足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
騒々しい中庭。時間帯を考えれば未だに運動部も文化部も活動をしているにも関わらず、そんな日常の音があまりにも遠くの出来事だと感じてしまうのは耳に入る音色が異なるから。
風を切る音が幾重にも響く。ヒュンヒュンヒュンヒュンと、軽快に空で軽やかに踊る石たちがステップを踏む音が此方に恐怖を与えてくる。
――ヒュ、っと。耳元で、耳の真横を何かが通り過ぎ去った。
背後から飛んできて、耳の傍を通った拳大の石は鋭い直線を描きながら九音の手中に。
それを片手でぽんぽんと上空に投げてはキャッチする様子はまるで野球のロージンパック、滑り止めをしているかのよう。そして、振りかぶり投げる――脇腹の横、学生服を掠めてはブーメランの如く石はUターンをして再び手の中に。
『おっとー、外しちゃったなー、ミスっちゃったなぁー。いやぁー、ピッチャーって難しい』
ニヤニヤと嗤う。内心で嘘吐けと愚痴りながら、ジリッと足を一歩引く。少なくともこの女に外すなんて概念は存在しない。俺が避けるといったことは出来たとしても、足山九音が狙った場所に当てれない等あり得ないことなのだ。
人間ならば投擲に手腕や技術が必要かもしれない。けれども化け物がやっているのは投げているふりだ。そこに技術も練習も努力も必要ない。
彼女が使っている能力――足山九音らしいその能力に名前をつけるのならばこう言おう。
ポルターガイスト、と。
ポルターガイスト現象。幽霊らしく、悪霊らしいとも取れるその能力。ドイツ語のポルターは騒々しい、ガイストとはゴースト、つまりは幽霊。
数学の時間に興味もない話をペチャクチャと喋っては、機嫌が悪くなるとぶつぶつと此方が滅入るような怨念を零す、時折小学生もかくやといった騒ぎ方や駄々のこね方をするのだから何とも似合いすぎる能力だ。
超心理学において通常では説明のつかない現象の総称であるポルターガイスト。たとえば誰も手にとっていないにも関わらず物が浮いたり、動いたり。誰も居ない筈なのに音が鳴るラップ現象も含み。そして寝ている人間が翌朝、別の場所で目が覚めたという例も存在する。
名は体を現すように一人でも三人くらいは煩い女幽霊は俺と自分の周囲でビュンビュンと石たちに激しいダンスを強いる。時折、ぶつかっては激しい火花が散らし、まるで此方を脅すかのような警告音は――当たれば痛いくらいじゃ済まないぞと気炎を吐いていた。
故に俺はゆっくりと口を開きながら対策を練る。この好戦的な状況を一旦、どうにかしなければ。
「おいおいおいおい、雑魚幽霊の九音ちゃんにしては短慮すぎない? 喧嘩なんて下らないことやめようぜ。お互いに痛い目あいたくないだろ、な?」
『何言ってんの? 痛い目を見るのは八幡くんだけだよ。中途半端な霊視くらいしか取り柄がないくせに何イキっちゃってんの?』
「馬鹿、お前。九音、バカ。お前、俺の筋肉甘く見んなよ。筋肉あるぞ、俺は、筋肉」
『……それが何の役に立つっていうのさ』
呆れたとばかりに此方を見る九音。胸板を叩いて筋肉アピールをし、ボケてみることで何とか怒りを沈下して……。
『で? そんな小賢しい小ボケで私の毒気が抜かれるとでも思ったの?』
筒抜けだった。むしろ付き合いが濃厚な一年だった分、俺の小賢しい真似にイラッと来ているのがわかる。向こうが俺のことをわかるなら、此方も向こうのことがよくわかる。
そもそも彼女は俺を殺す気などさらさら無い。けれども浮いた石達は悪ふざけでもない。こちらを半殺しする程度には痛めつける気はありますという意思が伝わってくる。
ジリッと足を一歩引く。額に浮いた汗は間違いなく精神性発汗と呼ばれる代物。恐怖と緊張により生まれでた。
「……南無三ッ!」
鞄を手に取って逃げようという意気を声に出して足元に手を伸ばす。
南無三とは驚きや困った時に人間自らではどうしようもないから神に救いを求める時に使う言葉だ。
『フンッ、読んでるっての!』
伸ばした先の鞄に宙に浮いていた石達が続々と襲い掛かる。俺は慌てて飛び退く。そして――石は一箇所に固まった。
こっちこそ、読んでたっつーの!
俺が鞄を持って逃げ出すなんてことはこの幽霊にはバレている。だから俺がまず鞄を掴もうとするのを邪魔されるのは承知の上。
故に俺が目的としたのは一箇所に石を集めること。
一箇所にすべての石が集まったのなら――襲い掛かる石の軌道は比較的にわかりやすい。
今は何度も何度も鞄に襲い掛かっては鞄の中に入っているペットボトルやノート、教科書、文庫本ごとボロボロにしている。潰れた鞄は破損されたペットボトルのせいか水が漏れ出ていた。
故にこれはブラフ。鞄は最初から諦めていた、この女幽霊はここに至ってまだ甘い。
ボコボコにするとか、半殺しにしてやるとか思っていながらまず狙ったのは俺を逃がさないための対応。宙に浮く石達を俺目掛けて殺到させなかったのだから詰めが甘い。
俺は中庭の出入り口を目指して全力疾走するために、石が集まってる箇所から目を離さずに方向転換しようとする。これなら、仮にあの石たちが此方を目指してきても軌道を見やすい。そして他の石を動かすにも距離が遠すぎる。
そして、俺は逃げ出そうと足を動かした瞬間に――
「ッィァッ!?」
脛に激痛が迸る。そして体勢を崩して、そのまま倒れこんでは打たれた泣き所を抑える。クソ痛ぇ……。
『あれあれェー? もしかしてー、私が全部の石を鞄のために集めていたとか思っちゃったァ? ごっめーぇん! ごめんねぇ、八幡くん』
ころころころ、と蹲って脛を押さえる俺の目の前に石が転がってくる。そして、突如としてガタガタガタガタと地面を鳴らして飛び去った。まるで浅はかな俺の考えをあざ笑っているかのように。
完全に引っかかったのは俺かよ。そもそもこういう読み合いをさせたのなら俺がこの女に勝てる未来は想像できない。
普段こそ頭が悪く、駄々をこねて、幼稚な言動を見せることが多い九音ではあるが――悪霊なのだ、幽霊なのだ。罷り間違っても、悪意、騙しあいといった競技で彼女を上回ることなど出来る筈もない。
『はぁ……悲しい。私はとっても悲しいや、八幡くん。とてもとても悲しい。愚かしい八幡くんを見ると可愛いな好きだなって思うけど。馬鹿な君を見るとしゅきだな、結婚しよとも思うけど。反面その行為が私から逃げる行為に使われると凄く凄く哀れで愚かで可哀想で酷く悲しくて、とっても腹が立つ。腸が煮えくり返っちゃう。そもそもタクシーに並走出来る私からどうやって逃げようというのさ。そりゃあ、距離をとることは出来るかもしれないけど、逃げられなんかしないんだよ。もしかして逃げればその内、頭を冷やすとか考えちゃった? 逆でしょ、逃げれば逃げるほど私は君に対してたくさんのことを思って、この想いをぶつけちゃうんだよ。物理的に』
悪あがきなのは重々承知していた。痛い目に遭いたくないなんて神頼みすらした始末だ。今まで祈りが届いたことなど心当たりが無いにも関わらず。
『八幡くん、提案があるんだけど。三つの選択肢を君に与えちゃう。三つもだよ、三つも』
三本の指を立てて此方に向けて判りやすく示してくる。涙で霞む視界にうっすらと浮かぶ指はまずは一つと閉じられた。
『前言を撤回して私への愛を叫びながら『ぼこぼこ』ってされる。私のおすすめはコレだね』
随分と柔らかく可愛らしい口調でぼこぼこと口にする九音。そして二つ目の指が折れる。
『次に後悔をしながら私に『ぼこっ! ぼこっ!』っとされてから前言を撤回する。あんまお勧めはしないかな』
そして残った中指をくるりと返して甲を見せつけて。
『三つ目。いつものように中途半端に祈ってみる。前言撤回もせず、なんなら本心だったと口にして、これ以上に私を怒らせてみて中途半端に神様に助けを求め続ける。今まで君は悪あがきとばかりに様々な怪異に諦め悪くしぶとく何とかしようと試みてきた。だから今回も同様にそうすると言うのならば止めないよ。私、理解ある女だから。ただその場合は酷い目に合うと思うな、明日の朝日が見れなくなっちゃうかも。お勧めはしないよ』
なにが、理解ある女だ……。くそっ、前言撤回したくなるじゃねぇか。けれども俺は口にした言葉の責任を嘘だと言うつもりはない。由比ヶ浜は確かに可愛い、少なくともこんな性悪よりかは。
確かに見てくれは足山九音に敵う存在はそうそう居ない。主観的に言うのなら俺は見たことすらない。
それほどまでに整った顔をしているが、中身は酷いもの。そりゃ、悪霊になるでしょ……。とばかりの性格をしている。
『じゅー、きゅー、はーち』
カウントダウンが始まる。
三つの選択肢。未だに脛が痛み、目は涙で滲む。
考えろ、考えろ、考えろ。そもそも考えても全部ボコボコにされるじゃねぇか、と結論づける。俺に残された手立ては最早無い。少なくとも立って動くよりも九音のポルターガイストによる叩きのめしの方が圧倒的に早い。
だから俺が考え始めたのは現実逃避。心を強く持つ方法。
由比ヶ浜結衣のことだ。
可愛い、スタイルがいい。気遣いはできて、ああいう性格なら一緒に居て楽しいだろう。初対面こそビッチ臭かったという印象も真実を知ればギャップ萌えというやつなのか可愛く見えてきた。現に足山九音も天然のサキュバスと称すほどに男子高校生の好感度が高そうな性格をしている。
いやいやいやいや、そうじゃないだろ。確かに由比ヶ浜のことを俺が魅力的に思ったところで。別に俺は下種な考えではないのだ。ただちょっと繋がりが出来たが故にお近づきになれるかもしれないという淡い希望が一瞬燃えただけ。そもそも美人と接点を持てばちょっと自意識過剰に勘違いしちゃうのは男の性。
由比ヶ浜を嫌う人間なんて中々現れないだろう。あぁいうタイプは嫉妬はされど、憎悪をもたれることは少ないと思う。上手く立ち回れるタイプ。けれども先日の怪異、ストーカーの御話を想像してみればフラれた男子が復讐する可能性は十分にありえる。また人的に直接ではないにしろ、怪異的な物事に襲われる可能性はあるのだ。
『さ、さーん! さーん! にー! にー! にー! は、早く、前言撤回しないとゼロになるよ! ゼロに! いいのっ! 早くごめんなさいしなくてっ!』
九音の声に俺は嗤う。さっきから何秒経ってるよ。
いっそ一思いにやってくれ、と身体を大の字に広げて仰向けになる。素直に一番か、二番を選んでいればいいのかもしれない。嘘をつき、取り繕い、本心を隠して、本音を殺す。九音に向かって心無い愛を叫ぶなどいつものことで、心無き言葉をかけるのはいつもどおり。諦めて、降参して、助かるために命乞いするのは何度だってやってきた。
『いーーーーーーーーち! ほ、ほんとうにいいんだねっ! 手加減しないからねっ!』
なんでお前が泣いてんだ、と呆れてしまう。
『……八幡くんのバカぁーっ! 頑固者! もう嫌いっ! だいっきらいっ!』
宙に舞った石が――。
――ゥゥゥウウウウッ! バウッ! バウッ!
その時である。中庭にやってきたのは一匹の犬。見た目は子犬ほどの大きさ。見た目と違い、鳴き声は成犬もかくやとばかりの迫力。
バッと現れて俺と幽霊の間に立ち、そして九音に向けて吼える姿はまるで此方を守るかのよう。
『……なんの真似? 一体、どういうこと? どういう手腕でこの犬を味方につけたって言うのさ、八幡くん。今まで誰も君を助けてなんてこなかったのに、どうしてこの犬は君を味方しているわけ? はぁ? ちょっと、それは、本当に、ホントニ――ユルセナイんだケど……?』
由比ヶ浜の件よりもキレていた。というかなまじ由比ヶ浜の件はボコボコにするとか宣言しながらも躊躇いを感じたが、今の九音の目、怨念すら込めていそうな視線は憎悪と憤怒が入り混じっている。
『いや、お前……誰のモノに向かって守護者面してるワケ?』
強い風が吹く。土ぼこりすら舞い上がる強風に目をあけることすら叶わない。
――バウッ!
けれども犬は勇敢に吼えては引く気は無いとばかりの態度。
『はぁ……これ、舐められちゃってるね、舐められてるね。もはや人を転がすことも出来ない、自分の本質すら見失った妖怪でもない、かといって動物霊に満たない雑魚怪異が』
本質を見失う。その言葉は事実だった。今の犬の妖怪は妖怪未満の存在なのだ。
人間である俺が敵わないのは理解できる。きっと雪ノ下も、由比ヶ浜も、平塚先生でも人間である限り化け物に勝つことなんて出来ないだろう。しかしながら足山九音は別なのだ。
そもそもが同じ土俵の上にいる。化け物のカテゴライズの雑魚幽霊だとしても――妖怪でなくなった送り犬だった何かが勝てる道理は見つからないのだ。動物霊にすら、幽霊にすら満たない怪異をなんと呼べばいいのか。力を殆ど持たない雑霊もどきをどう表現すればいいのか。
小手調べとばかりに一つの石が襲い掛かる。そして二つ、三つと続いて襲い掛かる。
避ける、避ける、避ける――が、必死に避ける様相は段々と余裕がなくなっていく。
そして、そのうち一つが確りと犬の腹部を捕らえて、吹き飛ばす。
鈍い音と墜落する音。
犬の体躯が打ち落とされ、二度、三度とバウンドして目の前へ。俺は脳裏で妖怪に石という原始的な物理攻撃通じちゃうのか、とか全然関係のないことを思っていた。けれど、一応、こいつは俺の味方なわけで。一応、心配していたスタンスをとるとするか。小さく咳払いをして俺は本格派俳優のごとく大声でリアクションを取ることにした。
「い、犬。イヌゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」
『いや、あのさぁ……犬だよ、八幡くん。そりゃあ名前なんてつけているわけでもないし、何か味方っぽかったからそうやって叫ぶというか謝意の念で口にするのもわかるけど。けどさぁ、種族名を述べたところでさぁ……』
人が感動シーンを演出しているのに水を差す女であった。しかしながら俺の目論見は半分達成していた。九音のジトリとした視線は完全に毒気を抜かれた証拠。クククッ、これでお開きッ……。
『で、何、こっそり立ち上がってんの? 許したなんて一言もいってないんだけど』
許されてなかった。いいじゃん、もうお開きで。暴れたから解散でよくね? 俺の訴える視線ににっこりと嗤う幽霊。
『許すわけないんですけど。一つは前言撤回しなかった罪、一つは私に対して愛を叫ばなかった罪、最後に私以外に守ってもらった罪。特に三つ目は罪が重いんだよ。知らなかった?』
どんな六法辞書つんでんだ、お前の頭。独裁者すぎる……。というか一番の重罪は俺の意思じゃないじゃん……。
――クゥン……
小さな鳴き声。足元を見ればうるうると円らな瞳が俺を見上げていた。儚さのあまりに俺はそっと手を伸ばす。手を伸ばしたついでにもう一回戦ってくれ、というか戦えと祈りを込める。
そして犬は後は任せておけ、と力強い瞳で。
――バウッ!
ガブリと。オノマトペ付きでしっかりと噛み付いては、深々と刺さった歯でダメージを与えた。俺に。
「が、アッ!? い、ってぇぇぇぇええええっ!!」
『ぷふーっ! ~~~~ッ! あはははっ! だっさっ、だっせっ、あはははっ!』
俺は噛まれた手とは逆の手で必死に引き離そうとする。鼻を掴んでは顎を開こうと試みるが決して開かない。犬はこの命燃やしきるまでは絶対に開かないと強い意志を目にしていた。そもそもこいつ触れるじゃねーか! とかこいつ本当に妖怪なのか! 味方じゃねーのかよ! もはや妖怪なのか、ただの犬なのか、霊体なのか何なのか。様々な疑問が浮かんできては痛みによって途切れる。
涙目で九音の方向を見れば腹を抱えて笑っていた。あ、あの性悪幽霊……。
「い、いでぇっ! 離せっつーのぉっ!」
歯の間に指を突っ込み、引っ張るが全然開かない。
『ひぃひぃ……ぷくくっ、もぉー! しっかたないなぁ……』
その声と共に突如として吹き上がる砂嵐。そして襲い掛かる石礫の嵐、噛み付く犬と腕からなるべく距離をとり、顔は片腕で隠して石が当たらないように片腕だけを残して亀の体勢に移行。
「いたっ! 痛いっ! 九音さん? 九音さん! 痛いですって!」
『痛くしないと反省しないでしょ』
酷い……とはいえ、腕にあたる石は少しずつ減る。それと同時に刺さった牙が抜ける感覚と共に礫による打撃も止まる。
亀の体勢のまま一分、二分。
鈍い音と何らかの鳴き声が耳の中に入ってくる。そして、鳴き声は途中から弱くなって、最後には消えた。その後にただひたすら、肉を打つような音が。そして、最後にベチャリと何かが地面に落ちる音がして恐る恐る顔をあげてみれば。
ベンチの近くにピンク色の物体が出来上がっていた。
まるでミキサーにかけたかのようなひき肉の映像に吐き気すら覚えてしまう。完全にグロ画像、眼前のグロ映像。
なんて一日だ、踏んだり蹴ったりすぎる。平和な一日返してくれよ、もう癒しが欲しくてたまらない。癒し……暖かい布団とか、練乳入りの珈琲とか、好きな本を読む時間とか。
後は――好きな女の子と居る時間とか。
そして好きな女の子という抽象的な代物を思い浮かべた時に俺が思いついたのは由比ヶ浜結衣ではなく――雪ノ下雪乃だった。
確かに由比ヶ浜は可愛い。けれどもこの胸にあるのは憧れに近い代物。そもそもが違う人種なのだ。カーストも違えば、今後話すこともないだろう。故に恋愛対象という意味合いにおいて期待と呼ぶにはあまりにも薄弱な代物くらいにしか成りえない。
対して雪ノ下とは接点がある。部活動という細い繋がりが。それでも身近に女性が居ない以上、俺には最も近くに居る女性ではないだろうか。
最近、関わることになった少女を思い浮かべる。
整った顔立ち。抱きしめたときには折れそうだった細い身体。過去のこととして片付けた怪事件中に行った彼女とキスを思い出す。
顔が火照り、熱があるかのよう。ドキドキと胸が高鳴る。
いやいや、まさか……そんなわけ。
高鳴る胸の理由を否定する。けれども否定すればするほどに、考えれば考えるほどに顔は火照り、胸の鼓動は早鳴る。
「……雪ノ下、か」
俺は思い浮かべた少女を口に出す。そして、その言葉がこの場に居る一体の少女の耳に届いたことに遅まきながら気づき、そちらの方向を伺う。
怒りなのか、呆れなのか。それとも悲しみなのか。
けれどもその全ての表情ではない。寧ろ、苦虫を噛み潰したかのような渋面で『そういうこと……!』と呟いていた。
『あ、あ、あんのクソ犬……最後の最後に余計なことしていきやがって。つまりはそういうことなのかよ……呆れた、呆れる。ほんと、そういうこと』
ナニかに気づいたのか一人でブツブツと呟く九音。俺はそっと足を動かそうとすれば――ヒュンっと足元に刺さるかのように鋭い軌跡で石が飛んできた。
「あー、九音、九音さん? ここいらで解散でよくね?」
『あ゛?』
ギロリと睨むその目は女幽霊の名に相応しき迫力。
「いや、さぁ……お前の暴力性とかさ、もっと女の子らしくだな。由比ヶ浜や、雪ノ下くらいの女の――」
『……あ゛ぁ゛。もういい、少し黙って八幡くん。黙って口を開けて』
すっと目を逸らす。あまりの怖さに直視できなかった。すぐに黙った。今にでも逃げ出すべき。せっかく味方だったのか何なのかよくわからない犬が作った状況を使って逃げ出してみたらどうだ、と悪魔が囁く。けれども機は完全に逸している。もう少し早く動くべきだった。
『早く口を開ける! それとも永久に開きっぱなしになるようにされたいの?』
脅し文句に従い俺は大きく口を開ける。次の瞬間――。
『ほんっと、仕方ないよね。これは本意じゃないんだよ? 君をボッコボコにするつもりだったけど、別にここまでのことはするつもり無かったんだ。君が涙目で許して、愛してる、九音ちゃんさまって言うのなら矛を収めるつもりだったんだ。だから私が吐かせたいのは言葉であって――』
瞬間、身体の中、内蔵。正式に言えば胃の中がかき混ぜられる感覚。競りあがってくる何かは――。
「ごっ、おっ、おぇ、がぽっ」
――食道から逆流し口から地面へ。その瞬間に理解した。理解してしまった。作り物に贋作を。吐瀉物が飛び散った地に膝をつき、元凶の幽霊を睨みつける。
『こんなものじゃないんだよね。そして、ついでに、さ』
「がっ!? ごっ!!」
ふわふわと浮かぶ水。水球となって浮かぶ存在が俺の口に無理やり入ってくる。まともに言葉など紡げずに悲鳴になれなかった音だけが口から漏れる。
泥の混じった、砂利の混じった水が暴力的に食道を通り抜けて胃に堕ちる。
『うえぇぇぇ、ばっちぃ……まぁ、ばっちいけど八幡くんのなら私は我慢してあげる。それで? 八幡くんは私に言うことはあるのかな?』
空中で足を組んで見下ろす九音。俺は荒い息のまま目尻に涙を浮かべて、睨みつけて言う。素直に吐き出した想いに対しての恨み言を込めながら。
いつもの通り、いつもの如く。
お礼と前言の撤回と彼女が望んだ言葉を。心無い言葉を。心にもない愛の囁きを。失った想いを、熱を膝で踏んだまま。
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今回の出来事、そのまとめ。
翌日の朝、登校時の体調は最悪であった。お腹は壊して、身体は重く、何なら休んでもいいにも関わらず学校に行く俺はまるで学校大好き人間。
休んでも怒られやしないであろう体調ではあるが、今回程度で休んでいては怪異に遭う都度、休まなければならず、下手を打てば長期入院の可能性もあるので気軽に休めない。むしろ今回は軽症、ちょっとお腹がヤバくて、頭が痛くて、顔から血の気は引き、具合が悪い程度。俺が永遠の高校生と題うった怪異にならない為にも行ける時に行っておくスタイル。
この前のストーカーの翌日に休んでいたのが痛かった。せめて半日でていれば今日くらい休んでも良かったと思うのだが、過去に色々と休みを積み重ねた結果、一年生の学年末に酷い目にあった。
去年は一学期のスタートダッシュが悪かったのだから仕方ないと諦めることはできる。そして二年生は同様の大怪我でもしない限りそんな心配をしなくてもいいのだろうが、少なくとも春だけで既に四つ目の怪異絡みの事件である。
人形、怪人、犬、そして今回の件。
スパンがあまりにも短かすぎる。呪われてるんじゃねぇか、と冗談にもならないことを思ってしまう。
実際に今回の件を区分けするのなら、犬から始まった――いや、終わった犬を使いまわすかのように始まり、俺が想いと一緒に吐き捨てた吐瀉物までの出来事。
もしもテーマがあるとしたのなら『病、病気』なのだろう。
熱に浮かされていた、浮いていた、頭の中が。
そして俺はまさに病に冒されていた。正確に言うのなら犬からの伝染病――媒介者。
病原菌を宿主から宿主へ運ぶ生き物を指す言葉。妖怪が生き物なのかという議論はさておき、犬は媒介者であるという話は古今東西において有名な話である。
家庭科室の怪異の大御所が包丁なら媒介者の大御所は蚊。そしてその取り巻きくらいの位置に犬は存在する。
そして今回の出来事で包丁さんの取り巻きとなったクッキーと媒介者界の取り巻きである犬さんにより今回の一件は引き起こされたのだ。
蚊に比べて犬は媒介者としての知名度、脅威度は格段に落ち、家庭科室を舞台とした怪異のアレコレにおいてクッキーなど新人どころか今回が初受賞クラス。そんなクッキーも本質だけを見るのならば包丁よりか遥かにメジャーで判りやすく。オカルト的な出来事と考えれば最古参クラス。そんな最古参の正体は。
異物混入。
隠し味は愛情であるとはよく言ったもので、隠し味に愛情を持ってお呪いをしたのならそりゃあ呪われる、呪われもする。当たり前だ、そしてそれが本意ではなく、魔がさしたというのなら呪いが力を持って当然であった。むしろ素人がガムシャラに呪うつもりよりかはよっぽど確度の高い。
それでいて幽霊に取り憑かれていて日頃から怪異に縁がある霊媒体質。そして不吉な建物、まるでそうあれと誰かが造った総武高校という場所に通う学生ならば成就してもおかしくない。
恐らく、由比ヶ浜も――そして雪ノ下も。本気で呪いが完成するなどと微塵も思っていなかったのだろう。けれども人間が何かを作るときに、何かを心を込めて作ることに異物混入など当たり前で。愛情を込める、友情を込める、気持ちを込める、思いを込めるなんてものはごくごく当たり前で。
その過程で何らかの呪術的な要素が混じって完成したのかもしれない。それは意識的なのか、無意識的な代物なのかはわからないが。
由比ヶ浜のクッキーには強い思いは無かったのだろう、だからあのような中途半端な憧憬に留まった。雪ノ下のクッキーは完璧ではなかったのだろう。その思いを直接的に口にしたのは俺ではなく犬だったのだから。
だから犬に噛まれた俺は病にかかったのだ、病にかかっていた犬がうつすかのように。
故に熱病、病だったと結論づける。かつてどこかのライトノベルヒロインが大仰に言った、恋とは一時の気の迷いで、精神病の一種だと。賛否両論あるだろうこの意見に少なくとも俺は部分的に同意する。
少なくとも、数秒前に思ってもなく、まるで違う自分の、自分の考えを、自分の根底にあるものを忘れて恋などと錯覚していた昨日の俺はやはり病だったのだ、とそう思うのだ。少なくとも冷静に振り返れば熱病に浮かされていて、盲目に見えなくて、その熱だけが魅力的で唯一の代物だなんて到底思えないのだから。まぁ、殆どが憶測に過ぎず状況からの推論でしかないのだが。
さて、そんな俺の状態に関して真っ先に気づいたのは九音だった。犬に噛まれた後の俺の表情は見るに耐えない代物だったらしい。それ言う必要ある? って思ったが『言わないと伝わらないでしょ! 二度とあんな顔を私以外にしちゃ駄目だからねっ!』と怒っていた。お前にするつもりも無いんだが。
そんなわけで最初の原因、由比ヶ浜に対する憧憬、仲良くなりたいと思った根源に九音は対処した。胃の中身ごと吐き出させるという力技で。
雪ノ下の方には――水。
あの時、飲んだ水のおかげなのだろう。それが唯の水なら効能の程はわからないが唯の水ではなかったというのが今回の解呪に至った理由。ついでにお腹を壊している理由でもある。
――グルルルルル、と。
腹の虫が要望ではなく悲鳴をあげてのたうち回っている。
『うわぁ……ほんと、調子悪そう……休めばよかったのに』
まるで他人事のようにそんな台詞を言っては自転車に並走しながら飛んでいる。昨日この女幽霊にもうちょっと穏便な方法が無かったのか尋ねれば。
『八幡くんの態度が気にいらなかった。反省はしてない』
と悪びれもせずに堂々と言ってのけた。もちろん、感謝の念はあるのだが文句なく感謝はしきれない。
『薬、効かないの?』
心配をする瞳。こういう目で見られたら変に皮肉も吐けないのだから困る。痛みに苦しみながらも自転車を必死の思いで漕いで、漕いで――ようやく学校へたどり着いた。
自転車を置き場が見えた時には、多少ではあるものの腹の痛みのピークは過ぎて少しだけ喋る元気は戻る。
やっとたどり着いた自転車置き場で一息を吐こうとした瞬間に――衝撃。普段ならば肩を軽く叩かれた程度の衝撃が、現状に置いては瀕死に誘う一撃と化す。
そして俺を瀕死の重症に追い込もうとした人間を見れば能天気に笑顔で。
「やっはろー!」
朝から頭の悪い挨拶。声の先には相変わらずビッチ力の高そうな由比ヶ浜がニコニコと立っていた。
「……なんだよ」
「ありゃ? 具合悪そう……。大丈夫、ヒッキー?」
屈んだ瞬間に揺れる胸に目が――。
『反省し足りないの……?』
ドスの効いた声が耳元で。俺は即座に目を逸らす。
「低血圧なんだよ。それで、何のようだ……」
「ありゃ、てーけつあつ? なんだ……。そっかー、私はヒッキー見かけたからさ! 挨拶しただけ!」
そんな能天気な笑顔を向けられれば文句も喉からやる気をなくして引っ込んでしまう。まぁ、挨拶前のアンブッシュは一度だけ認められてるからな。許してやろう。
「はいはい、そうかよ、おはよーさん」
やる気なく返事をしてのっそりと歩き出すと隣にピトリとつけてくる由比ヶ浜。一歩、二歩と歩けば同じようにぴったりと歩数を合わせて歩いてきた。
「は? いや、先にいけよ……」
そんな俺の言葉に目を丸くして。
「ひどっ!? どうしてそーいうこというかな……もっとヒッキーと仲良くなりたいのに」
その言葉に俺も目を丸くする。何言ってるんだ、こいつ、とばかりに見てしまう。しかし俺のそんな視線に気づいた由比ヶ浜は微笑んでは楽しそうに笑うだけ。その笑顔は男子を勘違いさせるには十分な破壊力がある。勘違いして告白して失敗した後に復讐心からストーカーになっちゃったらどうしてくれるわけ? 完全な逆恨み理論を展開していると九音が由比ヶ浜じぃっと見ていた。
『むむむ……ちょっと、もしかして、これ、というか』
訝し気味に由比ヶ浜を見て、一度頷いて結論づけるかのように最後に呟いた。
『あ、これ呪い返しちゃってるっぽい……なんかそんな感じする』
なんでそんなこと分かるんだよと睨み付ける。
『はぁー? なにさ、その失礼な視線。一応、こう見えても幽霊なんですけどぉ! そういうののスペシャリストなんですけどぉ!』
なに専門家面してんだ、こいつ……とはいえ、由比ヶ浜の態度を見れば確かにその線が濃そうだ。
「あ、そだそだ。ヒッキーから感想もらってないや! ねぇねぇ、クッキー食べてクれタ?」
問われた瞬間にぞわりと産毛が立つ。嫌なことを思いださせんなよ、と由比ヶ浜を見ると髪色と同じ瞳が爛々と輝いていた。
「あ、あぁ……食った。クソ不味かった」
「そっかぁ……また作るね!」
おいばかやめろ……俺を殺す気かよ、こいつ……
「今度は隠し味とかやめてくれよ……」
せめてとばかりに抗議。次からはシンプルなやつで頼むわ……。生焼けでジョリッとするくらいで不味いだけで済むのならまだマシ。
「隠し味……? うぇぇぇぇぇっ!? はぁ? なんで知ってるし!」
俺は予想外の反応に戸惑う。隠し味も何もあんだけ不味けりゃ普通の作り方じゃないことはわかるだろ……それとも、あれか? 家庭科室のようにコーヒーの山とかと一緒で隠しているつもりだったのか?
「いや、お前、あんな味普通に作って出来るわけねーだろ……またコーヒーの粉を山のように入れたとかじゃねぇの……?」
俺の言葉に由比ヶ浜は目をパチクリとする。そして言葉を噛み砕いて再び再起動。というかその反応違うのか、コーヒーよりヤバイ隠し味ってなんだよ。
「あ、あーね! び、びっくりしたぁ……というかそんなに入れてないし!」
信用ならねぇ……と心の中で突っ込みを入れながら歩いていると、ふと肩から伸びる半透明の腕がいつものようについてきていないことに気がつく。振り返ってみれば九音は宙で立ち尽くしたまま青い顔をしていた。
そして、ひゅるりと慌てて俺の背中に纏わり憑き。
『そうだよ……そうなんだよ、考えてみればそうじゃん。当たり前だよね、そうだよね。君が熱で浮かれてたから分からないかもしれなかったけど、私も一杯一杯で考える余裕なんてなかったけど』
何か大事なことを見落としていたとばかりに呟く九音。一体、何を――。
『お呪い、呪い、のろい。手順もそうだけど、必要なのは愛情なんかじゃない。必要なのは、媒介……媒体なんだよ。君は隠し味は愛情でそれが転じて呪いとなったって結論づけたけど、足りないじゃん。足りないよね……悪意が』
悪意と言った。そして彼女の言う悪とは。
『魔がさす、悪魔が囁くなんて悪いこと。思いを、愛情を隠すなんてそれは別に全然悪いことじゃない。そんなのに魔が力を貸すわけがない。もしも魔が差すほどに悪いと思って、魔が差してやっちゃったとなると一体、彼女たちは何を思って入れちゃいけないものをクッキーに混ぜたんだろうね……?』
胃がキュッと絞まる。先を歩いていた由比ヶ浜が此方へ振り向いた。その笑顔は綺麗で、可愛らしい。
『ねぇ、ヒッキー! また作ってくるから、ちゃんと――食べテネ?」
既に消えてなくなったものを証明する術はどこにも残っていなかった。
次回更新は三月十八日の予定です。