星の瞬く紺色の端が、微かに白み始めた時分。
そんな早朝に呼び出しを食らい、ジェナは大急ぎで眉毛だけ描いて宿を飛び出した。
見慣れた大きなテーブルの向こうには、一人の青年が立っている。
揺らめく暖炉の炎が、険しく刻み込まれた眉間のしわを一層濃くしていた。
「オズモンド、確かお前が荒地地帯の担当だったよな。至急、導きの地へ向かってほしい」
「えっ……どうしてです? 他の者の立ち入り禁止令は撤廃されていないとはいえ、しばらく落ち着いていた筈なのに」
「──そこで見つかったんだ、身重の炎妃龍が」
結構な音量でルームサービスが起こしにきたというのに、リュカはまだ心地良さそうに寝息を立てている。
彼の顔の周りが明るくなり過ぎないように気をつけながら、ジェナはその寝顔をランタンで照らした。
リュカを起こそうかとも思ったが、これは自分に命じられた任務だ。それに、炎妃龍ナナ・テスカトリは戦闘時に大人数であればあるほど、犠牲が増えやすい古龍だと言われていた。
現大陸では警戒心の強さゆえに複数人の狩人の前に姿を現さなかった彼女らは、この地では我が子を守るために自ら爆心となる。
そんな危険へと、リュカを巻き込みたくはなかった。作戦もまともに練れていないのだから、実力のある他の同期も誘うべきではない。
──嫌な役を任せて悪いが……。
先ほど招集に応じた際のやりとりが、ジェナの脳裏に蘇る。
──何かあれば戦闘になることも、覚悟してくれ。昨日のテオ・テスカトルのこともあるし、もしナナ・テスカトリがこちらを敵対視しているなら見過ごせない。
セリエナを統率する若いリーダーの灰青色の瞳は、苦悩に揺れていた。
古龍の危険に対する警戒を怠ることは無かったとはいえ、彼も新大陸の生まれだ。身籠ったナナ・テスカトリとその子に親近感を覚えていた部分もあるのだろう。
もしものことがあれば、炎妃龍を胎の赤子ごと討伐せよという令。それは酷だが、仲間や拠点を危険に晒さないためには選ばざるを得ないものだ。
ハンターならば、誰しもが経験するジレンマ。ジェナとてこれが初めてではない。
凍りついた胸の奥に乾いた風が吹くのを感じながらも、その言葉にきっぱりと頷いたのだった。
ジェナは冷気を防ぐ毛皮を脱ぎ捨て、熱を吸収する爛輝のドレスを身に纏う。その上にコートを羽織れば、ここを越えるくらいの寒さは耐えられるだろう。
壁に立て掛けた愛器へと手を伸ばすと、その傍で白い翅脈がランタンの灯りを反射した。
「ジャック……」
ジャックは感情のわからない瞳でこちらを見つめていた。動いているから、起きているのは確かだろうが。
柔らかい毛の生えた頭にそっと触れると、ジャックはこてんと首を傾げた。
「行ってくるわ。あなたの主人をよろしくね」
静かに閉まったドアが、夜が明ける前に再び外の風の唸りを内に入れることはなかった。
***
ただの砂を黄金に変える朝焼けが眩しい。
柱のようにそびえる岩の間を通り抜ける風が、髪や袖を靡かせる。
それは乾いていたり湿っていたり、冷たかったり温かかったり……そんな常ではあり得ないような気候の変化すら、ここでは日常だ。
ほんの数ヶ月前まで主に活動していたというのに、どこか懐かしくさえ感じるその風景。青い星のように輝く女人が、滅尽龍ネルギガンテに導かれた地。
ジェナは風にかき消されゆくその匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
アステラ付近の"大蟻塚の荒地"によく似た、けれど箱庭のように小規模に収まっている砂地。
堅殻を持つ草食竜らは群れて辺りを警戒し、
しかし最近は、縄張り意識の強い筈の小型モンスターらは潜み姿を現さない。ここが今、立ち入り禁止となっている所以。
それこそが、昼夜を問わず大地に煌めく月の女王だった。
金火竜リオレイア希少種。
遠い上空からでも分かるほどの、年月を重ねた身体が放つ虹色の反射。
それらが頻りにチカチカと日光を撥ね返すことから、ジェナは彼女が周囲を警戒しているのを悟る。
付近に蒼い炎は見当たらなかったが、調査員が気づくならば、リオレイア希少種が気づかない筈がない。果たしてリオレイア希少種はナナ・テスカトリと敵対しているのだろうか。
爛輝龍のこの装いでは、照り返す光ですぐにあちらに気づかれるだろう。隠れ身の装衣を着たとしても、空中では影になってしまうのだから意味がない。
ジェナは翼竜に指示を出し、荒地エリアから少し離れたところへと降り立った。
(──森林地帯との繋ぎの場所で見つかったとはいえ、ナナが目撃されたのは荒地地帯の筈だけど。それに……)
リュカの話によるとテスカトが居る場所は陽炎が見えるほどに急激に気温が上昇するという。
しかし今は、今は防寒具を脱いでも少し汗ばむ程度。普段の荒地地帯とそう変わらない。
ジェナが対面した炎王龍は身を潜めていたり衰弱していたりしたため納得できるが、炎妃龍も潜む理由があるのだろうか。
リオレイア希少種の様子から、炎妃龍が既にここを離れているとは考え難い。
この地帯に留まるようになった
番も侍らせずに上品かつ悠々と闊歩しているのは、彼女に相応の力と経験があるからこそ。縄張りに入れば威嚇はされるものの、こちらが退散すれば争いには発展しない。
それでも反抗する不届き者には一切容赦せず、耐火に優れているにも拘らず身体中に酷い火傷を負ったディノバルドが見つかったこともあった。
どうやら元々棲息していた雌のディアブロスと意気投合したようで、ディアブロスはなんと
そんなある意味では温和な性格の女王が、なにかを警戒している。あの何が起ころうとも我関せずといった態度を貫き通す彼女が、だ。
それほど炎妃龍を脅威と見做しているのだろうか。
砂地から森林へと植生の移り変わる泥濘にも、草食竜の姿は無かった。
常ならば水溜まりで蠢いているテツカブトガニも、今日は何かに怯えるように泥に潜んでいる。
ジェナは隠れ身の装衣を鞄から取り出し、粘着面へと周囲の砂を振りかけて身に纏った。
風で飛んでくる細かい砂粒が、装衣の隙間から入り込んで重なる。目に入らないように下瞼に力を入れていると、遮光もできるのだから一石二鳥だ。
ジェナはわずかな動きも他者に認められないよう、時間をかけて顔を出す。
この分岐点は見通しが良い代わりに、周囲からも丸見えになってしまうのが玉に瑕だ。
だから向こう側へは回らず、茂みの隙間から危険を確認するしかない。
まず西側にはリオレイア希少種、再確認しても他の生物の気配は感じられなかった。東側は、驚くほどしんと静まり返っている。
いつもは優雅にサボテンを食んでいるディアブロスさえも、どこかへ姿を消していた。どうやら、身籠った炎妃はただ他のエリアへと逃れたわけでは無いらしい。
不気味なほどに静粛な荒地地帯。猛り爆ぜるブラキディオスが出現した時さえ、生命の気配の消えなかった場所が今やこの様だ。
これは迂闊に近づくべきではない。これまでのハンターとしての経験が、そう告げていた。
じっとりとした冷や汗が背に滲む。
その時、張り詰めた大気が荒々しい咆哮によって打ち破られた。
音の反射が起こる地形でないため、そう遠くはないものであることを察する。
こんな鳴き声、炎妃龍は発しただろうか。リオレイア希少種やディアブロスのものとも違う、低く腹から響き渡るような声。
最悪の事態が、ジェナの脳裏に過ぎる。
(ちょっと、やめてよね。荒地レディースとナナだけでもものすごく厄介なのに、四体同時なんて御免よ……!)
本当にツイていない。この運の悪さは一体誰譲りなのか。
しかしまだそうと決まったわけではない。鉢合わせることが無ければ良いのだから。
身籠った雌ならば、危険を回避するかもしれない──否、あの気性の荒い妃が黙って見過ごす筈がなかった。
(あたしはどう立ち回るべきかしら。取り敢えず、セリエナやアステラに飛来しないようにすればいいのよね)
おそらく臨月を迎えているであろう炎妃龍。彼女のそもそもの目的は、姿を消した番を探すことだった。
あまりに酷なことだが、炎王が旅立ったことを炎妃はおそらく知らない。きっと赤ん坊が生まれる前に探してしまいたいと思っているのだろう。
だが、渡りの凍て地はテスカトが滞在するには全く適さない場所だ。
しかもその寒さは、子の宿る子宮の筋肉をも収縮させてしまう。
臨月だとしても、もし妊娠週数が足りず胎児が十分に育っていなかったら。生まれても息をすることもできずに死んでしまうだろう。
あの環境が、お産に甚大なる悪影響を及ぼすことは明らかだった。哀れだがセリエナへ行かせないことは、彼女と赤ん坊を守るためにもなるのだ。
ジェナはそっと目を伏せる。
古龍の繁殖は、ヒトにとっては必ずしも喜ばしいこととは限らない。
それでも一度は子を宿した身としては、母親が我が子の元気な産声を聞けずに終わってしまうのは、悲しすぎると思った。
ジェナの子は母親の自覚のないまま流れてしまったが、あの親子は違う。両親に生まれてくることを願われ、すくすくと育ってきた子どもなのだ。
できるならば、炎妃龍のお産に脅威がないようにしてやりたい。
もしかしたらあの聡いリオレイア希少種ならば、謎の咆哮の主から彼女を守ろうと動いてくれるかもしれない。
だとしたら。ジェナは表情を引き締め、目をしっかりと開けた。
(なるべく手を出さずに様子を見て、いざとなればアステラ防衛戦と同じように動けばいいわ)
自分ならばやれる。あの灼熱地獄で怒れる爛輝龍の角を折ったのだ。きっと今回もうまくいく筈だ。
ジェナは自己を鼓舞し、背中の愛器リルン=グレイシアの柄をぐっと握る。その滑らかで冷たい感触は、恐怖の炎を鎮めるには十分だった。
ジェナは隠れ身の装衣を被り直し、一歩を踏み出した。
(これは……!)
アステラへ五期団が渡ってきて間もない頃、何者かの痕跡が頻繁に見つかるようになったことがある。
ゾラ・マグダラオス捕獲作戦とほぼ並行して行われていたその対象の調査。当時は導蟲が青く光ることすら珍しく思えたものだ。
特徴的な、その痕跡。
頑強な岩に深く刺さるのは、長く鋭い棘。
「ネルギガンテ……!」
咆哮の主は、滅尽龍だったのだ。なにかと調査団、そしてテスカトと因縁の深い古龍。
青い星をここへと導いた"金剛の棘"は、今は姿を消している。おそらくこの滅尽龍は、彼が居なくなったのを良いことにここを狩場にしようとしているのだろう。
滅尽龍ネルギガンテという種は、古龍を好物とする。
そうなれば、真っ先に狙われる対象は決まりきっていた。
(ナナはこのことを知っているのかしら。それで身を潜めている……?)
そうなれば、リオレイア希少種の行動とディアブロスの姿が見えなかったことにも納得がいく。
彼女たちで身籠ったナナ・テスカトリを匿っている可能性が高かった。
導きの地全体は、蟻塚のように入り組んでいる。自分自身がハコビアリになったようにも感じるほどだ。
ネルギガンテから身を隠す場所も、調査団よりも自由がきく彼らならよく知っていることだろう。
(何事もなく終わればいいけど……ともかく、彼らの位置を把握しなくちゃ)
ジェナは岩に刺さった棘のうち、小さなものを一つ引き抜いて採取筒に入れた。
途端に、元々リオレイア希少種の匂いで青く輝いていた導虫がわっと集まる。滅尽龍の匂いを覚えれば、きっと導いてくれることだろう。
どこか炎妃龍の炎にも似た青い輝きは、ふわふわと一筋に収束していく。
ジェナはそれを辿り、再び足を踏み出した。
今回短めです。