大きく伸びをすると、長時間同じ姿勢でいたせいか背骨が鈍い音を立てた。
外に出ても鼻の頭が冷たく感じないのは、いつぶりだろうか。手袋すらも暑く感じ、外してポーチに仕舞い込む。リュカが上着と荷物を抱えて船を降りると、ジャックは近くを飛んでついてきた。
板の下に見えるのが泥や雪でなく、水面なのがどこか懐かしい。リュカは荷物を背負い直し、すれ違う面々に挨拶をしながら船の連なる居住区へと向かう。
リュカの自宅があるのは、居住区のうち下層の方だった。日当たりはあまり良くないが、家賃が安く上がる。
ジャックを肩に留まらせると、鍵とドアを開ける。リュカは久しぶりの自宅の空気を吸い込んだ。
まず目に飛び込んだのは、天井のあちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣だった。家を出た時よりも、かなり大きくなっている。リュカは細い糸を切らないように気をつけて荷物を置き、その主たちに微笑みかけた。
「ワオ、すごいや。ベラもレディも随分立派な巣を作ったね」
カスミジョロウは人に懐くことは無いが、ベラもレディもストレスで弱ってはなさそうだ。腹の様子から、家を空けていた間にも食事はできていたらしいことは分かる。リュカは念のため虫籠を持ってくると、以前採取しておいた幼虫を巣に引っ掛け、揺らして見せた。活発なベラは、動く獲物に真っ先に興味を示し、やがてそれを齧り始める。
蜘蛛たちの様子を見届けたリュカは、家を占めている巨大な虫籠にも声を掛ける。
「やあ。しばらく家を空けてごめんね、みんな元気だった?」
生態調査員から譲られたハコビアリ達は、今も隊を成してせっせと巣を作っている。女王が卵を産んだのか、以前見た時よりもさらに大家族になっていた。容器を軽く洗って新しい水をやると、アリ達は少しずつ群がっていく。
虫達を眺めていると、つい時間を忘れてしまう。彼らの立てる静かな音も、リュカにとっては癒しだった。
窓を開けると、潮風が吹き込んでくる。リュカはベッドに腰掛けた。あちこちに綿埃ができているのが目に入り、天を仰いだ。後で掃除もしなければならない。一人暮らしは二等の長屋と違い、好きなだけ環境生物と過ごせるのがメリットだが、管理も自己責任だ。
リュカは大きな溜め息を吐く。精神的にも身体的にも、色々と疲れてしまった。休みたいところだが、先日の炎妃龍についての報告書もまだ出せていないし、やることは沢山ある。その時、ジャックが前脚でちょいちょいとリュカを突いた。リュカは表情を緩め、ジャックのふわふわの身体を撫でる。
「ジャックもお疲れさま。上で支払いだけしてくるから、きみはゆっくりしてていいよ」
ベッドに肘をつくと、ジャックは細い脚でリュカの腕を伝って下りる。リュカは荷物から財布と書類を引っ張り出すと、窓を閉めて再び家を出た。
白い団旗を潜ると、眩しい日差しに包まれる。売店に並ぶ色とりどりの野菜や果実を見て、家には虫用の食料しか無かったことに思い当たる。後で買い物もしなければいけない。
リフトに触れるのに一瞬躊躇した後、ここでは手が凍りそうなほどに金属が冷えることはないのだと気づく。少し離れていただけなのに、すっかり身体や癖がセリエナへと順応してしまっていたらしい。賑やかな景色が遠のいていくのを見ながら、リュカはひとり苦笑した。
昼過ぎの集会所は人の入りもまばらだった。仲間と次の仕事の話をしている者もいれば、喫茶を楽しんでいる者もいる。
「あのぅ、すみません」
リュカが声を掛けると、作業をしていたポニーテールの受付嬢がこちらに気づく。リュカが遠慮がちに書類を出すと、受付嬢は「少々お待ちください」と持ち場を離れた。彼女は翼竜の餌やりをしていた先輩らしき女性に声を掛けると、仕事を代わる。どうやら普段イベント案内をしている彼女が経理担当のようだ。
慣れた手つきで金額を計算すると、先輩受付嬢は書類に判子を捺した。セリエナにいた間は収入が少なかった分、延滞金も含めるとなかなかの痛手だったが、こればかりは自業自得だ。
「確かに頂戴したわ。次回からは気をつけてね」
「はい、気をつけます」
受付嬢に釘を刺され、リュカは素直に謝る。その時ふと、脳裏に「返事は短く」と自分を叱責する声が蘇った。何気ないやり取りだというのに、こんなにも自分の中に染み付いている。その事実に、つきりと胸が痛んだ。
両手いっぱいに空の食器を抱えた給仕アイルーの横を通り過ぎた後、リュカは先程とは逆側のリフトを降りる。
タスクを一つ終えたというのに、リュカの気分は晴れなかった。宴も終了してしまった今、気分転換できるようなものもない。
──わたしが居ない間、ジェナのことちゃんと守ってよね。頼んだから。
ペアを組んで間もない頃、セルマに言われたことが今になって蘇る。結局、その約束すらも守れなかった。あの事故の後、セリエナへジェナの見舞いに来た彼女の剣幕は今も忘れられない。
── ごめんなさい。やっぱり言うべきじゃなかったわ。忘れて。話はもうおしまい。
ジェナの声が脳裏に響き、リュカは唇を噛む。自分が寝こけていた間にジェナは怪我をしてしまったし、不躾な好奇心のせいでさらに傷つけてしまった。情けないという言葉では済まない。
正直なところ、ジェナが打ち明けてくれた話は、今も飲み込みきれずにいた。兄のことも、考えなければ、向き合わなければと思うのに、思い出そうとするのを身体が拒んでしまう。物言わぬジャックにすら、このことについて話せずにいた。
その時、リフトが下に着いたことに気づかず、慌てて飛び降りて転びそうになる。「気を付けて」と通りすがりの調査員に声を掛けられ、リュカは軽く頭を下げた。
「おや、エイモズ君?」
聞き慣れた声に顔を上げると、リュカの上司がにこやかに見下ろしていた。
「ユウラさん、アステラに来てたんですね。お疲れさまです」
「はい、お疲れさまです。ちょうどよかった、あなたを探していたのですよ」
「ぼくを、ですか?」
「ええ」
背に流した髪が、まるでユウラの感情を表しているかのように揺れる。アステラには虫除けの香草が色々なところに吊るされているが、ユウラの纏う穏やかな香も微かに漂ってくる。リュカは黙って着いていくことにした。
「久方ぶりに龍結晶の地に行きたかったのですけれど、なかなかハンターが捕まらなくて。着いてきてもらっても、門前払いされてしまうのですよ」
リュカが龍結晶の地に足を運んだのは、獣人学者に依頼されたガジャブー調査が最後だった。リオーネやあのガジャブー達は元気にしているだろうか。
「門前払い? 誰がそんなことを」
リュカが問うと、ユウラは困ったように肩をすくめる。
「金火竜です、どうやら随分仲良くなったようで。状況を見にハンターと一緒にテスカトの巣に行こうとすると、牙を剥かれてしまうのですよ。襲い掛かっては来ないのですが、我々が近づくことを許してくれないのです」
それを聞いて、リュカは目を丸くした。ジェナの担当地域だった導きの地には、協力関係にある金火竜と角竜がいたと聞いていた。先日の事故の際は無我夢中で、銀火竜と炎妃龍しか目に入らなかったけれど、金火竜も無事だったとは。
前回はガジャブーの作った裏道ばかりを通っていた為、そんなことになっていたとは露ほども気づかなかった。
ユウラはやれやれと首を振る。
「以前は単独でも調査に行けたのですけれどね。こればかりは仕方ありません」
これまでは若所長や生態調査員をはじめとした学者も単独でフィールド調査を実施していたが、とある事故以来ハンターの護衛が必須となった。リュカは噂に聞いただけだが、ハンサム先輩ことアルトゥラスが提言したらしい。
リュカは眉を下げ、思ったことをそのまま呟く。
「うーん、大丈夫かな。行きたいのは山々なんですけど、ぼくが一緒にいるともっと警戒されちゃう気がして」
炎妃龍がセリエナに飛来した時、最前線にいたのはリュカだった。これまでずっと近くで調査してきたとはいえ、彼女は一度リュカを攻撃対象と捉えた。もう既に、敵と見做されてしまったのではないだろうか。
「おや、何を言いますか。それを言ったら、私も同じですよ。それにあなたの匂いは、炎妃龍が一番よく知っている匂いではないですか」
「それはまあ、確かに」
ユウラは難題を口にしながらころころと笑った。慎重なのか呑気なのか。リュカはそれなりに長く同じチームに属しているが、いまいちこの人のことは掴めない。
リュカは頭をかき、しばし考え込む。それから、視線のみをユウラに向けた。
「ユウラさんは、怖くないんですか? あんな事があって」
するとユウラは立ち止まり、目を瞬かせた。それから柔らかく微笑む。
「恐ろしいですよ、この上なく。次に溶岩に飲み込まれるのは自分か、大切な人かもしれない。──それでも、知りたいという気持ちには、逆らえなかった」
リュカは息を飲んだ。普段は明るく振る舞っていても、心の底には大切なものを奪われた憎しみや自責の念、諦めや恐怖を抱えた者は数多くいる。自らを引き込む汚泥に頭まで浸かっても、生きる為に呼吸をしようと必死に足掻く人々。水面のその先に、誰もが知識の探究に対する喜びや未知への希望を見出し続けている。
口では「未知の生き物に出会いたい」と言いつつ、最近の自分は長いことその感覚を忘れていたような気がした。
ユウラは「それに」と続ける。
「こう言うのも烏滸がましいですが……あの幼体達は、私にとって血の繋がらない弟妹のような存在ですので。純粋に、私個人としても気掛かりなのです」
亡き炎王龍が残した、小さな生命たち。炎妃龍らに守られすくすくと成長する姿は、古龍の生態を調査するという名目以上に、何物にも変え難い光を感じさせる。
再び歩き始めたユウラを、リュカは複雑な思いで見つめた。
話しながら歩いているうちに、積み上げられた本の山が視界に入る。リュカは副所長に挨拶し、階段を上がった。
ふと聞き覚えのある声に振り返ると、巨大な歯車の下に黄色のヘルメットが見える。
「あれ、おやっさんがいる。珍しい」
おやっさんこと技術班リーダーは、普段はセリエナの蒸気機関管理所で拠点の動力調整を担っている。そんな彼が、何故アステラに来ているのだろうか。視線をずらすと、赤い鉱石や淡く輝く結晶を重そうに運ぶアイルー達が見える。そのどちらも、テスカトの調査を担うリュカが日頃目にしていたものだった。
リュカが首を傾げていると、「お疲れさん」と肩に手を置かれる。
「技術班の先生たち、面白いものを作ろうとしてるみたいだぞ。なんでも、龍脈が流れている所なんかで、そのエネルギー量を測定できる仕組みを開発するとか」
生物調査を担う四期団の先輩は、顎髭を撫でながら面白そうに口端を上げた。ユウラとは別の小さな調査班のリーダーを務める彼は、情報網も広い。
「え、また大きな調査が始まるんですか?」
リュカが目を瞬かせると、彼は頷いた。
「ああ。昨日、総司令宛てに
「導きの地……!」
リュカは全身から血が引いていくのを感じた。その中に、ジェナは召集されてはいないだろうか。退院したばかりだが、導きの地の調査を担っていたのだから、可能性もゼロではない。
リュカは夢中で階段を駆け下りた。
「すみません、ぼくにも見せてください!」
「はいよ、どうぞ」
調査員を掻き分けてクエストボードを見ると、確かに赤い印の押された貼り紙が留められている。
"導きの地の調査"と題されたそれには、確かに先輩の言った通りの内容が記されていた。中でも目を引いたのは、その参加人数の記載だ。これまでの調査は多くても四人編成だったのに、今回は小隊を四つ作るように書かれている。
「なんだこれ……」
リュカは目を見張る。一方で、先に貼り紙を読んでいた額の広い先輩ハンターは、嬉しそうに編纂者を小突いた。
「何かすごいことが起きそうだね!」
「お前まさか参加するとか言わないですよねー? 聞いてるか、おい」
「俺も参加できるかなぁ」
リュカはそんなやり取りをよそに、募集の期限はまだ先だったことに、ほっと胸を撫で下ろす。視線を移すと、参加要件も記されていた。リュカのマスターランクは、条件を満たしている。アステラ防衛戦、滅日、そしてまだ身籠っていた炎妃龍を相手にした時に大きく貢献したからと、昇進を認められていた。そしてジェナも、おそらくは。
「──古代竜人のお告げはおそらく、このことを指していたのでしょう。龍結晶の地は死した古龍たちのエネルギーが集まり、かつて胎児が育っていた場所」
いつの間にか隣に来ていたユウラは、本に挟んでいた地図を取り出す。そして、人差し指──竜人族でもそう呼ぶかは分からないが──で地図をなぞった。
「私は、導きの地の異変がこちらにも影響を及ぼしているのではないかと踏んでいます。何しろ、この地の龍脈は渦のように繋がっていますから」
それから、ユウラは地図と一緒に竜皮紙の束をリュカに手渡した。
「すぐにとは言いませんが、あなたにはこのクエストではなく、私と共にこちら側の調査をしていただきたいのです。引き受けてくれますか」
ユウラの瞳が、射抜くようにリュカを見据える。青の炎妃からの祝福を受けた者の色、といつか学者が謳った金の眼差しは、炎のような熱を感じた。
先程まで談笑していた先輩たちも、静かにこちらを見ている。
自分の判断は、誤っていないだろうか。ジェナのことは心配だが、そもそも彼女が参加するという確証もないし、自分が傍に居られる理由もない。しかし今自分にできることが、目の前にある。地道に糸を織っていくことで布ができていくように、それらを積み重ねていくことが大切なのではないか。
リュカは一つ息を吸い込み、頷いた。
「分かりました」
古代樹の森の方から、飛竜が番を呼ぶ声が風に乗って伝わってくる。仲睦まじい彼らは、協力して自分達と次の世代を守っていくのだろう。
彼らを守るように、昼下がりの日差しが降り注いでいた。
ここまで読了いただきありがとうございます。
リュカのおうち、書いてて非常に背筋がゾワゾワしました。ワイルズの情報がタイムリーすぎる。繭。糸。なるほどね。