海と山がみえるバス停で   作:渡純

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第2話

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「ただいまです…」

 

 普段の快活な渡辺さらさからは考えられないくらい、まったく覇気のこもっていない声色だった。家のドアが今日はやけに重たく感じる。何も考えないでとりあえずゆっくりお風呂にでも入りたいと思った瞬間、誰もいないと思っていたはずの部屋の奥から光が漏れていることに気づいた。嫌な予感がして駆け足でリビングへと向かう。

 

「暁也くん⁉」

 

 そこには付き合ってもう7年になる、恋人の白川暁也の姿があった。

 

「おかえり、さらさちゃん」

 

 ソファに座り雑誌を読んでいる。一見するとくつろいでいるように見えるし、口ぶりも普段と変わらない穏やかそのものだった。ただし、笑顔が痛い。何かしらな矢印がいくつもさらさへと突き刺さってくるような感覚。最近少し大先生に雰囲気が似てきたような気がする。

 

「あの、その…」

「昨日のメールで、今日はそれどころじゃないだろうな、と思ってたから気にしなくていいよ」

 

 たしかに昨晩、暁也には人と会うので遅れるかもとは伝えていた。問題なのは、用事が終わるとさらさの頭の中に今日の暁也との約束がすっぽり抜け落ちてしまっていたことだ。一言連絡くらい入れろよと、にこやかな暁也の笑顔がそう言っていた。

 

 数年前、さらさが一人暮らしを始めるようになると、暁也が月に一度はこうして神戸まで会いに来てくれるようになった。忙しいはずなのに、以前と変わらず三日と空けずに健じいの所にも通ってくれている。まさに理想の恋人だった。だからこそ、さらさの中で罪悪感がむくむくと湧き上がってくる。

 

「ちょっと遅いですけど、どこか食べに行きますか? 今日はさらさのおごりでいいですから! 暁也くんの大好きなハンバーグとかどうですか?」

 

 神戸は美味しい洋食の店が多いので、今からでもどこかしら席がとれるだろう。

 

「う~ん、お腹はそんなにすいてないかなあ。それよりも、少しゆっくりしない? 俺もまだ着いたばかりだから、外に行く気分じゃないかな」

「そうですか。それならば、仕方ないですね」

 

 暁也は片手で雑誌を読みながら、もう片方の手でソファをぽんぽん軽く叩き始めた。座れと言っているのだろう。

 

 緊張した状態で背筋を伸ばし、手を膝にぴたっと置く。横に座ったというのに、暁也からはどんなリアクションもなかった。どうしたのだろう?と、暁也の様子をうかがおうと首を傾げると、雑誌から視線を外しこちらを凝視している暁也とばっちり目が合った。

 

「大丈夫なの?」

「な、何がです?」

「元気なさそうだったから」

「ええ、まあ」

 

 さらさは目を見開くと視線を正面に向け、こめかみを掻く仕草をした。

 

「今日の用事って紅華関係だよね? 聞かない方がいい」

「そういうわけじゃないんですけど」

 

 自分のことなら明け透けに話せるさらさだったが、人の相談事となると途端言葉につまってしまう。

 

「今日は同期の山田さんと久しぶりにお会いしたのですが…」

「たしか歌のうまい人だよね?」

「そうです。でも、相談内容は山田さんのことではなくて、星野さんのことだったんです」

「星野さん? えーっと、親子三代で紅華に入団したっていう?」

「はい。クラスメイトだったとはいえ、よく覚えていましたね?」

「俺より年上ってところが記憶に残ってた」

 

 さらさの三つ上で、暁也からは一つ上となる。

 

「その星野さんがどうしたの?」

「…辞めるかもしれないんです」

「紅華をってこと? 本人が直接言ったの?」

「いえ、山田さんが、辞めるかもしれないって。お二人は仲がいいので…」

「それが相談内容?」

「はい。星野さん、つい先日の人事で組替えになったんです。春組から夏組に」

「そうなんだ。でも、異動は紅華じゃよくある話って聞くけど?」

 

 組替・異動の目的は様々だ。純粋に人数不足の調整のときもあれば、運営として何かしら意図を持っての采配のときもある。けれど、公表されるのは結果だけなので、理由はあくまでも推測の域を出ることはできず、ファンはいつもやきもきしてしまう。

 

「たしかにそうなんですけど、星野さんはお母さんもおばあちゃんも春組だったので、ことさらショックが強かったみたいです」

「もしかしたら将来、戻ってくる可能性だってあるんじゃないの?」

「そうなんですけど、ね。自分はもう路線から外れてしまった、そんなふうに考えてしまっているようなんです」

「路線?」

「ジンクスって言うんですかね。劇団が定めた出世コースみたいなものがあって、そういったレールに乗れば将来トップスターになれるという、誰かが勝手に言ってるだけの根も葉もない噂話みたいなものなんですが…」

 

 次のトップスターが誰になるのか? ファンなら気になって仕方のない問題だ。だから過去の傾向と対策を調べて、どういう経歴ならば次のトップになれる可能性が高いのか考える。もちろん紅華がミュージカルという総合芸術を扱っていても、あくまでもショービジネスである以上、集客という要素も極めて重要なファクターだ。なので、劇団側の団員への扱いなども考慮して、次のトップスター候補を予想しようとしていた。

 

「絶対じゃないんでしょ? そういうのってさらさちゃんが一番嫌いなことじゃない?」

「そうです、よね」

 

 妙に歯切れの悪い口ぶりに、暁也は違和感を覚えた。

 

 暁也としては、周りがあれこれ好きに考えることに対して、なんの異論もない。それこそ自由だと思っている。自身に置き換えて考えてみたとき、次の歌鷗に一番近いところにいる自分はたしかに路線に乗っているのだろう。だがかつて、兄弟子が言っていたように、他に最適な人物がいれば年齢なんて関係なく、歌鷗さんは新しい後継者を用意するはずだ。

 決められた路線なんてないし、絶対はない。だから、演者は慢心せずに全力で舞台に望まなければならない。そういった話題に関して言えば、さらさの方が暁也なんかよりよっぽど意識が高い。

 入学式前に紅華桜の木の下に立ったら、トップスターになれない。そんな伝説があると、入学当初周囲からさんざん言われ続けても、さらさは一向に気にしなかった。むしろ、そんなふぁっとした伝説になんか負けないと、闘志を燃やすほどだった。有り余る才能を持ちながら、性別というルールで歌舞伎の舞台に立てなかったことが彼女に影響を与えていないわけがない。

 だからこそ、不思議だった。そんなジンクスに苦しんでいる同期がいるのならば、空気を読まずに頑張れ負けるなと励ますのが、渡辺さらさという人間だったはずだ。

 

「例えばだけど、その路線に乗るには、具体的にはどんなことが必要なの?」

「…新人公演の主演をつとめることです」

 

 その言葉で暁也はさらさが歯がゆい表情をしている理由を察することができた。

 

 音楽学校を卒業し無事紅華歌劇団に所属できたからといって、すぐに大きな役をもらえるなんてことは滅多にない。よほどの才能がなければ、新人は端役以下の役しかもらえない。とはいえ、それでは次代の才能の発掘が出来ない。青田買いではないけれど、将来のトップスター候補を自らの目で探したいと願うのは、ファンとして自然な心理といえよう。そのために存在しているのが新人公演だ。各組で現在公演中の演目を入団7年以内のキャストだけで演じる。一日限りの特別なイベントだ。そこから何人ものトップスターやヒロインが輩出されてきた。

 

「でもさ、新人公演で主演を演っても、トップになれなかった人だって大勢いるんでしょ?」

「はい」

「でも、いや、だからか。それを何度も演っている人に励まされても、全然慰めにもならないか。むしろ嫌味にうつるかもしれない。そういうこと?」

 

 さらさも、相談相手の彩子もすでに新人公演で主演やヒロインに抜擢されていた。対して薫は、出演回数こそ多いものの、トップおろかそれに準ずる重要な役どころでのキャスティングはいまだになかった。

 

「本当に、わたしたちが励ましてもいいものかと…」

 

 さらさの脳裏に先刻までの彩子との会話がよみがえってくる。

 

『わたしが初めて新人公演でヒロインに選ばれたとき、誰よりもまっさきに、おめでとう彩って言ってくれたのが薫だったの』

 

 今にも泣き出しそうな彩子の悲痛な顔が見ているだけでつらかった。

 

『予科生のとき、文化祭のオーディションでジュリエットに選ばれたときもそうだった。他の子の嫉妬からわたしを守ってくれた。自分も落選して悔しいはずなのに、泣きながらおめでとうって…』

 

 さらさにとってもあの冬の夜は特別だった。夏、自分の演技を否定され、ここでも居場所がないのかと苦しんだ。けれど、次はちゃんと選ばれた。役をもらえた。初めて舞台に認められたような気がした。

 

『…だけど、わたしが二回目にヒロインに選ばれたときの薫の表情。口ではおめでとうって言ってくれてたけれど、すごく寂しそうだった』

 

 娘役は早熟だ。男役よりも早くから舞台で活躍する。だから、比べること自体がお門違い。そんなことはわかっていても、どんどん活躍する同期の姿に、焦燥感を覚えない演者なんていない。

 

『いつからかな? 気がついたら、薫、怒らなくなってた。あんなに怒りっぽかったのに。私もさらさちゃんも毎日薫に叱られてたよね』

 

 さんざんプロ意識を持てと口を酸っぱく言われ続けた。

 

『大人になった? 落ち着いた? 違うような気がする。失ったんだ…』

 

 彩子はうなだれ、薫になんて言ってあげたらいいのか分からないと、絞り出すような声で泣いていた。

 

「―――さらさちゃん?」

 

 暁也の呼びかけでさらさは現実に引き戻された。

 

「…すみません、ちょっと考え事していました」

「うん」

 

 さらさにとってトップスターになるということは確定事項だ。なれるなれないではなく、なる。諦めた時点で、可能性はなくなってしまう。だから、誰になんと言われようとも諦めない。ジンクスなんて関係ない。

 だけど、誰もがそんなふうに思えないということも、充分理解できた。努力していない劇団員なんて誰もいない。そのうえでトップの枠の数が増えることはなく、どれだけ望んでも選ばれない人というのはどうしても出てきてしまう。頑張っている人間に、頑張れ諦めるななんて言っても、気休めにもならない。

 

「思うんだけど、事情は人それぞれいろいろあるんだろうけど、それでもさ、友達のことを励ますのに、資格とかいらないと思うよ」

「暁也くん…」

 

 さらさは隣の暁也にゆっくりと寄りかかっていった。

 

「さらさ、ちゃん⁉」

「少し充電させてください」

 

 しばらくしてからさらさがぽつりと呟いた。

 

「それでも考えてしまうんです。さらさだって、そっとしておいて欲しいときとかあるんですよね」

「じゃあ、黙って見とく?」

 

 挑発するような口調なのに、目元には優しさがあった。自分の前では一人称が以前と変わらないことが、暁也には少し誇らしく、愛おしかった。

 

「それは、なんだか違う気がするんです。でも、何ができるかまったくわからないんです」

「うん。ゆっくり考えたらいいよ」

「すみません、せっかく来てくれたのに。なので、この話題はこれで終わりです!」

「うん」

「また聞いてもらってもいいですか?」

「もちろん」

 

 さらさの表情が普段のものに戻っていくのを確認すると、暁也も再び誌面へと視線を落としていった。

 

「それにしてもいったい何を読んでいるのですか?」

 

 肩口から顔を差し込んでくる。視線がさらさのうなじへと向かうも、暁也はなんとか平静を装っていた。

 

「ああ、えっと、今度の対談相手のプロフィールの確認、かな」

「へえ、スポーツ選手なんですね。なんだか珍しいです」

 

 暁也が読んでいるのは有名なスポーツ雑誌、しかも特定の競技に特化したものではなく、スポーツ全般を幅広く取り扱った総合誌だった。

 

「次世代をになうスポーツ界、演劇界の異色の若手同士の対談ってコンセプトなんだって」

「へえ、それで暁也くんが演劇界の代表ということですか? つまりは、さらさたち紅華歌劇団を含めた舞台全体の代表でもあるんですね! 流石はお歌舞伎様、さらさも鼻が高いです!」

「…美里屋の力だよ」

 

「またまたぁ、将来の助六が謙遜しますね」

「まだまだ先の話って」

「さらさがオスカル様になるのと、どちらが先か勝負ですね」

「それはちょっと自信がないかも? 歌鷗さんが舞台を降りてるイメージがまったく湧かないからなあ」

 

 乾いた笑みがこぼれる。たまにしか歌舞伎を観劇しないさらさの目から見ても、現役の十五代目歌鷗は老いてなおその輝きを増しているように思えた。暁也が襲名する日は当分先になりそうだ。

 

「対談相手は野球選手ですか?」

「うん。関西の球団だから、もしかしたらさらさちゃんも知ってるかもしれないね」

「元気な縦じまさんのチームのかたですか?」

「いや、そっちじゃないほう。名前くらい聞いたこともあると思うんだ。お兄さんもプロ野球選手で有名だったから」

「へえ、そうなんですか? ご家族のかたは何てお名前だったんですか?」

「―――辻海斗。聞いたことあるんじゃない?」

「あー、はい! たしか金髪の、元メジャーリーガーのかたでしたっけ?モデルやアナウンサーやフライトアテンダントのお友達が多かったかたですよね?」

「そ、そうだね」

「そのかたの弟さんということは、つまりそのかたも、そういうかたなんですか?」

「いや、彼はお兄さんとは真逆みたいだよ。髪は少し長いけど、染めていないし、清潔感あるし…ほら」

 

 と、彼の写真がうつったページをさらさに見せる。

 

「たしかに、野球選手というよりは、大学生みたいな外見ですね。しかし、えてしてこういう人が裏で遊んでたりするものなんです。このまえ読んだ漫画のラスボスもこんな感じの草食系男子でしたし」

「彼、趣味が舞台鑑賞なんだって。紅華もよく観るってよ」

「見た目通りのさわやかな学生さんなんですね!」

 

 舞台好きに悪い人はいませんとばかりに、簡単に手のひらを返す。

 

「どんな舞台を観ていられるんですか?」

「ミュージカルが好きらしいよ。たいていは何でも観るって。雑誌社の人の口ぶりだと、歌舞伎だけじゃなくて、紅華も観たことあるみたい」

「観劇男子⁉ しかもプロ野球選手という超SSRな職業。そのうえ見た目草食系大学生というオマケ属性付き⁉」

「さらさちゃん、言い方」

「弟さんは辻なにがしさんとおっしゃるんですか?」

「ああ、陸斗。辻陸斗だよ」

「あ、聞いたことあります! たしか、翔ちゃんのお気に入りの選手で…」

 

 翔ちゃんとは浅草で人力車の車夫をしている昔からの友人で、さらさのバレエの師匠であるケーコのだんなでもあった。

 

「ああ、そういえばプロ入り前から彼のファンだって言ってたね。…って、どうしたのさらさちゃん?」

 

 さらさは口を開けたまま呆けていた。

 

「ツジリクト…? どうしてでしょう。その名前、聞いたことがあるような気がします」

「それは普通に有名だからじゃないの? お兄さんのことで昔からテレビとかで取り上げられてたみたいだし、どこかで名前くらい耳にしたんじゃない?」

「違います!」

 

 思ったよりも、大きい声が出たことにさらさ自身が驚いていた。

 

「いえ、そうなんですけれども、はいたしかにテレビで見聞きしたことはあったと思うんです。でも、そうではなくて、もっと違うシチュエーションだったんです。誰かと一緒に、観てたはずなんです。それこそ、翔ちゃんでもケーコでもおじいちゃんでも暁也くんでもなくて、誰と?」

 

 暁也から雑誌を奪い取ると、食い入るように見る。どれだけ顔を眺めても、ピンとこない。何も感じない。ただ違和感だけが喉のあたりに残っていた。

 

「歳は? 何歳なんですか? 暁也くんと同い年くらいですか?」

「え? ああ、たしか一つ上だったはずだよ」

「っということは、さらさと三つ違い? それってもしかして…」

 

 視線を雑誌へと残しながら、さらさの眼差しは過去へと飛んでいこうとしていた。

 

 

 

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