足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
きりもみ回転。
きりもみしながら落ちた、吹っ飛んだという表現を偶に目にすることがある。しかしながら、この言葉は人体に使う言葉ではなく主に飛行機が墜落した時に相応しい言葉だろう。錐を両手で持って回すような軌道、螺旋の軌道を描くには人体はあまりにも適していない。故に人体に適用するように使うのならばきりもみのように、比喩表現的な手法になると考える。そもそもが人間は飛べない、飛ばないのだ。だからその軌道は跳んだだけ。飛べない豚がただの豚であるように、どこまでも人間でしかない俺はただただ堕ちるしかないのだ。
両足に力を込める、未だにゆらゆらと揺れる視界。
机たちを巻き込みながら、毎度のように血を垂れ流す。放物線を描いて吹き飛んだ俺はそんなどうでもいい内容が頭の中に浮かんだ。
『八幡くんっ! ねぇっ! 八幡くんっ! 大丈夫!?』
涙でかすみ、未だに揺れる世界の端で、近づいてきた女子高生に大丈夫だ、と小さく口にする。
『ぜんっぜん、大丈夫そうには見えないんですけどっ!』
揺れが少しずつ正常になり、俺は元凶を、原因を見る。奉仕部部室にのっそりと巨躯を進ませたナニカ。視界をずらせば雪ノ下が硬直している姿が見えた。吹き飛ばされた俺よりも、吹き飛ばした原因に注目していた。
美しい相貌は恐怖に彩られ、何かを言おうと唇をわなわなと震わせているあたり彼女の気の強さが伺いしれる。左下腹部を押さえる余裕なんてなく、俺は机の群れから脱出を図った。雑に動いた俺は机を引きずるような音を出してようやく入り口とは逆の扉へ近づく。幸いに吹き飛ばされた時に巻き込んだ机達は俺の移動を大きく阻害することはなかった。
もしも埋まるようなことでもあれば、自前の筋力で抜け出すには時間がかかっただろう。ここ一年の間に始めた筋トレはあれど、簡単なことではないことが想像に容易い。
――カチャリ
後ろ扉の鍵を開く。存外に音は室内に大きく響き渡った。勿論、その音は注目を集める。気づいたのは化け物ではない。黒の巨体はまるで俺に興味がないかのようにゆっくりと雪ノ下に近づいている。気づいたのは人間だ。俺以外でたった一人生きている女子生徒がこちらを二つの瞳で見つめていた。
あの雪ノ下が。雪ノ下雪乃が、だ。どこまでも気が強く、プライドの高い少女がまるで助けを請うかのように此方を見ていた。俺はその事実に対して驚かない。驚けるわけがない。どれだけ気が強かろうと、どれだけ意地を張っていようとも。そんなものは化け物を目にしてしまえば脆くも崩れ去る。
誰だってそうだ、勿論、俺だって。去年の夏だって――この世に怖いものなど何もないとばかりに青春を謳歌せしもの達も。一度、恐怖の坩堝に叩き落されれば顔や表情が歪むだけではなく、尊厳もプライドも人間性も何もかもを歪にして捨て去ろうとしてお互いを犠牲にしようと、他人を贄にしまで生き残ろうと必死だった。俺はそんな大学生達に完全に巻き込まれるという形で死ぬ程辛い目にあった。こんな馬鹿な大学生には絶対にならないぞ! という教訓を得るだけで何の実りも無い思い出。実際に実らずに未だに死に目に合っているのだから滑稽にも程がある。
ふと雪ノ下の表情が何故かそんな一夏の出来事と重なり、思い出してしまった。
だから、俺は――脚を引く。そのまま、足を後退させてしまう。そして回れ右をして扉を開き、廊下に飛び出す。
「ま、待って!」
雪ノ下らしからぬ絶叫。金切り声に近いSOSを背に受けて俺はそのまま走り出す。
『ひゅーぅ! さっすが八幡くん! 実に堂の入った逃げ足っぷり。本当に惚れ惚れしちゃうぜ!』
ひゅるりと背中に纏わり憑く霊。幽霊にも関わらず、自称美少女の霊を勝手に名乗り、時々悪霊らしさも出すこの仮称幽霊の九音が嬉々とばかりに囃し立てる。俺の修羅場に土壇場となれば何故かこいつはワクワクし始めて口数が増える。そう考えれば最も口数が増える数学の時間はもしかすればなのだがかなりヤバイのかもしれない。
「……流石に一桁のテスト結果はヤバイのか」
『いや急にどうしたよ、何の話なの……』
幽霊が真顔になって突っ込みを入れてきた。俺は頭の中に総武高校の地図を思い浮かべては最短ルートを描きつつ目的地を目指す。そして――再び、踵を返す。
『……うっひゃぁ、凄くなったねぇ、八幡くん。果たして筋トレの効果なのか、それとも親の顔より見た修羅場土壇場火事場の馬鹿力なのかはわからないけど。それでも身体能力は本当にあがったよねぇ。一年前のもやしだった君を少し懐かしく思うよ』
お褒めにあがり光栄で。皮肉気味に返す言葉は喉を通らず視線で訴える。しかしながら確かに今の俺ならば陸上部あたりに所属してもそれなりについていける自信はある。そこで集団競技を選ばないあたりが自分のセンスを信じていないことまるわかり。チームスポーツなんて輪の中に入れない以上、力の見せようがないのだ。
そして――開きっぱなしの扉から見えたのは黒い巨躯。雪ノ下に馬乗りになってるのだろう、黒の体躯の下に白い足が二本生えている。
『やれやれだよね』
九音の呆れたような声。それも仕方ない。わざわざ逃げたにも関わらず、逃げれていたにも関わらず、もう一度戻ってくるなんて馬鹿にも程がある。こういう場所、こういう世界では何が何でも自分を助けるという強い意思が進退を決めるのは経験則で知っている筈なのに。
俺はそのまま走り、勢いづけて――ちゃぷり。
足元の水気に足を取られて、滑る。
『あっ、お馬鹿! しっかたないなぁ!』
滑った足の次の足を必死にふんばり、もう一歩。無理やりに動かされる滑った右足で大きく踏み抜き、腰から上半身を捻り振りかぶる。
『本当、大したもんだよね。私ですら持ち上げるのにひぃひぃ言っちゃうような重い物でも君はなんなく持って、さらには全力疾走。流石、男の子』
そして勢いよく――振り抜くッ!
ゴギャツ、とあまりにも気持ち悪い音が室内に響き渡った。
手に持っていたのは消火器。爛々と輝く赤色と白色の鉄器の威力は黒の巨躯を沈めることに成功した。
俺は一度、消火器を置き、下にいるであろう雪ノ下を引っ張りだす。このナニカの体液だろうか、濡れた地面が酷く気持ち悪い。
「こほっ、けほっ、こ、殺したの?」
なんとも可愛らしい反応だと、俺は目の前の存在があくまでも人間だと思っている雪ノ下にそんな感想を抱いた。
再度として消火器を手に取り闇色の巨躯から後ずさりながら距離をとる。
――ォォォォォオオオオオオオオッ!
地の底から響くような呻き声が室内に響き渡る。
「走るぞっ!」
俺は消火器のピンを抜き、ホースを向け、一切の躊躇いなくレバーを押し込んだ。真っ白な粉末消化剤が黒を中心として白の世界を作り出す。
五秒ほどレバーを押し込んだ後に、もはや見えなくなったナニカを目掛けて正面に消火器本体を投げ込む。鈍く低い音が再度として室内に響き渡る。
俺は未だにどうすればいいのかわからず呆けて残っている雪ノ下の手をとり、たまたま近くにあった鞄を回収しては廊下へと飛び出す。
雪ノ下の手を取り、廊下を走る。
こんな場面だけを切り出してみればまるで真っ当な青春にすら見えてしまう。しかしながらそんな甘酸っぱいお話なんかじゃない。これは命のやりとりにしか他ならない。苦く腐り果てた逃走劇。
もしもこれが噺だとして、その噺に温度を示すというのなら。どこまでも冷え切っているに違いない。何の喜びも楽しさも無い物語に温度なんてあるわけがないのだから。それこそ雪ノ下という少女の表情を例える表現のように。
これはどこまでも冷え切った残酷な逃走劇。
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「ひ、比企谷くんっ……少し、ペースをっ……ッ」
玄関口に向かう途中、雪ノ下が口にしたのはペース配分について。男女の走力の差を考えてみれば当然で、むしろここまで文句も言わずに手を引かれていた雪ノ下に驚きが出るほど。
「……すまん」
背後をちらりと見れば荒い息を吐きながら雪ノ下は恨みがましく睨み上げてくる。一階廊下のど真ん中、両端を見渡せる上に中庭からも上層階からも丸見えのこの位置は狩人にいつ見つかってもおかしくない。けれど逆に考えれば俺たちからも化け物の様子が発見しやすいのだ。あれだけの巨躯を見逃すことなどないだろう。
『それでいつまで繋いでいるのさ?』
浮かぶ女子高生が俺と雪ノ下の物理的な接点を指差す。
「……悪い」
再度として謝罪。気づかせてくれた九音に対してのお礼も含み、なおかつ雪ノ下への謝意も込めていた。ゆっくりと手を離すと今まで繋いでいた温かい熱は周りの震えるように寒い空間に同化する。手のひらにじんわりと滲んだ汗が冷たい風を主張しては体温を奪う。
「いえ……緊急事態だったし……」
強く握り締めていたのか、握っていた部分をさすりながら答える雪ノ下を幽霊は睨みつける。
『な、何、ちょっと嬉しそうに繋いだ部分をさすさすしてんだ! ずるいっ!』
完全に言いがかりである。少なくとも俺の目にはそんな様子などなく、単純に荒い息を整えているようにしか見えない。頬と耳が紅潮しているのも同じ理由でしかない。それを嬉しそうだと思うには流石に穿ちすぎた見方すぎる。単純に言いがかりをつけたいだけで、恐らく大きく間違っていない。
「歩けるか?」
「……そ、それくらいなら、だ、大丈夫よ」
雪ノ下の返事を聞いて再び廊下を進む。じんじんと脇腹が痛みを訴えてくるが無視をしてゆっくりと進む。背中が申し訳程度引っ張られる。恐らく雪ノ下が制服を掴んでいるのだろう。そんな俺たちの様子を前を飛ぶ幽霊がジトリとした目で見てきた。
『すけべ、えっち』
なんでだよ。急な罵倒に返答しそうになるがぐっと堪える。
「正直……」
俺たちの様子など知る由も無い雪ノ下がぽつりと小さく零す。静か過ぎる廊下では呟きですら問題なく耳に入ってくる。
「正直、見捨てられたかと思ったわ」
「……悪かった」
状況から考えれば見捨てたと思われても仕方ない。別に雪ノ下と俺の関係には特別なものなんてなく、ましてや親しいなんてことは決してない。見捨てる見捨てないに葛藤するほどに二者択一を突きつけられるような縁も所以もないのだから。
それでも雪ノ下が助けを一度求めて、その助けを振り切ったのは事実であり、そんな関係ではなかったことを現状でわざわざ説明して口論できるほど余裕なんてなかった。それに――理解などしてもらえるわけがない。消火器を確保して、問答無用で殴りつけるつもりだったなど、最も殺傷力の高い代物を脳裏に描いたなど。健全な人間に理解してもらえるなど思ってもいなかった。
「……ごめんなさい。責めているわけじゃないの。私だってそうしたかもしれないし、それに助けにきてくれるなんて……私ならできなかった」
もしも逆の立ち位置だったのなら雪ノ下はどうしただろうか。彼女をそこまで知らない俺は考えてもわからない。ましてや囁かれていた噂と実際の雪ノ下があまりにも違いすぎて、いまだに雪ノ下という少女を掴みかねている。負けず嫌いで、口が悪いなんて、ちょっとした情報しか知らないのだ。少しだけ、足を止めて雪ノ下の方向を伺い見る。
「~~~~ッ!? あ、あまり見ないで」
目が合った。ばっちりと上目使いでこちらを見ていた雪ノ下の首元には赤黒い指の跡、そして自ら掻いたであろう吉川線。余りにも凄惨な傷跡から視線を下にずらせば――ライムグリーンのブラが見えた。縦に裂かれた制服を必死に襟を掴んでは面積を引き伸ばして隠そうとしている。そして空いた手で俺の制服の裾をちょんと握っていた。
見上げるような形で雪ノ下が口にした言葉は冷たさと鋭さを失い、むしろ哀願に近く熱が篭っている程。
「……はぁ」
小さくため息を吐いて、雪ノ下に少し離してくれと言葉で告げれば、恐る恐ると指は開かれた。自由になった身体でブレザーを脱ぐ。そして、視線をそらしたまま雪ノ下に手渡した。
「肩の上のボタンを外せば、前隠せるから」
「あ、ありがとう……」
「別にお前のためじゃねぇ。緊急事態時にそんな格好でうろつかれたら危機感とか、緊張感とか、警戒心を殺がれるくらいなら、上着くらい貸すっての。そっちの方が断然、効率いいだろ」
『……うっわぁ、捻デレ』
幽霊が俺の早口に対して呆れたような目で見ていた。俺の「かんぺきにしてかんぷなきまでのりろん」に何の穴も無いので文句を黙殺する。
「くふっ、ふふっ、貴方、こ、こんな時でも」
背後から聞こえるクスクスと笑い声が聞こえる。少し緩んだ空気に気恥ずかしい思い。まるで一人だけずれているという疎外感と孤独感を味わうが、そもそもが毎日味わっているものではあるので何の新鮮味も無い。
雪ノ下が着終えるまで待ち、再び歩き始める。緩んだ空気の中、曲がり角へ差し掛かろうとすれば、先行く九音が確認をして無問題の合図が出た。頷き、歩み進めれば目的地である玄関までは目前と迫っている。
だが、俺はその事実に震えてしまう。何の影も無い、誰も居ないという事実が俺の背筋を凍らせ。
影も形も人影も人ごみも無い――まさに無人と呼べる玄関出口。
最終下校時刻。その直前ともなれば部活帰りの生徒が一人や二人、部活を終えた後に職員室に戻る先生とすれ違ってもおかしくない。にもかかわらず、全くといっていいほど気配が無い。
「ね、ねぇ……比企谷くん」
恐らく雪ノ下も同じように違和感を覚えたのだろう。しかしながら俺は返答など出来やしない、その違和感の答えなど持ち合わせていないのだから。
一歩、また一歩とゆっくりと進み玄関口に辿り着く。律儀に全てが閉まっている玄関口は何の変哲も見えない――しかし、昨日の光景を思い出し、比べればおかしいのだ。
そう、玄関口が一つとして開いていないことは違和感でしかない。普段ならば何らかの理由で一つや二つ、開きっぱなしの玄関。風通しをよくするためなのか、出入りをし易くするためなのかは定かではない。それでも冬が終わり、春になると玄関は止め具で固定されたまま開きっぱなしという状態であった筈だ。
部活にも入っていなかった俺だ。最終下校時刻付近は閉じられているのではないのか? 否、それは昨日の記憶が否定する。
今日、偶々全部閉められているだけでは。成るほど、可能性はある。しかしながら――俺たちがナニカに襲われている異常と今回の偶然は何の関係もないと思い込める程、俺は楽観視など出来やしない。
だから慌てて玄関口に近づき、押し込む。
開かない。開かない。開かない。
どれだけ力を込めても扉が開く気がしない。鍵がかかっている――そんな物理的な意味合いを持つのなら話は簡単だった。
手ごたえは壁。
壁に扉が描かれて、俺は必死に押して開こうとするそんな間抜けな構図にすら思える。間抜けな俺はそれでも未だに開こうと必死に押し込み続ける。
「ひ、比企谷くんっ、こっちも駄目だわ……」
同じように別の扉を押しては開こうとしていた雪ノ下の表情が翳る。
『異界』
横から毀れる言葉に嫌な汗が流れた。
『……異界に迷い込んじゃったんじゃない? ここはもう現実世界じゃない』
心臓が早鳴り、どこか遠くの音にすら聞こえる。油断したつもりもなければ、油断などしていなかった。だがそんな俺の警戒心など意味がなかった。いつだって理不尽は唐突に襲い掛かってくるのだから。
それでも早すぎるだろう、と未だに悪あがきのように言い訳が思い浮かぶ。あぁ、しかしながら。
そんな往生際の悪い駄々は集めた知識が叩きのめす。夜深く、闇深い時間にのみ怪異・怪現象に遭うなど誰が決めたのだろうが。
むしろ今こそ絶好。今、この瞬間こそが絶好なのだ。どう考えても遭う時間だ。出遭う瞬間だ。
魔が差す時間、魔に遭う時刻。夕方から夜にかけてのこの時間帯は何があってもおかしくなどない。だから、人は今この時間を『逢魔時―大禍時』と呼ぶのだ。夜じゃないから安全? いいや十分に魔に合っている。
愚かしいまでにおろか。愚物の中の愚か者。何を考えて俺は普通に帰れると思ったのか、昨日も帰れたから今日も大人しく帰れる。馬鹿か、俺は。
早くなる鼓動に合わせて、わきばらが鈍い痛みを訴える。脂汗が額に滲み、心を混乱と発狂に惹かれ委ねようとする。持っていこうとする心を必死にしがみつき、放さないように繋ぎとどめる。
「ひ、比企谷くんッ!」
雪ノ下の切羽詰まった声が絶望に滲む心を引き戻す。
振り向けば居た。のっそりと近づいてくる巨体が確かに居た。明らかに人とは異なる存在は緩慢な動きで俺たちに近づいてくる。
「逃げるぞ、雪ノ下ッ!」
「ど、どこによ! ここから出られないのにどこに行けって言うのっ!」
反論など耳に留めず、腕を取り走り出す。先ほど走ってきた方向とは逆の方へ。職員室前の廊下へ出て、目にしたのは。
『おいおいおい、いやいやいや、これは流石にやりすぎでしょう……?』
変な笑みを浮かべながら眼前の光景を評する。そして俺も完全に同意見。雪ノ下は小さく嗚咽を零し始めている。
逃げ出した。逃げ出した元には? 勿論、漆黒のレインコートを着た化け物。
じゃあ、俺が目にしているのは? 廊下の奥にいるそれは?
同じく漆黒のレインコート。それも一体ではなく、二体。その二体が完全に廊下の角奥からやってくる。背後など気にする必要もない、物音が、歩く度に響く振動が見ずとも居ることを証明している。
「中庭しか」
俺は呟き、考える間もなく窓に寄る。寄っては破ろうと叩いてみれば手ごたえがある。俺の叩いた窓は手応えがありすぎた。割れるなんて都合のいい展開じゃない。
俺の叩いた窓は絶対に割れないと、まるで壁を叩くような感覚。玄関口と同じように何の解決も見込めない。
上に行く方法もなければ玄関からも出られない、ましてや窓の外に逃げ出すことなんか出来やしない。それでも俺は諦めが悪く、背後を見る。
選択肢が五つ。
――職員室、保健室、教員用トイレが二つに、生活指導室。
足音がどんどん大きくなっている。もはや視界の隅にすら現れた黒を意識しないように見比べる。
俺は――男子トイレを選び、ノブを回す。手ごたえは固くは無い。
「雪ノ下ッ! こっちだ!」
声をあげて雪ノ下を呼び寄せる。しかし蹲る雪ノ下は動く気配がない。俺は慌てて近づき無理やりに立たせようとする、しかし雪ノ下は全身から力を抜いていた。もう諦めたかのように空ろな視線。それでも無理やりに引きずる、そしてトイレ入り口の足元、段差でこけてしまう。
なんと致命的な。ここぞという場面で間抜けを体現する俺は切羽詰った状況にも関わらず、足が縺れる。
俺はせめて怪我をしないように下敷きになり、トイレに背中から飛び込む形で入る。二人で転がるように飛び込んだ職員トイレは水気がなく、どこか腐臭漂う場所だった。
起き上がらなければ。起き上がって、まずはトイレの窓を調べよう。
そう、両足に力を入れようとした時に必死になってYシャツにしがみつく雪ノ下に気づく。震えていた。その震える両肩を邪険に押し退ける勇気を俺は持てずに、包み込むように手を回す。
――終わった。
目を瞑り、屈する。この一年間、同じようなことを何度も何度も考えてはその度に奇跡的に生き残ることが出来た。
少なくとも今までは俺と九音の一人と一体で終わっていく。そんな感覚があった。だから雪ノ下と共に終わるこの瞬間に新鮮さを感じてしまう。少なくとも俺たちだけで死んでいくということはなく、性格には難あれどこれほどまでの美少女共に終わりを迎えるというのなら悪くないと柄にもなくそう思ってしまった。
必死に声を押し殺す呼吸が聞こえる。女の子特有の甘い匂いと職員室トイレの臭いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。胸のYシャツに埋められた唇から吐かれた息が湿り気を帯びる。下腹部からふとももに押し付けられた控えめながらも男性とは違う胸の柔らかさに少しどきどきして、震える肩を力強く抱きしめる。
一分、二分――だろうか。
どれほどの時間が立ったのかわからない。
『八幡くんっ! 朗報、朗報! っては? 何やってんの?』
声に反応して目を開けばうっすらと天井が見える。その前には重なるように宙を浮かぶ透明色の女子高生が居るのだが。
『はぁー、私が殿でトイレ前で張ってたっていうのに、はぁぁぁぁ?』
マジで信じられない! とばかりに視線で訴えてくる幽霊。
『おかしいと思ったんだ! トイレの窓から一向に立ち上がる気配がなかったし、どうなってんだろってすっごく気になってたけど、私は健気にトイレ前にあいつらがやってきて何とか出来ないか一杯考えて、目の前通った時はすっごい怖かったけど! それでも頑張って見張ってたのに! はぁぁぁぁぁァァ!? そんなことあるぅ?』
浮かぶ少女の機嫌は急転直下。ふわふわと、ふよふよと浮かぶ少女の鋭き眼差しにどうしたもんか、と頭を悩ませる。
『い・つ・ま・で! そうやってんのさ。あの化け物たちならとっくにトイレの前を素通りしていったよ!』
またしでも奇跡的に命を繋ぐ。何が理由でどうしてそうなったのかはわからないが、俺たちは男子トイレに逃げ込むことで難を逃れた。
「ゆ、雪ノ下」
無論、そうなると次は震える雪ノ下に立ってもらうようお願いしなければならない。いつまでもこの体制は流石に困ってしまう。生命の危機、安堵感が交じり合い不覚にも生理現象が発生してしまう。
「い、一度、体勢を立て直そう。どうやら、ここには入ってこなかったみたいだ」
半ば無理やりぐいっと雪ノ下の肩を押して持ち上げる。ぺたんと女の子すわりになる雪ノ下とは対照的に俺は立ち上がる。
『このっ、このっ!』
ごそごそと俺は雪ノ下に背を向けて色んなポジションを立て直していれば九音が猫パンチを繰り出してきた。
『あ、この女! いいや、雌猫、泥棒猫! 今、何かに気づいたぞ』
おい、その報告は俺にもダメージが来るからやめてくれ。地味に効く。
雪ノ下がナニに気づいたのかは判らないフリをしながら、職員用男子トイレを練り歩く。窓を調べてみれば例のごとく固い手応え。奥の便座から警戒を強めながら覗き、ひとつひとつを見て回る。そして最後に掃除用具の扉を開き、中を確認。モップが一つにラバーカップ、柄つきたわしにバケツが二つ。
俺は中からバケツを取り出した。椅子代わりに座って、雪ノ下にもう一つを手渡す。自分が地べたに座っていたことに気づいた雪ノ下は慌てて立ち上がり、ポケットからハンカチを出してはバケツの上に座る。
「……少し考えをまとめたいんだが、大丈夫か?」
「え、えぇ、そうね」
雪ノ下はこちらをちらちらと見れば、視線が合いそうになると俯く。
『……頭茹っちゃってんよ。八幡くん、こいつどうにかすべきじゃない? ほら、今までの鬱憤はらす意味でさ。トイレに水なんて幾らでもあるんだし』
やるかよ。しかしながら、耳元まで真っ赤にした雪ノ下に対して下手なことをいえば自分にも傷を負うことは明白。とりあえず、何でもないかのように話を始めよう。
「まず、そうだな……あの得体の知れない化け物について。何か心当たりはあるか? どんなことでもいい。ちなみに俺は当然ない」
自信満々に胸を張る。ついでに口元を袖で拭えばベッタリと紅に染まる。
こんなことを言いでもすれば昨日の雪ノ下の様子から予想すれば『自信が無いことをそんなに胸を張って言わないで頂戴。呆れるどころか哀れむわ。どうやったらそんな恥ずかしい真似が出来るのかしら? ねぇ、恥って言葉は知ってる?』なとど返ってくるかもしれない。うわ、めっちゃ言いそう。
しかしながら、雪ノ下の返答は――
「私も、わからないわ……」
軽口に返答する余裕は無いらしい。いや、考えてみればそうか、それが当たり前だった。
『いやぁ、八幡くん。君ってば本当に現場慣れしすぎだよね……死に目に遭いそうになる以外の場所では君は本当にいつも通りだよね。』
いつも通りと言った九音の様子も――いや、いつも通りではない。むしろいつもの土壇場に比べてかなりおとなしい。
『ん? おやおやぁ、私が大人しいことに疑問でも持っちゃった感じ? そりゃそうだよ、最悪八幡くんが死んでもいっかなって私は毎回思ってるし。仮にそうなったとしても化けて出た君とイチャラブチュッチュ出来ればいいだけだし。でもね、流石に今回は私だってそんな野次馬みたいにテンション上がってわーきゃー騒ぐって状況じゃないからね。今回は別、まったく別のお話、別問題』
ふわふわと雪ノ下の背後に移動し、ゆっくりとその頭の上に座って足を組む。
『この子、邪魔なんだよね。お邪魔虫で泥棒猫。もしもこの場所で君が命を失って、化けて出たとしてもそれはきっと君だけじゃなくて余計なオマケもついてきそう。私は君と二人で居れればいいけど、この子憑いて回る可能性があるでしょ。ぶっちゃけ、私はそれが非常に気に喰わないし、納得がいかない。日本の一夫一妻という制度って私、好きなんだよね。それを邪魔する虫や猫は要らないってわけさ』
言い切るとひゅるりと再び俺の背後へじゃれるように纏わり、憑く。
『だからね、今回は』
耳元で甘く囁く。それこそ愛を語らうかのような声色で。
『全面的に何の躊躇いも無く、何の策謀も、何の策略も、何の邪魔もなく素直に君の味方をしてあげるよ』
そりゃ安心できる、と俯きながら声に出さずにこぼす。納得も納得、ぐうの音が出ないほどに九音らしい理由に合点がいく。
そんな黙り込みながらも表情と視線だけで伝わっているかも怪しい会話をする俺たち。けれども雪ノ下からしてみれば沈黙が支配する場、状況でしかない。そんな状況に不安を覚えているのだろう、挙動不審に視線を彷徨わせる。そして不安はついぞ口から漏れる。
「ねえ、どうしましょう……これから」
「そりゃあ……どうにかして、ここを出て家に帰るだろ」
「そ、そんなことッ! 私だって!? ッ……」
大きな声を出した雪ノ下は慌てて声量を落とす。
「悪い、そんな話じゃなくて具体的にどうするかだよな」
「い、いえ、こちらこそごめんなさい」
普段から部室でお互いにこれくらい気を使っていれば口論にはきっとならない。しかしながらそうなれば話しかけすらしないだろう。
「とりあえず、一つ。俺たちは今、理解を超えた、常識では考えられない何かに巻き込まれている。その認識は大丈夫か?」
まずは共通認識。自分たちが今、どのような状況下に居るのかをまとめる。
「そう……そう、ね。どう考えても玄関のあの固さは普通じゃなかったわ、」
「あぁ、それには同意見だ。普通なら鍵が閉まっていても隙間がある。開かないにしても何かしらの音が鳴る筈だ。正面玄関と中庭、それとトイレの窓にはそれらが一切無い」
その事実を告げると雪ノ下の表情はさらに翳る。
「ここに閉じ込められたということね」
ようやく頭が回り始めたのだろう。思案顔に顎に手をあてる仕草は理知的な少女に似合う――座っているのが椅子ではなくバケツというのが構図として台無しにしているが。
「誰かを当てにするにもこんなわけのわからない状況で偶然に助けに来てくれる人なんて心当たりがない。その上で」
玄関口を思い出す。人通りが皆無であったことから、この世界に俺と雪ノ下を除いて生者がいるかも怪しい。
「……助けを、外から助けを呼べないかしら」
ふるふると告げられた内容は酷く現実的な内容だ。非現実で通用するかはさておき。それでも可能性に縋るように口に出す。
「雪ノ下、お前の携帯は使えるか?」
「ごめんなさい、鞄の中にあるわ」
その言葉を聞いて、俺だけが縋ったその糸が切れたのを知ってしまう。
「比企谷くん、あなたの携帯は?」
俺は懐から携帯を取り出して、絶望を突きつけなければならない。
「すまん、この通りだ」
ポケットから取り出したスマートフォンは画面が粉々であった。電源すら入らない。
「何が、もしかして、あの時……比企谷くん! あなた、身体は大丈夫なのっ!?」
『あーらら。ようやっと気づいたのか。私の八幡くんをぶっ飛ばされたことを今、ようやく思い出したらしいよ。救えないよね、こいつ、自分のことばかりでさ。八幡くんにおんぶに抱っこ。手を引いてここまで辿り着いたのにさ。ほんっとお荷物だよね』
九音の咎めるような台詞、しかしながら俺は責める気などまったくない。むしろ雪ノ下の人間らしさが見えて安心した。自分が失った人間性を垣間見て眩しく羨ましくすら思えた。勿論、俺が雪ノ下よりも精神的に安定しているのはただの経験値。同じような目を繰り返せば雪ノ下は俺なんかよりもきっと上手くやるだろう。そもそも死にそうな目に合うので何回も味合うものではないが。
俺は人間である、間違いなく。けれどもこの一年は失ったものばかりが目に入る。消火器を躊躇いも無くナニカ振るうことが出来る人間がどれくらい居るだろう。人の形をした存在に、殺す気で振りぬくなどまともな人間の神経をしていたならできやしない。だから出来なくて正しいのだ。出来る方が間違っている。
「まぁ、運よく携帯で威力が減衰したんだろ、所々打ったが問題ない。俺の怪我なんかより、まずはここからどうやって出るか考えるべきだろ」
「けれど」
言いよどむ声に九音が反応する。
『まぁるでヒロインみたいな面して心配しちゃってさ。こいつ全然状況を理解してないよね。君が心配したところで何が出来るの? 心配したところで救われるのはこの女の心であって八幡くんじゃない。手当てでも出来るの? 治療でも出来るの? 出来ないでしょ。仮に肋骨が折れてたとしても自分ならどうにか出来るとでも? ほんと、見ててイライラしちゃうなぁ』
棘のある言葉だ。しかしながら棘を抜いてみればどこまでも真実だった。事実として雪ノ下に現状してもらうことなどない。ましてや治療など必要ないのだから。彼女がすべきはまずは己が身なのだ。自分の身を心配して、生き残ることを理解してもらわなければならない。中途半端なチームワークで乗り越えることが出来るなど思わない。俺を心配して、配慮するなど今は必要ないことなのだ。そんなの今じゃなくてもっと早くにやってくれ、と軽口の一つくらいは叩きたくなる。
「雪ノ下、そんなことより――」
「そんなことって貴方! 自分の身体のことを――」
「そんなことなんだよ、雪ノ下。俺の身体がどうとかは脱出できてからでいいだろ」
言葉を重ね返す。はっきりとした拒絶。
「ち、ちがう、違うわ、比企谷くん。あ、貴方の身体状況を考えることで出来る作業というものは変わってくるわ。逃げる時に貴方の体の状態を知っておくのは重要なことよ」
切れが無い。鋭さを失っている。鈍らで付け焼刃。とってつけたかのような言葉は理論的に見えてあまりにも弱い。
「逃げる時に俺が遅れるようなら見捨てろ」
簡単な話だ。簡潔な答えだ。そもそもが勘定に俺を入れているのが大間違い。二人で生き残るなんて意思はきっと必要ない。自分の手で一杯な以上、自分のことを助けるべきなのだ。
雪ノ下は言った。持つものには義務がある、と。
けれども現状、雪ノ下も俺も持たざる者なのだ。にも関わらず、誰かを助けようなんて傲慢。雪ノ下の頑なに此方を救おうとする意思は彼女らしい。けれども現状を冷静に分析できず、足を引っ張る味方を切り捨てない優柔不断さは彼女らしからぬともいえる。そんな曖昧で、緩んだ理論を展開する彼女は信じられないとばかり。
「貴方、本気で言ってるの?」
怒気混じりの声に縦に頷くことで返答。
「ふざけないでっ」
声を最大限に殺しながらも、それでも強く鋭く言い放つ言葉は静か過ぎる空間にはやけに響く。
「ふざけてなんてねーよ。俺は誰かの重荷になんてなりたくない。俺の責任は俺だけのものだ。訳知り顔で救いの手を伸ばされて掴んで重荷になるくらいなら、一人でもがいた方がマシだっつーの」
「そういう問題ではないわ。二人で協力したほうが効率的だと言っているのよ!」
「協力はする。効率的に動くように心がける。それでも見捨てれる時は見捨てろって言ってるんだ。俺は助けを求めてない、求めてなんかいないんだよ」
理解できないとばかりにぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。綺麗な筈の黒髪はいまや乱れ散らかっている。
「……少し時間置くか。一分後に死んでいることはなさそうだからな」
雪ノ下の背後にある入り口の窓からは巨体の姿は見えない。それだけを安全帯にして一息をいれるとしよう。
~~~~~~
沈黙がひたすらに続く。体感で一時間、いや二時間以上が経った頃だろうか。
玄関や中庭は扉が開きやしないのに、紅は終わりを告げ、黒の世界が訪れる。電気もつかないトイレでは窓から入る月明かりだけが光源だった。
俺も雪ノ下も特別に言葉を発するということは無かった。最後の会話が言い争いだったせいか、此方から話題を振るというのはなんとなく躊躇ってしまう。かといってどっちかが何かしようと動く気配も無い。偶に廊下を確認しては化け物が来ていないかを確認するだけ。扉の外、すぐ傍に化け物が待ち伏せている様子がないことは理解できているものの安全地点として辿り着いたこの場所を捨てて動く切欠が見つからず、未だにずるずると引きこもっていた。
そんな静寂を破るかのように間の抜けるような音が聞こえた。
音源の雪ノ下を横目で盗み見ると顔を真っ赤にして俯いている。猛獣のような唸り声だった。まかり間違っても可愛らしいとかそんな形容の仕方ではなく肉食獣の音だった。
『八幡くん! 聞いた!? 今の音!』
俺と一緒に窓を覗いては時折しゃべりかけていた幽霊が嬉々とばかりに声を弾ませる。いや、お前さ……と呆れたような表情を浮かべてしまう。確かに雪ノ下のことは嫌なやつという意見で一致していたが、それでも他人の不幸に諸手をあげて喜ぶ趣味はあまりない。強いて言うならイケメンが振られる場面くらいでしか笑わないつもりである。そもそもそんな現場に遭遇することないであろうが。
ましてや同級生女子のお腹の音に対して馬鹿にしたり、嘲笑ったりするようなつもりは毛頭ない。
「く、空腹時におきる胃や腸の収縮運動。単なる生理現象であり恥ずかしいことなんて一つもないわ」
淡々と告げられる内容の割には耳まで真っ赤である。俺はかろうじて回収した鞄を拾い上げ中からチョコバーを二本取り出し、一本を雪ノ下へ向ける。
「ほ、施しは」
そこまで言って、再び獣の鳴き声。
「安心しろ、雪ノ下。これは投資だ。一見すればお前はそれなりにお金持ちそうな雰囲気を持っているからな。チョコバーを渡すことによってお前からの返礼を期待するという投資でしかない。つまり、これはお前のためでなく――」
「……いただくわ」
喋っている途中で雪ノ下は奪い去る。なんたる傍若無人であろうか。頭が痛いとばかりにコメカミを抑える仕草は少しだけいつもの彼女に戻った気がした。
もそもそと二人だけで食べる晩餐。ふと、そこで飲み物は自分の鞄の中にあるペットボトルのスポーツドリンクしかないことに気がつく。
「……けほっ、っ」
喉に詰まったのか軽く咳き込む雪ノ下に何も言わずにペットボトルを手渡す。
「あ、ありがとう……」
お礼に対して「ん」と一言だけ返す。こくこくと鳴る雪ノ下の喉。ふぅ、と一息吐いたところで雪ノ下は何かに気づいたのか忙しなくペットボトルと俺の顔を交互に見た。そんな視線に気づかぬフリをして携帯食料を食べるのに集中しているというスタンスで床のタイルを見つめていた。
『ラブコメかよ』
けっと唾を吐き捨てるような勢いで飛んできた言葉は刺々しい。
はぁ!? 違うんですけど、こんなコッテコテなラブコメあるわけないだろぉ! と視線で言い訳をしてみる。流石に出さなかった言葉は伝わらず、九音は尻を天井に向けてこちらに電波を飛ばすかのように両手のひらを向けてきた。
『ラブコメの雰囲気壊れろぉー、ラブコメの雰囲気壊れろぉぉぉぉ』
ついぞ念、いや呪詛を送り始めた。
そういうのじゃねぇよ、と言い訳染みた視線を送ってもまったくの無視。確かに雪ノ下のような美少女と男性用トイレで傍から見れば二人きりという特別なシチュエーションではあるが、俺からしてみれば明日の朝日が拝めるかどうかの瀬戸際なのだ。色ぼける余裕なんてねぇよ。それは多分、雪ノ下も。
『……現実逃避をするなら異性がいるなんて好都合だけどね。昨日今日と雪ノ下さんの超人伝説と目の前の雪ノ下さん本人がまったくの別物だって思い知っている筈なのに。どうしてその事実から目を背けようとするのかな、八幡くんは』
浅い考えなどまるで判っていると、透かしていると。呪詛をやめた九音は忠告するかのように肩に乗っては放つ。
『八幡くん。私の大好きな八幡くん、私だけの八幡くん。君の愚かさも、君の間抜けさも愛おしく思うけどさ……そんな君に近寄る女は許せないんだよね。こればっかりは幽霊らしく、悪霊らしく怨念染みて、守護霊らしくお節介を持って君の欺瞞を暴かせてもらうよ』
くすくすと邪悪に嗤う。
『君も知っている通り、君も知った通り、雪ノ下雪乃は語るべくもなく普通の女の子だ。どこにでも居る、頭がよくて、顔の形がよくて、性格が悪い。それこそ育った環境が少しでも違えば援助交際に手を染めたり、彼氏とキープ君との二股をかけたりする程度には普通の女の子なんだ。騙されちゃいけないよ。いいや、違うか。顔が綺麗で美人だから嘘もつかない女の子? いいや、君の経験では美人こそ嘘を吐く生き物だって教わってきた筈さ。だから、君は決して雪ノ下雪乃を特別な女の子だなんて思ってや居ない。君がもし誰かに騙されようとするのなら、それは君自身が嘘をつくんだ。自分に対して』
肩に乗ったまま九音は雪ノ下を見下ろす。
『そんな普通な女の子が今、何をしているのか判るかい? 逃避だよ、逃避。現実からの、現状からの、恐怖からの逃避。だから君に従うままにこんなトイレで身を隠しているし、こんな不衛生なところから外に出ようなんて動かない。噂通りの少女ならば、完璧超人の少女ならこんなことになっていない。それでも部室でのあの顔を取り創ろうことが出来るメンタリティがあればこんな状況に陥ってない。君は理解しているんだよ。雪ノ下雪乃なんて強気な仮面をつけていた唯の道化でどこにでもいる、それこそホラー映画に出てきたなら最後まで生き残るヒロインなんて役柄じゃなくて、途中で死ぬ一般生徒だって』
クスクスクスと意地の悪い声が耳元に流れる。
『そんな普通の女の子なんだからさ、君に惹かれるなんて当たり前なんだよ。日常で君が好かれるような部分は無かったとしても、非日常で、こんな化け物の世界で一番魅力的な男の子なんだから。ピンチを救ってもらって、行動力の塊で危機を脱し、それでいて自分を守ってくれている。そんなお姫様気分を感じて惹かれるなんて別に不思議な噺じゃないでしょう? だから、彼女は雪ノ下雪乃は君が思っているよりも何倍も何乗も君に惹かれている。多少は頼ってもらっているなんて嘘や言い訳は否認的で欺瞞そのものだよね』
普通の男子高校生ならば雪ノ下――これだけの女の子に好かれ始めているというのならば吉報であり、喜んだり、浮かれたりの一つや二つはあるのだろう。しかし、俺は俺という男子高校生を知っている。生き残った後に現実に返った後のことなど判っている。だから喜ぶなんてこともしなければ期待もしない。
雪ノ下からの信頼や期待や好意を嬉しく思うなど糠に釘でぬか喜び。そんな結末を無邪気に信じられるわけもない。信じもしない。
『ふぅん……ま、そこまで自惚れているわけでもなさそうだ。こんなふやけた恋愛シチュエーションに酔いしれて、都合のいい妄想なんかしてたら続けて喝入れようと思ったけど。だから』
本題だろう。ここまでは前フリ。そしてその本題すら判ってしまう。いつだって足山九音は悪霊らしく悪辣に俺を唆すのだから。
『見捨てちゃえよ』
その提案は俺の悪魔も囁いていた。
『優しくする理由も、信頼されている現状も、気を遣う必要もない。そんなものは非現実な君とそこの女関係だってわかってるなら見捨ててもいいじゃん。君の助けどころか足を引っ張るだけの女の子なんて放っておいて、さっさと私と君でこの異変を終わらせに行こうよ。その過程で彼女が死ぬか生きるかなんてどうでもいいじゃん。だから、私の名前を呼んで? 一年生の頃のように何も無い空中に喋りかける高校生だなんて思われてもいいから私に助けを求めなよ。私を必要として叫んでよ!』
俺の肩から降りて、目の前に立つ。両手を広げて求める少女を俺は―ー無視した。
『……』
「あの、比企谷くん、こ、これ」
九音の向こう側からおずおずと雪ノ下がペットボトルを差し出してくる。
「いや、俺はいい。水道水でも飲んでるから使ってくれ」
俺は二人――いや、一人と一体の美少女達から目を逸して、入り口近くの洗面台を覗き込む。蛇口を捻れば音が鳴り水は流れる。両手で水溜まりを作っては水を啜る。鉛とチョコの味が混じり合い、喉から胃へ。
二度、三度と続けて顔をあげれば鏡に写った顔は酷いありさまだった。
鼻から垂れていたであろう赤と、拭った唇から線を引いた紅。どちらも水気を含ませることによって乾きから開放されて動き出す。
俺はハンカチで拭い、再びバケツへ腰を下ろす。
動き出した時間は俺の顔の変化だけではなく、雪ノ下にも変化を促していた。
「ねぇ、比企谷くん。私達これからどうなるのかしら。学校でわけのわからない化け物に襲われて、閉じ込められて」
「わからん」
短く答える。希望を口に出すのは簡単で、慰める言葉も安易で、優しさを伝えるのも楽だった。きっと下心の一つや二つがあれば安易にそんな言葉を口に出せた、無責任に無根拠に。雪ノ下にアプローチをかけるなら絶好の機会。
けれども同学年女子と接することなど殆どない俺だ。まともに会話をするような機会など無かった俺だ。女子に対する態度など赤点常習の俺の返答はぶっきらぼうであまりにも怜悧な現状を示した冷たい言葉。
「そう、そうよね……ごめんなさい。変なことを聞いて」
距離を近づける機会は失われる。選択は男子高校生としては落第で感情移入した誰かが居るのならもっと気の利いたことを言ってやれと野次が飛んでくるかもしれない。
そもそもの前提として、女子に大して気の利いた人間ならばこんなことにはきっとなってない。なんなら女子だけではなく男子にすら嫌われるどころか興味を持たれていない。人間関係皆無な俺にそんな答えを期待するなんて無駄無謀無意味。
体面を気にせずに実利のために行動しようとする。そんなものは社会という和の中では間違っている。そんなことずっと言われてきたし、理解も判ってもいる。納得だけを置き去りにすればきっとそんな素敵な世界のお仲間にしてもらえるのかもしれない。何とも縁遠い噺。
『……ぅ』
した体面に関して脳を動かしていれば自称美少女の幽霊が爪を噛みながら涙目でこちらを見ていた。しかもその口からは聞こえない程度にぶつぶつと独り言が漏れている。
俺が見ていることに気づけば潤んだ瞳がギョロリと動き、その瞬間に髪を結んでいた紐が切れる。そして恨み骨髄といった瞳で睨まれればホラー映画もかくやといった恐怖を覚えてしまう。
完全に機嫌を損ねている。恐らく雪ノ下と自分を天秤にかけて俺が雪ノ下を選んだとでも思っているのだろう。実際に傍から見ればそう見えるのかもしれない。結局のところ、俺は九音も雪ノ下も天秤になんて載せてはおらず、乗せたのは俺自身。二つの天秤ではなく、三方向の天秤で考えていたのだが。
『……私の方がずっとずっとずっとずっと役に立つのに。こんな女なんか足を引っ張る程度で何の役にも立たない肉塊なのに。ただ不安を口に出すだけで撒き散らすだけのゲロ袋じゃん。私はずっとずっと君の心配してるのに。あいつは終始自分がどうなるかだけ。それだけじゃん。自己中で自意識過剰で自分勝手なクソ女。クソ袋なんてさっさと見捨てちゃってなんの問題もないのに。ソレってゴミをゴミとして捨てるだけなんだよ? そうだよ、この女はゴミなだけ。そう、ゴミなんだよ。ゴミゴミゴミゴミ。こんなゴミと私だったら私の方がずっとずっと尽くしてるのにぃ。どうしてわかってくれないんだよぉ。こんなに好きなのに、愛してるのにぃ、どうしてわかってくれないの……そこの女みたいにちょっと頼りがいがあるだけですぐに誰かに惚れちゃうような淫売なんかじゃなくて、八幡くんとずっと一緒にこの一年間を過ごして、君の中身も性格も顔も身体もぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ愛してるのに。どうしてそんな女なんかを選ぶのさああああああああ。ああああああああっ! ムカつくムカつくムカつく! イライラする! 全部この女が悪い。淫売クソビッチ疫病神。あのまま化け物に殺されてろよ、役立たず! お前なんか勝手に野ざらしになって死んでてよ。ビッチならあの化け物相手に股でも開いてろクソゴミ。前も後ろも口も下も全部の穴を犯されてろ、クソ女。そしたらその間に私達が色々と調べるからさぁ。それくらいしか役に立たないでしょ? そうだ、そうしよ。この女が犯されている間にやればいいんだ。だからさっさと自分で立って動けよ、クソ女。化け物相手に媚びでも売って絶望してろ、そのまま死んでいって。私の八幡くんに色目を使うな、それは私のもの。私だけのものなんだから。取らないでよぉ、八幡くんしか居ない私から取らないでよぉ。お願いだから死んで死んで死んで。お願いだから消えてなくなって、八幡くんの視界からいますぐ消えてよぉぉぉぉぉおおっお! あああああああっぁあああああ!』
髪の毛を乱雑に掻き毟りながら雪ノ下の周囲で呪詛を吐き散らしてはに叫び散らす。俺はその二人からそっと目を逸らす。悪霊然とする九音の恨み言を聞き流してはどうするべきかと再度として考える。そして答えなど出ないことも。俯いている雪ノ下から妙案が出ることもなく唯唯、時間だけが過ぎていく。
幸いなことに此処から出て行くと短絡的な行動を取らないことに救われる。だが同時に此処から出て行こうと思えるような気力は一度の遭遇で味わった恐怖が塗りつぶしてしまったのだろう。未だに残る赤黒い指の跡は余りにも痛々しかった。
~~~~~~~
どれほど時間が過ぎただろうか。正確な時間を計れない以上は感覚で推測することしかできない。少なくとも晩飯と呼ぶにはあまりにも侘しいチョコバーを口にしてから一時間ほどだろうか。個人的には沈黙が苦手でないタイプの俺は雪ノ下に話しかけることもせず、気まずいと感じるには未だに恨み言を呟き続ける存在が居たために退屈は感じなかった。
あくまで俺の話ではある。未だに座り続けている雪ノ下は少しぼーっとしている。怪物で濡れたであろう制服が体温を奪っているせいか、それとも男子のブレザーが暖かさ主張しているせいか。少なくとも緊張し続けるには余りにも辛い状況下。時間が経ち、糸が緩みはじめてきたせいか小さく欠伸が漏れたのが見えた。
「眠いのか?」
「ご、ごめんなさい、その……こんな時に」
しゅん、と項垂れる雪ノ下。俺は一つのことを思い出し、鞄から取り出す。幸いなことに濡れずにすんだそれを雪ノ下に渡す。
「……いつまでも濡れっぱなしだったら風邪引くから」
ジャージの袋を渡せば、それを恐る恐るといった形で手を伸ばす。
「でも、貴方も濡れてるじゃない……貴方が着るべきよ」
「いいから着替えろ」
半ば強引に手渡せば俯いて小さな声でお礼が聞こえた。そしてトイレの個室に潜ってごそごそと音が聞こえる。
『あああああああああ、あ"-あ"-あ"あ"ぁぁぁんっ、うあ"ああぁぁぁぁんっ』
そんな雪ノ下の様子を見ては大声で泣き叫ぶ幽霊。指差して何かを伝えようとしてくるが、その意図はわからない。
『う"ら"や"まじぃぃぃぃいいいい!』
そういうことか、と半分呆れながら俺は此れからのどうすべきかを考える。
朝が来れば終わるのか? 朝になるのか? 空腹で満足に動けなくなる前に動くのか? 雪ノ下を連れて? 人を一振りで吹き飛ばすような化けものを。消火器で勢いよく殴っても死なない化け物を、消化粉末剤をたっぷりかけたのに平気な顔をして歩いた化け物を? 一体ではなく、複数で少なくとも目に見えた三体は最低居る存在を?
ぐるぐると思考が廻る。何度も何度も考えては否定した事柄。俺は俺の行動で雪ノ下を連れていけやしない。無事で居られる保障もない。それならば一人で行動をしたいが説明したところで納得してもらえるわけがない。
「……そ、その比企谷くん、ありがとう」
トイレの個室から出てきた雪ノ下はダボダボのジャージ姿で現れる。
「……雪ノ下、提案なんだが一度仮眠を取らないか?」
「仮眠?」
「少なくともここにあいつらが現れる様子は一度も無い。だからお互いに少しずつ眠って体力を回復させてから動くかどうかを話し合おう。そこから朝を待ってみるのも、行動するのかも」
「で、でも寝る場所なんて」
雪ノ下はぐるりとトイレを見回しては横になれる場所を否定する。もちろん、あるわけがない。
「トイレの個室がある。便座をおろしてタンクを背もたれ代わりにすれば一応……そのままブレザーを上掛けにして使ってもらえば多少の暖は確保できると思う」
「と、トイレで寝るの……?」
「勿論、嫌なら断ってもらっても構わない」
「い、いえ……えぇ、やってみるわ、あなたの言うとおりに」
そう言って雪ノ下はトイレの個室に再び消えていく。それを俺は見送ろうとした――が、即座に踵を返してこちらに来る。
「ひ、比企谷くん」
「どうした?」
「そ、そのどこにもいったりしないわよね? 現状であなたと私が別れるという事態は今後の展開に大きく影響すると思うの。このわけのわからない現状であなたと私が別れたことによって起きるデメリットは非常に大きいものと考えるわ。勝手に一人で外にいったり、行動しようとしたりしたら絶対に許さないから。そんなの許可しないわ」
つらつらと早口で並べられた言葉は要約すれば人手が足りないから勝手な行動を取るなということだろう。その言葉に苦笑いが浮かび「わかった、わかった」と返事をする。すれば三度個室に潜ろうとする雪ノ下。その扉が再度しまろうとした瞬間に雪ノ下が顔だけ此方に出してじっと見つめてくる。
「ね、寝てるところにいやらしいことしたり、襲おうとか男子高校生の下種な考えがあったりするのかしら?」
「信用してないなら鍵でもかけてろ」
ため息を吐きながら答える。こう何度もちょろちょろとされては此方としても落ち着けない。そして、いよいよと閉じようと扉を閉められたると思いきやまたもや開く。
いい加減に天丼すぎて開け閉めされているトイレの個室扉は『使うのか、使わないのか、どっちなんだい!?』とキレてもいいレベル。それほどまでに忙しく落ち着きがない。
「そ、その比企谷くん、あなたのことを信頼してもいいわ」
そう言っては手でこちらへ来い来いと手招き。
「なんだよ……」
一体、なんなのだろうか。言われるがままに扉のほうへ。
「あ、あなたのことを信頼してお願いするわ。い、一緒に個室に入ってくれない……? 私が寝ている間、その、手とまでは言わないけど、その、袖を握ってていいかしら?」
『ぞう"いう"のやめろよお"ぉぉぉおおおお! あ"あああーああぁぁああああ!』
九音の絶叫と俺の心臓がやけに煩かった。雪ノ下を滂沱の涙を流しながら睨み付ける九音は悪霊、もはや怨念で殺せたらとばかりの雰囲気を醸し出していた。
「……わかった」
『わ"がん"ないでよぉぉぉぉ!』
心臓が早鐘を刻む。恐怖とは違ったここまでの緊張を味わったのはいつぶりくらいだろうか。異性を意識して心臓を高鳴らせたなど久しぶりのような気がする。
雪ノ下はハンカチを下ろした蓋の上に敷き、目を瞑って何度か体勢を整える。俺はその間――必死に九音を見ていた。
決壊寸前。むしろ良く持ったほうで下手をすれば雪ノ下に危害を与えてもおかしくない幽霊。この幽霊にはそのくらいの力はあるのだ。だから、必死に目で懇願していた。
心臓は二重の恐怖で音を鳴らし、理性もまた壊されるような状態。あまりにも無防備な華奢なその身体は、もしも中学生時代にこんなシチュエーションに陥ったのならば勘違いして告白する。ついでに一夜の過ちを期待して鼻息でも荒くなる。
しかしながら、中学時代の御話。少なくともその頃の俺から変わらざるを得なかった俺だ。変わりたいと思っていなかったにも関わらず、改めなければならなかった数々の経験が勘違いと肯定し、都合のいい妄想を粉々にする。
座って眠るという行為は中々に難しい。慣れていないと厳しいものもあるだろう。それに近くに誰かが居ると眠りにくいという人間もいる。
だが、時間が経つにつれて規則正しく聞こえ始める呼吸で杞憂だったと気づく。
『うわきものぉ、うわきものぉ』
トイレの扉から顔だけ出して、恨めしそうにこちらを見ている姿はあまりにも似合っている。彼女に対しては申し訳なさそうな顔をしてやりすごすしかない。
『本当なら殺したいくらいだけど、現状で殺したら化けて出てきそうだし、八幡くんに憑かれたらやだし、だから我慢してるんだよぉ。めっちゃ健気な私になんて酷い仕打ちをするんだ、君は……』
第三者から見れば現状において雪ノ下雪乃と足山九音のどちらに気を遣っているのかなんて丸わかり。俺もそれは認める。
嫌なやつ代表であった雪ノ下に対して俺は確かに気遣いしていたのは大いに認めるところである。
けれども、それは――俺のためであった。それは俺の罪悪感、俺の責任なのだから。すべてが原因とまでは思わないが、少なくとも雪ノ下を巻き込んだと俺は思っている。そもそもがあいつを引き付けたのは俺だ。奉仕部前に聞いた足音は――よくよく考えれば同じものだったのだろう。背後数メートルに聞こえた、なのにすぐ後ろには居なかった。
あの巨体が廊下の奥で鳴らした地響きは人間大なら背後数メートルと俺は勘違いしたのではないだろうか。そう考えるとしっくり来る。
それに雪ノ下は素人、初心者、ニュービーといった存在である。仮に原因が俺ではないとして、巻き込んだのも俺が理由じゃなかったとしても、せめて先導者としては雪ノ下の面倒を見るくらいはするのだ。
勿論、俺がそんな柄ではないことを重々承知している。けれども、雪ノ下を放りだして勝手に死なせたとなって自分は関係なかったと割り切れるほど淡白じゃない。そんなことを平然と行える人でなしに俺はなりたくなかったのだ。全部が全部自分のため。自分がなりたくない自分に変わらないように、人ならざるものが跋扈する世界で、人でなくなるくらいなら雪ノ下に情けをかける。
だから、最低限の気を遣った。それこそ、本当に最低限だ。道端に空のペットボトルが目の前に転がってきたら拾って捨てるくらいの当たり前。別にそれは俺が誰かに褒められたくてやっているわけではない。自分の中に引っかかりを解消するためでしかない。だから偽善でもなければ善でもないのだ。どこまでも自分のため、自己満足にしかすぎない。
さて、と頭を切り替える。
化け物の正体を考える。何度も脳内でぐるぐると考えては結論のでない答え。
黒いレインコート、大きな瓶底眼鏡に、うっすらとしか見えない輪郭は殆ど闇色で見えない。巨体で、腕の一振りで男子生徒を教室の隅へと吹き飛ばす。
まったくの正体不明の意味不明。俺が知っている知識で絞るにはあまりにも情報が少なすぎる。候補を絞るというにはあまりにも心当たりがなさすぎる。新種の新発見の化け物と定義づけたくなる。しかしそうじゃない、そうではないのだ。
きっとあの化け物にはナニカがあって現れた。経験したすべての心霊体験は何らかの理由があり、何らかの原因があるのだ。そのナニカさえ判れば、対処法の一つや二つは見つかるかもしれない。勿論、正体が判ったときには既に手遅れだという逸話もある。
何があったのか、あの化け物が現れた理由は。もしもあの場所、奉仕部に居る存在ならばもっと前から話や事件が起きている。そうじゃない筈だ。俺と雪ノ下が出会ったからなのか? 俺と雪ノ下の関係性を考えたときに繋がる要素など何も無い。
そもそも何故、俺や雪ノ下が狙われたのか、巻き込まれたのか。
『八幡くん……八幡くぅん……』
めそめそと泣きべそをかく女幽霊。なんとも似合いすぎだろ。俺は雪ノ下の様子を伺いながら――力の抜けた指先から抜け出す。音を殺したまま個室から出て、声を殺して幽霊に話しかける。
「……九音」
『ッ!? ~~~~ッ!』
判りやすいくらいに顔を弾ませて――頬を膨らませていた。
『ど、どうしたんだい! 急に話しかけたりして! さっきまではずっと無視してたのに! もしかして、もしかして、もしかしてぇ? いまさら私の力を借りたいっていうのかい? まさか使い勝手のいい女扱い? 信じられないや。ほんっとーに君って、最低のクズだね!』
詰るような言葉は隠しきれてない笑みが説得力を消す。
『私以外の女に優しくして、女子と男子トイレに二人っきりでこもるなんていかがわしさ以外の何ものにも聞こえないようなことを私の目の前でしておいて、その上で私にお願いするの? 本当に屑だね、最低だね!』
楽しそうに俺の周囲を廻っては不満をここぞとばかりに伝えてくる存在に俺は懇願するしかない。希うしかないのだ。縋ることしかできない俺には言葉を使ってお願いするしかないのだ。
『なら、嘘でもいいからさ。囁いてよ、愛を』
九音の甘ったるく強請る声。何度と、何度として彼女にこの言葉を放っただろうか。どうしようもなく、自分の安全のためにいつからか俺は彼女に何度も嘘で塗れた言葉を放ち続けてきた。それは欺瞞で、嘘が嫌いで、本物なんて欠片もなく、心の篭ってない心にも無い言葉で。
――あぁ、頼む。九音、俺を助けてくれ、好きだ、愛している。
こんな軽薄な言葉を使う自分が嫌いだった。命惜しさに自分を曲げてしまうことが嫌いだった。変わってしまうことが、前に進むために醜く汚れる自分の舌先を切り落としたかった。自分の命を守るために危機に陥ればどんなことでもしてしまう自分が嫌いだった。
『んふっ、んふっ、いいよぉー、やったげるよぉ。愛する八幡くんのためだもん。君がたとえ、別にあの女に気を使うのが気にいらなくても、それが別にあの女のためではなく、八幡くんのためじゃないって判ってたからねぇー……んふふ、あの女いい気味だよねぇ、無様だよねぇ。最初っから脈無いのに勘違いしちゃってさぁ、思い出しただけで笑う、うぷぷぷぷ』
満足とばかりに飛び立ち、その姿を見送る。
しかも――こいつ、解っていながらあんだけ雪ノ下に呪詛やら何やら言っていたのか。
数分もしないうちに戻ってきた九音は空中に浮かびながら、俺の胸に猫のようにじゃれつく。そして首に手を回してはぶら下がるような体勢へ。重なるような存在は質量は存在しない。欠片も、微塵たりとも。にも関わらず俺の動きに合わせてぴったりと生きた人間がじゃれつくように憑いてくる。
『なぁーんにもいなかったよ。周辺どころか、一階も、二階も、三階も、四階も。校舎をくまなく見てきてなんの影も見えなかった』
どういうことだ?
雪ノ下を起こすべきかまず悩む。だが、万が一を考えればここがセーフティーであったことはこの数時間で理解できている。あの化け物は『男子トイレ』には侵入できないのだろう。無論、こんなものは推測で裏づけなんてあるわけもない。しかしながら、この状況で裏付ける証拠など現時点での感覚論で十分だった。
追い詰められていた俺たちを見逃したあの出来事はその推測を強める。俺たちはこの場所から逃れることは出来なかった。完全な袋小路。それでも見つからなかったのはあの化け物が男子トイレが捜索範囲外ということだけだ。
何故だ?
俺は何かを勘違いしているのか?
『くふふ、戻ってきたときにあの女が居なかったりして。それはそれで面白い展開だね』
どこまでも雪ノ下の不幸を願う幽霊を引き連れて、ゆっくりと男子トイレから飛び出す。ひんやりとした廊下はたいした光源がないせいか自分の両目だけが頼りになる。うっすらと入る月明かりを頼りに廊下を息を殺しながら進む。
「……まずは奉仕部を目指すか。雪ノ下の荷物もあればアレを最初に見た場所だからな」
『そうだね、彼女の荷物を確認するべきだよ。女の子の秘密を探るなんてやったね! 八幡くん! 友達減るぞ! あっ、いっないか! あっははは』
嬉しそうに響く笑い声。こんなことをばれれば友達どころか学校を追い出される。噂など底値で、評判など最低値。むしろこれから上がるだけと嘯いて見れば、なんとも明るい未来だろうか。
リノリウムの床をゆっくりと進む。自分の真下から響く音が暗い空間の中でやけに大きく響く。重ならないその音が孤独を肯定し、同時に安心感を与えてくれた。
そうして中間地点、無人の玄関ホールへと辿り着く。
音がした。何かがすり抜ける音が耳に入ってくる。幻聴の可能性もよぎったが、耳をすませば再び聞こえる音の方へ近づいていく。
「隙間風……か」
正体を見破って安堵の溜息を吐く。しかしながら疑念がわきあがってくる。その疑念を晴らすべく、俺は扉へ触れた。
――ガチャッガチャ
そうなのだ。吹くわけの無い風、吹いてなどいなかった風。俺の勘違いで気づかなかっただけではない。
あの時、絶対にこの先にいけないと感じた壁は、いまやガラスを蹴破って脱出できる。いよいよもって頭が混迷を極めていた。
何故、急に? 終わったのか? 出てもいいのか?
元々、ナニか勘違いしていたのではないだろうか。
俺が巻き込んだのではなく――巻き込まれたのか?
今まで勝手に加害者ではないにしろ、少なくとも原因の一つであったと思い込んでいた。そうではないのか?
『こういう状況だと、もしかしたらあの女、あの雌猫自身が化け物、怪現象の正体の可能性を感じちゃうよね』
クスクスと嗤うつぶやき。それは雪ノ下雪乃が化物、正体不明、亡くなっている。そして先程まで一緒にいたのは――
『くふふっ』
いやありえない。過熱する妄想をかきけす。水を差す。それはありえないと冷静に振り返れば判るはずだ。
この女幽霊がそんなことはありえない証拠なのだ。もしも雪ノ下が怪現象そのもので近づいてくるのなら――足山九音が見逃すはずもない。黙っているわけもない。俺がグラビアアイドルを見てたら間に入って邪魔するくらいに狭量な女だ。自分の所有物に近づく同類を見逃すはずがないのだ。
「冗談はよせ、雪ノ下は生きていた。間違いない。怪物、怪現象の類にも見えない」
『ちぇっ……つまんないの。そうだよ、そのとーりだよ。あの発情雌猫は生きてるよ、生者にして生存者。毎度のこと、死に掛ける八幡くんに比べて五体満足でピンピンな健康優良児さ』
唇を尖らせている割には目が笑っていた。ちょっとした悪戯なのだろう。
しかしながら、そうなるとなぜ、今の時点でこの扉が開けるのだろうか。
「……雪ノ下がいないから?」
その瞬間に紐解ける。
間違いにも大間違い。半ば今までの経験上で化け物に追われることが多かったために起きた勘違い。自意識過剰で赤っ恥。物語の主役の顔をして、物語の原因の面をしておきながら実は完全な脇役、オマケ。
そもそもが、だ。初めから化け物は雪ノ下を狙っていた。俺が襲われたと勘違いしたのは吹き飛ばされたからだ。違う、それも悪意や害意なんてものではない。ただ、俺が進行上に立っていたから払い除けただけ。
雪ノ下を狙う存在、雪ノ下を襲う存在。
俺は全速力で奉仕部へ向かう。リノリウムに反響する靴音。そして――うっすらと聞こえ始める機械音。
その音は目的地に近づくにつれて大きく鳴り続けていた。一定の音を出しては切れ、別の音を出しては元の音へ。二種類の音が交互に鳴り渡る不協和音に俺は一つの結論を導き出す。
開けっ放しの奉仕部後方の扉から音源を探す。
割れたティーカップに水溜り。そして教室の隅に吹き飛ばされた机の横。
俺はゆっくりと近づき、目を凝らす。鞄だ。
おそらく、雪ノ下の鞄だ。音源がそこからずっと鳴り響いている。
――rrrrrrrrrrrrrr
――rrrrrrrrrrrrrrrrrrr
――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
そして、俺は音源である携帯電話を拾い上げた時におおよその概観を掴む。
『なぁーる、ほぉーどぉーねぇー。こりゃ、簡単な話だよ、八幡くん。もう一度言うけどさ、いや何度でも言うけどさ。君が雪ノ下雪乃を見捨てれば助かる。今回の化け物はそういう存在だよ』
肩から覗き込む九音の言うとおり。俺の出した結論も似たようなものだった。比企谷八幡が簡単に助かる道は唯一つ、雪ノ下を見捨てればいいだけだった。今度は悪魔だけではなく、理性すらもその答えを肯定していた。合理的で冷徹な囁きは最も簡単な解決方法を提示する。
俺だけは助かる。ただし、それは雪ノ下の墓標の上で。
もしも見捨てればどうなるだろうか。彼女がこの問題を自ら解決できるとは到底思えない。いや、出来ないといっても過言ではない。もしも見捨てればどうなるか? 命はとられずとも発狂状態、植物状態で見つかる。そんな出来事を俺は知っている。行方不明となり死体すら見つからない噺を俺は知っている。呪いに、化け物に殺されて無惨な死体で見つかる可能性も十分にある。
結論として碌な結果など見えやしない。
握り締めた携帯が震えて消える。そして再度としてけたたましい音を鳴らして震える。薄暗い世界でディスプレイに映る『非通知』の文字こそが怪物の正体。
運動靴の五回分。リコーダーを持って帰る羽目。破かれた衣服、美しい少女の裸体。
総武高校において雪ノ下は有名人だった。人見知りな俺が知っている程に。けれど俺は本質を見抜いてなかったんだろう、想定が甘かったのだろう。
雪ノ下の神秘性、話題性、美しさは遥かに超えていたのだ、俺の想像を、俺の聞いた噂話を。少なくとも化け物が産み出される程度には、化け物に思われる程度には。
『着信が二一七件に、メールが五二七通。おぉ、怖い怖い。なんとも身の危険を感じちゃうね』
九音の呟きが答えを表す。語らずとも雄弁に、明言せずとも明確に。ディスプレイに映る文字たちが正体を語っていたのだ。
だから、これは。これは――雪ノ下雪乃とストーカーに纏わる御話だ。
※今回推敲する暇がありませんでした。時間がある時にします。
※次回投稿予定日は一週間後の二月十一日です