海と山がみえるバス停で   作:渡純

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第4話

 

 今にも泣き出しそうな声で「顔を見せて」と訴えてくるおばあちゃまに折れ、しぶしぶ帰省したのが昨日のこと。

 

 いつの頃からだろう? 年末年始も誕生日も、「練習があるから」とか「今大事な時期だから」とか言って、のらりくらりかわしてきた。だから、星野と書かれた玄関をくぐる瞬間、自分の家だというのにまるで初日の舞台のような緊張感に襲われ、何度もつばを飲み込んだものだ。それでも久しぶりの一家団欒での食事を終える頃には、自然と肩の力が抜け安心している自分がいることに驚いた。こんなことならもっと早く帰省しておけば良かったなんて思ってしまった。現金なものだ。

 だからといって、完全に気分爽快リフレッシュかと言われたら首をかしげざるを得ない。妙な居心地の悪さがあったからだ。まるで腫れ物を触るかのような扱い。気をつかわれているのがひしひしと感じられた。だって、不自然なまでに紅華の話題が出てこないのだ。私から紅華をのぞいたら他に何も残らないというのに…。

 

 特におばあちゃまは露骨だった。私の組替えのことが心配で心配で仕方がないのだろう。明らかに目が泳いでいる。舞台上では娘役のトップにまで昇りつめた「春の白雪姫」も、日常生活ではまるで大根役者だった。

 ただ、おばあちゃまの不安そうな表情を見ていると、自然と彩子のことを連想してしまう。ああ、だから私は実家に帰りたくなかったのだと、気付かされた。

 

 こんなにもみんなに迷惑をかけ、言葉を選ばせているというのに、私からは何も言わないで避けてばかり。自分から話せたらどれだけ良かっただろうか。けれど、一度でも口にしてしまったら、決壊したダムのようにもう止められないこともわかっていた。それでも、この休暇の間に答えをださなきゃいけないのだろう。いや、もう答えは出ているのかもしれない。単に認めたくないだけで…。

 

 もうかれこれ二時間ほどベッドの上でだらだらしている。今日は何もしないと決めていたはずが、結局朝から勝手に目が覚めてしまった。習慣とは恐ろしいもので、身体を動かしていないと逆に不安になってくるくらいだ。はやる気持ちを無理やり抑えながら、なるべく何も考えないようにする。こんな時間は本当に久しぶりだった。

 

 紅華に入学して卒業して入団して春組に配属されて、今日までずっと全力で駆け抜けてきた。わき目もふらず、寝食を惜しまず、ただひたすら努力した。

 

 私は同期の他の子らよりずっとデビューが早かった。それは明白に「コネ」であり、おばあちゃまの存在と、三世代に渡っての紅華デビューという看板力のおかげだった。

 

 初舞台公演は全員参加のお披露目だ。成績優秀者が口上を述べ、ショーの途中でラインダンスを行う。その後は七年間新人という扱いで、実力社会の中で生きていくことになる。本来なら卒業したばかりの新人では役をもらうどころか、舞台に立つことすら難しい。私は自分がいかに恵まれているのか、改めて思い知らされた。だって、初公演の口上で真ん中だった紗和よりも、名前だけでチケットが飛ぶように売れる奈良っちよりも、そしてあのさらさよりも先に、私は本番の舞台に立つことができたのだから。

 

 紅華社会は基本的に女社会だ。ボタンひとつ掛け間違えただけで、ぎくしゃくしてしまうことも多々ある。悲しいことに人間関係が原因で退団する人は少なからず存在していた。だからこそ、私は謙虚さを身につけなければならなかった。けっしておごらず、礼儀正しく、音高時代のように感情的にならないようアンガーマネジメントにも取り組んだ。

 努力のかいもあり、周りからは七光りだとかネガティブなことも絶対に思われていただろうが、表面上はうまくやってこられた。けれど、同期のみんなからすればそのギャップは酷かったらしく、変な目で見られたものだ。同期だけの集まりなどでは、自然と素に戻れたけれど、年月を重ねるごとにあの頃の星野薫はどんどん消えていってしまった。

 

 結局、私はコネをいかせなかった。目標とした新人公演の主演にはいまだに選ばれていない。代わりに、私より舞台に立つのが遅かったはずの同期のみんなが、どんどん活躍していく姿を間近で眺めるたびに、私の中の何かがどんどん削れていくのがわかった。私が手に入れたと思っていたアドバンテージなんて、入団から一年もしないうちに跡形もなく消え去っていた。

 

 ベッドに横たわったまま、窓の方へ視線を送る。暗い灰色の空が広がっている。予報ではかなり天気が崩れるとのことだったけど、いかにもな空模様のわりに雨はまだ降り始めていなかった。

 

「さっさと降ればいいのに…」

 

 誰に向けたわけでもなく、自然と口からこぼれていく。

 

 異動を宣告されたことよりも、新人公演の主演に選ばれないことよりも、満足のいく演技ができないことよりも、涙ひとつ流せない自分が嫌だった。悔しいという感情をどこかに置き忘れてしまったような、そんな喪失感。全部割り切って受け入れてしまえばどれほど楽になれるだろう。だから、せめて私の代わりに空くらい泣いてくれたっていいはずだ。

 

 不意に電子音が鳴り響く。思わず身構えてしまう。誤って通話ボタンをタッチしないように丁寧にスマホを確認する。ディスプレイには渡辺さらさの五文字があった。

 

 

「…もしもし」

「おひさしぶりです。わかりますか? 同期の…」

「さらさでしょ。 登録してるんだからわかるわよ」

「あっ、それもそうですね」

「ったく…で、なに? 珍しいわね、あんたがわざわざ電話かけてくるなんて」

「ちょっと用事がありまして。今、お時間よろしいでしょうか?」

「まあ、ちょっとくらいなら」

「じつは今ちょうどこの辺りに来ているんですよ。なので、もし良ければ一緒にご飯でも食べに行きませんか?」

「はあっ? あんたいきなり何言ってんのよ」

「はい、美味しい天丼のお店です」

「天丼?」

「はい! あれ、もしかしてお昼もう済ませてしまいましたか? それとも天丼はお嫌いですか?」

「へ? いや、お昼はまだだし、エビは大好きだし…って、そうじゃなくて!」

「本当ですか⁉ いや~良かったです。それなら大丈夫ですよね。では、すぐに迎えに行きますので。あ、家の場所は知ってるので、安心してください』

「はあ⁉ ちょっと待って、さらさあんた何言って…」

 

 言い終わる前に、一方的に通話が切られてしまった。呆然とスマホを見つめていると、呼び鈴のブザー音が聞こえてきた。

 

 嫌な予感がする。もしかして。いや。まだ。でも。さらさだから?

 

 階段を昇る音が近づいてきた。ノックの音。「薫~お客さんよ~」母の声。冷や汗が出る。私は頭を抱えた。

 

 着の身着のままで玄関に行くと、閑静な住宅街の中、冬組ポーズを完璧に決めている長身の女がいた。

 

 怒鳴り声が喉元まで出かかるも、なんとか飲み込むことができた自分を誉めてやりたい。身だしなみもできていない状況で、声を張り上げてご近所に迷惑をかけることは避けたかった。それに今更だ。相手は渡辺さらさなんだから。

 

「驚かせてしまったようですね」

 

 どうしてドヤ顔なのだろうか。一発くらい殴ってもいいような気がしてきた。

 

「言ったじゃないですか。近くまで来てるって」

「近くっていうか、うちの前じゃない⁉」

 

 こらえきれず声がうわずってしまう。一度大きく深呼吸する。危ない危ない。こいつは無意識に相手を自分のペースに乗せる達人だった。音高時代何度イライラさせられたことか。

 

「それで、ご飯、行くって?」

「はい!」

「天丼って言ってたけど、店は決まってるの?」

「はい! 最高に美味しい天丼を食わせてやるぜ、セニョリータ」

「…場所はわかるの?」

「え? ああ、大丈夫です。ナビもありますし、リサーチもしていますので」

「はあ~、わかった。ちょっと待ってて」

「あれ、それだけ? いいんですか?」

「なにがよ」

「こんな簡単に了承してくださるとは思っていなかったので」

「別に」

 

 さらさの思いどおりに事が進んでいるのは、かなり癪に障ったけれど、わざわざ神奈川まで来てくれているのに、邪見に追い払うこともできない。自分のお人好しぶりに嫌気がさす。

 

 さすがにこの格好ではまずいので、最低限身支度が必要だった。このままでは目立ってしょうがないので、仕方なくさらさをうちに入れる。

 

 準備が終わりリビングに行くと、誰かさんはひとのタコせんべえを頬張りながら、くつろいでいた。もう少しのんびりしたいと嫌がるさらさを強引に引っ張りだし、玄関へと向かう。

 誘ってきたのはこいつの方だというのに、なぜ私が頑張っているのだろう? いつもこうだった。音高時代はただイラつくだけで短所としか思えなかったけれど、今は少し冷静に分析することができる。他人を巻き込んで自分のペースに持っていくことに関して、渡辺さらさには天才的な才能があった。いつの間にか自然とさらさに目がいってしまう。それは舞台人にとって稀有な代物で、その他大勢で埋もれてしまう者にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

 

 さらさは「お茶ありがとうございます!」と元気よく告げて、一足先に車のエンジンを回しに出ていった。久しぶりのさらさにあてられ、気づけば盛大にため息が漏れていく。玄関でだらだらと靴ひもを結んでいると、後ろから母が声を掛けてきた。

 

「傘、ちゃんと持っていきなさいよ」

「わかってるわよ、子どもじゃないんだから」

「もう一本予備に持っていってあげたら?」

「あ~大丈夫だって、傘くらい用意してるって」

「そう?」

「そうそう。心配しすぎ。遅くなりそうなら連絡するから。じゃあ」

「薫」

「ん、なに?」

 

 呼び止められたので、思わず振り返る。

 

「行ってらっしゃい」

「…行って、きます」

 

 ただの挨拶のはずが、少しのまれそうになる。口調も普段通りなのに、眼差しだけは真剣そのもので、思わず気おされてしまった。

 久しぶりの帰省で部屋が全然ほこり臭くなく清潔で保たれていたのも、家族のみんながあれこれ訊いてこないのも、すべて母のおかげだったのだ。

 おばあちゃまの二世として同じ娘役を希望し、けれどトップにたどり着くこともなく舞台を降りることとなった母。そんな母にとって、今の私の気持ちなんて手に取るようにわかるのだろう。

 

 母の目が言っていた。「自分で決めなさい」と。

 

9

 

「富士山が見えるとの話だったのですが、やっぱり全然見えませんね」

 

 助手席で先ほどの母とのやり取りを反すうしていると、残念そうなさらさの声が聞こえてきた。

 

「こんな天気じゃね」

「海も見えて、富士山も見えて、本当に素敵なロケーションですね。晴天だったらさぞ絶景だったでしょうに。う~ん、残念です」

「たしかに景色はいいけどさ、海沿いって暮らしていくには大変だよ。潮風で髪や肌なんてすぐ傷むし、日焼けもヤバいし」

「なるほど。綺麗な花にはトゲがあるということですね」

「…それ、全然うまくないから」

 

 せっかく神奈川まで来たのだから景色が見たいというさらさの希望に従い、ちょっと遠回りしながら海岸沿いをドライブしていく。ただいつ雨が降ってもおかしくない空模様なので、観光にはまったく適していなかった。

 

 バスガイドよろしく適当な観光案内を始めてから十分くらい経ち、そろそろお腹もすいてきた頃合いだったので、目的地へと向かうことになった。「この辺りで停めますね」そう言って、さらさが駐車した場所は、漁港を少し越えたあたりのパーキングエリアだった。おそらくまだ作られて数年も経っていないのだろう。看板が比較的新しく小綺麗で、なによりあの頃はこんな場所なかった。

 

「少し歩きますんで、傘は忘れずにちゃんと持って…どうしましたか?」

「…別に」

 

 てのひらに汗がじんわりとにじんでいるのがわかった。嗅ぎなれたはずの潮の香りが、心拍数を上昇させてくる。それでも、紅華で培ってきたポーカーフェイスでなんとか平静を装った。

 

「で、このへんのお店なの?」

「そうですね、ちょっと待ってください。えっと、ここからだいたい10分くらいですかね」

「10分って遠すぎない? もっと近くに駐車場なかったの?」

「小さなお店らしく、近くに駐車場もなければ、カードも電子マネーも使えない昔かたぎのお店らしいんですよ。イキですよね」

「いまどきそんな経営で大丈夫なの、そのお店? それに、あんたもはじめてなんでしょ。道わかんの?」

「そのへんは抜かりありません。ほら…」

 

 さらさがスマホ画面を見せてくる。ナビのアプリが起動していた。

 

「それに紅華歌劇団の団員たるわたしたちが路駐なんて、するわけにはいかないでしょう?」

「…わかってるわよ」

「はい。では、道案内は私に任せて元気に付いてきてくださいね!」

 

 なるべく周囲の景色が視界に入らないように、目の前のさらさの背中だけに意識を集中する。少しでも気を許せば、懐かしさがこみあがってきそうだった。

 

 海岸沿いに国道を進み、山側へと曲がり、住宅街へと入っていく。ゆるやかな坂が始まっても、さらさの足色はまるで衰える様子がない。

 

 たしかに身長はわたしより10センチほど高い。だけど、数字以上に大きく感じる。手足が長いので、動きそのものがダイナミックに見える。それでいて軸がしっかりしているので所作は優雅。この体幹の強さは女子としては破格だ。

 ただ後ろについて歩いているだけでも、渡辺さらさという舞台人が特別な存在であることがわかる。そんなこと、入学当初から、自衛隊の行進の授業のときから、すでにわかっていたことなのに、ただ見ないようにしていただけだ。

 

 華の100期生という呼び名がある。区切りと語感のよさから、私たちの代をそう評することが多かった。自慢ではなく本当に才能のある者が多い世代だったと思う。その中でもし誰か三人挙げるとしたら、ほとんどの人が紗和と奈良っちと、そして渡辺さらさを選ぶだろう。

 学生時代、私たちの学年の主席はいつも紗和で、誰かさんは常に下位の方。ちなみに私はというと、可もなく不可もなく、平均よりは高いけれど、とりわけコネ以外目立つ物を持ってはいなかった。

 踊りでは紗和、演技では奈良っち、歌では彩子。私もさらさも学校の成績では別段優れた点がないということでは似たようなものでも、実際にはまったく異なっていた。それは存在感。彼女はどこにいてもいつも誰かの目を引いていた。もちろん本人がトラブルメーカーであるということも多分に理由なのだろうけど、いつもそのトラブルや逆境をバネにし、逆に自身を彩る装飾品に変えてきたように思える。

 

 これが将来トップになる人間の背中かと思うと、すとんと何かが胸に落ちる感覚があった。

 

 音高時代は本当にムカついて仕方なかった。逆張りするだけの、空気を読めない問題児。そこには一発での現役合格というねたみも多く含まれている。

 あの頃の私は焦っていた。年齢差をハンディキャップと思っていた。入学時点で私とさらさには四年も差があったのだから。だから、これ以上遅れをとるわけにはいかなかった。一秒も無駄になんてしたくなかった。時間がない。もう失敗できない。早くプロになって、そして―――。

 

 何度も考えた。私とさらさの違い。たぶん物事の捉え方の違い。メンタルの強さだ。

 

「午前中に発表でよかった…」

 

 音高時代のロミオとジュリエットのオーディション。グループごとの簡単な試験だと思っていたのに、実際には先生方の前で通しでやるという実践仕様。昼休憩のとき、出番がまだの子たちは緊張でご飯もろくに喉が通らない状況だった。そんな中、運良く午前中に試験を終えた私は、そう思ってしまったものだ。

 

「仕方ないよ運も実力のうちだから」

 

 ロミオとジュリエットのオーディションで、人数の足りないグループに安道先生がキャストとして参加したのを見て、私は彼女らの運が悪かったのだと判断した。一流の舞台俳優だった先生と演じれば、良くも悪くも相手の影響を受けて自分を見失ってしまう。だから、安道先生と組む子たちは運が悪いと決めつけていた。

 

 でも、思う。本当にそうなのだろうか? 結局、ティボルト役として選ばれたのは、安道先生と組んださらさだったのだ。

 

 それは、さらさが安道先生の圧に屈することなく、自らを表現したからだ。さらさが特別だから、才能があるから、そう一言でまとめるのは簡単だ。たしかにさらさは特別かもしれない。才能があるかもしれない。だけど、あの瞬間、さらさが安道先生のプレッシャーに負けなかったのは、渡辺さらさにとって、あの場面はピンチではなくチャンスだったのではないのか?

 

 凄い相手と共演できる機会は、舞台人にとって金銭よりも将来貴重な財産となるということを、さらさは本能で理解していたのだ。

 

 あのとき私が思うことは、さらさの立場を妬むことだった。なのに、安心してしまった。自分があそこにいなくて良かったと思ってしまった。違うそうじゃない。「どうしてあそこにいるのが私じゃないんだろう?」そう怒りに身を震わせなければならなかったのだ。

 

 運動会のときも、星様ともつれてこけてしまったときも、さらさはピンチをチャンスに変え、先輩方だけでなく、多くのファンの方々の印象に残った。彼らはさらさが舞台に立ったとき、あのときのことを思い出すのだ。

 

 ひるがえって、私はどうだろう?

 

 口ではプロ意識をうたっておきながら、実のところ、ただ目の前の課題を無難に乗り越えることだけにあくせくしている。ああ、その差なんだ。だから、私は―――

 

「着きましたよ」

 

 さらさの言葉で思考が途切れる。すぐ目の前にさらさの背中があった。こんな状態でよくここまでこけなかったものかと、我ながら呆れてしまう。怪我をすることだけは絶対に避けなければいけないはずなのに、明らかに集中力に欠けていた。

 

「大丈夫ですか? 気分悪そうですが?」

「ううん。大丈夫だから、早く入ろう」

 

 ばつが悪い気分をかき消すように、私は率先して目の前の趣のある日本家屋へと入っていった。

 

 

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