足山九音が幽霊なのは間違っている。 作:仔羊肉
雪ノ下と由比ヶ浜を煽って十数分。家庭科室に戻ってきた女生徒達の視線は厳しいものであった。
俺は二人の座った席にそっと皿を並べる。そして一目見た瞬間に雪ノ下はクッキーの評価を始める。
「自信満々にわざわざ追い出してまで作ったのがこの手作りクッキーなの? 形も無駄に広がっていて不恰好である上にところどころ焦げも見えるわね」
黒い皿に並べられたお菓子は酷評を受ける。そして由比ヶ浜もクッキーを見ては笑い出した。
「あははっ、大口叩いていた割には大したことないんですけどー。マジうける! 食べるまでもないよ!」
馬鹿にしくさった笑いにイラッとくるが、食べてもらわなければ話は進まないのだ。内心を必死に押し殺し、ひくひくと引き攣る頬のまま、何とか食べてもらえるよう言葉を付け加える。
「そんなの食べてみないとわかりませんよ……」
自信のある態度を崩さない。まるで料理漫画のように逆転の一手があるとばかりに。
「ふぅん……隠し味によっぽど自信があるのかしら?」
雪ノ下はクッキーを手にとり裏側と表側を見ては興味深そうに眺め。由比ヶ浜も「そこまで言うなら……」と渋々手を伸ばし始めた。
そして二人は口に入れて――目を見開く。
「こ、これは――」
由比ヶ浜の呟き。まるで信じられないとばかりの驚愕。舌が受けた衝撃、それを何回か咀嚼して怒涛の如く感想を並べる。
「別に美味しくないし! なんかぬるっとしてるし! はっきり言ってそこまで美味しくないっ!」
「えぇ……。比企谷くん、これきちんと火を通したの? まだ生焼けで――もしかして、これって」
どうやら皿の色を変えたくらいでは雪ノ下は誤魔化しきれなかったらしい。由比ヶ浜が皿の中を見て信じられないとばかりに目を外している瞬間に、雪ノ下へ黙るよう合図を送る。偶然にもその仕草は彼女がリップを初めて塗ってきた時の仕草と同じだった。
小さくコクリと頷く返答を見て俺は由比ヶ浜の方向を見て掠れた声で。
「そっ、か……頑張ったんだけどな」
「あ、や、その……ごめん」
由比ヶ浜は言い過ぎたと思ったのかすぐさま謝罪を投げてきた。俺はそっと目を伏せて、由比ヶ浜の皿に手を伸ばす。ショックを受けたとばかりに声を震わせて。
「悪い、捨てるわ……」
表情を決して見られないようにうつむきながら掴む。由比ヶ浜から俺の表情はきっと見えないのだろう、そして俺も同じ。
見えないということは想像するしかない。今、由比ヶ浜がどんな顔をしているのか俺は知らない。
「ちょ、ま、待ってよ」
掴んだ腕の皿の上からひったくるようにクッキーが奪われる。そしてそのまま口へ。
「す、捨てなくてもいいじゃん……その言うほど不味くないんだし」
「……そっか、ごめんな。これで満足してもらえるか?」
後ろめたさを含んだ笑みを浮かべてそう呟いた。
「う、うん……いいよ、これで」
気を使わせて悪いと曖昧に微笑んで、それでも褒めて貰えて嬉しいといった表情をはにかんで。色々な感情を含んだ曖昧な笑みを浮かべる。
お互いに目があって、無言が続く。そして由比ヶ浜もまた無言を貫き、窓からさした夕日が彼女の頬を染める。
頬を赤くした少女がそっと目を逸らした瞬間に――
「まぁ、そのクッキーはお前のなんですけどね」
「……はぁ?」
しれっとネタばらし。由比ヶ浜は俺の発言が意味わからないとばかりに目をパチクリとして驚く。
そもそも俺が十数分間でクッキーなど作れるわけがない。この家庭科室で俺がやっていたのはただひたすらに九音による演技指導を受けていただけだ。惨めさと哀れさをかもし出し、同情を誘うような表情を浮かべる練習をしていただけ。
果たして必要があったのかはわからない。しかし由比ヶ浜の他者を慮る気持ちとかみ合って今の状況に至る。
「は? え? どういうこと?」
目をぱちくりとして雪ノ下と俺を交互に見つめる由比ヶ浜。わかるわー、わかるわかる。人を騙すなんて最低だよな、何て女だ足山九音。さすが悪霊だ、汚い。
「で、比企谷くん。今の茶番に一体どういう意味があったのかしら?」
途中で誰のクッキーなのか感づいたであろう雪ノ下が不機嫌そうに睨んでくる。
「あー、雪ノ下。この世で最も万能かつ、有名な隠し味とは何だと思う?」
俺の問いに対して雪ノ下は小さく「質問に質問で返さないでちょうだい」と言った後に考え込む。そしてすぐに呆れたような瞳でこっちを見ていた。
「料理によって千差万別で、クッキーに合う隠し味がカレーに合うとは限らないのだし、質問自体ナンセンスね」
俺はふっと笑ってから自信満々に言う。
「甘いな、雪ノ下。世の中にはこんな言葉がある――料理の隠し味は愛情! ってな」
俺は笑みを浮かべて自信満々に答えたが女子二人は馬鹿を見る目でこちらを見ていた。
「精神論じゃない……」
「古くさっ!」
頭がいたいとばかりに額を押さえる雪ノ下に時代遅れだと突っ込む由比ヶ浜。
そりゃそうだ。料理は愛情だなんて俺たちが生まれるよりも前の言葉だ。料理番組でその台詞が使われたのは遥か昔。
そして料理は愛情で、料理の隠し味が愛情であるなんて昔から誰もが知っていて、その概念は信仰されてきた。そんな異物混入を人類は有史以来ずっと続けてきている。きっと、それは隠し味なんて概念が生まれるずっと前から。
「お前ら、ハードル上げすぎ」
小さく笑いがこぼれる。俺だけが答えをわかっている優越感に笑みが漏れる。ついつい無駄口の一つや二つ叩きそうだ。
「ふっ、いいか? ハードル競技の目標は如何に最速でゴールするかだ。飛び越えることじゃない。必ずしもハードルは飛び越えるというルールな――」
「あぁ、そういうこと。したり顔が鬱陶しいから、もういいわ、比企谷くん」
ルールなど存在せず、なぎ倒したり、手を使わずにどけたり、通り抜けたりしてもいい。そんな言葉を継ぐことが出来ずにピシャリと止められる。辛味効きすぎでしょ……。
「今までは手段と目的を取り違えていたのね」
釈然としないままだが彼女の言葉がすべてであった。続きを口にしようとする気概と機会は完全に奪われる。
唯一、わかっていない由比ヶ浜には伝わるように崩すことにしよう。
「せっかくの手作りクッキーなんだ。店や高いレベルであればいいってわけじゃねーよ。むしろ見た目は不恰好、味は悪いくらいがちょうどいいんだ」
「味が悪いのがいいの? なんで?」
「そうだ、悪いほうがむしろ一生懸命作った感が出て男は『俺のために頑張ったんだ』って自意識過剰に喜んじゃうんだよ。ほんと悲しいことにな」
そうやって勘違いして告白した後に振られた男子諸君の屍がこの世にどれだけあることやら。未練の塊としてそのうち邂逅しそうで戦々恐々となる。
「えー、そんな単純なわけないでしょ」
由比ヶ浜の懐疑的で否定的な姿勢。仕方ない、ここはわかりやすく例え話を一つしてやろう。
「いいか? これはとある男の話だ。俺の友達の友達の話。そいつが高校一年生の――そう、今頃か。丁度、今の時期にとある湖の近くで痴話喧嘩の末路を見た後の御話だ。別に見たくも無い男女のアレコレを見せられて愛だの恋だのに食傷気味になって家に帰ろうとした時の話」
「……なんだか色々と言いたいことがあるのだけれど」
雪ノ下の意見を無視して話を続ける。
「そもそも痴話喧嘩に巻き込まれたのは三日前。色々と解決に奔走して最後には湖でとある女性と会うように男の方に手紙を届けたのが切っ掛けなんだ。まぁ、これは関係の無い話なんで脇においておくが……まぁ、その痴話喧嘩で紆余曲折あったせいで心身共にボロボロでそいつ……少年は早く家に帰りたかった」
「ねぇ、ヒッキー。それって関係ある話なの? 全然、そんな風に聞こえないんですけど」
疑うかのような失礼な視線に答えることもせずに俺は話を続ける。
「しかし湖は都市部から遠い位置、山奥に近い場所にあった。おかげでタクシー呼ぶにも電波が入り辛い。そもそも少年はその時、携帯を壊していたので連絡のとりようもなかった。山道を通る車の数は少なくて、街頭すら数少なく、遠めにポツリポツリとある程度。歩いて帰ろうとするもののあまりにも光がある場所が遠すぎる。夜もいい時間帯だったのでどこかでバスや電車に乗るってことも出来ない。キツイ道のりだった。しかしながら、歩いている途中に――ゥゥゥゥゥンと背後から車の音がする。勢いよく振り向けば車が此方へ向かってくる。逆光のライトが眩しくてどんな車なのか一瞬わからなかった。認識してから手をあげるまで時間がかかる。タクシーとわかる行灯に気づいたのはすれ違う直前だ。慌てて手をあげる。そもそも夜の山道だ、車のライトだけですぐさまタクシーだと一目で判断できる筈もない。だから慌ててあげた手が運転手に見えたかどうかわからない。見えていたのなら過ぎ去った後に止まってくれるだろう、本来ならそうなる筈だった。けれども、違った。タクシーは手をあげた瞬間に目の前でピタリと止まったんだ。まるで乗るのがわかっていたかのように。予約していたかのように。ぴったりと目の前で止まって後部座席の扉が開く」
雪ノ下と由比ヶ浜の視線がじっとりとした視線に変わっていく。
「……凄い偶然だとか、きっと人が歩いているのに気づいていたから咄嗟に反応できただとか。随分と都合のいいことを考えて助手席の後ろへと座る。どこかしら、心の奥のどこかしらかで変だなと不安になる心は疲れが黙殺する。勿論、乗った瞬間に違和感なんてものは掻き消えたよ。座り心地のよいシート、疲労困憊で歩いていたからまるで天国のように感じてしまう。だからタクシー運転手が当たり前のように尋ねてきた――どちらまで? という声に反応が遅れちまった。少年は少し考えてから家から一番近いコンビニを指定。そして、ゆっくりとタクシーは山道を進み始めた。車が走る音、ロードノイズのリズムと振動が疲れていた身体に酷く染みこむ。このまま眠ってしまいたい。もともと、愛想が悪い少年だ、目的地を告げた後に会話するつもりはないとばかりに目を瞑った。けれども、どうしてだろうな? タクシーの運転手という人種はどうにも会話や雑談、小噺が好きなようで真夜中にも関わらずあれやこれやと話し始める」
「あー、わかる。タクシーの人ってそんなイメージ」
由比ヶ浜が二度頷いていた。どうやら彼女にも似た経験があるようだ。
「少年はイライラしつつも無愛想に「はぁ」やら「まぁ」とかテキトーに相槌を打っていた。そもそも話の内容なんて殆ど聞いちゃいない。目をあけて窓の外を見て霧が濃いなといった別のことを考える始末。寝れないのならせめて普段は見れない夜の風景でも楽しんでおこうと思ってたんだ。けれども窓の外は何も見えない。ついてない、と思った瞬間に一つの事実に気づく。少年の歩いていた山道沿いは上りと下りが多い。だから車が坂を上り続けるのは間違いじゃない。けれどもいつからだ? いつからだったのだろうか、車はずっと斜面を登りつづけている。緩やかなのぼりをゆっくりと、ゆっくりと進んでいるのだ」
「え、ちょ、ちょっと、やめてよヒッキー」
「少年はつい口で尋ねてしまう。これ、目的地あってます? と。しかしながら運転手が答えたのは頓珍漢な関係の無い話。自分の彼女について熱く語っていた。そういえばずっと同じ話題で……いやいや、そんなの聞いてないですから! 目的地あってます! 自分の彼女がどれだけ素晴らしいか。だからどこにと聞いても自分はどれだけ彼女を愛しているのか。とうとう堪忍袋の緒が切れた少年は持っていたリュックから財布を取り出して五千円札を出してここで降りると告げる。けれども運転手は止まる気配がない。下ろしてくれと叫んでも運転手の話は自分のことばかり。そこで少年は自分がヤバい何かに巻き込まれていると気がついた」
少しでも臨場感が出るように当時の記憶を鮮明に思い出しては語る。
「ガチャガチャと、タクシーの扉を開こうとするも鍵が閉まったままで当然開く気配がない。窓をドンドンドン! と叩いても割れる気配は一向に無い。瞬間、ほんの少しだけ霧が晴れる。見えたのは林道。まったく見覚えのない、見知らぬ森の中を車はゆっくり、ゆっくりと進んでいたのだ。たまらなかった、絶対に変なことに巻き込まれている! そう気づいた少年は運がいいことに、本当に幸運なことにオカルト関係、幽霊や怖い話に対して都合よく調べていた。だから除霊をしようと考え始める。素人の浅はかな考え。そもそもタクシーの運転手が幽霊や化け物とは限らないのに、恐怖で混乱していた少年は必死に運転手の話に耳を傾ける」
素人の除霊。ホラー映画なら典型的に死ぬタイプの失敗。勿論のごとく、例のごとく、当たり前のように、俺らしく。その除霊は失敗する。失敗も何も効果がなかった。
「ネットで聞きかじった知識で霊の話を聞く、未練の話に耳を傾けることで何とか供養しようとしたんだ。この方法に果たして何の効果があったのか。けれども運転手は人が変わったかのように機嫌よくベラベラと調子に乗って饒舌になった。自分の彼女が可愛いところ、自分の彼女の素敵なところ、自分の彼女の誕生日に送ったもの、自分の彼女といった場所、自分の彼女との馴れ初め、自分の彼女との記念日の御話。聞いているだけで頭がおかしくなりそうだった。同じような話を延々と似たような言葉で賛美しては誉めそやす。だが、一つだけ、たった一つだけ気づいてしまった。誕生日の話も、行った場所も、なれ初めも、記念日も。明らかにおかしい。明らかに変だ。だってまるでその話は――元カノ。そう数年前の彼女の話しかしていないのだ。すべて二年以上前の話しかしていない。最近の出来事なんて一つとしてなかった。だから――きっと、そこに鍵がある。そんな簡単に考えてしまった。むしろ、明らかに変で触れてはいけないかもしれない部分を。恐怖と混乱の最中で見つかった微かな糸に縋ってしまう。だから、聞いてしまったんだ――最近はどうなんですか? なんて」
「……」
雪ノ下も由比ヶ浜もいつのまにか真剣に聞いてくれていた。どちらのものなのかはわからないが唾を飲んだ音が調理実習室に響く。
「運転手は答えたよ。あっさりと何でもないかのように。最近も仲がいいと。いや、以前よりも仲がいいと。いつだって私たちはラブラブだよと。そんな答えを聞いて少年は落胆と安堵を覚えてしまった。鍵と思った話が関係なかったという落胆と、言った後に聞いちゃ駄目な話だったのかもという後悔を払拭する安堵。二律背反の感情でタクシーの天板を見つめる。しかしながら運転手の話には続きがあった――相席させて貰ってもうしわけないね、と。聞こえた瞬間にぎょっとした様子で俺は隣を見てしまった。勿論、隣には誰もいない。いる筈もない。ずっと乗っていたんだ、それくらいはわかる。じゃあ、前は?」
想像力が豊かなのだろう、由比ヶ浜は小さく悲鳴を挙げた。
「前は? 前は、前には――誰も居ない。誰も座っていなかった。助手席のシートの首を乗せる部分、ヘッドレストからは何も見えない。勿論、小さな視界だ。ヘッドレストの小さな穴から見える光景なんて人が居るかどうか確認するくらいでどんな特徴なのかまではわからない。けれども居るかどうかさえわかれば良かった。あぁ、良かった、誰も居ない。前に誰も居なけりゃ安心だ――すると、ドンドン! ドンドン! と音が鳴る。俺は座っている後ろ――後部座席の後ろから何かが叩く音がする。どこに人がいるのかわかった瞬間に悲鳴が漏れそうになった。後部座席の後ろ、荷物を入れる場所。トランクの中に人が居る。背後から、ドンドン! ドンドン! ドンドン! 何度も何度も音が鳴る。すると、タクシーの運転手が小さく舌打ちをした。そして俺にこう言った。すいませんね、うるさくして。そう言って運転手は再び話し始める。前からは頭がおかしくなるような話、後ろからは助けを呼ぶかのように鳴り続ける音。少年はとうとう我慢できずに泣き言と恨み言を口にした。あんたは彼女を荷台に入れるのかよ! いいから止めてくれ! もう下ろしてくれっ! と。すると運転手は不思議そうな声でこう言ったんだ――何言ってるんですか。彼女ならずっと僕の隣に座ってますよ? って。いやいや、隣って助手席には誰もいない、誰も見えない、座っていない、そう思った瞬間にダッシュボードに転がるように現れた。まるでボールみたいに転がって。タクシーの受け渡しのトレイを押しのけて生首が。目は腐り落ちて、蝿は集っている生首が転がってきたんだ。その瞬間にタクシーの中に悪臭が蔓延する。腐ったような臭いに我慢できずに開かないとわかっていても無意味に何度もガチャガチャと扉を開こうとしてしまう。出してくれ! 帰してくれ! と大声で叫ぶ俺に運転手は優しくこう言ったんだ。お客さんも私たちと同じで仲のよさそうなカップルで微笑ましい、羨ましい。そんな人を見ると私もつい、連れて逝きたくなるんですよ、とそう言いながらゆっくりと、ゆっくりと進む。少しずつ晴れていく霧、見えたのは崖。ゴールはどこかわからない山道で崖にむかって進んでいた。そこへゆっくりと車は進んでいった……この話はここでお終い。つまりは今回のクッキー作りはそういうことなんだよ」
「どういうこと!?」
察しが悪いなと由比ヶ浜に呆れたとばかりに視線を送る。
「つまりだな、そうやってカップルの痴話喧嘩の帰り道に変な出来事にも巻き込まれたにも関わらず、その少年は普通に二ヶ月後には綺麗な女の人を見てはどきどきしたり、キャンプをするリア充どもに対して妬ましいとか思っちゃうんだよ。ついこの間まで恋愛なんて散々だとか思いながら、手のひらを返したかのようにそんなことを思っちゃうんだ」
「あー、生きてたんだ、その子……絶対に死んだと思ったし」
俺も死ぬかと思ったわ。
「……ねぇ、比企谷くん」
雪ノ下は今の話を聞いて疑問点があるのか問いかけるかのように俺の名前を呼ぶ。
「その少年なんだけれど……山道から帰ってくる時に恋愛に関して散々って言っていたのよね」
「あぁ、もう恋なんてしないよと言うくらいにはな」
「なのに男女、というか女の人と一緒に帰ったの……?」
「おいおい、冗談言うなよ。深夜に女連れで歩けるようなリア充っぽいこと出来るわけねーだろ……」
「二重に憑かれてるじゃない……その体験が本当の話なら貴方こそお祓いに行ったほうがいいわよ……」
呆れ返ったような雪ノ下の発言。由比ヶ浜はわかっていなかったらしく頭に幾つもはてなを浮かべていた。
「えっ? これ、ヒッキーの話なの!?」
「ばっか、俺じゃねぇし、俺じゃねぇし……」
ほんと俺の話じゃなかったらどれだけ良かったことか。
解決編として話をするのならば、俺の隣に座って同じように怯えていた、同乗していた女。正確に言えば女幽霊を外に追い出すことによって難を逃れた。今でもねっとりとした声で「あれェー? お客さンもカップルだと思ったんですけど、違ったようですネぇ。こりゃ、失礼しました」といった台詞が耳に残る。それから崖付近をUターンして家へ。トランクからの音は消えたが、未だに残る生首と極力視線を合わさないようにして、臭いをかがないように口呼吸で過ごしたした数十分は今でも覚えている。一生物のトラウマ。ついでに言えばこの一年間でこれ以上怖かったり、死にそうだったりしたことは幾らでもある。
ちなみに数年前千葉東京間で活動していたとあるタクシー運転手がカップルを轢いて、今もなおタクシー運転手もカップルも行方不明という事件があったらしい。
「結局、何が言いたかったの?」
「男ってのは、いや、男に限んねぇけど、人間ってのは危険ってのを都合よく忘れるんだよ。んで危機感が育ってなきゃ能天気にも都合のいいように解釈しちまうんだ。まるで自分が物語の主人公とばかりにな。そんで綺麗な女の人と話して嬉しくなって好きになっちゃう男ってのは山ほどいるんだよ。いや、ほんとに……。そんで話しかけられただけで、こいつ、俺のこと好きなんじゃねーの……とか自意識過剰に勘違いする。ましてや手作りクッキーなんて貰ったあかつきには勘違いして告白するまである。やべぇな、男子」
「……ふぅん」
雪ノ下は俺の言葉に何か思うところがあるのか顎に手をあててじっと考えていた。
「はっきり言って手作りクッキーであれば不味くたっていいんだよ。別に取り立てて美味しいわけでなく、生焼けで小麦粉っぽさが残ってる上に焦げてジャリッとするようなクッキーで」
「――ッ! う、うるさいっ!」
自分のクッキーを馬鹿にされたことを怒ったのか顔を真赤にしてその辺にあるものを投げてくる。きちんと怪我をしないように柔らかいものを選んだりしてるあたり心根が優しいことがわかってしまう。 どこかの女幽霊はそんな配慮なんてしないしな。
そんな心根の優しさ、気遣いをされてしまえば勘違いするやつの一人や二人出てきてもおかしくない。あれ? 俺のこと好きなの? とか思っちゃう。俺が中学生の頃なら好きになってた。危ない。
「ヒッキー、マジでムカつくし! もう帰るッ!」
乱暴に鞄を掴んだ由比ヶ浜がキッとこちらを睨んでくる。ヤバイヤバイ、このままじゃクラスで俺の悪評広がっちゃう。あんまりにも語られすぎた悪意が怪異になる可能性はゼロではないので慌ててフォローに入る。
「まぁ、待て待て。お前が頑張ったって姿勢が伝わるなら、向こうだって悪い気はしねぇよって話だ」
俺の言葉に何か思うことがあるのかじっと此方を見てからゆっくりと。
「ヒッキーも悪い気はしないの……?」
そう問われた。だから肩をすくめて答える。普段から邪険に扱われるどころか居ないもの扱いの俺である。なんか貰えると思ったら舞い上がって喜んで告白しちゃう可能性まであるわ。少なくとも中学生の頃にはそんな失敗を山のようにしてきた。だから、経験則で俺は悪い気はしない。だってこっちが勝手に期待して喜んだだけで相手に何の責も無い。
故に今の俺は。
「あぁ、勿論。俺は気にしないな」
その答えが正しかったのか、間違っているのかわからない。俺の返答に由比ヶ浜は「ふ、ふぅん」と気の無い返事を漏らす。ドアを手にしたままの由比ヶ浜に向けて雪ノ下が問いかける。
「由比ヶ浜さん、依頼の方はどうするの?」
「あー、ありがと! あれはもういいや! 今度は自分のやりかたでやって見るから。ありがとね! 雪ノ下さん!」
ガラリとドアを開いて一歩出る由比ヶ浜、そのまま帰ると思いきや一度、こちらを振り向いて。
「また明日ね、雪ノ下さん。それと、オマケにヒッキーも。じゃ、ばいばい」
女の子特有の手の振り方をしてそのまま帰っていった。エプロンを外すのも忘れて、片付けすらもしないで。
「本当にこれでよかったのかしら」
雪ノ下が閉まった扉を見てついとばかりに小声で呟く。本当に小さな声ではあったのだが生憎、距離が近かったせいかしっかりと耳に届いた。俺が聞いていたと気づくと。
「いいえ、何でもないわ。それにこっちの方が私にとっても都合がいいかもしれないから」
そう言いながらも複雑な表情を浮かべていた。葛藤、二律背反。まるで自分の信念と欲望がせめぎ合っているような。
勿論、気の所為、思い込みである可能性は高い。そもそもが俺と雪ノ下はそこまで仲がいいわけではないしな。
「ねぇ、比企谷くん。今週末にでも一緒に御祓いに行かない? 貴方が以前言っていた話を真面目に考えようと思うの」
未だに包帯が巻かれている首元を撫でながら雪ノ下は呟く。
「いいや、俺はいいよ。別に何の問題もねぇし」
「少なくともさっきの例え話が本当なら一度、行くべきだと思うのだけれど……」
「本気にすんな。友達の友達の話って言ったじゃねぇか……」
「……あなた、その台詞言ってて悲しくならない?」
そういうこと言うのやめてくれる? 居たたまれないじゃん……
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ようやく奉仕部らしい活動をした数日後のことである。初の依頼人に対処し問題解決に乗り出して幾ばくか経った後の御話。
この数日は本当に平和だった。その前日にクッキーで走馬灯を見たことが帳消しになるくらいに平和であったのだ。
相変わらず奉仕部内は怪異の温床だし、雪ノ下は都度都度、距離感が近いし。いつの間にか色違いで揃えられていたティーカップも怖いし。
それでも平穏と言えるのではないだろうか。少なくとも怪異絡みで命の危険があったわけではないのだし。
直近の怪異といえば日に日にそのサイズが小さくなって、今では子犬と呼べるほどの大きさに。送り犬……なんだよな? 未だにくぅーんと此方を見上げては時々、雪ノ下にぶつかっては転ばせようとしている。その度にこっちは雪ノ下を受け止めなければならないというのだから困ってしまう。
一体、何がしたいというのだろうか。
俺は文庫本を片手に持ってはいるが、ページは全く進まない。油断するつもりはない。幾ら日に日に小さくなっている、まるで命が消えていくように、弱くなっていくかのようであっても妖怪は妖怪なのだ。
実際に最初の頃に比べて、ズボンの裾を咥えて引っ張っぱる力は弱くなっている。
一度、本を閉じて頭を悩ませる元凶をじっと見つめる。
『ほんと、なんなんだろうね、この犬……なんか不気味ぃ』
そう居るだけなのだ、この部室に。ただそれだけなのに、それだけが気味が悪い。
眠そうに欠伸をしては陽のあたる場所で丸くなって寝始める。
静かな空間だった。だからだろう、戸を叩く音がやけに大きく室内に響いた。珍しくも今日は来客があるようだった。
「やっはろー!」
脱力を引き起こすような間の抜けた挨拶。扉から飛びこんできたのはそんな頭の悪い挨拶と頭の緩そうな女子高生。
短いスカートに、豊満な胸元。まるで男を誘うかのようにガードが緩々の制服は、繁華街に一人でいれば「幾ら?」とおっさんが尋ねてきそうな着こなし。
「……何か?」
雪ノ下は若干の不機嫌さを含んで由比ヶ浜に対して返事をしていた。そんな返事に想像してなかったとばかりに驚き戸惑う侵入者。
「え……も、もしかしてあまり歓迎されてない感じ? ひょ、ひょっとして雪ノ下さんってあたしのこと嫌い?」
「別に……特別に嫌いというわけではないわ……。ただ邪魔で苦手だと思ってるくらいよ」
「それ女子の間で嫌いと同じだからねっ!?」
むしろ男子でも嫌いと同義である。辛辣な言葉を投げられた由比ヶ浜はあたふたとしていた。流石に面と向かって嫌いといわれるのは嫌なようで雪ノ下の隣へパイプ椅子を自分で用意して近づき抗弁し始める。
「それで何か用でもあるの?」
本題とばかりに雪ノ下は依頼人であろう由比ヶ浜に話を切り出す。由比ヶ浜は気合を入れて鼻息あらくふんすふんすとばかりに雪ノ下に近づいていく。
「ほら、あたしって最近料理に嵌っているじゃん?」
「……私からしてみれば初耳なのだけれど」
「で、こないだの御礼っていうのかな? あたし、雪ノ下さんにクッキー作ってきたんだ!」
由比ヶ浜を除いて殆どが顔を青ざめる。唯一、知らないであろう犬だけがグースカピーと暢気に寝ていた。正直、妖怪よりも由比ヶ浜のクッキーが怖いんだが。怪異と人間のパワーバランス崩れてるじゃねぇか。なんだよ、この女。
「あまり食欲がないから結構よ」
食欲はこの瞬間に消失したのだろう。由比ヶ浜のクッキーと聞けば腹の虫もきっと黙っちゃう。それをわざわざ直接的に食べたくないと言わないのは雪ノ下の優しさだった。
しかしながら、由比ヶ浜がそんな雪ノ下の裏の言葉を察することなく、楽しげにごそごそと鞄を漁り始めた。普段は空気読める奴であろう。けれども雪ノ下は辛辣で直情的に物事を言うという側面を見せたが故に由比ヶ浜は裏を読まない。字義通りに「へー、そなんだー」とテキトーに相槌。
鼻歌混じりで取り出された代物は前回の家庭科室で最後に彼女が作った代物よりも木炭の方が近い。やっぱ、一人で作らせたら駄目だったのか……。可愛らしい包装と不釣合いな中身が恐怖感を掻き立てる。
ギャップというのは萌えだけではなく恐怖にも使えるのかと勉強になってしまった。どうしてホラー映画にお色気シーンが多いのか体感してしまった。おらぁ、胸がドキドキ(胸焼け)してきたぞ……。
「いやー、あのさ。料理ってやってみると楽しいもんだよねー。今度はお弁当を作ってみようかなって思ってるんだ。あ、でさー、ゆきのんってお昼何食べてるの? 学食? 購買? 一緒に食べようよー」
「い、いえ、お昼は静かに食べるのが好きで騒がしいのは少し。それからゆきのんって気味が悪いからやめて」
「うっそ……寂しくない? ねーねー、ゆきのんはどこでお昼食べてるの?」
「部室だけれど、ねぇ、私の話を聞いていたのかしら?」
「あ、それでさぁ! あたしも放課後暇だし部活手伝うよ。いやーなんていうの? 御礼? これも御礼だから全然気にしなくていいから。はい、クッキー!」
「……あ、ありがとう。ねぇ、私の話聞いてる?」
律儀にクッキーを受け取る雪ノ下。やっぱこいつアドリブというか押しに弱ぇわ。
由比ヶ浜のなだれるかのような喋りに戸惑う雪ノ下。俺の方をちらちら見ては何かを伝えたいかのよう。俺は軽く肩をすくめて立ち上がる。
非日常でもなければ、命の危険も無い。こんな世界においてどっちが玄人でどっちが素人なんて区切り方も存在しない。むしろ人間関係においては俺は生まれてこの方ずっと素人。これからも多分ずっと素人。
それに由比ヶ浜結衣はお前の友達なんだし。
まじめな話、あれこれ楽しそうに喋る彼女の目的は俺ではなく雪ノ下なのだ。そして、御礼の品を持ってきたのもおんなじ。部長である彼女が真剣に問題に向き合い、取り組んだこそである。
なればこそ受け取る権利があるのは尽力したであろう少女だ。それと同時に義務でもある。
お邪魔な蟲は俺であり、むしろ助けに従って口を挟めば碌なことにならないのは経験則。伊達に小学校、中学校と人間関係で酷いことになってきたわけじゃない。大体が「あれ? 俺なにかやっちゃいました?」みたいなことを言って実際にやらかしていて総スカンをくらってきた人間なのだ。給食で運んでいたカレーを零しては他のクラスにカレーを貰いにいく行脚を思い出す。おかしくない? 二人で運んでいたのになんで俺一人が先生と一緒に他のクラスを回っているわけ?
そんな思い出を懐かしく思って、そっと鞄に文庫本を戻す。時計を見れば部活が終わるには少し早い時間帯ではあるが――別にいいだろう。空気を読んで比企谷八幡はクールに去るぜ。
後は若い二人でとばかりに小声で「お疲れさん」と呟く、雪ノ下が信じられない! とばかりに此方を見てきていたが気にしない気にしない。
そして部室を出て、歩き始めたときに――。
「あ、ヒッキー!」
背後から声をかけられた。振り向き様に視界に飛び込んできた物を反射的に掴む。
「いちおー、お礼の気持ちっていうか……そのヒッキーも手伝ってくれたし。じゃあ、ばいばい!」
そう言って再び部室の中へ。
手中には黒々としたハート。ハートには諸説あるが一説では心臓であり、心臓の形を模したものであるという。そして、そのハートを黒々と燃やし尽くしているのならむしろ呪術的な意味合いで恨まれてるのかな? って穿ってみちまう。ついでに味も酷いもんであろうか、やっぱり恨まれてるでしょ、これ。とか思っちゃう。
そこはかとなく不吉で不穏なクッキーではあるが御礼というのなら一応貰っておこう。
そのまま片手に黒々とした心臓を持ち歩き、購買でスポーツドリンクを買っては家に帰るまでにこの呪具を処理しておくか、と結論づける。
中庭に寄って人気の少ないベンチに腰掛ける。そしてクッキーの包装を開いてみれば、匂いなんて漂ってくる筈も無いのに一瞬だけ焦げ臭い何かを感じてしまった。よっぽど家庭科室での出来事がトラウマになっているらしい。
『え、食べるの……? 大丈夫?』
いや、食べるよ、そりゃあ……大丈夫かどうかまではわかんねぇけど。
そして、一口。
『うっわ、ほんとに食べちゃったよ……』
宙に浮いている幽霊が、まるで昆虫食を口にしているかのを見る日本人とばかりの視線を送ってくる。そんな失礼な視線に耐えながら、ガリッ、ガリッと食べる。なんか歯ごたえおかしくない? とか思いつつ飲み込んで、鞄からスポーツドリンクを取り出して胃に落とす。
そして――ふと思ってしまう。
由比ヶ浜のやつ、もしかして俺のこと好きなんじゃ?
いやいや、そんなわけ。でも、あれじゃね? クッキーなんて男子に普通、渡すか? そんなの好きじゃなきゃできないでしょ。いや、でも違うかも。というかよくよく考えてみれば由比ヶ浜って滅茶苦茶、可愛くないか? いや、そりゃスクールカーストが上の方だから可愛いに決まってるんだが。驚いたのは由比ヶ浜ってあんな見た目の割には意外とそういうことやってないんだよな。なんか誰とも付き合ったことないとか言ってたし。それってもしかして。いや、だからといって。でも、あんだけ可愛けりゃ人気あるよな。なんとかして仲良くなれないかな。
「……由比ヶ浜と仲良くなれねぇかな」
『あ"?』
ついぞ、と漏れる呟き。口から出た瞬間に顔が火照るかのよう。しまった、暑い……手で仰ぎながら気づく。なんか、今一瞬聞こえたなって。
『はぁーん? もう一度、言ってみろよ、お前』
「は? 何キレてんの……いや、別に不思議なことじゃねぇだろ、今のはつい漏れたっていうか」
『は? は? はぁ? ねぇねぇねぇ、八幡くん。おいおいおいおい八幡くん。私の大好きな八幡くん、私の愛した八幡くん。なんか急に色めきだって脳内お花畑になってる八幡くん。まるでお薬キメたかのように変なこと言い出しはじめた八幡くん。今しがた呟いたことをもう一度呟いてくれない? まさか本音とか言わないだろうね。君の本当の気持ちってのを私に教えてよ』
ブチブチブチ、と切れる。
九音の髪を後ろで縛る紐が切れていく。そして微笑んでいるが、目は笑ってない。
「い、いや、別に変なことじゃねぇだろ。由比ヶ浜って美人で可愛いし、スタイルもいいし……近づきたいとか思うのは男子として結構、普通っていうか、当たり前っていうか」
一文字。
微笑んでいた筈の口元は真一文字になる。怖ぇ……。春も半ばというのに中庭の温度が急激に下がったかのよう。
『へぇ……取り消さないんだ。そうなんだ。そうかい、よくわかったよ。わかった、わかった。取り繕わないんだね。言い訳しないんだね。前言撤回しないんだね。そっか……それならさ、それなら――もう、後は命のやり取りくらいしか残っちゃいないよね?』
ふよふよと目の前で浮かぶ九音の背後、逆光さす光景が変化し始める。
幽霊と同じようにふわふわと。浮かび始める石。様々なサイズの石が、大きいものでは拳大ほどの石が、威力によっては人を殺せそうな石が幾つも浮かんでいた。
眩しさに目を細める。冷や汗が背中を伝う。嫌な汗がどんどんと溢れる。
どうやら俺の言葉は九音の逆鱗に触れたらしい。ついぞと零した言葉を九音は冗談と片付けられず、俺も冗談じゃなかったと抗弁してみれば彼女の堪忍袋の緒を綺麗にチョッキンっと切断してしまったらしい。
そんな女幽霊に向かって、俺はつい独り言を零してしまった。
「器ちっさすぎでしょ……心狭いよな。少しは由比ヶ浜を見習って優しい女の子を目指してみたらどうなんだよ」
しかしながら、俺の言葉はばっちり聞こえていたらしい。逆光に浮かぶ幽霊はその両目から静かに涙を流して――満面の笑みで。
「……ころちゅ」
舌ったらずなところがリアリティありすぎて怖い……。
※次回の更新は金曜日を予定しています