12
「必ずなるから、だから待ってて―――か」
運転中のさらさの横で、暁也がつぶやいた。
さらさは薫を家まで送り届け、バス停の近くで待機していた暁也を拾い、二人して東京へと帰る途中だった。暁也はじょじょに遠ざかっていく相模湾を名残惜しそうに眺めていた。
「そういえば、暁也くんに聞きたいんですが。てっきりバス停の中で待ってるのかと思ったのに。どうして外で待っていたんですか? まだ少し小降りだったでしょ」
「いや~、あの中で待つのはさすがに気がひけるよ」
「そうですけど、風邪引いても知りませんよ?」
さらさが迎えに到着したとき、暁也はバス停の近くで一人で待っていた。てっきり彼も一緒かと思っていただけに、さらさにとって少し面食らった結果だった。さらさへの感謝の言葉を暁也に残し、一足先に陸斗は帰ってしまっていた。
「もしかして、会えなくてショックだったりしませんかね? 立ち直れない傷になって、成績不振に陥ったらどうしましょうか?」
「いや、大丈夫だと思うよ」
「なんでそんな気楽に言えるんですか? 何年もずっと追っかけていた女子とせっかくご対面できるというのに、どうして会わないんですか。今ならたぶんコロッといきましたよ、コロッと」
「さらさちゃん、ちゃんと前見て前」
興奮のあまり口調だけでなく、運転まで荒くなってくる。
「元々彼、言ってたよね。たぶん会うことはないんじゃなかって」
「それが解せないんですよね」
暁也経由で彼とコンタクトを図り、今日という日を運良くセッティングできた。さらさの案では、陸斗をバス停で待たせる計画だったが、陸斗がかたくなに拒否し、今回の段取りとなった。
「会いたくなかったんですかね」
「それはないんじゃないかな」
「彼女の方はどうだったの?」
「なんだか憑き物がおちたかのようなスッキリとした表情していましたね。あっ、あとはめちゃくちゃ小言を言われました。ご近所迷惑になるから、派手な立ち回りするなとか、優勝争いのかかったプロ野球選手を連れまわすとか非常識だ、とか。音高時代のトラウマがむくむくよみがりそうになりました」
「それは災難だったね」
「暁也くんの方はどうでしたか? 言づて伝えて、何か言っていましたか?」
「特には。わかったって」
「それだけですか?」
「まあ、それだけかな」
「やっぱり解せないです」
その答えはさらさが予想していたものの中で一番無難で面白味のない代物だった。
「さらさのしたことって、やっぱり迷惑だったのでしょうか? ただの余計なお節介だったり…」
「僕たちの、でしょ? 彼も力になれるならって、喜んで参加してくれたし。彼女も怒ってはいなかったんでしょ」
「小言は言われましたけどね。…ただ二人のことがよくわからなくて」
「彼、笑ってたんだ」
「え?」
「さらさちゃんからのメッセージを伝えたとき、最初口を開いてすっごく驚いた様子だったけど、「わかった」って答えたときには、満面の笑みを浮かべていたよ」
「う~ん、じゃあ、さらさ達のしたことにも少しは意味があったのかもしれないですね」
さらさの微笑みに暁也も笑顔で返す。ただしその脳裏には彼―――陸斗への畏敬の念があった。
彼女のメッセージは単純に言えば、紅華でトップになるからそれまで待っていて欲しいというもの。それがどれほど難しいことなのか、彼にだってわかっているはずだ。仮に叶うにしても、あと十年はかかる話だ。そういう次元の話なのだ。
「待ってて、か…」
それは舞台だけの意味なのだろうか? それとももしかして…。
自分に似ているなと、暁也は思った。さらさが紅華でトップスターになるまで、幼い頃の呪縛からは逃れられないだろう。そういう意味では、暁也も陸斗も、自分ではどうしようもない相手次第な面が強い。
けれど、彼は笑ったのだ。諦めや皮肉の笑みではなかった。そこには心からの喜びがあったように思える。それは暁也にはできなかったことだった。
たぶん、暁也たちには知り得ない、彼ら二人にしかわからない何かがあるのだろう。
何年も直接逢っていなかったはずの二人が、年月をこえ、あの瞬間繋がったのだ。その尊さを思ったら、たとえどれだけ雨が激しく降っていようが、あの後あのバス停で待つなんていう選択肢を暁也には選べなかった。
ひるがえって自分たちはどうだろう? さらさと自分の関係。恋人。目標。ライバル。トラウマ。一言では言い表せない関係。これほど近くにいながら、ときどきお互いがとても遠くにいるような感覚に陥るときがある。良くも悪くも、自分たちは舞台に囚われすぎているのだ。
車が信号待ちのため停車する。さらさの手がハンドルから膝の上へと移るのを暁也は確認した。
「あ、暁也くん、いきなりなんですか、危ないですよ」
「ごめん、ちょっとだけだから」
不意に重ねられた暁也の右の手のぬくもりに、珍しくさらさが取り乱すも、暁也はそのまま指をからめていった。
あの二人にあてられてしまったのだろうか。ぞんがい自分が俗物であることを暁也は思い知らされた。
さて、信号が変わるまで果たして後何秒あるのだろう。せめてこの瞬間だけは、舞台とは関係ない、渡辺さらさという愛しい恋人のことだけを考えていたかった。
13
「ただいま~」
玄関で口紐をほどいていると、母が声をかけてきた。
「あら早かったのね?」
「まあね…って何?」
「別に。てっきり晩御飯も食べてくるかと思っただけよ」
「すぐ帰ってくるって言ったじゃん」
「せっかくの休暇なんだから遊んでくればいいのに。雨、濡れてない? 先にお風呂にする?」
「あ、うん、大丈夫。ところで今日のご飯は?」
「今食べてきたところじゃないの?」
「なんかすっごくお腹すいた」
「天丼よ」
「え?」
「聞こえなかった? だから、天丼」
「うん…」
「ふふっ、冗談よ」
「へッ⁉」
「あんな声じゃあ、ご近所中に筒抜けよ。紅華団員たるもの、もう少しプロとしての自覚を持って欲しいわね」
「あれは、さらさが…」
「最初に声あげてたの、薫でしょうが。本当、私に似て感情的なんだから」
「うっ…」
「まあ、いいわ。これから気をつければいいだけだし。時間はまだたっぷりあるんだから」
「それってどういう…」
「あと、たまにでいいから顔見せなさいよ。心配してるのは、おばあちゃまだけじゃないのよ」
「うん、わかった」
呆けている私に背を向け、母はリビングへと戻ろうとする。
「あ、言い忘れてた」
扉を半分開けたところで立ち止まったかと思うと、振り返り、こちらをじっと見つめてきた。
「おかえりなさい、薫」
ただの挨拶のはずが、今日はなぜか恥ずかしさがこみあげてたまらなくなった。
ベッドの上でごろんと横になる。いろんなことが頭に浮かんできた。考えたいこと、考えなくちゃいけないこと、色んなことがどんどん溢れてくる。けれど、最初に思い浮かべたのは彩子のことだった。
鞄からスマホを取り出す。彩子と話がしたかった。心配かけてしまったことを謝りたかった。改めて語り合いたかった。これからのこと、夢のこと。そして、聞いてもらいたかった。今まで誰にも話してこなかったこと―――海と山がみえるバス停でのことを。