足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
『男性にとって寝取られというシチュエーションには三つの楽しみ方があると思うんだよ、八幡くん』
本日の最後の授業は数学。耳にする文字列が睡魔となって襲いかかり、夢の世界へと引きずり込もうと躍起になる。そんな数学の時間は寝るのが自然の摂理とばかりに瞼は重力のまま引かれていく。そんな摂理に待ったとばかりに自称美少女の浮幽霊、足山九音が話を広げ始めた。
『一つはATM側の視点。いわゆる寝取られる側というヤツだね。つまり陰鬱とした感情を楽しむマゾヒスト。次に寝取る側の視点、君がこそこそと読んでいる漫画に出てくる竿役という視点。でも、よくよく考えてみればアレは寝取られというよりも寝取りといった方が分かりやすいような気がするんだけど。少なくとも大多数の読者が感情移入するのはATMよりも間男側じゃない?』
数学の時間である。そんな時間帯にベラベラと、薄っぺらい内容かつ九音自身もどうでもいい上に大して興味もないであろう話題をこれでもかとばかりに風呂敷を広げては話し続ける。
ちなみに主張させてもらうが俺が読む漫画にそういった偏りは断じて存在しない。ないったらないのである。
『……まぁ、君がそういうならそれでいいけどさ。ともかく、同人であれ、二次創作であれ主人公の恋人ないしヒロインが寝取られるという意味合いでは寝取られって成り立つんだと思うんだけど、オリジナルのキャラクターもしくは女性キャラクターを視点に物語が進んだらそれはもう寝取られというよりかは寝取りだったり浮気なんじゃない? って思うんだ。っとと、ちょっと話がそれたね、そうそう、三つ目の視点だ。第三の視点の御話。特殊なパターンで女性に感情移入しては寝取られる側の視点もあることにはあると思うけど、それは特殊性癖すぎると思うから今回は除外させてもらうね。ともかく、ATM、竿役に続いて第三の視点、第三者の視点』
先日、猥談を振ったとき呆れた視線は記憶に新しい。こいつそのこと忘れてねーか? 数学の時間に猥談にふける男子高校生と女子高生の幽霊。しかも微妙に興味がそそられない話題のジャンルである。
『第三者の視点。そうだね、覗きという表現が近いかな。メタ視点といえばちょっぴり神様の視点っぽくて、でもやっぱりこんなゲスな視点を神様呼びは相応しくないから、やっぱり覗き。うんうん、覗きゲス野郎的な視点、出歯亀するような楽しみ方の話なんだよ。この寝取られというジャンルを考えたときに三つ目の視点で楽しむ人間って決して少なくないと思うんだけど。寝取られたATMの惨めな姿、寝取られた女の浅ましい倫理観、寝取る男の、そんなことが罷り通る狂った世界観。ぶっちゃけどこをとってもどこに興奮するのか私には理解できないジャンルなんだよね。フランスにも似たような文化があるらしいけどやっぱりよく分かんないや』
やれやれとため息を吐いて、尚も話を続ける。割とこの話についてはお腹一杯になってきたのだが。
『私は昨日、色々と考えた結果、この寝取られっていうジャンルはファンタジーだって話に気づいたんだ』
聞き流していたのかいきなり飛んだ話題にどうしてそうなったのか耳を傾けてしまう。
『ぶっちゃけさ、パートナーを裏切って性行為に夢中になるなんてさ、病気じゃん? そんなの嘆いている前に病院連れていけよって話なんだよね。とはいえ、そんなことがまかり通っている以上、その世界の常識や倫理は舞台設定に従う他ないんだよね。そこに現実的な考えや判断なんて必要ないんだから。もしもさ、寝取られという題材で寝取られない女性が出てきて、いよいよ最終回を迎えて紆余曲折あって結局のところ寝取られない! ってなればギャグなら許されるけど、真面目に寝取られ漫画展開していて期待しながら読んでた読者が居たなら大炎上。それとは真逆で少年誌なラブコメにおいて寝取られなんていい火種。この二つ例が炎上するのはどうしてなのか、考えずとも丸わかりだよね。だって、そんなの誰も『求めていない』から。ラブコメにおいてヒロインの心変わりも、ヒロインが他の男性にときめくということも。何もかも許されない。ヒロインは主人公以外の男性に恋をしてはならない。これは少年ラブコメの不文律』
そこまで話して九音はひゅっと軽快に飛び上がり、ぐるりと教室を見回す。
『でも、それって本当に恋愛なのかな。ヒロイン達が本当に主人公のことだけが大好きで、他の男子に見向きなんてしないってコメディーなんて笑い話じゃなくてぞっとするくらい気持ち悪さが残るホラーだよ。もしもそんなヒロインが居て、血が通っているのなら間違いなく病んでいて、一人の男で頭が一杯で、他の男が見えやしない盲目なんて私達、化け物の領分。それほどまでに狂おしい愛を抱くのは私達であって人間なんかじゃあないんだ。もしもそんな人間が居たのなら、人間ではなくて人間がどうか怪しい人、存在なんだよね。だからもしもそんな存在が人間として扱われるならフィクション、物語でしかないと思うんだ』
九音の瞳は一人の女子生徒に止まった。クラス内でトップカーストに所属する女子だったと記憶している。
『ねぇ、知ってる? 女って生き物は男が思っているほどにバカじゃないんだよ。漫画の中にあるラブコメのヒロイン達にもしもリアリティを追求するなら主人公のことを大好きだって主張をしておきながら、仲の良い男子は他にも居るし、好みなタイプの異性が色っぽい仕草をすれば惚けちゃうし、もしかすればキープとして思わせぶりな態度をとっている相手がいるかもしれない。でもね、フィクションである少年漫画、青春ラブコメにはそんな描写は一切存在しない、許されない。誰も望んでいないのだから。だって、そういう展開を繰り広げれば君たち男子高校生はそういうものを寝取られだと騒ぎたて、女性をビッチ扱いするでしょう?』
何故、こんなにも益体もない話をべらべらと。九音自身も興味が薄い話をするのか。俺はそっと机の中から顔を出した小テストの点数を眺める。
『まぁ、ヒロインという言葉は呪いなんだろうね。読者にとっての都合の良い玩具でしかないんだからさ』
殆どがペケで埋まった一枚の紙。そこから生じた余計なおせっかい。迂遠すぎてもはや体をなしていない。根本の目的などまるで忘れたかのようなやり取り。それでも最低限の目標は達成している。
『つまりね、リアルに居る女性とフィクションのヒロインっていうのはまったくの別物なんだよ。この物語はフィクションですって書いてるのに、それに心を入れすぎるから大騒ぎしちゃう。寝取られだって騒ぐ前にきちんとそれが作り物だってことを忘れるべきじゃないと思うんだ。作り物で偽物の御話をまるで現実にいる自分が傷つけられただなんてどんな呪いの書なんだって思うんだ。そもそもが仮にヒロインが主人公のものだったとして、それはお前の、お前らのものなんかじゃないと思うんだけど、そこんとこどーよ、八幡くんとしては、さ』
数学の時間になるたびにこうやっては毎回くだらない話を広げ始める。それは一重に俺を『寝させない』ためだけのおせっかい。けれどもその真の目的たる数学の授業を受けるという部分が達成できていないのだから片手落ち。
そしてつらつらと、うつらうつらと話半分で聞いていた内容に一言だけ申すことがあるのならば。旦那や彼氏をATMと呼ぶのはやめてさしあげろ。やっぱ、悪霊だわ、こいつ。
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何とか意識を保ち、寝ずに済んだ数学の授業を終えた後、眠気のピークが過ぎ去ってはホームルームを受ける。つつがなく進み、終礼が終わってさぁ、帰るぞと鞄と幽霊を背負いながら教室を出る。
仁王立ちの平塚先生。行く手を遮らんとばかりに堂々と立っていた。その姿を見て逃走を選べるほどの頭の冴えはなく、気がついた時には完全に回り込まれている。
「比企谷、部活の時間だぞ」
逃げることは許さないとばかりに爛々と目が輝いていた。どう見ても野獣の眼光。
『うへぇぇ、またあの女のところ行くの……めんどくさぁ』
正妻面をしたかのような台詞。嫌そうな表情を浮かべる幽霊と感情の見えない笑みを浮かべる平塚先生。幽霊ですら既定路線と感じている。だが、俺は諦めてなどいなかった。
確かに世の中には部活動生が部活に行くのは当然という風潮があるのかもしれない。しかしながら幽霊部員という言葉があるように部員であるから必ずしも部活動に参加するというわけではないのだ。
「行くぞ」
そう言って平塚先生が伸ばしてきた手をさらりと避ける。避けられたのが癪に触ったのか意固地とばかりに伸ばした手を避ける。
「先生、高校生という大人になる過程の男子には選択するという自主性を尊重するべきだと思うんですよ。行く自由に、行かない自由。そういった自由を奪って強制的に物事を進めるのは昨今の教育現場において非常に不味いことだと思います」
『うっわ、往生際悪っ……』
幽霊にすら往生際の悪いと言われる。しかしながら、俺の悪あがきは平塚先生のボディーブローにより沈黙させられた。
「非常に残念だが大人が自由という考え方自体が間違っているな。その上で行く、行かないといった行動方針に頭を悩ませるものは殆どいない。皆が皆、嫌でも勤務先に行かなければならないし、嫌でも重要な会議には参加しなければならなのだ。そこに自由意志など存在しない。今のうちにそうやって嫌でも行くということに慣れておきたまえ」
痛みに蹲る俺の腕を取り平塚先生が耳元で囁く。
「次に小賢しい真似でもしたら、グーが唸るぞ、グーが」
既に唸っているし、唸らせても居る。俺はそのまま連行されるかのように歩行。逆方向に同じように腕を絡ませ始める幽霊。その口から『大人しくしてたら痛い目見ずに済んだのにねぇ』と呟いていた。うるせぇ。
そして数歩、歩いたところで平塚先生が口を開く。
「あぁ、そうだ。勝負から逃げようとするのは構わないが、そうなった場合は問答無用で不戦敗だ。ついでにさらに罰も科すつもりなので頭にはいれておくように」
罰の内容をわざわざ口にしないことで恐怖を煽ってくる平塚先生。先んじてどのような罰が待っているのか言ってくれれば身構えることも出来るのだろうが、あえてぼかすことで無駄に豊かな想像力を働かせてしまうことになってしまう。
『前もって逃げ道塞がれちゃったね』
平塚先生の逆サイドで腕を組む幽霊が往生際の悪い俺に対して『諦めろ』と言外に示していた。
そんな傍から見れば女教師と腕を組む男子高校生。けれど、もしも俺と同じように『見える』人物がいたのなら両手に華の状態。しかしながら女教師側は間接を極めていて当たる胸の感触を楽しむ余裕などなく、体勢を無理にでも変えようものなら痛みが湧き上がる。逆の方向はそもそもが質感もないというのだから楽しむ余地などなにもない。結論からして何も楽しくない。
「あの、先生……流石にもう逃げようと考えないので、一人でいけますよ」
放して下さいと視線で伝えてみる。ついでに腕をくいくいと動かして意思表示。
『……おい、今、肘の先で胸を楽しんだろ』
動かした手とは逆側から非難の声があがる。なんのことかわからない、かんぜんにえんざい。素知らぬ顔で平塚先生の返事を待つ。
「そう、つれないことを言うな。私が君と一緒に行きたいんだよ」
優しさの含まれる微笑を浮かべた平塚先生にそんな台詞を言われれば勘違いする男が居てもおかしくない。ほんの数分前の暴力的な側面を見ていたせいか、そのギャップに胸が高鳴る。
「君を逃す可能性も捨てきれないし、万が一にでもそんなことが起こって腹を立てるくらいならこうやってしょっ引いた方がストレスもたまらん」
清清しいまでに自分本位だった。なんなら俺に対しての優しさなど微塵もなかった。なんか優しい側面なのかな? と期待していたのならメンタルに結構なダメージを負うところ。
「理由が最低っすね」
「何を言うんだ。嫌々ながらも君の更生のためにわざわざ付き合ってるんだぞ? こんなの愛がなければ出来んよ」
『おまえ! よくも私に断りもなく八幡くんに愛を囁いたな! このぉ、許さんぞぉ! 乳! 牛! 巨乳!』
悪口ではなかった。少なくとも最後の部分に関しては悪口ではなく事実。人によっては褒め言葉。そもそもが最初の乳の時点で悪口ではなく、全体の三分の二が悪気とでないのならば悪口ではないのでは? と一瞬思ったがすこぶるどうでもいい。
「……こんな愛いらねぇ」
「君は本当に素直に受け取らないな。そうやって捻くれてばかりだと、そのうち田んぼや水田で君と間違われるようなやつも出てくるぞ」
「道理で誰も俺の理解者がいないわけっすね。納得しました、ありがとうございます」
人をさりげに都市伝説のくねくね扱いする女教師に皮肉をとして返礼。
「そこで素直に気をつけますと言わないところが可愛げがないよ。捻くれて生きるというのは別段に楽しくないだろう?」
「楽して生きるだけの人生なんて幻想でしょ。痛みも苦しみもない人生の方がよっぽど歪な気がしますけどね」
「楽しく生きてる奴らは別に楽して生きているわけじゃないさ。君は本当に典型的だな。高校二年生という時分もあいまって典型的な男子高校二年生だ。どこまでも立派すぎるまでに立派な高二病だよ」
さらっと人を病気扱いしてきた。しかしそうじゃないのだろう。
「立派な高二病ってなんだよ……」
高二病というのは聞き覚えは薄いが推測することは可能。おそらく親類辺りに中二病ちゃんがいるのだろう。
「君は漫画や小説は好きかね?」
俺の発言など無視して別の話題を投げよこしてきた平塚先生。
「活字離れという言葉が出てきている昨今の中ではそれなりに。漫画もそこそこですね。それに日本のサブカル分野は最近伸びてきていますからね。外国も注目してる分野で経済面にも影響がありますし」
「では一般文芸はどうだ」
「読みますよ、そこそこに。しかしまぁ、有名になった作家は軒並み名前が売れていなかった時代の頃のほうが熱量あった気がしますが」
「さて、好きなライトノベルレーベルはどこかね」
「講談社B○X……まぁ、ライトノベルと呼んでいいかは怪しいもんですが」
先生は答えを聞けば聞くほど呆れた表情を浮かべていた。
『……今の何が悪いんだよ、いい加減呪い殺すぞ、この女教師』
先生の視線は俺よりか遥かに九音の方が反応してしまう。理解できないが――この幽霊は俺よりも俺のことが好きで、何がどうして好きなのか何一つとして理解ができず、それでいつ頃からこんな感じになったのかなんて覚えていない。何一つとして判らない女幽霊は唇を尖らせて、触れもできないのに強くしがみつくかのように腕にまとわりつく。
「……そんで、高二病ってなんすか」
「高二病は高二病だ。高校生にありがちな思想形態。斜に構えた考えをカッコいいと思ったり、ネットにある『働いた負け』といったような下らない言葉をもてはやして好んで使いそれらしい意見を付属してみたり、売れている漫画家や小説家を売れる前のほうが良かったと批評家ぶり、痩せたアーティストを太っている時期のほうが聞き応えあったなどと言って見たり、自分だけがわかっている正しい物事という顔をしてみれば、皆がありがたがる前向きな言葉を馬鹿にする。その上で、同類であるオタクという人種も下に見ている。また、簡単に言うなら嫌な奴だよ」
『嫌な奴はお前だよ! この不良教師!』
俺よりも遥かに怒りを顕にする存在がいるせいか妙に簡単に聞き流せる。普通なら怒る場面なのかもしれない。ここまで言われれば少しばかりは腹を立てるようなものなのだろうが、まちがっていない部分が多いと納得してしまう程。
「あぁ、比企谷、勘違いするなよ、別に貶めているわけではない。近ごろの生徒は表面上はきちんとしている生徒が多く、誰も彼もが大人しい。教師としてはまったくを以て張り合いがない」
「近頃の生徒は……ですか」
軽く苦笑をこぼす。よく耳にする『最近の若者は』という常套句。先日、年齢で怒った教師が吐いた言葉だと言うのだから油断しているにも程がある。こんなツッコミどころしかない言葉に大して一言口にしようと思っていると平塚先生がこちらをじっと見ていた。
「そういうところが、だよ」
あまりにも優しく、慈愛染みた微笑みを浮かべているのだから言葉は喉を通り胃に落ちる。
「割と本気で褒めているのだよ。そうやってきちんと考えて言葉にしようとする君が好きだよ、私は。まぁ、捻くれているがね」
未だに怒り収まらぬ九音は平塚先生の言葉では納得できないのか未だに睨みつけている。
『こいつ、さらりと告白しやがったぞ! 私の八幡くんに!』
全然違うところで怒っていやがった。わ―ぎゃーと煩い幽霊の心などわかるはずもなく、俺は放って置くこととする。
「そんな捻くれた君から見て雪ノ下はどう思う?」
「嫌な奴」
『嫌な奴、嫌な奴、嫌な奴!』
逆に好きになっちゃうやつじゃねぇか。俺は隣から聞こえてきた言葉に呆れながらも同意見。同時に二人して意見が一致するほどに雪ノ下の嫌な奴っぷりは堂に入りすぎていた。
俺の返答が面白かったのか少し喉を鳴らして苦笑いする平塚先生。
「そうか。非常に優秀な生徒ではあるんだがな……持つ者には持つものなりの苦悩があるのだよ。けれど、優しい子だ」
九音も俺も納得いかないとばかりに平塚先生を見る。俺としては優しいという言葉には懐疑的であり、むしろ母親の胎内に優しさの成分を置き忘れたとしか思えない。
「きっと彼女も病んでいるのだろう。優しくて正しい。けれども世の中が優しくなくて、正しくないからな。さぞ生き難いだろう」
「あいつが優しいか優しくないかは別にして、世の中が正しくないことが多いという話には概ね同意します」
俺の言葉に「だろう?」と得意げに見てきた。
「やはり、君たちは捻くれているな。社会に適応出来なさそうで心配だよ」
君たちというのは俺と九音ではなく俺と雪ノ下なのだろう。そんな俺達二人を集めた奉仕部部室。
「あそこは隔離病棟かなんかっすか」
「そうだな……うん、そうだ。君たちのような生徒は面白くて好きだからな。だから目の届く、手の届く範囲に集めおいておきたいのかもしれんな」
楽しそうに目を細める。相変わらず腕の関節は極っている。しかし先程よりも胸に近いのか肘先が少しだけ肉に埋まる感覚にどぎまぎしてしまう。そんなことが誰にもバレないように必死に無表情を装う。けれどもそんな俺の努力などただの徒労でじっとりとした視線が平塚先生とは逆サイドから投げられる。
『そんなに楽しいのかい? ほんっと八幡くんって変態だよね。でも、隔離病棟か……』
思うところがあるのか思案顔を浮かべる女子高生。
『あそこはそんな人に優しい場所じゃなくてさ、呪われた部屋、オカルトスポットとかのほうが遥かに近いよね』
的を得ている例えに俺は苦笑する他なかった。けれどもその話を始めれば、この学校自体が廃校になっていないのが不思議なレベルの不吉な土地ではあるのだが。
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特別棟までいけば流石に逃げるという心配は消えたのか、極っていた関節はようやく解放される。それでも去り際に何度もこちらの様子を見返していたのは決して名残惜しさやフラグといったプラス方向の物事ではなく、単なるさっさと部活動に行けという牽制でしかない。
そんな視線に従いながら奉仕部のある部室の方向へ歩いていく。片方は解放されてはいるがもう片方は未だにしがみついたまま。
コッコッコと静まり返った特別棟には革靴の音が響き渡る。その音は一つ。しがみつき、纏わり憑く幽霊の足音などひびかない。どこか薄ら寒さすら感じるフロアはあまりにも現状に似合いすぎていた。
他の部活動の活動があっているにも関わらず、喧騒すらどこか遠く、まるで部屋越しに聞こえるテレビの音のよう。微かに耳に入る音に一つだけ交じる違和感。
「九音……」
俺は振り返り、廊下の奥を見る。俺の声に遅れて幽霊の方もあたりをキョロキョロと見回す。
『うん、聞こえたね、居たね――ナニカが居たね。間違いなく居た。見られてたよね。八幡くんってば、本当に好かれるよねぇ』
その言葉にげんなりとしては溜息を吐く。
特別棟の四階にある一番奥にある部室。そこにいる神秘的で静寂な世界は雪ノ下雪乃という少女には似合いすぎている。そして、立地条件の悪い建物でただ一人でいる女子生徒。そこに美人で成績優秀で非の打ち所がないとなればヒロイン性、主人公性は噺の種には十分、十二分。そんな危ない場所にも関わらず、幽霊を引き憑れている俺だ。何が起きてもおかしくなどない。
「どうしたもんかね……」
先程まで多少は参加する理由を見出していた俺は不参加でも良い理由を耳にしてしまった。気づいてしまった。
二重に響いた革靴の音。誰かが俺をつけていた音。それは四階廊下が見渡せるほどの奥地を歩く俺の耳に飛び込んでくるにはあまりにも大きすぎる足の音。
まるで背後数メートル後ろに誰かが居たような感覚。警戒しながら周りを見回していると――唐突に扉が開かれる。
「貴方、いつまでそこに居るつもり?」
開かれた扉の向こうには冷えた視線を投げよこす雪ノ下が立っていた。
「……すまん」
軽く謝罪を口に出して、いよいよもって帰るタイミングを見失ってしまう。雪ノ下はそそくさと自分の席に戻ると此方に一度視線を向けた後に読みかけの文庫本へと目を戻した。
『うわぁ、挨拶も無しかよ……やな感じぃ』
九音の言葉に苦笑い。挨拶を交わす機会が一年ほど前から朝に一回だけ増えた身としてはあまり大差はない。あまり気にする程のことでもなく。
「うっす」
俺が小さく入室と挨拶をすると雪ノ下は文庫本を閉じて此方を見ていた。
「あなた、もしかしてソレが挨拶のつもりかしら。社会にでてから苦労するわよ」
『だ、大丈夫! 八幡くんは頑張ったもんね! わかってるよ! 八幡くん的には頑張ったんだ! 私は評価するよ!』
物凄い勢いで幽霊に慰められる。むしろお前がそこまで必死になって言うとまるで俺が間違っていたかのように感じちゃうんだけど、やめてくんない?
「コンニチハ」
ロボット染みた挨拶をしてみれば、雪ノ下は満足がいったのか笑みを浮かべた。不覚にもその笑みが綺麗で少しばかり見惚れてしまう。やっぱ顔面偏差値だけは高ぇんだよな。
「こんにちは、もう来ないと思っていたわ」
「平塚先生に逃げたら不戦敗って言われたから来ただけだ」
俺は乱雑に壁にかけられていたパイプ椅子を広げ、雪ノ下の対面側、机の端を陣取る。
「それでもあれだけこっぴどく言われれば普通来ないと思うのだけれど……もしかして貴方、マゾヒスト?」
心底不思議といった様子で尋ねてきた内容は醜聞があまりにも酷いものだった。
「じゃあ、ストーカーかしら。怖いわ」
「なんで俺がお前に好意を持っている前提なんだよ……違う」
「違うの?」
小首を傾げて尋ねてくる様子を見て、俺は美人は得だなといった感想を持ってしまう。
『ぜんっぜん、ちっがいますぅー! バーカ! バーカ!』
絵になるような小首を傾げる美少女と絵になる筈のお見せできない変顔で馬鹿にする美少女の構図。なんて酷い顔だ……俺はドン引きしながら九音を見る。
「……なんでそんなに自意識過剰なんだよ。違うに決まってんだろう」
「そう、てっきり私のこと好きだと思ったわ」
淡々と、昨日となんら変わりない様子で当たり前のことだとばかりに呟く。
『はぁーん! 八幡くんが顔だけに惚れるメンクイチョロインだと言ってんのか! 呪うぞ、お前!』
過激派に所属する幽霊が変顔から一転、犬歯をむき出しにしてがるるると雪ノ下を睨む。勿論、美少女と美少女(霊)の争いに発展することなどはなく、時は進もうとする。
しかしながら雪ノ下のあまりの自信過剰な態度に一言申したくなるのは俺も同じだった。あまりにも自信が過剰で少しばかり心配になる俺の菩薩にも似た優しさが、嫌な奴代表格である雪ノ下にすら慈悲を見せてしまう。将来的に雪ノ下が取り返しのつかなくなる前に彼女の過剰な自惚れについて一言物申すとしようか。慎重に言葉を選び、考えて、口に出す。
「雪ノ下、お前の自信は過剰すぎる。一度、霊媒師かなにかに守護霊を見てもらい、なんなら変えて貰った方がいいと思うぞ」
『うっわ、ひっど……八幡くん、それは言い過ぎでは?」
そうか? 俺自身が必死に選んだ言葉は幽霊には大変不評のようで、かくいう雪ノ下も。
「少しは歯に衣を着せることを覚えなさい。あなた自身の身のためよ」
雪ノ下の目は一切笑ってなかった。身の程、身の丈を弁えろではなく、身のため。むしろ身の危険性を訴えてきたあたりが恐怖を倍率ドンで表現している。さらには仄暗い微笑だけを口元に浮かべているというのだから恐怖は加速度的に増していた。
「まぁ……底辺の比企谷くんには理解できないのでしょうね。あなたにとっては過剰にして、異様に見えるのかもしれないけれど私にとっては当然の考え方なの、経験則で言えばね」
雪ノ下が自慢気に鼻を鳴らす。高慢ちきな仕草を一つとっても似合っているのだから美人というのは本当に得である。
経験則。経験にして体験であり、体感にして実感。人間の価値観を築く上で重要なファクターである。見るから知れるのだ、見たから、見えたから知ることができる。信じるとか信じないという段階を通り越してあることを認め知るのだ。
そういう意味では彼女の経験というのは容姿の部分で自信を過剰に与えるほどのことがあったのだろう。しかしながら、それは。俺に比べてなんとも、まぁ……
「華やかな人生なこって」
今更羨ましいなどとは思わない。俺が選んだ、選んでしまった出来事だ。それでも零れた言葉はまるで羨んでいるようで。
「そ、そうね。学校生活でこれといって困ったこともなく実に平穏な生活を送ってきたわ」
一瞬だけ言葉に詰まった雪ノ下を見る。視線は文庫本とは関係ない方向へ。こちらからは伺えない逸らされた顔、そのせいで表情は伺うことは出来ない。
『いやいや、何を言ってるのさ、八幡くん。そんなわけないでしょ、普通に考えてみてよ、こんな女と友達になりたいの? 私は絶対に嫌』
ないない、ありえないとばかりに手を振る幽霊の言葉。しかしながら少し考えても見れば納得がいく。確かに言動を振り返ってみれば雪ノ下に友達が居るとはどうして思えようか。初対面時の攻撃的な罵倒でも振り返ればその理由など丸わかりである。
どこをとって彼女の華やかな生活を想像できるというのだろうか。
彩られているとしてもそれは毒々しいまでに派手で、一目ではっきりとわかるほどの危険色。それほどまでに切れ味鋭い舌刀が打たれたのには理由がきっとある。
『そう想像してみると、よっぽど敵だらけだったんだろうね』
哀れみを篭めた視線を投げる幽霊。もしも本人がそんな目で見られていると知れば屈辱のあまりに震えることは少ない会話でも伺いしれる。
「友達……居んのか?」
つい、とばかりに漏れた疑問は答えなど無くても仕方ない。もしも居ると答えたのならば素直に事実を喜ぶべき事項で。その友達は大切にするんだよ、とまるで孫を見守る好々爺のような感想を抱くことだろう。
「そ、そうね。友達という言葉は非常に曖昧で抽象的な言葉は使うのが難しいわ。顔見知り、知り合い、クラスメート、友達。こういった区分分けは非常に難しいかつデリケートな――」
「あ、もういいわ。それ友達いない奴の台詞じゃねーか」
ついついと。あまりにも雪ノ下が喋りだした内容が判りやすく、もしも彼女のクラスメートが居たならば「ゆ、雪ノ下さんは、だ、大丈夫、ちゃんと友達だから」と声を震わせて言ってくれる可能性が産まれちゃうレベル。
『ゆ、雪ノ下さんはが、頑張れば友達できると思うな!』
あまりの居た堪れなさに毛嫌いしていた筈の九音ですらフォローに回る始末。無論、聞こえもしないし、慰められもしていないだろう。そして聞こえていたのならば負けず嫌いを考慮してプライドが傷ついていたこと間違いなし。
「まぁ、友達が居ないのはなんとなくわかった。この話はここまでにしよう」
俺が強引に話を閉じようとすると、雪ノ下がキッと目を細めて睨みつけてくる。
「居ないとはいってないでしょう? 仮に居ないとしても何か不利益でもあるのかしら?」
未だに強く睨みつける瞳に両手をあげて何の文句も問題はないとジェスチャー。
「いや、人に好かれると豪語してたから、ついな」
今度はむっとした表情を浮かべては視線を逸らす。
「あなたにはわからないわよ」
その言葉はきっとどこまでも正しい。分かるわけがない、分かりあえるわけがない。知ったような口を利くことは出来るだろう、賛同を示すこともまたできる。
だが、それだけだ。理解などきっと雪ノ下本人にしか出来ない。
内容を聞かせてもらったところで俺と雪ノ下はまったくの別人なのだから。
しかしながら、友人が居ないことに関しては俺も一家言持っている。きちんとこだわりを持ち、俺なりに出した結論、思考を有している。
「まぁ、お前の言い分はわからなくもない。一人で楽しめるものなんてこの世にはたくさんあるし、一人で居ちゃいけないなんて意見には気持ち悪さすら覚える」
横目で伺えば雪ノ下も含む所があるのか、視線は俯き、文庫本の方に向いていながら目を瞑り考え込んでいた。
「好きで一人で居るにも関わらず、連中は寂しい奴だと勝手に哀れむんだよな。わかるわかる」
「貴方ごときと一緒だなんて程度が違うといいたいところだけれど、好きで一人でいるという部分には共感がもてるわ……少し癪だけれど」
ぼっちに関して張り合おうかと一瞬だけ思ったが、隣にふよふよと浮かぶ顔を見る。
『ん? どーかした?』
能天気にこちらを見た幽霊を見ればこれ以上言葉を続ける気が失せる。少なくとも一人きりという言葉とは程遠く、一人であっても憑いて回るこいつがいる限り、雪ノ下と張り合うことには嘘が混じる気がしたから。確かに教室に雑談をする友人一人も居なければ、共に昼食をとるクラスメートすら居ない。けれども寂しいと思うことが出来ないくらいに賑やかしが居る現状をボッチと誇るには少し違う気がした。
「人に好かれるという言葉とボッチって似合わなくないか?」
だから自然と構図は雪ノ下のボッチについての話題。
「短慮ね、思ったらすぐに口に出しているのかしら。少しは考えて発言すればどう? 人に好かれるということがどういうことか理解できて――あぁ、そういう経験がないから……ごめんなさい、こちらこそ配慮が足りなかったわ」
勝手に自己完結した上で謝られた。つらい。
「はいはい、それで人に好かれるのがなんですって?」
半ば投げやりに尋ねる。そして雪ノ下は少し考えるかのように顎に手をあてた。そして小さくうんと頷き納得がいったのか続きを口にする。
「ごめんなさい、人に好かれたことがない貴方には嫌な話になるかもしれないけど」
謝られることで心に傷を負い、既に嫌な話であった。返事をしないことで続けてくれるよう促す。
「私って昔から可愛かったから、近づく男子は軒並み私に好意を持っていたわ」
『……ある意味、すっごいね、この子』
九音は絶句していた。かという俺も話の流れで、キツイな、この女……とギブアップ寸前。そんな俺の様子になど気づくことなく雪ノ下は話を続ける。
「小学生高学年くらいから、ずっと」
言葉を切った雪ノ下の顔に翳りが見えた。異性からの剥き出し好意を向けられるというのはどういう気分なのだろうか。それこそ、俺が半年かそこいら感じているようなものと一緒なのだろうか。いいや、一緒なんかではないだろう、きっと。
理解し難く、名状にし難い。
そんな感情だったとしても、俺と雪ノ下は違うのだ。
なぜ、足山九音がこれほどまでに比企谷八幡に対して好意を抱いたのかなんてわかりやしない。まったく理解できずに、理解できるわけもなく、ただただ怖い。怖くて仕方ないのだ。
仮に雪ノ下がむき出しの好意に恐怖を抱いたとして。
俺が足山九音の剥き出しの好意に恐怖を抱いたとして。
その恐れはまったくの別物であり、別種である。似て非なるどころか、見た目形すら、それどころかチャンネルすら違う。
もしも雪ノ下がこの話を人にすれば人によっては単なる自慢話にしか聞こえないだろう。けれども、俺の話はどうだ。早い話が『女の幽霊に好かれている』なんて羨ましがるのはオカルトに傾倒している人間くらいで、ただの恐怖譚。興味がある野次馬根性丸出しな人間は無知ゆえの傲慢他ならない。
――けど、それだけじゃないんだろう。
俺は再び雪ノ下の話に頭を戻す。剥き出しの好意というプラスの感情。それには必ず対となる感情があるはずだ。悪意というどこまでも醜くどす黒い感情。
それらは決して人にぶつけ過ぎていいものではない。ぶつけた人間よりもぶつけられた人間の方が遥かに痛みがある。
「まぁ、嫌われるよりかはマシだろ」
暗くなりそうな話題だったので強引に対の感情を引き合いにだして話題転換を試みる。そんな話題に反応した雪ノ下の表情はなんとも言えないものだった。ため息を吐き、浮かべた表情は決して笑顔ではない。口元だけは少し弧に曲がった表情にあえて名前をつけるとするのならば自嘲。
「別に人に好かれたいと思ったことはないわ」
そこで一度、言葉を止める。そしてぽつりと付け足された言葉。
「もしくは本当にみんなに好かれるのならば良かったのだけれど」
あまりにも小さな。願望すら篭っていそうなその言葉は自嘲の表情と相俟って本音に聞こえた。
「ねぇ」
雪ノ下に声をかけられて顔を向ける。こんな軽口にもならない話題の応酬にしては真面目な顔に少しだけ緊張。
「あなたの友達で常に女子に人気のある男の子がいたらどうする?」
「愚問だな、俺には友達がいないから答える必要がない」
即答した。なんなら、食い気味に。言葉を切る前に答える準備が出来ていたくらいだ。
そんな俺の返答を雪ノ下は面食らう。あまりにも早すぎる回答は雪ノ下の予想を大きく上回ったのだろう、さしもの彼女ですら間の抜けたような表情を浮かべては考え込む。
「あまりにも堂々としすぎてかっこいいこと言ったと勘違いしてしまったわ……」
頭が痛いとばかりにこめかみをひたし指で何度か揉み解している。
『か、かっこいいじゃん! 内容さえ考えなければ、ここまで力強くはっきりと言葉に出せるスタンスを私は評価するね! かっこよすぎて濡れるよ!』
大事な部分が幽霊の評価内容から抜き取られていた。
「仮の話と考えてもらっても構わないわ」
「呪い殺す」
俺の即答に雪ノ下は満足がいったのかうんうんと頷く。ちなみに幽霊は『八幡くんさ、君はもう少しゆとりというか、心の余裕を持ってだね』とがみがみ小言を放ってくる。
「ほら、排除しようとするじゃない。理性のない獣にも劣る人間。そんな連中は私の学校にもたくさん居たわ。そういった行為でしか自分を慰められない哀れな連中が」
雪ノ下は見下すように笑った。確かに彼女の言うとおりなのだろう、その通りなのだろう。そういう連中に囲まれてきた経験が今の雪ノ下を作り上げた。
『女子に嫌われるタイプなのは間違いないんだろうけどね。それでも表だって何かがあったのなら本人にカリスマが足りなかったんだよ』
カリスマ、と呟いた幽霊の方向を横目で伺う。
『カリスマというのは重要だよ、八幡くん。人間は手を出していい相手と、手を出してはいけない相手を見分ける時に何をどう見るか。そこにカリスマという分野が入ってくる。もしも彼女にカリスマがあったのなら別の話になってたのかもね。空気、雰囲気が彼女自身を守ってくれたかも。でも生憎、彼女にはそれよがなかった。けれどカリスマがある人間はある人間なりに悩みがあるんだろうけどね。あ! 八幡くんは心配しなくてもいいから! 君には全然として、依然としてまったくもって関係ない話だから気にしないで! 安心して!』
付け加えた慰めの言葉は何の効力もない。むしろ、それ俺を傷つけているだけなんですが? と睨みつけてみれば当の幽霊は腕で額の汗を拭うように『ふぅ、上手くフォローできた!』といったような仕草をしている。
「小学生のころに六十回ほど上履きを隠されたことがあるのだけれど、うち五十回が同級生女子の犯行だったわ」
雪ノ下の声に再び現実に引き戻される。俺は言われた内容を吟味してから疑問を口に出した。
「残り十回は何だよ」
「男子が隠したのが三回、教師が買い取ったのが二回、犬が隠したのが五回よ」
「犬率、高ぇーよ」
『流石に……冗談だよね?』
真顔で淡々と語る雪ノ下の表情からは真偽はつかない。教師が買い取ったという部分――昨今、ロリコン教師による性犯罪が増えてきたというニュースが流れる日本においては非常に説得力がありすぎて笑えやしない。
「驚くべきところはそこではないのだけれど」
「あえて、触れなかったんだよ……」
勿論、彼女が言いたかったのは総数、もしくは女子からの嫌がらせ、悪意の数なのだろう。
「おかげで私は毎日上履きを持って帰る羽目になったし、リコーダーも必ず持って帰るようにしていたわ」
うんざりとばかりに過去の出来事を振り返る雪ノ下。その経験には流石に同情せざるを得なかった。
「大変だったんだな」
「そう、大変なのよ。私、可愛いから」
自嘲気味に笑う雪ノ下。九音も話を聞いては少しだけ同情的な視線を送っていた。あくまでも少しである。他の大部分は『まぁ、私の方が可愛いけど』とかそんな所。
「でも、仕方ないわ。人は完璧でないから、弱くて、心が醜くて、人に嫉妬して蹴落とそうとする。不思議なことにこの世界は優れた人間のほうが生き辛いのよ。そんなのおかしいじゃない、だから私は変えるのよ。人ごと、この世界を」
雪ノ下は本気でそう言っていた。
「努力の方向性が明らかにぶっ飛びすぎだろ……」
「そうかしら? それでもあなたのように変わらないで乾いて死んでいくよりかは遥かにマシだと思うけど。あなたのそういう部分、嫌いだわ」
そう言って、こちらに向けていた視線をふいっと窓の外へ移した。そして俺はその言葉に反応しない。
こちらが何の反論もしないことがわかると雪ノ下は再び文庫本を開き、読み始める。
もしもの話だ。
もしも俺が――足山九音と一緒じゃなければ何かを言ったのだろうか。
ふとそんなことを考える。雪ノ下の孤独を目にして、雪ノ下の傷を見ては共感して、彼女の考え方に思うところがあって。自分と雪ノ下をと重ね合わせては雪ノ下に向かって何か言ったりしたのだろうか。たとえば――友人になろうとか。
詮無きこと。ありえない、意味の無いIFを思い浮かべてはこの世界で起こりえないことだと理解する。
俺が雪ノ下と友人になることはきっとない。
品行方正の優等生。性格は問題あるどころか大問題。けれども事前に聞いていた平塚先生の話から察するに持っている者であるが故の苦悩を抱えている。けれどもその苦悩も彼女が折れればきっと折り合いがつく話で、世の中の大多数の人間はそうやって生きている。人に恨まれないように自分を折り曲げて、屈折しながら生きていけば――こんな世界では生き易い。
『なんか昨日今日と一通り話して思ったんだけれど、雪ノ下さんって噂よりかは遥かに人間らしいんだね』
それが雪ノ下雪乃を観察した足山九音の感想だった。
そしてその感想にはどこまでも同意する。伝え聞いていた雪ノ下雪乃像とは似ても似つかない。まるで別人の雪ノ下の評価は彼女以外が望んでいるもので。中身は結局、こんなもん。
ふと時計を見れば時間もそこそこ。そろそろ下校のチャイムの時間が近づいてきた。
「今日はここまでにしましょう。依頼人も来る様子は無いみたいだし」
雪ノ下の合図を受けて、俺はそそくさと帰る支度を始める。
「じゃあな」
「えぇ」
その短いやりとりを最後に部室を後にしようと扉に手をかける。そして開けば――視界の先は黒。
「は?」
黒の布、いや黒のレインコート。不吉な程に黒く、見た人間を不安にさせるような闇色。フードまですっぽりとかぶり、前をボタンか何かでしっかりと留めた立ち姿は黒ずくめ。
顔はマスクと便底の分厚い眼鏡。表情どころか肌の色さえはっきりとわからない。ただ一つだけ言えるのならば――身長が二メートルを大きく超えて、三メートルはあるのではないかと疑わせるその巨体は少なくとも人げ――何かが風を切る。
瞬間、衝撃。
「ぎっ、がっ、がァッっ、ァァァッ、アアアッ!」
『八幡くんっ!?』
喉から遅れたかのように悲鳴が漏れる。全身が軋むような感覚。背中には――机。
わずかのたった一振りで。腕の一振りで入り口の扉から教室の隅まで吹き飛ばされた。眼圧の上昇による視界の星、殴られた場所に鈍く響く痛み、鼻からは血がポタポタと垂れ落ちる。
「ぐっ、ふっ、ふぅ、ふっ、ふぅ、ぐぅぅぅっ」
切れそうになる意識の電源を呻きをあげることで必死に維持する。必死につなぎ止めた意識で視界を動かせば――ソレが居た。
放課後も放課後、最終下校時刻のチャイムが鳴る直前に『ソレ』は俺たちの目の前に突如として現れた。
※次回投下予定日は二月四日です。遅れそうな時はあらすじで報告します。