燃えない筈の砂が燃えている。
否、その場に生えた僅かな草や昆虫など、燃える物質が全て酸素と化学反応を起こしている為に、そう見えるのだ。
青い炎に包まれ、燃えていない空間も熱に揺れている。
熱の根源は雌たちだが、三対一で優勢になったわけではない。首を折られた角竜は、既に虫の息だった。ジェナのいる位置から全貌は見えなかったが、あの角竜が戦線に復帰してこないのだ。おそらく、もう生きられないだろうことは察しがついた。
月の女王を一瞥するや、滅尽龍は角竜の落ちた崖下へと飛び込んだ。すぐさま覗き込んだ炎妃龍は後退り、ウゥ、ウゥフ、と哀しげな鳴き声をあげた。
妃の鳴き声の合間に、バリバリと何かが砕ける音がする。明らかに攻撃ではないその間隔から、何か硬いものを砕いて喰っている音だと直感的に思った。
その光景を直接目にしたであろう月の女王は、どう思うか。ジェナが目線を移した先に、答えはあった。
一瞬、光蟲が絶命したかのように辺りが光に包まれた。だがその光は熱を伴っている。
熱の根源──月の女王の頭が、胸が、煌々と輝いていた。炎龍ならまだしも、生物が纏うには高温すぎる焔が、彼女を唯一の女王たらしめている。
(これが、報告にあった劫炎状態!)
高温の炎に包まれたフィールドでは、瞬きをする度に残像が瞼の裏でちかちかとする。まるで太陽をずっと見続けているかのようだ。
ジェナは、一瞬耐熱の装衣を羽織るべきか迷った。装衣は重い防具の上に着用することを想定して作られている為、あまり丈夫ではない。
戦闘に巻き込まれた際の切り札として取っておこうと温存していたが、炎妃龍と金火竜が揃った今そんなことを気にしている余裕は無かった。
ジェナは木陰に潜み、火竜の翼膜でできた外套を羽織る。多少熱を持ってはいるが、先程と比べれば遥かにましだ。
低い咆哮と共に、再び周囲の気温が上昇した。息をする度に肺を焦げ臭い熱気が焼いていく。黄金郷とは全く異なる暑さ、熱さ。
耐え切れずクーラードリンクを取り出そうとしたその時、頭上から何かが降ってきたのが目の端に映り、慌ててその場を退く。
直後、燃え盛る塊がジェナの居た場所へと勢いよく落ちてきた。雪のように舞う火の粉が触れる度、植物が火に飲まれていく。
(あ、危なかった……)
心の臓が早鐘を打っていた。
もし避けられず当たりどころが悪ければ、気を失ったまま灰になるまで身を炙られていただろう。息ができないほどに熱い筈なのに、背筋に冷たいものが流れて止まらない。
落ちてきたのは木の幹らしきものだった。それを中心として、忽ち炎が燃え広がっていく。直接吐き出される火の当たるところだけではとどまらず、いつの間にか広範囲に引火を繰り返していたらしい。
ここを越えていくのは不可能だと判断し、ジェナは怒りの渦巻く方へと歩み出した。目立たないように端を歩きたかったが、草木は全て青白い炎に包まれているため、既に燃え切っている地面を選んで足を踏み出すしかない。
炎妃龍は近づいてきたジェナを一瞥して牙を剥く。瞬時に攻撃してこないあたり、ジェナの存在には気づいていたらしい。
──あのナナ、若いけど見境なく暴れるほど馬鹿じゃない。
黄金郷で、リュカが面白そうに口端を上げていた姿を思い出す。
(なるほど、確かにそうみたいね)
とはいえ、警戒状態にある炎妃龍が今すぐに襲いかかってきてもおかしくはない。極力妃を刺激しないよう、目を合わせずに息を潜めて足を動かす。勿論、いつでも武器を出せるよう背には手を掛けて。
だが、その緊張はけたたましい咆哮によって破られた。
月の女王は崖下の滅尽龍に向かって、上空から蹴りかかった。まるで雄火竜のようなその蹴りを、滅尽龍は危ういところで躱わす。
だが、女王はそれを読んでいたかのように長い尾をしならせた。激昂しているとは思えない冷静な判断。しかもとにかく動きの切り替えが早い。
滅尽龍はその攻撃をまともに喰らい、よろよろと後ずさる。しかし女王は息つく暇すら与えず、再び身を翻らせた。
「あっ!」
先程とは打って変わり、角竜を容易く持ち上げていた滅尽龍の身体が宙を舞う。日光を弾き返すのは、折れた無数の棘の破片だ。
だが滅尽龍もただやられているわけではない。二度目の毒棘の束を喰らう前に、咄嗟に前脚を伸ばしていた。その鋭い爪が、月の女王の翼膜を捉えていたのだ。
二頭はもみくちゃになりながら、崖下のさらに奥へと転がり落ちていった。
滅尽龍の姿が消えると、炎妃龍はジェナには目もくれず、翼を広げて一目散に角竜の側へと舞い降りた。瞼を閉じたままの角竜の頬を優しく舐め、哀しげに鳴く。
そして、顔を上げた。意を決したように猛々しい咆哮を上げるや、熱気の漏れ出る穴へと飛び込んでいった。
ここで逃げることもできたが、乗りかかった船だ。ジェナは意を決して駆けてゆき、楔虫へ向けてスリンガーを射出した。
左腕に軽い衝撃を受け、金具を楔虫がしっかりと掴んだことを感じる。グリップを握ると、勢いよくロープが機構に巻き戻ると同時にジェナの身体も楔虫の方へと引っ張られていった。
ロープを撓ませて金具を外し、二つ目の橙の光へ向けて再び撃ち出す。
だが、急に目元に弾けるような熱さを感じ、反射的に瞼を閉じてしまった。その直後、嫌な感触が腕に伝わってきた。
「え──」
空気中を狂い踊る龍の火の粉がロープに引火したのだと気づいたのは、勢いよく宙に放り出された後だった。編まれた縄が千切れた際の反動は、見かけ以上にすさまじい。
既に絶命した角竜の、折れた角が間近に迫ってくる。咄嗟に身を捻りなんとか避けたものの、欠けて鋭くなっている部分が背を引っ掻く。
「づっ……!」
カッと焼けるような鋭い痛みが背に走り、ジェナは顔を顰めた。
本当にツイていない。そもそも、運の良い日など自分に来るのかとすら思えてくる。
なんとか受け身を取って地面に転がるも、足場が不安定で留まることができない。摩擦による熱さが、地肌そのものの熱さへと変わるまではそうかからなかった。
ようやく止まった頃には、身体は岩肌で擦り傷だらけになっていた。呻きながらなんとか半身を起こして目に入った光景に、ジェナははっと息を呑んだ。
(ここは……溶岩地帯の入り口だわ!)
ジェナの前にあったのは、黒々とした火山岩でできた洞窟だ。滅尽龍と月の女王らが落ちた衝撃で、穴は人間が一人通れるかどうかくらいになっている。奥からは特有の臭気をもつ熱風が吹きつけ、禍々しい赤光がちらちらと漏れていた。
新大陸において剥き出しの溶岩が見られるのは、龍結晶の地である。よく似ていることから察せられるように、ここもエネルギーに満ち溢れている為、力を蓄えんとするモンスターが集う。ジェナも、片手で数えるほどしか足を踏み入れたことがなかった。
洞窟の奥から伝わってくる竜の怒声と地響きに、ジェナは眉を顰めた。
(すぐに出てくるだろうと思ったけど、まだ続ける気かしら)
火竜の希少種に観測されている劫炎状態は、頭部から胸元にかけては内部が透ける程の炎を纏う。だが、彼ら自身が熱に強いというわけではなかった。リオス種がずっと火を吐くことができるのはその恐るべき皮膚の再生能力ゆえであって、溶岩に生息する生き物ではないのだ。
とりわけ今の月の女王は、腹に膨らみがあった。つまり彼女もまた、炎妃龍と同じように身籠っているということだ。腹に抱えた卵を守る為にも、そう長くは留まらないだろうとジェナは思っていた。
(ここから出てくるのは無理でも、ナナが入った場所がある筈なのに。崩れるような音はしなかったわ)
この目で確かめてみるしかない。先ほど決した覚悟を再度自らの胸に問い、目を閉じて息を長く吐く。
瓶の蓋を開け、清涼感のある水薬を一気に呷ると、ジェナは黒い岩に手足をかけ始めた。
直接溶岩に触れないようにしながら、少しずつ身体を進めていく。足場は不安定で、今にも崩れて龍と竜の争いの最中に崩れ落ちてしまいそうだ。
途中で何度か熱気が迫り、ジェナは手で目を覆った。だが何故か足を進める度に温度が下がっていくような感覚に、眉を顰める。
その時、一つの考えに思い当たり、ジェナは目を見開いた。熱気は上へと移動する。炎妃龍が飛び込んだ今、洞窟の上部は尋常ではない程の高温となっていた。
(ナナはいま激怒している筈。そうなれば、ここはきっとナナの感情に呼応するわ……!)
雌雄を問わず、テスカトは火山地帯の奥深くに生息している。炎龍の名を冠する彼らの能力は、炎や粉塵を撒き散らすに留まらない。それは、まさしく一夜にしてユウラの故郷を溶岩で飲み込んだ力であった。
ぐらぐらと揺れる地面は、おそらく地脈の自然な活動によるものだけではない。黒い岩に亀裂が入るのも、時間の問題だろう。
これでは月の女王が外に出られない筈だ。うまくいったとして灼熱の空気の層を通るのは一瞬かもしれないが、それを邪魔してくる龍がいる。
何より、ここは地脈の心臓部とも言える場所だ。熱だけではなく、臭気の元である有毒ガスも多量に発生する。いくら比重の重いガスは下に移動するといっても、龍や竜たちの翼が空気をかき混ぜてしまうのだから意味がない。
いくら若い個体といえども、滅尽龍の硬い棘と甲殻を砕く力は月の女王と炎妃龍らには無かった。それでも有機物を燃やし続ける炎が酸素を奪い、ガスが溶岩地帯に適応していない生き物の血液を侵食していく。
実際、滅尽龍ははじめ怒りのままに暴れ回っていたが、案の定と言うべきか次第に動きが鈍くなってきていた。いくら古龍といえど、生命活動が阻害されれば無敵では居られない。彼らもまた、煮えたぎる溶岩の傍で生きる龍ではないのだ。
まだ洞窟に入ったばかりで姿勢を低くしているジェナでも苦しくなってくる程なのだから、滅尽龍は相当量のガスを吸い込んだだろう。
だがそれは月の女王も等しい。この阿鼻叫喚な状況で、火山環境に適応しているのは怒れる炎妃龍だけだ。
炎妃龍は咆哮を上げるや、水を得た魚のように滅尽龍に焔を吐き掛ける。それまでは容易く避けていたというのに、滅尽龍は放射されるそれをまともに浴びていた。明らかにおかしい状況だ。
次々に溶岩が噴き出し、傾斜のある地面を流れ出している。月の女王はなんとか翼を動かして避けるが、ずっと飛び続けるのは難しいだろう。
ここにいれば、いずれは自分も足場をなくして焼き尽くされるのを待つのみになる筈だ。
(このままじゃ、あたしも含めてナナ以外はみんな死んでしまう。もしかすると、ナナのお腹の子もダメージを負っているかもしれない)
ジェナは熱と中毒症状で朦朧とした意識の中後ずさる。もうこれ以上は自分の身体に支障をきたすと直感が告げていた。今すぐに逃げなければこちらがやられてしまう。隣のエリアからであれば、まだ逃げられるかもしれない。
喉がカラカラに乾いて張り付き、我慢できずにジェナは装衣の中で激しく咳き込んだ。砂と血が混じったような味が、喉奥に絡みついている。
彼らがジェナに直接的な敵意を向けていないのがまだ救いだった。ジェナは龍たちの攻防を掻い潜り、噴き出す溶岩を避けながら壁を伝って隣エリアへの避難を試みた。出口はゾラ・マグダラオスの亡骸に近い奥しかない。
あと少しで逃れられると思ったその時、出口の方から身の毛もよだつような咆哮が聞こえてジェナは足を止めた。
(この鳴き声、まさか!)
その時、滅尽龍が最後の力を振り絞るように空高く舞い上がった。月の女王はそれを止めようと翼を持ち上げたが、足をもつれさせて倒れ込んでしまう。炎妃龍が制止よりも月の女王を気にしたのが、運の尽きだった。
滅尽龍は腹の大きな炎妃龍へと照準を定め、垂れてきそうな涎を啜る。この一撃さえ決まれば、上手い肉にありつくことができるのだ。
青い星が氷の入ったグラスを弄びながら口端を上げた瞬間が、ふと蘇る。
──奴が突然吠えて舞い上がったら、覚悟しておくことさね。
どこか気怠げな様子で、目の奥に妖しい光を宿していたあの姿。確かその後は──。
「ダメよっ!」
ジェナが大剣のように笛を構えて炎妃龍らの前に飛び込もうとした瞬間、後ろの岩が吹き飛ばされる。溶岩の迸る傍らを、銀青色の風が一陣吹き抜けた。
銀青が炎を纏う前に。そしてジェナがそれが何かを認める間すらなく。
地に穴を開けるような衝撃が、全身をしたたかに殴り付けた。
***
最期まで残る感覚は、聴覚なのだという。だからこそ、息を引き取った後にも声を掛け続けるべきなのだと。
いま遠くから自分を呼び掛ける声は、夢なのか現なのだろうか。
ゴツゴツとした地面から、平らな何かに身体を横たえられる感覚。地面が揺れて防具が擦れる度に、全身が焼け付くように痛んだ。痛みがあるということは、まだ生きているのか。
途中で何度か上下が変わったり体勢が変わったりしたが、意識がぼんやりとしてよく分からない。
やっとの思いで腫れて重い瞼を開けると、柔らかな光の中でふわふわとした髪、そして空色に榛色が花開いた瞳がぼんやりと見えた。チラチラと視界に三角の耳も映るので、アイルーもいるらしい。
「──ジェナ……っ」
彼が、涙声で自分の名を呼んでくれている。こんなに想ってもらえるなんて、自分はなんと幸せなのだろう。
それにしても、どうして
名前を呼びたいのに、乾いた舌を前歯に持っていく、ただそれだけの動きができない。眠りから目を覚ましただけなのに、息をする度に胸が痛いのは何故なのか。
目の端に滲んだ涙が、ひりひりと痛む頬を伝った。
***
救護班の通称ネコタクアイルー達がジェナを運ぶ傍らを、リュカは必死に走っていた。耐熱の装備はボロボロになっていたし、免疫の装衣を着せたけれど、あの状態ではあまり意味がないかもしれない。
調査対象の炎妃龍たちはまだあの地獄に残っている。そのことに気がついたのは、溶岩地帯を抜けて柔らかな草が生い茂る場所まで辿り着いてからだった。
ベースキャンプまではかなり高低差がある。アイルーが運ぼうとするのを制し、リュカは彼女の力の抜けた身体をおぶさって安全な場所へと運び込んだ。
アイルーが応急処置をしている間に何度も呼びかけて、ジェナはようやく目を開けた。リュカは心底安堵し、その場にへたり込んでしまう。
「ああ、君は、君だけはこんな形で巻き込みたくなかったのに……」
リュカはジェナを抱き締めようとしてから、真っ赤になった肌が目に入り、そっと髪を撫でるだけに留め置いた。
アイルー達は慣れている分やることは手早いが、やや雑だ。本当ならば自分が手当てをしたいが、それだけの技術は無い。ネコタクが来たのだから、間も無く他の救護に当たる人員も来るだろう。
リュカはジェナの手を優しく撫でた。
「すぐに帰れるからね、ジェナ……っ。ぼくが傍に付いてるから……」
その時、乾いたジェナの唇の間から微かに声がした。聞き返すと彼女は大義そうに、どこか夢見心地な声で呟いた。
「ギヨー、ム……」
リュカは頭から氷水を掛けられたような心地になった。別の相手の名前を呼ばれたからとか、そんな生優しい理由ではない。
どうしてその名前をジェナが知っているのか。同姓同名の別人を呼んだのかもしれないが、自分の顔を見て呼ぶということは。何故だか、とても嫌な予感がした。
束の間でもその名前の人物として接してあげた方が、ジェナは幸せだろうか。だがそれを想像すると、えもいわれぬ苦いものが込み上げた。
今生の別れになどしたくない。だから。
「ううん、ギヨームじゃない。ぼくはリュカだよ、ジェナ。君の、君の──」
ジェナは焦点が合っているかよく分からない目でこちらを見ている。
相棒だと言えば良いのに、ただその一言で良いのに、どうしても言葉が出ない。胸にとても大きな何かがつかえているかのようだった。
ジェナがそれ以上言葉を口にする力が尽きたのを察したのか、アイルーはイキツギ藻と浮空竜の皮を加工した酸素マスクをジェナの顔に被せた。気管切開をする訳ではない為会話はできるが、使用者にとっては負担が大きくなる。
彼女が自発的に何かを話そうとしていないならば、きっと今はその時ではないのだ。リュカは曖昧に微笑み、再びジェナの手を優しく撫でた。
その時、翼竜の羽音と共に空に影が差す。リュカはそのまま黙って救護班へとジェナを任せた。
ジャックに軽く目配せをすると、彼と空を翔ける棍を背負い直す。そして自分をここに運んできてくれた翼竜に向けて、甲高い指笛を吹いた。
ご無沙汰しております。ここまでお読みいただきありがとうございます。