足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

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遅くなりました。すいません


暮春【終演】

 二ゲーム先取。それが今回の勝敗の行方。最短で八球で決着が付くルールは俺の提案により決まった。

 

 肉体が万全であるのならフルセットでも体力的な問題は無かった。けれども昼にもテニスをして、夕方には階段から転げ落ちて、三階から飛び降りて。これだけのことをしておきながら満身創痍程度で済んでいるのだから御の字で。御の字ではあるものの長いゲーム数を戦い抜けるかは疑問であった。

 

 経験者を相手に長々とゲームを続ける方が勝率が低いと計算し臨んだ短期決戦の行く末は既に半分が終わっていた。

 

 僅か四球。

 

 中学県選抜の三浦、サッカー部のエース葉山を相手にしても一歩も引かず、壁打ちに費やした時間は総武高校でも有数で、脚力体力共に自信があったところで。 

 

 そんなものを歯牙にもかけない実力差があった。命のタイマーを半分使って得た結論は正攻法では勝てないという絶望的な答えのみ。

 

「『もう諦めませんか? 幾らやったところで貴方に負けると思いませんし』」

 

 テニスコートの対角線上にいるにもかかわらず、まるで目の前で声をかけられたかのように錯覚する。もはやこの場所は物理の及ぶ世界では無くなっている。

 

『おいおいおいおい、新人ちゃんよぉ、うちの八幡くん舐めてくれちゃってくれるじゃねーですか! 小狡いこと、小賢しいことをやらせたらうちのちゃんはちは天下一だっての! なんか手はあるんだよね! ね? ね……?』

 

  何かを期待するかのような九音の視線に俺は意味深に笑みを浮かべる。んなもんは無い。カッターシャツで汗を拭う。やべぇな、ほんとどうしよう……。

 

 『ふぅー……ターイム! ちょっぴり作戦会議!』

 

「『はぁ……どうぞ』」

 

 九音の言葉に毒気を抜かれたのか少女はあっさりとタイムを認めた。俺はフラフラとベンチに辿り着き、荒い息を吐く。 

 

『バカバカ! 大馬鹿! どうして二ゲーム先取とかにしちゃったわけ!? 対策を練る暇もないじゃん!』

 

 「短期決戦なら勝てると思った。今はマジで後悔している」

 

 自信満々に答えると九音は額を抑えて信じられないとばかりに嘆いている。いや俺も時間を稼げる長期戦のほうが良かったなどと今更ながら後悔してんだ。

 

 短慮に浅慮。そう言う他ない。けれども時間を掛けても良い結果に繋がる気もしないんだから結局のところ問題は時間ではないのかもしれない。

 

 たった四球でこのざまだ。まさかここまでの差があるとは思わず、相手のイカサマを疑ってしまう。少なくとも昼間に中学校時代に県選抜となった三浦相手でもここまでの差は感じなかった。

 

「向こうだけボールの軌道操ってる可能性あると思うか?」

 

『幽霊だからあってもおかしくないだろうけどやってないと思うよ。今のところ純粋に技量差で一方的に負けてるだけ』 

 

 尋ねた内容が希望を打ち砕く。勿論、怪異の力を使って事を有利に進めていたとして俺がどうこう出来るものではない。けれどもそんな強力な札を使わずとも完封されている現状はまさになす術なし。

 

 肉の体が雪ノ下であるのならば体力勝負に光明を見るがそれも難しい。純粋な体力、持久力では負ける気はしないのだが消費する体力が同一ではないことが問題だ。

 

 相手の動く距離が最小に対してこちらは端から端へ走らされている。ボールの鋭さも相まって全力疾走で食らいつき返すボールはイージーとなりチャンスを与えてしまう。そして相手は拾えるギリギリのラインへ落としてきて、同じように返しては再び走らされる。まるで甚振るかのような攻めは実に効果的だ。無理攻めすら許してもらえない。

 

 葉山と三浦のタッグチーム相手にも似たような戦法を取ったが問題は相手が一人かつ俺の返すボールがある程度コントロールされていることが問題なのだ。それでいて相手から仕掛けてこないというのだから強打を勘任せに飛び込んで拾うといった身体能力と動体視力に頼った戦法も取れやしない。

 

 なんとか現状を変えようと無理と無茶を兼ね備えたショットは大きな弧を描いては外れ、アウトラインを簡単に超えてしまい自滅。

 

 なんとも見事な格下狩り。時間をかければかけるほどに無駄な体力を奪われていたことを考えるとある意味正解だった可能性がある。

 

 上手いやつは無理をする必要が無い。出来ることをきちんと行っていればいい。リスクを取るのはいつだって格下だ。リスクを背負った攻めを行えばミスは増えて自滅する。

 

 そして圧倒的なまでの実力差があったのならばミスを覚悟して行った攻撃すらも難なく返される。

 

『いよいよあの作戦の出番だね、ラケットがロケットになっちゃったってやつ』

 

「通用すんのならな」

 

 軽口を叩きながら、息を整えつつ、頭を働かせる。テニスという土俵に持ち込めば絶望的絶望的と口にしていても何らかの活路が見えるかもしれないという浅慮は希望を容易く打ち砕く。

 

 テニスでは勝てない、それを結論付けるために無駄に走らされただけ。いよいよ持って後が無い。

 

「せめて弱点の一つや二つあってくれよ……」

 

 『いやー流石に無理でしょ……だってテニス留学でわざわざ関東の名門校へ呼ばれるレベルだもん。土台が違うよ、土台が』

 

 その情報は俺も知っていた。なにせ、今回の幽霊騒ぎの大元、テニス部に纏わる幽霊騒動を調べた時に見ていたのだ。けれども同じ県選抜というのならば三浦だって同じで。

 

 中学と高校ではここまで差があるなんて思ってもいなかった。むしろ慢心していたのだ。男女の体力差を考慮すればいい勝負に持ち込めるなどと。けれども九音だけははっきりとその実力を判っていたようで。

 

『あんまり見つめないでよ、照れる……そりゃあ私ってば現実逃避に最適なくらい可愛いけど今はそんな場合じゃないでしょ! もっと危機感持って! ちゃんと持って! 今際の際だよ!』

 

 薄れるわ、危機感……。そうじゃなくて、俺はなんで九音があのテニスウェアを着た幽霊の実力をかっているのか問いかける。

 

『考えても見てよ、あの女王様は中学校の部活動の県選抜であっても高校では辞めた人間。そんな人間とわざわざスポーツ留学で九州からこっちに来るような相手が同じレベルなわけないじゃん。実績は女王様の比じゃないよね』

 

 けどここまで差が――。余計な泣き言振り切る。解決策を探す。

 

『八幡くん、解決策が浮かぶかもしれないって期待するのはいいけど無理だと思うよ。だって彼女の望みって多分……あの雌犬一号を乗っ取ることだし。それを叶えるってことは諦めると一緒じゃん。いや、私はそっちでも全然構わないんだけど』

 

 憑依、奪う――結局のところ、口に出していた守護するという言葉は建前でしかない。あの女幽霊は雪ノ下の肉体が欲しいのだ、未練を、自分がやりたいことをする為に。

 

 生きてきた雪ノ下を否定し、生きてきた尊厳を凌辱するような吐き気を催す結末のみがあの幽霊の望み。

 

『……手の打ちようがないじゃん』

 

 気炎は吐けど九音の言っていることが全てだった。だから――。

 

「助けてくれ、九音」

 

『違うよ、八幡くん。私にお願いするときはそうじゃないでしょ。囁くように、甘えるように、恋人に口にするように言ってよね。私は君だけの悪霊なんだから』

 

 俺はいつものように口に出す。きっと思ってもいないことを、嘘を、誤魔化しを、出任せを。

 

『んふふ、任せて』

 

 それでも目の前の悪霊はそれを知っていながら、気づいていながら、いつものように力を貸してくれる。

 

 立ち上って、ラケットを手に取る。俺がサーブ権を握るゲームを始める。全力でサーブを打ったところで相手からしてみれば打ち頃の速度。それでいて素人が全力でラケットを振り抜いたところで成功率なんてたかだか知れていて。

 

「『あら、休憩はもういいんですか?』」

 

 息を吸う。余裕綽々とばかりに構える目の前の女に向けて全力で打ち込む。力任せに振り抜いた弾道は角度が悪い。このままではネットにかかり打ち直しとなる。けれども――弾道は空中で軌道を変えて、まるでライズボールのように浮かんでは再び相手の手元で沈み込む。

 

 空振り。

 

 乾坤一擲のサーブはそのままエースとなって加点。テニスコートのベンチでは九音が両手を出して汗だくになりながら――瞬間、九音の目と鼻から血が飛び出す。

 

「『そういうズルは感心しませんね』」

 

 テニスコートのベンチに座ってボールの行く末を見つめていた九音がゆらりと倒れ込む。

 

「九音!?」

 

『ぜんっ、ぜん平気なんですけどぉ! こいつめ! こいつめ!』

 

 横たわったまま近くのベンチを掌で何度も叩いている。そして二度、三度と叩いた後に自分の腕を掻きむしっていた。慌てて近づき腕を見れば青紫の斑点が浮かんでいる。

 

『い、いいい、いた、いたいた、痛くなんか全然無いから! う、うあうぅっ……ぁうぁう』

 

 足元を見れば潰された蜘蛛が数匹。

 

「……空中で休んどけ、こっちでなんとかするわ」

 

『何とか出来てないからこーなってるんでしょ! なに今更カッコつけてんの! ここは俺様彼氏みたいに俺のために痛みを堪えて頑張れって応援するところ! 痛いよぉー!』

 

 無茶苦茶言ってんな、こいつ……。けれども九音の言う通り自力で点を奪うことは叶わず、ポルターガイストに頼ったサーブで初めて点を奪えた。

 

『早くやっつけて! 私の我慢弱さ舐めないで! 雌犬一号もまとめてぶっ殺す勢いでやっつけて!』

 

 物騒な応援に再度として球を手に取り、サーブを打つべく息を吸う。そして同じように力の限りを込めて打つ. 先程とは違い、真っ直ぐに飛んでいくサーブは相手の手元で――沈み込まない。

 

『あ゛ーっ! あいつズルしてる! 私の必殺ポルターガイストサーブに干渉してる!というか、力強っ……!? 力こめたらめっちゃ血吹きでてくるー! い゛だい゛ぃ!』

 

 矢のようなリターンで返ってきたボールはテニスとしての限界を超えたスピードで――。

 

「がァっ!?!?!!?」

 

 激痛に息が止まり、陸で溺れたかのように何度も口を動かしてしまう。鳩尾に刺さるリターンエース。吹っ飛ぶなんて漫画的な展開ではなく、その場で膝をつきもんどりを打つだけ。

 

「『そっちがズルをするなら私も同じように使いますけど?』」

 

 純粋なテニスの腕では負け、霊の能力に頼った勝負も惨敗。

 

「『もういいでしょう? このまま帰るのなら見逃してあげます』」

 

 何度目かわからない降伏勧告。そのしつこさに違和感を感じる。薄々と感じていた疑惑を違和感が一つの答えへと導く。

 

 何度目かわからない。もう何度目だ? 何回聞かれた? しつこいまでに諦めろと促す幽霊。

 

 そうだ、勘違いしていた。根本的に勘違いをしている。

 

 俺は目の前に憑いているテニスウェアの幽霊について思い違いをしている。元々は悪霊ではなく―浮遊霊。それも害なすなんてことのない浮遊霊だったのだ。濡れ衣を着せられても、この校舎で囁かれても尚。

 

 目の前の少女の霊は悪霊の形損ないなのだ。元々は『悪』霊ですらなかったのだ。

 

 それが望まれたから悪霊と化して、雪ノ下に取り憑いた。けれども踏み出せない。人を本当に害す、最後の一線を。

 

 投擲された鋏を今のように操れば、三階から飛び降りた直後の無防備な背中を目掛けて刺殺できた筈。

 

 化け物でありながら、人でなしでありながら――殺人を躊躇っている。それこそ、地縛霊のホームスポットでありながら九音程度で拮抗できかけているのがその証常。

 

 怪異として、幽霊として、霊として――どこまでも弱いのだ。腹を立てても、その魂を汚されても尚、人殺しを躊躇う程度には。

 

 何故ならそこまで望まれてなく、細部など考えておらず、踏み出す悪意も存在しない。

 

「……ははっ、なんだそういうことかよ」

 

 詰んでいたのは俺じゃない。むしろ目の前の幽霊こそ――詰んでいたのだ。

 

 

 

 雪ノ下への憑依、乗っ取りは誰にも見つかってはならなかった。そもそもが幽霊が見えるなんてイレギュラーで。もっと言えば誰にも見えていなかった筈で。

 

 だから俺が部室に入った瞬間に彼女の目論見は終わってしまったのだ。誰にも気づかれずに雪ノ下に成り代わるなんてことを、死んだ人間がもう一度生き直すなんて無茶を。

 

 絶対に見つかってはならなかったのだ。

 

 見つかったのならば、目撃されたのならば消すしか無い。けれどもその覚悟すら持ち合わせていない。

 

 足山九音なら既に殺している。他の怪異でも既に死んでいる。俺の出会ってきた全ての魑魅魍魎なら既に終わっている。無様に無様を重ねて間違い続けても尚、両足の重力を感じている理由があるのだ。

 

 殺す覚悟が無い。悪霊になりきれない――地縛霊になりきれずとここに至っているのだ。

 

 俺を殺すことによって得る霊としての力、悪霊らしく人を呪い殺して得る糧など望んでいないのだ。

 

「……できないんだろ、お前」

 

「『何を――』」

 

「そりゃあそうだ。目的は雪ノ下になることだ、乗っ取ることだ。生者の肉体が欲しくて欲しくて堪んないだけ。それだけで別に地縛霊として力を増すとか、人を恐怖に陥れて怪異としての力を増やすなんて目標じゃない。むしろ、邪魔だ。ただやり直したいだけなんだろうよ。それすらも偶々手に入った力で、思いつきで、魔が挿した程度のこと」

 

「『わかったような口を! 貴方はあと三球で負けるんですよ? 死ぬかもしれないんですよ? 怖くないんですか? 命乞いして赦しを乞う立場で! 何を偉そうに言ってるんですか、内心ではビビってる曲に! 強がりを口に!』」

 

 図星だ。透けて見え始める目的が。自殺した霊、テニスウェアの幽霊、新聞に顔写真付きで報道されるようなニュースと化した事件を背景に持つ地縛霊.

 

 俺は片手で九音がポルターガイストを使おうとするのをバツマークで指示して止めて、ボールを打つ。ネットにかかる。それを拾い上げ再び打つ。またネットに。

 

『はぁ!? なにやってんの!?』

 

 そしてもう一度打ち、拾ってはさらにもう一度――ネットにかける。これでゲームポイントどころかマッチポイント。

 

『な、なにやってんの、この馬鹿っ! 八幡! 墓場の似合うイケメンっ! このままじゃあ本当に呪われちゃう! 呪われたらどうなるかわかんないんだよっ!? 死んだら私と一緒だね! 結婚しよ!』

 

 混乱している幽霊はあわあわと両手をかざして俺の握るボールを操ろうとしている。俺は両手でラケットを握り、真上へフルスイング。

 

 こんな奇策も跳ね上がりを捉えられればなんの意味も無く、九音のポルターガイストもホームである悪霊相手には通じやしない。傍から見れば単なるやけっぱち。

 

 富士山ばりの山なりサーブ。本来なら簡単に打ち返せるそのサーブを玄人は一歩も動かずに見逃した。

 

『はぇ?』

 

 理解が及んでいないのは九音だけ。要は千日手なのだ、この状況は。相手は俺に勝ってはならない。なればこそ、一球、二球と連続で決めてアドバンテージを得る。

 

 そこから相手はポイントを落とさないようにようやくと動き、同点に持ち込むが――勝ってしまわぬよう俺にアドバンテージを再び譲る。そりゃそうだ、格下の俺がミスして万が一にも勝ってしまわぬように。

 

 そして再度サーブを打つ。

 

 今度は綺麗に決まったサーブを忌々しいとばかりに打ち返してくる。ストレートに返されたボールに走って追いつきセンターラインへ打ち返すも既に相手が立っている。

 

「『なん……で! 貴方は死ぬのが怖くないんですかっ!』」

 

「馬鹿、言うん、じゃねぇよ! 死ぬのなんざ怖ぇに決まってんだろ……っ!」

 

 コートの端から端へ。コントロール良く打ち込まれたボールに全力疾走で追いつき、両手両足で踏ん張って打ち返す。

 

「やべっ」

 

 打ち返したボールはネットにかかる――案の定、ネットにかかりかけるが、勢いを完全に殺しながらも相手のコートへと落ちる。ネットインのラッキーショット。

 

 運を味方につけてようやくゲーム数は追いつき、お互いにマッチゲームへと移行する。

 

 最終ゲームのサーブ権は一打ずつの交代制だ。故に相手からのサーブではあるだがボールを拾いにいく素振りすら見えない。

 

「『ただ、私は――』」

 

 呟く言葉はもはや耳に入ってこない。あれだけおどろおどろしさを醸しだしていたテニスコートには怖れは既に無い。怪物的な恐怖は既に薄れ、弱々しいまでの少女が目に映る。

 

「『私はやり直したいだけなのにっ!』」

 

 ボールが意思を持つかのように幽霊の手元へ。乱暴に打たれたサーブはネットを超えることはない。サービスコートを超えてしまう。

 

「『あっ……』」

 

 まるでありえないミスをしたかのように目を見開いている。今までは純粋な腕の差に失点を期待できなかったが、想像よりも遥かにメンタルが弱そうだ。このまま自滅して勝ちを拾えれば――。

 

 そんな皮算用を頭に描きながらボールを手に取る。そしてサーブを打ち込めばそのまま加点へ。

 

『あれ……もしかして勝てちゃう流れ……? はぁー! やっぱうちの八幡くんったら最強じゃん! ぽっと出の幽霊になんか絶体絶命に追い込まれたかと思ってたら圧勝じゃん! なぁんだ、ざぁこ! ざぁこ! よくも可愛い私のお手々を蜘蛛で噛みやがったなぁ! 八幡くんが成敗してやるっ!』

 

 九音の応援が耳に入る。なんかこいつが調子に乗ってる時って大抵ろくな目に合わねぇんだよな……でも流石にあんだけ意気消沈してる相手に、っと!

 

 やる気の無いサーブが飛んできてそれをリターンエースで加点となる。確かタイブレークは七点先取だったか? けれども変則的なマッチアップであるから点数の動きがよくわからない。

 

「なぁ、このゲームはどうなるんだ? 七点先取でいいのか」

 

「『……』」

 

 もはややる気すら無いのか相手は答えない。

 

『どーでもいいじゃん! もうどっちにせよ楽勝だよ、楽勝! このままサクッと勝って除霊しちゃえ! そんで明日からゴールデンウィーク!』

 

 戦勝ムードを出す九音に俺は肩を竦めてボールを取りに行く。そして掴み、サーブを打とうと宙空へ。

 

『それにしても素人で高校総体やインハイに名前が載るような子に勝っちゃうなんて八幡くんってばテニスの才能あるんじゃない? イケメンすぎる目の腐ったテニスプレイヤーとしてデビューしちゃう?』

 

 呆れて力が抜けそうになる。これ応援してるのか毒気を抜くことでミスを誘発させようとしてんのかわかんねぇわ。味方のフリした敵の可能性あんな。そんな呆れを混じえつつもしっかりとボールは相手のコートへ。

 

 

 

 

 瞬間、風が吹く。

 

『――はぇ?』

 

「『もう、いいです』」

 

 風のように感じたのは速すぎるリターンエース。今までのスローなボールで行っていたやり取りとの緩急差によりまるで風が吹いたかのよう。

 

 見間違いじゃなかったら今のリターンは今日一番の速度が出ていた。

 

「『そこまでやるつもりなんて無かったのに。もうどうでもいい。そういうのもうどうでもいいです。テニスを本気でやったことないような人に負けるのは嫌。嫌だ嫌だ嫌だ――死ぬほど嫌』」

 

 は――? おいおいおいおい――っ!

 

 淀みなく放たれたサーブは間違いなく今日一番の威力で運任せに飛びかかり拾って――!?

 

 打った先には既に居た。

 

 ネットに詰め寄っていた相手はボールの軌道上に身体を滑り込ませて人間の速度じゃ絶対に追い付かない角度へのボレーを。

 

 完璧なまでのサーブアンドボレー。お手本のような一連の動きに喉がカラカラに乾いていく。

 

 ――吹っ切れやがった。

 

 何が引き金だったのか、何を踏んでしまったのか。ただの霊であった彼女は悪霊としての腹を括った。悪霊でありながらも人を害するという最後の一線を踏み越えずにいた筈で。

 

 これが人間なら我が身惜しさに気が変わったということはあるだろう。でも霊だ、幽霊なのだ。

 

 自発的なルールを破るには。霊としての在り方を変質させるほどの理由には必ず何かが必要となる。ならば、その理由は? 原因は?

 

 この場で俺が挑発し、勝負を成立させても尚も変わらなかった一線を踏み越えさせた理由は?

 

『えっ? えっ? こ、これ、私がフラグ立てちゃったせい!? オサレポイントシステムで先に勝っちゃった感じ出したせい!?』

 

 焦っているようで焦ってないのか気の抜ける台詞を吐く九音に呆れるものの多分関係がない。けれども気の抜けるような台詞以上に緊張感が漂う。正しくは嫌な予感ってやつだ。

 

 本当に吹っ切れて、悪霊としての本懐を果たすと言うのなら俺も、九音も――雪ノ下もどうなるのか。

 

 腕に持つボールが意思を持つかのように振るえる。

 

「『考え事もいいですけど二十秒以内でお願いしますね』」

 

 その宣言は恐らくルールに関するもの。あぁ、畜生、サーブって制限時間があったな、そういやぁ。そこまでルールを熟知していない俺は促されるままにトスをあげて、打つ。

 

 そもそも明確なルールなど存在しない非公式戦だ。それっぽい理由なんて言ったもん勝ち。そのことを打つ直前に思い出してみればブレブレのメンタルから打ったサービスはあまりにも平凡。

 

 平凡な打ち筋に強いリターン。ストレートに返された球筋はライン際へ。必死に追いつくが、体勢は整っていない。相手のコートをちらりと伺えばセンターラインに戻っており、全方位をカバー出来る位置に立っている。

 

 迷った末に打ったショットはセンターラインに立つ少女の正面方向へ。視線から打球を予測し足を反転させて、反対へ。端から端へ簡単に返されるだろう甘い打球を打ってしまった。

 

 センターラインへ戻ろうとした瞬間に背後に打たれる。視線とは逆側を打球が綺麗に駆け抜ける。

 

「『あと四球』」

 

 その小さな呟きは終わりまでの残り時間。どうやらもう二度と失点を許すつもりはないようだ。サーブ権は移り、挙げられたトスからの一閃。凶悪なスピードと外へ逃げる軌道を描くサーブは無慈悲にもラケットから逃げていく。

 

「『あと三球』」

 

 転がったボールを手に取る。強く握りしめても打開策など思いつきやしない。

 

 何故、振り切った、何がトリガーだったのか? ぐるぐると解決策になりそうにもない得もない疑問が頭の中を占める。

 

 負けたくない、と目の前の女は言った。素人には負けられない、と。もしも――敗北が理由だったのならば、負けることが許されないのなら始めから勝ち目など無かった。

 

 ――思い出せ。思い出せ。思い出せ。少しでも時間を稼げ。

 

「そんなに飛ばしてると雪ノ下の体力は持たねーぞ」

 

「『そんなの、もう、どうでもいい。くれないならこんな身体もういらない。私はあなた達と違って何度でもやり直せる。こんな身体捨てて、新しい身体を用意スればイイ』」

 

 あぁ、なんとも化け物らしい考え方だ。だから皮肉気に、自信たっぷりに、厭らしく笑う。

 

「そんな考え方だから負けたんだろ」

 

 サーブを打つ。自分でも会心とも言える一球は幽霊が回り込み、力強く打ち返してくる。

 

「『何を――』」

 

「やり直せるわけねーだろ、やり直していいわけねぇだろ。捨てていいわけねぇだろ、負けたらやり直し? ざけんな」

 

 足はまだ動く。身体は鉛のように重くとも足を止める理由になんかは到底ならない。負けたら死ぬんだ、だったら死ぬ気で足掻くことしか出来ない。そんなことすら忘れた化け物に、負けたくねぇ。

 

「そもそも負けた奴が今、戦ってるやつの足を引っ張ってんじゃねぇよ. 生きることに敗者復活戦なんてあるわけねぇだろ! 自分で手放したんだろ? なら――」

 

 届かない、届かない。足があと一歩、あと一歩分の距離が!

 

『っうぅぅぅっ!』

 

 その一歩分の距離が霊の力業で強引に狭まる。スポットに入ったボールを全力で打ち込みライン上へ。

 

「『死ぬしか無かったんだから仕方ないじゃないっ!』」

 

 

 

 ぐちゃぐちゃの感情を混ぜた慟哭が投げられる。その瞬間――暗転。まるで視界が暗闇に覆われて、声は遠くなり、重力すら消え始める。

 

 何が――っ。

 

 目が熱い、眼球の奥、脳髄に直接ナニカが流れこんでくる。

 

 何が――。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「風邪引かんようにね。あんま無理せんとよ。向こうはこっちと気候が違うから気をつけてね」

 

『元気にしとる? 困っとることない?』『大丈夫? 無理せんとよ』『困ったらすぐに電話してね』『いつでも帰ってきていいけん』

 

 全国高校選抜。春の福岡で開催されるその大会に出場することは私の悲願だった。本来なら私が出ていた筈の高校選抜をテレビで見ていた時のことだった。

 

 今まで積み上げて来たものを崩した半年前の対外試合で私は『テニス部』でもなければ『テニススクール』に通っているわけでもない少女に負けたのが始まり。

 

 運動神経がいいだけの素人もどきに負けたのが転落の始まりだった。強いことだけが許されていて、勝つことだけが私の価値で。弱い人間は強い人間の足を引っ張るばかりか邪魔をする。

 

 負けることは許されなかった。私の価値が転落した瞬間に弱者はハイエナのように群がってきた。

 

 私に許されてたのは勝って結果を残してきたから。

 

 わがままも、協調性の無さも、自由も、生きることも。

 

 だからスランプなんて決して許されなかった、ましてや見下していた人間の前で決して弱みを見せてなんてはならなかった。弱い人間はどうして弱いのか理解せずにただ頑張っている人間の邪魔をする。

 

 醜い己を正しくあろうとするために綺麗なものを汚す。私は綺麗だった、綺麗だった筈だ。努力は実を結び、中学の頃から他とは違い、羨望の対象であった筈だ。だからこんなの間違いで。

 

 切り刻まれたテニスシューズ、人為的に折られたラケット。全部『自分』の手でやった。

 

 それでいて――不調の理由を部内のイジメによるものだと訴えて、全てが明るみに出された。

 

 どこまで堕ちれば気が済むのか、と今まで目をかけて教えてくれた人は蔑みを持って見放した。

 

 イジメはあった。

 

 あったのだ、きっと。けれどもそれは大人が言うような証拠を持つものではなくて、大人達が言う人間関係の当然というやつで、テニスにだけ集中していた時には聞こえなかった雑音で。

 

 画面に映る別の学校の子を見ながら私は――目の前に置いて錠剤。震える手でそれを掴んで、一気に呷る。クラクラと陶酔感が支配してぽっかりと空いていた穴が埋まるような感覚を覚えた。

 

 

 

 ――あー、お母さん泣くだろうな……。

 

 

 

 幼少期から母に怒られたことはない。泣かせたこともあんまり無かった。ただ一度だけ泣いてるのを幼い頃に見たことがある。寝言で泣きながら私の名前を呟いて泣いていた。

 

 裕福ではなかったけど私はあまり気にしなかった。友達なんていなかったけどテニスがあった。母はテニスのことをよく知らないけれど練習試合から大きな大会まで来てくれた。朝早くから作ってくれるお弁当が大好きだった。

 

 不満なんて無い。無いのにいつまで立っても母が泣いていた時の記憶が過る。もっと幸せにしてあげたいと泣いていたその理由は何だったのだろうか。私は充分に幸福なのに。

 

 世間一般の幸福だとか豊かさなんてものは要らない。それを伝えるには私は口下手で充分に幸せで。

 

 本当にそうだったのか?

 

 幼い頃、私は本当にそんな風だったのか? そうだったのなら母は泣いていなかった筈だ。私が――言ったから、母は困ったような顔して謝ってきたのだ。

 

 ずっと後悔していた。後悔してきたから目を背けるナニカが必要で。勝てば喜んでくれたから、凄いねって褒めてくれたから、赦される気がした。謝ってもいないのに、都合よく忘れて許されようとしていた。

 

 ずっとずっとずっとずっと覚えてる。

 

 ジャージ姿のままサンダルで外に出る。冬が明けても未だに寒さが残っている。

 

 ふらふらと覚束ない足取りで私は――。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

『――くんっ!』

 

 泣きそうな声で目が覚める。時間が飛ぶかのような感覚。 幸いなことに肩から落ちたらしく側頭部と肩以外に鋭い痛みは無い。

 

 それにしても今のは――。

 

「『私はただ、ただ――謝りたかっただけなのに』」

 

 その言葉に今見た光景が何だったのか、直感的に理解する。最期、今際の際。悪霊ですら無かった。悪霊なんかじゃ無かったのだ。ただ、望まれたから、噂されたから、そうアレとされたから。

 

 歪な形の霊の本質は『未練』だった。ただ母親に謝りたいと嘆いていただけなのだ。そこで一生、誰にも知られずに、誰にも関われずに永遠に後悔し続けるだけの存在だったのだ。

 

 雪ノ下のためだとか、やり直しだとかは後づけの理由でしかない。きっと出来ると思いついたから、魔が差したから口に出したに過ぎない。

 

 本当にやりたいことは――。

 

 そこまで思いついて、そこでようやく最低で、救いの存在しない結末が見える。自暴自棄になって、どうしようもなくなって、全てを捨てたことを後悔してるのに、また捨てようとしてることが間違いなのだから。あの女幽霊の敗因は捨てちゃいけないものを捨てたことによるものだ。

 

 生きている時も、そして死しても尚。

 

 よぎったのは破滅。俺の力が及ばないエンディング。

 

 ミスは敗北どころかバッドエンドを超えてのデッドエンドの可能性がありあり。それでも死ぬことがまだ救いがあるかもしれないってのだから一筋の光も無かった。

 

 純粋なテニス勝負では負けて、霊に頼ったオカルトテニスでも九音は惨敗。そんでもって口先だけで何とかしようとしても事態は悪い方向へ。

 

 この勝負の終わりは俺が呪われて終わり、雪ノ下を乗っ取られる。そんな結末だった筈だ。少なくともテニスで勝てやしないし、雪ノ下から引き剥がすことも叶わない。そうだったのだ、そう思っていたのだ――つい今しがたまでは。

 

 けれども、ようやく気付く。相手の負け筋が浮かび上がる。初めから俺は知っていたのだ。

 

 今見た光景。白昼夢なのか、目の前の女幽霊の過去なのか。そんなものは関係ない。可哀想だとか微塵も思わない。悪霊ですらなかった存在が無理矢理にも堕とされたことに同情なんてしない。

 

 感情は邪魔でしかない。

 

 一瞬しか見えなかった光景は他人事でしかなく、自暴自棄の自作自演の失敗談。だから俺は――哀れまない、可哀想だなんて思わない、他の誰かが憐れに思ったとしても、他人事のようにしか見ない。ここで顔を知って、声も聞いて、背景も調べていて、先ほど見えた末路を見ても尚。

 

 どんな理由があったにせよ、人を害す存在でしかないのなら、俺は――。

 

「全部、自業自得じゃねぇか。何が雪ノ下のためだ、人中たりよくなれるだって? 冗談も休み休み言え……いいか?教えてやるよ、悪霊。ボッチは死んでもボッチなんだよ、変わりたいってだけで友達できるなら材木座ですら彼女作れるってーの」

 

 起き上がりながら否定する。成り代わって今度こそやり直そうなんて夢物語を見る人でなしに言い放つ。

 

 いつか足山九音は言っていた。環境が変わっても、周りが変わっても、自分が変わらなければ何の意味も持たないと。外見だけで人気者になれるなら始めから雪ノ下は人気者だ。ついでに俺も人気 者でモテモテハーレムのラノベ主人公な筈。

 

 そうじゃない、そうじゃないからこそこうなった。だからその願いは、その妄執は、その思いこみは間違いなのだ。

 

 初めから間違い、っていうか取り憑いたやつが大間違い。なんならその人物の周辺も大間違い。

 

「『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい! どうして否定するの! どうしてやってもないのに間違いだって言うの!? 皆、私を凄いって言ってたのに! 期待してるって! 尊敬してるって! 憧れてるって! 応援してるって言ってたのに! どうしてみんな裏切るの!』」

 

 半狂乱になり、目は血走り、負の感情が悪霊としての側面を強める。 俺は息を吸い込む。チャンスは一回だ。失敗すれば気づかれるかもしれない。

 

 気づかれたら終わりだ、知られていたら終わりだ、それでも――知ってやしないだろう。雪ノ下を乗っ取り、雪ノ下のことを知っていたとしても、雪ノ下の知っていることを知っていたとしても。雪ノ下の過去を知る術があったとしても。

 

 俺が、俺だけが知っている雪ノ下を知らないのなら――。

 

 だから、俺は息を吸い込んで、いつものように叫ぶ。同時に高くボールを放り、渾身の力でサーブを打つ。唾棄すべき愛の言葉で、あまりにも他力本願な解決方法を口にしながら。

 

「――――そんなに生きたいって言うんなら百年でも、二百年でも寿命を延ばしてやるよ! うちの性悪がなっ!」

 

「『一体、何を――ッ!』」

 

 俺の渾身のサーブに困惑をしながらも回り込もうとした瞬間に――絡まる。テニスシューズの靴紐が滅茶苦茶な動きで足を引っ張り、方向転換を失敗させようと試みる。

 

「『こんな小細工ッ!』」

 

 わずかに体制を崩す程度。そのうえ、崩れて『飛び込んだ』体制ですら返球は鋭い。あまりにも鋭いリターンに俺は動くことも出来ずにボールを見送る。

 

「『そんな一発芸で勝てると――』」

 

 宙を仰ぐ。足は既に限界を超えて、全身に脱力感が襲い掛かってくる。そしてこの抜けるような感覚はいつもと同じ。

 

 すべてのことが終えた時に感じる浮遊感。全ての手札を切りきってもはやこれ以上があるのならどうしようもないと諦めれる程度には満足している。

 

 なんの変哲もないサーブ。悪あがきのようなポルターガイスト。

 

  勝てなかった。俺は雪ノ下を助けることなんてできやしなかった。そんなものはわかっていた。わかっていても尚、身の程を弁えなかったことが大間違い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも雪ノ下雪乃は助かった。雪ノ下雪乃であるが故に。

 

 

 

 

 

 

 

 この春の戦績を振り返って見よう。九十九神から始まり、怪人に繋がり、送り犬を見て、呪物を口にし、蜘蛛に白昼夢を見せられた一連の成績だ。

 

 俺が解決できたのは一つも無い。九十九神は九音の機転により依代へ戻し、怪人の怨念を見誤った、解決したなどと思いこんでいたから窮地に陥り、送り犬はきちんとお見送りした筈なのに奉仕部室には居座ってたし、呪物は物の見事に呪われ、蜘蛛の夢などバッドエンド。

 

 あまりにも戦績が悪すぎる。トータルの戦績も然ることながらこの春に至ってはよくてひきわけが少しの大体敗北。

 

 そして、今回も――俺『は』勝てない。

 

 他人の足を引っ張ることに関しては一家言ある幽霊を俺は知っている。そんな幽霊に足を引っ張られて『転んだ』悪霊未満が起き上がり、靴紐の原因を睨みつけ手をかざす。

 

「『そんなこと二度とできないようにしてあげますね』」

 

『いたっ! いたたたたっ! 痛い痛い痛い痛い! やめろ! やめてっ! やめてって!』

 

 九音の悲鳴。まるで全身が拗られるかのように下半身と上半身が捻れている。早くしろと、と祈りにも似た願いをこめて数秒、九音の悲鳴は聞こえなくなり、代わりに響く――女幽霊の絶叫。

 

 雪ノ下雪乃ではない。出逢っていない雪ノ下ではなく、出逢ってしまっている、知ってしまってた幽霊が――転倒したのだ。

 

 それも雪ノ下に害をなす悪霊が、雪ノ下の身体なんて振り返らずに俺を呪おうとする悪霊が。 

 

 赦せるわけない存在が居たのだ。

 

 

――――あァァア゛ぁアァ!!

 

 

 

 絶叫が響く。テニスコートに現れた怪異は唐突に現れた。いや、ずっと居たのだ――見送られることもなくずっと。主人が良いように使われているのを見ていたのだ。

 

 けれども女幽霊は転ばなかった。それだけではなく、雪ノ下の身体を使っていた。手を出せる訳がなかった、彼女を救いたいという嘯きは敵かどうかも判断つかなかった。

 

 けれども捨てたのだ、建前を。雪ノ下のためだという嘘を。

 

 故に俺が勝ったわけじゃない。足山九音が勝ったわけじゃない。雪ノ下が自分に捧げられた力で勝手に勝つのだ、自分が作った呪いで惚れさせた相手に助けられるのだ。

 

 美女と野獣ではないから最期にキスをして獣が人間になるなんて展開はない。

 

 けれども――。

 

「『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! この子を! 私は! 私は好きになりたくない! 許されたいわけがない! 私を好きになんてなりたくない゛‼ 嫌ァァアァァっ!』」

 

 抜け出る――いや、飛び出ると言ったほうが正しいのかもしれない。自暴自棄の末路の幽霊が自 分を好きになんてなれるわけがない、自殺して未練を残す幽霊が自分を愛せるわけがない。

 

 仮に肉体は雪ノ下だとしてもソレに成り代わるのは自分だ、成り代わった時に自分が自分を好きだなんて悪夢にも程があるのだろう。

 

『あ、え、アァぁぁぁっ! おかあさんに、おかあさんに謝れるチャンスが、ああぁぁぁぁぁっ!』

 

 抜け出た半透明の女は雪ノ下にはとても似ておらず。健康そうに焼けた肌なテニスウェア、すらりと伸びる手で顔を掻きむしるその様。何度も、何度も掻いて、血だらけで剥がれ落ちそうだ。

 

『あや、まらなきゃ』

 

 声が少しずつ弱々しくなり、今にも消えそうなほど姿が薄れて尚、望みを呟いていた。ゆっくりと消えていく光景に、俺は――。

 

『駄目だよ』

 

 踏み出そうとした足が剥がれない。両足に力を入れても目に見えない何かに押さえつけられるかの如く、動き出すのを封じていた。

 

『駄目だから』

 

 今にも泣きそうな九音の声が俺の全身の力を奪い去っていく。まるで気の迷いだったかのように動かそうとした指の力は失われていく。

 

 実際に気の迷いなんだから。伸ばしたところで何もできやしないのに、無責任に伸ばした末路を知ってなお、見聞きしていられなくて伸ばそうとしただけなのだから気の迷い以外の何でもない。

 

 悲鳴は消えていく。慟哭はまるで気の所為だったとばかりに。死んで尚、抱えていた本当の願いは誰にも気付かれずに、知られずに消えてなくなっていく。

 

 確かにあったものは、今はもう無い。

 

 俺はもう動かない。決して助けようなんて思っちゃいない。助けられるわけもないのに無意味に手を伸ばしたりしない。

 

 消えていく、消えていく、消えていく、消えてなくなっていく。

 

 生きている人間が言ったのなら嘘か真か判断つかない言葉も。死して尚、今際の際に吐き出されたのなら間違いなく本心で本音で本物なんだろう。

 

 けれども俺は見て見ぬふりをする。そうすることでしか自分の身を守れないのだから。傲慢にも身の程を知らなかった一年前と異なり、相応の経験を積んでしまったが故の判断。

 

 哀れであっても、痛々しさすらあったとしても触れてはいけないものがある。我慢できずに助けた末路が今横たわる少女なのだから。

 

 俺には誰も救えやしない。オカルトめいた世界で命からがら生き抜いてきても何一つとして都合のいい能力なんて何も得られなかった。

 

 誰も助けてくれやしないからいつだって手当たり次第で大体が大間違い。

 

 今回のことですらそうなのだ。

 

 きっと雪ノ下雪乃は助かった。俺が何もしなくても。俺が勝手に空回りして大立ち回りをした『ふり』をして問題を大きくしただけ。

 

 だからこれは罰なのだろう。慟哭のような、怨嗟のような、絶まま残っている願いが今も耳に残るのは。

 

 ただ謝りたいとだけ最後に残した少女が消えていく。底冷えするかのような空気が霧散していく。

 

 テニスコートに大の字で横たわりたい気持ちを必死に抑えて雪ノ下の様子を近づいて伺う。

 

 脈を測り、生きていることに安堵する。鉛のように重い両手足を動かして眠ったように動かない雪ノ下を背負う。

 

『放っておけばいいのに……』

 

 九音の魅力的な提案に頷きそうになるが、いつの間にかテニスコートに居たなんて怪奇現象を、不憫なまでに狙われた少女と共に放置などすれば俺は恐怖のあまりに二度と学校に通えなくなる。

 

 怪奇は怪異を呼び寄せる。

 

 なればこそ雪ノ下には日常を送ってもらうのが一番だ。

 

 ただでさえ俺は俺のことで精一杯なのに、これ以上の怪異の種が増えたら俺の受け持てる容量を大幅に超えるってもん。まぁ、今まで一度たりとも受け持てるものなんて無かったのだが。

 

 近づいて軽く頬に触れてみても起きる様子はない。深く意識を失っている雪ノ下をしっかりと背負っては、よろよろと歩き出しては奉仕部へ。おぶった直後に案の定、女三人分くらいは騒ぐ幽霊がいつものように喚いている。

 

 女幽霊なんて足山九音だけで十分姦しい。一人なのか、一匹なのか、一体なのか、一柱なのか。

 

 数え方すらよくわからない謎の物体でお腹一杯.

 

 振り返ってみても何も居ない。照明すら落ちていないテニスコートがただそこにあるだけ。

 

 きっと誰にも知られず。ましてや自らとは関係のない学校の生徒たちにおもしろおかしく扱われた末路なんて誰も想像すらしないだろう。

 

 そしていつか痛い目を見るのだとしてもそれは今日じゃなかった。まるで問題がすべて解決したかのような考えが大間違い。

 

 俺達は問題なんて解決できない。そんな超人染みた特殊能力なんて何一つ持ち合わせてはいないのだ。

 

 いつか、誰かがそのツケを払うことになるだろう。

 

 おもしろおかしく、青春のスパイスとばかりに気軽に扱っては取り返しのつかないことになる。

 

 そんな未来があったとしても。今日の俺や雪ノ下の話ではなく、知らない誰かのお話なのだから。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 幸いなことに部室までの廊下の道で誰とも遭遇することは無かった。時間帯的に最終下校時刻間際時間帯。 

 

 奉仕部の扉も自動ドアの如く開き、未だに開きっぱなしのパイプ椅子にゆっくりと起こさないように雪ノ下を下ろして見つからないように去ればミッションコンプリート。

 

 あまりにも簡単なお仕事だ。

 

 そして比企谷八幡がクールに扉から去ろうとした瞬間にご都合主義かのように目を開いた雪ノ下とばっちり見つめあってしまう。

 

「比企谷……くん?」

 

 まるで寝起きのように呟かれた俺の名前はここ最近ではいつものことのようで、少しだけ違う。

 

 ほんの少しだけ何かが違う。

 

「ここは……」

 

 キョロキョロと周囲を見回して段々と顔を青ざめていく。最終下校時刻に近い奉仕部の部室はあの夜と非常に似通っている。

 

 けれども違うのだ。あの時は間違いだったと俺は言葉にする。終わった話だと口に出す。

 

「別に不思議も何もねーだろ。昼間あんだけ動いてりゃ熟睡して最終下校時刻を寝過ごすなんて」

 

 本当のことなんて話せやせず、さも普通の出来事のように偽る。

 

「待ってて……くれたの?」

 

 熱っぽい吐息のような問いかけに否定する。

 

「そういうわけじゃねぇよ。部室に忘れ物して取りに来たらお前が居ただけだ」

 

「……そう」

 

 俺の言葉をどう捉えたのか雪ノ下は少し考える素振りをして立ち上がろうとする。その瞬間、以前のようによろけては転びそうになるものの机に手をつくことで間逃れる。

 

「……」

 

半歩分近づいた距離で見上げるようにこちらを見てくる。

 

「今日は一人で帰れるわ」

 

 半歩離れる。短く「そうか」と返事をして俺は逃げるかのように背を向けて奉仕部の扉へ。首に巻きついている女幽霊が『早く帰ろう』とか『送るつもりなんてねーよ』と喚いているので溜まったものではない。

 

 雪ノ下が口に出した言葉。

 

 その言葉にどんな意味があったのか、どんな気持ちがあったのかわからない。

 

「あのね……比企谷くん」

 

 扉に手をかけようとした瞬間にポツリと。震える声で、何か大事なことを言おうと。

 

「多分、あなたのこと、好きだったのに、大好きなだったのに、愛していたのに」

 

 まるで懺悔するかのような。

 

「愛していた筈なのに」

 

 それが間違いだった。たかだか高校生が愛とか重すぎて、恥ずかしすぎて、心の底から言えるわけなんかない。だから俺は信じない、信じちゃいけない。俺が使っている安っぽい言葉に付加価値がつかぬように、絶対に。

 

「今は……今は愛していないかもしれないの。好きな筈なのに、大好きな筈なのに……」

 

 俺はその告白に後ろ向きに手を振る。短く別れを告げては歩き出した。 時計を見ればあれだけの大立ち回りをしたにも関わらず最終下校時刻少し前だというのだから俺の体験はまるで悪夢であったとしか思えない。

 

 夢にしては全身が痛いし、鉛のように重い。夢であれば良かったと常々思う。夢であったのならいつかは覚めるのだから。

 

 雪ノ下はきっと覚めるのだろう。もうすぐ冷めるのだろう。

 

 俺だけがいつまでも見ている。見えている。見続けている。一年前のあの日から覚めぬ悪夢のような日々を過ごしていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 月夜が見え始めた頃に俺は家に辿り着いた。短い挨拶で帰宅を告げ、返事も待たずに部屋へと一直線。鞄を乱雑に机に放り投げてはベッドに四肢を投げ出して沈み込む。

 

 土埃や身体のベタつきにシャワーが恋しい。恋心を嗜めるのは徒労感。張り詰めていた緊張感が解れて、ただでさえ重かった身体にさらなる重力を課すかのように足を動かすまいと鎖のように巻きついている気すらする。

 

「あー……しんど……」

 

『ねぇねぇ、あの女にふられて傷ついた?』

 

 少しだけ優し気な、それでいて喜色を富んだ声に俺は否定を口にする。

 

 帰り道に雪ノ下へのヘイトスピーチをこれでもかってしていた女幽霊である。ついでに由比ヶ浜や戸塚のことも。 

 

「傷つくわけねぇだろ、別に振られたわけじゃねぇよ」

 

『じゃあ、残念がってる?』

 

「それも無いっての。残念がる要素一つもねーだろ。むしろ清々したっての。初めから間違いだったんだから、訂正されたんならそりゃ正解だろ」

 

『間違い……ね。うんうんうんうん、そうだよねそうだよね。そもそもこの春の出来事が悪い夢みたいなもんだったし。というかここ最近の遭遇率やばいでしょ. 八幡くんには私だけで十分! 八幡くんが怪異や女の子にモテモテなんて間違っている! ってやつだね』

 

 ここまで否定されることを言ったか、俺……。ベッドの上でゴロンと転がれば宙に浮かぶ幽霊が目にはいる。上機嫌も上機嫌。数十分前まで泣き叫んでいた女とは思えない。鶏ですらもう少し感情を覚えてて後引くことだろう。

 

 鼻歌交じりで天井付近でくるくると回っている。俺は足山九音で手一杯で腹一杯なのだ。ただ一人、一匹、一柱で姦しい。

 

 幽かなんて言葉には喧嘩を売っていて、御霊なんて仰々しさからは縁が無いほどに俗っぽく。幽霊と呼ぶにはあまりにも華々しく、毒々しい。悪霊するにも何もかもが足りてなくて、浮遊霊とするには自己主張が強すぎる。

 

『それでそれでゴールデンウィーク何する? ゴールデンなウィークだよ?』

 

 コンコン、と部屋の扉がノックされる。

 

「お兄ちゃーん? 入るよー」

 

 ガチャリと扉が開いて、小町が顔を覗かせた。部屋に投げ出された俺の姿と、ボロボロのカッターシャツを見て、小町は一瞬だけ目を丸くした。

 

「うわ、何その格好。またどこかの茂みでご休憩でもしてきたの?」

 

 小町の物言いは人によっては誤解を招く可能性がある。俺は重い身体を上半身だけ起こしてバッチィという視線を向ける妹へ向き直す。

 

「いや……まあ、ちょっとした運動してきただけだ」

 

「運動? なら制服くらい着替えなよ……ボロボロじゃん」

 

 小町は呆れたようにふう、と息を吐くと、腰に手を当てて俺を見下ろした。

 

「まあいいや。お母さんから連絡あって、今日はお父さんと遅くなるんだって。だから夕飯は小町が作るね。お兄ちゃん、お風呂入って着替えてきて」

 

「了解。すぐ行く」

 

 小町が扉を閉めて部屋を出ていく。その背中を見送りながら、俺はもう一度、深くベッドに身体を沈めた。

 

 雪ノ下が最後に残した言葉が、まだ耳の奥で微かに反響している。

 

 ――好きな筈なのに、大好きな筈なのに、今は愛していないかもしれない。

 

 それは、彼女に取り憑いていた怪異の「未練」や「妄執」が剥がれ落ちたからにすぎない。

 

 間違っていた関係が、正しく訂正されただけ。

 

 なのに、どうしてこれほどまでに胸の奥が冷え切っているのだろうか。最初から何もなかったのだ。俺が勝手に巻き込まれ、勝手に傷つき、勝手に終わらせただけのお話。誰にも知られることのない、春の夜の幻。

 

『……ねぇ、八幡くん』

 

 いつの間にか、九音が俺のすぐ隣に横たわっていた。重さを持たないはずの彼女の気配が、なぜか少しだけ冷たく、速度を落とした鼓動に寄り添うように。

 

 ああ、そうだ。

 

 俺の青春は、最初から最後まで、どこまでも間違っている。

 

 怪異にまみれ、幽霊に脅かされ、それでもなお、この歪な日常を終わらせることができない。

 

「お兄ちゃーん! ご飯できたよー! 早くお風呂入って!」

 

 下から小町の元気な声が響く。

 

「今行く!」

 

 短い返事を返し、俺は重い身体を引きずって起き上がった。ラケットを握っていた右手が、今も微かに震えている。

 

 暗闇の中、青白く光る悪霊の手が、俺の影にそっと重なったような気がした。

 

 俺たちの間違った日々は、きっとこれからも続いていく。この冷たくて、どうしようもない日常の裏側で。

 

 俺だけが間違っている。俺だけが間違い続ける。

 

 俺だけが知っている。足山九音という幽霊のことを。

 

 一人でも煩くて、一匹でも姦しく、一柱と崇めるにはあまりにも俗物で、幽霊なんて単語がちっとも似合いやしない。

 

 そして、化け物とするにはあまりにも綺麗なそいつは――。

 

 

 

『うぇへへへ、ゴールデンウィーク。もう期待しかわかないね。もうこりゃあ一線超えちゃうかな。だ、駄目だよ、八幡くん! んもぅ、しょうがないなぁ……ハッ! うぇへへへ、ヨダレこぼれちゃった』

 

 隣で頭も内容も悪いことを口に出して妄想していた。俺は小さくため息を吐いて立ち上がる。

 

「んじゃ、風呂いってくるわ」

 

『いってらー』

 

 まるで生きているかのように返事をする女幽霊を幽霊とするにはあまりにも怪異に対して失礼だというもの。

 

 それでも足山九音は幽霊なのだろう。悪霊なのだろう。俺がどれほど似合わず、らしくないと思っても。

 

 足山九音が幽霊なのは間違っている。幾らそう考えた所で足山九音は間違うことなく女幽霊であった。

 

 

 

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