雷顎竜と氷牙竜の低い咆哮が、雪風に乗って聞こえてくる。大方縄張り争いをしていたのだろうが、結果がどのようになったのかは、ここからでは分からない。
ジェナは緊張で湿った手を握りしめた。暫く外気に触れていた指先は冷たくなっており、掌から熱が均等に伝わっていく。
ここにセルマやキャスリーンが居てくれたら、と切実に思った。心を許していた相手とはいえ、異性と二人きりであるという状況は、今のジェナにはプレッシャーだった。
その時、カラカラと音がしてジェナは顔を上げる。リュカはポケットから何かを取り出し、ジェナの手に握り込ませてくれた。懐炉だ。すぐに手の中で広がったじんわりとした温かさに、ほっと息が漏れる。普段アステラで過ごしているジェナには持ち歩く習慣が無かったが、今思えばリュカは、ジェナの退院までセリエナで待っていてくれたのだ。
「ありがと」
ジェナは目を伏せながら礼を言い、懐炉を握り直す。
リュカは微笑み、首を振った。それからはリュカの方から触れることはない。奥手というよりも、あくまでもジェナのペースを待ってくれているのだと分かる。
このひとの、こういうところを好きになったのだと思い出した。ジェナは俯き、マフラーの下で唇を噛む。
あの過去さえ無ければ、こんな思いをせず純粋にリュカを想うことができたかもしれない。けれど、その過去が無ければ、こうしてリュカに巡り合うことすらできなかったかもしれない。いくつもの可能性が浮かんでは、結局はこれが運命だったのだと思い知らされる。
ジェナは一つ息を吸うと、顔を上げた。
「ギヨームが村に来たのは、確か……あたしが十四歳の時。
ある時から何の前触れもなく、舌が痺れるとか、嘔吐が止まらないとか、そんなことを訴える人が村中に現れたの。薬を飲んでも治らないから、そうなった人を隔離するばかりで、村は恐慌状態に陥ったわ」
「まるで瘴気の谷が発見された時みたいだ」
リュカが呟くとジェナは「そんなかんじよ」と答えた。
「困った村長が、港で名のある医師を呼んだら、用水路を調べてみろって言われたらしくて。そうしたらビンゴよ。水に微量の毒が紛れ込んでたんですって」
「ワオ、恐ろしいね。……ってことは、鉱毒か、微生物の大量発生、もしくは──」
「ええ、モンスターが原因よ。ロアルドロスの亜種って見たことある? そう、毒のある水獣ね。アイツが、村を通る川の上流に棲みついたみたいなの」
ジェナとリュカの出身地方では、水源が豊富なために陸生と水生の両方を選ぶ生物も多かった。ルドロスと呼ばれるモンスターがその筆頭であり、彼らは雄を中心に大規模なハーレムを作るため、雌が増えすぎて討伐依頼が出ることも多い。
雄の中にはごく稀に亜種と呼ばれる個体がいるが、これまで観測された彼らに共通するのは、いずれも身体のあちこちに毒を含むようになることだった。ルドロスは水に親しむ生態であるために、水域が汚染されれば大きく影響を受けてしまう。体躯の小さな雌は適応できずに命を落とすが、汚水に適応した雄個体は、自らの行動範囲に毒を撒き散らすのだった。
「話を聞いた祖母が水を白いカップに入れたのを見た時、愕然としたわ。本当に薄いけれど、ピンク色になっていたの」
「こわ!」
紫水獣が分泌する毒は、雨虎の吐き出す体液のような色をしていることが多い。ジェナの故郷に程近い場所に現れた個体も同様であった。後に判明したことだが、胃袋や海綿質を分析したところ、この個体の毒はギィギ由来であったらしい。
「絶対に水路の水を飲むなと言われて、すごく困った。海水を濾過するのも手間がかかるし、他の水源も遠いし」
ジェナの家は比較的裕福であったが、金で買おうにも限度があり、十分に行き届くわけではなかった。
「そんな時に、彼が来てくれたの。青白い竜皮が印象的だったから、きっとバギィの装備を着ていたのね」
その言葉を聞き、リュカは少し複雑そうに俯く。兄が遠い寒冷地方に滞在していたであろうこと、そしてジャギィと近縁種であるバギィの装備を着ていたこと。兄が手紙に書いてくれなかった情報は、当時の兄の心象を物語っているようだった。
「物腰柔らかなひとだと思ったわ。話の長い村長が依頼した時も、彼は嫌な顔ひとつせずに聞いてくれていた。
ハンターの中には横柄な態度を取る人もいたから、あたしにはそれがすごく新鮮に思えた」
観光資源の豊富なユクモ村や、龍歴院のあるベルナ村など、ある程度規模の大きな村では常在のハンターがいるが、都市から離れているとそうはいかない。
依頼を受けて来るハンターの中には、辺鄙な村にわざわざ来てやっている、という態度を隠さない者もいた。それでも腰を低くして頭を下げる村長や周りの大人に辟易していたものだ。
ジェナは自分の肩に乗った、小さな結晶を眺めた。樹枝に扇、といずれも違う形をしているのに、等しく美しい六角となる自然の法則。
ふと、長いまつ毛と高い鼻筋、尖った輪郭が思い出され、ジェナは瞬きをした。
「それから、そうね」
呟いてから、雪の結晶から連想するにはあまりにも野暮だったと少し後悔する。
「うーんと、まあ……その。なんというか」
「うん?」
口籠るジェナに、リュカは首を傾げた。弟の前でこんなことを言うのも恥ずかしかったが、やけになって水筒の中身を飲み干した。
「格好良かったの! 正直タイプど真ん中!」
一瞬ぽかんとした後、リュカはおかしそうに肩を震わせる。
「っふ、あはは! そうなの? うわぁ、なんかフクザツ!」
ジェナは熱くなった頬を手の甲で冷やす。尚も笑うリュカに「笑いすぎ」と軽く手刀をお見舞いした。
「ぼくら全然似てないってよく言われてたもの。あーあ、兄さんに似てたらジェナのタイプだったかもしれないのにな、なーんて」
リュカはわざとらしく唇を尖らせる。
「はいはい、確かにね。でも、面影はあるわよ」
「そう?」
「ええ」
当時のギヨームは今のリュカと近い齢だろうが、パーツがまるく人懐っこい印象を受けるリュカとはあまり似ていない。ただ、瞳の色とふとした時の表情は、血の繋がりを感じさせた。この兄弟は、それぞれ両親のどちら似なのだろう、と思いを馳せる。
ギヨームの後ろ姿を思い出そうとして、ジェナははたと目を見開いた。彼は、何の武器を背負っていたのだったか。当時はハンターの持つ武器の見分けもつかなかったし、今考えても風変わりな見た目をしていたと思う。
「そういえば、あれは何だったのかしら。片手剣の盾くらいの大きさだったと思うけど、盾だけで攻撃する武器なんて見たことがないわ。青い羽が付いていて、ブーメランを重ねたような武器だった」
「青い羽、ブーメラン……ああ! もしかして、こんな見た目?」
リュカは手帳とペンを取り出し、さらさらと絵を描き始める。先端の広がった鉈のような形をした三つの刃に、羽の付いた三角形の盾。それはジェナがギヨームの背に見たものと一致していた。
「それだわ! 家にあったものなの?」
「うん。ぼくのひいじいちゃんが、むかし友達から譲り受けたものなんだって。ずっと仕舞ってあったから気付かなかったけど、にいちゃ──兄さん、あれを持って行ったんだ」
リュカはほっと表情を緩めた。
「どこから武器と防具を買う資金を出したのかなって、ずっと疑問だったけど、わかってよかった。同じ職に就くのでも、スタートが違えばその先の苦労も違うもの」
最後の文言は、思わず口から出てしまったのだろう。
「……リュカは、大変な思いをしてきたのね」
ジェナの言葉に、リュカは一瞬虚を突かれたような顔をした。それから、頭をかきながら苦笑いを浮かべる。
「どうかなぁ。ぼくは両親から了承も得てたし、最初は色々助けてもらってたし」
この考え方で、リュカはこれまでどれだけ沢山のことを耐えてきたのだろう。辛いことを素直に辛いと感じられないまま、笑顔で振る舞う姿は痛々しい。
「ごめんね、話の腰を折っちゃった。続けてほしいな」
「……ええ」
ジェナは上目でリュカの様子を窺う。リュカの反応を見るたびに、罪悪感のような何かに駆られるのを感じていた。兄を心から案ずる弟に、本当にこの話をして良いのだろうか。先程の話では、リュカにとってはギヨームは良き兄だった。真実など知らない方が、きっとお互いに幸せだ。上部だけ話して、終わりにしてしまおうか。
(──でもきっと、今を逃したら、あたしはもう冷静に打ち明けられなくなってしまう)
表面上ではうまくやっていけるだろう。だが時間が経てば経つほど、軋み続けた心にいつか亀裂が入り、中身が漏れ出てしまう日が来るに違いない。そうなった時には、二度とリュカとの関係を修復できないと思った。
リュカは裏切られたと感じる筈──否、リュカならばむしろ、ジェナが独りで傷ついてきたことに気が付かなかった自分を、酷く責めるかもしれない。そんな結末は、どちらにとっても不幸でしかない。
リュカが嫌な人間ならば、あの日自分がどれだけ傷ついたか、これまでどれだけ自分の感情を誤魔化しながら生きてきたかを、呪詛のようにぶつけてやれるのに。
ジェナは一つ一つ言葉を探した。
「ギヨームはロアルドロス亜種の討伐を、やり遂げてくれたわ。しばらくしたら水も綺麗になったし、普段通りの生活が戻ってきた。
ただ、彼は汚染された水をだいぶ浴びていたから、休養のためにしばらく村に滞在していたの」
村人たちからの物珍しそうな視線に、ギヨームはいつも困ったような微笑みを浮かべていた。だがジェナが礼に花を届けに行った時、彼は純粋な笑顔を見せてくれたのをよく覚えている。
「それが本当に嬉しくて。彼を見かけるたびに、話し掛けるようになったわ。今思えば迷惑だったかもしれないけど……段々顔色も良くなってきて、あたしに構ってくれる時間も増えていった」
ジェナの表情に、リュカは寂しげに微笑む。
あの時は心が踊ったし、いつまでもこの日々が続けばと思っていた。そしてここで終われば、村の危機を救った英雄に恋した少女の話で済んだ筈だった。
ジェナは、次第に鼓動が冷たく早くなっていくのを感じる。
「一週間くらい経った頃かしら。夜が明けたら、ギヨームが帰ってしまうって夕飯の時に聞いて……こっそり、家を抜け出して彼に会いに行ったの」
「えっ」
ぎょっとしたリュカに、ジェナは頭を抱えた。
「本当、どうしようもなく愚かよね。今思うと、なんであんなことしたのか分からないわ」
雨の降る夜だった。母親の寝室に忍び込み、夜だというのに化粧道具を引っ張り出していた時も、自分が馬鹿なことをしている自覚はあったのだ。それでも、幼稚な衝動のまま、宿の戸を叩いてしまった。
中から出てきたギヨームは、驚いた顔をしていた。まさか、年端のいかない少女が夜中に自分を訪ねてくるとは思わなかっただろう。彼は帰るように促したが、ジェナは少しでいいから話がしたいと我儘を言った。
ジェナを通したギヨームは、温かい飲み物を出してくれた。ぽつぽつと、当たり障りのない話をしていたような気がする。自分の分を飲み終えた時、ギヨームは荷物から何かの包みを取り出した。
──君にこれをあげる。気に入ってくれるといいな。
黒地の容器には細かな薔薇のロゴが象られ、高価なものだと一目で分かる。ジェナは取手を回し、姿を見せたその色に見惚れた。塗ってごらんと言われ、美しく切り出された断面を唇に滑らせる。鏡のない部屋だったから、自分がどんな姿をしているのかは分からなかった。けれど、ギヨームから大人だと認められたようで、とても誇らしい気持ちになったのを覚えている。
実際大人になって考えてみれば、会って間もない少女にあんな高価なものを贈る訳がないのだ。誰か好きな女に渡す予定だったのだろうと思っていたけれど、リュカの話を聞いてその説も濃厚とは言えなくなった。
ジェナは唇を湿らせ、息を吐く。
「その後は……その、あとは」
舌が凍りついたように、言葉が出てこない。強引に押し当てられた唇、血走った眼差し、獣のような荒い吐息、汗と迫ってくる生臭さ、襲いくる痛み。性行為なんて特別なものでもないのに、あの夜の感覚だけは、恐怖と共にこびりついて脳裏から離れなかった。
ジェナが流産したと分かった時、元々自分を良く思っていなかった母に勘当された。引き止めようとする祖母を振り切って、逃げるように村を出た。身分も資格もない女が一人で生きていくには、死と隣り合わせの危険な仕事か、自尊心を抉られるような仕事をしていくしかない。その末が、今だった。
ジェナは一度呼吸を整えようと深呼吸をした。けれど、いつになっても鳩尾のむかつきは消えてくれない。手の中の懐炉の温かさと外気の冷たさに、視界まで滲んできて、ジェナは目を閉じて上を向いた。
「えっ……ぼくの、思い違いじゃないよね。それって。つまり……」
呟いたリュカの方を見やると、青ざめて震えていた。ジェナの話と様子から、その沈黙が何を意味するか理解したのだろう。当時のジェナはまだ少女だった。自身の兄は、そんなジェナに。
「兄ちゃんが……そんな、信じられない。え、えっ?」
耳鳴りがうるさい。自分のせいで傷付けてしまった、会いたくて仕方のなかった兄が、汚らわしく惨たらしい罪を犯していたなんて。それも、自分の大切な人に。兄がそんなことをする筈がないという気持ちと、ジェナがこんな嘘を吐く筈がないという気持ちが矛盾し、酷く目眩がした。
リュカはふらふらと立ち上がる。ジャックは心配そうにリュカの周りを飛んでいた。やっとの思いで近くの木陰まで歩く。だが、胃の中が迫り上がる感覚に堪えきれず、戻してしまった。
「リュカ! ちょっと、大丈夫?」
ジェナはリュカに駆け寄り、背を撫でた。毒にじわじわと蝕まれるような激しい悔いに苛まれ、唇を噛む。
「ごめんなさい。やっぱり言うべきじゃなかったわ。忘れて。話はもうおしまい」
リュカに水筒を渡すと、ジェナは慌ただしい手つきで包み紙やらパン屑やらを片付け始めた。リュカが休めるよう、敷き布を二つ折りにして横になれるスペースを作る。
やがて戻ってきたリュカは、真っ青な顔でジェナを見上げた。
「ちょっと、頭を整理させてほしい。ごめん、すごく傷ついてるのは、ジェナの筈なのに」
「わかった、わかったから休んで。あたしが悪かったわ」
「そんなことない。ぼくが、不躾に聞いたばっかりに。本当に、なんて言ったらいいか……」
もはや、会話すら噛み合わなくなっていた。互いに張り裂けそうな胸の痛みを感じながら、相手との距離を測りかねている。せっかく傍に戻ることができたというのに、すべてが水の泡だ。もう後戻りはできない。いっそ、自分自身も消えゆく泡になってしまいたい、とジェナは思った。
あれから、どうやって拠点に戻ったのか覚えていない。リュカとは口も聞けず、ただ足を滑らせないようにすることだけを考えた。
昼休みの終わりに、気怠げに職場へと戻っていく調査員たちの声が、やけに耳にうるさく響いた。
リュカもハンターになった時はかなり若かったので、そういった目にさらされることもままあったのでしょう。グロテスクすぎる。