足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
人がひしめくテニスコート周辺。フェンス越しに集まるギャラリーの視線は期待たっぷりで。勿論の如く期待されているのは俺ではなく向かい側コートに居る男女二人。親にももう期待されない俺である、見知らぬ相手から期待されることなんてきっと無い。
『暇人、多すぎじゃない? そんなに興味がそそられる対戦カードなのかな?』
九音の呟きに小さく「それな」と同意を示す。幾ら葉山や三浦が人気者とはいえ人が集まりすぎではないだろうか。仮に俺が関係の無い第三者なら少し見ていこうなんて思わないほど、どうでもいい対決。
むしろ傍目から見れば単なる処刑。いや……、むしろ処刑だからこそ野次馬が集まってんのか。視点を変えて見れば少しばかり納得してしまった。
とはいえ俺の処刑シーンに興味満々なん自意識過剰だろう。集まっているのは大半が葉山隼人のファンというやつ。やけに黄色い声援、葉山に対する応援が耳に入ってくる。よくよく見れば同学年だけではなく、三年や一年も居る、そんな人気者に集る軍団は――うげぇ。
『うっわ、ウェーブとか始めっちゃったよ……怖ぁ』
九音の本気で気持ち悪いモノを見る視線。とはいえ俺も大差ない。理解不能な悪ノリに羞恥心を覚えてしまう。
どこまでも他人事、対岸の火事ではあるものの、そんな他人事で済むのはこの瞬間まで。
もうすぐ俺たちも巻き込まれる。問題の坩堝、その中でも極めて中心の方。断頭台へ上がる罪人のように執行は刻一刻と迫っているのだ。
「一応、部外者同士ってことから俺か、材木座だよな。どっちが出る?」
「我か……一応、庭球は全巻読破しているし、ミュージカルまで見にいった口だ。一日の長があると言えよう」
『言えねーよ、どの口で言うんだ、こいつ……死ねば?』
九音の呆れた声、俺も同じく呆れてバカを見るかのように材木座を見つめる。いやようなじゃなくてバカだったわ……。
「お前に聞いた俺が悪かったよ。あとテニスを漢字で言い換えたんならミュージカルもきちんと言い換えろよ」
「ほむん、さもありなん。ならば八幡が出るほかあるまい。ところで、だ……ミュージカルって何と言うのだ?」
「だよなぁ、俺しかいねぇか」
腹を括って周りを見回す。集まった人数に尻込みしそう。こんな観衆の前でテニスをしなければいけないとかどんな罰ゲームなんだよ。一流のスポーツ選手ですらホームとアウェーの勝率は異なるというのに、素人の勝負にそんなものを持ち込んだら萎縮して実力を発揮する前にビビって動けやしなくなる。
『やー、アウェー感満載だね。そもそも八幡くんにとってホームだなんて部屋くらいだからいつもどおりっちゃいつもどおり? 常にアウェーで戦ってきた君からしたら別に大した問題ってわけじゃないよね。それともビビっちゃってるの?』
意地悪く嗤う幽霊に鼻で笑う。今更すぎる、それにこんな出来事なんて怪現象に比べたら容易い。負けて死ぬわけではあるまいし、搔くのは恥くらい。恥の多い人生を送ってきてるんだ、今更一つや二つ増えたところでどうってことねぇよ。
誰にも聞こえないように小さく呟く。勿論、生きている人間で反応するやつは居ない。
『はぁー? なに、負ける前提で話してるわけ? 勝てばいいじゃん、勝てば!』
無茶言うなよ……相手を見てから物を言えと幽霊を見る。同じ意味合いを含んだ質問が材木座からも飛んでくる。
「ふむ、八幡よ。勝算はあるのか? あと、ミュージカルの言い換えって何だ?」
「うるせーよ。勝算なんかねぇよ、後言い換えできねぇんならキャラの方を変えちまえよ」
「なるほど、頭いいな」
素に戻って感心する材木座。欠片も嬉しくない。ついでにミュージカルの日本語なんて俺も知らねぇっての。
「ねぇ、早くしてくんない?」
そんな俺達に声をかけてきたのは女王様であった。ガットを手でいじりながら此方を睨みつけては急かす。予期せぬ人物がラケットを握っていることにより俺は目をパチクリと瞬かせる。
どういうことだ、と俺は王様を見ると王である葉山も驚いていた。いや、お前も驚いちゃうのかよ……。
「あれ? 優美子もやるのか?」
「当たり前だし、あーしがやりたいって言ったんだけど。それで揉めてんだからあーしがやるべきっしょ」
めっちゃ責任感あんな……姉御肌というか、もうヤンママとかそこら辺。
「いやー、でも向こうも男子が出てくると思うよ。ほらヒキタニくんとか。彼、かなり強いと思う」
いや、葉山、お前なんでハードル上げてくれるの、やめろよ。とはいえ葉山の説得に三浦は「へぇ」と、興味を持ったとばかりに此方へガン飛ばしてくる。まさに蛇に睨まれた蛙、ヒキガエルと化して身体を硬直させるが、その内心は竦んでなどいなかった。
むしろ邪悪な笑みが浮かんでいる。ククク……ッ、バカめ……ッ。
葉山隼人、サッカー部の大エースが出てくれば敗色が浮かんでくるがそこらへんでちゃらちゃら遊んでいる女子高生であるのなら負ける気などしない。さっきの由比ヶ浜ほどじゃなくても、ちょっと運動出来る程度なら軽く捻る自信はある。
お前らが去年一年、放課後にボウリングしてはイエーイとハイタッチしてリアリアじゅうじゅうしている間、俺は怪異に襲われてそのまま遺影となるところだったのだ。絶対に負けねぇ……。
『うっわ、だっさ、情けな……ちょっとちょっと八幡くん! 私は君のカッコいいところが見たいだけであって、そういう情けないところ今は求めてないんだけど! 君があそこのいけ好かない、自分ってイケメンですよね? とか勘違いしている葉山って男子をボッコボコにしてほしいんですけど! そうやってアイアムナンバーワンってイケメンっぷりを発揮してほしい! そもそも君はそれでいいの? あんなギャル相手に完勝したところで虚しくならない?』
ならない。
俺は九音の意見に全然と首を振る。むしろ負ける可能性よりも勝つ試合の方がいいに決まってる。何言っちゃってるわけ? 葉山に負けてみっともない姿を公衆の面前に晒すくらいなら、三浦に勝って女子相手に本気出してみっともないと思われる方がマシ。
それに女子の方が運動できないとか昭和の考えだろ。昨今の男女平等を考えるとそういう考えはよくない。例え体格差、筋肉量に違いがあってもそれは性差ではなく、努力の差でしかない。だから俺は一切、手を抜かない。
フッ、勝ったな、この試合。
「あ、じゃあ男女混同のダブルスでよくない? うそ、やだ、あーしめっちゃ頭いい! あ、でもヒキオと組んでくれる奴いんの? とか。マジウケる」
三浦の笑いがギャラリーに伝播してはドッと沸く。あからさまな嘲笑の的になった俺は卑屈に笑ってしまう。
『いや、笑い事じゃなくない? どうすんのさ』
それな。ほんとウケるわ。完全に勝つ気満々だったのに、三浦の会心の一手により形成は完全に逆転。こういう盤外戦術とか卑怯な作戦良くないと思うわ。もっと正々堂々するべき。
けれども俺が言ったところで覆らないだろう。幽霊の言う通り笑っている場合じゃない、本当に困った、心当たりがなさすぎる。
「あ、そーいえばなんかテニス部って女幽霊出るんでしょ? そいつと組めば? なんかヒキオらしくていいんじゃない?」
どこかで聞いたかのような話を口にする。なにそれ、と興味を持つギャラリーと三浦は談笑を始めていた。
「いや、あーしも詳しいことは知んないけど。なんかテニス部って女幽霊が出るって話聞いたことあんだけどー」
ふわふわと抽象的な話。聞き覚えがある生徒たちも居るようで、噂は集まり初めては盛り上がる。
ただ居るだけなのにな。けれどもそれだけで悪なのだ。気持ち悪いものを、不快なものを、理解できないものを囃し立て、揶揄い、非難する。
本当の話なら、居ると言知っているのなら。軽く扱っていい話題ではないにも関わらず、悼むべきで。けれども何も知らないから、信じてすらいないから、見えもしないから何とでも言うのだろう。
『私に肉体があれば、あんなこと言わせないのに……こんな奴ら、ワンパンで沈めてあげるのに』
いや、そこは俺のテニスに協力してくれよ。そこはダブルス組めたのにとかそういうことじゃねぇのかよ。完全に頭の中、野蛮人じゃねぇか、こいつ……怖ぁ……。
原始的解決方法が取れないことに臍を噛む九音を放ってどうするかと周りを見回す。
少なくとも三浦はテニスで俺には勝てずとも作戦面で俺に勝つようだ。こんなのお手上げ、効果が抜群すぎる。
「八幡、このままでは不味いぞ。お前を相手にしてくれる女子など皆無……お前を! 相手にしてくれる女子などッ! 皆無ッ! 見知らぬ女生徒に希ったところでボッチで地味な貴様に手を貸してくれるなど到底思えん」
なんで二回言ったんだよ、こいつ。んなこと、わかってるつーの。最悪、二対一でやるしかない。流石に二対一なら葉山も手を抜くだろう。その間にひたすら三浦を狙って点を荒稼ぎするしかねーな。
「比企谷くん、ごめんね……ぼくが女の子だったら良かったんだけど。ごめんね」
ほんとそれ。ほんとにそれな。なんで戸塚が女の子じゃねぇんだよ。神様バカでしょ。こんなにかわいいのに女の子じゃないとかどういうこったよ……。
いやいや、違う違う。そもそもが戸塚が女子だったとしても当事者であるが故に参加できない。あくまで戸塚は体裁だけでも中立を取り繕わなければなるまい。俺たちについたら前提が崩れちゃう。あまりの可愛さに錯乱してたわ。
『誰かに取り憑いたりできたら早かったんだけどね……ここいらで私、覚醒できないかなぁ』
その口から漏れ出たのはオカルト業界にありがちな御話、憑依のことだろう。
憑依、取り憑く、憑きモノ。人の肉体に生霊、死霊、動物霊が乗り移ることによってその人物を精神的、肉体的に影響を与える、操るといった御話。
世界各地に散らばっている御話は様々で。人格を塗りつぶす、一変するほどの影響を与えるなんてことも。有名どころで悪魔憑き、狐憑き、河童憑きなど。霊という存在には非常に縁深い御話。
ある意味、俺もこの悪霊に憑かれているという状況なのであるが、あまりにもこいつが俺を操ろうとする方法が原始的すぎる。
意見を通そうとする時は大抵がただをこねたり、すねたりして意思表示をする。あんまりにも人間くさすぎて他の幽霊さんたちに失礼。
一つだけ断言できるとするのなら、こいつからの何らかの影響を受けていたとしてもそれは――足山九音だからだろう。幽霊だからじゃなく、雑魚で、幽霊と呼ぶにはあまりにも騒々しく、それでいて恐ろしいほどに――。
『なんだよぅ』
なんでもねぇよ、と小さく答える。その答えが気に食わないのか背中に張り付いて『なになに? なんだよ、なんだよぅ! 気になるってば! 言ってよぅ』と姦しい。
やっぱ足山九音が幽霊なんて間違ってるわ。こいつがそんな大人しい存在であるわけがねぇ、自己主張強すぎ。じゃあ何なの? って聞かれたところで知らないから困るのだが。
さて、どうするかと視線をコート内部に戻す。二対一というプランが現実味を帯びてくる。挑発の一つや二つでもすればあの短気な女王様だ、乗ってくるに違いない。
そもそもが前提として間違っているのだ。テニスは別に一足す一が二に増える競技ではない。ましてや何倍にも膨れ上がるなんて素人同士では無理だろう。
むしろマイナス、葉山の足を引っ張るなんて想像に容易い。むしろそこを突く。勝利のビジョンが浮かび上がり――悔しそうにギャラリーを睨む幽霊を見る。
こんな催しに必要ない、と。こんなのお前が出る幕でもないと。
『……ぐぬぬ、覚醒、覚醒!』
此方の様子に気づく様子の無い幽霊。手をかざして覚醒と何度も呟いている。ビックバンアタックとか撃つ構え。覚醒する方向が完全に間違っている。殺す気満々じゃねぇか。
さて、と俺は振り返る。そこには葛藤している少女が居た。勿論、材木座も戸塚も悩んでいる。しかしながら種類の違う葛藤を抱える由比ヶ浜に向かって俺は必要ないと口に出す。
「それから、お前も出ようとか考えなくてもいいからな。ちゃんと戻れる居場所があるなら、そっちを守れよ」
俺の言葉の意味が通じたのかなどわからない。けれども聞こえていたのは跳ねた由比ヶ浜の肩から伺い知れる。俯いているから表情などわからない。そもそも顔を上げていたところで俺に由比ヶ浜の表情から本心を読み取れるのか怪しいもんだが。
戻れる居場所があるならそちらを。陽の中たる場所があるのならそっちを。ましてや雪ノ下が居ないこの状況でわざわざじめじめとした俺の、奉仕部未満ですらある此方側の味方なんてする必要も無い。
俺に由比ヶ浜のことはわからない。何に葛藤をしているのかなど予想でしかなく、知ったような、理解したような素振りで得意気に話すことなんて出来るわけがない。
それでも優しい女の子だ、心根が優しい処女なのだ。だからこの状況下で奉仕部の俺を天秤の上に乗せてくれるのだろう。けれどもその秤は間違っている。俺なんかが天秤の上で釣り合いが取れるわけないのだ。その幻想の荷重は由比ヶ浜の思い込み、優しさなんだろう。
だから降りる。天秤の上から。
俺には生きている人間で味方をしてくれるような仲のいい友人なんて一人たりとも居ない。それでもその事実を俺は恥じない、胸をはる。胸を張れる。堂々と生きていける。
みんな仲良くなんて薄ら寒い標語なんて俺には必要ない。俺以外の誰かが心に刻めばいい。そもそもが俺たちは寄せ集め。仲良しこよしの集団なんかで無ければ、オトモダチなんかでもない。仲間意識なんてものは欠片もなく、たまたま一緒に居ただけの一人ひとりの集合体でしかないのだ。
だから俺は一人でもいい。一人でも勝負を受ける。奴らが一人で居ることを悪だと、間違っているというのならそれは違うと証明したいだけ。一人と一体でも、一人きりに見えたととしても、例え他の誰かに見られていなかったとしても。
俺の一年間は決して目の前の集団には劣っていない。
平穏が欲しくて、生き延びることに安心して。いつもいつも危険ばかりで、救いの無い話ばかりで、悲惨さと悲壮さに溢れた御話に埋もれそうになったとしても。
決してこの一年間を不要だったなんて思わない。
まるで集団であることが正しいと、一人はバカだとせせら笑う奴らが待つコートへ。独りでも、中央を目掛けてゆっくり、と。
「――――る」
小さな、とても小さな声が。群衆の喧騒に掻き消えてしまいそうな、それでも風にのって幽かに聞こえた音に俺は振り返る。空耳かと疑うような内容に尋ね返してしまう。
「あ?」
「やるって言ったの!」
小さくうーっと唸った後に由比ヶ浜は真っ赤な顔をし此方を睨みつけてくる。
「いや、由比ヶ浜、お前……バカ、やめとけって」
「馬鹿じゃないしっ!」
「は? なに、お前、馬鹿なの? それとも俺のこと好きなの?」
度が過ぎる優しさについ皮肉気味に尋ねてしまう。けれど、その言葉は――。
「す、好きで悪い!? あ、あちち、違うからっ! そういう意味の好きじゃなくてっ! ゆきのんもヒッキーも好きって意味だから! ほんと何言い出すの! そんくらいわかってよ! 馬鹿じゃん! バァーカッ!」
混乱の極地に居る由比ヶ浜はバカバカと連呼し始める。近くにあったラケットをぶんぶんと振り回し始めた。ちなみに横を見れば材木座が死ぬほど恨みがましい目で見てきて、戸塚は苦笑している。
ぶんぶんと振り回すラケットを避けていれば――女幽霊が手でTの字を作っていた。
『……タイム』
競技は始まってすらいないのにタイムとか言い出し始めた。とはいえ、タイムと呟いた後に顔を伏せてプルプルプルプルと震え始めた。
『こ、こ、こっこっこっこっこぉぉぉぉぉぉ!』
なんで急に鶏のモノマネし始めてんだよ。ラケットを軽やかに避けながら鶏と化した九音を見つめる。
『こっこっこ、こ、こん、こんなの! ダメでしょ! 待って待って、タイムタイム! 八幡くんが独りで戦おうとする決意に私がしょうがないなぁとばかりにヤレヤレして新しい能力とか覚醒して助ける流れだったっじゃん! そこら辺のモブに憑依して私が八幡くんを助けるヒロインになる流れだったよね? そうだったじゃん!』
いや、それはお前の頭ん中だけだろ……。少なくともピンチになって覚醒するなんてご都合主義はこの一年間の酷い経験上、存在しないといえる。
っていうか、この性悪幽霊に乗り移られるとかその女の子が可哀想。少なくとも悪影響だらけの悪意塗れの悪霊に取り憑かれて性格が悪くなるとかあまりにもムゴい。
霊に取り憑かれて性格が変化するなど憑物譚にはよくある展開で。守護霊や背後霊によって性格も一変するという話は特段として珍しいことではないのだ。
そんなことを妄想していた女幽霊は天を仰いで、まるで魂が抜けるように呟いた。
『わ、わたしのかんぺきなひろいんむーぶが……』
完全に呆けきった幽霊はもう放置しておくこととして、問題は由比ヶ浜だ。
彼女の関係者各位の様子を盗み見ると視線がこちらへ集まっていることに気がつく。どこまで聞こえていたのかわからないが、それでも面白くないとばかりの視線。ちなみに材木座からも似たように面白くないとばかりの視線。お前、味方じゃねぇのかよ。
「いや、落ち着け、空気読め? もっとよく考えろよ、お前の居場所って別にここだけじゃねーだろ。ほら、向こう見てみろよ、グループの女子、めっちゃお前のこと見てんぞ」
「え? ウソ!? マジ……?」
頬を引きつらせながら恐る恐るといった体でゆっくりと首を動かす由比ヶ浜。まるで壊れたブリキのように錆びついた音を奏でながら振り向く様子はさながらホラー映画の一幕。
大体振り向いた先に居るのはやべーやつ。今回もジャンル的には似たようなもんであるが。
振り向いた先、恐怖に押し負けてなのか、好奇心に逆らえなかったのか。理由は由比ヶ浜にしか、いや由比ヶ浜にもわからないかもしれない行動の果て、視線の先には女子グループ。
女王様を中心としたグループ。その中でも特に中心人物とも言える三浦が目を細めている。アイラインやマスカラで大きさを強調している目が細められることで明らかに面白くないという表情が伺い知れる。くるくると縦に巻かれた金髪はドリルのようで、その螺旋をくるくると指先で遊びながら、足はトントンと貧乏ゆすり。
「ねぇ、ユイー、あんたさぁ、ソッチ側につくってことはあーしらとやるってことなんだけど、あんたそれでいいわけ?」
どすの効いた声。恐怖を煽る声色が由比ヶ浜に注がれる。
由比ヶ浜の指先は震えていた。それが表す感情は恐怖なのか、痛みなのか。ぎゅっと強く握られたスカートの皺。
恐れを抱いたのは由比ヶ浜だけではない、その光景を見ていた第三者もだ。見ていたギャラリーも、近くに居た筈の女子グループも、王様ですらその空気から目を逸らす。
それでいてことここに至って本当に他人事なのは未だに呆けている足山九音と――俺だけだった。
それこそ、どこか映画を見るかのように、目の前で、巻き込まれていながら、中心に居る筈なのに。テレビ越し見る修羅場のように見ていた。
だから――気づけてしまった。由比ヶ浜の息を飲む声が、振り絞る勇気が。口にするよりも前に。
「そ、そういうわけじゃない、って、こともないけど、さ……で、でも! あたし部活も大事! だから……だから、やるよ」
はっきりと告げられた言葉。紡いだ言の葉。言霊はっきりと意思表示をしていた。口に出したのなら飲み込めない。なかったことには出来ない。
そんな明確な意思表示を――ん?
「へー、そーなん。恥をかかないようにね」
言葉はそっけない。そしてあっさりと引いていった姿は――そして、最後に一瞬だけ見えた目を細めた表情は。
俺は字義どおりの無関心さを感じ取れなかった。むしろ、むしろ――言葉にするにはあまりにも色々な感情が見て取れた。
いや、俺の思い込みだろう。気のせいだ。頭を振って否定する。
「着替え。女テニの部室借りるからあんたも来れば?」
「う、うんっ」
テニス部部室に消えていく二人。ギャラリーはやべぇよ、やべぇよと騒いでいる。確かによくよく考えれば人目のつかないところに由比ヶ浜をよびだしたと見て取れなくも無い。
『……まぁ、大丈夫だよ。というか私的には大丈夫じゃない方が面白いんだけど』
九音の意見に同調するわけではないが、大丈夫だろう。というか、大丈夫じゃないのは俺の方。
なんか男子からも女子からもすごい目で見られてない? 特に男子からの視線は刺さるかのような代物が混じっている。
そんな中、王様はこの状況で苦笑しながら近づいてくる。
「あのさー、ヒキタニくん」
相変わらず間違っている名前を否定しようとも思えず、なんだよと視線で尋ね返す。
「俺さー、テニスのルールとかよくわかんないんだよね。ダブルスとか余計に難しいし、だからテキトーでもいいかな?」
「まぁ、素人同士だかな。卓球みたいに単純に打ち合って相手のコートに入れた方の点数とかでいいんじゃねーの」
「あ、それわかりやすいね。それでいこうか。ラインに関しては経験者である戸塚に判断してもらって、審判も戸塚に任せよっか」
葉山が爽やかに笑う。その笑みに対して俺も意味なく悪い顔でニヤリと笑う。審判を任せられた戸塚も交えて三人で最低限のルールを取り決める。
決まったルールは単純なもので十点先取で、デュースの場合のみ二点差がつくまで続行という曖昧なルール。テニスもどきのルールを構築しているうちに着替えに向かっていた二人が戻ってきた。
由比ヶ浜が頬を染めながら近づいてくる度に男子が小さくどよめいている。服装の乱れを、ピンクのポロシャツと白のスコートを抑えて歩く姿は普通に歩くより目立っている。
ふと横目で幽霊の着ているテニスウェア姿と比べるとその色合いの違いに気づく。てっきりこの幽霊は総武高校のテニスウェア着ているかと思えば全然違ったらしい。雑誌か、テレビか。情報源が不明のテニスウェアは黒を基調とした代物。紅の線と相まってどこかシャープな印象は強豪校と彷彿させる。
そんな見てくれだけは強豪校やプロの一員に見える女は由比ヶ浜を見ては憎々しげに言い募る。
『何だァ、コイツぁ……その歩き方、誘ってんのかよ。けっ、ぺっ、ぺっぺっ』
相変わらず態度の汚い女幽霊である。女の子ってこうさ? もっとさ。おしとやか? とかそんな感じじゃない? と夢を見ていた俺の女性観は既にズタボロ。欠片どころか粉と化している。
「て、テニスウェアって恥ずいし……なんかスカート短くない?」
丈の位置を歩く度に気にする由比ヶ浜。お前、いつもスカートとかそんな感じじゃねぇか、と突っ込もうと思うが、かがみ込む由比ヶ浜の様子に言葉はせき止められる。
緩いポロシャツの隙間、首筋の先から――。
『……八幡くん?』
声を掛けられた方向を見ればにっこりと笑う女幽霊が。いやいや、俺は今戦略練ってただけだから。
相手は葉山と三浦というコンビ。こうなれば三浦を狙うのは常道。男子と女子の運動量、体格差を考えれば自然で。葉山がサッカー部のエースという点を鑑みてもなお正しい。相手にするだけ損。ならば如何にも遊んでそうな三浦を狙うのは作戦として正しい。チャラチャラとテニスを楽しみに来たリア充など格好の的。スポッチャやなんやらでウェイウェイするのとは違うってことを俺が教えてやろう。
『それ以上見てたら目を潰しちゃうとこだったゾ』
可愛らしくきゃぴるんとばかりに甘い声で恐ろしいことを言う幽霊。背筋に氷嚢を当てられたかのようにぶるりと一震え。目は笑っておらず、ついでに口元も笑ってない。真顔なので怖い。真顔でそんな声使うんだからちょっとしたホラー。
「ねー、ヒッキー……これ、短くない? ない?」
未だにしきりにスカートを気にする由比ヶ浜。けれども九音に怯えていた間に俺は既にパーフェクトな答えを導きだしている。
褒めれば九音が怒り、下手に貶せば由比ヶ浜が怒る。故に俺はただただ事実を口にするばかり。
「いや、普段からお前のスカートそれくらい短いじゃん」
かんぺきな回答。褒めてもなければ貶してもいない。客観的回答を口に述べる。これこそが求められていた答え。またしても勝ってしまった。こういう状況で俺より上手に答えられるやついんの? ってレベル。
「はぁ!? な、なにそれ。い、いつもアタシのこと見てるってこと!? き、キモイキモイ! まじでキモいからっ!」
『はぁぁぁぁ!? なにいつもお前のこと気にしてるアピールしてんの!? 変態っ、変態っ、すけこましっ!』
ここまで言う?
俺のパーフェクトは完全に幻想だったようで。むしろ赤点。二人、もしくは一人と一体、一人と一柱、一人と一匹はこれでもかとばかりに責め立ててくる。由比ヶ浜に至ってはラケットを拾ってぶんぶんと振り回してくる。
「だ、大丈夫、見てねーから! 全然、見てない、眼中に入れてない! 安心しろ!」
「な、なんかそれはそれでやだし……それならもうちょっとくらい見てよ」
ゆっくりとラケットを下ろす由比ヶ浜。九音は何故か頷きながら『うんうん、こういうのでいいんだよ、こういうので』とか納得していた。どこ目線だよ、こいつ。
「ほむんほむん!」
するとそのタイミングで咳き込みなのか鳴き声なのかよくわからない言葉を口にいながら材木座が混じってくる。
『……こいつ帰ってなかったんだ。帰ればいいのに』
しらっとした視線を向けて九音は本音をぶちまけていた。完全にお邪魔キャラ扱いである。
「ふむ、して八幡よ。作戦の方はどうする?」
『なんでこいつが仕切るわけ? ほんと恥とか無いわけ? 息するなよな、二酸化炭素増えるでしょ。酸素が減るでしょ。空気が汚れるでしょ。せめて空気清浄機くらい自前で用意して』
ボロクソに貶す幽霊に苦笑を漏らしながら材木座の質問に答える。その場全員に伝わるように作戦内容を伝えることにした。
「まぁ、当たり前っちゃ当たり前だがペアの女子を狙うのが上策だろうな」
俺が口にした内容はおおよそ見当がついていたようで「さもありなん」と材木座。九音は『だよねぇ』と同意してきた。
ただ一人、由比ヶ浜をのぞいて。
「え? ヒッキー知らないの?」
きょとんとして目をパチクリとした様子で俺に問いかけてくる。何を知らないと――。
「優美子、中学の時に女テニで県選抜なんだよ。テニスめちゃ上手いし」
俺は由比ヶ浜が述べた言葉をゆっくりと噛み砕いて、そしてギギギと油をさしながら後ろを振り向く。そこにはフォームを確認している女王の姿。その隣には王様がしきりに頷いている。お前が教えられてんのかよ。
再び首を動かして各々の表情を浮かべれば九音は渋い顔で呟いた。
『こりゃ、無理かも』
あっさりと匙を投げる女幽霊。そして残る材木座は何故かニヒルに笑みを作っている。
「フッ、縦ロールは伊達ではないということか」
「あれ、ゆるふわウェーブなんだけど」
どっちでもいいっつーの。つーか、誰だよ、女子を狙えば簡単に勝てるとか、勝算があるとか言い始めた奴……。絶対に許さねぇ。
~~~~~~~~~
選抜。えりぬく、すぐりぬく、よりぬくと読み方、読み名は複数あれどその意味に大した違いは無い。
多数の中から優れたものを選び出すことを意味する言葉。そして県選抜といえば千葉県内の中から選びぬかれたという意味している。千葉県内のテニス人口がどれほどまでかわからない。そもそも公立中学校出身であろう三浦がやっていたのは軟式テニス、ソフトテニスである可能性が極めて高い。
ソフトテニスの人口といえば母数は限られてくるだろう。それなら何とか――等と甘い考えは切り裂かれた。
風を裂くかのように放たれた弾丸は俺の甘い期待をずたずたに引き裂き、俺の真横を過ぎ去る。前情報があったとはいえ、俺は未だ甘く見ていた。
キレイなフォームから放たれた弾丸は他所に意識を割きながら取れるほど生易しいものではなかった。
『うわぁ、これ……無理でしょ……』
幽霊が小さく呟いた声は現実味を帯びている。一対一の点運びから勝負の流れを確実に呼び寄せたサービスエース、格の違いを見せつけられた。
ギャラリーも小さくどよめきを上げて、ボールを放った女王は得意気な表情。いや、そんな顔にもなるわ……。
最初でこそ盛り上がっていたギャラリーも、俺がレシーブを重ねるごとに小さくなり、応援も歓声も水が差したかのように。
下馬評を覆すかのような俺の動きは意外だったのだろう。追っては返し、追っては返す。ただひたすらに続くストロークはギャラリー達が望んでいる期待を完全に裏切った。
裏切ることや期待ハズレは俺の真骨頂である。
葉山対俺のストローク対決は攻め急いだ葉山のミスにより俺に軍配が上がることに。そして二球目も同じような展開に陥り――今度は葉山のボレーが決まり点を取られる。
ネット際の角度のついたボレーは流石に拾うことができない。故に次からは相手の動きも予測しながらストロークをする必要があると脳内をアップデートしている途中に三点目はあっさりと奪われた。
今までの長いストロークは前座とばかりにあっさりと。
かくして拮抗していた天秤は向こうのチームに傾いた。それこそ俺や葉山ですら前座扱いできるほどのハイプレイヤーであったらしい。そんな三浦に対して俺は――。
「めっちゃ上手ぇじゃん……」
思わず漏れた呟きに反応したのは同陣営に立つ由比ヶ浜。
「だから言ったじゃん」
由比ヶ浜は自信満々にふんすと鼻を鳴らす。向こうのグループとの関係は未だにどうなっているかなどわからないし、部室でどんな話があったのかわからないが。少なくとも由比ヶ浜自身にはそこまで隔意があるわけではないらしい。
「……ってかお前さっきからぜんぜんボール触ってねぇだろ」
さっきまでの自信はどこへやら。きょどきょどと目を泳がせては止まってたははーと誤魔化し笑い。
「や、なんてーの? テニスはあんましたことなくてさー」
その言葉に俺は目を丸くして驚きのあまりにそのまま思ったことを口に出してしまう。
「は? お前、テニスしたことないのにやるとか言ったの?」
「むぅ、悪かったわね」
むくれる由比ヶ浜。いや、別に貶してねーよ、褒めてんだ。
むしろどこまでお人好しなんだ、こいつ。
ほとんどやったことの無い競技で更に相手は県選抜にサッカー部のエース。恥を搔くのなんて丸わかりで、それでも戸塚のために大勢の前で試合をするなんてどんだけいい奴なんだよ。
これで実はテニスが上手かったとかなら最高にかっこいいシチュエーションなんだがそうそう上手くはいかないもの。むしろ、参加してくれているだけで頭が上がらない。
そんなご都合主義なんてありもせず、実力差は明々白々。
『私が手伝おうっか? 私ならスーパーサーブも、スーパーレシーブもツイストサーブもドライブも回転かけ放題だけど』
背中にはり憑く女幽霊の提案に首を振る。冗談じゃない。確かにそうすれば勝てるだろう。けれどもここは日常だ、どこまでも日の当たる場所なのだ。
俺に不釣り合いな場所ではあれど、それを理由に非日常を巻き込んではならないのだ。
『……まっ、そうだよね。つーん、だ』
わかってたとばかりに呟き拗ねる幽霊。俺は転がっているボールを拾い上げてベースラインに立つ。そして二度ほどポンポンと跳ねさせては手にとり、手から滑らせてアンダーでサーブを打つ。
まっすぐと飛んでいくボールは葉山が難なく追いつき、返される。オイオイオイオイ――。
そういうことしちゃうのかよ!
葉山が返した方向は俺ではなく、由比ヶ浜。俺が取ろうとしていた戦法を葉山は躊躇いもなく選択した。
「あ、あわわわわ!」
速度のあるリターンを拾おうと由比ヶ浜は賢明にラケットを振るも掠りもしない。虚をつかれど、追いついた俺はボールを拾う。
「あ、ありがとヒッキー!」
由比ヶ浜の背後から影が伸びる。
伸びた影は三浦。延長線上には待ってましたとばかりに構えていたのだ。そして角度のついたボレーを逆サイドに決められれば俺に成す術もなく天秤はさらに傾く。
由比ヶ浜はしまったと表情に浮かべていた。そしてそのまま試合は一方的に。まるで水が流れるが如く点数が重ねられる。
ボードに六の字が刻まれた時に小さく「あぅ」と由比ヶ浜が呻いた。既にギャラリーの歓声も戻っていて、点数が挙がる度に歓声が。
『完全に狙い打たれてるじゃん』
九音の呆れも混じる声は由比ヶ浜を詰っているが俺は気にすんなと声をかけて定位置につく。
というか早い、早すぎる。
予定よりもかなり早い段階で葉山たちが由比ヶ浜への集中砲撃が始まっていた。わずか一点しかとっていないにも関わらず、攻略法を取られた。
最初に葉山相手に勝ったのが勝負を急がせたのか? いいや、そうじゃねーな。こんなポジティブな意味合いじゃない。そもそもが俺なんかにかまってる暇なんて無いのだろう。相手にするだけ損。相手にもしたくない。そんな感じ。
テニスでも嫌われものなのかよ、俺。
「……ごめんね、ヒッキー」
「謝んな、なんも悪いことしてねぇだろ」
それでも気にするのだろう。空っぽの言葉など、軽い言葉など何の意味ももたない。事実として対抗できていない俺たち、俺がその言葉を口にしたところで慰めになんかなりやしない。
九音が意地悪く笑っている。ほらみろ、私の力を借りてれば負けなかったじゃん、こんなことにならなかったじゃんと。いますぐ撤回するといいとばかりに。
悔しいことに事実だ。俺じゃあどうしようもない。濁流のような勢いに抗う術など持ち合わせていない。それでも俺のちっぽけなプライドが、融通の利かないルールが、譲ってはいけない線が。
足山九音の力を借りてはいけないと言うのだ。
いつも都合よく、嘘を囁きながら、利用していながら。事此処に至って拒否してしまう。オカルトを現実に用いてはならないと。
けれどもこの濁流は人の手によるものだから、人の手で解決せねばならないと強く思う。鯉が滝を登るかのように、その流れに抗うつもりでいる。
誰のために。俺のために。
負けるつもりだって無い。諦めているつもりもない。そんな物わかりがよければこんなことになっていない。この勝負も成りた合ってない。
けれども、ナニカ。何かきっかけが無ければ――この濁流に。
『……』
俺は流れを変えるためにアンダーサーブをやめる。上に放り投げて、ラケットを振りおろす。
――入った!
ストレートに入ったボールは先程より勢いを増すが――レシ―バーは葉山から三浦に変わっていた。渾身の一撃、今日一番のサーブは経験者によりあっさりと拾われて返される。
由比ヶ浜の横を抜けて返ってくる。
『……ほんと、君ってば私が居ないとダメダメなくせに。ほんと強がり。意地っ張り。八幡っぱり』
背後から聞こえる呟き。
『約束どおり、手は出さないよ、手は』
ボールが手元に来て打ち返そうとする瞬間に――耳元に囁きが。
『右サイド奥、がら空き。浮かせて打って』
ラケットを持つ腕、ボールが当たる瞬間――俺はストロークを返す場所を変える。
大きな円弧を描きながら宙を浮いたボールは、まるで幽霊のようにポンポンと。
まるで一人でそこに居るかのように。
遅れて近づいた足は既に二度、三度跳ねた後。
静寂が広がる。点が入ったにも関わらず今度は誰一人として声を挙げなかっった。
『完璧じゃん、私』
自画自賛、自己肯定。まるで自分の手柄とばかりに呟く声。表情など見ずともどんな顔をしているかなど丸わかり。渾身のドヤ顔を浮かべているに違いない。
『あれれー? おっかしいぞぉー? なんかさっきまで力借りないとか言ってたくせに、私の指示に従っちゃうだなんてぇ、恥ずかしくない? なーい?』
ニヤニヤと笑う幽霊に俺は小さく笑う。そして普通に言い返すならこう言おう。
俺もそこに打とうと思っていたんですが? と。
この状況に何もオカルトは存在しない。ありえない回転や、不思議はどこにも無い。だから幽霊の力を借りたなんて誰も信じない。言えば妄言、呼ばれるは救急車。
『くふっ、ふふっ、ふふふっ。ま、いいよ、それで。私が口だそうとした所は君も打とうと思ってたところ。そうであっても何の不思議もないよね。だってこの一年間を共に過ごした私達じゃん。それくらいのツーカーでも何の不思議もないよ』
背中に回された透明の腕。力を込めるかのようにギュッと強く回される。
『それじゃあ、急造の偽物コンビに本当の比翼連理ってものを見せてあげよっか。人間対人間、八幡くんに逆らう反乱分子をさっさと討伐しちゃおう』
んだよ、反乱分子って。九音の呟きに苦笑を零して構える。続く相手のサーブは三浦。相変わらず弾丸のようなサービスは一息たりとも気の抜けない。
『……厄介だね。さっきの虚を射抜いたせいで全体に意識いってる。生半可な球だと簡単に返されちゃいそう』
ボールに回り込んでストレートに打つ。けれども同じように回り込んだ三浦が対角線に。それを同じように打ち返す。
『……なるほど、それいいかも。ラリー勝負じゃ八幡くんに分があるね。一対一の勝負といこうか。あの金髪共に八幡くんのシコシコ見せてやろうぜ、シコシコ』
女ん子がシコシコとか言うんじゃねぇよ……。この幽霊が呟く言葉はテニス用語の一つ。
高い技術を必要ともせずに粘って、相手のミスを待つスタイルのこと。強打や華やかな技術を求められないスタイルは俺に向いていた。
伊達に壁と毎日仲良くしていたわけではない。回数を重ねるごとに正確になる返球。ただそれだけをモチベーションに練習していたのだ。ボレーや、スマッシュなど派手なプレイなど無縁で。
地味の中の王様。キングオブ地味、地味の中の地味を追求したそのスタイルは――少なくとも目の前の経験者相手に通じている。
いや、正確に言えば――息を切らし始めた女王様を見て上回っていることを実感する。少なくともこの一年間の間に死にかけて、必要として、鍛え上げて、それでも無駄だった体力が今回ばかりは役に立っていた。
『くふっ、見なよ、八幡くん。あの苦しそうな顔、くふふふっ、ぷくくっ、もうすぐミスしそう』
人の苦しむさまを愉しそうに見る悪霊。ろくでもねぇな、と感想を抱くが確かに向こう側で打ち返す三浦の表情は少し歪んでいた。それなりの速度のあるラリーの応酬である。仕方ないことと言えば仕方ない。
「優美子! 俺が後ろに――」
「いいからっ! 今、代わるミスるっ!」
大声で怒鳴りあう対面のコート。その様相を――。
『くーっくっくっく! 仲間割れぇ? 仲間割れしちゃうの? ぷぷーっ! おっと、八幡くん、相手逆サイド狙ってるよ? どうやら仕掛けてくるみたいだね』
いや、お前の笑い方邪悪すぎない?
中央に走りかけていた足を止めて、再び走り出し地点へ。
「……なっ!?」
三浦の顔が驚きに染まる。読まれたことに驚いたのだろう。確かに初心者の俺にそういった駆け引きは出来ない。そういった技術を身につけるにはあまりにも経験値が足りない。
いや、別に九音がいなくてもどうにか出来たし、なんならわかっていた。ほんとほんと、この幽霊に助けられたなんてことはない。
とはいえ、流石の性悪と云った所。駆け引き、トラップ、ブラフ。悪意に関してスペシャリストを名乗る足山九音を嵌めようなんて前提が間違っているのだ。どこを攻めてやろうとか、どこを突いてやろうだとか。性格の悪さなら一等賞を取る女に邪道は通用しない。
意表をつくために伸びてきたストレートのストロークを目一杯振り抜き、逆サイドへ。葉山も必死にラケットを伸ばすが届かず、走り込んだ三浦も間に合わずに点が動く。
六対三。一方的に流れていた勢いは立て続けに点を重ねて打ち切った。狭まった差は数字以上のものがあるかのように感じる。
「ふぅ……」
軽く息を吐いて整える。少しだけ出た汗を手で拭い、向こうのコートから渡されたボールを勝手にサーブへの定位置へ。
「ヒッキー、すごいじゃん!」
由比ヶ浜の声に適当な返事をしながら対面のコートを見る。三浦と葉山は集まって何がしかを話し合っていた。何か確認を獲っているのかもしれない。
けれどもその答えははっきりと解りやすい。レシーバーの位置に葉山が立つことで向こうの戦術がわかったのだ。
『……ありゃ、対応早い。というかプライドとか鑑みてももう少し余裕があると思ったんだけど。向こうのチームって意外と八幡くんを過小評価していないのかも』
九音の悩みの声にお前のせいだけどな、と小さく呟く。
体育の際に見せたあの動きを勘定に入れたのならこっちに対して油断なく対応するのも仕方ない。偶然とか、偶々だとか思ってくれている間に点数を重ねる戦略はどうやら取れないらしい。
前に出る三浦、中途半端なボールは打てない。いや、それどころかボレーやスマッシュを決められないようなボール運びをする必要がある。経験者が前に立つということはポーチするつもりがあるのだろう、ネット際の攻防を許してしまえば分が悪いどころか一瞬で決着がつく始末。
『ポーチやボレーって経験者じゃなきゃ難しいから前に経験者を置く。甘い球が打たれたら叩く気満々。自然とそうなればコースは限られてきて……うーわ、ガチじゃん……、素人相手に恥ずかしくないの?』
九音の言葉に半ば頷きながらも適応力の高さに恐れ慄く。
葉山相手だけなら何も問題ない。長々としたラリーはどうやら俺に向いているようで、しかしながらそこに些細なミスも許されないとなると話は変わってくる。
ポーチボレー。
後衛同士の打ち合いの最中に前衛プレイヤーが大きく移動しボレーを放つ。ポーチの意味合いは他人の領域に侵入する、密猟する、奪うという意味合いを含む。
本来なら意表を突くプレイではあるが――わかっていても決定打足り得る状況。
『シングルスなら勝てたのに……ムカつく』
呟いた言葉に苦笑が漏れる。まぁ、こんなもんかと自分に言う。別に敗北なんていつものことで。怪異に勝てない俺は日常でだって誰にも勝てやしない。
足山九音の手を借りても実力テストは総合二位、自分で気づかなかったミスを指摘されてケアレスミスをなくしても一番にはなれない。
テストのときのように素知らぬ顔で、わかっていたとばかりにお礼も述べずに書き直す。
『……来るよ』
コートに集中する。そして放たれた弾丸は葉山隼人の今日一番のサーブであった。同じように上から振り下ろしたサービスはコートの奥底に突き刺さろうとしている。
甘い球など返せやしないというのに。
ほぼほぼ反射的に拾ったボールは緩やかなロブを描いてコートの奥へ。そして余裕のあった葉山は勢いよく振り抜いて先程とは逆サイドへ。
センターラインに戻って、さらには逆サイドまでたどり着き返す――が、まずい三浦が不味い位置にいる。少し打ち上げては三浦の頭上を超えて葉山の下へ。
力なく揺れてたどり着くボールに、またも余力のある葉山が力を込めて振る。再び厳しいコースに弾丸が放たれる。
流石はサッカー部のエース。顔もよくて、みんなから人気があるだけはある。スクールカーストの頂点に立つ男はことここに至って一段とギアを挙げてきた。
それが本来の実力なのか、それともこの勝負の中で培ったものなのかは判断がつかない。それでも最初よりかは遥かに鋭く、エグいコースに放たれる。
バックハンドで打ち込むもののそのコースは――。
待ってた、とばかりに緩いボールは前衛が打つには絶好の機会。
わかっているにも関わらず打ち込むしかなかった。故に足は三浦が狙えるコースへ向かって走る。角度のついた最奥。滑り込むように追いつき、飛び退りながら何とか拾い上げる。
拾い上げた球は――力無く宙を浮く。誰にでも判るチャンスボール。俺はすぐさま反転し、地に片手をついたまま体制を立て直す。目を見開いていた三浦に対して来るなら来いとばかりに体制を立て直して。
けれども、いつだってそうだった。
当たり前だった。俺は中学から今日に至ってずっと振られ続けたのだ。そんな無視されるのが当然な俺にボールを打つ筈もなく――三浦は体制を傾けて由比ヶ浜の方向へスマッシュを叩き込む。
勢いよく刺さる球は由比ヶ浜の真横を通り抜ける。けれども、諦めていたのは俺だけで、由比ヶ浜は欠片も諦めちゃいない。既に通り過ぎていて、背後でポンポンとハネて音を立てて。それでも振り抜いて、空振ったラケット、そして足を縺れさせて転んで。
嘲笑が沸く。クスクスと嫌な嗤いが、見下したような笑みが、馬鹿にしくさった声がコートの中に響き渡る。
「……無事か?」
お互いがこけて無様を晒したコート内。笑われるなどいつものことで、馬鹿にされるのも、嫌われるのもいつものこと。
しかしながら、俺だけの話で一緒に由比ヶ浜も笑われるのはどこか違う気がする。
「超怖かったし、恥ずい」
由比ヶ浜の言葉に三浦の視線は一度こちらを伺うかのように。けれども俺が見ていると知るやいなや逸していた。それでいて逸らした先のギャラリーは笑いをやめると言うのだから、一体俺たちは何と勝負していたのか忘れてしまいそうになる。
『ぷーっ、クスクス! だっさぁ!』
ちなみに一番笑っていたのはこの女幽霊。腹を抱えてゲラゲラと笑っては笑いを切るかのように一息つく。
『はー、ほんとダサダサだよねぇ。ダサいし、役にた立たないし、挙げ句の果てには空振ってこける』
だから、と九音は付け加えた。まるで別の方法があるとばかりに。
『こんな奴、さっさとベンチに引っ込めたほうがいいよ。どうせ、いまのでビビって見世物にするにも哀れだしね。だからさっさと下げちゃえ、八幡くん』
違和感を感じた。こと由比ヶ浜のことなどどうでもいいと言う九音がこうやって口を出すことに。
いつものように悪口に塗れた言葉は何か意味があるかのようで。
だが、九音の言うことにも一理ある。正直、勝ちの目はほとんど見えない。それこそ性悪幽霊が歪な回転をかけない限り、正攻法での勝ち筋は完全に潰えた、どうせ負けるのなら、オレ一人でいい。
それにこの観衆の前で土下座の一つや二つすれば流石に人の目がある以上向こうも折れるだろう。そうすれば今の嘲りもそのまま俺にスライドするだけで。
笑い話で終わればいい。そもそも土下座なんぞ俺にとって何のダメージにもならない。むしろ謝るだけで有耶無耶に出来るんだから実質俺の勝ち。
「優美子、マジでお前性格悪いな」
聴衆の前で葉山が三浦をからかう。
「はぁ!? こんなの試合じゃ普通だし! あーしそこまで性格悪くないし! それにヒキオが――何でもっ、無いっ!」
じゃれ合う二人の様相に笑いの形が変化する。嘲笑から和やかなムードに。そのやり取りが意識的なのか、無意識的なのかはわからない。けれども由比ヶ浜が嗤いの対象でなくなったのは確か。
「ヒッキー、絶対に勝とうね」
そう言って由比ヶ浜は立ち上がろうとするが――瞬間、小さな「いったぁ」という悲鳴が耳に入った。
『……』
俺は九音の方向を見る。先程の違和感が氷解する。こいつは多分知っていたのだろう由比ヶ浜の怪我を。だからしきりに下げろと言ってきていたのだ。
『……怪我してるんなら黙ってベンチに下がればいいのに。八幡くん、君が気に病む必要なんて無いんだからね。その女が勝手に参加して、勝手に転んで、勝手に怪我しただけなんだから』
別に気にするかよ、んなこと。小さく呟いてから由比ヶ浜に近づく。
『……嘘つき』
元気無く詰る幽霊。いつもの煩いくらい責めたてる様子と異なり調子が狂いそう。そんなことを頭の片隅に置きつつ由比ヶ浜に怪我の様子を尋ねる。
「おい、大丈夫かよ……」
「ごめ、ちょっと筋やっちゃったかも」
照れ笑いを浮かべる由比ヶ浜。はにかんだ笑いに小さくたまり始める涙。
「ねぇ、もし、さ……もし、負けちゃったら、さいちゃん、困る、よね。あー、やばいなぁ……このまま謝っても、すまない、よねぇ……あーもう!」
悔しそうに呟いて、唇を噛み、俯く。表情なんて見せたくないという意思に従い、そっぽを向く。それでも由比ヶ浜の言葉――諦めたくないと叫んだ言葉が耳の中に残る。
まるで自分一人で背負っているかのようで、負けたら自分のせいとばかりで。
俺は振り向いて少ししょんぼりとした幽霊の顔を見る。なんでこいつはこんな顔してるんだ。
『……何?』
何じゃねぇよ、どいつもこいつも簡単に諦めやがって。まだ負けてねぇだろ。俺は今しがた思いついた打開策を聞かせてやるとしよう。。
「いいか? 別になんとかなる。最悪、この後材木座に女装させればいい」
「一瞬でばれるよ!?」
『き、気持ち悪っ!? なんつーこと言うのさっ!』
不評であった。俺も言っておきながら気持ち悪くなった。
「まぁ、由比ヶ浜は逆の手でラケットを握っているだけでいい。あとは俺がどうにかしてやる」
「勝てそうなの……?」
『……使う?』
二人の言葉に共通する答えを首を振ってから意思表示。正攻法じゃ既に格付けは済んでいる。比企谷八幡は足山九音の助言を貰ってもリア充には勝てない。
ならば正攻法じゃなければいい。
「いいか? テニスには古来より禁じ手が存在する。その名は『ラケットがロケットになっちゃった』だ。教室でペンを飛ばすような俺だ。ラケットを飛ばしても何もおかしくない」
「ただのラフプレーだっ!? しかもこの前のことちっとも反省してない!」
「まぁ、最悪本気出すわ。俺が本気出せばそこいらに居る奴らの面前で土下座くらいするのは容易い。なんなら靴も舐めれる。そこまですりゃ許されるだろ」
「斜め上に本気すぎる……」
呆れたようにため息を吐く由比ヶ浜。そしてクスクスと笑い始めた。怪我が痛いのか、笑いすぎて涙が出たのか。それとも違う理由か。潤み、真っ赤になったあ瞳をこちらに向けてくる。
「やー、ほんとさー、ほんと、ヒッキーって頭悪いしさー、性格も悪いし、諦めも悪いって最悪だよね……。ほんと。その上、挙動も不審で時々変だし。一年の頃からずっと。それにあんときだって……諦め悪くて、馬鹿みたいに全力でさ、キモいくらいに声出してさ……ほんと、バカみたい……でも、あたし、覚えているから」
瞳が物語る。覚えていると語りかけてくる。
けれども俺は由比ヶ浜が何の話をしているのかさっぱり理解できなかった。
「あたしじゃ……ダメかなぁ、ダメ……だよね」
そう言って背中をくるりと向けてコートを去っていく由比ヶ浜。戸惑うギャラリーを押しのけて、コートから消えていく。その背中を止めることは出来ない。これ以上、優しさにつけこむことなど出来やしない。
俺はコートの中にあるボールを拾い、葉山たちに声をかけようとしたところで後ろから聞こえる。
『……使わないの? わたし、必要、ない?』
随分遠くから言うもんだ。背中に張り憑いているのが当たり前の幽霊がしおらしく呟いている。なに、こいつまで弱気になってんだ、と鼻で笑う。たかだかお遊びじゃねぇか、こんなのごっこ遊びでしかないのに。
こんな【日常】の出来事で。何をそんなに。
『……だって、コレ、チャンスじゃん――』
どういう意味か尋ねようとした瞬間、ざわめく。不意にギャラリーが湧きだち――そして中央から真っ二つに割れる。その中から現れる。まるでレッドカーペットを歩くかの如く。
正中を堂々と歩く様はまるで主役。そしてそんな主演女優は不機嫌そうに目を細めて、怪訝そうに尋ねる。
「この馬鹿騒ぎは何かしら?」
どこまで怜悧に、どこまでも冷たく、それでいて片手の中には救急箱を握っていて。
ようやく。ようやく、雪ノ下雪乃がテニスコートへ戻ってきた。
※遅くなってすいません。楽しんで頂けると幸いです。
※次回投下は未定です