様は苦しげに肩で息をしている。明らかに敵意は見られなかったため、この熱は制御できなかったものだろう。
考えてみれば、自分が初めて会ったときには既に成体だったのだ。
そして新大陸で再会し、観察しているうちに彼が高齢の個体であることがわかった。
つまるところは。
限界が、すぐそこまで来ているのだと。
そう、悟った。
ご無沙汰しております。
今回もここまで読んでくださりありがとうございます!
現在はまだ外は明るいですが、この話が投稿されている頃には、わたしは狩猟音楽祭の余韻に浸りきっていることかと思います。この日に投稿できてよかった!
そろそろ炎王龍編の終わりも近づいてきました。
今後もお付き合いいただけると幸いです。