足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
幽霊。
死者の御霊、彷徨う死者、死した者の念、肉体から離れた魂。ガイスト、ゲンガー、ゴースト、ファントム。古今東西、あらゆる国で概念として扱われてきたその存在は誰もが知りうる。
そして幽霊に取り憑かれるという話もまたありふれたお話であり、中世ヨーロッパ、古代中国、水上文明と云った様々な場所でその伝承は残っている。
日本でも憑物筋に関するお話は数多とあり、狐憑きに犬神憑きや河童憑き。海外では悪魔憑きと云った表現も存在している。
現代科学が発展してからは憑物筋に関して医学的アプローチが進んでいる。例えば依存症。
百余年前までは人狼、狐憑きと呼ばれていた存在は人格を豹変させるほどの病気だと認知され、治療法が模索している。そこには既に悪魔だ、幽霊だという概念は取り消され、病として認識されているのだ。
けれども俺は知っている、怪異が居るということを。
だから予期できたはずだった。知っていたはずなのだ。俺は知っていたのに――怠慢が、恐怖が、無責任が。
今の雪ノ下を作った。作り上げた。
俺のように諦めて身を置いた人間ではなく、何も知らない少女をこの世界に突き落としたのは――見捨てたのは俺だった。
雪ノ下は疲れていた、故に憑かれた。
言葉遊び、薄ら寒いダジャレのような性質悪い御話。悪霊と疲労、悪霊と余力、悪霊と精心、気の持ち様。人間の精神が、心の有様がオカルト的物事とは深い関係を持つ。
そして精神や性格は幽霊に取り憑かれることで大きな変化をもたらす。
ましてやそれが悪霊ならば間違いなく悪い影響しか及ぼさない。
『――――』
九音が耳元で聞き覚えの無い名前を囁く。その名前の意味など考えずともわかる。
だから考えなしに口に出した名前は――。
「――――」
雪ノ下、いや雪ノ下の姿をした少女の耳に届く。そして笑ったのだ。あぁ、間違いない、目の前の少女は奉仕部部長ではなく、その意識を乗っ取った女幽霊なのだ。
そして微笑んだまま、雪ノ下のフリをしていながら、何でもなかったかのようにふるまっておきながら。
「『はじめまして、比企谷八幡さん』」
そんなセリフをいけしゃあしゃあと吐き出した。雪ノ下の声と、聞き覚えの無い少女の声が重なって耳を打つ。その不協和音に吐き気がこみ上げてすらくる。
「……」
「『そんな敵意に満ちた目で睨むなんて酷くないですか? わたし、貴方に何もしてないですよね?』」
まるで悪気が無いとばかりに平然とした言葉は本気で何も悪いことなどしていないとばかり。
あぁ、駄目だ、これは駄目だ。
許してはならない。
「『ねぇ、比企谷さん、そんな怖い目で見ないでください。わたし、貴方にとって都合のいい提案が出来るんですよ、貴方と争うつもりも無ければ、望むなら貴方と関わらないようにします。どうです? とても素敵な噺だと思いませんか』」
「……思うわけねぇだろ」
「『どうしてですか? 貴方はこの子をあんなにも邪険に扱っていたじゃないですか。そんな子がもう二度と関わらないって言ってるんですよ? 喜びこそすれ、そんな風に否定されるなんて、理解できませんね』」
そう言って彼女は自分の首元に手をかける、するすると外れていく包帯から見えた赤黒い指跡。
紅と黒の絵の具を混ぜ合わせて出来た指の痕は誰が見ても異常な代物。一目で危機感と焦燥感を刺激する。どうにかできる方法など思い浮かばないにも関わらず、今すぐにどうにかしなければと強迫観念が襲いかかる。
こんなものに、こんな傷痕に、こんな結末に。
愛情や感傷を抱くなど狂っている他ならない。あまりの凄惨さに吐き気すら呼び起こす理解不能な未知が襲いかかってくる。
赤黒く残る指跡を何も知らぬ顔でそのうち何とかなると思っていた間抜けは事ここに至るまで問題を重要視していなかった。
だからこれは必然なのだ。過程が間違っていたのだから結論まで間違い。そしてその間違いに気づかぬまま、一瞬一秒でも早く取りかからねばならない問題に気づかず、明日の連休について考えていたんだからこの結末は当然。
「……なんで、雪ノ下なんだ」
「『くふっ、ふふっ、最初の話がそれ、ですか?』」
失望の浮かんだ嗤い。
ありのままの感情を口にして俺は後悔をする。俺の問いかけは、俺の質問はあまりにも意味が無かった。
無駄な言葉が喉からこぼれ出る。無為に時間を使ってしまう。残された時間の有無すらもわからないくせに、そんな当たり前でどうしようもなく、それでいて自分で考えればすぐに分かってしまう白痴の問いかけが喉からこぼれ落ちる。
「『そんなこと、彼女に取り憑きやすかったからに決まってるでしょう?』」
その通りだ。それにしか過ぎなかった。今の雪ノ下ほど取り憑き易い人間はこの総武高校においていないだろう。
雪ノ下は遭遇し過ぎた。勿論、同じ意味で云うのなら俺も例外ではない。雪ノ下と俺の最大の違いは怪異を認識しているかどうか。居ると知っていれば身を守る術や避け方を身につける。けれども彼女は知っていれど二度目があるなど思ってもいなかった。故に無防備で、隙だらけ。
雪ノ下は疲弊していた。疲労が精神に大きな影響を与えるなどよくある話で。病は気からなんて言葉が生まれる程に精神と疲労は密接な繋がりを持っている。肉体的に疲弊しているのだからいつ取り憑かれてもおかしくはない。
雪ノ下は引き受ける。結局のところ、引き取ってしまうのだ。今、身を蝕む呪いを始めとして、雪ノ下雪乃という少女は引き取ってしまう女なのだ。苛烈な側面を持つ少女だ。嫌なことは嫌だと言えるし、嫌いなものは嫌いと言える。けれども本質的にはそこではない。
俺が奉仕部に来て雪ノ下が引き受けた依頼の数々を振り返る。どれもこれもめんどくさそうな依頼ばかり。けれども結局の所、引き受けてしまう。助けてしまう。手を伸ばしてしまう。救ってしまう。
口の悪さから想像出来ないほどに雪ノ下雪乃は『お人好し』なのだ。嫌な女であっても、めんどくさい女であっても、やなやつだったとしても――雪ノ下は良い奴なのだ。
いい奴である癖にあまりにも攻撃的な毒舌。それでいながら好きな相手に対して病的なまでに甘い性質。そこに何らかの捻れがあるのは想像に容易い。その原因となった感情が劣等感なのか、寂しさなのか。少なくともプラス方向への感情ではないことは間違いない。
これだけの要素を抱えていてもそれでも俺は口に出してしまう。何故、雪ノ下なのかという疑問を。あるいは願望ですらあったのかもしれない。あまりにも偏った悲劇に災難。それらから目を逸らしたかったのかもしれない。
不幸な人間には不幸が続くのは当たり前だという出来事に問わずにはいられなかった。
「……雪ノ下に取り憑いて何をするつもりだ」
「『あれ? それって貴方に関係ありますか?』」
「仮にも雪ノ下の知り合いだ、心配する権利くらいは――」
薄っぺらい言葉が喉から出る。自分ですら寒々しく感じるほどの軽い言葉。
「『あれだけ冷たくあしらってたのに?』」
だから簡単に失う。正当性など始めからなくて、嘘つきの薄っぺらい言葉はたった一言で縫い付けられて出せなくなる。
『むしろ、貴方からしてみれば助かることじゃ? この女がどうなろうと、いつだって迷惑そうな顔をして、近づこうとする距離を遠ざけて、それでも必死に縋ろうとする指を振り払って。何の期待に答えるつもりもない貴方が今更助けたいだなんて。本当に薄っぺらい、偽物の言葉、欺瞞そのもの』
今までの俺の行動が、雪ノ下に対する態度が俺の言葉を否定する。口を開いてそんなものは関係ないと開き直れやしない。
知り合いだから助けたいと言葉にできるような人間ではない。そんな人間だったらどんなに簡単な御話だったんだろうか。そんな自己犠牲や献身の欠片も無いくせに、薄っぺらい言霊でどうにかしようなどとは大間違い。
何の強さも持たない言霊は相手を説得できるどころか、自分を納得させることすらできない。
ならば何故、逃げずに居るのだろうか。雪ノ下と悪霊を引き離そうとするのだろうか。
そんなの、そんなこと――見ていられないからだ。見過ごすなんてできないからだ。自分には関係の無い問題だと割り切れなかったからだ。
怪に纏わる御話だけには無関心を貫けないからだ。
そして、その癖に。俺が、俺以外の誰かが解決してくれるなどと無責任に希ったから。誰かがやってくれると、なんとかなるなどと。どの口で俺は云うのか。
この一年間、助けてくれる誰かに出会ったのか? 助けを求めて、恐怖に打ち震えて、それでも自分で何とかする以外には無かった出来事達。
外に希望を持つなんて間違っていて。誰かが助けてくれるなど大間違いで。それでも雪ノ下の問題に自分が巻き込まれるのが嫌で。口先だけで除霊を促して。それでいて幽霊に教えてもらえるまで問題の本質に気づかなかった。
だから招いたのも俺で、その結果がこのざまで。
だから、だから――。
『逃げてもいいじゃん』
耳元に届く甘美な囁き。
『別にいいじゃん。こんなの。八幡くんは何も悪くない。むしろ勝手に引き受けようとするところってあの女そっくり。八幡くんに責任は何も無いよ。それこそ自惚れで自意識過剰』
「『そちらの方の言う通りです。別にこの子がナニカあったとして貴方に何の責任がありますか? 無いですよ、ただただ、この子が不運だったとそれだけじゃないですか。お互いに悪霊憑き、お似合いのカップルになれるかもしれませんね』」
『ざけんな、殺すぞ』
「『冗談ですよ……私としてはこのまま忘れて貰えれれば嬉しいんですけれど。お互いに今後一切、かかわり合いにならない。それでいいと思いませんか?』」
『……一考の余地ある』
悪霊どもが和気あいあいと。生者の行方を話し合う。その光景に当事者の意思は介在していない。只々、理不尽な押し付け。
俺に雪ノ下を助ける理由なんて存在しない。権利もなければ義務もなく、好意もなければ義理も無い。
見捨てて良い理由だけは幾つも思い浮かぶのに、助けていい理由なんて一つだって見つけられなかった。
怪人の時も同じように思っていた、考えていた。
それでもたった一つだけ違うものがある。それは俺が巻き込まれているのか。命からがらに逃げる必要があるのかどうか。
それが無い。どこにもない。
命を削る感覚も、恐怖に身が竦む感覚も、無力感に絶望する感覚も何も無い。
昼間の出来事を思い出す。
葉山隼人はその身を呈して女の子を救った。それは紛れもなく善性の行為。ああいうやつがきっと物語の主人公になれる。もしも葉山ならばさっさと行動に映していることだろう。むしろ蛮勇さでいうのなら材木座ですら動いているかもしれない。
人を助けるのに理由が要らないなんてかっこいいセリフを得意げに言った記憶もある。けれども、どうだ。実際に目の当たりにすると動けない。
雪ノ下が立ち位置を逆にしたならばきっと救おうとするのだろう。まだ見ぬ雪ノ下の家族ならばそうするのだろう。友人である由比ヶ浜もきっと躊躇わない。
俺はきっと『俺』のためにしか――。
「目障りなんだよ、お前……」
だから喉から出た本音が本当の言葉。結局のところそう。
俺は雪ノ下を救うわけじゃない。俺が嫌だから――不幸な人間は不幸なままで在り続けるのに納得がいかないから。ボッチだから何をされてもいいだなんて、一人だから誰も助けてくれないだなんて。
そんなの見てらんねぇだろ。
少なくとも、俺は、俺だけはそんなのを肯定しない。
生きた人間は誰一人として助けてくれなかった。けれどもたった一体の味方がいたのだ。その味方すら居ない『俺』を放ってなんておけないのだ。
だからこれは雪ノ下の問題じゃない。俺だ、俺の問題なんだ。だから。
だから――俺を救うのに一々理由なんて要らねぇ。
「そもそも見なかったことにしろだとか、見逃してやるだとかいつから上になったんだよ。下だろ、下」
「『……は?』」
「いやいや、は? じゃないんですよ。なに、さもこちらに得があるかのような口ぶりで提案してるわけ? 雪ノ下が今後俺に関わらないなんて得でもなんでもないでしょ。え、もしかして本当にそれで交渉してるつもりだったわけ……。え? うそ、知能……低すぎ……?」
喉から飛び出るのは慰めどころか煽り。
慰霊祭を取り仕切ろうとしていた九音は一瞬、驚いた顔をして何故か仕方ないなぁとばかりに笑っている。
そもそもが俺に慰めなんてできやしない。負け犬ですら徒党を組んで傷の舐めあいをする世の中で一人で傷を舐めてきたタイプ。
慰めだとか、霊との対談なんて到底向いちゃいない。むしろ生きた奴らの中ですら失敗してきた俺がどうして成功できると思うのか。そんなの無理ってか嫌だ。
俺に出来るのは、その悪意を、その怨念の矛先を、恨みを俺に向けるだけ。嫌われ者としては大ベテラン。
たかが悪霊生活一日未満の新人がちょっと悪ぶってる姿にびびる必要なんて欠片もない。むしろ雑魚だけど性悪としては超一流の幽霊が後ろにいるのだ。それを考えれば目の前の悪霊憑きなど大した問題ではない。
こんな幽霊にビビるなんてありえねぇ。
オンリーワンにしてナンバーワン。散々に目のことを言われてきたが事実として目以外はイケメンで。定期テストは幽霊の力を借りたものの現国学年二位。友達こそ居ないものの最近は目立つ顔見知りが増えてきて。彼女など居もしないが呪われている学年一の美少女に好意を示されたり、愛の重すぎる自称美少女幽霊に殺されそうになってる。昼休みなんかは学年トップカーストの男女ペアにテニスで勝ってるし。もはや主人公とかそういう次元じゃない。敗北が知りたいとか口に出しても文句も出ない圧倒的強者感。むしろ俺こそがラスボス。
そんな俺が悪霊としてのいろはもしらない元浮遊霊の悪霊未満にびびるなんてありえねぇ。
そもそも悪意なんて無かった筈で。まかり間違って悪霊になりかけているだけなのだ。ちょい悪ぶって背伸びをしている程度の不良もどきなんて今更怖くもなんともない。
だから悪意たっぷりに、皮肉気味に、厭らしく、むかつくほどにどこまでも陰険で陰気なため息を吐き、嘲笑を浮かべる。
「はぁぁぁぁ、本当に勘弁してくださいよ。おたく昼休みにちょっと噂されて悪霊となっちゃった口でしょ? その程度でぶちぎれるようなやつが近くに居るだけでどんだけ俺が気を揉むと思ってんだ。確かに雪ノ下は嫌な奴だ。それは認めるし、あしらったのも事実だ。けど、一つだけ勘違いをしているなら、俺にとって優先順位はあんたのほうが下なんだよ。何も不思議じゃねーだろ。というかまかり間違っても雪ノ下は美人だ。性格は腐ってても美少女だ。そんな女に取り憑いて我が物顔で平気な面できるの、ほんと尊敬するわ」
隣の性悪をイメージしながら口に出す。もちろん、俺の口撃なんて九音の足元にも及ばないだろう。本家なら既にブチギレさせていること間違いなし。俺といえば未だに目の前の少女にぷるぷる震えさせて、頬を引き攣らせる程度。
だから続けて言葉にする。
「なんで何も言われないと思ったわけ? 普通に言っちゃうでしょこれ。関係云々とか、そういうの持ち出す前に自分のこと鑑みないわけ? ちょっと悪く言われただけで悪霊と化すような、人からちょっと話題に出ただけでほいほいと調子に乗るようなオタサーの姫みたいな悪霊が近くに居るだけで身の危険感じ――」
瞬間、チャキリと金属音が耳を打つ。調子に乗って回していた舌は自然と空回りして、視線だけで動かしてみればカバンからハサミを取り出してチャキチャキと軽快にならしていた。
大きめの裁ち鋏の軽快な音を鳴らして、ニッコリと目の前の少女は口を開く。
――死んでください。
ちょっきんちょっきんと文字にすれば幼気な擬音も恨みと殺意をたっぷりと込められれば可愛いなんて言えやしない。
俺は背を向けて脱兎のごとく、走り出す。三階の最奥にある奉仕部から飛び出して、全力疾走。一目散に逃げに出す。
どうすればいい、何をすればいい。口から飛び出した言葉は決して何かしらの目的を持ったものではなかった。先程の部室でのやり取りは場当たり的で短慮であって、それでも俺の本心だった。
ついてくる悪霊のゲラゲラと笑う声を余所に走りながらどうするべきかと考える。高みの見物で、今もコメディーを眺めるかのように笑い続ける九音はひぃーっ、ひっと引き攣り笑いまでおこしている。
『ぷーっくっくっく、オタサーの姫だって、オタサーの姫、ぷくくくく、くすーっ! 他人からの期待で自分を変えるのがオタサーの姫って言うんならそこらのアイドルだって、のんべんだらりと生きている一般人ですらオタサーの姫だよ』
そこまでの極論は言ってねぇよ。
『それにしてもあんだけ意気揚々と喧嘩を売っておきながらの見事な逃げ足凄いよね、憧れちゃうね、いやはや私なんかじゃあ、あそこまで化け物気を惹くことなんて出来やしないよ』
階段近くまで走り、背後の様子を伺う。奉仕部の扉からゆっくりと出てくる雪ノ下の姿が見えた。その光景があまりにも日常的で。まるで出来の悪い白昼夢でも見ていたかと錯覚するほど。
けれども片手に見える鋏が夢ではなかったことを証明している。
逃げるだけでは決して好転などしない。わかっている。けれども今の俺にはどうにか出来るほどの手札は揃っていない。霊視すら半端な俺が除霊なんて難易度が高すぎる。
けれどもたった一つだけ。糸のようにか細い、果たして本当にうまくいくのかすらもわからない、こじつけで、それでも縋らざるを得ない一つの手が存在する。
不発に終わった鎮魂祭。
悪霊が悪意を持って用意した始まらなかった慰霊祭がある。
糾弾するかのように詰って、失敗すればどうなるかわからないと言っていたにも関わらず、いざ危機に陥れば掌を返したかのように縋り付く。
それでいて上手く執り行えるのかすらもわからない。無いものばかりで構成されている解決策を選ばざるを得ない。
タイムリミットは雪ノ下雪乃と少女の霊が混じり合う前に。
けれどもこの瞬間だけは、運がいいことに、神懸かり的なタイミングで、本当に不運なことに――此処は総武高校なのだ。
不吉な風が吹き込む霊的スポット。そうであれと望まれない限り、こんな滅茶苦茶な立地にはなりやしない。施工段階で何かしらの意思が反映されたとしか思えないほどに不吉な相関図。鬼門と裏鬼門が入口と出口として作られていて。そんな学び舎としては不適格なくせに他の学校と同じように水回りは玄関口の近くにある。
可能性はあるのだ。あってしまう。
その為に必要なものは葉山隼人からの勝利である。お流れとなった勝負の行方。そして放生会としての準備。水に放つ動物。最後に慰霊されるべく魂の存在。
この時間帯なら恐らくサッカー部は部活動中だろう。しかしながら何を持って葉山に勝つのか。未だにプランは存在しない。けれどもまずは会わなければ――。そこまで考えてひとまずの目的地である運動場を目指し、階段を降りようとした瞬間に、足が縺れる。
ずるりと生暖かい何かを踏みつけたせいで滑る。
『八幡くんっ!』
悲鳴にも似た警告に、視線だけ動かして何があたったのか見る。それは『肉塊』。臓物はばらまかれ、骨は砕かれ、ミンチ状の肉。
せめて頭は守らなければと肩から階段に縺れ込み、十二の段差を転がり落ちる。
「あがっ、ぎぃっ、あっ、ぐぅぅぅぅうっ」
階段の上を見れば肉塊が形を変えて――犬となる。
繋がる。まるで天啓とばかりに理解してしまう。頭を打った妄想の産物であれば笑い話で済むのに。思いついたシナリオが間違っていればいいのにと祈っても。
この手の予感は中ってしまう。
蜘蛛の白昼夢。雪ノ下雪乃が乗っ取ったその悪夢は蜘蛛の怪異を雪ノ下が降したことのより乗っ取った。ならばその手段は? 手腕は? バッドエンドのように迎えた悪夢は雪ノ下にすらそうであったのは想像に容易い。であればこそ、雪ノ下がどのようにして悪夢を乗っ取ったのか。
何の手札もない、悪霊さえ憑いていない少女が如何にして脱出できたのか。知恵を振り絞り、俺には想像も及ばない方法で勝ち得た。もちろん、可能性はある。
けれども『犬』の、捧げられた『犬』の能力を有していたのならば? 例えば転ばせるだけで殺せるという脅威的な能力を有していたのならば? たかだか雑魚幽霊一匹に反撃も許さず圧倒されるほどに『犬』の怪異が弱っていた理由は? 異物混入のクッキーは果たして由比ヶ浜だけだったのか?
笑みを浮かべようとした犬に向けて、悲鳴混じりに言い放つ。
「どっ、っこい、しょぉぉぉぉっ……」
口にするのは強がり。転んでないとばかりに。そしで背後に衝撃。踊り場の壁に勢いのままぶつかり、肺の空気が一気に漏れる。脂汗が滴り、荒い息を吐きながらじくじくと痛みに溺れる。
チャキンと音が鳴る、手すりに捕まり立ち上がり、窓を背に階段を見上げれば姿形だけは雪ノ下だけの偽物が。鞄を片手に、もう片方には裁ち鋏を握りしめて揺れる視界の中にはっきりと立っていた。そして屈み込み、足元の子犬を軽く撫でながらこちらを見ていた。
打った頭は星を飛ばせ、地面をグラグラと揺らす。それでも近づいてくる少女から逃げるために下り階段へ向かおうとした瞬間に――光る。
窓から入った斜陽は飛び込もうとした先に張り巡らされていた蜘蛛の巣を反射させていた。
『……どうすんの、これ』
聞こえてきた疑問符もつかない絶望の答え。下り階段は『絶対に』使えない。あんな蜘蛛の巣の中に飛び込んでいくのは餌になるのと同義だ。
ならば昇るしかない。ないのだが――そちらも通行止め。上には犬と霊。まっすぐに行って避けきれる自信はない。
そして屈んだまま見下ろしてくる女霊は口を半湖に描き、ささやくように行ってきた。
「『もう一度提案してあげます』」
金属音が鳴り響く。チャキチャキチャキ、と。不安を煽る音が踊り場に酷く響く。
「『別に暴言程度で怒ったりしませんよ。えぇ、本当です。たかだか貴方程度に何か言われた程度で私は腹を立てたりなんてしません』」
内容と響く音が合っていない。イラただしく、貧乏ゆすりのように威嚇音を放つ鋏からはとてもそうとは思えない感情が伝わってくる。
「『私とこの子に関与しなければ見逃してあげます。この場で誓ってください、口に出して約束してください。あなたは何もわかってない』」
音が止まる。
「『私は彼女になってやり直すだけ。でもきっとそれは私じゃない、雪ノ下雪乃って子なんです。羨ましくて、たくさんのものを持ってて、それでいながら不器用な生き方しかできない彼女を変えたいだけ。それだけなんです。私は彼女と混じり合うだけ』」
まるで何も悪くないという口ぶりで。
「『社交的になれるように、孤独でなくなるように、思いを素直に言えるように、攻撃的な部分が治るように。これだけいろんなことが出来て、色んなものを持ってて、色んな人に好かれることができるのに、それをしないなんて勿体ないじゃないですか。彼女は幸福になるべき人、そうは思いませんか? だから私は彼女に憑いて守ってあげるんです』」
正しいとばかりに、正解だとばかりに。綺麗で、清く、美しく、正しくあることが善とばかりに。優位であるからこそ譲歩してくるかのように。甘く、どこまでも甘く囁いてくる。
「思わねーよ」
甘ったるい毒を否定する。色んな人と群れなくて、色んなものを持ってたとしても性格のせいで台無しで、色んな人から好かれる要素があったとしてもいけ好かない女。
それでも俺が見てきた雪ノ下雪乃はそういう女なのだ。社交的で友達がたくさんいて、人当たりがいい雪ノ下雪乃など想像すらできやしない。
ストーカー事件で理想の末路を知っても尚。押しつけることの末路を知っても尚。勝手な思い込みや作り込みの罪深さを知っても尚。
俺はそれを決して雪ノ下雪乃だとは認めない。押し付けだったとしても、願望だったとしても――嫌われてでも正しくあろうとした少女を否定しない。
俺の答えは変わらなかった。部室で求められた取引と違い、脅迫という形に変わっても、尚。
「そもそも自分の方がマシだとか自惚れてんじゃねーよ、悪霊」
中指を立てて相容れないと主張する。
「『……それじゃあ、死んでください』」
鋏が宙に浮き、矢のように飛んでくる。間一髪で避ければ背後の窓ガラスは割れる。獲物を手放した少女を見れば――鞄から出刃包丁を取り出していた。
『……もしかしてあの女、普段から持ち歩いてたの?』
そんなのび太くんも真っ青になるような四次元ポケットを離し、立ち上がって近づいてくる。
『肉弾戦やる?』
冗談じゃない。見かけ通りなら体格差でなんとかなるかもしれないが既に常識の範囲外。
「逃げるにきまってんだろ」
「『おかしなこと言いますね、一体どこへ――』」
言葉を聞かずに俺は振り向きざまに窓枠を思いっきり踏み込んで跳ぶ。
飛ぶわけでもなく、跳ぶ。イカロスのように蜜蝋の翼など無い俺は重力には逆らえずに地へ向かっていく。けれども地面ではなく――肩から縺れるように駐輪場の屋根を転がり地面へと落ちる。
『こ、こっの! バカ! 大馬鹿! 八幡!』
全身を打ち、痛みが全身に襲ってくる。錐揉みのように転がって仰向けに寝転がれば紅が広がる空が泣き顔の幽霊越しに見える。その顔を眺めながら小さく「どっこいしょ」とつぶやいた。
そして更に上空には窓から信じられないとばかりにこちらを見下ろしている雪ノ下の顔をしたナニカ。
「俺の名前は悪口じゃねぇだろ……」
『馬鹿の代名詞になってもおかしくないって言ってんの! なんで躊躇いもなく跳ぶわけ!? バカバカ! 大馬鹿! 私が窓ガラスの破片で蜘蛛の巣切り裂くとかもっと手があったじゃん!』
一理以上ある解決方法を耳にしながらズボンをはたいて立ち上がる。全身が酷く痛むが動くことに支障は少ない。痛む身体を無理やり動かして、グラウンドを目指す。目的は――葉山隼人。
放生会を踏襲する為に必要な男の名前。葉山に勝てるものなんてそう多くは無いがそれでも見つけなければ話が進まない。協力してもらえるかなんて考えても仕方なく、兎にも角にも――。
「九音!」
『あー! もぅ! 都合よく使っちゃってくれてさぁ!』
割れた窓ガラスの破片で目の前に張り巡らせられた蜘蛛の糸が切断――されない。
『固っ! なにこれ! 蜘蛛の糸ってこんなに固いの!』
風切り音が響き、鋭利な筈の袈裟斬りも蜘蛛の糸を切り裂くことは叶わない。ならばと踵を返して来た道を戻る。元の駐輪場へ戻って別ルートを絞り出す。特別塔の裏手からグラウンドへの最短ルートを諦めて回り込むことを決める。
そして決めたのなら迷いなく進む。迷えるわけもなく、足は目的地へ。
『……ねぇ』
九音の問いかけに答える余力は無い。まるで進む道を違えることがないように蜘蛛の巣があり、分かれ道など許さないとばかりに一直線に。
本来あるべき喧騒も既に消えて、逢魔が刻である筈なのに既に日は落ちて、気温とは関係のない薄ら寒さが漂っていても進むしかない。
そして――。
グラウンドへ向かう最後の直線は通行止めだった。電灯と金網には夥しいまでの蜘蛛の巣が張り巡り、真っ白な壁になっている。そして、蜘蛛の巣で誘導された先のテニスコートの中には一人の少女が居た。
いつの間に着替えたのか、果たして本当に俺は真っ直ぐここにこれたのか、異界と化しているこの世界に葉山は居るのか、雪ノ下はまだ大丈夫なのか。
鈍痛が心を折りに来る。希望なんて無いと気付いた瞬間に痛みは現実感を伴って襲いかかってくる。逃げ出したくなる衝動を見透かされたかのように来た道に糸が現れる。
どこからととなく飛んできた糸は壁を作り出して完全に逃げ道を塞いだ。
詰み。
脳裏によぎるその言葉に嫌な汗が背中から湧き出る。当たり前の如く、俺は間違えたのだ。こんなものは基本中の基本で、オカルトを知らない人間であっても避けるくらいに。
テニスコートは相手のホームグラウンドである。
発生源、起因がテニスコートならば雪ノ下に憑いている悪霊が最も力を持つのはこの場所。最も霊として力を持ち、最も悪霊として振るまえるのはテニスコート内。
あまりにも絶望的すぎて笑いすら込み上げてくる。賢しく除霊なんてものを行おうとしたことが間違いで、半端な霊視能力者が霊能力者の如く振る舞うのは滑稽で。
相手のホームグラウンドで、相手が最も強い場面で――。
浮かんだ解決方法に笑いが込み上げてくる。
『八幡くん……?』
これは絶対にやってはいけない行動だ。オカルトに関わってる人間が見たのならば自殺行為だと一笑するだろう。最も愚かであまりにも下策。
――ここであの霊に勝つこと。
テニスウェアを来た少女を相手にテニスコートで勝利をもぎ取る。
文句のつけようがない完璧な解決方法だ。不可能だということに目さえ瞑れば。
古来より霊を打ち倒してきた話には暇が無い。調伏法という手法が存在するように人は悪魔を、怪異を祈祷によって降してきた。勿論、それは特殊な人間だ、特殊な力を持ち、修行を積んだ人間である。呪文を唱える程度で解決できるのなら毎度毎度と生命の危険になんて陥ってない。
それに調伏は手段の一つであって本質ではない。本質は怪異を降すことにある。降す、打ち勝つ。
非常に頭が悪いことではあるが――怪異には力尽くが通用するのだ。むしろ力で上回っているのならば恐れるに足りぬのだ。
けれどもここで不可能という話に戻る。そもそもが力づくが不可能であるからこそ調伏法が生まれたのだ。御仏の力を借りても尚、厳しい修行を行った修行者が居ても尚。
人の身が及ばぬが怪異。
故に今から行われるのは勝負なんかではない茶番。ただの公開処刑。逃げれるのならば逃げるのが一番賢くて、逃げ道など存在しない。
勝ち目がゼロでも勝たなければならない。
「『鬼ごっこは終わりですか?』」
だから、追い詰められていても尚、ふてぶてしく笑う。恐れが、折れる心が相手の力となるのならば、びびってないと強がりを口にするだけ。
「俺がお前を此処に引っ張って来たんだっての。俺がお前に勝ったら雪ノ下から出ていってもらう」
乱雑に横たわっていたテニスラケットを一つ手に取り、相手に向けて言い放つ。俺の発言に理解できないとばかりに目を見開いている。
「『……は? 本気で言ってます? ははっ、あはははははっ!』」
哄笑が響く、人の気配は消え去り、異界と化した学校の中では通り渡る。
「『もしかしてテニスなら勝てるだとか思っていませんか? 本気で? 私に?』」
口に出したらもう引けない。絶対に引けない。後には引けない。ただ相手の拠り所を刺激する為の言葉を口にする。
「俺はお前なんか知らねぇよ、興味も無ぇ。どうせテニスも大したことねーんだろ」
だから口にしたのは最も口にしてはならない言葉。悪霊や地縛霊を前にして本質を否定する、汚す。
口に出した瞬間に背筋が泡立つ。視界に入った雪ノ下の姿はぶれ、見知らぬ少女がはっきりとした輪郭を持つ。
目の前で今、悪霊の格が上がる。目視でわかるほどに圧力が強くなる。
けれども俺の挑発は絶対にかかる。地縛霊が自己の存在の核を馬鹿にされて黙っているわけがない。自己の存在を否定できない、本質を否定できない。それは例え神様であっても。
故に勝負は成り立つ。
そして、負けたら――。
「『私が勝ったら惨たらしく呪い殺します。絶対に殺します。殺すつもりまでは無かったのに。貴方が悪いんですよ。絶対に殺します』」
死ぬ。
なんだ、いつも通りじゃねぇか。そして俺の一杯一杯の心積りを理解している性悪だけが全部を理解して尋ねてくる。
『……勝算あるの?』
んなもんねぇよ。
以前投稿していた内容(飛び降り→ED)から路線変更してます。次話は出来次第投稿させて頂きます。