足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

6 / 24
仲春【遁走】

 

 調理実習どころか学校をさぼった罰として平塚先生からの説教を長々と受けた後、重い足取りで奉仕部へと向かう。明日までに家庭科の調理実習に対する補修レポート提出せねばならず、なんなら今から家にまっすぐ帰って真面目に課題に取り組む姿すら見せてもよい今日このごろ。

 

『……ねぇ、八幡くん。やっぱ帰ろうよぉ』

 

 ふよふよと浮かびながら提案されたのは大変魅力的な代物。声の主である浮遊霊、足山九音が出した案に後ろ髪が凄く惹かれるが、それでも俺の両の足は真面目に目的地へ一直線。リノリウムの床が俺の足音でずん、ずんと鳴っている気がする。まるで重りをつけたかのように重い足取りで廊下をまた一歩、また一歩とと進んでいた。

 

 先程の頷いてしまいそうな名案は一つ欠点を含んでいり。平塚先生との約束、奉仕部での賭け事。このまま帰ってしまえばなし崩し的に敗北が決まり、奉仕部での賭けは自動的に俺の負けとなり、命令権が渡ってしまう。

 

 賭けの相手は雪ノ下雪乃。総武高校二年生で偏差値の高い国際教養科に属しており、そんなエリートの中で成績優秀者のトップに君臨する才媛。それでいて類を見ないほどの美少女でもある。

 

 ただし、足山九音というヤバい女にすら「ヤバい女」扱いされちゃうヤベぇ奴。ちょっとした怪現象に巻き込まれた俺と雪ノ下は紆余曲折を経て解決し。しかしながら全ての出来事に解決したのかというとそうではない。

 

 責任。

 

 重々しい二つの文字を俺は雪ノ下に求められる羽目になっていた。昨晩のうちに電話で話したことを纏めるとおおよそ三つの事項に纏められる。

 

 まず一つ目。比企谷八幡は雪ノ下雪乃に対して男としての責任を取らなければならない。

 

 二つ目、比企谷八幡は雪ノ下雪乃のことが好きである。

 

 三つ目、比企谷八幡は雪ノ下雪乃と結婚を前提にしたお付き合いをしなければならない。

 

 この話を最初に聞いた瞬間、俺は「……? ???」と完全に困惑していた。隣に浮かんで聞き耳立てていた幽霊も目を点にして『……? ???』と混乱していた。

 

 なんど聞いても意味がわからず、昨日の電話は一方的な話し合いのまま終了。俺は今日こそは犬に噛まれたと思って、忘れろ、な? と伝えるつもりで。そんな俺の意思を隣に浮く幽霊は『さいてー、くずー、女の敵ぃ、八幡! でもでも私じゃなくて違う女の子にそんなこと言っちゃう八幡くん、私は好き!』との温かい言葉をいただき、いざ伝えるぞ、と意気こみながら今日の朝を迎えた。

 

 すると、校内では雪ノ下雪乃に想い人が居るという話題でもちきりだった。ひそひそと聞こえる話題は別に盗み聞きしなくとも耳に入ってくる。

 

 少しすれば職員会議で生徒達が侵入していたことが話題に出て、全校生徒に伝わるのは覚悟していたつもりではあったがこの伝播速度は想定外。昭和時代の田舎でもここまで情報拡散は早くないだろう。

 

 噂の内容はキス、接吻、口吸い。

 

 呼び名はどうあれ、高校生が飛びつくには格好の餌食。むしろここから発生した嫉妬が怪異と成り果てた時に狙われると考えれば夜も眠れねぇ。おいおいおい、いよいよもって学校に来ている場合じゃない。こんな場所に居られるか、俺は帰らせてもらう。

 

 そんな意気込みで奉仕部へ向かっていた足をくるりと反転させた瞬間。

 

「こんにちは」

 

『ひぃっ!?』

 

 幽霊すら気配に気づかず、俺の背後にいつの間にか着いてきていた雪ノ下。そして、此方が立ち止まればテクテクと近づき眼前まで。あまりの距離の近さに一歩と足を引いてみれば、一歩と距離は詰められ、また一歩と引けば一歩と近づく。

 

 吐息があたる距離、女子特有の甘い匂いが鼻孔をくすぐり、艶めかしい唇が目に入る。その唇と重なった記憶が甦り、自分の唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。だから普段なら気づいたとしても言わないような台詞が口から漏れ出る。

 

「……その、リップ塗ってるんだな」

 

 間抜けにも俺の口から漏れたのは雪ノ下の変化について。もっと言うべきことがあるだろう、怖いとか、怖いとか、怖いとか。けれどもそんな間抜けな言葉に破邪の効果があったのか、眼前の雪ノ下は一歩を足を引いては妖艶に微笑む。

 

「似合うかしら?」

 

 さながら口裂け女の問いのよう。綺麗と答えても次なる恐怖が待ち受け、ブサイクと言ってしまえば碌なことにならず。つまりはどう答えても詰みに近い現状。

 

 それでも雪ノ下と口裂け女の違いを述べるのなら、件の都市伝説には対処法が幾つもあることに対して雪ノ下に対する解答に明確な答えなど俺は知らない。

 

「あ、あぁ……」

 

 故に喉から絞り出されたのは受身的な肯定。助かるのなら褒め称えるくらいのことはする。女子を褒め称えるリア充の真似事なんて俺の風上にもおけないが命が助かるのならそれくらいはする。命、狙われちゃってるのかよ、雪ノ下に。

 

 雪ノ下の変化ばかりに注視していたせいか、彼女は人差し指を唇にあてて禁言のジェスチャーをした。

 

「キスでもしたくなるの? でも、今は駄目よ、さぁ、行きましょ」

 

 そのまま並ぶように隣へ。特段と何も言えずにテクテクテクと歩き出す。頼みの綱である九音は犬歯をむき出しにしながら威嚇をしているが、その腰は若干引けていた。

 

 俺よりもびびっている存在が居てくれるおかげで震えていた心は少しずつ安定する。余裕が出来た俺は盗み見るように横を伺う。横を歩く少女の細く白いはずの首に人肌よりも真っ白な包帯が巻かれていた。

 

「雪ノ下……その首は?」

 

「内出血してたのよ、ほら、先日のアレの時に」

 

 ぼやかした言葉の内容は先日の出来事。異界とも呼べる世界で首を締められていた彼女を思い出す。どれほどの圧がかかっていたのか、トイレで見た記憶、赤黒く残った指跡を俺は覚えていた。

 

 余りにも気持ち悪い夜の出来事。気持ち悪さしか残らなかった怪事件。お互いに生きて帰れてよかったね、今度からこんな目に遭わないようにしよう、それじゃ! と片手をあげてバイバイしたくなる。けれどもそんなことをすれば俺が現世からさよならバイバイしちゃうくらいにドロりとした執着を雪ノ下の視線から感じてしまう。

 

「お、お祓いにでもいったほうがいいんじゃないか?」

 

 雪ノ下の熱病にも浮かされた現状を見て提案した。あの世界、あの怪異から何らかの悪影響を受けた可能性は十二分にある。もちろん、雪ノ下が恋愛において盲目的になりやすい依存体質であり、今回の出来事がアレルギー反応を引き起こすかのように過敏に、顕著に現れた可能性もある。

 

 彼女のことをよく知らない俺、噂話を鵜呑みにしていた俺からしてみれば雪ノ下のことを、雪ノ下の恋愛観に関してを何一つとして言えるわけもないのだ。

 

 それでも、似たような執着心を、見たような感情を。つい先日に体験したとなれば話は別で。偶然と考えるほどに楽観視できない俺は、噂と想念から生み出された化物から何らかの悪影響を貰っていると考えるのは悲観論が先立つ身としては極々自然なことだった。

 

「そう……? この痕を見てるとあなたとのことを思い出せるのだけれど」

 

 愛おしく首を撫でる雪ノ下を見てドキりと胸が高鳴り、ドクドクと血流が加速し、息が浅くなる。うっとりと傷痕を包帯越しに撫でる艶めかしい仕草に普通の男子高校生ならば見惚れるのだろう。俺も惚けて見つめてしまう。けれども、何を、どうして、そう思うのかを整理してしまえば高鳴った胸の意味合いはトキメキではなく恐怖へ。意味合いは大きく異なった。

 

『完全にやべぇ女じゃん……』

 

 ドン引きしている九音の言う通り。あの体験は決して雪ノ下が思い出しているように甘い体験なんかではなく、苦く粘ついた経験であった筈。

 

 あまりの認識の違いに俺はついぞ頭を下げては懇願してしまった。

 

「雪ノ下、悪いことは言わねぇ。一度、お祓いにいっておけ。ほんとに、頼むから。身が心配なんだ」

 

「え? えぇ……あなたがそこまで言うなら。でも、ふふっ、幾らなんでも心配しすぎよ、比企谷くん。こんなところでお前の身が心配だなんて。でも嬉しいわ」

 

 俺の必死な懇願に雪ノ下は機嫌良さそうに笑う。ちなみに心配している身は我が身であるのだが余計なことは言わないでおこう。

 

『うわぁ、悪い男だ……八幡くん、いつからそんなに悪い男になっちゃったの? ちゃんと覚えてる? ヒモにはならないって、諦めるって私との約束を忘れたわけじゃないだろうね』

 

 その言葉は一年ほど前の記憶。俺の専業主婦への夢に対しての口論を思い出す。ヒモではなく専業主婦。完璧なまでに叩きのめされ、完膚なきまでに叩き潰された夢の記憶。

 

 ――忘れてねぇよ。

 

 小声で答えれば『それなら良し』と満足したらしく笑顔一杯浮かべては雪ノ下とは逆の方向へ回り込み、いつものように腕に纏わり憑く。

 

「……? 何か言ったかしら?」

 

 俺の小声はどうやら雪ノ下の耳に入ったようで、俺はなんでもないと首を振る。

 

「そう、気のせいかしら」

 

 きょとんと小首をかしげる仕草さえ可愛いという感想が出るのだから美人ってほんと得。

 

 そんな女の子とキスの一つや二つしたのだから本来であるのならば役得以外の何者でもないのだが、それ以上の恐怖体験をしたので差し引きトントンどころかもう二度と体験したくない程にマイナス。

 

 男子生徒の憧れである少女とのキスという役得以上に損している生き方は誰がどう見ても間違っていた。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 俺と雪ノ下の話し合いは壮絶なものとなった。主に俺の胃の辺りが。

 

 知り合ったばかり、吊橋効果で熱に浮かされた状態だったことを懇々と説明し、お互いの妥協点を探りあうことに。俺の目から見た雪ノ下は明らかに異常と呼んでもおかしくなかった。彼女からの好意は明らかに過ぎたるものであり、普通の状態と呼べるものではなく、そもそもが非日常での関係が日常で継続できるのかなど怪しく。そもそもの前提があの世界でこそお互いに協力し合ったが、それより前の日常でのお互いのやり取りは決して仲良いものとは言えなかった。そして、俺には泣き落としは通用しないことを必死に伝えた。

 

 俺の言い分は雪ノ下の名刀、悉くとしてその鋭い舌により叩き切られる。

 

 好きな人が居るから、と居もしない架空の人物を作り上げては「相手が貴方を好きになることがあるの?」という言葉から始まり、相手が好きになる可能性が絶無という理由をこれでもかと突きつけられ泣きそうになり。おまけとばかりに追撃であの歪な世界での貴方を見ていないと貴方を好きになる人間なんて出てこないわ、と素の俺に対する評価に泣きそうになった。俺が泣き落としてんじゃねぇか……。

 

 お前、俺のこと好きなんじゃねーの? という自惚れも甚だしい勘違いクソ野朗みたいな台詞が喉元まで昇ってくる。自惚れに近い台詞は自尊心が押し留め、話をそらすかのようにお互いが吊橋効果的に熱に浮かされていたと論法づければ、熱が冷めない様にお互いが維持する方向性でいつの間にか纏まりそうだったので慌てて方向転換。むしろ、話を聞いている内に俺の悪いところが出るわ出るわ、まるで俺の悪いところ百選みたいな流れになり、こんな俺でも受け入れてくれるのは雪ノ下以外いないのでは……と錯覚しそうになった。

 

 最後に愛とか、好意など関係なく、助けられた義務感として付き合わなければという強迫観念に襲われているだけ、と口にだした時には雪ノ下に殴られそうになる始末。その辺に漂っていた幽霊にすら『サイテー』と言わせるほどにはデリカシーの無い発言であったらしい。

 

 兎にも角にもお互いが譲らぬ平行線、どこまでも踊り続ける議論、いつまでも出ない結論。

 

 何れ幻滅されるにしても、何れ愛想をつかされるにしても――きっと『さめる』時がくるのだとしても。お互いに付き合っていたという過去は無いほうが見のため。我が身のためであり、雪ノ下の身のため。

 

 頑なに彼女は今の感情を信じているが、それは刹那的なものであり永遠ではない。久遠ではないのだ。

 

 そこで一つの提案をすることにした。もしも、奉仕部での賭けで雪ノ下が勝ったのならば、俺は文句を垂れることなく受け入れる。もちろん、賭けの内容を変更しても構わない、俺に出来ることなら何でもしようと。

 

 お互いの妥協点はここいらが着地点。部活動の殆どの時間を好いた惚れたという噺で使っているというのだから何とも高校生らしい一日であったと皮肉気味に感想づける。

 

 だから――油断していたのだ。

 

 奉仕部が終わり、雪ノ下の傲岸不遜な――送れという命令に嫌そうな顔しつつも、誰のせいで最終下校時刻まで残る羽目になったのかと責任追及された後に言い訳でもしようものなら怖い笑みと切れ味鋭い罵倒が飛んでくるのは難しくない未来予想図。そんなわけで渋々と押され気味に受け入れては雪ノ下を送ることとなった。

 

 取り憑いてる幽霊がわーきゃーと騒ぎながら雪ノ下を一昨日と同じ帰り道で送っていく。

 

 そしてマンションまでたどり着き、お見送りをしていざ自転車に跨がろうとした瞬間に『ソレ』は居たのだ。

 

 いや、正確に言うのなら産まれた、出遭ったとでも言おうか。俺は自転車を押して雪ノ下が消えてったエントランスの入り口を名残惜しむかのように振り向いた瞬間に現れた。

 

 犬。

 

 どこまでも犬。見間違うことなく犬。一見しただけではその犬のどこがおかしいのかなんて判らない。それでもその犬は間違うことなく化け物の類である。

 

 もちろん、成人男性の顔を持つことなどなく、他の身体的特徴に歪な点があるわけでもない。

 

 しかしながら俺の目の前で重厚な玄関ロビーの入り口をすり抜けるように現れたのなら化け物以外になんと呼べばいいのか。

 

 一日おきの化物譚。本来ならばそんな経験など一生のうちに一度か二度でお腹がいっぱいなのに。俺は何度も何度も吐いては食べて、胃の中の空にしてはまた詰め込むかのように。満腹中枢を壊すかのように心霊体験をしていれば俺のどこかが壊れても何もおかしくなどない。

 

 経験過多にして経験過剰。経験豊富な俺は即断即決で太ももから、ふくらはぎにかけて力を込める。

 

「ち、ちきしょうっ……」

 

 サドルに跨がらず、中腰のまま漕ぎ出す。理性よりも早くに逃げなければならないと告げた本能のまま両足を必死に回し始めた。

 

『ひゅーっ! 相変わらずの逃げ足にびっくらこいちゃうぜ!』

 

 まるで質量がないかの如く軽快に、喜々とした様子ではしゃぐ九音。重力に逆らいながら並走する幽霊の表情は喜色満面。

 

『今回は助けてあげよっかなぁ、どうしよっかなぁ。邪魔者いないし、あの雌猫が憑いてくるなんてこともないからなぁ、どっしよっかなぁ』

 

 どうしようどうしようと楽しげに囁く女幽霊。そんな幽霊の戯言を耳にしながら全速力で市街地を滑走する。

 

「ッ〜〜〜〜!」

 

 あえて一方通行の細い路地を選ぶ。カーブミラーを見ればしっかりと犬は追いかけてくる。犬らしく、どこまでも四本脚で。背後にべったりと、自転車の後方にべったりと。

 

 曲がり角にさしかかり、カーブミラーに車や人影がないことをか確認して曲がる。けたたましいブレーキ音が鳴り響く。

 

 軽く押し込んだブレーキ、タイヤの擦る音が日の沈んだ住宅街に響き渡った。誰が聞いても騒音で、然しながら迷惑を省みる暇などなく、緩んだ速度を両の足を力強く踏み込むことで回復を目指す。

 

『がんばれっ、がんばれっ』

 

 語尾にハートでもつけてんのかよ。苛立つようなエールを送ってくる幽霊。明らかに此方の様子を楽しむ姿に呪詛が溢れる。

 

 息は上がり始め、けれども速度を落とすなんて出来やしない。そのままサイクリングコースのある公園を目指す。

 

 道中で後方を確認すれば未だにしっかりと憑いてくる犬。どうにか振り切ろうと何度も何度も曲がってみたとしてもしっかりと後を憑いてくる。

 

「ちっきしょぉ……」

 

 公園に辿り着くまでに振り切ることなど出来ず、そのままサイクリングコースへ。

 

 夜の公園で幾つかのロードバイクが走っているのが横目に見えた。走ることに特化した自転車をあっさりと追い越すママチャリ。自転車に関するマナー、サイクリングコースを使う際のルールなど知ったことではなく、傍から見れば暴走行為にすら見えるだろう。

 

 それでも俺はスピードを緩めることなど出来ない。どんどんと自転車を追い抜いて、時には歩行者レーンにはみ出してはひたすらに逃げる。

 

 健康のために走っている自転車と命をかけて漕いでいる自転車では燃料の差がそのまま速度の違いに出る。もちろん、ぐんぐんと離れていく他の自転車乗りを引き離したいわけではない。引き離したいのは。

 

 ――バウッバウッ! バウッ!

 

 背後で吠える犬。犬の大きな鳴き声に、身体は震え、目尻には涙が浮かんでしまう。それでも力の限り、漕いでは引き離せず。何も変わらないまま公園を一周することに。

 

「はぁっ、はぁっ、くそっ!」

 

 悪態をついた所で背後からの鳴き声は止まらない。むしろ、大きく鳴り響いている。公園で周回ラップでも測るかのように全速力で自転車を漕ぐ。

 

『八幡くん、助かりたいかい?』

 

 並走していた九音はいつの間にか荷台に乗っていた。ニヤニヤと浮かべた笑みに腹が立つが。

 

「た、助けてくれ、九音。九音様っ、お願いしますっ!」

 

 プライドも何もなかった。なんなら奉公に来た丁稚のように「でへへ」と媚びるような笑みを浮かべてもいい。

 

『うーん、そうじゃない。そうじゃないでしょ、八幡くん。私に助けを求めるときはいつもそう言ってほしいんだ。こんな広い公園で、隅々どころか近隣周辺に知れ渡るように、響き渡るように。それこそ、ここが世界の中心とばかりに叫んでおくれよ』

 

 ここぞとばかりの取引。夜闇に静まり返る公園、住宅地で「そんなこと」を叫んでしまえば社会的にヤバい奴と認定される。顔バレでもした日には死んでしまう。

 

『さぁ、今こそ叫んでよ。高らかに、いつもの台詞を、私への愛をッ!』

 

 完全に自殺の教唆。社会的に自分を殺す台詞を求める悪霊。そんな悪霊に対して、心で呪詛を唱えながら。

 

 いつものように、思ってもなく、心にも無く、嘘と欺瞞に満ち溢れた言葉を。息絶え絶えに、やけっぱちに叫ぶ。

 

「愛してるぞぉぉぉぉぉぉぉ、九音ッ!」

 

 ひゅるりと頭上を通り、荷台にすっぽりとお尻をはめて楽しそうに足をばたばたとさせて九音はこう言った。

 

『うん、私も愛してる。好きだよ、八幡くん』

 

 足はペダルを踏み込み、息は荒くなるばかり。まるで蛇のなく音のように軽快な自転車の音を俺は公園で弾き鳴らす。

 

 そんな音と共に眼下からは『んふっ、んふっ』と喜びなのかよくわからない気持ち悪い声と鼻をすぴすぴと鳴らしながらご満悦の幽霊。

 

「いやっ、お前、何くつろいでんのっ!?」

 

『おやおやぁ、そんな口聞いてもいいのかにゃぁ』

 

「ご、めんなさい、はっ、はよ、言え、早く言えっ、言ってくださいっ!」

 

 どうしよっかなぁ、と悩む幽霊は楽しそうな表情を浮かべている。

 

『まぁ、愛する八幡くんが苦しむ姿は堪能したからね、教えてあげてしんぜよう』

 

 偉そうに笑う幽霊はくすくすと笑いながら、今度は背中に纏わり耳元で囁くように呟いた。

 

 ――三年峠。

 

 甘い吐息に、蕩けるような声が太ももへの限界と重なる。一瞬だけ力が入らなくなった太ももから力が抜けて影響は右足全体に。がくんと右足がペダルから外れ、その瞬間に自転車は操縦不能となった。

 

 ブレーキをかけるも速度は緩まず、コースアウトするかのように公園の端、植木林の茂みへ突っ込む。

 

 突進。舞うように中空へ。ふわりと重力に逆らえば、残るは墜落。

 

 耳鳴りがするほどに盛大に、一回転しながら突っ込んだ世界は真っ逆さま。茂み、藪を椅子にして仰向けになる。ビーチサイドチェアの頭と尻の位置を間違えて使っている俺の耳に。

 

 上下反転の世界で音が飛び込んできた。

 

 ――ウウウウウウゥゥゥゥッ

 

 唸り声が聞こえた。あべこべの世界で見えた犬は笑っているかのように見える。笑う犬、しかしながらそれは笑みではないのだ。人は獣に襲われる瞬間、牙を剥き出しにしている姿を笑っていると勘違いする。

 

 故に直前。襲われる直前。絶体絶命の危機。

 

 けれども、九音が言葉にした単語は俺が答えを導き出すには十分だった。

 

「どっこいしょぉぉぉぉぉぉぉっ」

 

 暴走しながら誰かへの愛を叫び、そのままコースアウトして頭から藪に突っ込んで、最後には「どっこいしょ」と叫ぶ高校生。傍から見れば完全に頭のおかしい男子高校生だった。

 

 こんな人間を見てしまえば笑うに笑えない、むしろ心配をしてしまう。連絡する先は警察か病院。通報しては頭のおかしいやつがいる、といった説明しちゃう程。決して笑えない状況なのは他人から見ても同じであり、そして犬にとっても同じだった。

 

 犬にすら浮かべた笑みを引っ込めさせるほどの無様。

 

『あ、あっぶ、危ないなっ、八幡くんっ。いや、君さ、どう考えてももっとやり方あったんじゃないの? スピードを緩めたりとか、ブレーキを踏んだりとか』

 

 焦りと呆れの混じった表情を浮かべる九音にお前の声が耳元だったからバランス崩したんだよ、と思ったが口には出せない。何が悲しくてこいつの艶めかしい声に反応しただなんて言えるのか。絶対に言わねぇ。

 

 ブレーキ音が響いて、先程までロードバイクで走っていた社会人らしき男性が駆け寄ってくる。

 

「だ、大丈夫かい?」

 

 誰がどう見ても暴走行為の果てに転んだようにしか見えないだろう。だが世界の誰が今の俺を転んだと見ても、俺だけはこう言い張ろう。

 

「えぇ、大丈夫です。休憩してるんで」

 

「えぇー……」

 

 俺だって同じような場面で声をかけて、同じようなことを返されたら、同じような顔をしてしまう。不思議と人見知りで人嫌いの俺ではあるのだが初対面のお兄さんとは気が合いそうだと思った。

 

『いや、誰だってそんな顔になるでしょ……』

 

 九音の呆れを混じえた呟きを無視して、俺はゆっくりと立ち上がり、お家に帰ることにした。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 犬の中の犬。有名所も有名で全国的にもポピュラーな妖怪。

 

 送り犬。

 

 それが今回の憑いてきた犬の正体だった。有名所にも程があり、少しでも怪異に興味がある人がいれば知っていてもおかしくなどない程にメジャーな妖怪。目撃談は東北から九州にかけての全国区であり、行動や姿が若干異なることもあるが大体のところは『送る』のだ。

 

 家に帰る人間を背後から憑けて送るだけの妖怪。

 

 たった一つの条件として――転びさえしなければという注釈が必要であるが。

 

 送り犬は夜に出歩く人間をつけ回し、転んだら襲いかかると伝承がある。もちろん、全国区に広がる伝承であるが故に詳細は少しずつ違いがあり、転倒に関する噺でさえ、転んだら襲われるという話、犬が体当たりしては転ばせるといった話にわかれ、姿かたちなどイタチ、タヌキ、オオカミと複数存在する。

 

 関東では他の呼び名の方がメジャーであり、代名詞――送り狼。

 

 現代では『親切を装い女の子を送る様相を見せた後に女性を狙う軟派な男』を揶揄するこの言葉は、元々は送り犬と同種の妖怪の送り狼が語源となる。

 

 つまる所、送り犬――送り狼に俺は憑け狙われてしまったのだ。

 

『八幡くんって本当に馬鹿だよねぇ、間抜けだよねぇ、愚かだよねぇ。自転車を押して帰る方がよっぽど安全だったのに』

 

 九音の言のとおり、自転車を押している状態であれば転ばぬ先の杖となり、押していればわざわざ転ぶ心配も無いにも関わらず暴走の果てに襲われるという無様。

 

 帰り道、からからと回る自転車を押しながらしっかりと転ばぬように家路を辿り。転びそうになる心配など支えとなるものがある時点で有りえず、こんな安全性を捨ててまで全速力で引き離そうと危険運転をしていたのだから救うに救えない愚物である。

 

 バックミラーを見ずとも背後には犬の気配。遠吠えすらしない犬は、ハッ、ハッ、と特有の鼻息の音を鳴らしては存在をアピールしていた。

 

 雪ノ下を送っていた、女の子を送っていた俺が送り狼に出遭うとは何たる皮肉だろうか。あれだけの美少女を送り狼するような輩はこの世に五万と居る筈で、しかしながらそんな人種と異なり、送り狼になることもせずに紳士的に振舞った結果がこの様である。

 

 むしろ、送り狼でなかったからこそのこの様か。

 

 狼とは社会的な動物である。群れを成す動物で、仲間と見られなかったからこそ獲物と間違われた。

 

 不運と不幸と必然の三重奏。確かに俺は狼ではない、狼にはきっとなれやしない、それこそ一匹狼にすら。群れのリーダーを決める戦いに敗れ、単独で行動する個体を一匹狼と呼ぶのなら――そもそもが最初から戦いになど挑まない。初めから群れない。群れの中で誰かのために戦おうなんて選択肢すら浮かばない。それこそ狼ではなく、犬のように尻尾を巻いて逃げるだけ。

 

 そんなことを考えながら何とか無事に家まで辿りつく。憑いてきた犬は律儀に玄関前で立ち止まっては、うるうるとした円らな瞳で此方を見つめてきた。

 

「……おいぬさま、おみおくり、ありがとうございました」

 

 呪詛を吐くかのように苦々しく、祝詞を唱えるかのように恭しく、独り言のよう未だに冷える寒空に向かって――口にする。

 

 しかしながら未完成。

 

 本来ならば捧げもの、供物を渡さなければならない。その証拠に未だに消えずにうるうるとこっちを見ている瞳があった。

 

 鞄の中を見れば――食べ物となるのはたった一つだけ。

 

『ふぅーん? いいんじゃないー? 別にあげても! むしろあげないと大変なことになるから、あげるべきだと思うな。ねっ、ねっ! あげようよ、そのクッキーを!』

 

 九音の猛烈な後押し。俺の中の倫理観と安全本能が鬩ぎあい、結局のところ魔の囁きへ我が身可愛さ故に屈してしまう。

 

 鞄から取り出したのは可愛らしいラッピングのされた包装。中を開けば、市販のクッキーのような完成度。

 

 ――手作りなのだけれど、その、あなたの口に合うと嬉しいわ。

 

 今日の放課後、奉仕部に入ってまず手渡された包み紙。チョコバーのお返しは手作りクッキー。むしろ、雪ノ下雪乃の手作りクッキーともなれば総武高校区域においてプレミアレベルのお宝であろう。

 

 ――バゥバゥッ!

 

 袋を開いた瞬間に送り犬が早く寄越せ、いますぐ寄越せと吼える。俺は恐る恐ると地面に置いては未練がましく一枚だけ貰おうと指を伸ばした。

 

 ――バゥッ!

 

 痛ったッ!? ガブリと、勢いよくガブリと噛まれた。絶対に渡さないと強い意志で犬はクッキーを死守。な、なんて卑しい犬だ。

 

『うわぁー、卑しいなぁ、八幡くん。自分の安全性のために女の子の気持ちがこもった手作りクッキーを犬に食わせるなんてさ。もしもこれが私のあげたクッキーなら怒りのあまりにぶん殴るレベルだよぉ! でも私のじゃないから全然オッケー!』

 

 にんまりと笑顔で消えていくクッキーを眺める九音。俺は未だに痛む指を息を吹きかけては冷やす。

 

『それにしても今日は自爆だったよねー、八幡くん。君なら犬に関する怪現象怪異魑魅魍魎に妖怪なんてすぐにでも思いつきそうなものだけど。まさか、私がヒントを出すまで気づかないなんてねー。んふふー、最近、弛んでるんじゃない?』

 

 勝ち誇ったかのような幽霊を引き憑れて俺は玄関口へ。

 

 ――三年峠。

 

 さんねん峠。彼女の出したヒントは日本ではなく国外、朝鮮の民話。内容はさんねん峠で転んだものは三年しか生きられないといった峠に由来するお話だ。主人公は峠で転んだおじいさん。この民話は絵本や童謡で取り扱われ、三年で終わるといった悲劇ではない。余命に怯えていたおじいさんが知り合いに聞いた話により危機を脱出する御話なのだ。一度転んでは三年、ならば二度転べば六年、十度転べば三十年、百辺転べば三百年といったように何度も何度も転ぶのだ。

 

 勿論、今回の犬とさんねん峠では噺が違う。けれども共通項はあるのだ――それは不文律。そのお話のどちらにも『転んではならない』という不文律が存在している。

 

 怪現象という観点から見ると不文律という存在は重要であることが多い。一昨日の雪ノ下と怪人の件も然り、今回のことも然り。ルールに縛られるのは人も、そして怪異も一緒なのだ。そして人が禁則を破るから、痛い目を、酷い目を見るのだ。

 

 そして今回の送り犬という妖怪は『転んではならぬ』という禁則事項を持った妖怪である。

 

 転んだのならば最後、犬に襲われると伝承にある。故に俺は転ばずに家に帰ればよかっただけで、しかしながら俺は暴走行為の果てに体勢を崩す。だから犬は笑ったのだ――転んだだろう、と。だから犬は襲おうとしたのだ――転んだのだから、と。

 

 故に俺はヤケクソ気味に叫んだ。誰がどう見ても、怪異から見ても転んだように見えたとしても。俺は言い張ったのだ。

 

 これは一休みしている、と。転んでなんかないです、と。どっこいしょって言ったでしょ、腰を下ろす合図があったでしょ、と。いやいやこれ休憩だから、俺を転ばせたら大したもんですよ、とばかりに。

 

 どこまでも面の皮厚く、どこまでも恥知らずに大見得を張っただけ。

 

 ふと、玄関口を開いた後に後ろを振り向けばクッキーの包み紙だけが寂しく残っていた。俺はそれを拾い上げて、再度として玄関口を潜る。家に辿りついて、俺はようやくいつものように――ただいま、と重なる声で挨拶をした。その合図にリビングからパタパタパタと足音が聞こえてきて。

 

「おっかえりー、相変わらず帰ってくるのがおっ……って、うわ、お兄ちゃん、その恰好どうしたの?」

 

 出迎えた最愛の妹である小町がアイスを片手にボロボロの俺を見て尋ねてきた。だから、俺はこう答えるしかない。

 

「公園の茂みで休憩してた」

 

「馬鹿なの……?」

 

 俺だってそう思う。

 




次回は2月25日の投稿予定としています
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。