足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

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暮春【脚本】

 

『ほんと、気分悪い……』

 

 九音の雪ノ下を見つめる目には憎悪が篭っていた。

 

『最悪、ほんっと悪辣。こんな主役みたいに登場して。せっかく私と八幡くんのコンビだったのに。堂々とさ、ほんと、腹が立つ……腹立つのに、これで勝ち目が見えるってんだから尚更ムカつく』

 

 九音の言葉に引っかかりを覚える。雪ノ下――確かに由比ヶ浜に比べればマシではあろうが、俺は雪ノ下がどれほど運動できるのかなんて知ら――。

 

『……わかるじゃん。奉仕部に入って腑抜けたの? それとも春になってから怪異に大したダメージ貰ってないからボケてるの? 最近死にかけることが無かったから腑抜けてる? ともかくっ! そんな腑抜けた子に! 私は! 育てた覚えはありませんっ!』

 

 なんかヒス気味に叫んでやがる。め、めんどくさぁ。

 

『あ、今! 私のことめんどくさいって思った! 絶対に思った! どうして八幡くんはそうなの! 私のこと一番に考えて! 浮気しないでっ! ちゃんと一日百回くらい好きって言って! 毎日言って』

 

 先程までのしおらしい態度とは何だったのか。いつものようにぎゃーすかと喧しい。

 

『その女がそこそこテニス出来るのなんて丸わかりじゃん!』

 

 言うほど、そうか? と考え込むが――確かに心当たりは思い浮かぶ。根本的な話をすれば今回の依頼、テニスに纏わる話は「戸塚のテニス技術向上」が目的だ。

 

 そしてその相談を受けた際に雪ノ下は「戸塚のやる気次第」と言い切ったのだ。出来ないではない、あくまで戸塚の気持ち次第だと。

 

 確かに死ぬまで走らせ、死ぬまで素振りさせて、死ぬまで練習させるという言葉は戸塚のやる気が問われる。それだけやれば上手くなるなんて想像に容易い。けれども本質的に、だ。人に教えるには自分が技術を持っていなければならないのだ。

 

 魚の釣り方を教えるには――釣り方を知らなければならない。もしも雪ノ下にとって専門外であったならばもう少し躊躇うはずなのだ。由比ヶ浜の挑発に乗る負けず嫌いである、挑発されたがゆえに引き受けた、という側面も考えられるだろう。

 

 だが、挑発をされるよりも前に雪ノ下は戸塚次第だと言い切ったのだ。つまりその裏には明確な自信が存在する。

 

 少なくとも戸塚よりは上で。戸塚だけではなく現役弱小テニス部部員よりも上との自負。

 

 向かいのコートに居る県選抜ほどではないにしろ、それでも少し齧った程度の人間を指導できる自信があるのだろう。俺は雪ノ下に近づきチグハグな格好について尋ねる。

 

「……その格好は?」

 

「……これは由比ヶ浜さんが着てくれって言うから」

 

 歯切れ悪そうに格好について答える雪ノ下。中途半端な格好が気になるのかしきりにスカートをに目を向けている。そしてひょっこりと雪ノ下の背後から顔を出したのは由比ヶ浜。

 

 由比ヶ浜の格好はコート去った際のスコート姿ではなく制服。しかもサイズがあってないらしく、自己主張する部分が視覚の暴力と化している。

 

「このまま負けるのはやな感じだし、ゆきのんに出てもらうだけ」

 

 由比ヶ浜の言葉に雪ノ下は眉間の皺を抑えながら「なんで私が……」と呟いていた。

 

「だって、こんなの頼める友達ってゆきのんしか居ないし」

 

 由比ヶ浜のストレートな物言いに雪ノ下の肩が小さく跳ねる。

 

「とも、だち……」

 

「うん、ともだち」

 

 まるで聞き慣れぬ言葉を大事にしまうかのように呟く雪ノ下に対して由比ヶ浜は怖気づくことなく肯定した。

 

 生きてる友達なんて居ない俺からしてみれば眩しくて目を背けてしまう光景。だから皮肉気味についつい要らぬことを呟いてしまう。

 

「……友達にこんな面倒なことを頼むか? なんか都合よく利用しているような」

 

 俺の皮肉気味な言葉に由比ヶ浜は驚いた表情をして心底不思議とばかりに口にする。

 

「えっ? 友達じゃなきゃこんなのお願いできないよ。どうでもいい人に大事なことをお願いなんてできないから」

 

 まるで当然とばかりに微笑みながら答える。嬉しそうに、楽しそうに、誇らしそうに。

 

 一人で居ることは間違っていない。俺はそう思う、たしかにそう思っている。一人で立つことを立派だと思っていれば、誇らしくも思う。

 

 けれど対極にある由比ヶ浜の理に俺は小さく参ったと呟く。

 

 そうなりたいとも思わないし、マネなんて到底出来ずに、仲間になんてなれなさそうだが。そちらはそちらで正しいと思ってしまう。むしろ由比ヶ浜の言葉だからこそ、それは正しいのだと。

 

 都合のいい人間関係を、友だちになんて言葉にかえて利用するほどの智謀を持ち得ない由比ヶ浜の言葉だから。こいつは本気でそう思っているんだと納得できる。

 

 だから、苦笑を零して雪ノ下に言う。

 

「なぁ、そいつは本気で言ってると思うぞ。バカだから」

 

「はぁ!? バカってなんだし! バカって言う方がバカなんだから、バァーカッ!」

 

 語るに落ちる自己紹介なんだよなぁ。俺と由比ヶ浜のやり取りに止まっていた雪ノ下が再び動く。

 

 知らない単語を聞いて完全に処理落ちしていた雪ノ下は再起動しては勝ち気な笑みを浮かべて、髪の毛をさっと払う。

 

「比企谷くん、あまり私を舐めないで頂戴。貴方や私に優しく出来る人間が悪い人なわけないじゃない。人を見る目はあるつもりよ」

 

 雪ノ下の言い分は正しい、正しいが――。

 

「理由が悲しすぎんでしょ……」

 

「けれど、真理よ。それとテニスするのは構わないけど、少し待っててもらえるかしら」

 

 雪ノ下は確信めいた発言の後に審判席へ。そして手に持っていた救急箱を戸塚に渡す。

 

「傷の手当くらいならば流石に自分で出来るわよね?」

 

「え、う、うん……」

 

 受け取った戸塚は躊躇いながらも手に取り、ありがとと小さく呟く。そんな様子を眺めていた由比ヶ浜は感激したようで。

 

「ゆきのん……えへへ、やっぱゆきのんって優しいよね」

 

 戻ってきた雪ノ下に由比ヶ浜は和やかに言い放つ。けれども雪ノ下は首を傾げてこちらを見ている。何だよ……?

 

「そうかしら。どこかの男は雪女扱いしていそうだけれど」

 

「な、何故、それを――はっ!?」

 

 二人のしらっと視線に明後日の方向へ目を背ける。

 

『完全に墓穴なんだよね……』

 

 いや違う。今のは高度な誘導尋問だった。俺が悪いというよりも雪ノ下が上手かった。多分、そう。

 

 そんな雪ノ下はいつものようにこめかみをグリグリともんでいる。なんでそんなに頭痛がするのだろうか、持病?

 

「何故、墓穴を掘るのか理解できないわ……けれど」

 

 雪ノ下は小さく付け足す。何故か目も逸らして、ナイショ話をするかのように耳に口をつけて小声でこしょこしょと。

 

「べ、別に貴方が雪女扱いしてくれるのは構わないわ。ちゃんとお嫁に貰ってくれる?」

 

 小声の呟きをはっきりと聞き取ってしまう。なんだ、このかわいい生き物。――殺気!? 

 

『なに、デレデレしてんの?』

 

 いやしてないしてない。してないから。ぜんぜんしてない。恥ずかしそうに雪ノ下がお嫁にもらってくれる? と自信なさげに尋ねてくるのにデレデレしたなんて風評被害。一瞬でもこんな子に殺されるのは本望かもな、男にとって。と思ったが俺はセーフ。それは大多数の男子の意見であって俺の意見では無い。ほんとにほんと。俺がお前に嘘ついたことあるかよ。見ろよ、この純粋無垢な目。真摯な瞳を。嘘をつくと思うのか?

 

『……じ、じっと見つめられると照れる。わ、私が可愛いのは知ってるけど、そんなまじまじ見つめたら困っちゃう! 照れる』

 

 欠片も俺の弁明は伝わってなかった。まぁいいか、有耶無耶になったのなら。

 

 それにしても――とコートを見回す。空気が変わった感覚。雪ノ下が登場したことにより先程までの下がりつつあった雰囲気は払拭された。

 

「由比ヶ浜さん、とりあえずこの試合に勝てばいいのでしょう? あなたの依頼、引き受けるわ」

 

「うんっ! やー、あたしじゃヒッキーを勝たせてあげられないから。ゆきのんなら」

 

「えぇ、問題ないわ」

 

 自信満々に言い切る。そして点数差を眺めては顎に手をあてて考え始めた。俺はその様子を見て、周りを見回す。

 

『どったの? 八幡くん……?』

 

 何でもないと首を振る。何か違和感が――まるで非日常に居るかのような違和感を感じたのだ。まるでナニカ見落としているかのように。

 

『問題ないでしょ、後はあの王様をコテンパンに負かすだけじゃん』

 

 そう、問題は無い。何も無いはずなのに――ベッタリと。こびりついた嫌な感覚は慣れ親しんだ代物。

 

 雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、材木座義輝、戸塚彩加。そして向こう側の葉山に三浦。ぐるりと首を動かせばギャラリーの数々。

 

 ほぼ面識の無い俺はその人物の顔を見たところで何も判別はつかない。一年らしき少女達に、昼休みにジャージを着ている生徒もいれば、この後なにかあるのかバスケ部のユニフォームを着たままこ男子に若草色のサッカーユニフォームを着た男子。現在の女幽霊や雪ノ下、三浦と同じように寒色系統テニスウェアを着ている少女も居る。しまいにゃ、やいのやいのとはしゃぎ倒す男子二人組もいれば、テニスを本当に見ているのか怪しいイチャつく男女の集団も居る。

 

 あぁ――これじゃない。

 

 もっと根本的なものだ、何かを見落としている。人なんかじゃない、そもそも――。

 

「雪ノ下サン? 悪いけどあーし、手加減できないから。オジョウサマなんでしょ? 怪我しないうちにやめたほうがいいと思うケド?」

 

 こんだけ集まったギャラリーの前で堂々と雪ノ下に宣言する三浦。けれどもそんな宣戦布告に対して我らが部長は勝ち気な笑みを引っ込めることはない。

 

「私は手加減してあげるから安心してちょうだい。その安いプライドが砕けないといいわね」

 

 好戦的だった。見栄えのいい二人がバチバチと火花を散らし合う様子にギャラリーも盛り上がる。

 

「それに、随分と私のと、とも……だぃと想……び……をいたぶってくれたわね」

 

 雪ノ下の一部だけやけに聞き取り難い部分に三浦は「……?」と表情を浮かべている。

 

「は? なんて?」

 

 そのツッコミに雪ノ下は顔を赤くしてプルプルと震えてキッと顔を上げて睨みつける。その様子に一歩と三浦はたじろいだ。

 

「……随分とうちの部員をいだぶってくれたようね。あなた、覚悟はできているの? 念のために言っておくけど、こう見えても私は根に持つタイプよ」

 

 言い放った雪ノ下はくるりと背を向ける。それに対して三浦も鼻を鳴らして定位置へ。

 

 最後に幽霊がその光景を眺めて呟いた。

 

『うんうん、これで――準備はすべて整ったね。後は勝つだけだよ、八幡くん』

 

 愉しそうに言う幽霊。その様子は嬉々としたもの。先程の不機嫌やしおらしさなど欠片も残っちゃいない。

 

『じゃあ、征伐と行こうか』

 

 誰にも見えないラケットを敵コートに向けて、軍配で指揮するかのように足山九音は言い放った。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 雪ノ下雪乃がコートに立つ。たったそれだけのことで歪な熱狂が渦巻く。見学に来ていた男子生徒は勿論のこと、女子生徒の注目だって集まっている。昨今、噂になっている一つの話がその歪な光景を後押ししていた。

 

 ――雪ノ下雪乃には想い人が居る。

 

 たったそれだけの話で視線は集まる。相手が誰なのか、真偽はどうなのか。そんなものに興味が寄せられ、視線は集まり、好き勝手に話される。話と成る。

 

 そんな想い人の最有力候補は俺――では勿論なく、対面のコートに立つ男。校内有数の色男である葉山隼人。

 

 そんな二人がネットを挟んで対立しているのだ。あらぬ妄想、要らぬ空想、不要な噂話が囁かれる。

 

 勿論、そんな色男と噂になっているのだ。雪ノ下に集まる女子生徒の視線は好意的な代物は少なく。悪意、敵意、憎悪と云った類の代物が大勢。

 

 そして最もその感情が強いのは対面のコート、葉山の後ろでサーブを打とうとしている三浦であった。

 

「あんさぁ、雪ノ下サン知らないだろうケド、あーし、テニスめっちゃ得意だから」

 

 テニスボールを下に叩きつけては跳ね返り掴む。淀みの無い仕草に獰猛な笑み。つい最近、襲いかかる寸前の獣は笑うのだと思い知った俺はその笑みが友好目的で浮かべられているとは思えない。

 

 むしろ牙むき出しの獣にしか見えない……怖ぇ。

 

「顔に傷ができちゃったら、ごめんネ?」

 

 怖ぇわ……。いや、もうなんか感想が怖いしか浮かばねぇわ。というか葉山があんだけ近くに居るのに猫かぶるとかしねぇんだとか、俺じゃなくても大抵の男がそのセリフにヒクんだと思うんだけど大丈夫か、ソレ? とか。

 

 そんなことをつらつらと考えているうちに――サーブが一閃。横を高速で通り過ぎていったボールは。

 

 アウトラインギリギリ。

 

 外に広がるように跳ねたボールはビビっている俺がレシーバーだったのなら追いつけなどしなかっただろう。

 

「……甘い」

 

 ほんの少し漏れた言葉。風にのって微かに飛び込んできた小さな呟きは雪ノ下の行動により証明された。

 

 利き手とは逆方向に広がるボールに追いつき、そして勢いのあるバックハンド。ワルツを踊るかのように身体を回転させ、全身の螺旋で返球されたボールは三浦の足元に突き刺さる。

 

 居合抜きと錯覚するほどに鋭いバックハンドは完璧なリターンエースと化す。

 

『えぇ……いや、えぇ……?』

 

 九音がどん引いている。かくいう俺も。そして呆然としているのは俺だけではなく対面のコート、サーブを打った三浦も同じだった。

 

 そりゃあ多少の心得があるとは思っていた。けれども此処までとは想像していなかった。

 

 仮にも県代表の実力がある女のサーブを難なく返す――いや、それだけじゃあない。むしろ寸前に行われた三浦の危険球予告。少しでも頭に入っていれば身体の中心に意識は向くだろう。そこから放たれた鋭く外へ広がるサーブ。

 

 虚を混ぜた渾身の一球。勝利をもぎ取らんと熱の篭った一球を、一瞬にして冷ます。熱も、熱意も、熱気も。何もかもを奪い去る。

 

「あなたが知っているとは思えないけれど」

 

 俺が雪女扱いした女は冷笑を持って砕く。

 

「私もテニス得意なの」

 

 ラケットの突きつけて、三浦の発言をそのまま返す。あまりにも冷たく、冷ややかな笑みに気圧された三浦は足を一歩引く。怯えと敵意が混じった視線が雪ノ下に注がれるが言葉は返ってこない。

 

 口元だけが小さく動き、吐き出された呪詛は誰にも届かぬ遠吠え。今の一球だけで完全に格付けがついた。

 

 俺は向こうから乱暴に投げられたボールをラケットで受け止めて、雪ノ下へ渡す。ついでに今のリターンに関して率直な感想を口にした。

 

「よく返せたよな、今の……」

 

「簡単よ、だって彼女……私に嫌がらせをしてくる女子と同じ顔をしていたもの。大体、そういう下種な考えというものはお見通しよ」

 

 得意気に話す雪ノ下。理由が悲しすぎる。嫌な経験則もあったもんだ……とはいえ、そういった読み合いというのならうちの幽霊も得意である。こいつならどうしたんだろうか?

 

『んぇ? 私? んー、私なら無駄に嘘をつかないからね。顔面狙うっていったら顔面シュート狙う。有言実行できない辺りあの女王様も小物だよね。ボールが返されたなら返した瞬間を狙ってラケットをロケットにすればいいのに』

 

 邪悪極まりない女であった。此方も此方で得意気な顔。それを得意といえる辺り多分出身が蛮族とかそこら辺。

 

 雪ノ下の実力を目の当たりにして一気に光明が広がる。そして始まる雪ノ下の猛攻。

 

 五点、六点あっさり点数が重ねて追いつけば、さらにそこから七点目を追加して逆転。圧倒的なまでの実力者。攻めも守りにも隙はなく、打球を返すごとに男子生徒から小さな歓声と感嘆の息が漏れる。

 

「ふはははははっ! 圧倒的ではないか、我が軍は!」

 

『死ねよ』

 

 その中でも一際大きな笑い声に女幽霊は反応した。負けて嘲笑の的になろうとしていた瞬間に息を潜めていたそれは、勝ち筋に乗った途端に現れた。

 

 勝ち馬に乗るが如く、活気を取り戻して高らかな笑い声をあげるのは材木座義輝。乗っかられると眉間にシワが寄りそうな体格の男が声高々に勝利宣言をしていた。

 

 だが材木座が調子づくのも無理はない。今までの漂っていた負けムードが一変し、俺と由比ヶ浜がテニスをしていた時に漂っていたアウェー感も薄れている。特に男子からの熱視線は雪ノ下へと集まっていた。

 

 足山九音を持ってしてもヤバイ女扱いの雪ノ下。その本性を知っている人間は少ない。一般科とは異なるクラスに籍を置く少女である普段からも高嶺の花扱い。

 

 ましてやあの美貌である。そこに学業が優秀で――さらには運動神経も抜群ときた。

 

 神秘的で魅力的で。そんな雰囲気を纏っているからこそ現れた。怪人が――想いが。一般の男子生徒が絡んだだけでそんな事件が起きるのだ。

 

 だからこそ、だからこそ――今回のMVPは由比ヶ浜なのだ。

 

 人が相手どるにはあまりにも高嶺の少女を考えなしに軽々と手を伸ばした。伸ばした手は何も知らなければ蛮勇にしか見えない、知っていても考えなしにしか見えない。

 

 底なしに考えなしのお人好しだから雪ノ下を動かした。故に今現在の雪ノ下のプレイは由比ヶ浜から託された思いの形なのだ。

 

 俺じゃあきっと出来ないことだった。雪ノ下に頼み事など出来ない俺には決してありえない結果だった。

 

 コート内の主演女優が雪ノ下なら最優秀助演女優は由比ヶ浜。俺と言えば多分、モブとかきっとそこら辺。これだけ頑張ってもその辺りだから多分俺に舞台の才能なんてきっとない。

 

 俺のような端役に敵役の葉山や三浦は完全に霞んでいた、あまりにも綺羅びやかで華やかな演技は女子の敵視をすべて叩き伏せ、黙らせる。そして男子からの熱視線はどんどんと熱量が上がっていく。

 

 そして――とうとう雪ノ下のサーブが回ってくる。今までの全てが見せ場であったからこそ、彼女がサーブの位置に立った瞬間にさらに重圧が寄せられる。

 

 注がれる視線は、期待は――自分のことでも無いくせに身体が重く感じてしまう。

 

 けれども傍目からは欠片も相貌も余裕も崩すことの無い雪ノ下。その怜悧な美貌に一切の翳りも焦りも浮かんでいない。

 

 これだけのプレッシャーの中で雪ノ下雪乃はブレない、変わらない、曲がらない。

 

 そして――雪ノ下がボールを高々と投げる。精細さを欠いたように見えるボールは風に揺られベースラインよりも少し前に。

 

 ――失敗?

 

 不意に浮かんだ一言は凡人ならではの発想。このプレッシャーだ、仕方ないと凡俗な感想が漏れる。

 

 けれどもその見当違いで的はずれな意見は即座に撤回することとなる。

 

 飛んでいた。

 

 軽やかな歩調からの華麗な跳躍。誰もが目を奪われていた。

 

 俺は知っている――生きている人間は飛べないことを。生者は飛べない。人は自らの力で地から離れることはできない。たとえ、この瞬間、どこまでも飛んでいきそうなほど美しくとも、落ちることしかできない。

 

 だが――その一瞬の眩しさに、美しさに。刹那の時間であろうとも。奪われてしまった、誰もが。時間を、視線を。

 

 遅れて響く一際高く跳ねる音。そして音の先にはてんてんと転がるボールが見えた。

 

 俺も観衆も、三浦も葉山も。誰一人として動くことが叶わなかった完璧なまでの一人舞台。

 

 呆然とその様子を口にしたのは俺だったのか――それとも違う誰かだったのか。

 

「ジャンピングサーブ……」

 

 誰もがソレを認識した瞬間に沸く。ありえないものを見た興奮でコート内は熱狂が渦巻く。

 

 既に二点差。あれだけ大敗を喫していた俺たちは逆転してさらには二点も上回っている。そして奇しくも残り二点で決着が着く。

 

「お前、ほんとに凄いのな……その調子で決めちまえよ」

 

 「……えぇ」

 

 俺の言葉に小さく返答した雪ノ下はレシーバーの位置へゆっくりと歩いていく。

 

 振り向いて敵陣のコートを見れば――三浦に葉山、何故か九音が立っていた。どういうこったよ……。

 

 俺は呆れた視線で向こう側に立つアホを見つめているとぷくーっと頬を膨らませていた。

 

『デレデレすんな! ぶち殺してやる、あの女!』

 

 アホがぎゃーすか騒いでいる。しかしながら九音が喚くのも仕方ない。確かに今の雪ノ下は映えすぎている。

 

 けれども対面のコートからひゅーっと軽快に跳んで戻ってくる幽霊は耳下で呟いた。

 

『八幡くんっ、あんなのに騙されちゃダメだよ! あんなの画面映えを意識したぶりっ子みたいな行動なんだからっ!』

 

 はぁ? 騙されるってなんだよ。急に雪ノ下の行動にケチを付け始めた幽霊の真意がわからず首を捻る。

 

『あんなの一発芸! 一発屋!』

 

 一発一発と叫ぶ幽霊。意味がわからないまま対面のコートに集中する。このままレシーバーの雪ノ下にボールを任せていれば自ずと勝利するとなんとなく思っていた。

 

 そして葉山のサーブ。

 

 繰り出されたサーブは勢いが少ない。センターコース寄りのイージなボール。雪ノ下の実力を考えればあまりにも甘い球。そのままレシーブエースを決められそうな程に緩い。

 

 しかし――雪ノ下の振るったラケットには力が無かった。そしてついでにラケットが落ちてしまう。

 

 主演女優のミスに俺は慌ててしまう。完全に油断していた俺はその光景に思考が一度停止してしまった。

 

 その停止が完全に命取り、チャンスボールを三浦が雪ノ下の方向に決めて一点差。汗で滑ったのかわからないがとりあえず近くに落ちたラケットを拾い動かない雪ノ下に手渡す。

 

「……どうした?」

 

 ラケットが滑る。普通の女子高生らしいミスに違和感を覚えて尋ねてしまう。勿論、雪ノ下とてそういうこともあるだろう。幻想や妄想の押し付けで痛い目を見た俺はそれを知っていたはずで。

 

 それでも違和感――そう、九音のわけのわからない発言が俺の違和感として浮き出る。聞き流していた言葉に――判りやすいほどの意味があって、それを見落としていて。

 

「ねぇ、早く構えてくんない?」

 

 急かすような三浦の言葉に俺は返答を聞きそびれる。いつまでも待たせるわけにはいかずにレシーバーの位置に立つ雪ノ下を盗み見る。俯いたままラケットを構える雪ノ下。

 

 彼女に目掛けて鋭いサーブが放たれる。けれども――追いついた。理解が。

 

 辛うじて拾った雪ノ下の様子を見てようやく俺は思い至ったのだ。何とか当てるだけで返球した力なきレシーブを見て、何もかもを思い違いしていたことを。

 

 まるで彷徨う幽霊のようにふわふわと浮く球は間抜けに彷徨う。

 

 ぽすん、と。力なくネットに引っかかり、超えることすら叶わなかった。そして、振り向けば雪ノ下は屈みこんでいる。俺は近よって様子を尋ねようとするが――その前に答えが。

 

「比企谷くん、自慢話をしていいかしら」

 

「あ、あぁ……」

 

 薄っすらと思い浮かぶ理由。いや、俺は知っていた筈なのに――あの夜に知っていた筈で。

 

「私ね、昔から割と何でもできたの。だから、何かを継続して長く続けることをしたことないわ」

 

 自嘲する笑みは自慢話というにはあまりにも陰鬱。

 

「私にテニスを教えてくれた人が居たわ。けれど私はその三日後に、その人に勝ってしまった。大抵のスポーツ、いえスポーツに限らず音楽にしろ、何にしろ、大体三日でそれなりのことができるようになるの」

 

『三日坊主じゃん』

 

 幽霊の小馬鹿にする物言いなど誰にも聞こえない。けれども、雪ノ下は言いにくそうに、一度俯いてから言葉を切り、それでも再び口を開く。

 

「私、体力だけには自信がないの……」

 

 結論はソレだった。荒い息を通り越して弱々しい呼吸音。体力の限界を超えていたにも関わらず、此処に至るまで打ち明けない負けず嫌い。

 

 俺は知っていた筈だった。体力のことも、負けず嫌いのことも、雪ノ下は誰もが期待する女の子でないことも。

 

 ご都合主義とばかりに、自分の思い描く通りに、このまま決着がつくと。雪ノ下なら勝ってくれると。

 

 変わらねぇ、救えねぇ。

 

 俺は変わってなど無かった。口先だけで知ったようなフリをして、理解している素振りだけあって、根本は改善していない。いつものように俺はまた雪ノ下像を勝手に信仰していたのだ。

 

『そりゃあ体力なんてつくわけないか。幾ら悟りを開いたとか口にして三日でやめるようじゃ。そんなの意味なんてないよね、結局』

 

 三日坊主。

 

 あまりの厳しさ故に三日で坊主をやめてしまうという一説。そしてもうひとつが『三日で悟りを開いた人間が坊主をやめてしまう』といった話。

 

 つまるところ雪ノ下は三日坊主なのだろう。飽きっぽいという言い合いではなく、ハマる前にそれなりに上手にこなしてきた人種なのだ。

 

 凡俗な俺たちは上手くなるには時間がかかる。時間がかかるということは練習する。長い時間を練習すれば自然と体力が付き、そして時間をかければ愛着が沸く。

 

 けれども雪ノ下にはソレがない、必要ない。

 

 練習を重ねる前に技術が身について。けれども向上する筈の体力は身につかず。

 

『はぁー、これこそほんとの無駄な努力だよね。体力が無いなら根本からどうしようもないじゃん。幾ら、本人が出来るとか口にしても信じられないよ。事実としてその雌犬が力尽きてるわけでしょ? こんなの主演じゃなくて道化だよね』

 

 鬱憤が溜まっていたのだろう、その毒々しい物言いは実に愉快と、嬉々として口にしていた。

 

『さっきの一発芸。ジャンピングサーブだってそうじゃん。間抜けな奴らは目を奪われてたけどあんなの悪あがきの騙しうち。テニスのサーブであんなに高くジャンプして打つ意味あるぅ? 無いよ、無い無い。わざわざそんなバランスが悪くて難易度の高いサーブをしてメリットあるの? 高いメリットがなくて、不要なリスクを取るから一発芸にしかならないんだよ――けど、まぁ』

 

 早口だった九音はモゴモゴと。実に言いづらそうな感じで呟く。

 

『ま、まぁおかげじゃないけど、そこの雌犬の体力を回復させれば勝ち筋は決まったようなもんだよね』

 

 ころころとボールが足元へ。傍から見れば風で足元へ転がってきたようにしか見えないだろう。けれども俺だけはその意味を理解した。

 

「早くしてくんない?」

 

 向かい側のコートから声が聞こえる。威圧感のある声は此方を急かすかのよう。後衛に入った三浦はどうやら打ち合う気でいるらしい。ギャラリーもブーイング混じりに此方を詰り始める。

 

「だからぁ、早くしろって言ってんの! それとも体力の無い雪ノ下サンが回復するまであーしら待ってあげなきゃいけないわけ? 情けな」

 

『カチコーン。はぁ? はぁ? はぁァァ? 勝てるし、八幡くんお前なんかに勝てるし! 情けなくなんてないからっ。むしろお前の戦法なんて丸わかりじゃん。後ろに立ってるなんてどうせ、強打で早期決着の一発逆転狙ってるんでしょ。はぁ? そんくらいの知能しかないくせに偉そうに物言うなんてはずかちー! 八幡くん! シコシコして相手が自滅させよう! マウント取ろう』

 

 中指を立てる幽霊に苦笑していると、何故か対面の王様も同じような笑い。

 

「ま、まぁまぁ、優美子もそんなに熱くならないでさ……楽しかったってことでいいんじゃないか?」

 

 ヒートアップする女王様を宥めるような言葉。けれども納得のいかない三浦は。

 

「試合だから、マジでカタはつけないっといけないっしょ」

 

 短く、冷たく。

 

 珍しくもあの王様に冷たい物言いでそう言い放ちあしらう。

 

 その言葉は本心だった。このコートの中で、誰よりも本気だったのは。雪ノ下でもなく、葉山でもなく、そして俺でもなく――由比ヶ浜でもなく。勿論、足山九音でもなくて。

 

 三浦優美子だった。誰よりも勝ちにこだわっていた。それこそこんなところで負けてはいけないと本気になっていて。

 

『……可哀想だなんて思っちゃやだよ。あいつらが先に吹っかけてきたんだよ』

 

 ダメではなく、嫌だと悪霊は言った。

 

『別にこんなテニス如きに本気になるなんて馬鹿らしいとか思うけど今日は嫌だ。今日は八幡くんの勝つところが欲しい』

 

 小さく溜息を吐く。別に譲るつもりも負けるつもりも無かった。けれどもどこかであの熱量に押されて負けても仕方ないと思った俺が居た。

 

『だって、あいつ、君の味方をしてくれる女なんて居ないとか言った。居るじゃん、私。あいつらから信じられなくてもいいよ。けど、君を想う私が此処に居るって証明してよ。だから――叩きのめして、全力で』

 

 わがまま全開で口にする言葉。それに続くように雪ノ下はラケットを対面のコートへ。

 

「少し黙ってくれないかしら。この人が――比企谷くんが試合を決めるから大人しく敗北しなさい」

 

 残りは二点。なんたる無茶振りを言う二人。その言葉は向こう側全員に届いたようで。

 

『……エッ、待って』

 

 九音が俯いて、そして顔をあげた時には髪紐が解けていた。

 

『はぁァァァ!? な、なにそのヒロインぶったセリフ! なしなし、そんなのナシ! 雌犬一号って役に立ったと思ったらコレ! 油断ならない! というか寸前まで私の時間だったじゃん! 私のヒロインタイム! はぁぁ!? こんなことあるぅ! 空気読め! 読んで!』

 

 一人、一匹、一柱で姦しく喚きはじめた幽霊に呆れながら視線を外せば――材木座が親指を立てていた。

 

『いや、お前、お前さぁぁぁぁ! お前、仲間面やめろよ! ほんとコイツ何なのさ!』

 

 材木座に噛みつき始める幽霊。視線をさらに動かせば――戸塚と目があった。試合に集中していて気づかなかったけど、審判席から戸塚に見られると緊張するな……。期待されるかのような瞳に少し身体がこわばる。

 

『いや、八幡くん。待って待って。どんどんダメな方向いってる。違う違う。今からの二点は君が私のために決めるってルートだったじゃん。そんな決意する感じだったじゃん』

 

 由比ヶ浜の方向は見なくても位置が丸わかり。バカみたいな声援が背後から届くんだから。幽霊と同じくらいに姦しく、そんなに応援されても俺に力なんて湧かない。

 

『あ゛ーあ゛ーあ゛ぁー! やめてよぉぉぉっ、八幡くんの応援やめてよぉぉぉぉ、そういう味方面私だけなの! 私の特権なの、取らないで! 泥棒! 泥棒猫共! 雌犬共!』

 

 いや、材木座は違ぇだろ。違う……よね?

 

 とはいえ声援や応援を受けて喚き立てながらダメージを受ける幽霊を見て笑いが漏れそうになる。味方側の応援でデバフがつくなんて『らしい』光景はひねくれ者の証左。

 

 ボールを持ってサーブを打つためにベースラインへ。

 

 その瞬間にざわめきとブーイングが大きくなる。そうそう、これこれ、こんなもん。

 

 耳に飛び込んでくるのは俺への評価、過去の悪行奇行。音楽室にある偉人の額縁を持って帰った話や、生物室で一人で骨格標本と言い争いしている噂、一人で朝早くにグラウンドでボールとバットを持っていたこと、図書室で這いずり回っていたこと、深夜に屋上に忍び込んだこと。

 

 噂が噂を呼んで、混じり合い。ヤバイやつはさらなる進化を経て気持ち悪くてヤバイやつへ。

 

 けれどもこんなのはいつものこと、日常茶飯事。むしろ中学時代に比べればマシ。ナルガヤなんて呼ばれないだけで遥かに。俺に告白された女子が可哀想だなんて言われることもなければ、黒板に俺の告白の報告が詳細に記載されているわけでもない。

 

 たかだか気持ち悪くてヤバイやつ程度の悪口なんて丁度いい反骨心が湧き上がって力が溢れてくるくらい。

 

 無論、気力は湧けどそんな都合のいい覚醒やパワーアップなど現実には起きない。仮に起きたとしても俺以外の誰か、俺じゃない。そもそもあいつらって持っているから覚醒する奴らなのだ、持っていない俺はそんなことを信じない。

 

 だから、あるもので戦う。

 

 足山九音の言った通りに雪ノ下の回復を待ちながら打ち合えば楽に勝てるのだろう。それは予定調和のように当たり前に。

 

 そんな結末を俺は拒否する。

 

 集中する、集中する、集中する。

 

 外の音を置き去りにして触覚を鋭敏にする。

 

 できると自分に言い聞かせる。できたと自分で思い込む。無意識への断言は願望から誓約に。

 

 そもそも俺に敗因なんて一つとして無かった。

 

 ただ平穏で刺激の無い一日に安堵して。夜は怯えて、這いずり、蹲り、どんなに痛くて、苦しくて、辛くて、嫌だったことも俺は一人と一匹でくぐり抜けてきた。

 

 生きた人間の温かさなんて知らなくて。どこまでも冷たい、身も凍る世界で過ごしてきた。

 

 陽だまりの中で意気揚々とみんなで笑い合っているお前らに。じめじめと夜の墓場よりも陰鬱な場所で生きてきた俺が、俺たちが。

 

 負ける由縁も因縁も原因もあるわけがない。

 

 生きることに関しては一等賞。生き汚さならナンバーワン。卑怯汚いをやらせたらオンリーワン。

 

 誰よりもこの一年間を真剣に生きてきた、生き足掻いてきた。生きていることに価値があるのなら、俺こそが最も価値ある人間。

 

 いつもなら九音のとりとめも無い話を片耳に、片手にはクソ不味いパンを持って、眉間にシワを寄せている時間帯。

 

 周囲の音が消える。九音の吐息だけが耳に入る。

 

 そして――聞こえた。

 

 刹那、ボールを放り投げる。

 

 女幽霊の吐息など年中聞いてて聞き飽きて。本来ならドキドキするかのような女の子との艶めかしい一幕も流石に飽き飽きで。

 

 鼓動も声も何もかもが日常過ぎて――『来るよ』という声も大体何のことか安易に想像できて。そしてまったく同じことを考えていることに苦笑すら浮かんで。

 

 打つ。

 

 決して傷つけないように、それでいて向こうのコートへ届くように優しく力を込めて。

 

 浮かぶ球は再び浮遊霊。

 

 ゆるやかに、漂う力の無い球。さまよっては目的地に飛んでいく。

 

 そこでようやく外の音が戻ってくる。クスクスと聞こえる笑い声、ギャラリーの失笑が耳朶を打つ。

 

 それでも打球は進む。嗤われても、蔑まれても。

 

 ふらふらと力なく進んで――落下予測地点には三浦が待ち構えていた。足で軽くリズムを取りながら落ちてきた瞬間に叩こうとする強い意思が受け取れる。

 

 不意に強烈な不穏が吹き荒む。

 

 ふわふわとさまよっていた球は悪意に背を押されてまるで別の方向へ。待ち構えていた三浦は目を見開く、慌てて追っても既に遅く、大きく流れている。女王を置いてけぼりにしてコートの隅でポーンと一度大きく跳ねた。

 

 三浦は追いつけない。けれどもカバーする葉山が追いついた。そしてワンバウンドに追いつき、拾い打とうとした瞬間に――戻る。

 

 葉山は知らない。不吉な風が一度ではないことを。

 

 吹き抜けて、戻ったボールはポンポンと。王様から、女王様からも逃げるかのように。気まぐれに踊ってコロコロとテニスコートの隅へ。

 

 まるであっちこっち彷徨って空を散歩する悪霊のようなボールは二人を散々振り回しておきながら悪びれもなく転がって――ようやく動きを止める。

 

『むふ、むふふふ! はっちまんくぅーん!』

 

 上機嫌とばかりに九音のコートが響き渡った。背中から回される腕がいつもより深く食い込んでいる気がする。ついでにスピスピ鳴らしている鼻音が煩い。

 

『もぅー! もーさ! 好き! 好き好き! 大好き! もう、なんていうか好きすぎて死ねるね! 死んでるけど! そうそうこれこれ! これだよね! うんうん、私と君の必殺技みたいで。ラブラブ石破天驚拳みたい! ほんっと、好き!』

 

 姦しい幽霊の大声に鼓膜が破れそう。小さく溜息を吐いて顔をあげると雪ノ下が此方を見つめていた。

 

『う、うわぁ! あ、あれ惚れ直してるパターンだ! 今の私と同じ目してるもんっ! ガルルルルっ、そりゃあ今の八幡くんは最強で最高にかっこいいけど、お前のじゃない! 私の!』

 

 違う俺のだ。

 

 相変わらず姦しい幽霊であるが、騒いでいるのはどうやら一匹オンリー。まるで音が止まったかのようなギャラリーはテニスボールの方向を見つめていた。

 

「そ、そういえば耳にしたことがある……あれは風を胃のままに操る伝説の技。その名も――『風を継ぐもの、風精悪戯!』ッ」

 

 材木座がここぞとばかりに注目を集めにきていた。ねーよ、そんな技名。ねーから。やめろ、巻き込むな。

 

『む、スメアゴルも偶には役に立つじゃん……今、ここに八幡くんと私に新たな必殺技が出来た――その名も【風精悪戯!】』

 

 えぇ……お前が気に入っちゃうのかよ……。悪霊だけではなく、ギャラリーにもその名前は浸透して「オイレンシルフィード?」「オイレンシルフィード!」と騒ぎ出す。いや、そんな名前受け入れちゃダメだろ……。

 

「あ、ありえないし……」

 

 呆然と呟くのは三浦。未だにテニスコート隅に転がっているボールを見つめている。視線の先の球を拾い、葉山がこちらに投げ渡してくる。その顔には苦笑が浮かんでいて。

 

「ははっ、まさに『魔球』だな」

 

 俺はボールを受け取り、再びサーブ位置につこうとすれば――雪ノ下が小走りに近づいてきて、上目遣いでこちらを見てきた。そして意を決したかのように口を開けば。

 

「……かっこよかったわよ、比企谷くん」

 

 それだけを告げて、再び小走りで前衛位置へ。俺はその一言に呆けて理解が追いついた瞬間に小さく頬をかく。

 

『はぁ? あの女、目が腐ってるよ! 八幡くんはいつもカッコいいでしょ!』

 

 だからそういう反応しにくい話はやめてくれ、と思ってしまう。俺自身は俺の顔を悪いとは思っていない。けれども両手を上げて肯定できるかといえばそうでもない。一年前の九音の詰りを思えば美意識に関してはちょっとした変化があった。

 

 微妙な気持ちのままサーブを――。

 

 瞬間――慣れ親しんだ感覚。あぁ、いつものだ。いつもの、致命的なミスを犯す瞬間の感覚。

 

 こんな日常で感じる筈の無い類の危機感。自分でビルから飛び降りるかのような。下から吹き抜けてくる架空の風を、心許ない地面の感覚に。

 

 周囲を見渡す。

 

 なんだ、何を間違えて――。

 

 喉に骨が刺さっているかのようで、その骨が――。手中にある球が意思を主張するかのようにギュルギュルと回り始める。早く始めろと、早く――勝負をつけろと。

 

 こんなことをするのは――。

 

『どウしたの?』

 

 魔性の笑みを浮かべていた。親しみの篭った、見入るような、足山九音という美少女が――自分が可愛いとわかった上でぶつけてくる笑みが。

 

 思い出せ、思い出せ、思い出せ――。おかしな点をおかしな話を――。

 

「早くしてくんないっ! いつまで突っ立ってんの!」

 

 怒鳴る三浦。俺は正面から彼女を見て――違うと判る。違うとわかっていながら何もかも無関係ではなさそうな直感が生まれる。

 

 由比ヶ浜を見る。由比ヶ浜もまた無関係ではない、むしろ――周囲を見て、周りを見てみればどれもこれも怪しく見えてしまう。これは俺の思い過ごしか? ここに居る全員が関係者だなんてありえない――ありえるとしたらこの勝負を見ているという事実。

 

 それが何の――。

 

「比企谷くん、どうかした?」

 

 雪ノ下も関係がある。けれどもそれがどんな意味を。

 

『流石にこれ以上は怪しまれるんじゃない? 八幡くんが何を心配しているのかわからないけど――何も問題ないよ。何の問題もなくなるよ』

 

 九音の言葉を聞いて小さく俺の思い過ごしか、と結論づける。この嫌な感覚は急に現れたもので俺の勘違いで。

 

 ボールを空中に放る。そして視線の先にはレシーバーの三浦。そして――前衛の葉山隼人。

 

 ――隼人?

 

 瞬間、爆発的に脳内に様々な情報が駆け巡る。止まっていた歯車を邪魔するナニカが外れた勢いで軽快に回り始める。

 

 勝負。勝ち負け。比企谷『八幡』。葉山『隼人』。呪われた女の子。霊障のある女の子。霊障が残り続ける理由。解決した御話。ストーカーの残り香。想いの傷跡。ストーカーの想い人。叶わぬ想い。消えた想い。勝者と敗者。ごっこ遊び。不吉な場所。霊地。再現性のある話――隼人を平定する。征伐する。

 

 腕は止まらない、止まらない、止まらない。そしてかけられる回転が――この勝負の行く末を物語っていた。

 

 不思議に見えないだろう、ただの威力の上がる回転でしかない。俺の実力に水増しした程度の。

 

 だから――この回転を止めて、どうにかするためには。

 

 俺は腹に力を込める、込めて――思惑通りに進んでいる油断している幽霊に。

 

「―――――ォォォォォンッ! 愛してるぞ、お前ぇぇぇぇぇッ!?」

 

『ふぇ!? は!? い、いきなり何! そ、そ、そういうのふ、不意打ちやめてよ! ちゃ、ちゃんと私が欲しがってから――』

 

 その瞬間、回転は止まる。

 

『あ……』

 

 間抜けが声に出す。

 

『く、くぅぅぅっ!? べ、別にここから私は自在に操れますけど? け、けど……けど、そうしたらお、怒る……?』

 

 俺は何も言わずにそのままボールを真上へ。打ち返すわけではなく、真上に打った。

 

「優美子、下がれッ!?」

 

 ギャラリーも、戸塚も、材木座も。由比ヶ浜も。そして雪ノ下も、さらには対面のコートで集中していた三浦も葉山も完全に一瞬だけ静止した。そして一番最初に動き出したのは葉山隼人。

 

「なによっ、ソレ! 卑怯だしっ!」

 

 ぐんぐんと空へ伸びる球――人が飛べないように重力からは逃れられない。相手のコートに大きな弧を描いて落下し、反動で再び大きな弧を描く。

 

 不味い――このままでは点が。

 

『……八幡くん、嫌なの?』

 

 俺は小さく頷く。俺の予想が正しいのなら――俺は望んでいない。けれどもこれは足山九音が望んだ結果だ。俺が怠慢に過ごしてきた結果だ。だから痺れを切らした九音が俺の尻を拭おうと『勝手』に計画したのだろう。

 

 大まかな枠組みしか見えない。けれどもその枠組で予想できる中身は笑って済ませられる内容ではない。

 

『……まぁ、折れてあげる』

 

 伸びる――伸びる伸びる伸びる。跳ねたボールは不自然に距離を伸ばし始めて、三浦はわき目もふらず追い縋る。

 

 追いかける三浦の猪突な勢いはそのままフェンスに向かって。遅まきながら気づいたギャラリーが焦りの声を出す。三浦も気づいて足を止めようとするが、速度はゼロに出来ず――。

 

 その時、ラケットを投げ捨てて解決に走り出した男が一人居た。勿論、俺なんかじゃない。むしろ、俺はこの後に待ち受けるこの事件の首謀者として吊るし上げられる予定だ。

 

 だから捨てたのは葉山隼人だ。

 

 駆け出したままの勢いで葉山隼人は三浦とフェンスの間に突っ込む。そして上がる土煙。二人の姿が覆い隠れて結果は霧の中。

 

 そして晴れた時に現れたのは――金網とフェンスを背に三浦を胸に抱える葉山の姿。腕の中で赤い顔をして葉山のシャツを小さく握り締めている三浦は女王様というよりかは王女様で。

 

 割れんばかりの大歓声。全員がスタンディングオベーション。間一髪の救出劇に盛り上がりは最高潮。

 

 演目は救出劇で、主役は葉山、メインヒロインは三浦で。ヒーローは胸の中のヒロインが無事なことを確認して小さく一息吐いた後に頭を撫でる。その行為に三浦は頬を染めていた。

 

 今まで外に居たオーディエンスもコート内に乱入してきて、劇の興奮が冷めぬまま二人をコール。

 

「HA・YA・TO! Hoo! HAA! YATO! Hoo!」

 

 アメリカナイズなノリで取り囲む。そして祝音が鳴り響く――予鈴のチャイムはエンディングムービを流し始めるには十分で。幸せな王妃と王様は臣下達に囲まれてはわーっしょいわーっしょいと持ち上げられて校舎へと去っていった。きっとこの後に二人は幸せなキスでもしてクランクアップ。いいラストでしたね、めでたしめでたし。

 

 ――じゃねぇんだわ。

 

 なんだ、あれ……凄まじい敗北感だけが胸に残って九音を見る。その九音は眉を八の字して呟いた。

 

『……クソ映画』

 

 監督お前なんだが……。つい漏れ出そうになる言葉を呑み込んで、ただただ疲れだけが残ったコートに疲労の証である溜息を吐いては重ねた。




※次回の投稿は未定です
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