足山九音が幽霊なのは間違っている。   作:仔羊肉

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仲春【形成】

 家庭科室は調理実習室と家庭科教室という二つの側面を持つ。二面性で部屋と部屋が繋がる室内には、この世で最も殺傷目的で使われる道具が存在する。

 

 殺傷。

 

 殺したり、傷つけたりする力。教育現場でありながら、そういう力が一点に集まっているというのは些かバランスが悪く感じた。校内で殺傷可能な道具が少ないのだから殊更そんな印象が強くなる。

 

 消化器を殺傷目的で使うとするのならば相応の筋肉が必要となり、使い方次第では体育倉庫に眠る大縄、知識を有しているのなら理科準備室にある薬品などでも出来るだろう。

 

 相応の何かしらがあれば他人を傷つけたり、殺すことは可能なのだ。しかしながらそんな知識などなくとも、最も簡単に使える代物で、各家庭に一つ以上用意してあり、そして現在の日本国内で最も殺人と傷害に使われている道具といえば――包丁である。

 

 身近であるが故にその危険性は誰でも知っていて、知っているにも関わらず、最も使われる殺人道具。

 

 もしも、そうもしも。

 

 家庭科室に纏わる怪異譚があるのならば主役はソレだろうと想像に難くない。文化祭の主人公をリア充が務めるように、間違いなく、当たり前のように抜擢されて噺されるのは『包丁』ではないだろうか。女性の家庭的な姿が好まれる昨今、男性の想像する大和撫子に包丁を具材から人へと向かせるだけでハートフルなストーリーからサスペンスへと早変わり。

 

『八幡くん、現実逃避はそろそろやめたら。どうしようも無いんだし』

 

 九音の諦めを促す言葉と質感もない癖に慰めるように肩を叩く仕草。そして目に飛び込んでくるのは奉仕部ではなく、家庭科教室の天井。

 

 飲み物を購入して、雪ノ下に彼女の飲み物分だけを差し引いたお釣りを手渡し、そこで少しばかりの口論をしては、そこから由比ヶ浜の依頼についてであったり、由比ヶ浜の見た目とクッキー作りに関する噺であったり、それから家庭科室へやってきて、その顛末が目の前のコレだ。

 

 どうやら俺は家庭科室というものを甘く見ていたらしい。勝手に調理実習室であるからこの怪談話の主役は包丁でしょ? なんて先入観が俺を殺すのだ。大体いつもそうである。早とちり、勘違い、思い込みでいつも失敗し、死に目に遭う。

 

 そして今回、舞台の主役に踊り出たのはクッキー。堂々とリア充を押しのけて主役に立候補するかのように。それは想像していなかった。

 

 いや、そもそも俺の目に一瞬だけ見えたのは果たしてクッキーだったのだろうか? いやいや、俺の見間違いかもしれない。大体、クッキー作るって言っててあんなもの出てくるわけないだろ。

 

 自分の中にある勇気を振り絞り下を見やるとやはり、ソコにあった。

 

 黒、黒、黒。

 

 その真っ黒な存在は姿形は違うのに先日の出来事を彷彿させる不気味さを醸し出している。

 

 一つ手にとると、ポロポロと。ポロポロポロと、欠片が宙を舞う。黒いチョークの塊を俺は恐る恐ると口へと運び、噛むよりも早く舌先が脳へ危険信号を。

 

 噛んではならないという不文律が一瞬にして定まり、そのルールを出来うることなら守りたいのに、噛まずにこのまま吐き出したいのに噛まなければならないという事態。

 

 そして、咀嚼してはついぞ、俺は口の中の物体の正体を言い当てる。

 

「……も、木炭」

 

 木炭なんか食べたことないにも関わらず、この味は間違いなく木炭であろうと結論づいた。完全に炭。咀嚼して、飲み込めないわけではないというギリギリ食べられるという部分がひどく現実的で、それでいながら走馬灯を見てしまう。

 

 どうして、こんな目に……。俺は振り返る、数十分前を。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

「比企谷くん、お釣りが多いわ。あなた計算も出来ないの? あとお釣りは要らないって言った気がするのだけれど」

 

 手渡した硬貨の枚数は五枚。うち四枚が同じ価値を持っている。本来ならば由比ヶ浜の分は折半するつもりではあったのだが無意識のうちに俺は持っている五十円硬貨を二枚使ったせいで折半することは叶わない。

 

「理由なく施しを受けるつもりはねーよ。さっきも言っただろ。それに由比ヶ浜の分くらいなら小銭が余ってたし、なんつーか、奢ってもらうのには抵抗があるんだよ」

 

 慣れない台詞に慣れない言葉。女性に金を出させないなど昨今のジェンダーレス思想からしてみれば周回遅れの古臭い慣習で、女に優しく、紳士的に振る舞うなど柄ではない。

 

 しかしながらこの一年間は口やかましい女幽霊が居たせいで多少なりとも彼是は考えるようにはなった。あくまで考えるだけで実行できているのかは別。

 

 由比ヶ浜にカフェオレを手渡して席へと戻る。

 

「あ、あの、あたしの分なら自分で払うよ!」

 

 由比ヶ浜の言葉に手の甲で払う仕草で不要の意を示す。

 

「そ、そんなわけには……」

 

 俺は雪ノ下の方向を向くことで受け取らない姿勢を作った。そもそもこんな事でお金を受け取れば押し売りと一緒だ。由比ヶ浜が望んだわけでもないのに勝手に買ってきてお金でも受け取ればそっちのほうが気に揉むわ。

 

 背後で小さく、むぅという唸り声が聞こえた後に、耳に届くような声で。

 

「……ありがと、えへへ」

 

「ふぅん、由比ヶ浜さんには男の甲斐性を見せて、私には見せてくれないのかしら。別にいいのだけれど」

 

 雪ノ下の機嫌が下降している。恐らく、金銭云々の問題では無いのだろう。高級マンションとも呼べる場所に一人暮らししている少女であるのだから。

 

 勿論、高級マンションと金銭への無頓着な部分に直接的な因果関係はない。けれども先程、あっさりと渡してきた紙幣のことを考えてみれば、自ずと結論へ導ける。

 

 普段から購買のパン一つでやりくりしている俺からしてみればセレブにしか見えなかった。もしも俺が専業主夫を夢見ていれば雪ノ下に対してほいほい付いていったかもしれない。

 

 だが今の俺は駐車場経営による不労所得を目指す立派な男なのだ。あまりの自立心に惚れ惚れしてしまう。

 

『いやぁ、わかる……わかるっ! 自分の目の前で違う女に餌を与えている姿って見ていてムカつくもんね。言うならば皆で遊びに来ているにも関わらずアプローチしている彼が自分じゃない女の子にアレコレと世話焼いているのを見るようなもんだよね』

 

 皆で遊んだことのない俺にとっては縁遠い言葉であった。ついでに言えば皆と遊ぶこともないので今後とも縁遠い話でもある。

 

『わかるわかる、超わかるわー、むしろわかりみしかない。いつも八幡くんは私に対してそんな感じで扱うから凄くわかっちゃう。少しだけ雌犬に共感しちゃったよ』

 

 手を組んでうんうんと縦に何度も頷く九音。人聞きの悪いことをぬかすなよ。

 

 これは俺と雪ノ下のお互いのためになる距離感。こうやって将来的に冷めるであろう熱、醒めるであろう何かに対して気を使っていうるのだ。予防線のようなもん。

 

 そのうちに幻滅されるのは既に規定路線。レーンの切り替えも無い一直線の道筋。彼女が抱えることになるであろう俺を好きだったという黒歴史。その黒歴史の中でわざわざ行った出来事、思い出を減らすことでダメージを少なくするという優しさなのだ。ついでに言えば自己保身。

 

 今現在、様子のおかしい雪ノ下に対して適切なアプローチと取れるのではないだろうか。少なくとも俺はそう思う。

 

「あー、なんだ、話は終わったのか?」

 

 俺の言葉に雪ノ下は小さく「ふぅん?」と呟く。本日二度目の感嘆詞は先程よりも温度が下がり、ひんやりなんて生ぬるい冷たさではなく凍傷するレベル。

 

 そんな視線のまま――

 

「えぇ、下心丸出しにして調子に乗る男子が居なかったおかげでスムーズにことを運ぶことができたわ。どうもありがとう」

 

 感謝の言葉が強調することで「私、不機嫌だわ」と自己主張していた。

 

「……そうか、で、何をするんだ?」

 

 彼女の機嫌を慮って、気持ちを推し量って、ここいらで優しい言葉の一つや二つ投げかけるのは俺の役割なんかじゃない。雪ノ下の好意は決して本心ではないのだろう。

 

 勿論、勝手な思い込み、穿った見方なのかもしれない。けれども俺は怪異に巻き込まれて起きた感情を、その動きを――本心だと数えない。あれは一時の夢で、醒めるべき悪夢で、冷めるべき熱なのだ。いずれは消えていく彼是をまるで持っているかのように振る舞えない。

 

「ほんと、つれない」

 

 拗ねたような言葉に罪悪感が湧きそうになる。俺の中の正当性をもって浮き上がる感情を打ち消す。怪異が日常を巻き込んではならない。怪現象と現実をすり合わせてはならない。こんな非日常を日常の一部なんて、思い出になんてするべきじゃない。

 

 御話は夢のようにさっさと忘れて、現実に戻るべき。怪異がまた新たな怪異を呼び寄せる前に。

 

 そんなことつらつらと言い訳のように考えていれば雪ノ下が今からの行動を示す。

 

「家庭科室に行くわ。貴方も一緒にね」

 

「家庭科室に? あぁ、なるほど」

 

 飲み物を買ってくる前に由比ヶ浜が呟いた単語、クッキーという言葉と家庭科室を結びつければ答えは簡単に出た。

 

「察しがいいのね、比企谷くん。ちなみに何をするか予想は付いているの?」

 

「俺が出る直前に由比ヶ浜が言ってたクッキーってのを作るんじゃないのか? わざわざ家庭科室に行くんだし」

 

「耳聡いわね。そういう癖は普通の相手なら嫌悪に値するわ。黙るべき時は雄弁よりも価値があるとはよく言ったものね」

 

 こんなの罠でしょ。いや、まぁ、雪ノ下の諫言に対しては一以上の理はある。由比ヶ浜のクッキーの一言と家庭科室を結びつけてそこから行動を予測する。確かにあんまり気味のいいものではない。

 

 いつだって勘の良いガキは嫌われる。可愛げがない上に年齢相応ではなく、薄気味悪くすらあるのだから。

 

「あ、で、でも、あたしは頭いいんだなーって思うな!」

 

 由比ヶ浜からフォローが入り、それに雪ノ下は小さく嗤って。

 

「ふふっ、まさに沈黙は金、雄弁は銀よね」

 

「そー! そう! あたしもそれだと思う!」

 

 由比ヶ浜のよくわかってない雄弁なフォローは雪ノ下の皮肉を手助けしていた。やっぱ沈黙が一等賞だわ、ハンタでもクラピカが言ってたし。沈黙することは誰も傷つけない、つまり俺は教室に居る間、誰も傷つけない聖人のような存在というわけだ。

 

 そんなどうでもいいことを考えながら黙って続きを待つ。雉も鳴かずば打たれまい。

 

「まぁ、貴方も大方は察していた通り依頼内容は彼女のクッキー作りを手伝うことよ。何でも渡したい相手が居るそうで……そうなのよね?」

 

「う、うん……」

 

 由比ヶ浜は俯きながらも確りと頷いた。しかしながら疑問が一つ湧いた。

 

「お前、友達多そうだけど何でそっちに頼まないんだ」

 

 俺の疑問に即座に返答したのは宙でソファーに横になるかのように浮いていた九音だった。

 

『むしろ友達多いから駄目なんじゃない? 友達や彼氏って何でも相談出来るゴミ箱じゃないからねぇ』

 

 なんで友達居ないこいつに諭されてんだ俺。その九音の意見が正しいのかはわからない。なにせ友達居ねぇからな。

 

「いやー、優美子と姫菜にも聞いたんだけど、そういうの流行んないっていうし。だから作ろうと思っても言えないし……」

 

『うーわ、めんどくさぁ……自分のやりたいこと一つにも顔色伺わなきゃいけないわけ? いや、でも友達ってそんなもんか。何でも相談してとか言いながらも裏では面倒ごとは勘弁って。やっぱ友達って良いものだよね。見てて微笑ましいよ。友達が多いから友達のめんどくささに忖度して、皆仲良し、世界も平和、面倒事もなくて、皆頭がハッピッピーなんていいよねー。笑顔で「何でも相談してよ」とか抜かしておいて本心は「きちんと空気読んでね」なんて。どうやら、この女は空気を読んで、おともだちに問題ごとを持ってこずに此処に問題ごと持ってきたんだね、賢いーっ! いや、賢い賢い。だって見知らぬ他人なら面倒ごとに巻き込んでも良心は痛まないもんねっ!』

 

 良い笑顔で全力で由比ヶ浜を貶す九音。元々から口が悪い奴ではあるがどこか機嫌が悪そう。

 

 見た目こそ何も考えていない女子高生。しかし足山九音曰く、きちんと空気を読んで考えている女の子。きっと俺なんかよりも毎日頭を使って、人間関係に苦悩しながら生きているのだろう。

 

「……確かにそうね。貴女のような派手な外見の女の子がやりそうなことではないわね」

 

 雪ノ下の発言に由比ヶ浜はバツが悪そうに笑って誤魔化す。特段と咎めているつもりはないのだろう、それでも空気を読んで今にでも謝りそうな由比ヶ浜の表情は彼女なりの処世術で。

 

『こういう時さ、人間関係って面倒って傍から見てて思うよ。勿論、そこの雌犬じゃなくて由比ヶ浜さんの方ね。めんどくさいよね、柄にも無いことをするのは悪いことだって、柄じゃないことをすれば気味悪がられるって、仲間外れは悪いことだって。この部屋に居る誰よりも正しくわかってて、どこまでも正直』

 

 背中から離れて対面の由比ヶ浜の方向へ九音は飛んで近づく。

 

『ずっと多数派だったんだろうね。人間関係つくりの上手な人種ってやつ。そんな多数派はいつだって少数派を排除排斥する。少数派は悪いことだって、育っていく環境で学び知ったんだろうね。そういう意味では学ばない八幡くんやわかっていながらルールをどうにかしようなんて無茶を言う雌犬よりもよっぽど賢いよね』

 

 そして、多数派である少女は己が少数意見を翻すように小さく自重するかのように呟いた。

 

「だ、だよね、変だよね……ごめん、やっぱりいいや」

 

 柄でもないことをするのは変なことで、変なことをするやつは気味が悪く、気味が悪いやつは多数派から排除をせざるを得ない。大多数の人間が気味の悪さ、気持ち悪さを許容できないように。

 

 けれども少数派からしてみれば少数派で居ることを悪いだなんて思ったことはない。少数派が勝手に恥ずかしいだとか悪いことだとか多数派の勝手な自意識過剰。

 

「別に柄でもないとか似合わないとかキャラじゃないとか、俺たちに言われても困るわ。だって純粋にお前に興味ないし」

 

「はぁ!? めちゃくちゃ失礼なんですけどっ! 腹立ってきたし! こう見えてもあたしはやれば出来る子なんだからねっ!」

 

 それは自称ではなく他称で初めて純粋に評価として成り立つものだ。俺はそれを教えてやるべく口を開く。

 

「そういうのは両親が言う台詞だ。学校の話をときたま聞いてくる両親が「お前はやれば出来る人間だと思ってたんだがな……」とか、そんな感じだ」

 

「あんたの両親諦めちゃってるじゃん!」

 

「……何をすればそんなことを言われるのかしら」

 

 むしろ何もしてないんですが。健全な高校生活というものを営んでいない俺が日曜日のふとした拍子に言われた言葉。九音と全力で喧嘩していた時に一人でエア友達と遊んでいると勘違いした両親から受けた一言である。その日から少しだけ父親が優しくなったのがなお更傷ついたという出来事。そもそもが家庭内トラウマを量産してきた俺にとってはいつものこと。

 

「まぁ、カレーくらいなら作れるし、手伝えることがあったら手伝う」

 

 由比ヶ浜はどうやら作る方向で話が進んでいることに気がついたようで安心したかのように、胸の前に手を当ててほっと息を吐いた。

 

「あ、あんがと……」

 

 由比ヶ浜の小さなお礼が聞こえたが、わざわざ小声に反応するのも無粋だろう。俺は無視していると雪ノ下が此方を見ていた。

 

「比企谷くん、勝手にやる気出すのは貴女の自由だけれども、貴方は座って味見するだけよ? もともと料理の腕を男子に期待なんてしていないわ」

 

 実に一言多い女だった。こいつ、俺のことほんとに好きなの? とか思っちゃう。

 

 小さく溜息を吐いて、椅子から立ち上がる。部室から出て行く由比ヶ浜と雪ノ下の背を追う。鞄を片手に無人の部室を見渡せばいつの間にか丸くなり寝転がっている犬の姿。

 

『八幡くん、気にしても仕方ないんじゃない? 見送った犬が出戻りするなんて聞いたこともないよ。不安でもわざわざ此方から殴りかかるなんてことのほうがよっぽど危険だと思うけどね』

 

 確かにその通り。幾ら何でも怪異がいるから此方から仕掛けるなど愚の骨頂。愚かの極み。人間という弱者が妖怪や怪異という強者に挑むことなど自殺行為でしかない。

 

 それでも目の前で拳銃を突きつけられておきながら平静で居られるほど修羅場に慣れてもいない。そんな度胸を持ち合わせていない。

 

 どうにも出来ないとわかっていながらも、どうにかしようと考えている俺は本当にどこまでも本当に無意味で諦めが悪い愚か者だった。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

 家庭科室に辿り着くと、雪ノ下がテキパキと動き出す。必要な道具を揃える手際は見事なもので何が必要なのかを理解した上で動く彼女の動きには一切の淀みがない。

 

 元々、綺麗な見た目のクッキーから雪ノ下の調理技術の高さを予想はしていたが、予想を遥かに超えた腕前を持っていそう。

 

 調理器具、材料を用意し終えた雪ノ下は慣れた手付きでエプロンをつける。対象的に渡されたエプロンに四苦八苦しているのは由比ヶ浜。結び目も酷いもので、二人のそれを霊能力で例えるのなら雪ノ下はしっかりと呪い返しが成功するレベルに対して、由比ヶ浜は呪い返しが失敗してさらに呪われちゃうレベル。

 

 俄然として不安になってきた。

 

「由比ヶ浜さん、あなたエプロンもまともに着れないの? 結び目もぐちゃぐちゃだし、曲がってるわよ」

 

「え、エプロンくらい大丈夫だよ!」

 

「そう、ならちゃんと着けなさい」

 

 由比ヶ浜を指摘し終えた雪ノ下はテクテクと此方に近付いてきた。広い調理実習室の隅っこにいた俺の前に立つ。特段と何かしていたわけでもない為に少し身構えて彼女の出方を伺う。

 

「どうかしら?」

 

 腰に手をあててモデルもかくやといった感じで問いを投げてきた。そして俺はそんな雪ノ下に確りと答える。

 

「え? 何が?」

 

 スゥーっと目が細くなる。

 

 我が妹曰く――女性が尋ねてきたのならとりあえず褒めろといった法則が世の中にはあるらしい。九音もその言葉には賛同しているらしいが、俺はそんな甘い男ではない。

 

 自分に対してはひたすらに甘やかすが他人には厳しくしている。そもそもが他人が俺に厳しいから俺くらいは俺を甘やかさなければバランスは取れない。そして他人は他人に対して俺よりも甘く接するからあえて俺が厳しく接しなければいけない。この世のバランスを司っているとまで言える俺、学校では評価されない項目ですがね。

 

 そんな俺の厳しいスタンスに雪ノ下の目もどんどん厳しくなっている。結局のところ、この厳しいスタンスが他人を厳しくしているのなら厳しさについてマッチポンプなのかもしれない、と反省しちゃいそうなほど雪ノ下の目が怖い。つまりはとっても怖い。

 

 ついぞ媚びへつらって謝った上で褒め称えるということをしてしまいそうになる俺の心の弱さを憎んでしまう。結局、自分にも厳しいじゃねぇか、と自分に対する甘やかしスタイルを突き崩す雪ノ下の氷の視線に戦慄する。

 

 そして我慢大会は先に雪ノ下が口を開くことで中断した。

 

「エプロン姿」

 

「……黄色だよな、それが――すまん悪かった」

 

 それでも自分を奮起させてはすっとぼけようとしたが、雪ノ下の視線が家庭科室の包丁を管理している棚で止まった瞬間に俺は謝った。

 

「あら、どうかしたの、比企谷くん。あなたが謝るようなこは何も無いと思うけれど。ねぇ? それとも謝るということは何か心当たりがあたのかしら? 教えてくれない?」

 

 包丁棚に視線を投げたままサディスティックな笑みを浮かべる雪ノ下。心底、楽しそうである。

 

 その様子をくすくすと笑う声が聞こえた。俺はその笑い声に聞き覚えが少ない。

 

「……由比ヶ浜さん、まだ着てないの? それとも着られないの? ……はぁ、後ろ向いて」

 

 雪ノ下は由比ヶ浜に近づいていく。

 

「い、いいのかな?」

 

 その遠慮気味な笑顔はまるで機嫌を損ねないように浮かべられたようで。幼い子ども特有の不安さを含んだような声色が彼女の中の躊躇いを表していた。

 

「早く」

 

 雪ノ下の苛立った、有無も言わせぬ言葉は由比ヶ浜には効果抜群。

 

「ご、ごごごごめんなさい!」

 

 素早く後ろを向いて忠実に待機する姿はまるで子犬のよう。

 

 雪ノ下自身、靴を盗まれたり、こかされたりと犬に縁が深い女である。そんな子犬のエプロンを素早い手付きで結び直す。

 

「なんか雪ノ下さん、お姉ちゃんみたい」

 

「そう、こんな不出来な子を妹とは思いたくないけれど。まぁ、もしも貴方が妹ならばこれで二人目ね」

 

「えっ? 雪ノ下さん、妹居るの?」

 

「今は居ないわね」

 

「今は……どゆことだろ?」

 

 由比ヶ浜の頭上に幾つもの疑問符が浮かんでいるよう。

 

『……八幡くん、小町ちゃんのこと雌犬に話したことあったっけ? 少なくとも私の記憶には無いんだけど』

 

 冷や汗が背中を伝う。俺の記憶にも無いが、もしかしたら話したかもしれないし、それに小町のことじゃないかもしれない。クラスや後輩に妹分が居る可能性を捨ててはならない。そうだろう、きっとそうである。そうだよね……?

 

 必死に自分に自己暗示のように言い聞かせて、怖いものなど何も無かったと思い込む。怖い。

 

 そんなことを考えているときちんとエプロンを着た由比ヶ浜が此方を見ていた。

 

「ね、ねぇ、ヒッキーはさ、そのぅ」

 

 パタパタと寄ってきて何かを口でもごもごとしながら言葉を選んでいた。何か用事でもあるのだろうか。

 

「そ、そのさ? 料理をする女の子ってどうかな?」

 

『に、二号ぉぉぉぉぉおおおおおっ!!』

 

 九音の絶叫に驚く。どうしたよ、こいつ、急に……いつの間にかヘアゴムが切れては血走る目で由比ヶ浜を睨んでいた。えっ、何、急に……怖ぁ。

 

「ど、どうかした?」

 

 そんな俺のあらぬ方向を見ていたことに対して疑問に思ったのか。俺は慌てて取り繕いながら答えを考える。料理をする女の子か‥…。

 

「あー、なんでもない。料理をする女の子なら男なら誰でも憧れるんじゃねーの?」

 

「そ、そなんだ……」

 

 誤魔化す為に口にした一般論に納得がいったのかトテトテと材料が揃っている場所に戻っていく。同じく雪ノ下も聞いてらしく、うんと何かに納得するかのように頷いては由比ヶ浜に続いて行く。

 

 そして取り残された唯一人の女子は由比ヶ浜の方向を睨みながらぶつぶつと呟いている。

 

『こ、こいつぁ、ぷんぷん臭うぜぇ、プンプンだよ八幡くん!』

 

 怒ってんのか、臭いだってんのかわかんねぇわ。小さな声で「何がだよ」と尋ねて見れば『わかんないの!?』とご立腹。

 

『あ、あのクソビッチは雌犬二号なのっ!』

 

 ビシィッと勢いよく指を指す。白く綺麗に伸びた先端の延長線上には由比ヶ浜。

 

『二号なのっ、アレっ! 一号二号揃い踏み! あいつとあいつでダブル雌犬なのっ!』

 

 九音のぎゃーすかとした主張に頭を抱える。こいつ恋愛経験の少ない童貞みたいなこと言いやがって。

 

 確かに中学生の俺だったら「あれ、こいつ俺のこと好きなの……?」とか「多分、俺の意見だよな?」とか勘違いしてそのうち告白していただろう。そして振られちゃう。自意識過剰で悶死。その後、恥ずかしさのあまりに化けて出るレベルの黒歴史と化すだろう。

 

 何、こいつ恥ずかしい勘違いしちゃってるわけ? と呆れた視線で九音を見る。

 

『あーっ! 信じてない、その目信じてないよねっ!? 本当のことだもん! 私の勘が囁いてるね! そもそも女子が興味の無い男子に好みを聞くなんてありえねーよ、八幡くん。ましてや横の繋がりもうっすい八幡くんに聞くメリットないじゃん! 一号二号に警戒心持って! 危機感持って! 今すぐ持って!』

 

 誰も居ないテーブルを叩いて音も出さずには危機感を持ってと叫ぶ仕草。そんな俺達の様子など知ったことかとばかりに脳天気な声が聞こえてきた。

 

 はぁ、アホらし。

 

 壁に寄りかかって目をつむる。ぎゃーすか煩い幽霊をBGMに瞑想していれば声は少しずつ小さくなって無音になる。

 

 それは俺が集中したのではなく、九音が声を出すのをやめたからだろう。その証拠に未だに何らかの金属音は聞こえる。

 

 その直後。

 

『あ、あわ、あわわわ、あわわわわわわ』

 

 震えた九音の声が耳に入ってきた。何だよ、と思って目を開けてみれば特段としておかしなところは無い。

 

 九音が青い顔をして指を差している方向を見ても由比ヶ浜が調理している姿しか――よくよく見れば雪ノ下も顔を真っ青にしている。

 

 何が? と思って二人の視線が交わる先である由比ヶ浜。何もおかしく――そこで気づく。

 

 なんだアレ……?

 

 視線の先、由比ヶ浜の手元。そのボールの中に黒い山が出来ていた。なんで……?

 

 そして俺が見ているのに気づいた由比ヶ浜。視線があっては小さく「あっ」とお互いに漏れ、重なる。

 

「だ、大丈夫だし! ちょっと隠し味多くなっちゃったけど、こっから調整すれば問題ないから」

 

 自信満々に言い張る。前言の通りにリカバリーとばかりに塩が入る、こんもりと。白と黒の山、果たしてどちらが隠し味なのか。隠し味にしてはあまりにも自己主張が激しすぎる。白と黒は合わさり、そこに新たな色として溶き卵が追加。

 

 泡立て器を使って混ぜている様は女の子らしい。しかしながら、先ほどの光景を思い出してみれば魔女が鍋を混ぜているかのようだ。

 

 そして俺はその先を見舞いと目を瞑っていれば――暫くして香ばしい臭いが家庭科室に漂う。少し時間が経てば異臭に変わった。

 

 目を開けて様子を見ていればオーブンを開いている。発生源が顔を覗かせれば、爆発するかのように悪臭が部屋中に広がる。

 

 その臭いの元を取り出して綺麗に皿に並べられる。出来上がった代物を見て由比ヶ浜はうんと一言頷いては呟いた。

 

「なんで……?」

 

 由比ヶ浜の愕然とした言葉。それもそうだろう、彼女の視線の先には謎の黒い物体があるのだから。部屋の隅からエプロンをつけた二人の視線の先へ近づく。

 

 うおっ、近くで見れば迫力あるな……! 迫力あるクッキーって何だよ。

 

「理解不能ね、どうやればあれだけのミスを重ねるのかしら……」

 

 雪ノ下の小声は由比ヶ浜の耳には届かなかったのだろう。すれ違い様に聞こえた台詞は思わずといった形で呟かれていた。それほどまでに謎の物体のインパクトは凄い。

 

「……見た目はアレだけど、食べてみないことにはわからないよ!」

 

 由比ヶ浜の前向きな言葉。確かに食べてしまえば前のめりになりそう。

 

「……そう。そう……ね、食べられないものは使っていない筈だから」

 

 雪ノ下は此方に視線を向けて。

 

「それに二人で食べればきっと何があっても大丈夫よ」

 

 悲壮感たっぷりにヒロイズムに酔いながら言った。つまりそれほどまでに危険だと雪ノ下も思っているのだ。圧倒的なまでの臭気が俺たちの不安を掻き立てる。

 

「もはや、これ味見じゃなくて毒見だろ……」

 

「ど、どこが毒よ! ……うーん、やっぱり毒かなぁ?」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は反論してきたが、手に持ってみては自信が失われる。

 

 ――ゴクリ。

 

 誰の喉が鳴ったのか。俺はとうとう現実逃避を始めてしまう――そして、走馬灯は消えて我に返った。

 

 

~~~~~~~

 

 

 走馬灯。

 

 別名、回り灯篭。影絵を中に仕込み、中の影絵が回転をしながら写していく細工の灯篭のことである。たまに小説などで人が臨死体験をする際に走馬灯がよぎると比喩表現をするが、それは脳を死を避けるべく、高速で過去の出来事を思い出して助かろうとする本能のことであるらしい。その振り返る数々の思い出を影絵として表現しているのだ。

 

 由比ヶ浜のクッキーは走馬灯がよぎる程に破壊力があった。勿論、死ぬわけではないのだろう。怪現象と遭遇して死と巡りあうわけでもない。しかしながら、それでも事実として俺は口に入れた瞬間にこの一時間の色々なことが蘇って助かろうとした。俺が助かりたいと願ったからよぎったのだ。そして俺は――助かりたいと願っても解決方法は見つからなかった。

 

 ガリ、ガリッと。

 

 噛めば噛むほど走馬灯がどんどんと消えていく感覚。なんだ、大丈夫だったじゃねぇか。大丈夫、大丈夫、死にはしない。

 

 ちょっと想像よりも苦くてしょっぱくて涙が出そうで強かっただけである。そもそも無生物であるクッキーに強弱の概念を生み出して時点で由比ヶ浜のクッキーは強敵すぎた。

 

『言え! どうしてこんなになるまでほっといたんだ!』

 

 俺の余りの苦悶な表情を見てか、雪ノ下に詰る九音。勿論、聞こえていない雪ノ下はクッキーを瞑目したまま食べて何とか飲み干す。そして続きを無言のまま口にする。

 

 何故、こうなったのか。

 

 雪ノ下の理念である魚の取り方を考えた場合に由比ヶ浜の腕前を把握するつもりだったのか、それとも驚きのあまり思考が止まったということも。

 

 正直、どちらもありそうだった。もしくは複合的に。腕前を見るつもりで始めさせたら、止めるタイミングを見失ったとか。そしてそんな脅威の作り手は。

 

「うぇぇぇ、苦いよぉ、しょっぱいよぉ、なんでぇー?」

 

 むしろこっちが聞きたい。涙ながらにクッキーを食べる由比ヶ浜に雪ノ下がそっとティーカップを渡す。

 

「舌に触れないように飲み込みなさい。それは劇物のようなものだから」

 

 人の作ったものを劇物扱いする様は流石。確かに劇物という単語はしっくりきてしまうほどの代物。注いで貰った紅茶で由比ヶ浜は何とか口の中の阿鼻叫喚図を救おうと試みる。おいおいおいおい、口の中は地獄絵図かよ。

 

 それでも少しずつ、少しずつ食べてお互いに何とか割り振られたノルマを無事に達成して一心地。

 

 間違ってうっかり地獄に落ちてしまい亡者の群れの中から奇跡的に生還したかのように清清しい気分。由比ヶ浜のクッキーは実に生きていることの大切さを身に染みて教えてくれた。生きることに対して俺に再認識させるなんて予想以上の代物。

 

「さて、どうすれば由比ヶ浜さんが少しでも現状からよくなるかか考えましょう」

 

「その料理の腕を封印すること」

 

『ちゃんとクビをシシ神様に謝らないとね』

 

 完全に呪い扱いであった。創作物で人を祟る存在扱いしていた。けれども俺も封印とか言っているので大差ない。

 

「全否定されちゃった!?」

 

 由比ヶ浜が驚いているが当然だ。むしろそれ以外の何か方法でもあんの?

 

「比企谷くん、それは本当に最後の手段よ」

 

「それで解決するんだっ!?」

 

 驚愕し、落胆する由比ヶ浜。がっくりとした様相の後に自虐的な笑みを浮かべる。

 

「やっぱ、あたしには料理向いてないのかなぁ……なんていうか、才能? そういうのないから」

 

 そんな後ろ向きな言葉を聞いた雪ノ下は短く息を吐く。傍から見れば腹を括ったかのように強い決意が瞳の中に浮かんで見えた。

 

「なるほど、解決方法ができたわ」

 

「どうすんだ?」

 

 尋ねてみれば実に堂々と雪ノ下は――

 

「努力あるのみ」

 

 きっぱりと言い切る。

 

「……それ解決方法なのかよ」

 

 完全に精神的な御話だった。俺が思う限り最も最悪な形のあがき。

 

 もはや頼るものが何もなく、ただひたすらに足を動かすことしかできない。解決策も無いのにただただ彷徨うだけのあがきを努力だといった女幽霊が居た。頑張れと、諦めないでと囁き続けた幽霊が居た。

 

 努力なんて解決方法ではなく、もっと簡単に、もっと準備しておけば良かったにも関わらず、怠惰に身を任せた結果あがいているのに。今からでも遅くないと、死が傍にあって手を伸ばせば届く距離にあるのに、血だらけになっても頑張れといい続けた幽霊が居たのだ。

 

 無策であることを言葉綺麗に誤魔化して、生す術がないことを綺麗な形に言い換えて。生き汚いことをそんな言葉で欺く。

 

 諦める方が早く、受け入れることが最も簡単な手だて。無駄な努力など唯の徒労でしかないのに。

 

『ぷっくく……』

 

 くすくすと笑う幽霊は思わず漏れたという笑い声。

 

『八幡くん、わっかりやすぅー。努力だとか、あがきだとか。嫌よ嫌よも好きなうちみたいに。怖がりながらも諦めず、痛がりながらも足掻いた君が努力なんて解決方法じゃないなんて言っちゃ駄目だよ。君のあがきが、君の努力が――無策であっても未来を切り開いたんじゃないか』

 

 いいや、それでも俺は否定する。努力しか出来ることがないなんて最悪だと。準備さえしておけば、そもそも近づかなければ、最初から関わらなければ。しなくていいものをしているのだから、それは徒労なのだ。努力なんて言い換えは嘘で誤魔化しで。努力なんて賛美は都合のいい詭弁でしかない。

 

「比企谷くん、努力は正しいやり方さえすれば立派な解決方法になりえるわよ」

 

 雪ノ下の意見はそうなのだろう。そして九音の意見も同じで。

 

「由比ヶ浜さん、あなた才能が無いと言ったわよね」

 

「え、う、うん……」

 

「その認識を改めることからしなさい。最低限の努力すらしない人に才能のある人を羨む資格なんて皆無よ。成功しない人間は成功した人間が努力をしていないとでも思っているのかしら? 他人は努力をしているってことを想像できないから成功できないのよ、貴方たちは」

 

 雪ノ下の鋭い言葉。辛辣すぎてド正論。辛味を追求し、極めたその言葉は反論を許さないほど強く放たれる。

 

 由比ヶ浜はそんな雪ノ下の迫力と言葉に喉が詰まったかのように、うっと怯む。

 

 なぁなぁで多数派で居続けるためには強すぎる正論は嫌われる。だからここまで極限に辛味だけを追求した言葉を真正面からぶつけられた経験は多くはないのだろう。もしかしたら初めてですらあるのかもしれない。彼女の顔には恐怖と戸惑いがはっきりと浮かんでいた。

 

 そして、そんな空気を中和するかのように、矛先を収めて貰おうと情けない笑みを浮かべる。媚びるような笑みは怒りを抑えるために用意された彼女なりの処世術。

 

「で、でも。こんなこと、みんなやらないし……最近、流行ってないし。やっぱりこういうのってあたしには合ってないんだよ、きっと」

 

 自分が悪いと、自分が向いてないからと。悪いのは自分だと。尻尾を振る、腹を見せて降伏して白旗を掲げて。子犬のような少女はこれでもかと媚びるように笑って自分が悪いと、出来ない私が悪いからと諦めては怒りの発生源へ曖昧に微笑む。

 

 張り詰めた空気を皆という理由を盾にして身を守り、それでも無理なら自分が悪いからとトドメを加えられぬよう口にして身を守る。

 

『……ずるい子だよねぇ。皆がしないから自分もできなくて当然、向いてないからやっても意味がない。それって理由になるのかな? 怪異に人間が勝てないのは当たり前で、手段がないから諦めて死を待つなんて選択を一切しなかった。私の八幡くんが選んできた選択を否定するようなこいつの甘ったれた弱音をぼっこぼこにしてやりたい、物理的に』

 

 いや、そこは言葉でいってやれよ……。なんで物理に頼るんだよ、原始的過ぎない? 野蛮人じゃん。

 

 切れ味鋭く嫌味を言う九音。それだけでなく物理的に叩きのめそうとか言っているから雪ノ下よりも遥かに性質が悪い。

 

『いい? 八幡くん。ちゃんと話を聴いて相手のためを思って言葉を重ねるなんて愛がなきゃ出来ないんだよ? まぁ、世の中には愛を建前に躾と称して脳みそがチンパンジー以下の分際で教育といって手をあげる輩も多いけど。知ってる? 聖職者とか名乗りながらそんな行動してた奴が日本に居るんだよ? アラサー女教師とか。だからね、愛の持てない相手に言葉の積み重ねなんて無理。拳でわからせるしか無いんだよ。シュッ、シュ!』

 

 シャドーボクシングをし始めた女幽霊。

 

 けれども、俺だけは由比ヶ浜のその諦観を、その納得を肯定してしまう。

 

 怪異から生き延びることが異端で、手段が見つからないから諦めるのは理知的で。俺が愚かだったから選べなかったアレコレを俺は決して否定しない。捨てる時に迷いなんかしないのに、捨てた後にいつも俺は後悔をしてしまう。

 

 あの時、死んでいれば良かったなんては思わない。けれども、あの時死んでいればこんな恐怖を味合わなかったのにと思うことはある。

 

 俺にとって由比ヶ浜が詰られている動機は、協調性は、社会性は二度と手に入らない大事なもののように眩しく見えてしまうのだ。

 

 ――コトリ、と。

 

 小さくカップを置いた音が鳴る。小さな音にも関わらず、視線は吸い寄せられた。その先にいる雪ノ下は冷え冷えとした雰囲気を放っている。聡慧で美しい少女のその姿はまるで一枚絵のよう。

 

「その周囲にあわせようとする態度やめて頂戴。見聞きして酷く不快だわ。自己の欠点である不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて……。あなた恥ずかしくないの?」

 

『ひゅーっ! やるじゃん! 言ったれ、言ったれ! ついでに酷い言葉たくさん使ってそこの二号だけじゃなくて八幡くんもドン引きさせろ!』

 

 九音の言葉にそっと引く。雪ノ下の背後に回り飛ばす野次はまるでおっさん。

 

 雪ノ下の苛烈とも取れる言葉に由比ヶ浜は俯いて黙り込み、俺は九音の汚い人格を見てはこの女の性悪さにドン引きする。

 

 俯いた少女はスカートの裾を握り締めて、その震える指先が彼女の心を表しているようだった。

 

 由比ヶ浜結衣の交友関係は俺や雪ノ下なんかよりかずっと広いのだろう。短い付き合いでありながらも彼女のコミュニケーション能力や特徴を伺い知れば周囲に溶け込む努力をしてきたのは目に見えてわかる。

 

 それこそ俺や雪ノ下――そして九音。こんなボッチ気質のやつらが相手ではなかったのならば上手に合わせて、円満な関係を築けたのかもしれない。

 

 けれども違う、今此処に居るのは空気を読んで協調することを良しとする人間ではない。周囲とうまくやろうと意思を汲み取って尊重してくれる女でもない。雪ノ下雪乃なのだ。

 

 足山九音という幽霊を以って『ヤバい』と言わしめる女である。十分、いや十二分にヤバイ女である九音すらヤバイ女扱い、我が道を貫く人間。

 

 それこそ幽霊のように何に干渉されるわけでもないのに、数多の障害や困難がある現実で突き進む女なのだ。この世ならざる者のように一人で居続けた雪ノ下は由比ヶ浜結衣という少女とどこまでも異なる。

 

 まったくもって異なるタイプの女の子たち。教室ではもしかすれば由比ヶ浜の方が正しかったのかもしれない。集団においては確実に彼女も力があったのだろう。けれども個人と個人になったときにそのパワーバランスは一気に傾く。むしろ一人ですら集団の天秤に乗っては状況をひっくり返しそう。

 

 そんな苛烈で辛辣で醜く正しき言葉を受けた由比ヶ浜が顔をあげる。その瞳は若干潤んでいる。

 

「か……」

 

 一度、言葉を止める由比ヶ浜。そりゃあ、ここまで言われれば「帰る」よな。俺ならもっと早くに心折れているレベル。むしろよく持った方、ことここに至って涙を零さない彼女の心は想像や見た目よりかずっと強いのかもしれない。

 

「かっこいい……」

 

 え? なんだって……。

 

 いやいや、マジで今何て言ったんだこいつ。俺の聞き間違いか、と思い周囲を見れば九音も雪ノ下も驚愕の表情。危うく鈍感ハーレム野朗の台詞を聞き間違いで吐いたと思って心配しちまった。

 

「な、なんていうかっ!」

 

 鼻息をふんす! とばかりに鳴らして雪ノ下に近づいていく。

 

『ひ、ヒィッ……』

 

 雪ノ下の近くでもっと言えとばかりに野次を飛ばしていた九音。意味不明の理解不能な存在とばかりに道への恐怖を覚えて由比ヶ浜から逃げ帰ってきた。

 

「ちょ、ちょっとこの子、何を言っているの? 話を聞いてた? 私、これでも苛烈な言葉を放ってたつもりだったのだけれど」

 

「……苛烈?」

 

 きょとんと疑問符を浮かべる由比ヶ浜に俺は「厳しいって意味だよ」と教える。

 

「う、ううん! そ、そんなこと――あ、いや……うん、確かにヒドって思ったし、ぶっちゃけ軽くひいたけど」

 

 だろうな。俺ももっと酷いサンプルが無かったらひいてた自信あるわ。けれども由比ヶ浜が感じ取ったのはそれだけではないらしい。

 

「でも本音って感じがする。ヒッキーと言い合ってる時もそうだけど、酷いこと言い合ってるばかりだけど……。それでも! それでもちゃんと話してるって感じがして、ちゃんと話してて……私、いつも人に合わせてばかりだったから。こういうの……初めて」

 

 雪ノ下の言葉から由比ヶ浜は逃げなかった。逃げることをやめずに正面から向き合っていた。諦めも足掻きも今の彼女の表情の中には無い。

 

『ふぅん……八幡くん的にはどうなのさ』

 

 由比ヶ浜の姿を見て、俺は徒労だと思うのか――それでも俺は。俺は失ったものに対して得たものが何もない今を決して肯定できない。けれども、足掻こうという由比ヶ浜の結論を否定するつもりもない。

 

『そっか……私は私の好きな人のことを、君にも好きになって貰えたら嬉しい』

 

 別に俺は自分のことが嫌いじゃない。むしろ大好きな自分大好き人間だ。何を見たらこいつはこんなことを思うのか。

 

『……ほんっと、捻くれものの大嘘つき』

 

 首にしゅるりと巻きつく幽霊。嘘なんかじゃないっての。

 

「ごめん、次はちゃんとやる」

 

 由比ヶ浜の強い意志。そのまっすぐな瞳は雪ノ下へ向けられた。対照的に鋭い視線を送っていた雪ノ下は向けられた瞳の強さに怯えたかのようにそっと目を逸らす。

 

 強い言葉をぶつけられたのが由比ヶ浜にとって初めての経験なら、強い言葉を向けられてもなお強い決意を向けられたのは雪ノ下にとっての初体験なのかもしれない。

 

 余りにも鋭すぎる刀は今まで幾人もを切り裂いてきたのだろう。鋭い舌先から放たれる言葉を受け止めてもらえたことは果たしてあったのか。普通なら顔を真っ赤にして怒るというのは想像できる。

 

 そんな雪ノ下は何か返そうと唇を震わせてみれば、言葉を飲み込む。

 

『この前の件から思ったけどアドリブすっごい弱いよね、この子』

 

 想定外の状況に言葉が出ない雪ノ下、沈黙が場を包み込み――俺は口を挟む。

 

「雪ノ下、教えてやれよ。正しいやり方ってやつを。そして由比ヶ浜は確り言うことを聞くこと」

 

 ちょっと偉そうに口に出してみれば雪ノ下が此方を見てきて――そして、ふっと力なく笑った。それはどういう意味の笑みなのか俺にはわからない。

 

「そう、そうね……由比ヶ浜さん、今から一度お手本を見せるからその通りにやってみて」

 

「はーい! あと、ヒッキー偉そうに言わないでよね。私だってちゃんとやれば出来るんだから」

 

 その台詞をさっきも聞いて、あんな目にあったんだが。

 

 喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、肩を竦めて使っていない調理テーブルへ寄りかかる。

 

 そして雪ノ下は腕を捲くり材料へと向かった。

 

『うっは……早っ……』

 

 九音の言も仕方なし。その手際はつい感嘆の言葉が漏れるほどに鮮やかだった。由比ヶ浜のたどたどしい手つきとは大違い。まるでお菓子作りのお手本動画のよう。あっという間に作られた生地を型抜きでハート型に整形すればオーブンの中へすぐさま届けられる。

 

 暫くすると漂ってきたのは甘いバターの匂い。過程を見ただけで仕上がりも想像できるように、この時点で味も美味しいとわかってしまう。

 

 そしてじっと無言のまま焼き時間は流れて、オーブンが開かれた瞬間に爆発的にいい匂いが広がる。そしてさっさと取り皿に並べられたクッキー。

 

「どうぞ、召し上がれ」

 

 雪ノ下の許可を得て、俺は未だに熱を持つクッキーに手を伸ばす。少し熱いが火傷しないように端っこを摘み、口に放り込む。

 

 ――うまっ!?

 

 ジュッと舌先が火傷しそうな熱は口の中で段々と冷まされる。そして口の中に広がるのは芳醇なバター。溶けるように消えていく食感は見事なもので最早、店売りと言われても驚かないほど。

 

「いや……美味いわ、お前、何者だよ」

 

 正直な感想が漏れた。そしてついついと次のクッキーに手が伸びてしまう。

 

 そうそう、クッキーってこれだよ、これ。やっぱさっきのアレはクッキーじゃなかったな。最早、クッキーの偽者とかクッキーの残骸とかクッキーになれなかった怨念の塊とか呪いの品とかそこらへん。比べることすら失礼な代物だったわ。

 

「あ、ほんとだ! おいしーっ!」 

 

「ありがとう」

 

 俺と由比ヶ浜の感想を受けて短く一言御礼を告げる雪ノ下。そして視線はそのまま俺へ。

 

 俺はクッキーを食べながらなんで見られてるんだろう、と疑問を浮かべてしまう。

 

「ねぇ、比企谷くん」

 

「……ん?」

 

「あなた、この前のクッキー食べたの?」

 

 何故、バレた……九音の方向を見ればあちゃーとばかりに手を額に当てている。背中からじんわりと冷や汗が出れば。雪ノ下や由比ヶ浜から見えないが膝もがくがくと震えていた。机の向こう側の二人には何とか見えない程度ではあるが動揺が現れてしまう。今、このタイミングで、どうしてバレた……

 

『八幡くん』

 

 耳元での囁き。答えを知っているとばかりの女幽霊。

 

『八幡くん、そのクッキーは完全じゃないんだよ? だってクッキーは置くんだから。美味しくするために』

 

 置く。

 

 置くという言葉は色々なものに適用される。物体であることもあれば人間であることもある。そしてこの場合は――時間である。

 

 カレーは一日置いた方がいいという都市伝説がある。

 

 この議論には賛否両論が存在し、科学が進んだ今ではそれを裏付ける話もあれば否定する話も存在する。実際にはスパイスの関係上、出来たてが一番美味しいという話が濃厚なような気もするが、それでも置いた方が美味しいという説にも根拠があるのだ。カレーは時間を置くことによりジャガイモが溶け舌触りが日本人の好みになるという話、具材の旨味がソースに溶け出すといった説。つまりは人それぞれではあるものの確かにカレーは置くことで美味しくなるという説はありえるのだ。

 

 物と好みによっては時間を置いた方が美味しく感じるものは存在する。そしてクッキーは。

 

『八幡くん、クッキーは置いた方が美味しいんだよ。ましてや普通のクッキーなんだから、冷ますのが普通。今回みたいに生地を冷ます工程を省いたり、仕上げに冷ます工程を省いたのなら完璧に程遠いクッキーなんだよ。それをあたかも初めて食べたかのように言っちゃったら――そりゃあ間抜けで愚かで致命的ミスなんだよね……』

 

 九音のお菓子作り講座を聞き終えて、なるほどと納得してしまった。

 

「ねぇ、比企谷くん。美味しいって言ってくれて嬉しいのだけれど、前と比べてどうだったの?」

 

 ニッコリと微笑む雪ノ下。答えを間違ったら恐ろしい結末になりそうだ……俺はクッキーを冷ます理由を。

 

『食感だよ、食感。君の想像するバタークッキーの歯ごたえってどんな感じ?』

 

 本当に助かるアシストだった。

 

「あー、前のさくさくしてたし見た目もよかったが、今回のしっとりしたタイプのクッキーも美味いわ……それに、由比ヶ浜のクッキーを食べたせいか一際、美味く感じるわ……」

 

 九音の言葉から推測した以前の代物と今回の代物の違いを、そして今回の状況と前回の状況を比べて口に出す。なおかつ俺は嘘をついていない。さくさくしていたのは本当だろうし、見た目も前回の方が確かによかった。

 

「……まぁ、あの出来栄えと比べて貰ったらね」

 

 雪ノ下は先程のクッキーを思い出しているのか眉をひそめていた。

 

「二人とも酷いっ!?」

 

「あぁ、まったくだ……」

 

 雪ノ下は由比ヶ浜に対して酷いことを言うし、由比ヶ浜はクッキーの腕前が酷かった。人数的に何もおかしなところなどない。間違いはありません。

 

『いや、一番酷いのは君だよ……。まるで詐欺師のような口ぶりじゃん。嘘を吐いてないところが尚更、性質が悪い。まぁ、ぶっちゃけた話、酷くされているのは私以外の女だから全然いいけどねー』

 

 九音の呆れた視線と、由比ヶ浜の責めるような視線、そして雪ノ下のなんで他人事のような顔をしているのかとばかりに詰る視線。

 

 ここまで注目を集めたのは高校で初めて――じゃねぇな、別に。まだこの女幽霊と共に授業を受けることに慣れて無かった時期に教室で思いっきり反論した時のほうが注目されていた。注目された後にそっと一年の時の数学教師に保健室を勧められた痛ましい記憶。

 

「由比ヶ浜さん、別にこれは特別な作り方をしたわけじゃないの。むしろ幾つかの下準備や仕上げを省いている分、完璧とは程遠い代物なのよ」

 

「これで!?」

 

「ええ。けれども、貴女にも出来る範囲よ。きっと同じように作れるわ。むしろ作れないのならどうかしているわよ」

 

 雪ノ下にとってこのクオリティは満足のいくものではないらしい。しかしながら教授させるという意味合いにおいては適していると判断したようだ。

 

「あ、あたしにも出来るかな? あたしにも雪ノ下さんみたいに美味しいクッキー作れるかな」

 

「えぇ。教えるとおりに、レシピ通りにさえやればね」

 

 きちんと釘をさす雪ノ下。そして由比ヶ浜は「よーし、やるぞー」と気炎を吐きながらお菓子作りに取り組む。

 

 そして言の通りに雪ノ下と同じ工程、同じ挙動を試みる。

 

 試みることは大切だ、試しにやって挫折するのもまたいい経験であると大人は言う。果たしてそうなのだろうかと思いながら目をそっと瞑った。

 

「由比ヶ浜さん、きちんと計量して。少しくらいならいいやとか曖昧なズレで入れようとするのはやめて。わかる? メモリがあるでしょ? メモリって何の為に存在しているのか理解しているの?」

 

「由比ヶ浜さん、ようやく混ぜれるように、えぇ、その感じで――待って、めんどくさがらないで。きちんと言った通りに……それ混ざってないの。むしろ中心で回転してるだけで混ざってないから。ゴムベラの想定外の使い方やめて頂戴」

 

「違う、もういいの。もう手を加えるのは……そう、いい子よ、そっと生地から手を離して。いいえ! 隠し味はもういいからっ! いいの! 隠し味は! そう、その手に持ったものを下ろして……そう、いい子よ」

 

「えっ!? なんでまた混ぜてるの! 暇になったから? 暇になったからって何かしなくてもいいの。そう、手を止めてちょうだい。はい、生地を置いて。はぁ……。――って、なんでオーブンをあけているの!? 熱が逃げるから! 閉めて、早くっ! あなたは少し落ち着いてちょうだい! 時には待つというのも――」

 

 雪ノ下が翻弄されていた。

 

 クッキー作りをBGMに瞑目していたらひたすらに雪ノ下が声を出して混乱していた。しかも由比ヶ浜自身は悪気がなさそうなのが怖い。

 

 そして雪ノ下が散々な目に合いながらも完成にこぎつけたクッキー。皿に並べられたクッキーを全員で一口食べて最初に感想を呟いたのは本件の依頼者。

 

「なんか、違うね……」

 

 捨てられた子犬のようにしょんぼりしていた。食べ比べてみれば確かに雪ノ下のクッキーとは出来が段違い。

 

 しかしながら最初の代物に比べれば十分にクッキーと呼べる。やっぱ最初のやつ食べ物じゃなかったわ。

 

 二人は俺の感想とは別に考え込んでいた。

 

「どうすれば上手に伝わるのかしら」

 

 小さな雪ノ下の呟き。けれども明確な解決方法が思い浮かばないのか沈黙が調理実習室を包む。

 

『無理じゃない? 諦めたら?』

 

 飽きたとばかりにさっさと終わんないかなーと漏らす九音。

 

 土台無理な話なのだ。雪ノ下の視点と由比ヶ浜の視点は異なるのだから。優秀な少女の見ている光景を出来ない人間は同じように見れない。

 

 いつかは見えるのかもしれないが、それは今じゃない。

 

「なんで上手くいかないのかなぁ」

 

 由比ヶ浜は一度、雪ノ下の光景を味わった。そしてその同じものを目指している。雪ノ下も同じような光景を見せたいと考えている。

 

「うーん、やっぱり雪ノ下さんと違う……」

 

 クッキーを口にした由比ヶ浜がついとばかりに漏らす。そして俺も横からクッキーを一つ取って咀嚼。

 

 そして俺は口にする。

 

「なんでお前らは上手いクッキーを作ろうとしてるんだ?」

 

「はぁ?」

 

 明らかに此方を馬鹿にしくさった由比ヶ浜の視線。こいつ、何で自分が童貞なのかわかってないんじゃないの? とばかりの視線にイラッとする。

 

「お前、ビッチのくせに男心全然わかってねーな」

 

「だから、ビッチって言わないでよ! 仕方ないでしょ! お、男の子と付き合ったことないんだしっ! そ、そりゃあ友達には付き合っている子とかいるけど、そういう子に合わせてたらこうなったし」

 

 耳元で『ぺっ』と何か吐き捨てるような音がした。ちょっと、汚いからやめてくんない?

 

『いいかい? こいつは天然で男を落としに来るタイプだよ。このカミングアウトは一見、恥ずかしいことであるみたいに思ってるみたいだけど、実のところは男心をくすぐる精神攻撃。完全にサキュバスだよ、サキュバス! おっぱいおばけ!』

 

 むしろお化けはお前なんだが……。人を淫魔扱いする幽霊の戯言を聞き流していると雪ノ下が口を開く。

 

「由比ヶ浜さんの下半身事情なんて本当にどうでもいいのだけれど。比企谷くん、一体貴方は何を言いたいの?」

 

『か、下半身事情ってこの女……ほんと、凄い発言するよね。女子力どころか女としてどうなのって思っちゃう。こいつほんとに女の自覚あるわけ?』

 

 九音の言い分もわからなくない。けれども、現在は関係の無い話なのでスルーして俺は由比ヶ浜の方向へ向き直る。

 

 そして――ニヤァっと笑みを浮かべて鼻を鳴らしては肩をすくめる。

 

「はぁー、おたくらはどうやら本当のクッキーを食べたことが無いようでして。外でテキトーに時間つぶしてきてくださいよ。十分後に俺が本当のクッキーというものを食べさせてあげますから」

 

 アメリカナイズにやれやれと首を振れば、どうやら目論見通りに二人をカチンとさせることには成功したようだ。

 

「なんっ、ですって! 雪ノ下さん、いこっ! 上等じゃない、楽しみにしてやるからっ!」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下の手を引いて教室から出ていく。雪ノ下も教室を出るまでは底冷えした視線を此方に向けていた。あんまりにも冷たい視線に内心ぶるってたわ……。

 

『相変わらずクソムカつく煽りだね。関係のない私まで腹パンしちゃったよ。腹パンできないからそこらへんの器具使って殴っていい?』

 

「なんで急に暴力キャラになってんだよ」

 

『だってぇ、ここいらで私のキャラ属性追加しておかないと……まさか、あんなダークホースが居たなんて』

 

 思い込みの激しい呟きに俺は溜息混じりに言い返す。

 

「まるで由比ヶ浜が俺に気があるなんて物言いやめろよ……勘違いして告白して振られちゃったらどうしてくれんだよ」

 

 俺の言葉に九音は満面の笑みを浮かべて。

 

『そんなことをしようと考えた瞬間に君をボコボコに叩きのめす。告白のことなんて忘れるくらいに愛してあげる。そして私の物理的な愛に君が根負けして愛を叫んだ後に前言撤回させて九音ちゃん様の好きなところを百個くらい言わせてあげる。君が鳴くまで私はポルターガイストで攻撃するのをやめない』

 

 ……俺に彼女が出来るのはまだまだ先の話になりそうだった。

 

 

 

 

 




※3/11までに仲春を終わらせる予定です(残り二話)
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