足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

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春先【結末】

 ストーカー。

 

 ストーキング行為、付き纏い行為を行う人物。しかし探偵の張り込みなどは該当しない。そもそもが英語のストークという動詞に接尾語をつけてストーキング、ストーカーとなる。

 

 ならば大本たるストークという動詞が何を意味しているのか。人や動物を捕らえたり、害を与えるために忍び寄るという意味合いであるらしい。

 

 捕らえる、害を与える。まさしく現在、雪ノ下雪乃が総武高校で味わっている恐怖体験そのもの。

 

 日本では付き纏い行為の意味合いで認知されている。一般的なストーカー行為は「恋愛感情」を伴う、もしくは「恋愛感情を果たせなかったがための復讐行為」という認識ではないだろうか。少なくとも先日の雪ノ下との会話ではそのつもりで答えていた。

 

 そして、今回の非日常、異界化した際に現れた化物も規則正しく踏襲しているように見える。

 

 正しくストーカー。正しく付き纏う者。間違った行為を正しく行っているという笑えない状況。俺はそんな状況下で巻き込まれた普通の男子高校生。

 

 ならば、そのストーカーという存在は人間であるのか。答えは否。その部分だけが今回の味噌であり、雪ノ下雪乃という少女を追い詰めた要因。決定的な違いで決定的なまでの間違い。

 

 彼女を想う化け物が男子という害虫が近づいたために顕現したに過ぎない。むしろ俺は切欠でしかなく重要なパーツですらない。代わりはいくらでも居ただろう。必要だったのは俺の性別のみで股間にある代物くらいであっただけの御話。もしもこれが普通のストーカーならば警察に連絡を入れるだけで解決。そして普通じゃないストーカーであるが故に、有名な都市伝説を踏襲するかのように携帯を使って連絡を取れば御仕舞ということも十二分に起こりうる。

 

 アメリカには逆探知という都市伝説が存在する。

 

 ベビーシッターのアルバイトを始めた女性の御話だ。

 

 ある日、彼女に一つの仕事が舞い込む。とある会社を経営する夫婦の子供を預かるといった内容の仕事。引き受けた彼女は二階で子供を寝かしつけてテレビを見ていた。すると一本の電話がかかってくる。受話器からは不気味なほどにくぐもった声で『殺してやる……』と告げられ、切れる。

 

 恐怖から彼女は急いで警察へと電話した。電話を受けた警察は逆探知を仕掛けるので次に掛かってきた時に電話を引き伸ばして欲しいと指示する。女は警察の指示に従い、かかってきた電話に出ては相手に必死に話しかけた。しかしながら不気味な声の主は『殺す』『死ね』といった理解の及ばない言葉ばかり。

 

 とうとう耐え切れなくなった彼女は電話を切る、そして続けざまにベルが鳴り響いた。恐る恐る、電話口へ耳をあてると――警察からの電話だった。耳に飛び込んできたのは怒号だ。警察の声はまるで怒鳴るかのような代物。そして彼女の耳に入ってきた言葉は。

 

 ――早く逃げてください! 男は今、その家の二階に居ます!

 

 その後、警官がかけつけた頃には既に子供たちは皆、息絶えていた。子の屍の傍らで不気味に笑う男が一人。彼はナイフを片手に立ち尽くし哄笑していたそうだ。

 

 男の背景はベビーシッターを依頼した夫婦の会社に勤めていた元従業員。失業して精神を病み、凶行に至ったという。

 

 この御話にはストーカーはでてこない。出てくるのはベビーシッターと狂人と警察。しかしながら、逆探知というお話を元に一つの都市伝説が日本に生まれている。それが狂人をストーカーに変え、ベビーシッターをストーカー被害者に変えた都市伝説。

 

 ストーカーの都市伝説。

 

 現代に産まれた怖い噺。この都市伝説の通りに踏襲するのならば警察に連絡、助けに連絡を入れるのは悪手であることは想像に容易い。連絡をした時点で詰みなのだ。その時点で既に近くに居る、襲われる直前の再現になってしまう。少なくとも世間の常識とは異なり、常識を疑わなければならないような状況下では罷り間違っても、普通ならという基準で楽な選択をしてはならない。

 

 携帯のバイブレーションが奉仕部のある空き教室に響きわたる。出ないことが正しいとはわかっていても、煽る恐怖が通話ボタンを押しそうになる。俺は決してボタンを押してはならないにも関わらず、抗えぬ魔力が引き寄せるかのように指が動いていく。

 

「……ッ!」

 

 怪人と呼べる化け物。雪ノ下に執着する化け物をどうすればいいのか考えて足が止まる。

 

 九音の囁く通りに見捨てればいい。そうするだけで俺の命は助かるのだから。ストーカーの化け物は雪ノ下を捕まえて、俺は生き残れる。双方にメリットのある提案である。ただし、そこは雪ノ下雪乃という少女の亡骸の上。命まで奪われるかなんてわからない。しかしながら過去の経験からは碌な結末しか想像できない。

 

 どれも悲惨であり惨たらしい。巻き込まれた俺が、俺の最期が、そのような形になるというのが怖くて仕方がない。見てきたからこそ、見知ったからこそ、そんな結末だけは嫌だと恐怖に心が叫びをあげ、軋み始める。だから雪ノ下さえ見捨てれば自分の安全が保障されるとするのならば、それを選んで当然だろうと過去の経験が、理性が甘く誘う。同時にこの場で最も信頼している悪霊が『それでいい』と肯定してくる。

 

 なんだかんだ言いながらも最後は助けてくれる幽霊がそうした方がいいと提案してくるのだ。口では『死んだら娶ってあげる』だの『死んだら全国のお墓にハネムーン行こう』だのと戯言を抜かす幽霊が俺を生かす最大限の方法を提示してくるのだ。俺が、俺だけが助かるためなら雪ノ下を見捨てるべきだと言うのだ。だから――

 

「悪い、九音」

 

 だから。だから――零れた謝罪は最大限に身を心配する相手への意見を、提案を、思いやりを棄却したから。自分の身すら守れない俺が危険に飛び込もうとするのだから。言葉に出した瞬間に惹かれる指から力は抜け、魔への引力は完全に消え去る。

 

『ほんっと、八幡くんはさぁ……なぁんで、死に急ぐかなぁ。別に君が死んでも私がつれていくけど。君の苦しむ顔も嫌いじゃないけど。君の血を飲んでみたいとも、君の髪の毛を食べてみたいとも、骨までしゃぶりつくしたいとも思うけれども。その死に急ぐ理由が他人のためだなんて、私のためじゃないだなんてイライラしちゃうんだよね。ねぇ、わかってる? 嫉妬しちゃうんだよ』

 

 わかっている。好かれる理由も、愛される理由も何一つとして理解していないけれど、何一つとして心当たりなんてないけれど――足山九音が比企谷八幡に抱く執着心は痛い程に感じている。それこそ悪霊らしく、幽霊らしく。未練がましく恨みがましいほどの剥き出しの感情をぶつけられて鈍感に惚けるなんてこと出来やしない。

 

『……ほんと、惚れた弱みだなぁ。八幡くんを止める手立ては私にないけれど、八幡くんに協力してあげるくらいの力はあるからね。手伝ってあげるよ、八幡くん』

 

「あぁ、頼む」

 

 俺には何の力も無い。幽霊を浄化することも出来なければ、化け物に対する知識も半端でいつも命からがらに汚く生き延びてはその度に足山九音という少女に頼り切りだった。漫画のように、アニメのように特別な力が何一つとして持たない俺で、ドラマや小説のように特別な力を持っている人も居ない冷たい現実で。只の人間には抵抗など出来ない領域で。それでも、願えば。

 

『おぅけぃ、なら化け物が出たら殿は任せてよ。足止めくらいはしてあげる。幸いなことに鈍間で此方に気がつかない間抜けなら幾らでも邪魔してあげるよ』

 

 願えば時間を稼ぐことができる。他力本願で人任せな奥の手。奥の手でありながら、解決方法なんてものではなく、せいぜい足止め程度のこと。

 

 それでも格段に上がる生存率は彼女なしでは語れない。九音の力を借りることで俺はようやく方針を定める。一度、トイレに戻って――その瞬間に湧いた。

 

 確かに目の前に影が沸いた。黒いレインコートがその場に現れた。

 

『八幡くんッ!』

 

 九音が叫び、仕事をしていない蛍光灯が割れては舞い散る。降り注ぐガラス片は巨体へ迫る。

 

 ――ォォォォォオオオオオオッ!

 

 呻き声をあげて上空より降り注ぐ破片から身を守っていた。頭を隠すように両腕は動かされ、手が邪魔で通りにくかった廊下の端を俺と九音は縫うように通り抜け、走り出す。

 

 トイレに居た雪ノ下に何かあったのか、目を覚まさないだろうと、早く戻ればいいと、雪ノ下ならあの場所から出ないだろう、と勝手に高を括ったツケを払っている。どんな理由であれ、どんな言い訳であれ、俺が読み間違えたことは確かなのだ。両足に力を入れて全速力で職員室横の男子トイレを目指す。

 

 夜の廊下に響き渡る音が幾つも重なる。

 

 一つや二つなんて話じゃねぇ。地響きにすら聞こえる大きな音は三体なんかではない。廊下の角を曲がり、すぐさま俺は気がつく。

 

 玄関ホールの隅。玄関口扉を必死にあけようとするジャージ姿の少女。そして対面の廊下奥には黒、黒、黒。

 

 埋め尽くされた黒の間を縫って職員室前までたどり着くには不可能に近い。

 

 地響きは一歩、また一歩と雪ノ下に迫っていた。

 

「あ、開きなさいっ、開きなさいよぉっ! 開いてよぉっ!」

 

 涙交じりの声が耳に届く。俺は雪ノ下の腕を掴む。

 

「ひっ!?」

 

 短い悲鳴。雪ノ下の表情を確認することなく走り出す。

 

「比企谷、くん……」

 

 俺は玄関ホールから再び戻り、二階へ続く階段へ。しかしながら、踊り場から左右両方向を見ても黒の巨体が近づいてきている。上しかない。

 

 再度、階段を上り、三階へ。そこには先回りしていた九音の姿があった。

 

『八幡くんっ! どっちも駄目ッ! 屋上しか道がない! もう他の階層にもうようよといつの間にか現れてるッ!』

 

 九音の言葉に舌打ちが毀れる。雪ノ下の手首を掴んだまま、最終ゴール地点へ駆け上る。もはや逃げ場などない屋上へと足をすすめる。

 

 屋上の扉はドアノブが回る。けれども鍵がかかっていて開くことが出来ない。無意味に何度もガチャガチャとまわしてみるが開く気配は一向に無い。

 

 ――rrrrrrrrr

 

 鳴り響く携帯が焦燥感を強める。

 

「ひ、比企谷くん、その携帯、私の……」

 

 雪ノ下が俺の持っている鞄が自分のものであると気づいたようだ。

 

「わ、私、信じていたのにっ……あなたが居てくれるって……許さないって、言ったのにぃ」

 

 恨み言と泣き声。その二つに反応する暇も無い。屋上の扉を何度も、何度も、何度も蹴る。歪み、軋みをあげていた扉を蹴破る。

 

 小さく嗚咽をこぼす少女の手をとり、屋上へ入る。幸いなことに屋上にはレインコートは一つとして見えない。

 

 だが、下から追われている以上、このままでは不味い。隠れる場所を探さなければ――給水塔ッ。

 

 入り口の真上にあるであろう給水塔を思い出し、入り口横の梯子へ。先に雪ノ下を押し込み。

 

「昇れッ! 早くッ!」

 

 最早、命令系統の単語しか伝えることができない。雪ノ下はカツンカツンと上っていき、俺は階段下を警戒しながら雪ノ下が上り切るのを待つ。

 

「――ぁ」

 

 上り終えたのだろう。俺は梯子を急いで昇りきり、目に映ったのは雪ノ下の姿。

 

 彼女はへたり込んで座っていた。決して広くは無いスペースで絶望の表情を浮かべている。

 

 視線の先には黒の海。死角で見えなかった黒の闇。闇色の人ごみ。怪人で埋め尽くされたグラウンドが目に届く。何百と、何千と彼女に対する怪人が此方を見上げていた。

 

 背後から聞こえる携帯の着信音も目の前の絶望の海に比べれば可愛いものだった。梯子から降りた先の携帯音が消える。そして再度、音が鳴り響く。

 

「こんなの……逃げられっこないじゃない……」

 

 眼下に広がる光景は失望するにも絶望するにも十分であった。心が折られるにはあまりにも強い圧迫感。

 

「……雪ノ下」

 

 座り込む雪ノ下。蹲り泣いている様はまるで普通の女の子。あの雪ノ下がどこにでもいる少女のよう。

 

 毒舌を吐くこともなく。強気な姿勢を見せることもなく。負けず嫌いを前面に出すこともなく。凛とした立ち姿も、意思の気高さもなく。

 

 どこにでもいる、普通の、普通過ぎる女の子がそこには座っていた。

 

「……どうして」

 

 震えた声から出た問いかけに耳を傾ける。

 

「どうして、うそついたの……」

 

 まるで幼子のような問いかけ。主語なんて必要とせず、それでも生きている人間が俺だけなのだから俺に向けられた責め。まるで普通の女の子が彼氏を問いつめるかのような詰り方。

 

「……寝てる間に雪ノ下のバッグを取りにいくつもりだった。走ることになったらひとりの方が逃げ回れるから」

 

「……しんじてたのに、いっしょにいてくれるっていったのに」

 

「すまん……」

 

 何が正解だったのか。何をすればよかったのか。考えてみても答えなど簡単に出ずに後悔ばかりが募る。安易に行動をした結果、追い詰められた現状はいつものように俺の間抜けさから。せめて雪ノ下が男子トイレに篭っていてくれれば、などと最低な責任転嫁が頭によぎるくらいに――ぁ?

 

 その時、俺は思い出す。

 

 当然のように考えていたその場所を。当たり前のようにセーフティーゾーンと捉えていたその場所を。職員室横の男子トイレという場所を。

 

「――あ」

 

 怪人、ストーカー、男子トイレ、濡れた水溜り、安全帯、開く屋上、そして美しく神秘的な少女。誰もが憧れる少女。品行方正で孤高の美しき少女。噂だけが一人歩きした少女。

 

 都市伝説には下地がある。何故、囁かれるようになったのか。何故、現れたのか。必ず理由が付き纏う。噂される、興味を引くだけの何かが必要なのだ。

 

 かつて人面犬という都市伝説が爆発的に流行った時期がある。一九九〇年前後に小学生相手に流行した都市伝説。顔は人間で身体は犬であり人語を話す。深夜の高速道路に現れては追い抜かれた車は事故を起こす。繁華街でゴミ漁りをしており、声をかければ「うるせぇ、ほっとけ」と返答され。また町でいちゃつくカップルを見れば罵倒する。

 

 歴史を遡れば江戸時代にも目撃談があり、梅毒治療には牝犬との性交が効果があるという流言の果てに産まれた妖怪であるらしい。そもそも何故、そんな江戸時代の妖怪が都市伝説に囁かれるほどのブームに至ったのかは定かではない。ラジオ、雑誌、漫画などと様々な憶測は飛び交ってはいるものの決め手となる情報は少ない。

 

 しかしながら、そうやって産まれたブームが目撃談を爆発的に増やし、さらなるブームへと加熱する。何故、そんなことになったのか。それは望まれ興味を持たれ囁かれてきたからだ。人を媒介にした噂話、都市伝説、口頭による伝承、人為伝承。そういったものは信じられて力を持ち、信じられて形を成す、信じられるからこそ害をなし、信じられたからこそ現れる。

 

 そして今回の一件も、雪ノ下雪乃に対するストーカーも下地がある筈であった。

 

 美人だからストーカーの化け物に追われて殺されるのならこの世は謎の変死体で溢れている。総武高校がそういったものが集まりやすい場所であったとしても雪ノ下雪乃以外にも被害者は既に居る筈で。なればこそ雪ノ下雪乃が遭遇するに至る理由がある筈で。

 

 ――あぁ、だから、これは賭けだ。確証も確信も持てないけれど、現状で出来る最後の手段。

 

「雪ノ下」

 

 俺は少女の名前を呼ぶ。いまだに眼下の光景に呆けている女の子に近づき、肩に手をあてて俺は覚悟を決める。

 

「雪ノ下――キスしていいか?」

 

「えっ?」

 

 へたりこんだまま、彼女は俺の方向へ首だけ動かして振り向く。返答など待たずに。

 

「比企谷くん、んぅッ!?」

 

 不意打ち気味に唇を重ねた。彼女の驚きに見開いていた目も、一秒、二秒と経てば静かにそっと閉じる。そして、何秒経っただろうか。唇を離せば、感じる熱が再び屋上の冷えた空気に晒される。

 

「……ひ、ひきょうもの、答えてないのに」

 

 拗ねたように呟き。屋上に辿りついていない化け物たち、眼下には見えるレインコートの群れ、鳴り響く携帯の音、どこかでガラスや電灯が割れる音。それらが全て遠くの世界のようで。

 

「……比企谷くん、あなたも一回したのだからこちらも一回仕返しするわ。目には目を、歯には歯を、よ」

 

 そういって、雪ノ下も立ち上がり、至近距離で見つめあう。

 

「ま、まっ」

 

 ハムラビ法典を持ち出す雪ノ下。彼女が何を言いたいのか理解する前に俺は両頬を押さえられる。

 

「ハムラビ法典はやられたこと以上のことはするなと書かれているけれど――」

 

 雪ノ下の唇が再度として重なる。重ねてくる。

 

 それだけではなく、ぬるりと。口の中を蹂躙するかのように舌が入ってきた。舌先で感じるのはチョコレートの味と雪ノ下の味。キスはレモン味というのはどうやら嘘であったらしい。俺は雪ノ下の味としか表現することが出来ず、そしてそれを不思議と不快には思わない。

 

「んぅ、ふっ……んんっ」

 

 雪ノ下のキスが上手いのかはわからない。初体験であり、比べる相手などいなかった俺は比較する等できる筈も無く。

 

 何秒と経っただろうか。自然とお互いに顔を離して、伸びては消えていく糸が先ほどまでの繋がりを示す。

 

「初めてなんだから、初めてだったのよ、ひきょうもの」

 

 ポツリと呟かれた言葉に俺はどう返していいのかわからなかった。

 

「ずるいわ、あなた。こんな時にキスをせがむなんて。断れるわけないじゃない」

 

 文句を口にしながらも、月明かりで見えた顔は微笑んでいるように見えた。

 

「……ねぇ、比企谷くん。もう一度――」

 

 その時。

 

 光が当てられる。あまりの眩しさに目を細め、そして光の次に続いて飛んできたのは――怒声だった。

 

 

 

「こらっ! お前たち、こんな夜遅くに何しているッ!」

 

 

 野太い声だった。三度目のキスに待ったをかけたのは俺の理性でもなく、目の前に居る雪ノ下でもなく、殿をつとめた九音でもなく、青い制服を着た中年の男性だった。正確に述べるのなら夜間警備の仕事人であり、俺はここから先、どう言い訳するかにひたすら頭を悩ませる。

 

「えっ?」

 

 きょとんとした雪ノ下の声。

 

 悪夢から目を醒ますのはキスが定番である、とそんな綺麗な御話ではない。ましてやキスをすることで物語の主人公やヒロインの面をするつもりも毛頭ない。これはそんな愛が溢れる御話なんかじゃないのだ。

 

 俺がやったのは――雪ノ下雪乃という少女の存在価値をひたすらに下げただけ。それだけに過ぎない。

 

『……八幡くんさぁ! なにがどういうわけかぜんっぜんわっかんねーけど! わっかんないけど! ともかくこういう解決の仕方は本当にどうかと思うよ! お前さぁ!』

 

 そしていつの間にか追い憑いていた幽霊。どこから見られていたのかは謎で、どうやら大変ご立腹であるらしい。半切れで君ではなくお前呼ばわり。本気で腹を立てている証拠である。本当にいつ来たのか気づかなかった。

 

 怒る警備員に、憤る幽霊、困惑を浮かべながらもどこか不満そうな雪ノ下。

 

 しかし、こんな局面いつだって俺は乗り越えてきた。なんなら得意分野。現実世界で俺に出来る最強のカードを持っている。

 

 任せろ、謝ることに関してなら俺はプロフェッショナルだ。

 

 

 

~~~~~~~~

 

 

 

 長く辛い戦いであった。まさか俺の渾身の土下座を持ってしても家に電話されることになりかけるとは。そんな俺を哀れに思った女幽霊が架空の不良を作り出して俺たちは解放された。

 

 具体的には窓ガラスが割れる音を聞いた警備員さんが俺たちと割れた現場を天秤にかけて解放してもらっただけ。俺たちに最後っ屁のように二度とするなよ、まっすぐ帰りなさい! と言っては慌てて居もしない架空の不良生徒を探しに行った、実に忍びない。今度匿名で何かお菓子や飲み物でも差し入れしようと思ってしまう。いや、ほんと、ごめんなさい。

 

『感謝してよねぇ。まぁ、あの警備員さん、ねちねち煩かったしね。何が最近の若いものは、だっつーの。お前も若いころやんちゃなことたくさんしてきたんだろっての。これだから大人ってやだよねぇ』

 

 流石にここまで開き直ることは出来ない。警備員の人も職務上必要なことだろうし、そもそも此方の荒唐無稽な噺など出来るわけもない。だから残っていた生徒が入っちゃいけない屋上に時間を忘れて盛っていたという結論を否定することが出来なかったのだ。なお、警備員さんは雪ノ下の名前を聞いた瞬間に青ざめ、どうしようと頭を悩ませていたようにも感じたが何故だろう。

 

 俺は雪ノ下のパーソナルデータを大まかにしか知らない。家が金持ちで成績優秀くらい。もしかしたら、思っていたよりも雪ノ下という名前はいろんな場所に顔が効くのだろうか。

 

「ねぇ、比企谷くん。アレらは何だったのかしら……」

 

 異常な体験、非日常。壊れた筈の蛍光灯も、蹴破った屋上もすべては何事もなかったかのように元通り。

 

「さぁな」

 

 からからと自転車が回る音だけが帰り道に木霊する。といっても俺ではなく雪ノ下の帰宅路だが。

 

「もっと真剣に考えられないのかしら? それとも頭を使うという当たり前のことができないの? それなら、ごめんなさい。貴方の低脳っぷりを甘く見ていたわ」

 

 呆れたような目と罵倒が横を歩く雪ノ下から飛んでくる。切れ味は完全復活。むしろ、これで切れない奴いるの? ってな具合の尖りっぷり。

 

「考えてもわからないものを考えない主義だ。むしろ効率的といってほしい」

 

「あなたのその向上心のなさには呆れを通り越して軽蔑すら覚えるわ」

 

 月下の中、歩く雪ノ下の表情は呆れながらも声色はどこか楽しそうで、地に足がついていないような雰囲気に思える。

 

「ねぇ、比企谷くん。私たち――付き合うってことでいいのよね?」

 

 音が止まる。なんなら呼吸まで止まる。女幽霊である九音ですら驚きで止まっている。

 

「……いや、待て、雪ノ下。これはあの変な体験で勢いで盛り上がったあれこれに過ぎない。冷静に考えたら役不足だ。俺なんかにとって過ぎたるものだよ。そう、だから冷静に」

 

「あら、あなた。この私にキスをしておいてただで済むと思っているのかしら」

 

 ただより高いものは無い。けれどもただで済むのなら越したことは無い。

 

「そ、その話は、あ、明日にでもしよう」

 

「逃げるの?」

 

 その通り。逃げに徹する、三十六計逃げるに如かず、逃げるに決まっている。俺が明後日の方向へ向いて気まずそうに目を逸らしていると雪ノ下も諦めたのか溜息を吐く。

 

「比企谷くん、今日は諦めてあげる。けれどもお詫びを要求します。携帯電話の番号を教えなさい。あとアドレスも」

 

 俺はそっとその言葉に対してさっと目を逸らす。

 

「お、覚えてない」

 

「嘘ね、いますぐノートの切れ端にでも何でもいいから書きなさい」

 

 立ち止まり、雪ノ下の方を見れば両の瞳は爛々と輝いている。こ、殺される……

 

 俺はしぶしぶと鞄からルーズリーフを取り出し、携帯番号とアドレスを記入。上機嫌になった雪ノ下をマンションまで送り届ければミッションコンプリート。

 

 オートロックの玄関口前で俺たちは解散となった。

 

「本当にこのまま病院にいかなくてよかったの?」

 

「あぁ、明日でも大丈夫だろ、幸いに今は痛くねーし……」

 

「そう、ジャージはその、洗って返すから……一応、明日、病院が終わってから連絡頂戴」

 

「あぁ、じゃあな」

 

 俺はそのまま帰ろうとすると、帰り際に。

 

「ひ、比企谷くんっ! ま、また明日」

 

 俺はその言葉に後ろ手にふって自転車置き場へ。そして、雪ノ下家のマンションから五分くらい進んだところで九音が再起動しては深刻な顔をして一つの結論を口に出す。

 

『八幡くん、悪いことは言わない、これは嫉妬でも何でもないからね。あの女、思ってたよりもヤバいよ……付き合うってなんだよ、お前、さっきまで死に目に会ってたんでしょ、何考えてんの、こわぁぁ』

 

 九音のげんなりとした顔。恐怖から吐き出された意見は間違っていない。けれども足山九音のヤバさを俺は理解しているのでお前も似たようなもんじゃねーかと脳内だけで突っ込みしておく。

 

『んで、さ。八幡くん、私は全体像の半分くらいしか今回の件を理解していないんだけど、どうしてあの異界から帰ってこれたの?』

 

 俺はその疑問に答える。

 

 ストーカーの正体について。中りをつけたストーカーの構成したものたちについてを。

 

 まず最初の勘違いを思い出そう。最初期の俺は自分が雪ノ下を巻き込んだと勘違いしていた。奉仕部前で聞いた音、薙ぎ飛ばす腕の一撃。この事実から俺は『俺と雪ノ下』が怪異、いや怪人に襲われていると錯覚した。

 

 次に男子トイレ。俺たちが逃げ込んだ先の男子トイレはセーフティーゾーン。何故、安全なのかは後に語るとして、この事実があったからこそ俺は目処が立った。

 

 それから雪ノ下と離れた時に急に出入り口が開いた仕組みについて。ここで俺たちは一つ目の勘違いを訂正した。俺は巻きこんだのではなく、巻き込まれたのだと。

 

 そして奉仕部に忘れ去られていた携帯電話。着信履歴や着信メールの数により俺は今回の黒いレインコートの正体をストーカーに纏わる話だと中りをつける。

 

 そこで本題に入ろう。ストーカーを構成したものについて。

 

 根本の勘違い、根本の思い違い。俺は途中で雪ノ下が原因でストーカーが産み出されたと想像した。もっと言えば雪ノ下が何かをしたからストーカーが湧いたのだと思っていた。しかし事実は異なる。そうではない。そうじゃなかったんだ。それこそが間違いで勘違い。最も理解しなければならなかった問題点。

 

 雪ノ下雪乃はただの被害者である。

 

 ただ綺麗で美しかっただけで、ただ神秘的であっただけで、ただ孤高であったに過ぎなかったのだ。だからこそ惚れられた、だからこそ囁かれたのだ。化け物に? いいや違う。そう、それもまた大きな勘違い。雪ノ下は異形に好かれたわけではない。雪ノ下に惚れたのは人間なのだ、人間で凡俗でどこにでもいる男子高校生達が雪ノ下雪乃を好きになっただけだ。

 

 化け物を作り上げたのはその男子高校生の想いだ。だから逆なのだ異形は雪ノ下を好きになったわけではない、好きになったが故に雪ノ下への異形が産まれたのだ。不特定多数の雪ノ下に対する情念がストーカーという化け物を産み出したにすぎない。故に群体だったのだ。一人ではなく測定不能。

 

 だが、どうして雪ノ下だけが? それは彼女の秘匿性にある。それこそ噂の正体、雪ノ下に関する噂を俺は耳にしたことがあった筈だ。そして実物と会って、噂の張本人かと疑ったほど。噂だけが一人歩きして、噂だけの少女が強く思われて現れた。想いが形となり、化け物を産み出した。孤高である、孤独であるとは何を囁かれてもおかしなことなどなく、一人でいることはその神秘性を強めることとなる。

 

 だから引き金は、やはり俺との邂逅なのだ。雪ノ下雪乃に近づく男子生徒を許せるわけがなく、暴走した想いは化け物となり異界と化した。

 

 それでも俺が助かったのは想いの原泉が雪ノ下へのものだったからだろう。だから異形は切欠の俺なんかよりも雪ノ下を優先した、その劣情を、その下卑た想いを優先したのだ。その証拠が縦に切り裂かれた彼女のブラウス。

 

 しかし、最初に襲った時に化け物にとって不都合が一つだけ存在した。それが水溜りの正体。

 

 俺は雪ノ下の鞄を取りにいった後に化け物の真横をすり抜けたが、その時一つの事実に気づいていた。それは化け物が濡れていないという事実に。レインコートを着ているから濡れているなどというのは先入観で、あのレインコートは姿を隠すため、顔を隠すための代物。だから濡れていなくても不思議はない。用途が異なるのだから。

 

 だが奉仕部の部室の中で出来ていた水溜りはどう説明するのか? 零れた紅茶にしては量が多かった。だから、それは――人体から漏れ出た液体なのだ。異形と暴力。その二つの恐怖から失禁をするなど普通に考えて有り得ること。けれどもそれは俺から見た雪ノ下で、化け物の信じる少女には有ってならないことだった。

 

 故に消火器の一撃で倒れたのだ。俺は正直、あの瞬間は拍子抜けしていたのだ。わざわざ消火器を取りにいった理由はそれが最も殺傷能力が高いからだ。教室にあった机や椅子を使えばもっと早く助けることができたのでは? と考えていたほどだ。そうじゃない、必要だったのは殺傷能力ではなく化け物の弱体化。

 

 化け物の行動特徴はそれだけではない。男子トイレに入れなかった理由も、屋上への道だけ侵入可能だった理由も――品行方正で美しい少女に相応しくないという勝手なレッテル貼りからその場所はセーフティーゾーンとなったのだろう。本来女性が入ってはならない場所、優等生が入ってはいけない場所。

 

 雪ノ下雪乃が男子トイレに居るわけも無く、学年トップの成績優秀者が屋上に侵入するわけがない。

 

 化け物の行動特徴から俺は賭けに出た。

 

 それが――屋上での雪ノ下へのキスだった。

 

 あってはならなかったのだ。彼らにとってそんなことが。夜の学校で雪ノ下雪乃がキスをするなど許してはならなかったのだ。信じる存在がそんなことをするなんて決して見たくなかったのだ。

 

 怪人が求めていた雪ノ下雪乃という少女の神秘性を粉々にした。簡単に言うなら幻滅させただけにすぎない。勝手な思い込みから創られた雪ノ下の神秘性を、神話性を砕いたにすぎない。

 

 特別棟の離れた部室で一人で居る美しく優れた少女。そんな少女が同じ部活動生、冴えない男子高校生、なんなら評判が悪く寄行する男子高校生とキスをするなんてありえなかった。そんな普通の女子高校生などではないはずだった。

 

 ストーカーが、焦がれるほどの怨念が、そんな雪ノ下を認めてはならなかった。彼女は孤独でなければならず、あまつさえキスをするなんて不埒なことをしてはならず、孤高で美しくなければならなかった。罷り間違っても部活の同級生程度に自らキスを仕掛けるなんてことは絶対にしてはならない。ましてや立ち入り禁止の屋上に忍び込んで男子とキスするなんて出来事は完全にタブーなのだ。

 

 雪ノ下雪乃の神話崩壊、神秘性の崩壊、ヒロイン性の崩壊。

 

 だから、ストーカーは音もなく消え去った。初めから雪ノ下雪乃のことを好きだと思っていなかったとばかりに。こんなビッチは初めから好きじゃないとばかりに。思い込みに願望に押し付けがましさ。

 

 皮肉なことに自分自身を一度は巻き込まれた被害者と勘違いしていた。そう思っていたが大間違い。どうやら俺は加害者であったかもしれないのだ。俺にだって雪ノ下という女の子の噂を耳にしていた。仮に俺じゃなく違う男子生徒が雪ノ下に近づいたとしても今回と同じようなことが起きえただろう。俺の信じていた雪ノ下、噂通りの雪ノ下を巡っては、想いはストーカーとなり、怪異となったのだろう。たとえそこに俺自身の大きな想いなどなかったとしても。塵のように積もった幻想神話の果てに雪ノ下を守ろうとしたのだろう。純粋ならば守ったのだろう。けれども不純物もあったから雪ノ下を手中に収めようとしたのだ。手に入れようと躍起になったのだ。例え、それが死体であったとしても。

 

『……なるほどねぇ』

 

 夜道を自転車で走る。暗い暗い世界で、俺はペダルをこぎながら思う。ストーカーに対する正しい対策とは何か、と。ストーカーなどされたことはない俺では答えられない。けれども好きな女の子一人や二人は居た俺である。恋愛における負け方になら百戦錬磨。だから、俺はその道の人間としてこう言おう。

 

 幻滅させてあげるのが一番だと。相手から諦めさせるのがいい方法だと。

 

 推しのキス画像が出回ったのでファンやめます、どこでも聞くような噺なのだ。勝手に押し付けて、勝手にそういうもんだと決め込んで。ならその期待を裏切ってやるのが一番だ。ファンをやめる? 勝手にどうぞ、とばかりに。ましてやアイドルでもなければ都合のいいヒロインなんかでもない。

 

 雪ノ下ほどの有名人が屋上でキスしていたなど、たとえ知っている人間が警備員だけだったとしてもその内、話が漏れるのは明白で。職員会議で先生から、そして生徒へ伝播し、数日中には誰かが屋上でキスしていたなんて話題がまことしやかに囁かれるだろう。普通の女の子のような。普通の女子がやっていることを。誰が誰とキスをしたなんて、誰かと誰かが夜の校舎に忍び込んでいたなんて、そんな傍から見ればどうしようもなく下らない噺がきっと総武高校に広まるのだ。

 

 なんとも下世話で、そんな下世話な話くらいが高校生には丁度いい。まかり間違っても神聖視されてストーカーに付け狙われるよりかは、よっぽど。

 

 

 

 

~~~~~~~~

 

 翌日の御話。

 

 保険証をもって病院へ行った。母親からはまた怪我するような遊びをしたのかと非難めいた視線を貰いつつ、妹からも「ほら、やっぱりお兄ちゃんの方が危ないことしてんじゃん」と非難を受けつつも何とか説き伏せては病院へ。勿論、こちらとしても言い分はあるのだが馬鹿正直に全てを話してしまえば案内先は外科から精神科に変わることは想像に容易いので余計なことなど一言も漏らさずに黙って非難を受け入れる。

 

 病院だってタダじゃないんだからね、という母親の小言にいつものように謝罪して小さくなっていたのは遥か昔、そう一時間くらいの前の話である。

 

 外科での診察はつつがなく進み、レントゲンで骨に異常はなく、外傷も所々に打ち身はあるもののそこまで酷い状況ではないらしい。異常がないことが異常ではあるのだが、そもそもが化け物相手の出来事。何があってもおかしくない。医者も何があればこんなくっきりと痕が残るのか不思議そうな顔をしていた。

 

 ちなみに残った打撲痕は脇腹ではなく鳩尾。この一年で綺麗に割ったシックスパックの頂点付近にくっきりと幾つも残り続けている形。赤黒く残るその跡は神様の朱印。本命の脇腹には痕すら残っていないのに、いまだに消えない霊障は流石は神様と戦いてしまう。やはり持っているモノの桁が違う。

 

 病院が終わり、自転車に跨っては次の目的地である携帯ショップに。なんか学校とか行かなきゃいけない気がしたけど、多分、完全に気のせい。隣に居る幽霊が真面目くさって『学校に行きなよ……』とかいうが、そもそも今日は既に学校に行く気は無かった。もはや断固として学校に行かないとまで主張をする。堂々とサボりを公言すれば呆れている霊ではあったが『それなら、デートでいっか』と切り替えがすんだらしい。

 

 それからお昼にらーめんを食べて、本屋で面白そうな本を見繕い、近くの公園にあるベンチに座って読みふけては時間を潰した。残るはエピローグのみと腕時計を確認してみれば帰宅するにはいい頃合であったため、続きは寝る前にでも読むか、と帰る準備をして帰宅路を自転車で辿る。

 

 なんて平和すぎる一日だったのだろう、と。

 

 毎日がこんなに平和ならな、と思わざるを得ない。というかさすがに連日酷い目に遭いすぎでしょ。むしろ一日くらいで全然リカバー出来ないんですが。もう一日くらいさぼってもいいわ、なんなら。完璧なりろん武装である。俺なら納得しちゃうね。けれど、同じことを平塚先生に言ったときに彼女が納得してくれるかと聞かれれば絶対にノー。

 

 あー、明日なんて言い訳しようかと憂鬱になってくる。そもそもが朝のうちに学校へ病院が終わってから行きますと連絡はしていた。完全に嘘をつく形にはなるので申し訳ないと思う。

 

 しかしながら言い訳させて貰えるなら朝の途中までは行くつもりではあったのだ。けれども病院を出たあたりでお腹が空いてらーめん食いてぇな、と思っただけ。嘘をつくつもりなんて無かった、結果として嘘をついた形にはるので大変申し訳はないと思っており、今後このようなことはないよう注意して日々を過ごすのでご容赦ください。完璧な言い訳だ、勝ったな、これは。

 

 勿論、有言実行はする俺である。注意はするつもり。実行? いやー、それはちょっと難しいかもしれません。そんなわけで対平塚先生への言い訳を考えていればあっさりと家へ辿りつき、小町の「おかえりー」という言葉に対して重なる声で「ただいま」と答え部屋へいそいそと戻る。

 

 鞄から新しい文庫本を机の上にだし、ついでに代理の携帯を取り出した。学校からの連絡に出れないよう護身として電源を切っていたので入れ直す、立ち上がりの遅い携帯を乱雑に机の上へ。

 

 とりあえず、飯の合間に何かテレビでも見るかと階下へ降りようとした瞬間。

 

 ――rrrrrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 けたたましく鳴る着信音。

 

「……電話とか珍しいな、やっべ、先生とかだったらどうしよう」

 

 連絡先が家族と学校くらいな俺である。電話が鳴るなんて珍しい出来事。手に取った瞬間にタイミング悪く切れて、着信履歴を確認する。

 

 ――rrrrrrrrrrr

 

 ――rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

 再度として鳴り始める。背中の汗腺が一気に開く。

 

『……で、出ちゃ不味くない?』

 

「いや、出ないほうが不味くねぇか?」

 

 俺はとりあえず部屋のクローゼット、ベッドの下を確認して通話ボタンを押そうとした瞬間に再度として切れる。そして画面には――不在着信567件、新着メール527通。

 

『いやいやいやいや! まずいってこれ! 絶対に出ちゃ駄目だからね!』

 

 そして再び――rrrrrrrrrrrr

 

 俺は着信画面の数字に見覚え、いや聞き覚えがあり、恐る恐ると通話ボタンをスライド。

 

『はぁーっ!? 何、出てんの、八幡くん!?』

 

 多分、相手が想像できてない九音が信じられないとばかりにこちらを見ていた。

 

「も、もしもし……」

 

 通話先から聞こえる女の浅い吐息、そして一言――どウして、きョウ、ブかツこナカッたノ?

 

 俺は慌てて電話を切る。再び鳴り響く着信音。未設定の単調な音が部屋の中に響き渡る。

 

『だ、だから言ったんだ、私は! あの女はやべー女だって! 怖いよぉ!』

 

 鳴り響き震える携帯電話を持ったまま思う。俺だって怖ぇよ、と。




※次回投稿は2月18日の予定です
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