足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
『主人公とはどういう存在なんだろうね、八幡くん』
毎度の如くお決まりのように足山九音は数学の時間に前フリも無い唐突な雑談を始める。しかしながら今日の俺はいつもと違う、数学の時間でありながら寝ることを第一目的とはしていないのだ。
俺の机の上には材木座の小説。正直数学の授業よりも眠くなる。
『……なんかいつもより眠そうだよね』
それはそう。昨日の深夜から明け方にかけて一度読み終えたが最後にもう一度軽く全体に目を通している最中。
ただでさえ睡眠不足に加えて数学教師の呪文、目の前の呪詛。二重のラリホーに耐えている状況。むしろ寝ていいんじゃねぇかな、コレ。
『ほんと、律儀だよねぇ。八幡くんのそういうとこ、生真面目だなぁ。私なんて最初の二ページでギブだったのに』
昨日の夜、肩に乗って一緒に読もうとしていた幽霊は早々と離れ、部屋にあった漫画を読みながら音楽プレーヤーを聞いていた。
『んじゃま、今日の数学に代わるお話なんだけど……眠いよね、仕方ない仕方ない。子守唄代わりに流してくれてもいいよ。勿論、君がちゃんと聞いてくれるのなら嬉しいけどね』
最後までパラパラとした材木座の小説を机の中へ片付け、数学の教科書を立てては腕を組み顔を伏せる。
『主人公、主役、メインキャスト、主演、メインキャラクター。まぁ、色んな呼び名があるけどさ。私のような見目麗しい人物が主役なんて物語は既にありきたりにありふれて。当たり前過ぎて面白みがなくなった過去の代物。流行り的に言えば平成の今の時代の主人公は顔がよくなくても務め上げれるんだよね。俺の名前は足山九音、どこにでもいる普通の高校生なーんて自称する流行は十年後には廃れそう』
――主役は顔がいい方がいいんじゃねぇか?
俺は疑問を小さく口パクで伝えて見るが浮かぶ幽霊はふるふると首を横にふる。
『一概にそう言えないんじゃない? 昨今のラノベ事情からしてみればかっこいい主人公なんて読み手が感情移入し辛いだろうし。勿論、ヒロイン役や王子様役には美男美女が求められるだろうけどさ。少なくともブスや不細工なんかが大量に登場する作品が主流になることはないだろうね。大抵の読者はブヒブヒ言いながらぼくちんの大好きな主人公くんちゃんがこんなブサイク共に好かれるとか得なんて無いブヒ! なんて言ってそう』
相変わらず悪意のある言い方だよな。けれども言いたいことはわからなくもない。自己投影しているキャラクターが顔の造詣が悪い相手に思慕を寄せるのは理解し難い。
第三者視点の物語としてならまだしも感情移入する自分のお話とするのならNGなのだろう。いや、好かれるくらいは構わないのだろうが、長々と描写されることは安易に赦されることではない。きっと誰にも求められていないから。
『ライトノベルの作家っていうのはそういう意味じゃ大変な客商売なんだろうね。少なくとも本当に自分が書きたいものを書いているだけじゃあ成立しないんだろうし。売れるヒロインに売れるお話を作らなきゃいけない。ほんとプロの作家様って大変なお仕事だよね。むしろ普通の小説家よりもよっぽど大変なお仕事だと思うよ』
確かにライトノベルに出てくるヒロインは魅力的でなければならないのだと俺も思う。少なくとも第四の壁を超えて魅力が伝わるくらいには、夢中にさせるくらいには。
第四の壁。創作物と現実の壁。演者と観客の仕切り。
『でもさ、前提を完全に消し去ってしまって今度はその魅力的なヒロインの視点で物語を考えてみよう。そうなるとヒロインは都合よく冴えない男子高校生に恋することなんてあるのかなって。ヒロイン側から見たお話からしてみればそんなの赦されないよね。だって、ブサイクとまでは言わないけれど冴えない男子高校生なんて求められていないんだから。冴えない男子高校生がハーレム作りましたなんてお話もヒロインが主役の物語からしてみれば何でってお話なんでよね。なんであんな冴えない男に惚れていてその上でハーレムクソ野郎なんかの動向を伺わなくちゃいけないの? そもそもそんな奴視界にすら入らないモブじゃん。頭が高いんですけどって感じ』
頭が高いのはお前なんですがって思ったが口にはすまい。わざわざ顔を挙げてまで反論することでもないし。
顔面偏差値至上主義を掲げる九音の方向を見ると。
『ん、何?』
俺は小さく呟く。お前メンクイの気質あるよな。
『……うーん、違うんだよねぇ。別に私はメンクイじゃないよ。ただ私が可愛すぎるだけだからその基準で色々と考えちゃうってだけ。うんうん、仕方ない』
聞き飽きた自画自賛。相変わらずの自信っぷりに呆れてしまう。
『だからね、よくあるご都合主義って言葉は学園ラブコメにこそ相応しいんじゃないかって思うんだ。だってそうでしょ? 本来なら視界にも入らないモブ顔のくせに色んな美人と接点や関係性を築くなんて頭が高いんだよね。こんなものご都合とか都合のいい妄想って呼ばなくてなんて呼ぶの? 現実じゃあ最初から選択肢にも入れやしないってのにね。冴えない男子高校生に謎の力があったところで美人の物語にはスタッフロールにすら名前がつかない役どころなのに。だから本当にライトノベル作家って大変。その嘘臭さを消すのって並大抵の技術ではないだろうからね。主人公は等身大で感情移入しやすく、けれどもヒロインはバチクソ可愛い。こんなの無理難題なんだよね、本当なら。だから、あのスメアゴルのラノベから感じる悪臭は読むの耐えられなさそう。最初の二ページすら読む気失せるのに、ヒロイン出したらどれだけ酷いんだろう』
九音の言の通り、材木座の小説に登場するヒロインに関しては多くは語れない。語りたくも無い。
『でもさでもさ、世の中にはこんな戯言があるらしいよ――人生の主役は自分だ、って』
前向きな言葉なのだろう。励ましの言葉ですらあるのかもしれない。けれども足山九音が口にしたのなら、その意味を、その裏を読んでしまう。そもそも戯言なんて言っている時点で前向きな言葉と捉えてすらいない。
『うんうん、実にいい言葉、とってもステキー! 各々の人生の主役は各々だと。うんうん、とっても素敵な言葉』
まるで壊す予定のトランプタワー。俺は知っている、判っている。積んでいるのは壊すためで、肯定的な言葉は扱き下ろす為の前準備。
『けどさ、同時に私はこう思うんだよね。お前らが主役の演劇って詰まんなさそうって。お前らが主演の物語なんて価値あるわけって。いや、だってそうでしょ? 大体の他人の人生って詰まんないものばかりじゃん。ドラマティックなノンフィクション、脚色をもりもりに盛ったノンフィクションですらも売れない時代にモブ同然の奴らの御話なんて肥溜にすらなりやしないよ。他人の自慢話を、他人の苦労話を、他人の成功談なんてものを。漫談出来るほどの喋り上手ならまだしも盆暗どもの自分語りなんて聞いてて退屈しちゃう。お前の人生の見どころどこなの? 結論から言えよ、タコってね。というかさ、そんなクッソつまらない人生しか送って居ない大衆が滑稽にも物語にご都合主義なんて言うんだから、笑っちゃうよね』
全力で扱き下ろす性悪の幽霊。口も悪ければ性格も悪い。顔が良いのが尚、性質が悪い。
『創作物にご都合主義だって騒ぐ。うんうん判る判る。けどさ、ご都合主義じゃなくてリアリティを求められてもさ、お前らのクソ詰まんない人生観や経験側を前提にリアリティ求められてもさ。どうあがいても人にお見せできるものじゃなくなるよね。詰まらないどころか目を通すことも苦痛などうでもいい話になっちゃうじゃん。美人に惚れられることもなくて、劇的でもなければ華やかさも存在しない。そんな無味無臭の人生しか送ってないやつのリアリティってなんなの? リアリティがなくて説得力が無いって言葉を使うお前の説得力が無いんだよねって話』
悪意のある――物の、人の見方、悪意の味方。足山九音はどこまでも口悪く自分以外の存在を簡単に悪し様に扱う。
『世の中には作者の都合によって殺されたキャラ、痛い目を見るキャラ。そんなレッテルが存在するんだけどそれなら果たして誰の都合なら殺していいわけって話なんだよね。話の都合? いやいや、その話を作った人間が殺してるんだから都合いいわけじゃんかよ。結局こういうのって読んでる人間の都合じゃないから騒いでる間抜けどもなんだよね。勝手に自分で好きになっておきながら、勝手に感情を移入してながら裏切られたら騒ぐ間抜けどもなんだよ。だから自分の納得がいかない展開を作者の都合なんて言い換えちゃう。自分の都合を押し付けておきながら、自分の勝手な妄想を繰り広げておきながら。結局こういうやつらって痛い目を見たくないのは自分で、だから自分の都合通りの注文をつけるオキャクサマってわけ。ほんとどっちがご都合主義なんだよって話。けれども客商売である以上、そういうところに気を配らないといけないってほんと作家さんって大変。ほんとちょっとしたことで炎上して、ちょっとした納得のいかなさで否定する。その上、自分は上客だとばかりに批評家面するやつらの多い事多い事』
やれやれとばかりに首をふる九音は大変だと零していた。まったくもって大変だと思って居ない女幽霊。こいつにとってどうでもいい事で結局のところ他人事。一欠片の憐憫も心配も持ち合わせてなどいない。
『ちょっと話を戻すけどさ、主人公。ご都合主義なんて寄り道しちゃったけど主人公について御話しようか。ぶっちゃけご都合主義のアレコレなんて明日には意見を翻してる可能性あるしね。今読んでる少女マンガの続きももしかしたら将来的にこんなの作者の都合でしょ! って憤怒するかもしれないし。私が話したいのは君の御話、比企谷八幡くんが主人公の御話』
何、言ってんだ、こいつ……と呆れた視線を投げてしまう。そんなご都合主義があったのなら俺はもっと平穏な筈なんだが。もしも何かしらの事件があったとしてもこんなに惨めったらしく色々としなくてもいいんだが。
『もしも、ね。もしもの話だよ。私と君の物語において君の運が悪すぎるなんてことはきっとないから。君って運は少しは悪いけど、不運ではあるんだけど悪運が強いからさ。もしも君に味方が、勝利の女神がいないなら周囲を疑ってみるといいよ。もしも君に都合が本当に悪すぎて、誰かにとって都合が良すぎるのなら、それは誰が求めているものなのか想像してみるといい。まぁ、様々な化物の望みや異変を乗り越えてきた君にとっては釈迦に説法なのかもしれないけれど』
うとうとと瞼が重く、睡魔が襲いかかってくる。そろそろ限界が近く――最後に九音に一つだけ尋ねることにした。結局のところ材木座の小説、ご都合主義ばかりしか見えなかった物語について、あれは果たしてあれで良かったのかと。
『……ん? ごめんね、八幡くん。私は一般的に値段がつけられて商業用として販売してある価値ある代物の御話したつもりであってスメアゴルの排泄物の話をしたつもりじゃないんだ。だからアレにご都合主義に見える代物があったところで今回の話とはまったく別。あんまり汚い話しないでよ、汚れちゃうでしょ』
こいつ、材木座に対して塩すぎない?
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足山九音が憑いていないことを俺の中でどう表現していいのか判らなかった。
この一年間。あまりにも濃密で濃厚な時間は俺にとって九音が居るのが当たり前になっていて。居なければ、隣に、後ろに、前に、上に。どこにも居ない現状にこの上なく不安を覚えてしまう。
九音無しで過不足無かった筈で。何も問題なんてなくて、怪異なんて関わり合いになくても平気であったはずなのに。
けれども彼女ありきで過ごしたこの一年間は、助けがなければ生き残ることなんで出来ず、足山九音なくして迎えることはできなかった。
そんな彼女の居ない状態、状況を表現するのならどう言うべきか。まるで臓器の一つがなくなった……いいや、そんな代替が聞くかもしれない物事ではない。そんなものじゃ足りていない。
日常を送るのに不足していて、異常をきたし、送ることなどできやしない。今の俺は一人で生きていく自信など欠片も無い。
普通に生きていくのに必要なくても、もはや普通に生きていくことが出来ず。普通の平穏を望んでいながら騒がしいトラブルメーカーを望んでしまう。
普通に生きることなどできない――怪異、妖怪、都市伝説、呪術、摩訶不思議、奇々怪々、魑魅魍魎。そういったものと対峙することに、遭遇することに今は不足しているのだ。
酷い矛盾だ、酷い願いだ。
足山九音と共に居るということはそういった存在から離れられないとわかっていて、それでも平穏を望んでしまうという矛盾。憑いてる幽霊が居る現状を受け入れておきながら虫が良いことに危険に遭遇したくないという甘え。九音という『保険』を捨てることに俺は余りにも――。
十五年生きてきた俺には必要なかった存在。けれども十六年生きてきた俺には不可欠な存在で。遭って当たり前、合って当然とも呼べる女幽霊。
出遭った当時は思いもせず、病院に置き去りにして、憑いてきたときには厄介だと辟易し、八月の頭には性格の悪い居候で。
けれどもそんな彼女に生かされてきたというのは事実で。居なくなって、繋がりが消えて初めてどれだけ俺が彼女に頼り切りだったのかが判る。
少なくとも現状、そう現状の話。
誰も居ない教室にぽつねんと一人取り残されていて。あまりにも静かな校舎の中で。足山九音が居ないという事実が酷く心細い。
もしもこれが人気のある場所で、何の変哲もない陽だまりだったのならば何の問題もなかった。けれども解りやすい異常、非日常。
そんな状況下で徒人たる俺ができることなど多くない、いや殆ど無い。できることを探す方が難しい。
騒がしいまでの幽霊、一人で三人分は口うるさい女幽霊との繋がりが感じなくなって数分。目を醒まして数分。
あの数学の時間の雑談ですら本当にあった出来事だったのかと怪しい代物。
もしかすれば俺が寝ている間に教室にいる皆は俺に声をかけずに一人放置しただけ。九音は少し校舎内を回っているだけ。クラスメイトはボッチに気を回して誰も声をかけなかった。幽霊は浮遊霊の如く散策に回った。
そんな都合のいい妄想に笑いが溢れる。
時刻は短針の三より少し前。生徒を消し去るにしてもあまりにも時間が悪すぎる。今のこの時間帯はまだ数学の時間なのだ。
誰も居なくなった教室で深く、深く息を吸い――吐く。
深呼吸をしていますぐにでも混乱に身を委ねそうな思考や感情を引き止める。すべてを捨て去って逃げようとする思考の足を引っ張る。
足山九音が居ない。つまりは化け物と遭遇する時には頼りない自分の身一つでどうにかせねばならないということ。
足山九音が居ない。つまりは知識はすべて俺一人分で賄わなければならず、対して詰まってもいないだろう記憶と頭だけで判断しなければならないということ。
足山九音が居ない。つまりはこの恐怖に対して気を紛らわせることが出来ない。目をそらすことなんて出来やしない。自分自身の内なる恐怖から目をそむけてはならないということ。
再度、呼吸を整える。油断をすれば吐き出しそうになるほどの濃密な恐怖を必死に堪えて周囲を見渡す。
無人の教室、窓から見える光景にも人の形、影は何一つとして存在しなかった。それどころか自分を学生だと示す部品の一つ、学生鞄の所在すら掴めない。
――不味いな。
あの鞄の中には対霊としてはそれなりに厳選した道具が入っている。勿論、それがすべての怪異に効くだなんて自惚れていない。幽霊には効果はあるかもしれないが妖怪や怪人には効果が無い可能性は十分にある。しかしながら、無いよりかはあったほうがに遥かにマシで。
自分の席から離れて背後の掃除道具箱を見つめる。そういえばこの中に箒があったか。
化け物相手にはあまりにも貧弱な装備かもしれないが、それでも徒手空拳よりかはマシだろう。そんな軽い気持ちで中身を拝見しようとした瞬間に産毛だつ。
指先をカサカサと這うような感覚。
あまりの気持ち悪さに手を引き、逆の手で原因を叩き払う。そこには子グモ。五ミリも無いであろう蜘蛛の群れ。
その蜘蛛の群れが足元から散らすかのように去っていく。
そして勢いづけて開いた掃除箱の中には――閉める。即座に閉める。閉めた際に挟まれた『足』が未だに悶えるかのように動いている。
掃除箱の中には大量の蜘蛛の巣、そして蜘蛛の大群。
あまりの気持ち悪さ、恐怖に胃が締め付けられて。逆流しようとする胃液を必死の思いで堪える。
成虫と呼ぶにふさわしい蜘蛛の足は未だに挟まったまま。気分の悪さに口元を抑えたままゆっくりと教室後方の扉を開く。
視界に入るのは見慣れた光景。人こそいないがそこは俺がいつも見ている光景で。
けれども、一瞬視界に映ったソレは。決して目を逸らしてはいけないというソレは。声の一つも挙げないソレは見間違いじゃない。
人間。
人間が天井に絡め取られていた。蜘蛛の糸がまるで操り人形のように手足を絡みとり、それでいてマリオネットのように人間の可動域には不可能な折れ方をする腕。
「――――ッ!?」
喉から零れそうな、今にも飛び出そうな悲鳴を手で押さえて殺す。音とは居場所を示すもので、もしも無防備に驚き、叫び、戸惑っていれば、ここに居ると報せてしまえば何もわからない状況で何が起こるかわからない。
ぽた、ぽた、ぽたぽたと。
ポタポタと落ちる赤い糸は地までつながっていて、地面に作られた赤い蜘蛛の巣には網目が無い。
「顔、が……無い……」
それだけじゃない、よくよく見れば片方の胸も無惨に食い千切られ、足首も同じようにギザギザとした雑な切断面。
周囲を見渡せば赤の斑点が廊下の奥へと伸びている。まるで道標とばかりに残されたソレを見て、顔を奪ったナニかが既に移動した後だというのが明白にわかった。
いいや、移動した後が判ったなんてそんな事実だけではない。現状の状態からの推測であれば、もはやここまでお膳立てさせられたのなら。
間違いようがなく、判りやすいまでの正体。まるで隠すつもりが無い化け物の正体が浮かび上がる。
蜘蛛。
蜘蛛の巣、蜘蛛の子、蜘蛛だらけのロッカーの中身、そして白い糸で絡め取られた死体。ここまでお膳立てされておいて蜘蛛以外のバケモノなわけがない。
何をどう間違おうとも、今回のことをお話として編纂、編集するのならばまさしく蜘蛛について。
問題は蜘蛛というバケモノに心当たりが多すぎること。
古今東西において蜘蛛のバケモノは多すぎるほどに多い。それでいて一部には遭遇しただけでどうしようもない、手も打てない、手に負えない怪物も存在する。
オカルト的な見地からしてみれば蜘蛛はあまりにも馴染みが深すぎるのだ。古来より吉凶の証としてどちらの側面も司ってきた蜘蛛という存在にたった一人で立ち向かうにはあまりにも心もとない。
唾を飲む音が響く。諦観渦巻く思考をせき止める。
そして――ふと思い出したのは昨日の蜘蛛。俺が殺そうとした蜘蛛の御話だ。
「……待てよ、ただの動物霊なら」
呟いて、思い出して、立ち止まる。
自然と赤の斑点から離れようとしていた足を引き止めて。
そして反転して科学準備室を目指す。赤のまだら模様の先、視界に何かがよぎればいつでも対応できるように周囲を気にしながら。
細心の注意を払いながら、物音一つ逃さないように、自分の息さえも殺しながら。
けれどもあっさりと。びっくりするほどに呆気なくたどり着く。心配事は完全に杞憂で。そして目的の扉を掴み――回す。
「回った……ッ」
つい喜びの声が漏れてしまう。そして、目的のものが閉まってある場所を、薬品棚を目指して歩みを進めた。
「……あった」
目的の代物は最前列に並んでいた。薬品棚の戸は鍵がかかってないらしくあっさりとスライドして、手を伸ばした瞬間――掴まれる。
がっちりと、力強く。痛いほどに力強く。
その白魚のように細い指が俺の手首を締め付けながら掴んでいる。
「比企谷くん……なに、してるの』
悲鳴が漏れそうになったが、急に手を掴んだ相手の声があまりにも聞き覚えがあったので安堵のため息を漏らす。
「ゆき……のした、か。掴む前に声をかけてくれ、驚くだろう」
「質問してるのは此方よ、比企谷くん。こんなところで貴方、何をしているの?』
まるで俺を問い詰めるかのような台詞。しかし少し考えれば納得も行く。これが何も不思議の無い日常だったのならば確かに俺がやっていることは狂人、気狂いの類かもしれない。
科学準備室に保管されている薬品棚から薬品を許可なく取りだそうとしている。それどころか教師の目が届いてない場所で勝手に持ち出そうとしているのだから雪ノ下が止めるのは理がある。
故に雪ノ下雪乃にオカシイところは何も無い。むしろ学生として模範的であり、倫理観ある生徒ならば至極当然とばかりの台詞と行動。
けれども。
「雪ノ下、この状況をおかしいと思わないか?」
「この……状況』
オウム返しにこぼす。眼の前の彼女は何がオカシイのかさっぱりとわからないとばかりに見渡す。それと同時に理解する。理解出来てしまった、理解が及んでしまった。
「何がオカシイの?』
ゾワリと背中が産毛だつ。握られた指先の爪が肌に食い込む。
考えても見ろ。俺がこの場所に入っていくには理由があった。目的があった。けれども彼女は? 眼の前の雪ノ下は?
何故、科学準備室に居るのか。
嫌な予感に背中の汗がじっとりとにじみ出る。
「雪ノ下、ゆっくりで。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから俺の手を離してくれ」
俺は懇願する。すると彼女は表情を強張らせた後に俯いて。
「……ダメ』
血が滲み出る。爪が皮を破り、肉へ。鋭い痛みと締め付けられる鈍い痛みに苦悶の声が漏れる。
「ダメ、ダメなの……ねぇ、どうして』
その問われた声は低い。
『ねぇ、どうしてそんなにすぐ行動出来たの? ねぇ、どうしてまっすぐ此処に来たの? ねぇ、どうしてそんなに早く解決できるの? ダメ。そんなのダメ。赦されない。そんな御話ないわ、そんな展開は望んでない。そんなに単純に解決しちゃだめ。こんな予定は立てていないの。無い、ダメ。ダメ、ナイナイナイ、ありえない、こんなにあっさり、あっさりあっさりアッサリ』
締め付ける指を勢いよく払う。解放された腕、吹き飛ばした華奢な肉体。それらを無視して俺は保管されてるエタノールへ手をのばす。
けれども雪ノ下は跳ねるように起き上がって俺の腕目掛けて突撃してくる。軽く舌打ちをしてその突進を避けた。
絶対に渡さないという意思は薬品棚に衝突するほどに強く、突進により戸棚のガラスは割れて破片と瓶が彼女に降り注いだ。
こぼれた中身が床に飛び散り混ざり合う。
「まっず……」
顔を腕で隠して吸い込まないように慌てて準備室から飛び出した。明らかにやばい反応の音と煙。
『――――ゃぁぁああああッ!』
科学室から出ようと目指していた足は止まってしまう。絶叫、金切り声が耳に入ってきて。
明らかに雪ノ下雪乃の様子はおかしかった。異常であった。態度も反応もおかしく、彼女が発していた言葉はナニかを知っているとばかりで。そしてソノ何かを守るために行動を阻害していきたかのように見える。
見捨ててもいい理由が。離れてもいい理由が幾つも頭の中に浮かび上がる。
逆の理由など一つくらいしか思い浮かばず。
雪ノ下雪乃を大切に思っているなんて虚言ではなく、女の子を見捨てたくないなんて義侠心でもなく、人のため、他人のためなんて薄ら寒い理由なんかではない。
俺が、たくさんのものを失った俺がせめて人間らしく、人間のような、人間のフリをして生きていくための。
失いすぎた人間性の欠片の代替でしかない。人が死ぬのを何の躊躇いもなく見捨てるような自分の足をそのまま進めてしまえば、後はバケモノのように堕ちるしかないことを知っている。
異界、化物が蔓延る世界で人間が人間の役割を失ってしまえば、何が残るというのか。何も無い、何も無いから――せめてとばかりに一度見捨てかけておきながら再び科学準備室へ踏み込む。
「雪ノ下……?」
開いた先から少女は消えていた。科学準備室で悲鳴をあげていた女の子は忽然と姿を消し、残っているのは散乱しているガラス片、割れている薬瓶、音を立てている液体。
「ど――」
瞬間に全身が震える。背筋が震えてはナニかを訴える。何を、何を――間違えた。
あぁ、なるほど、間違えたのだ。
いつも間違えているような俺の勘がはっきりと告げる。毎度のごとく馴染み深い。当たり前のように感じ取るソレは、自らが選択した行動が間違いだったと伝えてくる。
ポタリ、ポタポタ、と。
先程、頭頂部に一瞬感じた水気は気の所為ではない。まるで背筋に氷が入ったかのように背中に落ちた水は気のせいじゃない。
生暖かいはずなのに、まるで氷のようで。
頭上から降り続ける液体、生温いその水の色は――透明。粘性を含む液体はナニかが頭上に居ることを指し示す。
その水の正体が涎。
ごちそうを目の前にしたナニかが我慢ならぬとばかりに垂らし続けている。上を向くことなど出来やしない。身じろぐことすら出来ずに。
足山九音が居たのなら、と。
他力本願な願いばかりが漏れ出る。
見上げる。見上げてしまった、恐怖に打ち負けて。逃げることすら出来ずに、滴り落ち続ける水の原因を見てしまう。
目が合う。
悲鳴を漏らさなかったのは二度目だから。人の顔に――巨大な複眼を見たのは二回目。
けれども悲鳴を漏らさなかっただけで、恐怖を克服したわけではない。足は完全に地面に張り付いて、動けない。
ギョロギョロと。
ギョロギョロとした大きな複眼が、蜘蛛のような一つ目の複眼が。限界をとうに超えて裂けている口が、開いている口から見える牙が。
美しさの欠片も残っていなかった。人型すら保っていなかった。奉仕部で一枚絵になるような美少女の面影なんて欠片も残さず。
見上げて顔にふりかから水滴に。あまりの悲惨な結末に。諦めが浮かび、目をつむる。
『ヤサシイのね、ひきガヤクん、モドってキてクレるなンて』
二重音声のようで酷く聞きづらい声が甘えるかのような台詞で耳を打つ。気持ち悪さに背筋は震え、動けと足に命令するものの心は既に折れていて。
眼の前の少女。いや、眼前の化物のおぞましさに心が壊れてしまいそ――
――ブラッディナイトメアスラッシャーッッッ!
気が抜けた。無様に水たまりに尻もちをついて全身から力が抜ける。そんな俺の眼前に切り裂かれた蜘蛛の足が、血が降りかかる。
そして――。
「ふっ……八幡よ、無事か」
唐突にかけられる声。そのどこか男臭さを感じる声にたいして。素直に、心の底から素直にこう思う――シリアス、返して、と。
少なくとも助かったとかありがとうなんて言葉は出てきそうになかった。
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シリアスブレイク。ホラーブレイク。
まるで悪い夢かのような出来事はあっさりと謎の力――材木座曰く由緒正しき精霊刀の力であるらしい――によって追い払われた。その跡地で俺は大穴を見上げたまま間抜けな顔を未だに浮かべている。
蜘蛛の化け物が居たであろう穴は闇深く奥行きは決して見えない。
「……流石に着替えた方がいいだろう。教室にジャージ置いてある、それに着替えておいた方がいい」
材木座は片手に刀を構えたままニヒルに笑う。反射した眼鏡の光が眩しくて鬱陶しい。
あぁ、なるほど、そういうことか――理解が及ぶ。この不思議な状況を、不可思議な状況を。
理解したが故に何故、材木座が都合よくジャージが置いてあることを知っているのか、という疑問が一瞬で浮かんできては消えた。
何の怪異なのか、何の不可思議なのか、何に巻き込まれているのか。
そして同時に足山九音が居ない理由すら察してしまう。察することができてしまう。
俺は材木座の提案に頷き、準備室を出た。そして廊下を二人で練り歩く。後方で大手を振って歩いている材木座はまるで敵なしといった佇まい。そんな様子に溜息の一つや二つ吐きたくなる。
九音辺りがいれば――こんな奴に助けられるなんて悪夢だよ……、なんて言いそう。
事実その通り悪夢。悪い夢、そう、夢なのだ、この世界は。
それさえ判れば対処法などたやすく、蜘蛛の怪異と夢と言う繋がりがあるのならこの謎の世界観の答えは導ける。
ドリームキャッチャー。
日本語へ直訳すればポジティブで前向きな言葉辺りに変換されそうなその言葉はアメリカの風習である。その風習をモチーフとしたアクセサリーも販売されていて、蜘蛛の巣状の網に装飾が施されるその代物はアメリカやカナダの一部先住民のアイデンティティーの象徴としても扱われている。
悪夢を絡め取る。蜘蛛の巣の網目は悪夢を絡めとる。眠る際にベッドの上に飾ることで良い夢を見せると言われている。
なればこそ、蜘蛛。
足山九音の嫌な予言はあたる、恨みを抱いた蜘蛛が怪異となって復讐するなんてあの校舎ではなくもない。
それと同時に――同時にこれは恩返しなのだろう、鶴の恩ならぬ蜘蛛の恩。この材木座の都合のいい夢。良い目を見ている材木座の夢の中。
故に足山九音は存在しない。なぜなら材木座義輝に認識されていないから。
俺にとっての悪夢でも材木座にとっては良夢。俺は完全に巻き込まれていた。
――そりゃあ、殺そうとしたら呪われるよね。
もしも九音がいればそんな台詞で突っ込まれただろう。主目的が返礼ならば、副目的は復讐で。
つまり、この頭が痛いと頭を抱えるほどに頭の悪い夢は俺への復讐も兼ねているのだ。それと同時にこの怪異に人を殺せる力など無い、人を害するほどの力を持って居ないことを察せる。
それこそ殺されそうになっておきながら、俺を殺すことなく舞台の役者として登場させている。人を殺せるほどの怨念が、恨み辛みがそんな役どころを割り振るわけがない。いのいちで殺し、糧とする。怪異が人を殺すというのは力を得ると同義なのだから。俺は一度たりとも傷を、痛みを与えられない。人を傷つけることが出来ないという、蜘蛛の怪異が持つ力の限界を現していた。
だからせめて驚かせて、恐怖を抱かせて、怖れさせて。
せめて俺が発狂でもしていれば変わったのだろうが、タイミングがいいのか悪いのか。材木座の登場により俺の化物に対する恐怖は完全に霧散していた。それどころか九音が居ない理由にも合点し未知ではなくなったのだ。
それだけではない。
あろうことか怪異でありながら蜘蛛の化物の方が恐怖を抱いていた。最短ルートでエタノールを取りに行く俺を、舞台脚本を無視して足掻く俺を。わざわざ血痕まで残して威嚇していた道を無視した俺に。
故に俺が恐怖を抱いたところで大きく力を得ることなど出来なかったのだろう、諦めに近い心境でありながら。
のんびりと口を開けたままいつまでも悠長に脅していたのは余裕があったからではない、余力が無かったから。初めから蜘蛛は俺を傷つける力を持ち合わせていなかったのだ。
故に問題があるとするならば、だ。
どうやってこの夢を終わらせるか、その一点に尽きる。思い浮かぶ方法は二つ。
一つは化物退治に乗り出すか、そして――終幕へたどり着くか。
前者は確実に乱暴な方法であり、はっきり言えば論外だ。確かに怪異が俺を傷つけるほど大きな力を持つ存在ではなかった。傷つけるような逸話もないのだろう。けれどもだからといって化物相手に大立ち回りなど愚の骨頂。力無き怪異であったとしても俺自身は力無き人間で、ましてやろくすっぽな解決方法など思い浮かばない上に徒手空拳で。
勝率なんてあるわけがない。無力なもの同士の争いであったとしても相手は化物なのだ、仮にも。
せめえエタノール、アルコール、酒でも持ち合わせていたのなら取れる手段はある。それでも大きな危険が伴うが。蜘蛛の怪異に対する特攻の神器が三つ揃っていたところで取り扱う人間が凡俗であるのならば上手に使えず痛い目を見るのかもしれない。酒精は蜘蛛殺しに最適であったとしても、酒精アルコールは怪異に対して効き目が強かったとしても。
俺はその武器を器用に扱いこなせるほど自分を信じちゃいない。ここぞという時、今この時にという場面で最適な行動を取れる人間は多くない。そして日常において人と居るときは少数派なくせに、そういう大事な場面では大多数に所属する俺である。信じきれるわけがない。
そしてそんなたった一度の間違いを赦してもらえると思えるほど生易しい存在は居なかった。一つのミスが命取りになることはよく身に染みていた。もしも殺す気、退治に挑み失敗すれば怪異は決して赦さないだろう。そうであるならば命と命のやり取りになる。そしてその命のやり取りほど馬鹿らしいことはない。そんなリスクを取るなんて遠回りな自殺と変わりゃしない。
あほらしい。
本当に阿呆らしい。そんな死と隣り合わせの選択をするなど頭が悪すぎる。物語の主人公、主役、大役あたりなら死に怯えずに戦う選択でもするのだろうが生憎そんなつもりはさらさらない。人間の強さを証明するために怪異と戦うなんてそういう奴らが勝手にやっててくれと切実にそう思う。
何故、自らを危険に追いやるのか、飛び込むのか。危険は回避できるなら回避していくべきで。
若い頃の苦労は買ってでもせよという言葉がある。苦労なんて買う必要はない、世の中にはタダ同然で落ちているのだから。けれども買ってでも欲しい苦労にはきっと価値があるのだ。苦労に見合ったリターンが存在するのだ。ガムシャラにその辺に落ちている苦労なんかとは異なり、買う価値があるのはリターンが大きい上質な苦労だけ。
だから買う価値も、賭ける価値も、背負う価値も無い苦労など背負い込む必要はどこにもない。
故に選ぶのは夢の終着点。この物語とも呼べる材木座の対する御礼の物語に付き合うしかない。
それが今回、俺が選ぶ手段。いつだって他力本願で人任せ。
安全であるが苦痛で、痛々しくて目もあてられない物語に付き合い見届ける。なんとも傍迷惑な呪いなのか。地味に効果はバツグンだ。
そんなことを結論づけていると背後に居る材木座が意気揚々と声をかけてくる。
「ふっ、八幡よ。安心するがいい、この剣豪将軍と精霊刀がある限り怪異など物の数ではないわ!」
ふぅーはっはっは! と高笑いしながら俺を追い抜き前を歩き始める材木座。その後ろをとぼとぼと歩く。
何が悲しくてこんな目に、こんな夢に遭わなければならないのだろうか。そりゃあやっぱ蜘蛛を殺そうとしたことか。いやいや、それは仕方ねぇだろ、蜘蛛は害虫なのだ。間違うことなく。
科学的根拠に基づくのなら益虫と考えてもいいのだろう。しかしながら九音の言葉を借りるのなら見るだけでも不快な存在、見るだけで不快な昆虫は有害と認定されるのだ。世の中には不快害虫という言葉があるように見てくれや音で存在を拒否されるものは数多く存在する。
そして最近も見かけるだけで痛々しくその存在があまりにも辛い代物があった。それは前を歩く男が持ってきた紙束のこと。
読むだけで苦労し、痛々しくて直視など出来やしない。
けれども、だ。そう逆説を言わせて貰えるのならば、マイノリティ的な嗜好の人間は存在する。蜘蛛や毛虫を好む人間が居るように材木座の小説も少数の人間に支持があるのではないか、と。
たとえ日本語の間違いが多かろうとも、痛々しくて読むのが苦痛であったとしても。そういうものを好む人間は少ないながらも存在する筈だ。
本当にちやほやされたい、褒められたい、認められたいというのならばそういう集団の中で、集まる場所で投稿すべきだったのではないだろうか。
「なぁ、材木座。お前、どうして投稿サイトにアップしなかったんだ?」
大袈裟に手を振りながら前を歩く材木座に問いかける。
「……何の話、む? 小説の話か」
急に立ち止まる材木座。どうやら夢の世界であっても昨日の小説のことを思い出せたらしい。自分で振っておきながら話題が通じない可能性も考えていたがどうやら杞憂だった模様。
「別に叩く奴らばかりじゃねぇだろ。あぁいうサイトにはお前の小説を肯定してくれる奴も居るんじゃねぇのか?」
材木座が口にした理由。容赦なく叩くと酷評されるといった理由。けれども足山九音はこう言った、材木座の小説を読む直前に嫌悪感丸出しにしながら言ったのだ。
『こんなの小説投稿サイトに出したところで酷評されるなんて被害妄想もいいところだよね。完全に自意識過剰なんだよ。そもそもさ、投稿するだけでみんなが見てくれるってなんて自分があたかも世界の中心、主役みたいな物言いでムカつく。そもそもこんな小説モドキに時間を割くやつなんているの? 読んで面白くもない代物に時間を割いて指摘する暇人も少ないと思うよ。酷評? バカな話だよね。酷評するのだってエネルギー使うんだよ。排泄物にそんなエネルギーを使う人間なんてマイノリティなんだよ。好きなものならまだしも自分が嫌いなものをわざわざ言葉を使ってクソだって説明するのにどれだけのエネルギーがいると思うのさ。排泄された物体を見て、この排泄物はクソですだなんてスカトロ趣味のキ印なんてどう考えても少数だよ。そんなものより自分の好きなものを探す方がよっぽど有意義。君だってそうでしょう』
開始一ページでこの感想。それ以降、材木座の小説をスメアゴルの排泄物扱いで見向きもしなくなった。
つまりは、だ。九音の言の通り興味の無い人間に読ませるよりも同好の士を募った方がよっぽど建設的だったのでは? ということだ。
「ふむん、たしかに。一定数いるかもしれんな。酷評される恐れは多少持ち合わせていたが我は自分の作品に少なからず自信がある。人に見せる以上、最低限の誇りを持ち合わせている。けれども他の者の目に止まるというあやふやな可能性に賭けるよりかは必ず読んでくれる者に批評をお願いするのは当然の理であろう」
「だから奉仕部に?」
「うむ、せっかくの作品なのだ。感想を聞きたい。別にチヤホヤされたいわけでないのだ。いや、少しはちやほやされたいが――それでも忌憚なき意見というものも聞きたいのだ。そしてその意見を言ってくれる人間というものはこの世の中、存外と少ない」
材木座の言葉に俺は頷く。
上辺だけの付き合い、友達付き合いで小説を見せられたところで果たして心からその小説に対して正直に物を言えるだろうか。意見をぶつけ合ってそれでも付き合いづづけることができるだろうか。
生み出した、産み出したソレを否定されることにどれだけの痛みが痛みが帯びるのか想像しかできない。けれども想像もしない。結局のところその痛みは他人の物で、此方が勝手に想像して慮っても他人事。
他人事のくせに痛さに対して判ったようなふりをするのはその痛みを覚悟した人間に対して失礼だと思うから。
「ふは、それに今は無名であれどいつかはその頂点に立つ我だ。多少の批判や意見などは糧にしてくれよう!」
意気揚々と答えるその姿が少しばかり眩しい。中二病を突き詰めて、文まで起こし、自分では作品と自惚れるくらいの代物を作り上げる。その足掻きにあがいた代物を他人に見せるという勇気をも持っているのだ。
「はんっ」
自嘲が溢れる。こんな質問は愚問。
誰かに否定されるのを覚悟で、晒したソレは。きっと俺がほしいと思っているものになんとなく近い気がする。他人から笑いものにされようとも、それでも形として成り立った小説は材木座にとって、きっと。
話しているうちに自然と教室へたどり着く。目的地である場所の扉を開こうとして気づく。俺への恐怖を煽る意味合いで用意されたギミック、血を流していた死体は消え去って、血溜まりだけが残っていた。
正体を見たり、枯れ尾花ではないが蜘蛛の思惑はやはり恐怖を与えて力を得るためだったのだろう。
半ば確信めいて俺は教室に用意してある体操服袋を広げる。そこにはいつもと違う色が目に入った。
白。
ジャージを愛用している俺は久しく目にした体操服を取り出す。そこには半袖半ズボンの体操服。
思い出すのはあの幽霊のこと。九音は俺が初めて体操服を着た際に。
『ぷふーっ! は・ん・ず・ぼ・ん! あははははっ! だっさ! 八幡くん、君、私を笑い殺す気なのぉ! 高校生のくせに堂々と半ズボン姿で立つのやめてくれよ! 指定の服装だからって一切の羞恥心なく半ズボンとか! ぷくく、くすくすくす、もやしっぷりが強調されて、ぶひゃひゃひゃひゃ!』
高校始まって初めての体育の時に馬鹿にされた俺はそれ以降、夏場でもジャージ着用で過ごすようになった。しかし季節は一回りして今年の春に再び半ズボンのサイズを測るために部屋で着替えていれば、今度は違う意味で酷い感想を貰い二度と着れなくなった。
『ぱ、パッツンパッツン……!? じゅ、ジュルリ、い、いい太もも! ねね! 八幡くん! 今度からは半ズボンで体育しようよ! 半ズボン最高だよね! そのぱっつんぱっつん具合にもっこり具合! 凄く好き! ぁ……ああああぁぁぁっ! でも、これを同じクラスの女子どもに見られるのか! それはやだぁぁぁぁぁぁっ! いやぁぁぁぁぁっ! 八幡くんと私が育てた筋肉がァ、八幡くんがぁ他の女子のオカズになっちゃうぅぅぅ……うぁぁぁっ、でも見たいぃぃぃ、八幡くんがその姿でマラソンする姿とか、超見たいぃぃぃぃ……』
学生服からは見た目の変化に気づかなかったが体操服姿になれば一目瞭然で。自分の体格が大きく変わっているのが丸分かり、特に太ももに至っては去年よりも遥かに大きくなっているらしく体操服が少しはちきれそうだった。そういえばちょこちょことカッターシャツはサイズを変えていたから肩周りも大きくなっているのだろう。
そんな嫌な記憶を思い出して、そっと体操服を直そうとすれば蜘蛛が机の引き出しから現れて足にかさかさと纏わりつく。そして引き出せば蜘蛛は散らすように机の中へ。
ちょっと待て。これは材木座にとっての良夢なんだろ……なんで俺の体操服姿が必要なわけ? えっ、怖い怖い怖い。なんか今日一番で恐怖感じてる。
数分迷った後に演目上必要とあるならばと渋々着替える。おかしいな、上は買い換えたからサイズ調整は終わっている筈なのに上下ともにぱっつんぱっつん。
俺は着替え終えて教室を出る。廊下でふんっ、ふんっと素振りしていた材木座はこちらへ向いて一言。
「……小さくない?」
お前のせいなんだが。いや厳密に言えば夢の世界を司るシナリオライターのせい。もしかしてこの蜘蛛腐ってるんじゃ。ぶるると身を震わせて。
「ちょっと材木座、離れて歩け」
「なんで!?」
驚いた後に一歩近づいてくる材木座。身の危険を感じて後ずさる。
「は、八幡、おぬし何か勘違いしてない?」
のっそりとさらに近づく材木座。その片手には刀を持っていて。巨漢に片手には愛刀。もうこの時点で子供なら泣くレベル、女の子なら走って逃げる、俺ですら身の危険を感じる。
「わかったから離れてくれ」
「ちょっと、おぬし、マジで我に対する誤解もって無い!?」
誤解も何も解は既に出ている。間違っていようとも解は解なのだ。結論づいているのだ。
「ちょっとその離れ方不審者に対する扱いじゃない? 我、女子好きだからね? そこほんと勘違いしないで……」
気の毒とは思うがこんな服装を用意した奴が悪いのであって俺は悪くない。どうしてこんな人気の少ない校舎でわざわざ小さい体操服を用意しているのか、何を考えているのか。ほんと身も凍る思いがする。
材木座と一定の距離を保ちながら校舎を練り歩く。材木座が先導しているが勘で歩いているらしい。なんとなく化け物が居る方向へ歩いているだとか。そこはもうちょっと設定を頑張って刀が指し示すとかやっとけよ、と思った。なんとも中途半端にふわっとした理由に呆れながら渋々と従う。
悪夢だ……
先ほどのあほらしいと切って捨てた覚悟は一度考え直さなければいけないかもしれない。ただシナリオ通りに進んでいたら恐ろしいことになるかも。二の腕と太ももを締め付ける体操服がそう主張してくる。罰ゲームのような服装で校舎を闊歩する現状に身の危険……貞操の危険を覚えてしまう。
「ふむ、こちらから気配がするな」
前を歩く材木座は方向を変えて特別棟の方へ。そして階段を四階まで昇れば幾ら鈍感といえど目的地には気づくだろう。目指す終焉の舞台は特別棟の奥の奥、普段は神秘すぎる少女が待つ空き教室。
その静謐で、荘厳な空気を持つ離れにある部室こそが目的地。そこに先ほどの蜘蛛の化物が待っているのだろう。
ふと。
そう、ふとしたことだ。単純に目指す先に居る化物について考えたときに。待っているのは雪ノ下雪乃という少女であると結論でづけられる。
故にこの舞台は主人公が材木座で敵役は雪ノ下。そして俺は材木座の活躍を見届けるモブAといったあたり。別に俺がモブなのは構わない、何の違和感もない。
けれども、だ。
材木座が雪ノ下を敵視する理由について。彼女を悪者に仕立てあげて、倒すべきラスボスと配役した意味について考えてしまった。
確かに昨日の様子を思い出せば一方的に材木座が叩きのめされていたように見える。けれどもそれは果たして真実なのだろうか。本当に材木座は雪ノ下に叱責されて――相手にされてもらって敵意を抱いたのだろうか。それこそ倒すべき怨敵とするほどまでに。
材木座は自他共に認めるボッチである。それこそ女子からは敬遠されて、男子からも疎まれて。挙句の果てに俺にはめんどくさがられて、幽霊にも唾棄されて。
そんな男子高校生が少しでも声をかけてもらえた雪ノ下に対して敵意を持つだろうか。憎悪を抱くのだろうか。嫌悪に値するのだろうか、恩讐と成り得るのだろうか。
当たり前のように従い、当たり前のようについていき、当たり前のようにモブの配役として立った俺だが――果たしてそれは、その立ち位置は本当に正しいのだろうか。
疑問が次々と脳裏に浮かび上がる。そしてそういうときは大抵――舞台。
脳裏に浮かび上がるのはこのシナリオについて。今回の蜘蛛を倒すという御話は武家のお仕事であるが故に刀を持つ、ロールプレイをこなす材木座は主人公として違和感は覚えない。
なら――俺は? 本当に俺はただのモブでよかったのか?
これは侍が化物を倒す物語、退魔の御話。材木座にとっての良夢ならそれで何もおかしくはない。けれども俺にとっての悪夢というのなら倒されるべき悪役、敵役、やられ役なんてものは俺に相応しく。
決して雪ノ下雪乃ではない筈だ。むしろ雪ノ下なら。あの少女なら。
材木座にとって昨日の触れあいがプラスに捉えることがあったのならば、それこそヒロイン役に抜擢されてもおかしくない程に美しき少女。それが何故、仇役などに――
「――――は?」
だから間の抜けた声。遅れて間抜けな声が喉から飛び出る。
目の前の光景があまりにも荒唐無稽でありながら、油断しているとすればあまりにもお粗末で、材木座が主人公とするならばあってはならない展開。
奉仕部の扉から生えてきた棒――いや足だ。蜘蛛の足が扉を易々と突き破って、さらには材木座の胸を一突きして。
そして巨大な蜘蛛の足に貫かれた材木座は目を見開いたまま絶命していた。あっさりと、自信満々の表情のまま、何が起きたかも理解できずに。
そのまま廊下へ無造作に投げ捨てられた後に一度、二度痙攣しては完全に沈黙する。最後のひきつけはまるで魂が抜かれたかのようで。
即死。即ち死んでいる。既に死んでいる。即時に息絶えたのだ。
そして、蜘蛛の足は再び俺を目掛けて襲ってきた――。
※次回の投下は四月二十二日を予定しています