海と山がみえるバス停で   作:渡純

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第1話

 

 

 

 

 

 

 

 

  伝えたい人がいるので

 

  この夏だけ貼らせて下さい

 

 

  あの時の君へ

 

  僕は今も野球をやっています

 

  ありがとう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うん、わかってるって大丈夫だから。今度の公演の後、ちょっと長めの休みが取れると思うから。…そう、しばらくは実家にいるつもり。えっ? …大丈夫だよ、私は全然気にしてない。紅華じゃよくある話じゃない。おばあちゃまの時代でもよくあった話でしょ? だから、大丈夫。私は全然平気。愛してるわ、おばあちゃま」

 

 通話が終わったことを確認すると、そのまま手を隣へと伸ばす。左手からこぼれたスマートフォンが助手席のソファへと落下するさまを、薫は他人事のように眺めていた。

 

 祖母からの電話があったのは、駐車場に車を停めてすぐのこと。車から降りる前にたまたまスマホを触っていたら、同じタイミングで呼び出し音が鳴り、反射的にタッチしてしまった。あらかじめ電話があることを知っていれば、折り返しにしたはずだ。

 空調の止まった車内は蒸し暑かった。頬をつたう汗を指でふき取り、後部座席に視線を送ると、中まで荷物がつまったバッグが無造作に並んでいた。その重たさを思い出すだけで、頭を抱えたくなる。ため息をつきながら目を閉じた。舞台そでで出番を待つ演者のように、気持ちにスイッチを入れる。ドアを開けるとすぐさま新鮮な空気が鼻孔をくすぐっていく。血が全身に駆け巡り、自分が星野薫以外の何者かに変化していくような感覚に支配される。

 

 ミディアムショートの金髪に、サングラスという出で立ち。170cmを越えた身長と、スラリと伸びた手足。全身を海外のブランドで固めたパンツスタイル。そこには紅華歌劇団に入団してから五年目となる、男役の姿があった。

 

 背筋を伸ばし凛とした姿でエントランスを抜けていき、エレベーターへと颯爽と乗り込んでいく。重たい荷物を抱えているというのに、その足取りはランウェイを進むモデルのように軽快だった。

 

 通路でマンションの住人とすれ違い、軽く会釈をする。相手は妙齢のご婦人で、紅華を観てくれているかどうかは知らないし、自分のことを知ってくれているかもわからない。もしかして、自分のことをただの派手な格好の女としか認識していないのかもしれない。それでも構わない。満面の笑みを送る。

 いつどこで誰に見られているかわからない。少なくとも外にいるときは紅華団員として恥ずかしくない振る舞いをする。音高時代から変わらない、薫の矜持のひとつだ。それにもし、自分をきっかけ舞台に、しいては紅華歌劇団に興味を持ってもらえるなら、役者冥利に尽きるというもの。ましてや祖母とは関わりない場所で、今の自分をきっかけにファンになってくれるとしたら、そんな嬉しいことはない。

 

「ただいま…」

 

 部屋に入り自動ロックが掛かった瞬間、手からは荷物がずり落ち、ドアにもたれるように腰を降ろしていく。先ほどまでの溌剌としたオーラは霧散し、ただの星野薫へと戻っていくのがわかる。

 そんな状態でも挨拶だけは欠かせない自分に嫌気がさす。子どものころから紅華に入るため、ひたすらつちかってきた礼儀作法。どれだけ疲れてうんざりしている日であろうと、身体に染みついた習慣はなかなか離れてはくれない。

 

 稽古場から車で7分の2LDK。一人暮らしなのだからそんなに広くなくていい。ワンルームでも良かったくらい。ただ家族からの反対にあい、このマンションに住むこととなった。セキュリティ面が充実しているので女性の一人暮らしとしては大いに助かるけれど、そのぶん家賃も相応の金額だった。

 

 重たいエコバッグをリビングまでひきずりながら運んでいく。肘でぶら下げるのではなく、必ず手で持つか肩に下げるようにする。男役はみなそうしていた。おかげで指や肩のケアが欠かせない。

 わざわざ買い物までして自炊に頼るよりも、出前やミールキットを使った方が、色んな意味で楽できることは充分理解している。けど、口にいれる物にはなるべくこだわりを持ちたかった。舞台人にとって一番の資本は身体だ。だから、何があってもそこだけは手を抜きたくない、そう考えていた。

 冷蔵庫の中に食材を詰め込んでいく。多少お腹は空いていたけれど、このまま夕食の準備をする気にはなれなかった。整髪料とメイクをとるだけでも一苦労だが、先にシャワーで汗を流す。本当は湯船の方が疲れは取れるのだけれども、そのひと手間がとてもわずらわしく思えた。

 

 最低限のストレッチをしてから、晩ご飯の準備を開始する。パスタを茹でる間に、野菜を切り、肉をいためソースとあえる。スープは作り置きしているものがあるので、後は鍋にいれ解凍するだけ。サラダや副菜もストックを用意している。なるべく一汁三菜を心がけて、日々献立を考えていた。。

 聞こえるのはフォークと食器のこすれる音だけ。最近はこうして静かに食事を摂る機会が増えてきた。そう思っていると、タイミングを見計らったかのように、コールが鳴る。ディスプレイを見て相手が誰だかわかった瞬間、伸ばしかけた手が止まった。

 

 着信が鳴りやむと今度はメッセージが届く。

 

『この前、美味しいチーズのお店見つけたの。今度薫といっしょに行きたいから、いつでもいいから空いてる日教えて。待ってるから』

 

 一瞥してすぐに食事へと戻る。

 

 元気? 何してる? 今度会えない? そんなささいな内容ばかり。着信履歴と未返信のメッセージがどんどん積み重なっていく。

 

 優しい彩子。

 

 決して、本質的な言葉を使ってはこない。これほどまでに自分のことを思いやってくれる友達が、今までいただろうか? そんな彼女だからこそ、誰からも愛される娘役として期待されているのだろう。自分とは違って…。

 

 気を紛らわそうと、ついテレビのスイッチをいれたのが失敗だった。

 プロ野球の試合が放映されていた。

 

『辻、打ちましたッ!』

 

 すぐに消さないと―――そう思った矢先のことだった。実況の言葉が先に耳に飛び込んでくる。聞いてしまった。聞こえてしまったのなら、もう薫は動けない。薫の意志なんて無視して目が勝手に画面へと向かう。探しに行ってしまう。

 

『関西ダービーを制したのは、やはりこの人。辻の一振りでチームも前夜に続いてのサヨナラ勝ちで、交流戦の首位も確定。辻の交流戦MVPも見えて―――』

 

 実況の興奮とは裏腹に、薫の表情からはどんどん感情が抜け落ちていった。目をつむり、顔を天井に向け、それから大きくため息を吐く。テレビを消し、まるで何事もなかったかのような素振りで、薫はゆっくりと食事を再開した。

 

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