足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

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仲春【菓子】

『痴漢って最低だと思うかい、八幡くん?』

 

 数学の時間、数字の時間。人の優劣や価値をつける時にこれほど判りやすい指標はないだろう。秤さえ間違っていないのならば傾きから一目瞭然。数字という指標さえあるのならば差がどれほどあるのかまではっきりと判る。

 

 数字は偉大、数学は偉大と優生思想が支配する世界に俺は唯、一人抗う。そうやって優劣をつける世界に対して反抗し、争うことを嫌い、非武装を掲げている。この競争世界、学歴社会に支配された構造に苦痛すら覚えている。

 

 非暴力不服従を信念としたガンジストたる俺は絶対に数学をしない、数字を追わない、数学的思考力を鍛えないと頑なに心へ誓った。そんなわけで九音の痴漢がどうとかって云う話に耳を傾けることに。

 

 数学するか、九音の痴漢の話を聞くか。クソみたいな究極の選択。

 

『最低、底辺の底辺。最も下という言葉には似つかわしくないと言えるけど。皆が皆、人が悪いことをしたときには『最低』だって揶揄するよね。本当に最低なのか精査することなんてなくて、ただ感情のままにその言葉を吐きつける。本当の最低を目撃した八幡くんからしてみれば、去年の八月、去年の八月八日前後に体験したあの事件、あの怪異、あの異形を振り返れば、最低なんて言葉は簡単には使えない。アレこそ最底辺で地獄に落ちるべきで、巻き込まれて、混沌と恐怖と阿鼻叫喚の地獄絵図を見て。アレが最低であり、最低とはそのレベルの御話だと思うんだ。それでも、私も八幡くんもそんなことを忘れて日常的に最低という言葉を揶揄する。それだけじゃない、私達だけじゃなくて世の中の大抵の人間が最低という言葉を使う時、最低じゃなくても比喩する。痴漢なんてものに対しての意見もそうだと思わない? 世の中の女性にとって痴漢よりも最低なことって存在すると思うけれど、それでも彼女たちは最低扱いするんだよね。もしも痴漢が最低だとするなら罰となる量刑はあまりにも軽すぎだと思わない?』

 

 クソみたいな話を聞きながらノートに落書きを始める。しかしながら絵心がついてきていないので犬なのか、猫なのか中途半端な生物が出来上がった。

 

『もちろん、私は痴漢をする人の擁護をするつもりはないよ。私だって好きな人以外に身体を触られるなんて想像しただけで殺意が湧くし、呪いたくなる。最低だって心の底から思って、死刑にしてくれなんて生ぬるい刑罰じゃなくて私に殺させてって思っちゃうよ。それが自分事であるのなら』

 

 痴漢、駄目、絶対! とばかりに手でペケを作る。

 

『他人事である痴漢のお話を少し考えてみようか。痴漢の視点、痴漢の考え方。そこら辺を少しでも噺してみれば彼らに対する同情が出来るかもしれないね。勿論、擁護するつもりはないけれどね。罪を許すつもりもないけれど。それでも一ミリたりとも同情の余地がないのか。果たしてどうなんだろう』

 

 擁護する気もなければ許す気も無い。けれども同情の余地があるのかどうか。完全に他人事の野次馬根性。

 

『痴漢だけではなく、犯罪をするような人間を私は理解する気も擁護する気も無いんだ。けれども同情だけは別。同情をすればするほど、哀れみと憐憫を持つほど自分が持っているって思わない? 同情なんて代物は持っている者が出来る特権じゃん。だから私はいろんな出来事に同情しちゃんだよ。なんて可哀想なんだって。それにこの世の未練の体現たる私と、この世の未練が見える君はたくさんの物事に同情できるのに。こんな好機を生かさないなんて損した気分になるよ』

 

 性格悪く、自分のために他人に同情する、自尊心を満たすために自分より劣っているものを見下す。足山九音は今日も悪霊らしく絶好調であった。

 

『痴漢とは依存行為で本人に罪悪感があって、やめたくてもやめられない常習性があるって病気の話もあるのだけれど、今日はそんな常習的な噺じゃなくて、始めの一回、最初の一回について考えてみようか。それこそ――魔が差した。そう呼ばれるような初めての出来事を。八幡くんだってあるだろう? 魔が差してやっちゃった悪い行為の一つや二つ。例えば小学生の頃、他人のリコーダーの口を舐めたことくらいは。あぁ、安心してよ。私は寛容な女の子だから君が小学生の頃にやっちゃった出来事に今更目くじら立てて怒ったりしないよ』

 

 は? それどこ情報だよ。俺は他人のリコーダーを舐めたりなんてしていない。他人のリコーダーの上の部分と自分のリコーダーの上の部分を交換したことくらいならあるが、他人のリコーダーを舐めるなんて行為したことは一度たりともない。なんて風評被害だ。

 

 むしろ交換したのだからそれは既に俺のものであって、同価値の代物、いや俺のリコーダーの方が使用回数が少ないことから損耗度の低さを考慮して此方が善意の交換を行っただけと言っても差し支えない。

 

 九音に見えるようにシャーペンを動かして俺の意見を確りと伝える。

 

『差し支えあるでしょ……というか、そんなこと本当にやってたの。いや、この際八幡くんのリコーダーの話なんてもうどうでもいいし。君が変態、なのは前からわかってたし!』

 

 自分から振っといて怒り始める幽霊。

 

 そもそも変態ってなんだ、変態って。こんなの冗談に決まってるじゃねぇか、ほんとほんと、ほんとに冗談だって、ほんと。

 

『めっちゃ挙動不審になってる……と、とりあえず! とーりーあーえーずっ! 話を戻すけどさ。八幡くんも心当たりがあるように誰にだって過ちというものはあると思うんだよ。なんか今でも過ち間違いばかりな気もするけど、それは置いといて。過ちも過ち、過去のこと。過ぎた、去った魔の話』

 

 空中で『魔』の一文字を書いた九音は終わりとばかりに先程の話を流す。

 

『最初の一回、天秤が傾くその瞬間。痴漢をした人間だって最初の一回を朝から入念に準備して気合を入れて今日痴漢をして、今後の一生を痴漢しながら生きていくぞ! なんて強い決意があるわけもない。むしろ殆どが些細な弾み。イライラしていたとかストレスが溜まっていたとか、本人にしか分からぬ辛苦。傍から見ればどうでもいい些細なことで、もしかすれば本人にすら些細に見えてしまう筈の小さな歪み』

 

 確かに悪いとわかっていながらも間違う時は誰しもありえる。それこそ大であれ小であれ。すべての出来事に正しくあれなど聖人にしかできないことで。

 

 犯罪行為を例に挙げると大袈裟かもしれないが、モラル・マナーという側面で破ったことがある人間の方が大多数である。

 

 ポイ捨てをしてはいけない。歩きながら携帯を弄ってはならない、コンビニの前でたむろってはならない、間違いを笑ってはいけない、人の嫌がることをしてはいけない――嘘をついてはいけない。

 

 その項目をすべて守っている人間が果たしているのだろうか。居るわけがない。守れるわけもない。守っていると口だけで言う愚か者は居たとしても本当に守ってきた聖人などこの世にはきっと存在しないのだ。

 

『何かしらのルールを破る時、ヒトは皆が皆として考える。それでも破っちゃうのは色々と理由はあれど大した理由などではなく、ルールを破る理由に値しない。それこそ親を殺されようと、家族を殺されようと、恋人を殺されようとも人は人を殺していい理由にはならないし、復讐していい理由にはならない。今までルールに守られて生きてきたくせに、ルールを破っていい理由には、道理にはならないから。他人がルールを破ったからといって自分もルールを破っていい道理なんて存在しないんだよ。それでも人はそれを判っていながらルールを破る、破ることに惹かれる。魔が差す、魔が囁く、魔が背中を押してくれるんだ』

 

 わかっていてもやってしまう。悪いとわかっていてもしてしまう。まさに悪魔の囁きそのもの。

 

『別に私は復讐論の是非について話したいわけじゃなくて。修羅に堕ちるなんて如何にもな話をしたいわけでもなくて。するならすればいいし、境遇に同情するけど擁護なんてしないからね。肯定も否定もしなければ、今の私には興味ない御話。復讐論の正しさなんて永遠に終わらないテーマと思うから。こんな話は気分次第でどっちかについて相手のマウントをとって楽しんでいればいいんじゃない? 少し本題からそれちゃったね』

 

 本題。魔が差す魔について。

 

『魔が差す、悪魔が囁くなんてことは誰にでもあるって話なんだ。だからそうやって誰にでも起こりうることを最低だと言うのって人間らしくていいなぁって思わない? まるで自分は決して間違ったことをしてませんとばかりに聖人面しておいて、清く正しく美しく清純に生きてますなんて生きてて恥ずかしくならないのかな。痴漢をしている人間が非人道なんて判りきった話をこれ幸いとばかりに第三者がコメントするなんて。魔が差し終えて、魔に魅入られた人間が人間なわけないじゃないか。それを私知ってます的に言うのって子供が新しい言葉を覚えて頻繁に使っちゃうような出来事みたいで微笑ましくて嗤っちゃうよねぇ』

 

 クスクスと意地悪く嗤う幽霊の言葉を振り返る。噛み砕いて自分なりに解釈し、そういうことかと手を叩く。つまり――つまり俺のリコーダーに関するお話は許されたってこと?

 

 訪ねて見れば九音は聖母を彷彿させるような慈愛に満ちた笑みを浮かべて。

 

『許されるわけないだろ、殺すぞ』

 

 一切の慈愛なんて無かった。先程まで寛容な女を自称していた幽霊は完全に怒っていた。過去のこと、過ぎ去った筈の魔は今の目の前の幽霊の怒りの琴線に弾いていた。全然、話違うじゃねぇか。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「君は調理実習にでもトラウマがあるのかね?」

 

 先日の罰。調理実習のレポートを確りと書いた記憶があるにも関わらず、俺は職員室に居た。軽い既視感どころか学校で利用する部屋として教室の次に多い職員室。

 

「先生って現国の教師ですよね……」

 

 言外に管轄外と指摘してみれば、コメカミをペンでグリグリと揉みほぐした平塚先生の表情は苦虫を潰したかのよう。

 

「私は生活指導担当なのだよ。家庭科の鶴見先生は問題を丸投げしてきた」

 

 職員室の片隅を見やると件の鶴見先生は観葉植物に話しかけていた。俺と先生はそんな鶴見先生の方向をちらりと見て再度としてお互いに向き合う。

 

「……既に先日のサボりの件はもういい。それは既に終わった話だ。問題はこれだ、これ」

 

 机の上をバンバンと叩いた先にあるのは俺が提出した調理実習のレポート。美味しいカレーの作り方についてだった。

 

「美味しいカレーの作り方。味は辛すぎないほうがよい。辛口が人間関係を壊すように、辛味を追求すると文句が出る可能性がある。正論を嫌う大衆のように辛みはなぁなぁなくらいがちょうどいい……皮肉を混ぜる暇があるのならルーを混ぜてろ」

 

「先生、上手いこと言ったみたいな顔をやめてください……居たたまれないです」

 

「私だってこんなこと言いたくもないさ。君もわかっている通り、再提出だ」

 

 つきかえされるレポートを受け取ると先生はタバコを取り出し咥える。ジジッと灰が燃え、紫煙ともはぁ、と大きな溜息が零れた。

 

「それで……君は料理ができるのか?」

 

 雑談とばかりにふられた話題は俺の料理に対する腕前に関して。スパイスから作ったのならまだしも、カレー云々で料理の腕前は計れないであろう。それこそ市販されているルーのパッケージに書いてあるとおりに進めればカレーなど美味しく出来上がる。

 

「えぇ、まぁ、人並みには」

 

 曖昧に濁して答えた。人並みってどれくらいが人並みなのかなど人によって判断基準が異なり、俺の言う人並みを平塚先生がどう受け取るのかで話が変わってくるだろう。

 

「ほ、ほほぅ……チャーハンとか野菜炒めとか作れるのか感心、感心」

 

『あっ……』

 

 九音は手を口にあてて可哀想な人とばかりに平塚先生を見ていた。何かを悟ったかのような瞳で全てを察したといった様子で。

 

「知っているか、比企谷。チャーハンはな、卵かけごはんのように先にご飯を混ぜ込んでおいた方がいいんだぞ?」

 

 ここぞとばかりにトリビアを出してドヤ顔を作る平塚先生。九音など既にもう、見ていられないとばかりに両目を両手で覆っていた。

 

 いやいや、九音さんや、ちょっと待ちなされ。平塚先生は料理が出来ないというのはお前の先入観の可能性は十分にある。

 

 必死に平塚先生のことを無言で弁明してみる。たとえアラサーの女教師が「炒飯は卵かけご飯したら上手に作れるゾ!」とか、出来る料理のラインナップが焼き飯に野菜炒めといった意識が低いレパートリーだったとしても、カレー如きで料理が出来るというジャッジラインだったとしても。その全てが直接的に平塚先生の料理下手に結びついているわけではない。

 

 そう、証明することなど出来はしないのだ。たとえそれが幾ら怪しかったとしても有罪などには出来ない。状況証拠どころか、証言からの推論でしかない。たとえ料理上手な人が一々、カレーや野菜炒めが作れることにわざわざ感心しなくとも。ご飯を卵でコーティングするというトリビアをここぞとばかりに披露するのが恥ずかしいことだと知らなくても。

 

 どこにも無いのだ平塚先生が料理下手だという根拠は。

 

「ふむ、君は料理が出来ると言ったが将来はコックでも目指すのかね?」

 

 カレーが作れる程度でコックを目指すのなら全国の男子高校生の進路希望先料理系の専門学校で埋まってしまう。あまりにも頓珍漢すぎる受け答えに俺はついぞ、この話題はずれているという真実を口に出してしまう。

 

「あの……先生、カレーくらいなら大抵の男子高校生なら作れますよ」

 

「う、嘘だろう……」

 

 平塚先生の咥えていた煙草がポロリと落ちる。目を見開き、信じられないとばかりに此方を見ていた。信じられないのは俺だよ。返せよ、俺の弁明。

 

「さ、最近の家電は扱いが難しく、それを使って料理を出来るとでも言うのか最近の男子高校生は」

 

「いえ、難しくないでしょう」

 

「そうか……そっかぁ……」

 

 二度も納得の言葉を吐くほどに、なんなら二度目は少し素が出てるかのように。ポロリと言葉が漏れるほどに平塚先生の中では革命的出来事であったらしい。

 

「いや、しかし、待てよ。普通の男子高校生が料理などしないだろう?」

 

「まぁ、さっきの二つならまだしも自作のお弁当や晩飯を頻繁に作っているとかなると珍しいじゃないんですかね」

 

「そ、そうだよな! まぁ、そうだよな!」

 

 何故か非常に嬉しそうな平塚先生。九音など見ていられないらしく明後日の方向を見ては『今日もいいお天気ですわ。太陽さん、御機嫌よう』とのほほんとキャラブレしていた。

 

「こほん、比企谷。君が男子高校生は料理ができるというあまりにも荒唐無稽なことを言うからびっくりしたぞ」

 

 言ってねぇよ。何一つとして言ってねぇ。

 

「しかし君は料理が人並みとは言っていたが一人暮らしではないだろう? 男子高校生くらいなら手伝いもせんだろう」

 

 多分、その偏見はあまり大きくずれていない。炒飯や野菜炒めを作れる高校生が居たとしても人様に食べさせても問題ないレベルの代物となれば話は変わる。俺の場合は少し事情が異なり、少なくとも他人に出しても問題ない程度の料理は作れるつもりである。少し前まで専業主婦を目指していた身だ、レパートリーには自信がある。揚げ物、粉物、魚を下ろすのも問題なく可能。

 

 たった一つ想定外があるとするなら専業主婦を辞めた後の方がレパートリーが増えているという事実なのだが。

 

「まぁ、少し前まで専業主婦になりたかったんで」

 

「なんとも君らしい夢だな。しかし、過去系ということは今は違うのだろう?」

 

「えぇ」

 

 期待しているぞ、とばかりに平塚先生は答えを待っている。

 

『ほ、本当に言っちゃうの? や、やめといた方がいいと思うなぁ』

 

 キャラぶれから戻った九音が夢を語るのをやめておけと静止する。

 

 ふざけんな、夢を語るのはいつだって自由だろうが。俺は俺の夢を笑わない、誰が何を言おうとも俺は絶対に夢を諦めない。信じれば叶うとかそういう意味じゃない。信じるも何も、俺は確信しているのだ。夢は叶うって。

 

 だから、俺は自信を持って、胸を張って言おう。俺の夢は終わらねェ!

 

「駐車場経営をします」

 

「比企谷、君にはがっかりだよ……はぁ……」

 

 呆れたかのように深い溜息と共に言われた。心底がっかりしたようだ。けれども待ってほしい、こちらにはきちんと「かんぺきないいぶん」を用意している。

 

「それで……? 参考までに聞くが、君がどのような将来を想像しているんだ」

 

「はい、まずはそれなりに良い大学に進学します」

 

『いきなりふわっふわな人生設計……』

 

 九音の茶々にうるさいと返したくなる衝動を堪えて続きを口にする。

 

「本来ならここで美人で優秀な子を見繕って結婚して、家庭に入る方向だったのですが、駄目だしされて」

 

「私はその駄目だしした人物に感謝と文句を覚えるよ。駐車場経営も駄目だししておいて欲しかった」

 

「まぁ、どうやら曰く俺に専業主婦は向いてないらしいです。そもそも専業主婦に向いている人間はヒモの素質がないといけないそうで。だから諦めて、普通に就職して二、三年程度は働きながら貯金してそこからちょっとした土地を買い駐車場にします。上手く言ったら親に相談をして追加の資金を受けて二つ、三つの駐車場を経営しながら生活していくつもりです」

 

 俺の淡々と語る様子に平塚先生は「お、おぅ……」と引いていた。そんな先生の姿を見て思い出すのは去年の出来事、俺の専業主婦の夢敗れた日。それは去年の仲春頃に遡る。

 

『そもそも結婚相手を見つけても君が女の子から好かれると思っているのかい? 無理だよ、無理、君はモテない男子だし』

 

 自室で将来のことを尋ねられて軽く答えれば悪霊の口から飛び出してきたのは棘だらけの駄目だし。

 

『そもそもヒモも専業主夫も顔と性格ありきだよ。顔の合格ラインに達していないくせに何、夢見てんだよ。その上で君の場合は性格も最悪ときたもんだ。はいはい、無理無理。ヒモにしろ、専業主夫にしろ女の子に切り捨てられたら終わりなんだから媚びて甘えれる素養が必要なんだよ。それで甘えられて嬉しいのはイケメンの特権。甘えてくるイケメンが癒しになるから女も頑張ろうって思えるんだよ。男だって逆だったら同じように思うでしょ、美人な奥さん、美人な彼女のために仕事バリバリ頑張るなんてそこらへんに落ちている話じゃないか。働いてきた女の子、経済的に支えてもらっている子を癒すのが本来のお仕事。そうやって最初期は甘やかして、情で雁字搦めになるまでいい顔して、都合のいい女扱いできるようになったら無事、寄生に成功。そしたらヒモに昇格ってわけ。はい、論破、君には致命的に素養がないですぅ、君のどこが癒し系なのさ。癒しどころか一緒にいると不快にさせるだけじゃん、不快系男子、うぷぷ』

 

 ――も、もしかしたら俺のことを愛嬌があって可愛いと思ってくれる人が居るかもしれねぇじゃねーか。

 

『はーん? 何、夢見てんのぉ? まぁ、も・し・か・し・た・ら居るかもね。でも居たとしてもどうやって探すの? 手当たり次第ナンパでもするのかい? それとも大学にいった時に合コンに参加するの? それともお見合いパーティー? そんな場所に行ける勇気も無い癖に夢見るだけは一丁前。そもそも接点すらもてないくせに。そうやって愚図ってる間に君をもしかしたら好きになってくれる子もいなくなって、結局一人。君は獲物を奪われる側だよ』

 

 ――はーん、程度の低い煽りですね。舐めんなよ、俺は好きになったら翌日に告白するくらいの行動力は持っている。

 

『で? それでぇ? 結果は? ほらほら、言ってみなよぉ、比企谷八幡くん。そんな自信満々な行動力の結果を言ってみなよぉ。それだけ自信たっぷりなら彼氏彼女と無事なれました、とさぞ素敵な結果が出るんだろうね。そこんところどうなんだい? 事の顛末を教えてよ、この私にさぁ』

 

 散々言われ俺がふて腐れて寝たこの一件の影響により、俺は一人でも働かずに済む職業をし、色々と調べていざ再戦とばかりに九音に駐車場の夢を語ったのは四ヶ月程後の出来事。夏休みの終わり近くに徹底抗戦の姿勢で夢を語れば肩透かし。およそ、俺の夢を言葉の暴力で叩き潰した女と思えないほどに丸くなっていた為に「あー、うん、そう……頑張れ」と欠片も興味なさそうに応援された。なんなら、そこから調べごとは手伝って貰ったほど。

 

 そんな記憶を回想していると、どうやら平塚先生の方でも琴線に触れるものがあったらしい。聞きとり辛い声量でぶつぶつと呟いていた。

 

「ヒモは駄目だ。あいつらは結婚をちらつかせては家にあがりこみ、いつの間にか作っていた合鍵で自分の荷物を部屋へ運び込み、友達と飲みに行くからといって金をせびっては都合が悪くなるとSEXや愛を免罪符に誤魔化して、挙句の果てには私がめんどくさい女扱いになって、別れる際には別の女の部屋に私のものだった家具家電まで持っていく始末……何から何まで全部ぅ……うぅっ、ヒモはいかんぞ、ヒモは。いいか、比企谷!」

 

 生々しい噺だった。滅茶苦茶、生々しい話が聞こえてきた。誰のことなのは言ってはないものの余りにも実感の篭った台詞と内容のせいで平塚先生の話にしか聞こえなかった。

 

「ま、まぁまぁ。ヒモはまだしも俺は専業主夫という夢に関してはそう悪くない選択だと思うんですよね。ついでに駐車場経営も」

 

「……ふむ、続けろ」

 

 平塚先生の腰掛けている椅子がぎしりと鳴る。深く腰掛けた先生の両目がくださいなことを言ったらわかるな? と語りかけてきた。

 

「まず男女共同参画社会という現状において女性の社会進出は規定路線であり、今は職業的に性差があることはあまり歓迎されていません。そうなると未来的には女性の社会進出が当たり前どころか、男性の育児への参加すら当然のことになりそうな世の中じゃないですか」

 

「まぁ、そうだな。男性が育休を取るといった選択は一昔前までは考えられなかったと言われてるしな。育休、子供、幸せな家庭、結婚……うっ」

 

 勝手に自分で言葉を重ねて涙目になる平塚先生。俺はそっと目をそらして話を続ける。

 

「けど、よく考えれば女性が仕事に参加するようになればそれだけ仕事の数が割り振られるわけです。そうなると割り振られた仕事の元は男性であるのは間違いないですよね? 男女平等を謳う世の中ならば今まで男性の仕事だった分も女性にも、仕事が割り振られるようになるわけです。そうなると自ずと男性の仕事が減るのは自明の理で」

 

「……」

 

 未だにダメージ継続中なのかうるうると視線が潤んでいた。いや、効きすぎでしょう? どんだけしたいんだよ、結婚。誰か早く貰ってあげて……。

 

「勿論、女性だけが仕事を奪うわけではありません。機械化が進んでいる現状では人の力すら必要なくなってくるわけで。それに昔ならいざしらず、最近の家電は男女共々しっかりと使えるようになっている。そうなればクオリティなんてものの差は専門職以外は少なくなってくるわけです。今までは女性の仕事だったものに男性が参加するのも一つの新たな道だと思うんですよ。本当の男女平等を訴えるのなら男の限られたパイを配分するわけじゃなくて、女性の持っていたパイも混ぜて全体に均等すべきと考えてます。そうなると男性が家庭に入るという選択は悪い選択ではない。そして駐車場経営だって同じです。今は専門的な知識は大きく必要とせず気軽に出来る投資の一つとして形づいているわけです。どのような職種にも貴賎は無い以上、投資という形で駐車場を経営するのは悪くない選択だと思いますよ」

 

「う、む……しかしだな、比企谷。投資というのは知識があったとしてもギャンブル性が」

 

「確かにギャンブル的な要素はあるかもしれません。でも人生ってのは一度きりなんです! 男には賭けなきゃいけない時があるんですよ」

 

「そう言って夢を追いかけていた奴は結局、別の女のところへ転がっていったよ」

 

『ひ、ひぃっ!?』

 

 仄暗い過去が見え隠れ、いや殆ど丸みえだった。余りの怖さに九音などびびり竦みあがっている。俺も怖い。うちの学校、怖い女多すぎでしょ……。

 

「と、とみょかく! 要するにそうやって殆ど動かないで金銭を得る仕事があるにも関わらず、必死に労働をしている人間だけが賛美されて駐車場経営だけで生活できる人を非難するのはちゃんちゃらおかしいわけですよ」

 

 完璧な結論であった。働いたら負けかなと誰が言ったかなど今や覚えていないが実にそう思う。

 

「君は、本当に……はぁ」

 

 平塚先生はまるで問題児を見るかのような呆れ果てた視線を送ってくる。だが、すぐに何かを思いついたらしく意地悪そうに口角をつりあげる。

 

「女子からの手作り料理でも振る舞って貰えば君の勤労に対するスタンスに変化が起こるかもしれないな」

 

 そう言って立ち上がり、両肩をぐいぐいと押し始める。それと同時に九音は俺の首に腕を回してわーきゃーと叫ぶ始末。まるで遊園地にありそうなアトラクションのようにぶらぶらと揺れて実に楽しそう。

 

「ちょ、押さないでっ、痛い、痛いですってば!」

 

 ぎりぎりと締め上げられる肩。押すなと抗議すればさらに押してくる。まるで俺の肩と平塚先生の力比べみたいな構図。面白いとばかりに笑みを深めさらに力を増して押してくる。いや、そういうノリじゃないんですけど。俺の抗議などまるで聞く耳持たずに職員室から追い出される。そして最後にドンッと背中に一撃を貰い、つんのめりそうになるがギリギリで踏みとどまることが出来た。

 

 少し抗議しようと振り返れば――ピシャンと明太子のような擬音をつけて扉は無常にも閉められる。

 

『先生の言ってた――異論反論抗議質問口答え、その他に類するものを一切禁じるって奴だね』

 

 まるで呪禁令のように抗弁を封じられてしまえば職員室の扉を開いてまで何か言おうとは思えない。ストライキとばかりに無言で部活をばっくれようか、と頭によぎるがそんなことをしてしまえば雪ノ下に命令権が渡ってしまう。今現在の賭け相手の様子を思い出してみれば非常に不味いので仕方なしに部室の方向へ足を向ける。

 

 色々と重い足取りのまま奉仕部へ。今日もリア充が元気にうぇいうぇいするのを眺めながら歩いた廊下は対極の空気。特別棟の離れにある奉仕部までの道のりは静か。唯一、変わったことの心あたりと言えば、扉を開いた先に居るであろう雪ノ下雪乃。昨日と数日前ではあまりにも違いすぎる少女。

 

 奉仕部へたどり着き、精神的に重い扉を開き、目にする彼女の姿は予想通り。昨日となんら変化の無い様子で首に包帯を巻いた少女が居た。

 

「うす」

 

「こんにちは、比企谷くん。私のような美少女を前にしたら照れて普通の挨拶ができないのは理解できるけれど、きちんとこんにちはと言えた方が社会に出る時に役に立つわよ」

 

 数日前に比べて棘成分が八割ほど減退している。お前は俺のかーちゃんかよ、と言いたくなるような小言を頂く羽目に。

 

 小さく溜息を吐いて――そして気づく。

 

 ――ハッハッハッ

 

 人間の声、人間の息とは異なるその音に。そして俺は気づいて天を仰ぎたい気分になる。

 

 確かに雪ノ下は昨日と同じだった。首元には包帯で、相変わらずそこいらの女子から嫉妬されそうな程に綺麗な顔。

 

 だがしかし。そう逆説を重複させるほどの変化、それこそ強調せねばなるまいよ、とばかりに使命感を持って。

 

 ――ワン!

 

 犬が居た。どこまでも犬だった。それはもう飛びっきりに犬であった。昨日の見た犬がそのままサイズが一回り小さくなったかのようにそこに居たのだ。

 

 ――ハッハッハ

 

 人懐っこい鼻息を鳴らしては俺の足元に寄ってきて媚びるようにくぅーん、くぅーんと鳴いてズボンに身体を押し付けてくる。

 

『ま、間違いなく昨日の送り犬だよね……』

 

 そう『送り犬』である。送られて見送った筈の犬が部室で待ち構えていたのだ。大きさこそ多少違えど、ほぼ直感的に昨日の犬だとわかてしまう。そもそもが雪ノ下に見えていない犬は間違いなく妖の類であり、幾らメジャー級に有名な妖怪といえど連日見る犬が違う存在、別種であるなんてことはないだろう。無いと思いたい。

 

 そもそも、が――俺の持つ目。霊視とでも呼ぼうか。俺の霊視はそこまで万能なものじゃない。幽霊、妖怪、怪異ならば何でも見えるわけじゃあないのだ。九音曰く、俺が見える範囲は害をなす、人に悪影響を与える存在しか見えないらしい。この両目では九音が見えている他の浮幽霊も、時たま居るらしい誰かに憑いている自己主張の激しい守護霊も見えやしない。ましてや善霊を見ることは決してないとのこと。

 

 どこまでも悪霊だけが見える、と。それは間違いなく不幸である、と。足山九音は優しい笑顔で言ったのは去年の、一年前の出来事。

 

 そう、俺を助けてくれるのはいつだってこの性悪幽霊だけだった。九音だけが俺の命を助けてくれた。

 

 浮幽霊なのかも判らず、悪霊なのかも解らない。正体不明のわけのわからない幽霊しか助けてくれなかった。霊視を出来ない半端者、誰も助けてくれない一人ぼっちの霊能者。霊能力者と呼ぶには抗う力も無く怪異に対して何も出来ずに片手落ち。そして普通の人呼ぶには余りにも半人前。

 

「どうかしたの、そんな所で立ち止まって」

 

 思い出に浸っている間に雪ノ下がパイプ椅子を用意してくれていた。しかしながらその位置は雪ノ下の真横と呼んでも差し支えない距離。肩と肩が触れ合うような距離に用意されたパイプ椅子を眺めていると。

 

 ――ワゥワゥ! グゥゥゥゥゥゥッ!

 

 急に不機嫌になった犬がズボンの裾を噛んで椅子の方へ引っ張る。

 

『……おいおいおいおい。そこの新参妖怪ちゃんよぉ。誰に許可を得て八幡くんのズボンに噛み付くなんて羨ましいことしちゃってるんだい……え? ねぇねぇ、それどうやってやるの? ねぇ、それが出来るようになれば私と八幡くんが触れ合えるようになるわけだよね。ねねっ、それどうやるの? 教えてくれよ、ねぇ、教えてください、お願いします、お犬様』

 

 チンピラのように強気を見せたのも束の間、即座に媚びるかのように揉み手をしながら犬へと近づく九音。もはや即落ち二コマなんて話じゃなくて、吹き出しの途中で即落ちしていた。しかしながら、そんな幽霊になど目もくれず椅子の方向へ俺を引っ張る犬。

 

『ね、ねぇ、教えてって。教えろったら。こ、こいつ……人が下手に出ていれば調子に乗りやがって、この雌犬! ほら、さっさと吐け! 私に教えろよ! 賢い私にさっさとやり方教えろ! そろそろ怒るぞ! 怒るぞっ!』

 

 賢さの欠片もなかった。賢い人間の請い方には全然見えない。むしろ小学生の方がまだ交渉の駆け引き、ノウハウを知っているレベルのやり取り。拳を作って脅す九音に。

 

 ――バウッ!

 

『ひ、ひぃっ、ひぇぇぇぇっ』

 

 一喝で追い払う犬。情けないまでに情けない女幽霊。犬は「はん、雑魚が」とばかり、高慢ちきに鼻を鳴らして再度として俺を椅子へ引っ張る。

 

『こ、怖くないぞぉー! お、お前なんか私が本気出したらけちょんけちょんなんだからなっ! お前、ほんと、大概にし、しとけよぉ、ぉぉ……」

 

 もういっそ哀れだ。背中に隠れて背中越しに声を震わせて文句を言う女の幽霊。そんな俺の足の袖を噛んでは引っ張る犬の妖怪。奉仕部内が怪異の温床となりつつある現状に内心で大きく溜息を吐きつつ俺はパイプ椅子をずらして座る。雪ノ下とは二人分くらいの距離をとり長机の真ん中へと腰を下ろす。

 

「つれないのね。いえ、この場合は釣った魚に餌をあげないのかしら」

 

「釣りをしたことがねぇからな。どうしたらいいのかわかんねーんだ」

 

 軽口を叩いて俺も鞄から本を取り出す。犬は不満そうに足元でうーっと唸り、幽霊はその犬から距離をとるかのように、足は天井側へ、腕は頭にしがみついてうーっと犬を睨む。知能が獣レベルと化していた。

 

「そういえば比企谷くん。クッキーの味どうだったかしら? 口に合えばよかったのだけれど」

 

「ん? あぁ、まるで店で売っているような完成度だったな。大したもんだ」

 

 嘘は言ってない。見た目は綺麗なもので店売りの代物と見分けがつかないほどに立派な出来であった。

 

「そう、それは良かったわ。あまり褒められたような気はしないけれど、それが貴方なりの最大級の褒め言葉と受け取っておきましょう」

 

 自信の塊のような女である。しかしながらその自信に相応しい腕であるのは確か。少しは平塚先生にもその料理の腕前を分け与えてあげるべきだ。いやいや、まだ料理下手って決まったわけではないけどね? ほら、一応保険というか。

 

 そんなことを内心で考えていると雪ノ下はふと、何かを思いついたらしく。

 

「ねぇ、比企谷くん。貴方、いつも購買のパンよね」

 

 なんで知ってるの、怖い。

 

「そんな貴方に朗報があるわ。私、料理が出来る女なの。お弁当も手作りしてるわ。ついでに貴方の分も作ってきてもいいかしら?」

 

「や、それはいい」

 

「どうして? 健康面でも金銭面でも余裕が出来るじゃない。勿論、材料費は要らないわ。私が作りたくて作るわけだし。それに先日のチョコの件も」

 

 

 一見タダに見えるその罠はきっとタダですまない。そもそもが、だ。俺は女の子に養われるつもりはあっても。

 

「俺、施しは受けないタイプなんだよ。昼も現状に不満ないしな。この前のチョコはクッキーで十分だ。いや、十二分に有難かったわ。だから、この話は終わりだ、終わり」

 

 ――ウウーッ! バウッバウッ!

 

 俺の返答に対して雪ノ下の足元で丸まっていた子犬が反応する。そして、そのまま――雪ノ下の椅子に体当たりをし始める。

 

「えっ、地震?」

 

 雪ノ下は起きても居ない地震を感知しては立ち上がる。

 

「えっ……比企谷くん、今揺れなかった――きゃっ」

 

 そして、今度は雪ノ下の足元に体当たり。膝裏に体当たりして雪ノ下の体勢を崩す犬。勿論――見えていない彼女はバランスを崩して倒れそうになる。

 

 俺は即座に立ち上がり、雪ノ下を身体を受け止める。

 

 俺は子犬を見つめる。彼奴は間違いなく己が意思で雪ノ下を転ばせた。送り犬の伝承のとおりに転ばせようとしたのだ。

 

 バクバクと心臓が早鳴りを打つ。妖怪が居る現状に気は緩んでいるつもりは無かった。おかげで転倒を阻ぐことができた。

 

「あ、ありがとう、比企谷くん。今のはわざとでないのよ、本当に地震を感じて、その……」

 

 恥ずかしそうにする雪ノ下をそっと立たせる。か細い身体をそっと手放しては俺は「気にすんな」と声をかけてから再び椅子に座りなおす。

 

『いやいや、八幡くん。そんな大げさにしなくても、別にそいつ助けなくても大丈夫だったよ。そもそもがその女は犬に出遭ってないんだから。だから妖怪としてその犬が転ばせたところで何の意味もない。その上で転ばせようとしてるんだから、おかしいよ』

 

 九音の言葉に異論を挟む余地がない。

 

 そうだ、その筈だ。転んだから犬が現れて襲われるのではない。犬が現れて転んだら襲われるのだ。順番が異なる、つまるところ。

 

 ――わふぅ?

 

 この犬は何のために雪ノ下を転ばせようとしたのか? 睨み付けてもすっとぼけて此方をクリクリとした目で見つめてくる。まるで悪いことしてませんとばかりに純粋無垢に。何も知らぬとばかりに、何かありましたか? とばかりに後ろ足で耳をかいては知らん知らんとばかりにふてぶてしい表情。

 

「……ねぇ、比企谷くん」

 

 耳元で甘く響く。考え事と犬に意識を割いていたせいか、いつの間にか肩の当たる距離に雪ノ下が近づいてきたことに気がつかなかった。囁やかれた方向を見れば――。

 

『あ"ぁあ"ぁぁぁ! この雌! この雌犬! 泥棒犬! 顔が雌ってる! 八幡くん、離れて、危ないからっ! 食べられちゃう!』

 

 九音の叫び。顔が雌るという聞きなじみの無い表現。しかしながら大体のニュアンスを察することが出来てしまう。

 

 ぽふっと肩に頭が乗ってくる。

 

 その状態は質量さえ無ければよく知っている状況。けれども覚えがないのは肩にかかる重量から。

 

 横目で雪ノ下を見ると彼女も此方を上目で伺うように見て来ていた。確かに近くで見る雪ノ下は女の顔していた。それこそ、華奢な体躯のどこにその色気を隠していたのかという程に。

 

 綺麗なものを汚してしまいたいという男の情欲を誘うような。男が好む処女性から生まれた色気。本来なら相反するような清楚さと色気が同時に絡み合い本能に訴えてくる。

 

 ――喉が鳴る。

 

 鳴ったのは俺の喉。ただ自分の音だけが響く。ぎゃーすかと騒ぐ筈の九音の声がどこか遠くの世界のように聞こえる。心臓と俺の荒い息遣いだけが響く。ぐるぐると視界が回る、触れるように近い少女の顔。その彼女がこくりと頷き、目を瞑る。

 

 拙い。

 

 俺の脳内に浮かんだ言葉。九音の『何が拙い言ってみろ! 許さんぞ貴様らーっ! じわじわと呪い殺してやるぅぅぅう!』と騒ぐ声、犬のワフンと満足気な顔も見えているのに、俺の身体は。

 

「んっ、早く」

 

 その色っぽい台詞に俺はまさに魔がさす、魔に惹かれる、悪魔に――コンコン。

 

 慌てて椅子ごと離れる。あと一秒か二秒、遅ければ何がどうなっていたのかわからない。

 

 そして雪ノ下は俺の椅子ごと引いた姿を見た後に、不機嫌そうな表情を浮かべて扉の方向を見る。そして底冷えするような声で。

 

「……どうぞ」

 

 心底、機嫌が悪そう。弱弱しいノックに対して余りにも威圧的な返答。

 

 若さゆえの過ちにそのまま墓場まで引きずられそうだった。普通ならキスの一つや二つで墓場まで行くことはないけれども、今の雪ノ下雪乃という少女にはそのたった一回ですら連れていかれそう。それこそ、非常事態の非日常ではなく、こんなお天道様が見ている前で白昼堂々と、日常でキスをしてしまえばそのまま一直線。俺の入る墓は比企谷家から違う苗字の墓に入る可能性すらよぎってしまう。

 

 そんな俺の救世主に対して心の底からお礼を言いたい。けれども口に出せば雪ノ下を怒らせることは薄々と察せるので心の中だけで頭をさげておく。

 

「し、失礼しまーす」

 

 威圧のせいか緊張気味に恐る恐ると扉は開かれた。そして開かれた隙間は僅かなもので、そんな僅かな隙間から身を滑らせるように侵入してきたのは女子生徒。

 

 緩く肩までウェーブした茶髪、制服の着こなしは雪ノ下と対照的で今風といえば聞こえは良いものの悪く言えばだらしない。スカートの短さは雪ノ下より短い九音、それより更に短く。服装のおかげかなんとなくどのようなカーストなのか予測がつき始めていた。

 

 そんな女子が物珍し気に室内をきょろきょろと見ていれば、俺と視線があって停止ボタンが押される。

 

「ひっ」

 

 おっ、正気度ロール失敗してんな。今度はSAN値減少のダイズ振ってくださいねー……じゃねぇんだよ。なんで一目で凄惨な現場に出くわした、根源的に恐怖を覚える生物に遭遇したみたいな反応なんだよ。俺の顔がクトゥルフに出てくる可能性が増々上がってるじゃねぇか。やめてくれよ……。

 

「なんでヒッキーがここにいるの!?」

 

 俺の方向を見て言ったのだから俺のことなんだろう。そして何故、と問われれば。

 

「いや、俺ここの部員だし……」

 

 そう答えるしかない。というか誰、この子? 助けてくれたことには感謝するけど、その後の正気度ロール失敗からのSAN値チェックのせいで俺の印象はプラスマイナスつかずのトントンといった所。

 

『由比ヶ浜さんだ、八幡くん。由比ヶ浜結衣、同じクラスの』

 

 俺の問いに答えてくれたのは未だにジト目を維持したままの九音。

 

 いや、良かったわ。実は正気度失敗して知らない人でも知っているとかいった狂気ロールプレイしてる可能性考えちゃったわ……。とはいえ、九音の情報を与えられたところで何も思い出せない。

 

 制服のブラウスのボタンは三つ目まで開き、そこから見えるネックレス、脱色された髪に短いスカート。まさに青春を謳歌している女子高生といった見た目。それこそ彼氏や彼氏グループと一緒に廃墟にでも肝試しにいって「やーん、怖いー」とか言いながら彼氏の腕に抱きついてそうなリア充オブリア充の雰囲気を感じ取る。いわゆる量産型女子高生、もちろん顔のスペックは高く、スタイルもかなり良い。そうでなければリア充としては片手落ち。そしてホラー映画とかに出てきたのなら大体お色気シーンがあった後に死んじゃう奴。

 

「あー、由比ヶ浜だっけ? まぁ、とにかく座って座って」

 

 パイプ椅子を用意して紳士的に勧める。そこにスタイルをじっくり眺めた疚しい気持ちによる罪悪感など無い。自称美少女の幽霊のあられもない姿をかなり見てきた俺は女体に対してかなりの耐性を持つと自負している。勿論、大きさなど人それぞれで九音よりも遥かにボリュームを主張する胸なんかに誘惑されたりしない。胸なんかに絶対に負けない!

 

『変態クソ野郎のおっぱい星人、いつまで見てるの? 潰すぞ』

 

 九音さん、それ目……ですよね? 目だよね? と恐る恐る視線で尋ねてみてもニッコリと嗤うだけ。怖い。

 

 そそくさと席に戻って小さくなる。俺の中にあった女体の神秘に対する探究心も熱も完全に奪い去られた。人のやる気を奪うなんてなんたる悪霊なのか。

 

「あ、ありがと……名前、覚えてくれてたんだ、えへへ、嬉しいな」

 

 頬をポリポリとかく仕草に罪悪感がわいてくる。俺が正直者村出身なら今すぐにでも覚えてませんでした、ごめんなさいと言う所。しかしながら素直に知らなかったといえば無駄に落胆されたり、同じクラスなのにといった口論に発展するのも面倒くさいので、俺は否定も肯定もせずに曖昧に答えを濁し、想像にお任せできるよう黙って椅子に腰掛ける。

 

「……へぇ」

 

 冷たく響いた感嘆詞。ゾクリと震える背筋はまるで氷柱を入れられた――そんな錯覚すら覚える。感嘆詞の出所は隣、九音は頭にしがみつき、そして由比ヶ浜は対面に座っている。そうなると残るは一人。

 

 残った一人の表情を盗み見るかのように視線を動かしてみればギョロリ、と。

 

 ホラー映画を見た程度の経験値なら漏らしていた。あってよかった心霊体験。俺は生まれて初めて今までの様々な心霊体験に感謝した。そして感謝と同時にお腹一杯なのでもういいですとお断りもしておいた。

 

「あ、あのぅ……」

 

 由比ヶ浜が自己主張するかのように小さく手をあげる。

 

「由比ヶ浜結衣さん、ね」

 

 雪ノ下はフルネームを呼ぶことで自分も貴方のことは知っていると主張した。

 

「あ、あたしのこと知ってくれているんだ」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下に呼ばれたことに表情を明るくする。自分の名前が知られて嬉しいということにはあんまり共感を抱けない。そもそも俺の名前が良い意味で知れ渡るならまだしも、大抵は碌な話なので知らないでいて欲しいまである。

 

「お前、よく知ってたな。別のクラスだろ? もしかして全校生徒の名前覚えてんの? すげぇな」

 

 ここぞとばかりにヨイショ。先ほどのホラー映画もかくやの視線を思い出して少しでも怒りの矛先を収めて貰わねば。こんな扱いは先日の神様以来。やっぱこの女、おっかねぇわ。

 

「いいえ、そんなことはないわ。現に貴方のことは知らなかったもの、比企谷くん。貴方のように異性の名前だけを覚えているような人間と違って、意識せずとも自然に耳に入ってくる人のことしか知らないわよ」

 

 ちょっと雪ノ下さん? その言い方だとまるで俺が下心あるみたいな言い方じゃありません? 内心でお嬢言葉になる程の扱き下ろしに対して俺は抗弁を試みる。

 

「ちょっと待て、雪ノ下。俺は異性の名前だから知っていたわけじゃない」

 

「あら、それならどうして?」

 

「いいか、俺は同姓であれ異性であれ殆どの人間の名前も覚えていない。由比ヶ浜の名前もつい最近、日直かなんかで見かけただけで偶々覚えていただけだ。近々、いや明日には忘れてる自信はあるぞ」

 

「自分が鳥頭であること自慢げに語るなんて貴方、馬鹿なの? 欠点を自慢げに言うその自虐スタイルが会話の流れで面白いと思っているのなら救いようがないわね。何事にも飽きっていうのがあるの。使い古されているにも関わらず何度も同じような会話のテンポを楽しんでいるなんて貴方の程度が知れるのだけれど。いつまでそれが面白いと思っているのかしら、私、心配だわ」

 

 雪ノ下の罵倒しているというスタイルはいつになったら飽きるんですかね。舌刀で滅多刺しにしてくる猟奇的会話術の部長は今日もいつにも増して絶好調だった。誰だよ、棘成分八割減とか言ったやつ。嘘じゃねぇか。

 

「ねぇ、それでお前心配しているつもりなの? 心配するよりもお前が新しくつけている傷の方が遥かに大きいからね? むしろお前の傷しか残っていないからね?」

 

「調教しているのよ、私。少しは飼い主の苦労もわかってほしいわ。あなたの更正活動にここまで真面目に取り組んでいるのだから感謝なさい」

 

 良い仕事しているわ、と満足気味に前髪を払う雪ノ下。そんな俺と雪ノ下のやり取りを蚊帳の外で見ていた少女が呟く。

 

「なんか、楽しそうな部活だね」

 

 言い争う二人を見てそんな感想が漏れたらしい。由比ヶ浜の表情は明るく、俺の苦い顔が見えないらしい。これが楽しそうに見えるわけ? どんな目してんだ、こいつ。

 

「別に貴女にとって面白おかしくしているつもりは無いのだけれど。それにどうしてそんな表情を浮かべているのかしら」

 

「あ、ご、ごめんね、雪ノ下さん。二人とも、その……なんていうか、自然だなって思って。ほらっ! ひ、ヒッキーもクラスに居る時より喋るし!」

 

「いや、喋るよ、そりゃあ……無視とかしてたら感じ悪いだろ」

 

 どんだけコミュ障だと思われているんだろうか、俺は……そこまで考えて過去一年のクラスでの会話を思い出してみる。

 

『仕方ないよね。だって八幡くんってクラスの誰かと会話してたらそれだけでレア扱いされるレベルだもん』

 

 ぽんぽんと優しく肩を叩いてくる九音。勿論、質感も何も存在しない慰め。この女幽霊からしてみれば由比ヶ浜の感想はどうやら妥当であったらしい。

 

「そ、そうだけど。クラスでは他の誰とも喋らないじゃん」

 

 九音と同じような理由で由比ヶ浜も判断していたらしい。確かに教室で会話した記憶など殆ど残っていない。けれども。

 

「喋らないだけでコミュ障扱いってのは偏見だろ。昔から雄弁は銀、沈黙は金って言うだろ。黙っていることがペチャクチャ喋っていることに劣るわけじゃない。むしろ金銀の価値を考えた時に金の価値が高いのは当たり前であるように沈黙という選択は誇るべきことだ」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜はキョトンとして、それからもごもごと口の中で何かを繰り返して、意を決したかのように口を開く。

 

「ゆ、ゆーべんはぎん? きん……し、知ってるよ、オリンピックだよね……?」

 

 俺は心底馬鹿にしたような顔で鼻を鳴らし、由比ヶ浜を嘲笑った。ちょっとこの子アホすぎない?

 

「はぁ!? なんだし! その顔っ、ちょっと間違えただけじゃん! 人の間違いを笑うなんて感じ悪い! そんなんだからクラスでも友達居ないんだよ、いっつもきょどってるしっ! きもいし!」

 

 烈火の如く怒る由比ヶ浜。そんな俺を怒りの目で見る視線に続いて呆れた視線が二つ。

 

『八幡くん、さっきの慣用句は雄弁も価値はあるが、沈黙すべき時を心得るのはもっと価値があるって意味だよ。決して黙りっぱなしが一等賞とか喋りっぱなしが偉いとかじゃないからね』

 

 知ってる。ついでに雪ノ下も同じような感想なのか「ものは言いようね」と呆れていた。

 

 ともあれ、この短いやり取りで俺は由比ヶ浜のカーストと人種をはっきりと理解した。コイツは。

 

「……ビッチか」

 

 ボソリと小声で呟く。そう、俺の敵。いや俺達、男子の敵とも呼べる存在。色々と気を使って損した気分だ。そんな俺の小声は由比ヶ浜の耳に届いたらしく怒涛の勢いでこちらに噛み付いてきた。

 

「はぁ!? ビッチって何!? あたしはまだ、ヴァ……な、なんでもない! なんでもないから!」

 

 顔を真赤にしてあわあわと手をふる由比ヶ浜。まるで自分の発した言葉をかき消すようにバタバタと手を動かしていた。そして、そんな少女の様子を見て九音が。

 

『かぁーっ! ペッ』

 

 まるでおっさんのような態度で地面に痰を吐くような真似をしていた。ちなみにあくまでフリである。流石に本当に吐き出すなんて尊厳を捨てるような真似をしていなかった。

 

『なんだい、こいつは! 一見、ビッチに見せかけて処女というカミングアウトっ! あざといぞ、あざといにも程があるね! ペッペッ、ほんとあざといっ。ぷんすかぷん!』

 

 ぷんすかぷんとか言うやつが他人のあざとさにツッコミを入れるのか……。

 

 それに九音自身があざとさの仕草としてプンスカプンという言葉を選んだのならセンスが古すぎる。

 

 そんな幽霊など見えもしないだろう雪ノ下は由比ヶ浜に向かって言葉を放つ。

 

「別に恥ずべきことではないでしょう。私達の年齢を考えたらヴァージ」

 

「わわわわーっ! 何言ってんの、雪ノ下さん!? まだとか普通に恥ずかしいから! 雪ノ下さん、女子力足りないんじゃないの!?」

 

「……くだらない」

 

 一度、途中で言葉を遮られた雪ノ下は由比ヶ浜を興味すら沸かない理解不能な珍種の動物かのように見ている。

 

「にしても、女子力って単語がなんかこう……もうビッチ感丸出しよな」

 

『……は、八幡くん、そんなことはないんじゃない? 別に女子力って単語を日常会話に混ぜる程度でビッチ呼ばわりは流石に可哀想じゃないかな?』

 

 唐突に由比ヶ浜の擁護を始める幽霊。実際のところ、自分の擁護であることを知っている。この幽霊も度々と女子力という言葉を使うことは多々とある。

 

「また言ったし! 人をビッチ呼ばわりって酷すぎ! キモい! ヒッキーマジキモいっ!」

 

『うんうん、わかるわかる。分かるわー。女子力、イコールビッチって発言は今にでも撤回すべきだと思うな! そう、女子力って単語を使っていても純情可憐な子も居る筈だよ! そう、私みたいな……私みたいな!』

 

 純情可憐、純真無垢。どちらも穢れなく可愛らしいことを指す四字熟語。もしも使うとするのならば善良な美少女に対してであるべきだ。足山九音という少女に綺麗だとか可愛いといった形容詞はついたとしても善い、善良なんて言葉は決してつかない。

 

 そんな二対一の抗議をまともに取り扱うつもりもない俺は体面に座ってうーっと悔しそうに睨んでくる由比ヶ浜に答える。

 

「俺がキモくても、ビッチ呼ばわりを訂正するつもりはないがな」

 

 というか俺ってクラスでヒッキーとか呼ばれてんの? そうなのか……新事実に若干落ち込む。引きこもりに対する蔑称にしか聞こえないあだ名がクラス内で使われていると思うと憂鬱になる。九音あたりは知っていて変な気を回して伝えなかったかもしれない。陰口とは本人の耳に入ることで予想もしないダメージを与えるということを思い知った。だからこそ、陰口ではなく俺はこの場ではっきりと面と向かって伝えることにした。

 

「この、ビッチが」

 

『ねぇ、それ、私に向かって言ってないよね? 違うよね? ね? ね? あの由比ヶ浜とかいう女に向けてだよね? ね?』

 

 ねぇねぇ、ねーってば、と俺の背中にしがみつき両肩の後ろから交互に顔を覗かせながら尋ねてくる九音。その必死さに少しばかり罪悪感がわく。ビッチ呼ばわりとはそこまで酷いものなのだろうか? 対極に見える男のヤリチンという言葉はスラングでありながらもそこで酷いものではないように思えるのだが。

 

「こっのぉ、マジうざい……マジきもい! つーか死ねば!?」

 

 キレた由比ヶ浜の言葉に普段は錆びついて切れない剃刀のごとく穏やかで菩薩のような俺も反応してしまう。こちとら死という単語には敏感なのだ、決して悪口や言い合いで簡単に口にいていい単語ではない。絶対に許さねぇ!

 

「おまえ、死ねとか殺すとか安易に使うんじゃねぇよ! そういうの良くねーだろ! 呪い殺すぞ!」

 

「あ……うん、そだね、ごめん……。ん? 今、言ったよ! しかも呪うとかも言ってた! 怖い!」

 

 やはり由比ヶ浜の頭は少し弱いようであった。

 

 しかしながら、少しだけ新発見。見た目からは俺なんかに頭を下げるなんてプライドが許さないと思ったが偏見にしかすぎず、確りと自分の非を認め謝ることができるタイプらしい。

 

 つい先日、見た目と噂の違いに命をもぎ取られそうになった俺は何の成長もしていない。少しばかりそういった部分は考えなければいけないのかもしれない。

 

『うぅーっ、ビッチじゃないもん! 私はビッチじゃないんだからねっ!』

 

 未だに先程の話題にズルズルと引きずる九音。そんなに嫌だったのかと思い、罪悪感を視線だけで伝えてみると九音に伝わったらしく、ぷくーっと頬を膨らませて主張してきた。

 

『そりゃそうだよ! まかり間違っても八幡くんだけにはそういうことを思ってほしくない。他のどこのどいつが足山九音はビッチであるって信じても、君にだけはそう思われたくない。だって、私は君のことを好きなんだよ? そういう淫売、売女扱いは傷つくよ。それこそ、うっかり呪い殺してしまいそうになるほどに』

 

 背中にしがみつきながら九音はそういった。それなら由比ヶ浜に対してはさしたる問題ではないだろう。何故なら由比ヶ浜と俺には何の関係性もないのだ。俺がビッチって思っていようが何の影響もない。

 

 そんな由比ヶ浜は言い合うのは時間の無駄だと気づいたらしく、おずおずと雪ノ下に向かって話しかける。

 

「あ、あのさ、平塚先生から聞いたんだけど、この部活って生徒のお願いを叶えてくれるんだよね」

 

 ようやく本題。どうやら彼女は依頼者だったらしい。いや、知ってた知ってた、知ってたわ。この部活がボランティアや何かしらの相談を受ける部活動って前にも推理していたし、あまりにも依頼人が来なくて本質を忘れていたなんてことは欠片もない。ほんとほんと。

 

「少し違うかしら。あくまで私達は手助けにすぎない。願いが叶うかどうかはあなた次第よ」

 

 初耳のその心意気は雪ノ下にとって何か意味のあるものらしい。どこか信念、決意めいた言葉を語る雪ノ下、それを受け取る由比ヶ浜。真剣な雰囲気を感じ取った俺は黙って聞きに徹することにした。

 

「どう、違うの?」

 

 由比ヶ浜の問いに雪ノ下は暫し瞑目し、言葉を選びながら続けた。

 

「飢えている人に魚を与えるのか、それとも魚の捕り方を教えてあげるのか、その違いよ。ボランティアとは本来ならばそういった方法論であって、結果だけを与えるのではないの。自立を促すというのが一番近い表現かしら」

 

 ジリっと後頭部、忘れたい記憶が熱を持った感覚。飢えているというその言葉に嫌な思い出が一瞬だけ蘇る。しかしながら、それは過去のこと、既に終わった御話。

 

 頭を切り替えて雪ノ下の話を考える。彼女の理念に基づくこの部活は、自立と協力により依頼者の目標のために働く、そういった類のものなのだろう。恐らくおおよそは間違っていない筈だ。

 

「すごいねっ、なんかっ!」

 

 由比ヶ浜のとりあえず、よくわかんないけど凄い! という雰囲気をありありと感じ取る。こいつ友人に騙されてそのまま悪徳な宗教団愛に嵌りそう。やはり、胸に栄養が……と一瞬だけ胸と知性に関する都市伝説がよぎった。

 

 対象的な雪ノ下。彼女は宗教団体に騙されそうにない……と俺は思わなかった。得てして自分に自信がある人間は往々にして騙しやすい。自分は絶対に騙されないと思っている人間こそが騙されるなんてよくある話。

 

 必ずしも知識、知性とは騙されることに対する耐性の高さと比例するものではない。

 

 閑話休題。

 

「あなたの願いは叶うとは決まっていないけれども、最大限の手助けは約束するわ」

 

 雪ノ下の力強い言葉に意を決したのか、由比ヶ浜は立ち上がり、そしてぎゅぅっと両手を握り合わせて勇気を振り絞るかのよう。

 

「あの……、あのあの、あのねっ! クッキーを……」

 

『何だ、こいつあざとすぎでしょ。あのあのあのねってあざとい奴パクろう。私が言ったら超可愛くなるし……っとと、八幡くん、どうやら私達はお邪魔みたいだよ』

 

 九音は由比ヶ浜が言葉を止めた理由を察したらしい。俺は九音の言葉から察して立ち上がる。

 

「比企谷くん」

 

 立ち上がった俺に雪ノ下が紙幣を取り出してきた。同世代の女子からお金を差し出される状態ってまるでヒモみたいだ。平塚先生って毎回こんな感じだったのかな。ちょっと怖ぇわ。

 

「一応、聞いておくが何だ、これ?」

 

「これで私と貴方と由比ヶ浜さんの飲み物を買ってきて頂戴。お釣りはいいわ。あと私、野菜生活一〇〇イチゴヨーグルトミックス」

 

 いや、いいんだけれども。俺も時間潰すために売店行こうと思ってたからいいだけれども。問題は――

 

「いや、そんな貢がれるみたいな感じは、その、ちょっと困る……」

 

「貢ぐ? 人聞きの悪いことを言わないで頂戴。私が男に貢ぐタイプに見えるというの? それに高々ジュース程度の貸し借りなんて作らないわ。黙ってかってきなさい。それでも嫌ならこれは投資とでも思ってなさい」

 

 めっちゃ見えるし、それにどんな形で配当を返せばいけないのか怖くて仕方ない。ともあれ、雪ノ下の飲み物も買ってくる以上、紙幣を受け取り幽霊を引き憑れて廊下へと出る。

 

『八幡くん、自分の分は自分で買おうね』

 

 俺はその言葉に素直に頷いた。正直言って女の子からお金を貰うシチュエーションがこんなにも怖いとは思っていなかった。やった、お金貰えたラッキー! なんて無邪気に喜べるのはかーちゃんくらいである。かーちゃんは俺にもっとお小遣いやってくれ。

 

 金には魔力がある、と言ったのは何の漫画だったか。しかしながらそれは事実だろう。骨身に染みてその事実を理解している俺は貸し借りという言葉には敏感すぎるくらいに敏感なのだ。奢る、奢らないなど議論もしたくなければ、施しを受けるつもりもさらさらない。

 

 廊下をゆっくりと歩くことで時間を潰していく。特別棟の最奥、離れの離れにある奉仕部の部室が四階。購買は一階にあり、人に見られないように幽霊と他愛もない受け答えをして往復すれば二人の相談の時間を稼ぐことができるだろう。

 

 どんな人間であれど初めての依頼人である。つまり、俺と雪ノ下との勝負の幕開けというわけだ。

 

 よくよく考えれば勝ち目など殆どない。俺に今出来ることは雪ノ下の熱が冷めるのを待つことだけ。そうなれば流石にお願いの内容も変わるだろう。あんまり無茶なことを言われなければいいが。

 

『それにしてもクッキーねぇ』

 

 購買に辿り着いた時に九音はお菓子のコーナーを眺めながらポツリと呟いた。

 

『ねーねー、八幡くん。フォーチュンクッキーって知ってる?』

 

 先んじてお遣いを済ませる。スポーツドリンクと雪ノ下の注文、そして由比ヶ浜にはカフェオレあたりでいいだろう。雪ノ下の分を紙幣で買い、残りを手持ちの小銭で支払う。

 

 そして九音と同じように売店のお菓子を覗き込みながら問いに答える。

 

「確か、中にお御籤が入ってるやつだったか?」

 

『そうそう。けれどもね、原型は煎餅って知ってた? 日本を中心に辻占い菓子、辻占い煎餅として一般的に知られてたんだよ。けれども特許の関係でいつからか名を変えてフォーチュンクッキーという新しい形になって生まれた。アメリカ辺りでは結構な数でフォーチュンクッキーは中国の習慣だと思っているらしいよ。勿論、愛国心からそのことに文句を言う! なんてつもりはさらさらない。だって私達にとって今の所何の関係もないからね』

 

 購買の品揃えを楽しんでいる九音を眺めていると購買のおばちゃんがいつの間にか此方を怪訝な顔で見ていた。どうやら油断しすぎて九音と会話している様子を見られたらしい。傍から見れば完全に独り言を呟くヤバいやつ。

 

 そんな視線に耐えきれずにそそくさと退散。戻ってもいい時間だろう。

 

『でも、私達は名前の大事さをこの前思い知ったばかり。皆がそう信じているのなら例え一人が真実を知っていてもどうしようもない、手遅れな時もある。この前の人形の一見は裏取りしてない唯の噂話だから助かった。けれどもこれが広がり、真実ではなく偽物の方が信じられていたと考えるとほんと、思い出したら震えてくるよね。八幡くんはさ、この前の出来事、下準備出来て解決方法を思いついたから大丈夫って思ってたみたいだけど、本当にそうだったのかな? もしも一歩間違えれば本当に死ぬ羽目になっていたんじゃないかな。だって蜘蛛、女の蜘蛛、女郎蜘蛛なんてメジャーな妖怪に君と私で対処なんて出来たんだろうかって考えちゃうよ』

 

 九音の警告は判りやすい。判りやすいまでに辛味を帯びた正論だった。

 

『まぁ、別に君が油断して死んじゃったら私が娶るんだけど。それなら死んじゃっても別にいいんだけど。それでも最近、気を抜いてない? いつだって命からがらなのに慣れたとかニュービーだとか、他人の面倒とか見ている場合じゃなくない?』

 

 そんなこと判っている。そもそもが俺は何の力も無い、何の力も無いくせにそんなことをしている余裕なんてない。

 

『……わかってるじゃん。なのにどうしてあの雌犬とか妹ちゃんを優先して死に目にあってんのかなぁ』

 

 小言を呟く九音を無視しながら奉仕部へと戻る。

 

 俺は誰かを選ぶほどの力を持っていない、何せ自分ですらも満足に守れないのだから。それこそ、誰かを救うなんて、誰かを助けるなんて。友達も恋人も唯の知り合い、家族ですら俺が助けるなど傲慢な考え。

 

 俺はその事実を解っている、といつものようにつぶやく。けれども解っていれど、いつも間違えているのなら世話ないのだが。

 

 

 

 




※次回は三月四日投稿予定です。
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