繭の赤子らは息を吹き返すことはなく、赤龍も力尽きるのを見届けると、炎妃龍と風翔龍は翼を広げた。調査団の者達には目もくれない。その仕草は恐ろしく淡々としていた。
彼らの影が小さくなるにつれて、極度の温度差によって谷底に発生していた奇妙な風の流れも落ち着いていく。ただただ、不気味なほどの静寂が訪れた。
調査班リーダーは、自分達に敵意を向ける存在が居なくなったことを確認すると、耳を塞ぐ。そのスリンガーから空に向かって眩い信号弾が打ち出されたかと思うと、火薬の音が谷中に反響した。程なくして、編纂者や救護班の者達が降りてくるだろう。
「ともかく、だけどさ。よく頑張ったよな、俺達!」
「……ああ、そうだな。そうだよな」
エイデンの言葉を皮切りに、ハンター達はそれまで抑えていた感情を少しずつ吐露し始める。命のやり取りが行われる現場において、言葉選びに迷って口を開くのを躊躇する者もいる。そんな中で、エイデンのように陽気なムードメーカーの存在は有り難かった。
皆が互いの健闘を讃え合い、無事を喜び合った。中には重い怪我を負った者もおり、その場凌ぎの治療をしながら、上からの救援を待ち侘びていた。
彼らの声がどこか壁を一枚隔てているように聞こえる中、ジェナは呆然とその場に立ち尽くす。本当に、キャスリーンとベディヤはここで命を落としたのか。そしてその根源の龍は、実在したのか。目の前に巨大な現実が横たわっているというのに、夢の中の出来事だったかのように感じる。
その終焉が現実であると告げるのは、身体の痛みだけだった。爛輝龍の甲殻が熱から守ってくれていなければ、もっと酷いことになっていたかもしれない。
「ジェン」
物思いに耽っていたジェナは、隣から聞こえた声に顔を上げる。ジェナが口を開く前に、セルマはジェナの身体をかき抱いた。砂埃と血、何かが焦げた臭い、汗の匂い、そして仕事用の洗髪剤の匂い。自分が息をしているのだということに、ようやく気づいた。
「わたし達、生きてるよ。乗り切ったんだ」
「セラ……」
「あんたがあの雫を止めるなんて言い出した時、心臓が凍りついて止まるかと思った」
セルマのおかげで、ようやくこの場に意識が戻ってきたような気がする。ジェナは苦笑を浮かべ、セルマの背中に腕を回した。
「それを言うなら、あんたもよ。あの時、どうしようかと思ったんだから」
一度身体を離し、セルマは首を傾げる。
「あの時? ……ああ、あれね」
皆が岩の下敷きになりそうになった時、セルマは赤龍の頭に張り付き、スリンガー弾を打ち出したのだった。今回は上手くいったから良かったものの、ジェナは肝が縮み上がる思いをした。龍の頭部周辺がいかに危険かを、狩猟笛を扱うジェナはよく分かっている。
「少しは、いつもあんたを見てるわたしの気持ちが分かった?」
「ええ、ええ。すみませんでした。分かったわよ、よーく」
「返事は一回って、あんたが言うのに」
「まったくもう、口が減らないんだから」
呆れた顔をして見せたジェナに、セルマはくすくすと笑った。だが、すぐにその笑みには深い寂寥が混じる。
「あんたの音が聴こえてたから、わたしは頑張れたの。──きっと、キャシー達にも届いてる」
「……!」
ジェナは言葉を失う。セルマはきっと、慰めのつもりで言ってくれたのだろう。だが、やはりあれはいつか醒める夢ではなかったのだと、突き付けられた。喉が震え、嗚咽が漏れる。
セルマは再びジェナの背に腕を回し、撫で摩った。幾分か肌寒くなった谷底では、素肌同士で触れているところから互いの体温がより伝わった。胸が張り裂けるような喪失を、共に味わった人がいる。その事実だけでも、幾分か救われるような気がした。
どうしようもなく辛いのに、やはり涙は出てこない。気温は下がっても、水分を失った身体は既に限界を迎えていた。このまま長居すれば、生き残った者達からも倒れる人間が出るだろう。
それを理解していたらしい調査班リーダーが、自身で戻れる者は先にキャンプへ戻るよう呼び掛けていた。
程なくして、数匹の翼竜と共に上層で待機していた者達が、荷物を持って降りてくる。入れ違う彼らを横目に、ジェナとセルマは指笛を吹いた。
自分より先に飛んでいるハンターとその翼竜が落とす影を見ながら、ジェナは長く息を吐いた。
翼竜に揺られるのが、随分と久し振りに感じる。追い風も心の砂を払ってはくれなかったけれど、谷底で気を落とし続けるよりは良いかもしれない。少しずつ明るくなっていく景色を横目に、そんなことを思う。
ふと、いま自分達を照らしている日差しは、一体いつのものなのだろうかと、ジェナは首を傾げた。谷に降りたその日のうちに討伐が終わったということなのか、既に日付が変わり再び昇った太陽なのかも分からない。しかし、コンパスを取り出して太陽の位置を確認するだけの気力はなかった。いずれにせよ、陽の光を浴びるのは心地が良い。
その時、ひらひらと目の前を白い光が横切った。陽射しの下で見れば、角度によって様々な彩色へと変化する翅。
「ジャック!」
猟虫が主人の腕から離れ、どこへ行こうというのか。まさか先程の騒動に巻き込まれ、その主人が帰らぬ人となってしまったのではないか。最悪の結末を想像してしまい、ジェナは必死に視線を動かす。上には居ない。ならば下はどうか。
ばちり、と視線が合った。彼は曖昧に微笑み、こちらに手を振って見せる。
「リュカ!」
ジェナが気づくように、リュカはわざとジャックを飛ばせたのだろう。心配して損をしたと、ジェナは顔を覆った。揶揄われたように感じて、無性に腹が立つ。ジェナは外方を向いて見せた。
隣では、セルマも威嚇するパオウルムーのような顔をしていたのはここだけの話である。
その時、翼竜が上昇から滑空へと筋肉の動きを変えたのが手に伝わる。ふと周りを見れば、ベースキャンプの設置された高度まで自身が戻って来ていたことに気がついた。
自分の足元に地面があるのを認めると、ジェナは鐙をグッと踏み込み、手を離して飛び降りた。衝撃を逃すために受け身をとったが、身体を起こそうとしたところで危うく誰かにぶつかりそうになる。
ジェナは謝りながら顔を上げると、目を瞬かせた。
「あなたは……」
腰まで伸ばした髪が揺れ、砂埃の舞う谷に似合わない香りが鼻を擽った。その人物はジェナを認めると、安堵の表情を浮かべる。
「ふふ、わたしの足元ではよく誰かが転ぶ。オズモンドさん、無事だったのですね」
「ええ。ユウラさんもいらしていたなんて」
ジェナが答えると、ユウラは頷く。二人が会話し始めたのを見て、セルマはジェナに合図をして立ち去った。
ユウラはそのやり取りに、何かを思い出したように目を見開き、顔を曇らせる。
「あの、エイモズ君はどちらに?」
その表情を見て、ジェナはユウラが二人の犠牲を知ったことを悟った。調査の中で怪我を負うことは珍しくないけれど、殉職は違う。調査団の中でも、ハンターという職種がその危険に晒されやすいことは誰もが理解している事実だ。
ジェナは一つ息を吸う。
「リュカなら──」
それを言い切る前に、少し離れたところで、話題の人物は盛大な着地を披露した。
「ジェナッ!」
身体を起こしたリュカが、こちらに駆け寄ってくる。ぶつかってしまうのではとジェナが身構えたとき、少しの衝撃の後、ふわりと地面が離れた。
「え? えっ!?」
それは一瞬で、ジェナが何が起こったのか理解する前に足が着いた。背負った狩猟笛の重さも相まって、そのまま止まらない遠心力に身体を振られて転びそうになる。互いに支え合い、目が合うと思わず二人で笑ってしまった。
手は離れる。だが視線は重なったままだった。ジェナを見つめる空色の目が、陽に照らされてきらきらと輝いている。それが、常よりも水の膜が厚く張っているからだと気づくのに時間を要した。なぜなら、久方振りに見る穏やかな笑顔だったからだ。
先程のことを怒りたかった筈なのに、ジェナは表情を緩めてしまう。セリエナの外れで、あれほどに苦痛に満ちた過去を打ち明け合ったとは思えない。否、過去を知ったからこそ、どんな柵があったとしても、結局はこのひとに惹かれて止まないのだと改めて思い知った。
もう一度、話し合おう。二人の望む未来を。共に歩む道で酷く傷つくなら、その度に包帯を巻き合っていけば良い。靴がすり減れば、直していけば良い。もし別々の道を選んだとしても、いずれどこかで繋がるだろう。
雀斑の散るリュカの頰は、ほんのりと色づいている。それに触れようとした時、周囲から冷やかしの口笛が聞こえ、ジェナは我に返った。
「ちょ、ちょっとリュカ!」
リュカはやり取りを見られていたことに照れる素振りは一切見せず、首を傾げる。それから隣で始終にこにこと見守っていたユウラに、目を見開いた。
「あ、ユウラさん。お待たせしてすみません」
「いやいやいやいや違うでしょ、こんなところ見せて申し訳ないのは確かだけど!」
今までユウラに気づいていなかったのか。ジェナは沸騰しそうに熱い顔を仰ぎつつ、リュカに呆れた眼差しを向けた。
一方、ユウラはころころと笑う。
「こちらこそ、お邪魔してしまいました。あなたの無事も分かったことですし、わたしは退きますので。どうぞ続けてくださいな」
踵を返したユウラの背を、リュカは呼び止める。
「ナナ達がどうなったか、分かりますか?」
その問いの答えを知りたくて、ジェナも息を詰める。彼女達は繭を破壊することを目的としていたようだった。けれど、その後どうするつもりだったのかは分からない。
ユウラは手帳を取り出し、開いて見せた。そこには文字とともに、簡易な地図に矢印が書かれている。
「それぞれ別の方角へと飛んでゆきました。ここを守るハンターに付いて来ていただく訳にはいかなかったので、目測ですが。炎妃龍は龍結晶の地側へ、風翔龍はその反対側へ」
あくまでも一時的な協力関係、ということだったのだろうか。繭を焼き、凍り付かせた二頭の目的がたまたま一致していたのは、側から見れば惨たらしい。
おそらくユウラは、谷底で起こったことをまだ誰からも聞いていないのだろう。ここからでは、赤龍らの眠る谷底は見えない。
いずれ調査員らの話や報告書で知ることになるが、親代わりの炎王龍を喪い、テスカトの調査を続けてきたユウラに事実を伝えるのは、心苦しかった。尤も、龍の残酷さも情愛も肌身に染みて識っている人物だということは、リュカもジェナも承知しているけれど。
「ここからは、わたしも調査に協力しようと思います。今は、休息をとることに専念してください。また後日、調査に付き合っていただけたらと思います」
ユウラはリュカに微笑みかけ、再び背を向けた。
ハンター達が治療を受けている間に、一部の編纂者と学者らによって赤龍ムフェト・ジーヴァの調査が迅速に執り行われることになった。自分も疲弊しているだろうに、調査班リーダーは先頭を飛んでいった。最後尾には、イライザが付いている。
彼らが谷底へ降りていくと、一気にベースキャンプが静かになった。薬剤や重症者の管理やら、拠点に戻る算段やらの会話は聞こえてくるが、当のハンター達は黙っている者が多い。ハンターから事情の聞き取りを行う編纂者も、最低限のことしか口にしなかった。
リュカはその重い雰囲気に、今回の調査で何かがあったことを悟った。それはモンスターのことか、それとも自分達の仲間のことか。
痛み止めの薬瓶を傾けるジェナに、リュカは問い掛ける。すると、その傍らにちょうど通り掛かったドルクが腰掛けた。ジェナはドルクと目を合わせ、頷き合う。彼女らが語った言葉に、リュカは絶句した。
点滴のように落ちる涙も、人間の身体から出る量ごときではこの地を栄養することはできない。それでも、大切な者の勇気を讃え、その最期を悼む人々の思いは、地面にゆっくりと沁み渡っていった。
谷の気流は、未だにおかしなことになっていた。翼竜を宥めながら降りていくと、やがて緑色の妖しげな光に包まれた最下層へと辿り着く。調査員達は、熱い空気と冷たい空気の境目が何度も頬を撫でるという奇妙な経験をした。
その中央にあるものは、一見巨大な岩のようにも見える。だが赤龍の生きている姿を見ていた編纂者らは、彼もしくは彼女の亡骸に目を見張った。あれほどまでに輝いていた、胸や翼の星空も消えている。
ゴーグルのピントを調整しながら辺りを見回していた受付嬢は、ハッと息を飲んだ。
「繭が……!」
彼女の視線の先を辿った者らは、その異様な光景に顔から血の気が引くのを感じる。赤龍と似た、青白く半透明な身体をした龍が、何頭も繭から滑り落ちたかのような姿で横たわっていた。中には粘液と繭が絡まって、首を吊ったような状態になっている龍もいる。
「やっぱり繭の中にいたのは、ゼノ・ジーヴァ……」
「あれが……!」
リアは口元を手で覆う。大団長らがいない今、この中でゼノ・ジーヴァの姿を目にしたことがあるのは、受付嬢ただ一人だった。資料や論文で読むのと、実際に目にするのとでは全く違う。
「ムフェト・ジーヴァは、この幼体達を守っていたんですね」
「ええ、おそらく。体内と地脈のエネルギーが枯渇すれば、繭へ供給する為の栄養も無くなってしまう。だから、あれほどまでに気が立っていたのね」
調査班リーダーの声掛けを合図に、編纂者と学者らは地面に降り立ち、早速調査を始めた。
谷の底に充満するガスの性質を調べる者、地盤を調べる者、そして龍たちの身体を調べる者。いざ調査に取り掛かろうとしても、体組織のサンプルを道具で削り取ったり、解剖をしたりすることに抵抗を示す者も複数いた。
棺に入れるどころか、運び出すこともできない巨大な身体は、一部を除いてこのまま朽ちていくのだろう。微小な生物が生息しているのかどうかも分からない谷底では、分解までにどれほどかかるのかも未知だ。
海底に沈んだゾラ・マグダラオスにも言えることであったが、人智の及ばぬものはあるのだとつくづく思い知らされる。
皆が調査を進める中、受付嬢は自身の相棒の姿を探していた。先程ベースキャンプに帰還したハンターの中に、彼女の姿は無かった。そうであるならば、相棒は谷底に残っているに違いない。
受付嬢は足場の悪さに苦戦しつつも、谷底を歩き回る。その時、調査の為に動き回る人影の向こうに、探していた後ろ姿を認めた。
「あい、ぼ──」
思わず駆け寄って声を掛けようとしたが、近づくにつれてその様子がはっきりと分かる。受付嬢は口をつぐみ、足を止めた。
龍の亡骸の傍らで、その人は武器を地面に置き、立ち尽くしている。黒く長い髪で隠れ、その表情は分からない。彼女の両耳に下がる青い宝石を削り出したピアスは、龍が決死の思いで生み出した雫とよく似ていた。
やがて彼女は俯いて頭を抱え、思い切り息を吸う。だがそれを吐き出す直前、微かな呻きを漏らした。そのまま叫ぶことはせず、ただただ己の身を引き絞るようにして、震える空気だけを長く、長く吐き出した。
調査が一段落ついたのは、夜空の端が白んできた頃だった。空の色が変わっても、その対角ではまだ星と月が輝き続けている。
程なくして、淡い空に何匹もの翼竜が飛び立っていった。
次回、完結です。
タイトルは「紡ぎの唄」の和訳より。