狩人、百竜狩りの夜をウキウキ徘徊す。 作:回転ノコノコ
眠り、そして目覚め(1)
ヤーナムの夜風は、いつだって心地の良い香りを運ぶ。
それはガス灯の燻る煙か。
蔓延する火の粉の風か。
はたまた、徘徊する獣の、血の香りだろうか。
狩人は、あの夕暮れからヤーナムを徘徊し続けた。
──青ざめた血を求めよ。
そんな、意図の掴めない自書の走り書きだけを頼りに。
薄暗い墓地で屍肉を断つ神父。
焼き棄てられた街。射抜くような水銀の雨霰。
大聖堂の奥で、獣へと成り果てた聖女。
迷い込んだ、狩人の悪夢。
何もかもが、走馬灯のように駆け巡る。
夕闇だった街は、輝くような月夜に照らされていた。
秘匿とされていた森を抜けると、その月を存分に浮かべる湖があり。
かと思えば、それは赤く染まった。
いや、おかしい。何故か、月の向こうにも雲がある。
ではあれは、一体何だ?
そんな疑問を抱きながらも、彼は走り続けた。
隠された街の奥で、その月の滲みと相見えて。
迷い込んだのは、異界に取り込まれたかつての学び舎。
その二階へと、迷い込んだはずなのに──
彼は、あるはずのないそれを見つけた。
「……梯子?」
教室棟、二階。
狭い廊下の奥に括り付けられた、粗末な梯子。
上に、伸びている。
さらに上の階層を示す、その梯子。
おかしい。この場所にこんなものは、確か無かった筈だ。
自身の深層の底に刻み込まれた曖昧な記憶が、彼をそう焚き付けるのだが。
しかし彼は、その梯子に自ら手を伸ばした。
一体、何があるのか。当てのない好奇心が示した先は、何の変哲もないただの廊下である。
「教室棟、三階……」
二階から見上げれば、そこは天井だった。
だが、彼が立つ三階は、間違いなく吹き抜けの構造である。二階と間取りを同じくした、教室棟の廊下が奥へ奥へと伸びている。
その、奥に。
「……扉、ですか」
二階にも、一階にも同様の扉があった。
異界に取り込まれたこの空間を、さらなる異界に繋げる扉。
廊下の奥を悠々と埋めるその扉に手を掛けると、霧のような煙が隙間から這い出るのだ。
それはまるで、火薬のような。
火が燃える香り。耳を澄ませば、燃えて割れる音さえ聞こえる。
狩人は、ただその取っ手に両手を掛けるのだ。
この先の奥へ。狩りを全うするために。
「鬼が出るか、蛇が出るか……」
重いその扉を、全体重で押し開ける。
軋むような音と共に、暗い煙が一層舞い上がった。
「楽しみじゃあ、ありませんか」
開き切ったその先に広がる、深い闇。
それはまるで皆既月食のような。暗く紫色を含んだ闇が、奥の奥まで広がっている。
踏み込めば、柔らかい感触が脚に届いた。
なんだ、まるで雲のようだ。狩人は思った。
右手に、ノコギリ鉈を。
左に、獣狩りの散弾銃を。
手に馴染む二つの武器を構えながら、彼は闇を歩く。
歩いた先で、何かに握られる感触が、彼を支配した。
「────ッッ!!??」
醜悪な指の一つ一つが、彼の体を握り締める。
姿は見えない。顔も分からない。
しかし、闇が自らを見定めている感覚だけは、朦朧とする彼の意識に確かに煉り込まれていた。
それが何かが分かる前に、彼は発狂する。
血飛沫を咲かせながら、彼の呼吸はまた止まるのだった。
闇が、彼を包み込む。
異界の入り口が、大口を開けて、彼を飲み込んだ。
○
大社跡の夜は、体の芯から冷えるほどの冷気に包まれていた。
いや、それは気温の問題ではない。
自身がいつ、何に襲われるか分からない恐怖。それが、幼い男女を支配していたのだった。
「せ、セイハクくん……大丈夫、大丈夫だからね……」
「う、ううぅぅ……コミツ……っ」
繁みが揺れる。
それは風か、それとも獣か。
ただの風だと知って、二人は安堵する。
彼女らの出で立ちはあまりにも軽装で、まさに里の子どもたちといったところか。武装もしておらず、これでは「食ってくれ」と言っているようなものだろう。
コミツと呼ばれた少女は、喉を震わせながら少年を胸に抱いていた。彼の頭を撫でて、必死に元気付ける姿。その健気な彼女の心がけも、怯える少年には届かなかった。セイハク少年は、震えながら、その歯の根を打ち合わせるのみ。
「きっと誰かが、私たちがいないのに気付いてくれるから、だから、元気出して……」
「そんな、そんなのいるわけねぇよ! 俺たち、俺たちここで……!」
少年が声を張り上げる。
絶望を孕んだその声に、少女が顔を歪ませると、少年もまた崩れるように彼女の胸に身を寄せるのだが──
背後の繁みが音を立て、二人はその体勢のまま固まってしまう。
鼻息が、忙しなく奏でられる。
響く足音は多い。恐らく、四つ足の獣である。
荒い鼻息は二人が隠れる岩の隙間の歩き、そのまま通り過ぎた。
岩の端から見えたのは、木の幹のようにくすんだ毛並み。頭部はまさに狸といったところで、その正体は二人の知識にも当たるところがあった。
ブンブジナ。小型の草食種だが、引火液という発火性の体液を持つ。
とはいえ、基本的には気性は大人しい。静かに去っていく足音を聞いて、二人は安堵する。
「……ブンブジナだったのか。良かったぁ……」
「うん、きっと、きっと大丈夫。このまま、夜が明けるのを、待とう……?」
「うん……。ごめんな、さっきは」
去った一難に安堵して、改めて希望を抱くのだが。
しかしその足音を、コミツは少し気がかりに感じた。
それはまるで、速足のようだ。
慌ててその場を立ち去るような、そんな足音。
旋毛風が、舞う。
いや、そんな優しいものではない。
それはまるで、鎌鼬だ。
獣の悲鳴が舞い、鮮血が木々を染める。
そのブンブジナが一瞬で両断され、血飛沫の一部が少年少女へと降り掛かった。
頬を染める赤色に。
内臓を溢す遺骸を前に、二人は叫ばずにいられなかった。
闇に浮かぶ三丁の鎌が、月明かりを映す。
その姿は、まるで鳥の姿をした齧歯類。尾に並ぶ鋭い鎌で、血肉を荒らす。
新たな餌の存在に気付いて、一際大きな個体が、吠える。
その声は、この大社跡に深く深く、響いたという────
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