足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
終わらない夜が無いように、朝日はいつも通りに昇る。寝れば自然と起きるように生きている人間は必ず起き上がるのだ。
病院でも殆どの人がそうだった。勿論、起きる時間は様々で早朝から元気一杯のおじいちゃん、昼前までぐずぐずと起きない女の子、偶に夕方から寝ては深夜に起きて暴れる人も。
それでも朝が来たのならば起きるのが自然とばかりに彼も――比企谷くんも自然と起き上がる。
音の出ているイヤホンに耳を傾けていた私はのっそりと動き出した彼に対して何て言葉をかけるべきなのか迷ってしまう。
机の上に横になっていた私は目が覚めた彼と視線がバッチリあっては口をパクパクと動かして飲み込んでしまう。それでも声を出そうと試みれば「あー」やら「うー」など私らしからぬ言葉ばかり。
いやいや、少し優しくされたくらいでこの体たらく。なんたる様だ、足山九音。こんなんじゃ数多居る美少女たちの中で最弱チョロ女とか呼ばれちゃう。そんなの許されるわけがない。
自分自身にしっかりと鼓舞を入れ朝一発目の挨拶をかましてやることにした。
「こ、こんな美少女の顔を朝から拝めるなんて大した幸運の持ち主みたいだね! この世に私という幽霊が居ることと自分の幸運に感謝するといいさ!」
喉から出たのはそんな言葉。い、いや、そうじゃなくて。私が可愛いのは判ってるし、認めるけど。その、いや、もっと言うべき……いやいや、よくよく考えればお礼とか必要ないし! 別に私がしてとか言ったわけじゃないし。そうだよ! 別に他にも暇つぶしなんてたくさんあるし! 鏡を前に自分が映る瞬間を見逃さないようジッと鏡面見つめ続ける三時間耐久マッチでもしてればよかったんだし! そ、それに私が可愛いから優しくしたくなるのは男として仕方ないもんね。だからアレは下心! 感謝なんてしなくてもいい!
「と、ともかくさ! 私が言いたいのはつまり、その、なんだ、あ、えっと、うぅぁ……お、おはよぅ……」
私の身体が温冷の判断すら出来ぬにも関わらず頬に熱が籠もるかのような錯覚。朝の挨拶を絞り出すのに何故、これほどまでに時間がかかったのか。いつもどおりらしくない自分自身に少しばかり腹が立つ。この頬の熱だって錯覚で。もしも錯覚でないとしたら自分の不甲斐なさに対して怒りが湧いているとかそこらへん。きっとそう、そうそう。
そんな私に対して彼は。
『……あー、おはようさん』
眠たげに目をこすりながらあっさりと布団から起き上がってはさっさと部屋を出る。
「……? …………はぁっ?」
いやいやめっちゃ腹立つ! こう私がめっちゃ悩んだのにナニ簡単にスルーしてんの!? こう私を見てなんか一言とか。もっとほら、こう……あるでしょ! 何故、部屋の中に美少女が!? とかそんなリアクションするべき! もっと私を見てどう思ったとか感想口にしろっ!
私は部屋を出て、彼を追いかける。階段を降りてトイレへ。流石にトイレに突入するのは躊躇うのでリビングで待つことに。
テーブルの上にはメモとお皿。丁寧にラップがかけられた皿の中にはスクランブルエッグとベーコンと千切りキャベツ。バランス良さそう。
そんな感想を抱きながら用意してある席の真向かいに座り、彼を待つ。
……おっそい! 遅い遅い遅い!
そして少しして彼がのそのそとリビングに入ってくる。眠たげな瞳で此方をちらりと一瞥したが特に何かを言うわけでもなく着席して食事を摂る。
黙々と食事を摂る。
いや、そうじゃなくてさ!
「ひ、比企谷くん」
頬がひくひくと痙攣する。怒らずに声をかける私はマジガンジー。ガンジーって人のことあんま知らないけど、なんか非暴力とか不服従とかで偉い人だったことは薄っすらと覚えがある。つまりはそれほどまで私は我慢強く偉いというわけだ。
たとえ、呼びかけてめんどくさそうに此方を見る彼にイライラとしても我慢する私は超偉い。めっちゃ渋々といった感じで見てくることにプッツンせずに本当に偉い。
そして、私はこほんと咳払いをして宙に浮き、その場でくるりと一回転。もはや美少女すぎてやばい。完璧に美少女だった。もしもこんな美少女が病院に居たのなら怪我も病気もしていないのに毎日病院へ通っちゃうレベル。あぁ、美少女でごめんなさい。
そしてトドメとばかりにバチコンとウインク。
フッ、勝ったな。ここまでのことをされれば幾ら鈍感なクソ野郎だって私の美少女っぷりを褒め称えずにはいられまい。
そんな美少女光線を受けた張本人は呟く。
『え? 何が? こわ……』
あーはいはい。そーくるわけね。そう来たのか。わかるわかる。照れちゃってるんだろうなぁー。素直に私を褒められないんだろうね。けれども私は理解のある女である。全世界の男共の考えてることなど丸わかりなのだ。
「出たよ、出た出た。私にはお見通しなんだゾ? 朝から私のような美少女を拝めて嬉しい気持ちはわかってるんだよ。うんうん、恥ずかしいんだよね。でもそういうことはきちんと口に出さないと駄目なんだゾ?」
優しく語りかける。こういうのはきちんと恥ずかしくないことだって教えてあげなきゃね。
しかしそんな私の心遣いに対して出てきた言葉は。
『朝からうぜぇ……』
余りにも無体な言葉だった。照れ隠しにしても酷すぎる。あまりにも酷い一言は彼が男としても、人間としても大事な心が欠けている証拠だった。どういう教育を受ければこんな子に育つのか。幾ら私のことが可愛すぎて、素直に褒めるなんてことが出来ない捻くれ者であってもこれだけのお膳立てをすれば可愛いの一言は出てもいいはずで。
つまり、それを言えない比企谷八幡はアレだ。アレなのだ!
「この甲斐性なしっ!」
『いや、今のどこに甲斐性に関する話があったよ……めんどくせぇ』
それだけを呟いて、ラップのかけられた食事とテーブルの上にあった生食パンを再び食べ始める。
こ、この男……この私を称える権利を放棄して飯を食べ始めやがった。とんでもないやつだ。
……くそぅ、こいつ、ほんとなんなのさ、これだけの美少女幽霊が憑いておきながら褒めもせず、可愛いなんて口にもせず、挙げ句の果てにはあの変なデカ女に目を奪われるやら顔を真っ赤にするやら。不敬者すぎるでしょ。
私は怒り半分、私を褒めることが出来ないひねくれ者に対して哀れみ半分を抱きながら彼の食事風景を眺める。
ご飯ってどんな味がするんだろ。
少なくとも私が知っている味というものは昨日の水で。苦くてしょっぱいっていう記憶がある。けれどもあれだけじゃないんだろうな。
ふと、そんなことを考えながら時計を見てみれば短針が九を指している。いつものこの時間帯前後は看護士達の申し送りを盗み聞きする時間帯。けれども病院じゃないのでそんなイベントはない。
そもそも高校生は。
「ねーねー、比企谷くん。学校は? ニート?」
高校生って朝は学校に行くのが仕事だったよね。八時半位には出席を取らなきゃいけない筈って情報が私の中にはある。場所によっては九時や十時に始まったり、夕方から出席を取る学校もあるらしいけど、彼は違うということを私は知っている。
もしかして高校生という肩書忘れちゃったの? それを失ったらニートいう呼ばれるヤツだ。多分。
『自主休校だ。今週までは学校を休むんだよ』
「今週って言ったら、今日まだ水曜だよ? しかも土日明けたら大型連休ってヤツなんでしょ?」
リビングの隅にあるカレンダーの五の月は赤の印字が幾つもの並んでいた。病院のナースステーションで大型連休の出勤について骨肉を争うかのように醜い争いをしていたから覚えている。あれで天使とか呼ばれるんだから嗤っちゃうよね。
『ふっ……。他の人間があくせく勉強をしている間、優雅に過ごすこの優越感。働かずに食う飯は今日も美味い』
スクランブルエッグを白米にのせ、上から醤油をかけながらドヤ顔で恥知らずな台詞を吐いていた。
「でも、君ってば学校滅茶苦茶楽しみにしてたじゃん。めっちゃ新学期にワクワク求めてたじゃん」
私は彼がわざわざ早朝に自転車を飛ばして人よりも早い時間帯に入学式へ向かっていたことを知っている。
この捻くれ者は高校生になるってことを楽しみにしていて、初っ端から躓いたことにショックを受けたという事実を私は聞いていたのだ。一人で呟くかのような、誰にも聞かせないようにしていた独り言を。
だから私だけは知っているのだ、彼がどれだけ楽しみにしていたのかを。だから私はニヤッと嗤って意地悪気に尋ねる。
「あっれぇ? もしかして今更びびってる?」
『はぁ? びびってねぇし』
「はいはい、強がらなくていいよ。私には判ってるから」
『あ? 何を勘違いしているのか知らないけどお前の中の話をこっちに押し付けんなよな。そもそもビビリはお前じゃん』
……カチン。
はーん? ふーん……。ほーん!
そういう態度取っちゃうわけかぁ。こっちが朝から優しく接してあげてたら調子に乗っちゃったかぁ。いやはや、私を怒らせるなんて大したものですよ……。
「誰が雑魚だって? ビビリ谷くん! ただでさえ中学校時代のトラウマから猜疑心バリバリな君だ。もしかすれば高校生活の最初の一歩に変わる決意を持っていてそれを挫かれでもしたのならそりゃあビビるよね。ビビリもするよねぇ!」
私の言葉を無視し始めた。けれども聞いてはいるらしく眉間に皺が寄っている。
「いい? 無知で無謀で恥知らずで面の皮厚い君に私が真理を教えてあげる――変わるもんか。中学から高校へ進学したとしても。中学時代のトラウマを過去の出来事のように、水に流すかのように綺麗さっぱり忘れて振る舞うつもりでも。何も流れちゃいないし、何も変化していない」
高校デビューという言葉がある。病院に入院していた誰かと誰かが話していたその言葉を聞いて思うのだ。
中学時代に大して目立たなかった人間が高校に入って急に垢抜けたとしも――それは本人が心から変化を起こして行動することでしか成り立たない。
だから比企谷八幡に高校デビューなんてありえない。環境が変わって新しい場所に朝早く行ったところで。本人の心根や考え方が変わっていないのだから何も変化しない。
ましてや急に友人が出来るとか、仲のいい女子が現れるとか、お節介なクラスメートが世話焼きをしてくれるとか、理解してもらえる人物が現れるなんて。無い、絶対に無い。
その全ての事柄において否定する。環境が変わったところで、育っていく場所が変わった所で。本人が何も変わっていなければ何も変わらないのだ。
今まで彼は一度たりとも人を好きになり、恋人を作ろうとしたことはなかったのだろうか。いいや、あった筈だ。けれどもその恋は報われず、想いは叶わず、挙句の果てにはぷちトラウマなんて呼べる黒歴史になっている。
自分が変わりもしないのに、現実がいつの間にか優しい夢物語の世界観へ変貌しているなんてことは夢想、妄想の類。夢を見すぎている哀れな男子高校生に私は事実を口にする。
「今まで失敗ばかりしてきた人間が新しい生活で成功できるわけないじゃん。そんなの当たり前」
だから私は君の新しい生活に君の望んだ希みが無いことを指摘した。希望的観測を当たり前のように否定する。楽観視を塞いで、悲観論なんかではない現実的な御話を突きつける。
けれども彼は思うところがあるのか、箸を止めて此方を不機嫌そうに見ながら言った。
『それじゃあ、陰気なやつは一生、陰気じゃなきゃいけねぇのかよ』
ポツリと漏れた反論にもならない言葉に私は何を当たり前のことをとばかりに呆れてしまった。何も知らない白痴の君に一つ教えてあげるとしよう。
「そうだよ? 陰キャは一生そのまま陰日向を歩くし、気持ち悪いやつは何をしたって気持ち悪い。キモいやつは何をしたってキモいし。もしも必死に頑張っていたとしてもそれはかっこよくもなんともなくて、必死過ぎて引いちゃうだけ。痛々しいやつはいつだって大多数から排除される。なんにも変わりはしないよ。せめて息を殺すことで端っこに存在するのを赦されるのに。皆、仲良くなんて言葉を鵜呑みにして皆の中に混じれるわけないじゃん。優しい世界なんてのはお話の中だけで夢見るのは自由だけどね」
完全に箸をおいていた。
「どうしたの? ご飯食べないの?」
食事をやめる理由がとんとわからずに尋ねる。尋ねてみれど、彼が食事を再開する様子はない。睨むには弱々しい視線がまるでこちらが悪いことをしたかのように責めてくる。
当たり前のことを言って何が悪いのだろうか?
こう見えても彼が不快にならないように十二分に言葉を選んだつもり。陰気なやつは死んだほうがマシとまでは言ってないし、キモいやつは死んでほしいと呪詛も漏らしていない。
しかしながら、そんな私の心遣いなどまるで気にせずに彼は此方を責めてくる。
『まるで気持ち悪いやつは生きてちゃいけないみたいな言い方だよな』
その言葉に曖昧な笑みが浮かんでしまった。せっかく言わないであげたのに、どうして自分から聞きにいくんだろう。
言うつもりはない、言うつもりはないけれど――思ったりはする。
だって不快な昆虫を見かけた時にこの世からいなくなればいいと思うのは極々、当然のことで。それを口に出さないだけの気遣いをしていたのに。
「せっかく気を使ってあげてたのに。私は心優しき女の子で、器量良しの心配りできる女だからね。そこまでは言わないよ。でもね、言わないだけでキモイ、死ねばいいのにって冗談で口にするやつごまんといるじゃん。その言葉はきっと全部が全部嘘じゃないんだよ。自分の知らない場所で、自分が見て居ない場所で、自分が関係ない形で死んでくれたら。これ以上目障りなやつが視界に入らずに済むのにって願望を持つのは自然じゃない? 実際にそいつが死んだとなると悲しむふりをして、悼むふりをしながら心の中で舌を出すだなんて往々にしてありうることだと思うけどね」
『……そんなに悪意ばっかの世界じゃねぇだろ』
そんな呟きを私は嘲笑う。
「あはっ、この私に悪意に関して説教するの? まるで自分が人間の悪意を知ってます、スペシャリストです、第一人者ですみたいな面しないでくんない? ねぇ、知ってる? 君が入院していた総合病院で死んだお爺さんが居るんだけど、そのお爺さんは死ぬ前日まで病室の外で行われている骨肉の争いを聞いていた。それだけじゃない、セクハラで鬱陶しい患者が容態が急変して亡くなったりもしたけど、亡くなっても悲しむどころか清々したと呟く看護婦が居る始末。君はこの二つに悪意を感じるの? 私はこれだけ酷い現場を見てきても悪意の一つすら感じなかったよ。だって、そこに悪意なんてものは無いんだから。骨肉の争いをお爺さんに聞かせる、けれどもそれは自分の家族の利益を思ってだ。何も知らない人間が勝手に悪意があると想像するんだ、看護婦の件だってそうだ。明日からセクハラされずに済むって考えたら安心したのを他人が聞いたら悪意がある物言いだなんて解釈をする。結局、悪意なんて物は勝手な思い込みで受け取る側の勝手な加害妄想なんだよ、生きてる人間である限りは」
完全に止まった食事。時計の音だけがチクタクチクタクと鳴り響く。
「いやー、かわいそかわいそ。例えば一人娘が病気で大金が必要で遺産の分配を譲れない男が必死に言い募っても、他人からしてみればただの遺産相続で揉める金に汚い亡者。何度注意しても止まないセクハラにストレス過多で今にも職場を止めたいところに届いた原因の訃報に漏れた一言は、他人からしてみれば人の心が無い冷血漢。まったくまったく、悪意がある人間だなんて言葉を使いながら最も悪意があるのは悪意を以って見ている側なのにね」
『摩り替えるなよ、話を』
「摩り替える? 君がまるで悪意について全てを知っているみたいな顔をしていたから脱線したわけじゃん。なら本線に戻して説明してあげるね、比企谷くん、比企谷八幡くん。何も私たちは悪意を以って気持ち悪い奴らに死んでくれなんて思ってないんだ。むしろ純粋に心の底から本当にキモイから消えてくれって思ってるだけなの。見た目が不細工なら不快になるし、汚れた見た目をしていたら不潔に感じる。だから、こいつら消えるか、死なないかななんて願望を私が――いや、私たちが持つのは自由でしょ? 陰キャは陰を歩いて生きてほしいし、見た目がゴキブリは見えないところで勝手にくたばってほしいし、不細工は整形するつもりも無いなら生きてる価値なんてないでしょ、なんて思うのが悪いの?」
私ははっきりと自分の考えを言った。人権? そんなの知らない、そもそも人間じゃないし。
仮に人間だったとしても私が何を信じて、何を思って、何を発言して、誰と仲良くして、誰を差別するのかなんて自由だ。それに反論されたところで興味がない。間違いを指摘されたってどうでもいい。だって、それはそいつの意見や見え方であって、私じゃないのだから。
『……お前、本当に悪霊だよな』
彼は断言するかのように、断定するかのように呟く。それがちゃんちゃらおかしくて。
「いやいや、こんなことで悪霊なんて断じないでよね。むしろ私は正直者で善良な区分になる意見を言ったつもりなんだけど。君たちだって嫌な奴を死んでしまえ、痛い目を見てしまえ、破滅してしまえって思うでしょ?」
『心の底からは思わねぇよ』
比企谷くんのその言葉に私はにんまりと笑顔を浮かべて言う。声を大にして――うそつきと。
「う・そ・つ・き! うそつきウソツキ嘘ツキ、嘘吐き! 大嘘吐きだよね! 君は! 本当にどの口で言うんだろうね! 嘘も大嘘! 君たちは物語で嫌な奴が出てきて死んだら胸がスカッとするんでしょ? 嫌なやつが転落していく様を嘲笑うんでしょう? 憎いやつが泣き顔で酷く惨めにみっともなく命乞いをして雑に扱われている瞬間を清清しい気持ちで見るじゃないか! ホラー映画で嫌な奴が出てきたら、そいつの死を予想して死んだらあぁやっぱりとばかりに予測するくせに。何が心の底から思わないだ、嘘吐き。人類の創作物ですらそうなのに、排除されるのに。現実世界で排除できない嫌な奴や嫌いな奴に死ねと願望を抱かないなんて嘘もいい所じゃないか! 死ねとか死ねばいいのにとか一度も思った事が無いだなんて法螺吹き野郎の大嘘じゃないか。狼少年くん」
私が彼の正体を言い当てた時に、彼は椅子から立ち上がり部屋から去ろうとする。その背中に向かって言葉を投げ続ける。
「心の底で思わなきゃどこで思うわけ? 心の中で思わなきゃ口に出すくらいしか出来ないじゃん。心から口に出してしまえば、冗談と取り繕わなくてはいけなくて。冗談じゃないとするのなら罰を受けるしかないから。だから心の中で済ませるんだろうがよ。聖人ぶるな、捻くれ者」
そこまで言った所でリビングの入り口から彼が出て行った。テーブルの上には中途半端に残された朝食。
私はにんまりとして残された朝食を見つめる。あー、朝から清清しい気分! うんうん、そうそう、これだよ、これ。
やっぱ比企谷くんはこうでなくっちゃ! 大女相手にラブコメとかしてる姿なんて似合わない。あんなクソダサドブス女相手にきょどきょどして顔真っ赤にするよりかはこうやって私に苛められて顔真っ赤にしているほうがよっぽどいい。
するとすぐさまリビングの扉は再び開かれる。部屋に帰って顔を悔しさと私の美貌に対する照れで真っ赤にしてるのかな? と思ってたら意外とすぐに戻ってきた。
「ねぇねぇ、まだ言われたりないの? 癖になっちゃったの? マゾなの?」
私は笑顔でしょうがないなぁとばかりに近づく。目を細めて此方を見る比企谷くんの方へ。そして――。
『悪霊退散』
「あんぎゃぁあああああッ!?」
顔面に何かが吹きかけられた! 軽くジュゥゥゥゥウと音がする! 必死にぶるぶると顔を振って、彼を睨めば手に持っていたのは霧吹き。昨日の薄めたタイプではなく、分かりやすく髑髏のマークでラベリングされている原液そのもの。塩ぷらす酒ぷらすお酢ぷらす比企谷菌で構成された液体。彼が除霊液と名付けた代物は私の顔面に夥しいダメージを与えてきた。めっちゃジンジンする!
「おまっ! 顔はやめろよぉ! 顔は!」
両手で未だにジンジンする顔を擦りながら抗議する。
『はんっ、朝から飯が不味くなる話をする方が悪いんだよ』
鼻を鳴らしてそんなことを言った彼はこっちのことなど知るかとばかりに食事を再開した。
何も悪いことしてないし、不味くなるようなことも言ってないのに! 乱暴をした挙句に朝食を食べる彼から少し距離をとってシクシクと涙を零してしまう。
そんな私を心配することなく美味しそうに朝食を取っている彼はなんて男なんだろうか。まるで悪霊を一匹倒したとばかりに清清しい様子で、美味しそうにご飯を食べていた。
う、うらめしぃ……。
そしてご飯を食べ終わって、食器を片付け、窓から差す陽光を浴びながら片手だけで背伸びをする様はまるで爽やかな朝だとばかり。私が恨めしげな視線を送っていることなど気にも留めずに彼は肩をまわしている。
『さて、出かけるか』
ソファーの上で睨み付けていると伸びをし終えた彼がそんなことを呟いては部屋に戻っていく。私はつきっ放しのテレビを眺めながらコメンテーターの意見にフンフンと頷く。
わかんないや。
うん、全然、何を言ってるのかわかんない。昨今の政治事情とか経済事情とか言われても本当によくわかんない。主婦だって興味ないでしょ、こんなの。誰が得するんだよとかテレビに文句をつけつつ膝を抱えながらゴロゴロ。そして階段を下りる音が聞こえてきてそのまま玄関へ。いや、こっちに声かけろよ……
私を無視して出かけようとする比企谷くんを追う。ひゅるーっとリビングから廊下へ、そして彼の服装は昨日よりマシ……マシじゃねぇや。なんか昨日の服装と底辺で争うような服装だ。ジャージにジーパン。しかも青と青。上から下まで青ざめている。しかも前を確りと止めているから上から下までほぼ一色。ワントーンどころか完全に一色、青人間。
でも文句を言ったらまた霧吹きで攻撃されるかもしれないし。玄関で靴を履く彼の元へ近寄って、少しだけ説得を試みる。
「ね、比企谷くん」
『んだよ』
「なんでも力で解決するというのは良くないことなんだよ? 痛みを持って相手を黙らせるなんて文明人が行うことじゃないと思うんだ。きちんと対話と云う方式があるのだから、君が私の口を噤ませるのならそっちを取るべきだよ。顔を真っ赤にして暴力を振るうなんてそこらへんに居る不良という名のチンパンジー達と一緒なんだよ? 早く人間になりなよ」
子供に言い聞かせるかのように優しい言葉で説明してあげた。お馬鹿な比企谷くん相手にも判りやすく噛み砕いて説明してあげる私はやはり天使なのではないだろうか? むむむ? もしかして私は幽霊ではなく天使だった? これは急いで検討すべき事項である気がする。
『いやお前と話したくもねぇのにベラベラとうるせぇじゃねぇか』
「……え? いやいや、こんな美少女とお話したくないって嘘でしょ、またまたぁー……。え? 君、ちゃんとついているの? 大丈夫? 男の子なの? いや、ついてたけど。使うつもりあるの?」
『なんで自己評価がそこまで高いんですかねぇ……』
呆れたとばかりに失礼な視線。トントンと軽く靴を鳴らしては玄関から出ていく彼に憑いていく。勿論、これは私の意志ではない。彼とお出かけが嬉しいなんてことは欠片もない。いやいや、本当に。憑かざるを得ないから憑いていくのだ。本当に私って可哀想……。
「でも君だって現実で同じようなことを言われて相手を殴ったりするタイプじゃないでしょう? ましてや美少女に毒を吐かれたってリスクを考えて何もできない。でも私にはやっちゃうってことを考えたら、これは私がそんじょそこらの美少女ではないことの証明で、ありあまる魅力が君の支配欲求を刺激しちゃって、男心を擽っちゃったって私は推測するね。すると君は私が好きと云うことになる」
か、かんぺきなりろんだ……!? どこをどうとってもこれいじょうないとばかりのかんぺきなりろん! なにももんだいなし!
『自宅で家族以外の女に毒を吐かれたら追い返すに決まってんだろ。追い出せないなら法治国家らしく警察さんの出番だ。警察さんでも対応できないのなら自分でどうにかするしかねぇだろ。ましてや部屋に入ってきてまで罵倒してくるような奴に付き合う程の忍耐力なんて持ち合わせちゃいねぇよ』
「……きもい。きもきもきも! 度量ちっさ! 器ちっさ! 兼ね備えておきなよ、そんくらい! あーあー! ちっさい男ぉ!」
『俺の器が小さいと判って不快になるくらいなら黙っておけばいいだろ』
「それだと私が負けたみたいじゃん! 嫌だよ、そんなの!」
テクテクテクとそんな言い合いをしながら歩く、少し大通りに出れば人目が出てきて会話はそこで完全にストップ。向こうからのボールの返却が完全に無くなったのだ。色々と話しかけても反応すらなく、他人の視線が気になるのか、こっちに目を合わせようともしない。
「ねーねー。どこいくの? どこにいくんだってば! 気になるでしょ、教えてよぉ」
先程から何十回と尋ねてみれど一向に返事は無い。無視とかいい度胸。そっちがその気ならどうしてやろう……くそぅ、私に何か能力の一つや二つあってくれれば。才色兼備前代未聞超級美少女という能力に全振りしているせいか他に出来ることが何も無い。
何も出来ないことに歯噛みしつつ彼の後ろをひゅるひゅると憑いていくと、辿りついたのはバス停。時間帯は十時少し過ぎ、郊外へ向かう路線のせいか、もしくは朝の通勤ラッシュも終わっているせいか。バスを待つ人たちは多くはない。平日の昼間ということもあるのか。少なくとも私が見た事のある朝や昼間のバス停の様子は蟻が獲物に群がるように人とバスがごっちゃになっていた。故に珍しいというか初めてみるかのような光景、状況。
勿論、人目が皆無というわけではないので彼が私に向かって話しかけてくることはない。そのままさらに人の少ないバスの待合室へ。
「ひーまーだーよー! 暇っ! 比企谷くん、何か芸でもしてよ! ほらっ! ほらほらっ!」
ぱん、ぱんぱんと手を叩いても此方に向けて反応の一つもしてくれない。してくれないくせに聞こえているらしく溜息だけは吐く。
すると誰にも見えない角度で二度ほどポンポンと隣を叩いた。私は大人しくそこへ座ると――彼が携帯を取り出してテレビを流す。角度は見えやすく調節されていて、肩から伸ばされたイヤホンから少しだけ音が漏れている。
「……光栄に思いなよ」
頭を肩に預けるかのように乗っける。そこから見えるテレビは時代劇でほぼほぼエンディングが近い。とても偉い人に逆らう小物が仲間を呼ぶ瞬間。こんなもの時間つぶしにもなんないし、面白くも何とも無い。女の子が見るテレビ番組としてはセンスがゴミゴミ。
けど、まぁ、その、まぁ、文句は言わないでおこう。
ふと、彼が今、どんな表情をしているのか想像してみる。多分、この美少女に見とれているか。もしくは顔を真っ赤にして目を逸しているか。ポーカーフェイスを気取って興味ありませんとばかりに強がっているのか。
これはからかうネタに出来るかな?
そう思って見ると、そこには視線をキョロキョロと挙動不審。美少女に照れて挙動不審になるのはまぁ、理解できる。予想の範囲内。
けれど、違う。こう、何かが違う感じ。照れてどうこうじゃない気がする。どうしたよ、君? と尋ねようと喉元まで言葉が装填された瞬間に気づく。
「めっちゃ婆見てきてる!」
バスの待合室の対面に座るおばあさんが杖を正面に突き、座ったまま見てきていた。目玉は飛び出さんばかりの勢いで凝視、ガン睨みしてきている。
『す、すいません……』
比企谷くんは慌てて携帯のテレビを切って鞄の中へ。どうやら音漏れをババアは睨みで注意してきていたようだ。目は口ほどにものを言う、ババアの睨みは口頭注意よりも遥かに効果的だった。
どう考えても比企谷くんのマナー違反だったので彼は謝ることしかできないようで。居心地の悪い彼にとって蜘蛛の糸のように現れたバス。彼はそれに飛び乗り、一番うしろの席へ。
一息つこうと安堵の溜息を吐いて席に深く腰を下ろす彼の隣へ私は座った。
けれども、カツンカツンとバスの内部に杖が鳴り響く。そして最後部座席前の斜め前に先程と同じババアが座る。そして比企谷くんを睨んでいた。
なんで、こいつこんな目にあってんの……ぷくく、面白すぎでしょ……日頃の行いが悪いからだね。
厄介なお婆さんに絡まれている比企谷くんは全身を緊張させては辛そうな移動時間。結局、バスの終点間際にババアは降車し、そこでようやく安堵の溜息を彼は吐いた。
「ねぇ、もう誰も居ないし、そろそろ何処にいくのか教えてくれてもいいでしょー?」
彼は降車ボタンを押しながら小さく呟く。手のひらの中には小さなメモ紙。そこには電光掲示板が示す終点駅と同じ名前が記入されていた。小さくバスの時間とバスの番号もメモられている。
『金野さんからの頼まれごとだ』
短く答えたその言葉、誰だっけ、それ……と思い返してみればそういえば昨日の大女の名前がそんな感じだった気がする。そういえば去り際に何かお願いされたんだっけ?
「へぇ、仕事早いな君。やっぱ三下だから? そうやって少しでも早く物事をこなさないと怒られるって経験で学んじゃったわけ? 学んだから早く仕事するような癖がついちゃったの? 下っ端根性が根付いちゃってるのかな?」
『お前は少しでも素直に認めるってことは出来ねぇのかよ』
「比企谷くんはブサイク」
『そこは素直に認めんな。口にも出すなよな……あとそこまでブサイクじゃなくない? 顔のパーツとか割と整っていると思うんだが』
だんだんと弱気になる彼の発言にくすくすと笑みが溢れる。そこでバスは停車し、比企谷くんは降りる。その背中に憑いていき私は再度として言葉を投げる。
「ねぇねぇ、それって私の顔と見比べても同じ台詞履けちゃうだけ? 私の美貌を前に言えるものなら言ってみなよ」
『……お前が美人なのと俺がブサイクなのは直接的な因果関係は関係ないだろ』
「ばっかだなぁ。比較対象が私ほどの美人だったら君くらいの顔はブサイクだってジャッジは間逃れないんだよねぇ。私くらいになるとそこら辺を歩いている人は相対的に全員ブサイクだから独りじゃないよ。良かったね。一人ぼっちは寂しいもんね、ブサイク同士で傷のなめあいできるじゃん。うらやましい。でもそれって酷くみっともないから私は可愛く生まれてよかった。あー、美人で良かったー」
ことここに至って、未だに自分はブサイクではないと言い張る彼はもう何も言う気がないのかどんどんと歩みを進める。その間に彼の駄目なところを歌にして歌ったり、捻くれ者の歌を考えて歌ったりした。
『っと、ここか』
一時間は歩いてないだろう。それでも結構な時間を歩き回りようやく目的地へ辿り着く。マンションと呼ぶには貧相で、アパートと呼ぶには立派な建物。四階建てのその建築物は一階のエントランスで入門審査があるらしく、オートロックの前で彼は立ち尽くす。
『これ、押さなきゃ駄目だよなぁ……』
どうやら彼にとってこの入門審査は非常に面倒くさいらしい。たかだかオートロック一つで何やってんだか。
本人曰く、コミュ障ではないという自己申告があったがこんなことくらいでいちいち躊躇っていては説得力の欠片もない。さっさと部屋番号を押して、用件を言って、手紙を渡すだけ。それだけにも関わらず、彼の指先は数字のボタンを押さずに彷徨う。私はその様子に呆れてつい口を出してしまう。
「さっさと押しなよ」
『こ、心の準備ってものが、だな』
「めんどくさい子だねぇ」
そんな私の言葉が決意を促したのか、それともこれ以上バカにされたくなかったのか。まぁ、どっちでもいいのだけれど、彼はゆっくりと部屋番号を押して深呼吸を挟み呼び出しボタンを押した。
ピンポーンピンポーンと二回軽快な音が鳴って、少し待てば――
――はい、どちらさま?
女の声だった。若いのか若くないのかよくわからない女の声が響く。その声に彼はびくんと跳ねるように立ち竦んでは忙しなく視線は動き、足は一歩後退していた。やっぱコミュ障じゃん。
――あの? もしもし!
女の声に少し苛立ちが増している。いつまでも返事をしない比企谷くんに焦れているようだ。おかげで彼も半ばパニックになっている。慌てて手紙を取り出して、オートロックシステムに向けて見せる。残念ながら、カメラ機能は見当たらない。
「あ、あの! 手紙を渡せって言われて!」
声も大きければリアクションも大きい。多分、インターフォン越しとはいえそこまで声量は要らない筈。
――は? 手紙?
比企谷くんの物言いに完全に相手はお客さんに対する態度を崩していた。まったくもって無様極まりない。
――手紙って何?
威圧的な質問に比企谷くんはビクリと肩を震わせて、一度深呼吸をする。
「あの、金野さんから手紙を預かってきました」
ようやくそこでミッションコンプリートとばかりに一仕事したと安堵の溜息を吐く。いや、何も終わっちゃいないでしょ……ちょいちょいコイツ間抜けだよね。インターフォン越しでこれだけビビってるのに対面したらどうなるんだよ、と呆れてしまう。
――金野……? あぁ、開けるから上に持ってきてくれない?
「え? アッ、はい……」
威圧的な声にナチュラルにパシられる比企谷くん。開いたオートロックの扉に慌てて入り、挙動不審に周囲の様子を伺いながら恐る恐るとエレベーター前へ。完全に不審者。
待つ必要もなく開くエレベーター。中へ入って先ほどの部屋番号と頭の文字は同じ階層を選んでは扉を閉める。
うぃんうぃんと動き出すエレベーターの中ではお互いに無言。ナチュラルにパシらされたダサい男の子を見ては、手紙の受け取り主を推測してみる。
女の声か。
女性免疫など殆ど無い男の子である。スムーズにことが進むとは思えず、不安に頭を悩ませていると目的の階層へ。
まぁ、トントン拍子で物事進まなくても比企谷くんの問題だしまぁいいか。そんなことを考えてエレベーターから出た彼の後に憑いていこうとした瞬間。
消える。
唐突に視界から消えて――遅れて聞こえたのは。
『ひっ!?』
小さな悲鳴。出処は右。そこには比企谷くんが唐突に視覚から伸ばされた腕に胸ぐら掴まれていた。
余りにも急な出来事に目をパチクリとするばかり。伸びた手は無骨。上下が黒のジャージ、サンダルといったラフな格好の男に彼は胸ぐらを掴まれたまま、ガンを飛ばされていた。
男の顔の造形はまぁ、ブサイク。ただでさえブサイクなのに、頭にはソリコミ、鼻にはピアス、口には煙草。耳にも大量の穴が開いていて。少なくとも比企谷くんとはお友達になれそうな人種ではない。そもそも同じ人類と思いたくないくらいの類人猿。
ジャージの前を開けているのはわざとなのか、前を全開にして肌色が主張している。セックスアピールなのか何なのかよくわからない。私はその不快な光景を見せられて眉を潜める。
『んだぁ、ガキじゃねぇか……チッ』
小さく舌打ちをした後に、咥えていた煙草をを共用廊下の排水溝目掛けて捨ててから比企谷くんを投げ放す。
膝をついて咳き込む彼の背後に周り、男を見上げる。
……なんだ、コイツ。
私は今の彼をみっともないと笑う気にはなれなかった。完全に腰を抜かして涙目で足は震えている様子を。
馬鹿になんてできやしない。手紙を渡そうとしただけなのに、急に話も通じないようなチンパンジーが襲いかかってきたのだ。まるで違う人種、それも彼からしてみれば自分たちとは縁遠いやつら、縁も所縁もなさそうな相手から胸ぐらを掴まれれば誰だって驚く。
それに彼は一ヶ月ちょい前までは中学生。そんな彼が大人で、それも柄の悪い、威圧的な相手に胸ぐらをいきなり掴まれてしまえばビビるのなんて当然で、誰が馬鹿になんてできようか。
少なくともこんな相手に対等な心意気で立ち向かえる中学生が居るのなら。頭が悪いか、危険を察知できない馬鹿だけで。少なくとも彼はそうじゃない。危険に対して身が竦むし、理解できない存在を怖がる。
ましてや片手を怪我している状態なのだから。
『……てめぇが金野の知り合いってか?』
『あ、え?』
その瞬間に、ガンっとエレベーターの扉が蹴られた。金属音が威嚇するかのように反響し比企谷くんを脅す。
その様子を半笑いで楽しむかのように見下ろす男にイライラと、自分の中で何かが沸き起こる。
『あ? 聞いてることにさっさと答えろよ』
『あ、き、昨日、金野さんから、手紙を』
『さっさと出せ、遅ぇんだよ』
慌てた手付きで握ったままの手紙を渡す。それをひったくるかのように奪う猿。
『……おい、金は?』
『え? は? いえ、それだけしか預かってないです』
『あ゛ぁ? どういうことだ……おい、お前、いつこの手紙を受け取ったんだ?』
『き、昨日ですけど』
『……どこで?』
『あの、公園で』
『あ゛公園?』
男はそこまで聞くとめんどくさそうに頭をかいて、ジャージのポケットから煙草を取り出し火をつける。
『……ちっ、まぁいい。そんでタツコのやつはどこにいんだ?』
柄の悪い男は見知らぬ名前を口にする。タツコ……?
『た、タツコって金野さんのことですか……?』
『決まってんだろ、んで、どこにいんだよ? 家、知ってんだろ?』
『え? 家? そ、そのわからないです……』
『あー、安心しろ、あいつは元カノなんだよ。だから言っても問題ねーから。さっさと言えや』
『え、いや、し、知りません。ちょっと公園で遭ってお世話になっただけで!』
『嘘、言ってんじゃねぇぞ。殺すぞ、お前?』
再び胸ぐらを掴まれる比企谷くん。
『さっさと言え、舐めてんのか? あ゛?』
男が幾ら凄んでも彼は首を横にふるばかり。そして、一秒、二秒と締め続けられて――解放される。
『ちっ、そうかよ……あのクソアマ、見つけたらただじゃおかねぇからな』
再び、地面に向かって咳き込む比企谷くん。男はそのまま、一番奥の部屋に帰っていく。男が扉を潜る直前に見えたネグリジェの女。化粧が濃い女が欠伸を噛み殺して扉を閉める。どうやらずっとこっちの様子を伺っていたようだ。
私はそっと地面で咳き込んでいた彼に声をかける。
「えっと、大丈夫……?」
私の問いかけに比企谷くんは反応しない。外れた三角巾から伸びるギプスが弱々しさと痛々しさを感じさせる。馬鹿にしようとか、からかうとか。いつもなら口に出して何かを言う場面なんだけど。決して挙げない顔を、伺えない表情が私の唇を縫い付ける。
目の前で悲惨な交通事故があって、被害者は知り合いで。
けれども今までの軽口が、過去の私の罵倒が。心配を口に出すまいと、通さないとばかりにせり上がる言葉を止める。
言葉に出せないまま。何も言えないまま。そのまま、彼は一人で立ち上がって、独りでエレベーターへ。歩いて乗って、そのまま道路へ。
一人でトボトボと歩く彼、私はその後ろを憑いて回っているだけ。
まるで嵐のような一幕だった。一連の出来事は朝のやり取りや、昨日の夜のことなんて全て壊して。
彼は手紙を渡す前どんな気持ちだったのか。何を予想していたのか。少なくともこんな顛末は想像していなかったに違いない。
海辺の街に潮風が吹く。強い風は彼のバッグを揺らして、天高く昇るお陽様に背くようにふせられた彼の顔は。陰になって決して見せないその顔は。切るのを忘れて伸びた髪は横顔をすら隠して。
隣を歩きながら私は一生懸命、考える。何を言えば良いのか。
高校生活の初っ端に事故に遭い、退院してからこんな目に遭うなんて尽くとしてついてない。間が悪い。
髪の隙間から一瞬だけ見えた瞳はどろどろと死んでいく。淀んで、溶けて、どんよりと沈んでいく。
だから、ろくすっぽに言葉なんて思いついていないのに。私の口から言葉が勝手に飛び出す。
「げ、元気だしなよ! た、たかだかDQNにびびらされただけじゃんか。あっ、それともぉ、これだけの美少女の前に情けない格好をしたのが恥ずかしかったとか? 安心しなよ、今更そんな程度で幻滅したりしないから」
仲春の千葉、磯の香りが漂うであろう海辺の道で彼の後ろに憑いてはそんな言葉を口に出す。
励ますなんてことをしたことがなかった。どうすれば慰められるのかなんて考えたことなかった。だから、私にはいつも通りにしか言葉が選べない。それが酷くもどかしい。
「で、でもそれって私の前ではカッコつけたいって男心の現れなの? な、なんだよぉ、君。私のこと好きすぎじゃない? もう、仕方ないなぁ、どんだけ私のことが好きなんだよぉ? このこのぉ」
裸足で歩く公道の質感は感じ無い。歩けど歩けど疲れなんてたまらないし、歩くことをやめて宙を泳ぐことも出来る。けれども、揺蕩うこともせずに彼の三歩後ろを歩く。
一人でトボトボと歩く彼の後ろを。一人で、一体で、一匹で、一柱でトボトボと。
「……世の中って多分あんな奴らってたくさん居るんだよ。そしてあんな男が良いなんて、好きだって女もたくさん居る。むしろ君の通ってた中学校の女子にあぁいう腕っぷしだけの馬鹿が好きだって女居なかったの? 居るんだよ、君が理解ができなくても」
足が止まる、そして私も。
「君があの大女にどんな感情を抱いていたのかは私は知らないよ。知りたくもないし。傍から見てただけだし。春に、仲春に出遭ったミステリアスな年上のお姉さんに憧憬のようなものを君が勝手に抱いたとして。君が想像するような素敵なお姉さんじゃなくて。あんなチンパンジーと付き合っていた、金銭のトラブルがあったなんて過去を知らずに勝手に描いて傷ついたのなら――」
そんな勝手な予測、勝手な願望、勝手な期待は。
「それはやっぱり君のせいなんだよ。君が勝手に傷ついているだけ」
そんなのは唯の自傷行為。憧れを勝手に抱いて勝手に幻滅するのは勝手だけれども、それで他人を責めるとするのならばなんと自分勝手なんだろう。
私の言葉に彼は消えるような声で。潮風にかき消されるほどの声で。
『……そういうんじゃねぇよ』
ポツリと呟いた言葉は弱々しい。けれども私はその真意を確かめようと思わなかった。彼が何に傷ついて、彼が何が嫌だったのか。もしも私の想像通りで、憧憬が、憧れが、好意が、思慕が、恋慕があったのなら。それを口にされたのなら。
それは凄く、凄く嫌な気分になる。
彼の口からあの大女のことで好意的な台詞を聞きたくなんてない。だから私は深く尋ねない。
別に比企谷くんのことなんて好きでも何でもないけれど。
~~~~~~~~~~
二十四時間というものは意外と早いもので。嵐のような出来事も一昼夜も経てば遥か昔の過去のこと。
昨日はあの後、まっすに家に帰ってひたすらぼーっとしていた。そして今日も同じようにぼーっとしている。雑に机の置かれた音楽プレイヤーは繰り返しては二十四時間。そろそろ聞き飽きて諳んじて歌えちゃうレベル。
彼本人は読書をしている様相を見せているがページの進みは酷く遅い。完全に読んでいるフリでしかない。
無為にまた今日も一日が終わるのだろう、時刻はすでに夕方。昨日と同じ時間に彼の妹ちゃんが帰ってくるのならそろそろ音が聞こえてきてもおかしくない。
『……』
相変わらず視点は動かず、読んでいるフリとしても落第点。こっちからしてみればよくよく観察せずとも判るレベル。そんな様子にイライラとしてきた。
読み進めるのならさっさとページ捲れば? 読まないのならさっさと戻せば? 色々と考えては我慢している。ほんと、私って我慢強くて優しいよね。そんな私の偉大な慈悲など彼は気づいてもいない。
「ねぇ、そろそろ失恋のショックから立ち直ったら? あんなの恋でも何でもなくて憧憬みたいなもんでしょ。頭の中世欧州の恋愛観みたいになってるの? 目と目が遭うだけで運命の人だとか歌い出しちゃうの? ロミオとジュリエット? 死ぬじゃん、心中しちゃうじゃん」
『だから、そういうんじゃねーって言ってんだろ……』
何度目かの同じようなやりとり。彼は頑なに否定するが、君が助けてもらったお姉さんに憧れを抱いて、そのお姉さんがチンピラみたいなやつに寝取られていたみたいな気分、先に僕が好きだったのにとばかりに欝ってるだけ。そもそも後なんだよなぁ、と呆れ混じりに突っ込みたいが可哀想なのでやめておく。ほんと頭の可哀想な男の子だよね。こんだけ気を使っているなんて知ったらきっと惚れ直すことに違いない。
私っていい女だなぁ……。
「ねーねー、いい加減整理しなよ。今日のお昼のワイドショーで言ってたけど男ってどうしてこう昔の女に未練たらたらなの?」
『昔も何も付き合っても無いんですけど……』
おっ、そこはちゃんと認識出来てるのか。勝手に自分の中で両想い判定していると思ったよ、失敬失敬。
「じゃあなんなのさ? やっぱり近所の憧れのお姉さんが大学のサークルでDQNにどハマリしちゃってるのを目撃したかのような気分なわけ?」
『違う……』
また違うって。もう何回繰り返すんだろう、この無意味な問答。男って本当にプライド高いよね。小さく溜息を吐いて、再び私は流れる音楽プレーヤーに耳を傾ける。そろそろ歌詞も覚えたので鼻歌も交えてみる。そして、五分、十分と経った時に。
『……なぁ』
「ん?」
『……お前は今でもやっぱり嫌な奴は死んじまえって思うか?』
比企谷くんの質問は唐突で。急で。あんまり意味がわかんない――嫌な奴……あぁ、昨日のチンピラか。
「思う思う、超思う。昨日のチンピラみたいな奴とか社会のゴミくずにしか見えないから誰も居ないところで勝手に産業廃棄物として処理されて勝手に死ねと思うよ。君は思わなかったの? アレだけされて?」
『……そこまでじゃねぇけど、多少は』
「だよね。流石にそこで否定されたらお前、頭大丈夫? って心配してたよ。あんな脳みそが入っているかも分からない、原始時代の猿だってまだ同種族に対して友好に接するだろうから猿以下の自称人間に一方的に怖い目見せられたんだから死ねってくらい思うよね。思わないって言ったら脳みその感情機能が完全にぶっ壊れてるから病院をおすすめしちゃうよ」
いまさら、そんな当たり前のことを聞いてどうしたんだろう。私は胸をはって嫌な奴は死ねと答える。
『お前とか口の悪さから死ねとか思われるだろ。そう思われてたらどうすんだよ』
「ハァっ? 馬鹿だね、比企谷くん! 私のような美少女に死ねとか思う奴がいるわけないじゃん。だから目が腐ってるんだよ」
『死ね』
「お前が死ね! 私は死なない! 生きるッ!」
『もう死んでるじゃねーか……生きてねぇよ』
呆れたような瞳で此方を見てくる。いや、そうなんだけど。
「はぁ、いいかい、比企谷くん。世間知らずの君にまた一つの真理を教えてあげよう。世の中はね、残念なことに、ひっじょうに! 残念なことに嫌われ者の方が長生きするんだよ。憎まれっ子の方が生き延びたりするんだ。だから、私みたいな美少女で善良な存在は薄命なんだ……私が幽霊なのはそういうことなんだと思うよ……やっぱり足山九音が幽霊なのは間違っていないってわけ。だって私ほどのスーパー美少女だよ? 生まれながらにして命の危険たくさんあったんだろうねぇ、しみじみ」
『いや、多分、違ぇわ』
なんか一瞬聞こえたけど無視無視。
「まぁ、そんなわけでね。嫌な奴は中々死なないの。映画や漫画じゃあるまいし。死なないから小説や演劇で死んじゃうの。殺しちゃうんだよ、皆。だって現実でそれをやったらアウトだから。禁を破る行為だから。だからありったけの憎悪を込めて創作物で人は嫌なやつを殺すんだ。だから現実でやっちゃ駄目だよ、わかった? おねーさんとの約束だゾ!」
『別にお前に言われなくてもする気なんざさらさらねーよ』
「本当? でも君、陰キャじゃん。中学時代にウサギとか鶏とか殺してない? そんな噂されたことない? 私だったら同じ中学校に君が通っていたらそれくらいしそうって口に出すね」
『ちょっと、やめてくんない? マジでそういうこと言われてたかもとか不安になるじゃねぇか。ほんと、やめろ……』
彼の辟易とした返事に私はくすくすと笑みを零す。少し元気が出てきたのかな?
そして彼はそのまま本を置いて、顎に手をあてながら瞑目し考え込む。それはまるで自分の記憶の中身を再奏するかのように深く、深く。まるで何かの答えを手繰り寄せるかのような様相。その真剣な横顔を見つめながら何を考えているのか想像する。もしかして本当に中学校で言われてなかったかって振り返ってるのかな?
『なぁ、もう一つ質問していいか?』
「別にいいけど。でも、今日はやけに積極的に話しかけてくるよね。まぁ、いいんだけど」
やれやれとばかりに肩を竦める。けれどもそんな私の態度は彼の真剣な両の瞳で射抜かれて止まってしまう。
「それで? 何が聞きたいの?」
『一昨日、そう一昨日だ。俺は玄関を開けたらお前が居た。お前はどうやって、どんな風に来たんだ』
なんだそんな事か。というかなんでそんなことを聞きたがるのだろう。
けれど、私は一昨日の体験を口にする。決して人間では楽しめない、君たちじゃ見る事が出来ない光景を。自慢するかの如く言ってやる。覚えたての詩みたいな現象を比喩に使って。
――Falls From the Skies. 空からの贈り物。
「空から私が降ってきたんだよ」
私の、幽霊だけの、怪異だけの権利を。私はピシッと天井を指差しながら堂々と胸を張って主張した。
~~~~~~~~
ひきがやはちまん。
比企谷くんの嫌いな部分を述べろと言われたのなら私は少しだけ口が重くなる。
いつも口にしている陰険や不細工といった事は決して彼を嫌いになる要素としては成り立っていないから。もちろん、そんなことを誰かに正直に言うつもりなんてない。キモイとか気持ち悪いとか思うこともあるけどそれで嫌悪や憎悪が沸き起こるわけではない。だから私はその部分だけで物事を言うのならば別に比企谷八幡という男の子を嫌いではないのだ。
確かに嫌いなものを、理解できないものを排除する一派は世の中の大多数だろう。私もその一派の行動理念には一理あると思う。けれどもその気持ち悪いという代物にも程度というものがあって、すべてをすべて切り捨てていたのならきっと人は生きていけないのだろう。人ではない私にすらそう思うのだ、生きている人間は尚更。
だから気持ち悪い、心の底から嫌い、憎いといった代物は限られてくる。
日曜の朝の女児向け番組を楽しみに見ている男子高校生を私は気持ち悪ぅとは思ったけれども存在そのものを全否定するつもりはない。けれども一方で全国ニュースとなる殺人鬼のわけわからない主張を聞いた時は気持ち悪さ、嫌悪感が湧き上がる。少なくとも前者と後者は共に気持ち悪い存在ではあるのだけれど、その種類は別物だということ。
私はたとえ、その殺人鬼がイケメンで仕事も出来て要領もよく人当りが一見良かったとしても相容れない。良い所を見たとしても決して見直したりしない。むしろさらに理解不能に陥るだけ。
けれども比企谷くんは気持ち悪い存在ではあれど、いい所があったのなら見直すし、少しは。ほんの、ほぉんの少しくらいは好きになれるところくらいはあるのかもしれないと思う。
……言いたいのは私は別に彼がきもくて根暗だから嫌ってるというわけではないこと。悪口や否定的な態度には理由がある、私の、私だけが知っている理由があるのだ、ちゃんと。
ならなんで優しく出来ないのだろうか。
そう、私は決して彼に優しく出来ない。したことがない。優しくなどしたくもない。
自分のことながらそれを理解して、今の所は直すつもりはない――無かった。
私が彼を認められないのは。
一番いやだった部分は。
一番、ムカついて、一番、腹が立って、いっちばん、納得できないことは。
一方的に私を助けておきながら、助けたつもりは無いと言い張って。それでいて困っていても結局一人で何とかしようとして。それでいて――何とか出来てしまうところだ。
まるで自分は一人で生きていけるというばかりの態度が酷く気に食わなかった。私なんて必要ないという態度がとても嫌いだった。
だから、だから、だから。
私は自分が頼られないことが嫌だった。嫌で仕方なかった。
だって……私を唯一。
唯一、私が見える彼が私の存在を否定するかのような態度が。本当に嫌だったのだ。
病院で月明かりを見ていた私を見つけてくれた彼が。一緒に病院の怪異に遭遇した彼が。唯一の話し相手の比企谷八幡が。
何も言わずに私を置いていって、挨拶もせずにさっさと退院するような薄情な彼が大嫌いだ。大嫌いだったのだ。
病院での出来事を一人で解決して、私の心配を他所に無茶をしていて、それでいて気がつけば解決していて、それでいて簡単にさよなら。いいや、さよならすら無かった。
だから嫌い。本当に嫌い。だいっきらい。心の底から憎たらしいし、何度死ねばいいと思ったことか。
「ほんっと、やなやつ、やなやつ、やなやつ……やなやつ」
必死に呟く。嫌な奴とまるで自分に言い聞かせるように。
ひゅるひゅると薄暗い廊下を進む。時刻は既に夕方が終わり闇が始まる時間。片付いていない廊下を進み、うっすらと見えたシンクには空き缶がいくつもつまれている。汚い部屋。
「あざといにも程があるよね……ほんと、ちくしょう」
闇の衣が姿を隠す。きっと私の表情は見えない。そもそもが私を見る事ができる人なんていないけれど、私を見ることが出来る人なんていま、この場所にはいないけれど。それでも私は今の表情を誰にも何にも見られたくない。
力んでいないと変わりそうな頬が、色の変わっていそうなみみたぶが。自分でもわかるくらいの変化を誰かに見られたくなんてない。
「……嬉しくなんかないんだからね。全然、ちっとも、少しも」
嘘。呟いてみて、なんとも空しい嘘なのかと後悔する。誰に聞かれているわけでもないのに口に出してしまう。
口ではどれだけ文句を言っても――。
「ッ!?」
鏡に一瞬だけ映った自分の姿が証拠として瞼に焼きつく。なんて顔だ、足山九音。
別に美少女じゃなくなったとかじゃない。ちゃんといつも通りに可愛い顔で、綺麗なお手手におみ足で。それでいて宙に浮かんだ身体を包む病衣が神秘的な雰囲気で。
そこじゃない。そうじゃない。
一瞬、写った顔は――思い出すな、思い出すな。ぶんぶんと頭をふって見なかったことにする。思わなかったことにする。
――幽霊で良かった、だなんて。
肉体があればとか、生きてればとか考えることはたくさんあった。けれども幽霊で良かっただなんて思うのは間違っている。
でもこの身体が肉の塊でなかったからこそ。幽霊だったからこそ――彼は始めて、私に初めて。
お願いをしてきたのだ。
もしも人の身で出来ることなら彼は自分でやろうとしただろう。けれども人間には決して出来ないことをするのならば――それこそ、私にお願いするしかないのならば。
お願いされて嬉しいと思ってしまった。彼のお願いを心の底から喜んでしまった。彼から必要とされたことが――嬉しかった。
私は別に比企谷くんが好きではないけれど!
「……っと、コレ。かなぁ」
私は机の上に広げられた一枚の手紙を見る。その周囲には幾つもの写真や紙切れがあるけれど裏返っていてよく見えない。
「……あっ、これっぽい」
手紙の近くにはご丁寧に乱雑に破られた便箋が。一昨日、彼が渡されて。昨日、彼が渡した手紙。
ここは昨日、手紙を渡した男が住んでいた部屋。男も女も留守なようで。
夕方から外に出て。オートロックを侵入するために出てくる人を十数分待ち続けて、それでいて部屋に辿りついたのは数分前。
外で待つ彼は言った――『嫌な奴が死ぬ』ということを。
それが比企谷くんの見解らしい。どうしてそういう結論に至ったのか。痴情のもつれ? お金のもつれ? よくわからないけれど彼にはそういう予感がするとのことらしい。
だからこそ、ここに来て待ち合わせ場所の可能性、手紙の中に何かヒントがあるかもしれないと、わざわざ痛い目にあったこの場所へとやってきたのだ。
彼がそんなことをする理由も、止める理由も――胸が痛む。もしかしてあの大女のため?
チクチク、イライラとしながらも手紙に目を通す。
それとも手紙を渡したからそういうことが起きたとか不要な責任を感じて? 殺人幇助とかわけのわからない理論を展開して? そう、きっとそう。別にあの大女のためとかじゃないよね、きっと。
どうでもいい、そんなことはどうでもいい。
胸を差す痛みも、すぐに消える。
だって私にしか出来ないことだから。私にしか出来ないと言ってくれたから。何度も何度も何度も何度も。
耳の中であの時の言葉が木霊する。
まぁ、彼が私に頭をさげて助けてくださいと頼ったんだ。大女だろうが、嫌な男だろうが助け舟くらいは出してあげる。
一つだけ言っておくと別にこれは比企谷くんが好きだからとかじゃない。別に私は彼が好きなわけではないのだから。
けれども、今は――今は、彼を嫌っていた理由がないこともしっかりと自覚していた。
~~~~~~~~
零時前。
時計の針が頂点を指すその時間帯が手紙での待ち合わせ時間だった。指定されていたのはチンピラ猿のアパートから少し歩いた所にある山道沿いの神社。
それが「コンノタツコ」が指定した場所。
比企谷くんは肩掛け鞄に三角巾。黒のフードパーカーに黒のチノパン。山道を歩くためのスニーカー。空いている手には確りと握られた懐中電灯。
照らし出す一本の光は石段を照らす。たった一つの光源では暗闇の中は心もとなく、時折吹く強い潮風は不気味に木々を揺らす。
悪い足場と暗闇で張り詰めた神経は予想以上に比企谷くんの体力を奪っている。
「……大丈夫?」
『あぁ』
顔は緊張でこわばっている。想像してみれば当たり前か、って結論。
ムカつくことだけど片や憧れのお姉さん。片やチンピラのチンパンジー。その両者の痴話喧嘩、痴情の縺れに関わろうとしてるのだ。わざわざこんな不気味で疲れる場所を歩いてまで。
彼はどんなことを考えているのだろう。内心を知ることも出来なければ、触れられもしないから緊張で鼓動が早くなるのかどうかすら確かめられない。
山中を登っているんだから鼓動が早くなるのは当たり前。運動で心拍数が上がるのは当然の帰結。それでもそれ以外で早鳴っているのか。
そんな彼の姿を眺めて私は言う。
「入院中にもっと身体を動かしておくべきだったね。貧相な体つきで一ヶ月も入院生活をしていたんじゃあ基礎体力もないもやしじゃん。すぐに腐って使い物にならなくなるんだからもっと日頃から運動するべきだね、このもやし!」
『なんか、お前、罵倒が雑っていうか下手糞になってねぇか?』
荒い息を吐きながら此方を見上げてくる彼は私が下手糞とか抜かして来た。抜かしよる……。
「は、はぁ? それ、どこ情報なの! 上手いし! チョー上手いし! 君を馬鹿にさせたら世界一だよ、私は!」
『あー、いや、なんつーか。キレがないってか、キレてないっていうか』
「いつから私がキレキャラになったよ! そもそも君に対する認識が変わるなんてことありえるわけないでしょ! 自惚れないで! バカっ!」
はいはいと雑に終わらせる比企谷くん。どうも納得していないようだ。
……確かに! 確かに少しだけキレっていうかちょっと言葉が柔らかいというか。それを指摘されると恥ずかしい。なんだよ、これ。別に君を傷つけるのに躊躇いなんてないし、必要ともしないし、傷ついた君を心配するわけでもないけど。
言ったら傷つくかな? とか考えるなんて実に私らしくない。なんだよ、ほんと。調子狂うなぁ、比企谷くんのくせに。生意気っ!
そっぽを向いて彼を盗み見る。ほんと、こいつ何だよ。イライラする。こいつは駄目な奴だ。駄目な男だ。何というか、その……非常に間が悪い。
間が悪いのだ、本当に。
こういう男が成長したらどうなるのかなんて考えたくもない。きっと悪いやつになる。悪い男になる。そう考えると私が一昨日否定した彼の夢はまさにファインプレイ。
世の中の女性を救ったといっても過言ではない。こんな間が悪くするりと心に入ってくるようなやつは女の敵だ。間違いない。
入院していた女の子が読んでいた雑誌の中に恋愛必勝コラム、間を制するものが勝つなんてあったけれど実にその通りなのかもしれない。
例えばの話。
社会に出て上司にも認めてもらえず部下も舐めたやつが多い職場で休日はアルコール浸りの女性が居たとしよう。そんな女性がふとした切っ掛け、ふとした言葉で満たされてしまったのならば。相手への好意や手順や積み重ねをふっとばして恋慕を抱くなんてことは往々とある。
要は肝心なのはタイミングなんだろう。必要としているときに、飢えている時に。するりと現れたのなら。
それはもうどうしようもないのだ。確かに顔の偏差値もそうだろう、機知の効いた会話やノリの良さも必要なのかもしれない。けれども最終的なのはタイミングってのは今の私は思ってしまう。
ちょっと間が悪ければ、間が良ければ。理想視していた男性よりもタイミングのあった相手に惹かれて、落ちてしまうこともきっとある。
いやぁ、私じゃなかったら危ないところだった。ほんとほんと。私みたいな思慮深くて素敵な女は天然とも呼べる攻勢に大してくらりと来ることはあっったとしても全力でガードできるのだ。それが美少女たる私が常に高値の花である理由。
ほんとほんと。別に全然意識なんてしていないし、普段から誰にも頼らないと強がっている彼が頼ってきたところで嬉しいとか思っても、別にそれがどーのこーのなるわけじゃない。いやいやほんとほんと。
そんな私の、少し乱された、ほぉんの少しだけ乱された内心のことなど欠片も知らない彼はどんどんと階段を昇る。
山の途中に建てられた神社の石段は月明かりすら遮っている。頼りない灯火だけで一歩、一歩と昇っていると。
『……見えた』
彼の呟きの通りに見上げた先にはうっすらと光が見える。そして、ゆっくりゆっくり足を進めていけば鳥居へ。そこから一歩と踏み出せば境内へ。
境内の中には篝火が二本だけ。入り口近くにあるというのだから奥の社周辺は未だに真っ暗闇。
そんな闇の世界に一人の影が浮かんで見える。その影は空を見上げて誰かを待つかのように。
影の正体は背中。背中の黒く長い髪、そして片手には巾着袋。足元はサンダルで青い着物。
あの大女だと気づくまでには時間は要らなかった。
「……こんばんは、比企谷くん」
女は背を向けたまま、此方も見ずにそう言ってきた。それがますます不気味で、すでに春も中頃だというのに酷く寒いと感じてしまう。体温など無く、寒暖差すら感じない私ですら精神的にそんな恐怖を覚えてしまうのだ。
帰りたい。そんな言葉が漏れそうになった瞬間に。
『……こんばんは、金野さん』
比企谷くんは闇の中心に居る女へ、一歩、二歩と近づいていく。しかし、そこでピタリと足は止まって。まるで足が縫い付けられたかのように。よくよく見れば足は震えていて。
「どうかしましたか?」
振り向いたであろう女。けれども闇が表情を隠す。不気味で、ヒュぅっと吹いた風が身体の体温を奪うかのように。
『金野さん、一つ聞いていいですか?』
声は震えていた。震えながらも確りとコンノタツコに向けて問いかける。
「えぇ、勿論。何かわからないことがありましたら答えましょう」
おかしな雰囲気、おかしな状態。私達はあの女とその元カレの痴情の縺れを止めに来たわけじゃないのか? なんであの男は居ないのか。いや待ち合わせ時間よりも少し早いから、もしかしたらこれから来るのかも。
『狙ったのはあのカップルの男ですか……? それとも俺ですか?』
比企谷くんの発言に思考が止まる。何を言っているのか。君が狙われる理由なんてないだろう。この女が待っていたのはあの男で、あの嫌な奴、君が嫌いな嫌な奴を殺す準備をしているからそれを止めに来ただけで。
私達は嫌なヤツが殺されるのを止めに来ただけなのに。
確かに君は嫌なヤツだけど。比企谷くんが、比企谷八幡が嫌なヤツなのは認める。大いに認める。
けれどもそれは私から見てであって、あの大女は別だろう。あれだけお互いに話があって、お互いに仲良くしてて、オカルト談義で盛り上がって。
だから君が狙われる理由なんてないのに。
『それとも……それとも』
彼は言いよどむ。何を躊躇っているのか。何が起きているのか。わからない。
『……足山、あしやまくおんを貴方は殺そうとしているんですか?』
呼吸が止まる。生きてなどいないにも関わらず、呼吸なんてしなくてもいいにも関わらず。吸い込んだ息が喉元でヒュッと鳴った気がした。
「そう、ですね……そう。彼らはそう、手遅れだから何の意味もないんですよ。そう、君が言った通り、私は彼らを殺したかった。けれど、それに君たちは必要なかった。けれども狙っていたというのならそうでしょう。でも安心してください、ちゃんと女の方は殺しましたから」
何でもないことのように、当然のことだとばかりに殺した漏らす。女の顔は見えない、霊体であるにも関わらず、私は酷く寒くて、両肩を抱いてその場に蹲って。
怖い。
怖い怖い怖い。
「に、逃げたとか殺したとか、う、嘘だよ! だってこの時間帯にこの場所で待ち合わせしたじゃん!」
「なるほど、その様子じゃ私がどんな手紙を送ったのかまでは知らないようですね。てっきり中身を渡す前に君たちが見たから此処に来たと思ったのですが」
その言葉に比企谷くんは足を一歩引く。そして言う。
『元々、俺達をおびき出すために?』
「いいえ、違いますよ。けれど約束を破った相手に、禁を破った相手が罰を受けるのは当然でしょう。ましてや怪異絡みの出来事なのだから」
『だったら! だったらーー俺達は! 俺も足山も何も破っていない。いないから、見逃してください』
わからない、わからない。何を話しているのか。
「で、でもなんで!? あの手紙の内容だったらあの男たちが逃げる必要なんてーー」
『手紙だけじゃ無かったんだろ。あの男たちが内容を見て逃げるには十分の代物がきっとあったんだ。そして、多分、俺達は、あの手紙は渡しても、渡さなくても良かったんだ……』
「いいえ、違いますよ。君が、君たちが届けてくれたからわたしは計画を早めに実行できたのです。ありがとうございます」
寒々しい御礼。その瞬間、何かが鼻の中を刺激する。あぁ、これを臭いだ。臭いってやつだ。つい先日、同じ感覚を味わったばかりの私は間違う筈もなかった。
『摩り替えないでください。話を、論点を。俺は良いんです、あの二人がどうなろうが、どうなっただろうが……ここに来ないってことは俺に出来ることなんてなくて、そもそも手紙を渡したくらいでどうにかなるんだったら俺にはどうしようも無かった。だから、そんなことはどうでもいい』
彼はそんな言葉を呟いていた。嘘だ、嘘つき。
震える膝に指の跡がくっきりとつくほどに力を込めておいてその台詞は嘘。
『……手紙の中身を、禁を破らせて殺したかったのは。狙いは違ったんでしょう』
その瞬間、響く。
うふっ。あはっ。あははははっ。ひぁっ、ひははははっ。ひひひひひっ、うふふふふふっ、いひひひっ、あはっ、ひゃっ、あははははははハハハはははははは。
嫌な笑い声が境内に響き渡る。げらげらと、げらげらげらと。不快な音。深夜とも呼べる時間帯で嗤う女が気持ち悪くて仕方ない。
あぁ、この気持ち悪さは受け入れられない。間違いなく害あるもので、間違いなく嫌悪すべき対象で、唾棄すべき存在。恐怖を呼び起こすような気持ち悪い笑い声を私は決して受け入れない。受け入れられない。
「良いッ。あなたはイイですね。比企谷くん、比企谷八幡くんっ! 本当に羨ましい。私も見たかった、私もそんなふうになりたかった。そんな風に機知を働かせて、物語の主人公のように、ミステリーに出てくる探偵のように、怪異に対するスペシャリストとばかりにっ! 私もっ、私も私も私もぉ! そんなふうに怪現象と遭遇したかったっ!」
意味、がわからなかった。理解できない。理解が及ばない。
一昨日、石を投げて魚を追い払った女の。怪異に対する深い知識を持つ女の。比企谷くんとは違いどんな幽霊でも見れる女の。オカルト好きでオカルトに対抗策を持っていてスペシャリストと呼ぶならそっちの方が――。
『あ、足山は悪い幽霊じゃないんです。性格が悪くても、口が悪くとも。ただそれだけで、無害で、何の力も無い。貴方の敵になるような存在じゃないんです。あなたを害すような――』
「そうッ! そういう思考を、機転を回せるのが羨ましい。理解しているとばかりに言い訳をするのが好ましい、何をどうすればいいのかと解決策を選んで口を開く態度が妬ましい。いいな、いいなぁ、いいなぁ、いいなぁ! イイナァ! 私もそうなりたかった! そうありたかった! そうであるべきだった! そうなるべきだった! そうすればそうすればそうすればそうすればァ! そうすれば……そうすれば、そう、すれば……男に溺れずに、死なずに、シヌなンテしなカッたのニ」
しぬなんてしなかったのに。死ぬなんてしなかったのに。死ぬ、死んでいる……? 死んでいて、でも目の前に居て、間違いなく生きていて。
肉の身体があるから化け物じゃないなんて。
私は。
間抜け、大間抜け。今更ながら理解した。嫌なやつは死ななきゃいけない、嫌いなやつは殺される。殺されるのは誰、殺そうとしていたのは誰。生きてなんかいないから、殺されるなんて思ってなくて。命もないのに、それを奪われようとしていたのは。
「どうしてどうしてドウしてドウシテどうしてわかったのですか?」
一歩と女が近づいてくる。先程飛び込んできた生臭さが強烈に増す。あまりの臭気にまるで人間のように私は鼻と口を抑えてしまう。
そして見えた。
ぴちょぴちょと、水を垂らしながら近づいてくる女の顔がようやく見えた。
「――ッぅ!?」
抑えていたおかげで漏れた悲鳴は小さく。それでも今すぐにでも目をそむけたい程の醜さ。
膨らんでいた、どこまでも、ブクブクと。ブクブクに膨らんだ顔は肉で、肉だけで出来た顔だった。
眼球は肉で埋まり、膨張した唇はおぞましく。近づけ近づくほどにわかる。着物が見苦しいまでに膨らんだ肢体。足首や胸元からはあまりにも醜く太った肉がはみ出していて。
おぞましい、おぞましいまでの化け物。人の形すら殆ど残していない存在。
『お、俺の名前に仮に意味があったとして、怪異に出遭ったことからそういう噂が近寄ってきて、それでいて現在進行形でっ、幽霊に憑かれていたとしてもっ……魚に遭う理由がない、俺が出遭う原因がない。そんな偶然なんか信じちゃいない。病院の幽霊達は噂があった、噂を聞いた、だから――きっと出遭った。なのに、唐突に襲われて、俺を助けてくれるなんて。誰かが俺を助てくれるなんて、優しくしてくれるなんて信じない』
近づかれた分だけ彼は足を後退させる。
『凡庸で、平凡で、一回遭っただけの俺が何かを呼び寄せるのならっ、相応の理由があって。でも、俺には心当たりが無い。俺なんかが遭う理由なんかよりも、よっぽど……よっぽど、判りやすい理由があった。俺を助けてくれる理由があったわけじゃなくて、足山九音が狙われる理由の方が遥かに説得力があって判りやすい』
異臭がどんどんと酷くなる、肉塊にしか見えないひとがたはずるっと、ずるっと引きずるような音でゆっくりと、ゆっくりと。
『俺が置いていったから、憑かれているなんて判らずに置いていったから。その目立つ容姿は狙われてるとも知らずに、誰かから憎悪を抱かれてるとも知らずに空を散歩していて。俺が退院したのは朝一で、母に連れられてこの近隣で食事をして、食事が終わってようやく家に辿りついた。だから正午に足山は現れた、俺の家の前に降り立った、俺の家で待っていたわけじゃなくて、俺の後を憑けていた』
彷徨い続けた果て。地理も知らぬ私はこの界隈を飛んでいたことなどすっかり忘れていて。
『あんたが、あんたのその姿がッ! その姿が怪異としての本質を現すならっ、足山九音は許されるわけがない。うらやましい程に、妬ましい程に、見蕩れる程に、魅入られる程に、そして憎憎しいまでに綺麗な理由の方がよっぽど説明がつく。だって、俺たちを襲ったのは害意なんだから。悪意なんだから。嫉妬や憎悪は十分に理由となる。俺が、俺なんかが誰かに優しくされるなんてことよりかは、よっぽど』
唾を飲む音が響く。これが自分のものだとは遅れて気づいた。普段は褒めてやくれないくせに、こんな場面で、素直な言葉が飛び出していて。本当だったら嬉しい筈なのに。いつも憎まれ口を叩く彼がその言葉を言ってくれた、そう思ってくれていた。
違う、そうじゃない。
比企谷八幡は、唯の事実としてそう言っているだけなのだ。客観的事実として口にしているだけで。決して心から出た想いなんかじゃない。だから、その言葉が酷く空しくて悲しい。
『怪異、怪現象に遭遇して。俺を助けてくれて。俺に優しくしてくれて。あれこれ手ほどきをしてくれる女の人が現れる。そんなご都合主義よりかは、醜い化物に美しい幽霊が妬まれ、嫉まれ、恨まれ、狙われた。ただ空を散歩しているつもりの間抜けが要らぬ恨みを買っていた方がよっぽど筋が通る、筋書きがある』
彼はまた一歩下がる。とうとう動けなかった私のところにまでたどり着き、そして私も彼が後退するのと同時に一歩下がる。五歩圏内にいる化物は腫れぼった唇からブクブクと白い泡を飛ばしながら、にたにたと笑みを作っていた。
「……そう、そうですね。容姿の良い彼女が一目見た時にうらやましかった。何も知らずに空を飛んでいる姿を見て痛めつけようと思った。幽霊だからとかそんなの関係ない。ただそこにいるだけで不快な存在でした。つまり、それ、そいつ、そこの、貴女、お前が気に入らない。顔が整っているのが、顔が綺麗なことが、顔が良いだけなのが。気に入らない、気に入らない、気に入らない。まったくもって気に入らない。そして――貴方も」
殺意が分割される。全方向と受け取っていた粘ついた意思が比企谷くんにも分けられる。
「あなたは顔がいいから助けたのでしょう。そこの女が綺麗だったから。綺麗だから一緒に居る。だったら私は? 私なら助けないでしょ、気味悪がるでしょう、醜いと罵るでしょう。男って所詮、そんなもの」
水が近づく、落ちる水滴が近づいてくる。女の着物からボタボタボタと水が零れて地に溜まっていく。
「一つ提案をしましょう。比企谷くん。君は見逃してあげます。見逃してあげるんです。けれど、そこの幽霊は置いていきなさい。そもそもが幽霊なんて憑れて歩いているほうが間違っている。そんなの誰だってわかること。だからその女を置いていけ」
幽霊が一緒なんてものは間違っている。そんなのは誰だって分かっていること、ましてや仲良くなんてなっていけない。生と死が戯れてはならないように。私と比企谷くんが一緒なのは間違っている。
だから、だから――見捨てても仕方ない。しょうがない。見捨てられることはたくさんしてきた。たくさんの悪口を言ってきた。
きっと彼に暴力を振るった男も女を差し出せと言われたら差し出すだろう。誰だって自分の命が一番だ、それは当然だ。生きている人間同士ですらそうなのに。
自分の身を守れもしないのに、誰かを助けようなんてしちゃいけない。
だけど、何でだろう。なんでなんだろう。私には確信があって。初めてのことなのに、初めて見た選択なのに。私は彼の言うであろう言葉の方向性をうっすらと理解してしまった。
『……俺とあんたを一緒にしないでくれ』
ポツリと零れた呟きに私は思ってしまった。思ってしまったのだ、やっぱり、と。それでいて――沸いてくるのは。
『別に顔がいいから助けたわけじゃない。そもそもが耳障りに助けろ助けろって言うから助けただけで、顔が良いとか悪いとか考える暇なんてあんのかよ。あそこで俺が見捨てたら俺が嫌だろうが、こいつのために頑張ったとか誰かのために頑張ったとか全然お門違いなんだよ。俺は俺のために頑張ったのに、どうしてそれを人のためだとか、あいつの為だとか、誰かの為だとか奪うんだよ』
その慟哭にも似た叫びは――。
『仲良くしてる誰かしか助けちゃ駄目なのかよ、好きな者同士しか助けたら駄目なのかよ、一人ぼっちの人間が誰かを助けるのに他の誰かの許可が必要なのかよっ、理由が必要なのかよ!』
声を震わせながら、恐怖に震えていても。曲げない、彼は決して曲がらない。賞賛されたくてやったわけじゃないのに、誰かに褒められたくてやったわけではないのに、誰かに認められたくてやったわけなんかじゃないのに。
周りが勝手にそう思う。そう思われることが苦痛で仕方ないとばかりに言い放つ。知ったような顔で、知った風な口を利く眼前の相手が不快とばかりに言い放つ。その気迫は――彼女の足を後退させる。そして化物は自分の足元を見て。
「もういいっ! 黙って、もう聞きたくなんてない! 黙って口を閉じて、そのまま、そのマまァ!」
ぐぱりと開く。眼前にまで近づいていた巨大な肉塊が唇の稼動域を超えて捕食するかのごとく開かれる。
酷い臭いだった。腐り果てた臭い。吐かれた吐息は腐りきっていて。その瞬間、懐中電灯が消える。光源は石灯篭の中にうっすらと光る篝火だけ。何が起こったのか――。
「――ッ! あ゛あああああああああああッ」
絶叫が響く。境内に響く絶叫が目の前から。地を鳴らす足音が聞こえて、遠ざかっていく。目の前にまで近づいて居た化け物が二歩、三歩と後退しては断末魔のような叫びをあげる。同時に、何かが。しゅわしゅわと炭酸の空気が抜けるかのような音が絶叫と混じり合っては不協和音を奏でる。
『ッ、ハァ、ハァッ……』
荒い呼吸が目の前から響く。そして彼は足元の懐中時計を。同時に捨てるかのように置かれたのは空のペットボトル。強引にはずされた霧吹きの蓋も一緒に地面に転がっていて。
あの化物はこの中身を諸に食らったのだ。その証拠に顔を地面にこすりつけるかのように、地で、泥で顔を洗うかのようにこすりつける。それでも絶叫は止まず、境内の中で反響するかのように大きく響き渡る。
『ッ!』
続け様に鞄からペットボトルをもう一本取り出して、ギブスのついている腕の指先で強引に取って、蓋を開いたまま化物に近寄っていく。
「いや、いやだ、こないで、くるな、くるなくるな、来ないでくださいっ!」
懇願する化物の声に比企谷くんの動きが一瞬、止まる。それでも躊躇いを消してまた一歩と近づいた時に。
生えた。
シルエットしか見えない。暗闇の中では大雑把な影絵だけ。けれども、その絵の中で比企谷くんの腹部に一本の細長い棒が生えていた――瞬間、絶叫。女の声ではなく。比企谷くんの。
「あ、え、え――え?」
なんでどうしてどうしてどうして? 何が起こってるの、何が起こったの? ぐらりと揺れて、近づいてトドメをさそうとしていた男の子の体が地に沈む。
「ッ、ぅ……あァ、痛い、痛い、いたいいたいいたいいたい」
化物は痛みを口から言葉として零しながらふらふらと立ち上がって顔を抑えながら唯々繰り返す。消えた明かりに目が慣れて、うっすらと理由が見え始める。
「あぁ、ほんとに痛い、これは、あぁ……塩水、いえお酢に塩、酒……それもかなり高価な。あぁ、そりゃあ効きますよ、これは効きます。ほんと、素晴らしいですね、ほんと、あぁ、痛む……」
顔を抑えて立ち上がる女の腕は肉が溶けて骨が見えていた。そしてその鋭利な骨の先にはべっとりとついた血の痕。
「あぁ、痛い……こんなこと予定になかったのですが」
動けない、動けない。怖い。怖くて動けない。彼が倒れている場所に近づくことすら出来ない。あの化け物が真横に立っていて。本能が私を動かさないように引き止める。自分が消えることへの恐怖が、一昨日の痛みが。警鐘を打ち鳴らす。本能のままに、本能に抗えず、私は立ちつくす。まるで生きている人間みたいに。
「……あはァ、どちらから殺しましょうか」
溶けて頭蓋骨が、埋まっていた眼球が此方を睨み付ける。
動けない、怖い、動けない、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い嫌だ怖い嫌だ怖い嫌だ怖い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ逃げろ嫌だ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――ニゲロ。
頭の中で鐘が鳴り響き、地に着く足などないのに、一歩下がる。死んでいるにも関わらず、死に目に対して怯えてみっともなく生者の如く生き足掻こうとする。
「……ふぅ、あぁ、駄目ですね。あぁ、これは駄目です。致死量ですね、ほんと凄い。もっともっとたくさん殺すつもりだったのに、もっともっとたくさん恐怖を与える筈だったのに。あはっ、殺せたのはたった二人。あの女も殺したし、あの男はもうどうにもならない。そしてこの子も殺した。もう、思い残すこともないですね……ふふっ、最後に私が手に入れられなかったものを持っている男の子を殺すとしましょう、アレはもういい、もういいや、もう、どうでもいいや、あははっ、あははははっ」
化物は私を一度見て、そして再び比企谷くんを見る。そして私のことはどうでもいいと言った。もう、どうでもいいって。
助かった、自分だけは助かったという事実に安堵していた。心の底から喜んでしまった。
「……貴女、本当に無様ですね」
化け物が呟く。こちらを見もせずに。勝ち誇ったかのように嗤って。
「幽霊として何一つとして出来ない。霊としてそこにあるだけ。善霊でもなければ、守護霊でもない。悪霊でもなければ、怨霊なんてなれやしない。綺麗な見てくれも無様でみっともなくて。今のあなた綺麗だなんてとんでもない。ただの不細工、幽霊として不出来の落ち零れ。ふふっ、みっともなぁい、涙に鼻水たらして、あははは、ざまぁないです」
クスクスと嗤われる。見下されて嗤われる。馬鹿にされて嗤われる。それでもいい、どうでもいいからと納得している自分が居る。助かるのならそれでいいとすら思ってしまう。
『……ざ、けんな、ふざ、けんな』
突っ伏したままの男の子。彼は搾り出すかのように言う。未だに蹲って、お腹を押さえて、流れ出る血は手で抑えたところで止められなくて。今にも殺されそうなのに、今にも死にそうなのに。彼は否定する、化物を、化物の嘲笑を。
媚びれば助かるかもしれないのに、命乞いをすれば助かるかもしれないのに、私を差し出せば助かっていたのに。
それでも彼は斜に構えたかのように否定的で、正しいありかたなんてものには興味なくて。ただ愚直に己が言葉を絞りだす。
『何が、無様だ、何がざまぁないだ。無様で様無しなのはあんだ、だろッ! どうせ、あんたみたいな女はずっとボッチだったんだ、小中高と、大学でも。陰険でクラスでも居場所がなくて、はぶられて、馬鹿にされてて』
一歩、女が彼に近づく。瞳が空ろで、もはや自分で何を言っているのかわからない彼に向けてゆっくりと。
「……それが? もう、そんなことどうでもいいです。確かに貴方の言うとおりの人生だったとして。それを指摘されたところでどうとも思いません」
『どうとでも思ったから溺れたんだろうが、一人で居る自分を認められなくて、一人で頑張った自分を誇ってやれなくてッ……男相手に溺れてたって言った癖にッ、それを後悔している癖に、化物になって呟いてしまうくらい、未練がましく綺麗だったのならって恨んでしまうくらいに!』
荒い声に混じって、歪な呼吸音が聞こえる。空気を吸おうともがいているにも関わらず、空気を吸えない、吸い込めないとばかりに。
「あっ――ッハァッ!? あ、あがこうと、あがこうとするアイツを見て、死にたくない、消えたくないって足掻こうとする相手を見て無様? 鏡見て言ってみろよ、あんた」
異常な呼吸音。それでも命のシグナルを無視して、彼は言葉を続ける。もはやボリュームなど気にも出来ずに、力の限り、振り絞るかのように。
「あんたの恨みは筋違いなんだよ。恨むんなら恨めよ、自分を殺した自分を! あんたは殺されたんじゃない、自分で死んだんだ! 何が恨みだ、何が怨念だ。自分を一番恨むべきで、人に害を為すなんて筋が違うだろ、うが、よ……ッ」
一歩、と近づく。そしてまた一歩。
彼が見上げる化物は黙って聞きいっていた。見上げた顔には脂汗がびっしりと。それでいて眼球は既に焦点があっておらず、瞳孔が開きはじめている、苦悶を、痛みを押さえ込むためについた下唇の歯形は皮を破いて痛々しく。そして痛みに歪む顔からは搾り出した声は自分の命を燃料にして。
どうして――どうして、彼は。
彼は、比企谷八幡は――尚も「コンノタツコ」を救おうとしているのか。彼女の未練の正体を、思い違いを、勘違いを、道理を、正しさを、正論を、正当性をぶつけて。死者と、化物となった存在と対話しようと試みるのか。
ふよふよと浮かぶ感覚。今までにないほど私は恨んでいた、怨んでいた、憾んでいた、憎んでいた。比企谷くんを、比企谷八幡を。
惨めにも痙攣して、汚らしく口から泡を飛ばして、痛みと悪寒を感じてもなお曲げない自分を。彼の姿を。助かろうとしない彼を。死に逝く彼を。
「……そこの役にも立たない浮遊霊に一つ教えてあげましょう」
「……」
「悪霊、怨霊の本質は悪行にある。貴方が悪い事をして力を得るのならばきっとあなたは悪霊なのでしょう。人を殺した化物は相応の力を得る、私はあの二人を殺そうとして一人を殺し、一人を廃人とした。それで得た力はとてつもない万能感を与えてくれる程のものでした。それ以前よりも怪異として人々を脅かして得た力は――ほら、この通り、覚えているでしょう、この魚」
すべてが仕組まれていた。すべてがこいつの思惑通りで。すべてこいつが悪い。だから――。
「ごちゃごちゃうるさい死ね」
私の背後、何かが蠢く。あぁ、これは石柱か。わかる、わかる、わかる――。こいつを叩き潰せばいいんでしょ? 階段から毟り取った石の塊。
飛んでくる魚、襲って来る魚はすべて――落ちている石ころの餌で。
「怪異には源があります、貴方と彼が出会った原因もきっとある。偶然なんかじゃあきっとない。それでいて貴方が今、唐突にそのような力が目覚めたのにも理由がある。まるで土壇場で漫画のように覚醒するなんてご都合的な御話は無いんですよ」
二メートルほどの石柱でその女を真上から叩き潰す――汚い。
「ぎぃっ、がっ」
汚い悲鳴と汚物のような汁を飛び散らす。
こんな奴許せるわけがない。存在していいわけがない。その汚い声を一秒でもこの世界から消し去ってしまわなければ。腐った生ゴミはゴミ箱に。未だ生きているのか肉片が、動く、動いて――音を鳴らす。
「くふっ、そうだ、くふふふっ、あぁ、そうだ――!」
化物はもう一度人の形を取ろうとする。けれども顔の形は描けど、他の醜い部分は溶けて戻らない。
人の形でも何でもすればいい。何度でも叩き潰す、ミンチにして、音が出なくなるまで、声を出せなくなるまで、意識がなくなるまですり潰す。
「私、やっぱり貴方のことが嫌いです。殺したいほど憎いです。でも、どうやら勝てそうにありませんから――あなたに対して一番効果的な、効果がありそうなことはきっとこれでしょう」
その人の肉塊は嗤っていた、嗤っては既に物言わなくなった彼の躯に覆いかぶさって、そして顔と顔を近づける。唇を重ね――。
「――なに、や、ってんの……?」
私の質問に顔をあげた女は――その唇から血を垂れ流して嗤う。
「ねぇ、役に立たない間抜けさん。今、どんな気持ちですか」
もはや顔くらいしかまともに形成できない、力も残ってない満身創痍の化物は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。そしてその笑みにちっとも嗤う気なんてなれなくて、ただ一言だけ呟く。
「殺す」
彼の身体をゆっくりと引き離して。私は周囲を見渡す。落ちていたコンクリートブロック、石柱、かがり火の灯篭、賽銭箱。
すべてを使って――叩き潰す。汚い汁がびちゃびちゃと散ろうとも。悲鳴があがろうとも。声が聞こえなくなろうとも。ミンチ状になろうとも、液状になったとしても。地に染みこんだとしても。
私が満足するまでそのすり身を叩く、叩く、叩く。徹底的に、あの女の笑みが私の網膜から消えるまで、記憶から消えるまで。
悪霊らしく、怨霊らしく、化物らしく化物に。
誰も見ていないこの場所で、私は唯の化物になった。
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横たわる彼に近づく。空ろな瞳、口は涎が垂れ流されていて、呼吸音が非常に浅い。
私は近づいて、彼を仰向けに動かし――そして膝の上に乗せる。もちろん、質量なんて無い、感じれない。だから、これはフリで、ごっこ遊び。
髪を撫でるような仕草も、すべてがすべてそう見えるだけ。実際には触れ合うこともできずに、肌の温もりを感じることもない。これだけ近くに居るのに、どこまでも遠い。
『……あし、やま?』
夢見心地なのか、それとももう見えないのか、わからないのか。
「……おはよう、比企谷くん。比企谷八幡くん」
私は状況を深く語らずに撫でるに手を動かし続ける。
今回の出来事に私は御礼を言わない。彼が――嫌な奴を助けようとしたことに対して決して御礼なんて言わない。
もしもそれを口にしてしまえば、それはきっと私の問題になってしまって。彼が関係なかった第三者になる気がしたから。この御話に君が関係なかっただなんて口が裂けても言うつもりはない。関係の無い君が首を突っ込んだだけなんてそんなことは思わない。
之は、此の御話は。君と私の問題で、私たちの御話だったのだ、と。
たとえ傍から見れば原因が私で、巻き込まれただけに君が見えたとしても。
残ったのが私で、誰も救えなかった御話だとしても。
比企谷八幡も、足山九音も、コンノタツコも、柄の悪い男も、そいつの女も。
誰もが誰も助からなかったとしても――私はこの御話を君が私を病院に置き去りにしたせいだって頬を膨らませて文句を言うし、君は私が美人で狙われ易いんだから気をつけろって注意するべきだ。
だから、さ、いつもみたいにふてぶてしく、その憎まれ口を開いてほしい。
「ねぇ、比企谷くん、聞こえてる? 私ね、君がなんでおじいさんの幽霊が見えなかったのか考えたんだ」
ゆっくりと目が閉じられる。
「比企谷くん、比企谷八幡くん。他の霊が見えなくて君は安心した? それならちゃんちゃらおかしいよ。君は見えないことを嘆かなければならないんだ。今後、君が害を為す存在と対峙した時に一体、誰が助けてくれるの? 一体誰が君を導いてくれるの? これからも一人で立たなくてはいけないし、一人で解決しなくてはいけない。守護霊の導きも、善霊の助けも期待できない。だぁれも君を助けてなんかくれないんだ」
一人ですべてをこなして、一人で生きていかなければいけない。そんなの、そんなこと――。
「私は嫌だ。そんなの嫌。だから、私は、私くらいは――私だけは君のための化物になるよ。君だけの悪霊になるよ。も、もちろん、その、さ……君のことを好きだなんてわけじゃないよ。そんなの口が裂けても言わないし、言ってやるつもりもないけど。それでも私は君を助けるよ」
だって、あんなに嬉しかったから。きっと他の誰かに私が見えたとしても、他の誰かに同じように頭を下げられたとしても。同じ気持ちになることは決して無い。ありえない。
君が、そんな君が、こんなにボロボロになるまでの君が。私が必要だって言ってくれたから。それが酷く嬉しくて、心の隙間にするりと張りこんできて。
『……ハッ、化物気取りの自称悪霊かよ、雑魚幽霊のくせに』
小さく笑って、小さく呟く。
「ふふっ、今のうちに言っておくといいよ。私の力がその内必要だって泣いて懇願させてあげるんだから。今は、今は――何も知らない私だけれど、君のように頭の回転が早くもなくて、狙われていることにも気づかないで、化物の正体なんて微塵も思ってなかった、こんな私だけど。君のために少し、ほんの少しだよ!? ほんの少しだけ頑張るから。か、勘違いしないでね。少しだけ、本当にちょびっとだけ。だから、だからね? だから、また私を頼ってね、比企谷くん。別に私は君のことなんて好きだとか思っていないけど。君が私のことを好きだとか愛しているとか訴えて助けを求めてくれるのなら、私は助けてあげる。私が助けてあげる。私だけが君を助けるから」
髪を梳くように指に絡める。揺れる髪は私の手ではなく、風が撫でているから。どうしてこんなに近いのに触れ合えないのか、この距離が酷くもどかしい。
「おやすみ、比企谷くん、比企谷八幡くん」
私は彼の名前を呼ぶ、そして彼も。
『あぁ、少し寝る……おやすみ、足山』
彼が呼んでくれる。あしやま、あしやまくおん。
触れることも出来なければ、温もりを感じることも出来ない。でも君が呼んでくれたからはっきりとわかる。私は、私は――ここに居る。