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老夫婦が営んでいたその天丼屋は、彼らの人柄がそのまま出た、おおらかで優しい雰囲気に包まれていた。席数は少なかったけれどファンは多いようで、それなりに繁盛しているようだった。
食事中、さらさは衣を口に運ぶたびに、「美味しい美味しい」と繰り返し褒めたたえていた。それには私も同感で、何度舌鼓をうったかわからない。えびは大ぶりでいて身もぷりぷりしていたし、他にもふんだんに海の幸が使われており、そのどれもが新鮮で味わい深かった。
不意に店内を見渡すといつの間にやら待ち列ができていた。食後の余韻にひたる暇もなく、私たちはさっさと店をあとにすることにした。
雨が降り出したのは店に入ってからすぐのことだった。通り雨ではなく、店を出てもまったく止む様子がない。どうやら予報の通り、今日はこのままのようだ。
行きとは異なり、帰りは傘を差し横並びに歩いていく。雨は勢いこそ失ってはいたが、いまだに止む様子がなく降り続いている。私たちは無言のまま坂をくだっていった。不思議と会話はなく、雨音と水しぶきがBGM代わりに鳴り響いていく。
絶対に食事中、あれこれ訊かれるものだと思っていた。きっと彩子から相談を受けたのであろう。そうでもなければ、いきなりご飯だなんて不自然なこと言い出さない。それくらい私にだってわかる。
そう思って多少は身構えていたというのに、車内も道中も、お店でも、さらさからは紅華のコの字も出てこなかった。少し拍子抜けしてしまっている自分がいる。
そろそろ住宅街を抜けて、視界の先に海と国道が見え始めようという瞬間のことだ。
「―――あっ」
急にさらさが声をあげ、その場に立ち止まった。
「どうしたの?」
「スマホがないです…」
傘の隙間からのぞくと、さらさは落ち込んだ様子でうなだれていた。
「さっきのお店じゃないの?」
「はい。食事中、カメラで撮ったので、間違いないです」
「すぐに気づいて良かったじゃん。まあ、今ならまだ全然余裕だって」
「いえ、私ひとりで取りに戻るので大丈夫です」
「え、別にいいわよ、それくらい」
「私の不注意ですので、星野さんは先に行っておいてください。すぐに追いつくので」
この雨の中、また戻るのかと思うと少し面倒な気分に陥った。それが顔に出ていたのかもしれない。さらさに気をつかわせてしまったような気分に陥り、罪悪感が湧き上がった。
「あー、うん、じゃあ私は先に車のエンジンでもあっためておく」
「あの、大変言いにくいのですが、実は車のキーもスマホケースの中なんです…」
「マジ…?」
先に行ったところで、この雨の中、車の前で突っ立っておくしかないのなら、さらさと往復した方が遥かにマシなように思えてきた。
「行きしなに見えたのですが、あそこなら屋根があるようなので、待つには都合がいいと思うのですが、どうでしょうか?」
そう言って、さらさは海岸沿いを指し示した。その先には見慣れた、古いバス停があった。たしかに、あそこなら屋根もあるし、多少の雨風なら余裕で防いでくれるくらいの奥行きもある。だけど、あそこは―――
いきなりさらさが敬礼してくる。「では言ってまいります!」そう言って、このどしゃぶりの中、濡れることもいとわず全力で駆け出していった。その背中が坂のてっぺん辺りで見えなくなった頃、私はようやく諦めてバス停へと向かうことにした。
11
強まる雨脚とは裏腹に、私の歩みは進むごとにどんどん弱々しくなっていく。たいした距離でもないのに、まだ到着できていない。
もう言い訳できない距離まで来てしまった。あと数センチも進めば、中に入れる。入ったら雨に濡れなくて済むというのに、私の脚はいっこうに前へと動く気配がない。まるで初公演舞台での、ラインダンスの前の緊張感を思い出した。「行こう、薫ちゃん」顔面蒼白な私の耳元で、そっと彩子が囁いた。握りしめた手は温かく、だけど確実に震えていた。
私は目を閉じたまま、足を踏み入れていった。傘を斜めにかざして持っていたせいで、傘の先端部分が部屋の奥の窓枠に当たってしまう。軽い衝撃が手に伝わり、私は目を開けた。途端、懐かしい匂いが鼻孔を通り、全身へと駆け巡る。とうとう戻ってきてしまったのだと、理解した瞬間だった。
奥行きは三メートルほどあるけれど、扉がなく前面が開放されているから、横風が吹いたら雨つぶがそのまま部屋に入ってきてしまう。そんな環境であるにも関わらず、とても深い安心感が訪れてきた。それは星野薫にとって、ここが特別な場所であることのあかしだった。たった一か月にも満たない、短い期間だったというのに、たぶん一生忘れることなんてできない。
椅子に座り、窓を少しあける。雨が入り込んでくるけれど、気にしない。窓の外に目を向けた。相模湾が広がっていたけれど、この天候では景色もなにもあったもんじゃない。もちろん富士山も見えない。でも、それでいい。もう何度も眺めてきた景色だ。目を閉じれば容易に瞼に浮かんでくる。暇なバスの待ち時間、快晴の日には相模湾から富士山が一望できた。それはどこまでも美しくて鮮やかで、停滞していた当時の私はそれらを少し妬ましく思いながら見ていたものだ。
ここには二度と来ないつもりだった。だって思い出してしまうから。うつむいていると、雨粒が背中に降り注いでくる。どうして自分がここにいるのかわからなくなって、深いため息が漏れていった。
そんなときだった。ふと、視界の片隅に飛び込むものがあった。
入ってすぐの汚れた壁には、いくつかの掲示物が貼られている。それらはバス会社からの運行案内だったり、地域住人に伝えるための当たり障りのない告知だったり。しかも潮風の影響で劣化が激しく、色褪せていないものを探す方が遥かに難しい。そんななかひと際目をひく真新しい掲示物があった。まったく色褪せていない、明らかに最近貼られたばかりのもの。
気がついたら私は立ち上がっていた。よろよろと夢遊病患者のような頼りない歩みで、壁へと近づいていく。
『伝えたいことがあるので
今日だけ貼らせて下さい
あの時の君へ
君の言葉があったから
今の僕がいます
頑張っている君の姿が
僕の支えです
ありがとう』
瞬間、息もすることも忘れて見入ってしまっていた。もしかしたら心臓もとまっていたかもしれない。ただ目の前の、まるで子どもが書いたみたいな、下手くそなくせ字にだけ意識が集中している。
どうして? なんで? もしかして?
様々な疑問が頭によぎっては消え浮かんでくる。感情の波に流されて、私の心と体は、音高時代を飛び越え、あのときの、高校三年の夏の頃にまでさかのぼっていった。
ずっと紅華に入学することだけを考えて生きてきた。青春のすべてを紅華に捧げてきた。同級生からはなかば変人認定され、学校ではいつも浮いていた。異性から告白とかされることはあったけれど、それは私の見てくれだけを判断してのもの。そんなお遊びのようなくだらない関係に時間をかける余裕なんて一ミリもなかった。
そんなときたまたま彼のことを知った。シンパシーを覚えた。ともに進むべき道の先に、偉大な肉親がいて、その存在の大きさで苦しんでいる者同士。もしかしたら、この人も私と同じ痛みを抱えているのかもしれない、そう思えた。
でも結局、私たちはたもとをわかつこととなった。
私が彼を拒絶したから。彼はただ慰めて欲しかっただけなんだと思う。うなずいて、「私もそうなのよ」と同意して、優しい言葉を掛けてあげるだけで良かったのだ。
だけど、駄目だった。無理だった。あの時の私にはそんな余裕なんてまるでなかった。受験のプレッシャーと周囲の雑音。彼とのささやかな交流だけが、心を落ち着かせる安らぎのひとときとなっていた。
現実逃避していたんだと思う。実際には私の精神は張り詰めた風船のように膨らんでいて、あの夏祭りの夜に限界を迎えた。
彼を慰めることは、ううん、違う。彼の弱さを受け入れることは、私自身の弱さを受け入れることと同じように思えたから。それは、私自身の生き方を否定するように思えてならなかった。
気がつくと私は、泣き散らし、叫び、その場をあとにしていた。彼とはそれ以来一度も会っていない。SNSもブロックしたし、おばあちゃまが退院したので、あのバス停に立ち寄る理由もなくなった。
テレビや雑誌なんかで彼の活躍を調べては心の中で「頑張れ」と応援していたけれど、直接会いに行こうとは思わなかった。自分のことで忙しいというのもあったけれど、またあの頃のように、弱い自分に流されてしまうことが、怖かった。
一度だけ、彼がプロになってから球場に足を運んだことがある。満員の観衆たちが、彼の名前を大声で叫びエールを送っていた。彼はそれに応えるようにヒットを打つ。ホームランでもなければ、点につながる安打でもなかったのに、ファンのみんなはまるで宝くじに当選したかのようなはしゃぎぶりで喜んでいた。
何様だと言われるかもしれないけれど、なんだか私もちょっぴり誇らしくなった。だけど、そのあとにどうしようもない虚無感が私を襲ってきた。当時の私はすでに未来を見失っていた。コネで舞台には立てても、思ったような役をもらえていないという状況。こんなうだつもあがらない私が本当にトップスターになれるなんて言えるというの?
一方で、大勢のファンの心を動かす存在になった彼。もうとっくに私なんかとは違う世界の人間になってしまったということを、この場の空気を吸うことで思い知らされた。それからは球場に行くこともなくなり、なるべくニュースも見ないようにした。自分の中の醜い感情を知りたくなかった。彼が羨ましくて仕方なかった。
―――ああ、なんだ。私は彼のことを下に見ていたんだな。
雨の音以外、何も聞こえないバス停で、私はただ呆然とたたずんでいた。今の私の気持ちのように、空も海も濁っている。なんてお似合い。自分がとてつもなくみじめに思えてきた。
わざわざ彼にこんなマネまでさせてしまった。私を励ますための茶番に付き合わせてしまった。彩子…いやさらさか。もはや恥ずかしさや情けなさを通り越して、申し訳なさでいっぱいになってきた。
頭が冷えてくる。視界が少し広がる。すると、張り紙の下に別の何かが貼ってあることに気づいた。
手を伸ばし上から触ってみると裏側に厚みがあることがわかる。張り紙をめくると、ビニールの袋が裏側にテープで止められていた。袋の中には紙きれがいくつか入っており、ぱっと見ただけでも数十枚はありそうだ。
何の紙だろうか、手にとって調べてみると、それはチケットの半券だった。
映画でも美術館でもなく、舞台の券。紅華歌劇団の入場券。しかも、それはすべて私が出演した舞台のチケットだった。
初舞台公演はもちろんあった。舞台の上でどんな役をやろうと恥ずかしいなんて思ったことなんてなかったのに、彼にあのラインダンスを見られていたのかと思うと、嬉しいような恥ずかしいようななんとも言えない感情に襲われた。それだけじゃない。端役以下の役どころだったけれど、初めて一人で舞台に立ったときのチケットもあった。しかもそれは初日のものだった。ほんの数分間のセリフもないワンシーンのために、彼はわざわざ舞台に足を運んでくれたのだ。
ずっと観てくれていたんだ。本当に見続けてくれていたのだ。
それがわかった瞬間、当たり障りのなかったはずの文面が、単なる言葉の羅列ではなくなっていった。文字が浮かび上がり、まるで彼が直接耳元で囁いてくれているような、そんな感覚に陥り全身がしびれて動かなくなっていく。
『伝えたいことがあるので
今日だけ貼らせて下さい
あの時の君へ
君の言葉があったから
今の僕がいます
頑張っている君の姿が
僕の支えです
ありがとう』
あの時の言葉?
いったいわたしは、彼になんて言ったの?
『違うよ、私は違う。
無理なんて一ミリもしてない!
これは私が選んだ道よ!
私がなりたいの!!!』
ああ、そうだ。そうだった。
「最後まで、ぜったい」
言葉が自然と口からもれていく。
「あきらめ…ない」
ずっと言いたくて、でもいつからか言えなくなった言葉がある。
「あたしは、何が何でも…」
その先を開く。
「何が何でも―――トップスターになるんだ!」
半券を握りしめた手が涙でぐちゃぐちゃになった。
私バカだ。
才能とか立ち位置とか
そんなことで舞台を嫌いそうになっていた。
持ってる人たちに
成し遂げた人たちに
嫉妬していた。
自分で望んでここまできたんだ。
なりたいから、やりたいから、好きだから
舞台に立っているのに。
他の誰かに強制されたわけじゃない。
ましてやおばあちゃまのためでもない。
あたし自身のため。
彩子は彩子で。
さらさはさらさで。
彼は彼で。
私は違う。
彼らじゃない。
私は私だ。
そんな当たり前のことさえも分からなくなるくらい、私は忘れてしまっていた。
幼い頃の、初めて紅華の舞台を観たときのあの感動と憧憬を。
高三の夏祭り、眩しすぎて見ていられなかった花火の夜の誓いを。
プロになりたい。口先だけの小手先じゃない、本物のプロフェッショナルに。ファンの数なんて問題じゃない。どれだけ少なかろうが、私は私のファンのために、ベストを尽くすんだ。言い訳とか運とか才能とか、そんな言葉に左右されるのはもううんざりだ。
「白き~雪~の~ように空に~舞い落ちる~だがそれは~温か~く
まるで~春の妖精~ひらり~ひらり~と~」
外で激しく吹きすさぶ雨風に逆らうように、私は歌っていく。あのときの感情を思い出すように。
「嗚呼~紅華の~桜の~花よ~大地に降り立~ち~土へともどり~
また新たな命となり君に会いに行こう~」
全てを捨ててでも手に入れたいと思うものがあった。それは今でも同じ。だけど―――。
「今はただ~躍り~舞い散~ら~ん~」
まるで雨音が拍手となって私を励ましてくれているようだった。やがて周囲に静けさが戻ると、水たまりを規則正しく鳴らす足音が聞こえてくる。ゆっくり首を向けると、バス停のすぐそばに傘を閉じたさらさの姿があった。
「―――逢えますよ?」
その一言で感情がまた溢れだしそうになる。
けれど、グッとこらえて、私は首を左右に振った。
「…そうですか」
「ありがとう、さらさ。あんたが動いてくれたの?」
「はい。相談を受けたんです。それで…」
「もしかして彩子? そっかあ、うん、そうだよね」
「余計なことだったかもしれませんが…」
さらさにしては珍しく、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。少しプライベートに踏み込みすぎたかもしれない、そう思っているのだろう。
「ねえ、さらさ。あんたまだ自分がオスカル様になれると思ってる?」
私からの場違いな質問に一瞬面食らったように呆ける。けど、すぐに切り替え、いつもの調子で元気よく答えた。
「さらさは必ずオスカル様になります!」
「ほんと、あんたは変わらないわよね」
こういうところが本当にイライラした。予科生とか、新人公演の主演だとか、渡辺さらさにはそんなことまったく関係ない。どんな立場であろうとも、いつも自分の夢にまっすぐに向き合っている。
『なれるか解らないのに
「なる」って言っちゃったり
それであてもないそんな発言が何故か
許されちゃう人
正直羨ましかったりもするけど
私は言えない
そこにたどり着く大変さを
他の子達より知っているから』
だからこそ、言葉にするのだ。その重たさや難しさを理解しながら、それでも口に出すことに意味があるのだと、今は知っているから。
「ねえ、伝言お願いしてもいい?」