正直なところ、最近の体調は万全とは言えなかった。前からやっていた自主トレに加えて、最近はトレーナーさんからのトレーニングも量が増えていた。トレーナーさんからのトレーニングは私が「血の差」と思って諦めていた部分をよく鍛えてくれるもので、私がだめだ、と言ったところを伸ばそうというトレーニングをしてくれるってことは、たぶん私の走りにメロメロになってくれたってことなんじゃないかな、と思う。実際、スタミナはすごく伸びたと実感している。スピードもスタミナほどじゃないけど伸びたし、ちょっとした重賞なら楽勝できちゃうんじゃないか、とすら思えた。だからこそ、トレーナーさんの預かり知らないところ、つまり私の策を、私は完璧に仕上げておく必要があった。トレーナーさんからのトレーニングと私自身がやるトレーニングで、ちょっと体に過重な負荷が掛かっていたのだと思う。それは私がトレーニングをやめる理由にはならなかった。
私の秘密のトレーニング場はまだトレーナーさんには知られていないはず。私がときどき釣りをする川を少し遡ると、突然鬱蒼とした林に出会える。川辺の足場の悪いところをちょちょっと踏んで草木も気にせず少し進めば、もう周りは完全に森みたいになっているのに、2kmぐらいは開けているだろうってところに出てくることができた。ここが私の秘密のトレーニング場だった。
どこからか来る猫ちゃんたちの集会場にもなっているらしく、今日も私がそこまで行くと、猫ちゃんたちが数匹見えた。ちょっと驚かせることになって申し訳ないけど、たぶんもう慣れっこだろう。猫ちゃんのうちの一匹、今日はこのキジトラの子を少し撫でてから、私は土を蹴飛ばして走り出した。
風を切って走り出せば、ただ楽しい。速く動けることが楽しくて、もっと、と脚の回転を速める。するともっと速くなって、脚が悲鳴を上げて、息がうまく吸い込めなくなる。でも楽しい。かひゅっと息を漏らすと、少ししてちょっと脚が楽になって、それで息がまた吸えるようになる。でももっと速くは走れないのが悔しくて、脚の回転を上げようにも上げられず、もう十分速いことの楽しさに満足しようとすると、私があらかじめ置いておいた減速せよの看板が目に入ってくる。不承不承脚を緩めて、じわじわと速度を下げて、そのたびにちょっとずつつまらなくなっていく。楽しさが完全につまらなさに置き換えられるころ、開けた領域の終わりに突き当たるようになって、私は私を木々に突っ込んで全身擦り傷まみれにしないで済むようになる。脚が完全に止まって、息が肩を上下させる。全身が空気を求めている。こんなに寒いのに体からは汗がどっと出て、私は腕を膝について前かがみになる。下を向きながら口角はただ上がり、こんなに楽しいことはない、と思って息を整える。
トレーニングを始めるときには、いつもこんな風に一本全力で走っていた。それから私はペース取りの練習を始めて、どう相手を引っ掛けるのかとかに注力する。これもとても楽しいけど、走ること自体の楽しさをさっぱり捨て去ってしまうことはできなかったし、したくなかった。トレーナーさんは私の脚をよく信じてくれているようだったけど、私の脚にもっと才能があればこの楽しさ一本でなんでもできたのにな、と思わずにはいられなかった。
前に考えた作戦のペース取りを何本かやってみて、いまいち掴みきれないな、と思って休憩と称して座りこんでみる。とはいえ考えたらうまくいかないものがどうにかなるわけでもなく、思考は別の所へ向いた。この間ここから帰るとき、うっかりトレーナーさんと出くわして、あまつさえかなり近づくまで気づけず、気づいたときには驚いてついここまで走って戻ってきてしまった。そのときのことを思い返すだけで顔から火が出そうになる。ウマ娘はヒトよりも長距離を見ることは苦手だし、その上あのときは疲れていてあまり周囲を気にしていなかった。川のせせらぎと冬風の音が耳元で戦っていたところに私のものではない足音が聞こえてきて、それで顔を見上げるとトレーナーさんのシルエットが見えて、つい。
もしかしたら今日も帰る途中にトレーナーさんと会うかもしれない。そう思うとなんだか恥ずかしくなってしまって、私はまた立ち上がって走り始めたくなってしまった。隠れてやっていることがばれたときのことを思って恥ずかしくなるなんて、私もまだ子供なんだなあ、と思った。
結局、その日の帰り道にトレーナーさんに出会うことはなかったし、弥生賞までの間に何度か秘密のトレーニング場まで足を運んだけれどトレーナーさんと出くわすようなことも一度も無かった。私の方は、トレーナーさんがそのうち私がトレーナーさんに黙って走っていることを咎めに来るだろう、そうしたらまあ皐月賞ぐらいまでは秘密基地通いをやめてあげてもいいかな、ぐらいに思っていたところだったので、なんとなくやめるタイミングが掴めず、ちょっと過重にトレーニングをし続けることになってしまっていた。
はっきり言って、今は不調だ。それでもレースはもう今日だ。控室でトレーナーさんと別れたのが15分前。実況の人がディープなんとかって言って会場がざわついたのが5分ぐらい前で、今はパドック。会場がざわつこうと静まり返ろうと、目の前の2人の方がよっぽど大事だったのでどうでもよかった。
「おーっほっほっほ!トライアルであっても全力で行くわ!それが一流のウマ娘ってものですもの!おーっほっほっほ!」
「うわあ、キングさんもすごいやる気……私もがんばるぞー!」
キングヘイローと、スペシャルウィーク。キングちゃんとスペちゃん。
「おーこわ。でも、弥生賞に勝って皐月賞にも勝ったウマ娘は、ここ10年で1人しかいないらしいよ?あんまり本気出しちゃうと、むしろ勝てなくなる呪いが……!」
軽口を叩いて気を紛らわす。調子が悪いから、というのは私が勝ちをみすみす見逃す理由には全くならない。
「それに、キングちゃんには2000は厳しいんじゃない?もっと短い距離でどかーんとやりたいでしょ」
「一流のウマ娘というものは距離にこだわらないものよ!おーっほっ、げほっ、ほっ」
キングちゃんの末脚はすごい。でも、クラシック路線なら……スペちゃんの末脚のほうがよっぽどこわい。スペちゃんはキングちゃんと比べたらスタミナおばけなのに、差し脚の鋭さがとんでもない。
「あっ、トレーナーさんだ!おーい!」
キングちゃんをおちょくって遊んでいたら、スペちゃんがいきなり大声を上げたので、スペちゃんの見る方向を見たところ私のトレーナーさんもいた。スペちゃんのトレーナーの隣に私のトレーナーさんがいて、さらにその隣にいるのはおそらくキングちゃんのトレーナーだろう。いつの間に随分と仲良しになってるじゃん、とスペちゃんが手を振るのに合わせてトレーナー3人衆が手を振り返すのを見て思った。キングちゃんのトレーナーがこっちに頑張れと叫んで、キングちゃんが恥ずかしそうに怒鳴り返すのは見ていて面白かった。こんどいじるときのネタにしよう。
パドックにいる間は何かすることもなく、所在なくぶらつきながら観客席を見回していると、ふとまたトレーナーさんと目があった。トレーナーさんが、にやっと笑った、気がする。実際にはそんな遠くの顔の判別なんか付かないので、目があったのも気のせいだったかもしれない。なんだかトレーナーさんばかり自信満々で、もちろん私も負けるつもりは毛頭なかったけど、例のジンクスとか、私がちょっと調子悪いこととかを汲み取ってくれていないんじゃないの、と思わずにはいられなかった。
なんとなく上の空で、はっと気づくともうゲートインしていた。幸いまだ全ウマ娘のゲートインは完了していなかったようで、出遅れることはなさそうだった。集中しなくちゃ。私が先頭を突っ走って、キングちゃんやスペちゃんの猛追を物ともせずに一着でゴールインする、そういった姿を思い浮かべる。そのためにはまず、スタートダッシュを完璧に決めなくちゃいけない。ゲートが開いた瞬間に飛び出す私の姿も思い浮かべる。わかる。もう完璧だ。私は勝てる。
最後のウマ娘がゲートインして、すぐに扉が開いた。今か今かと待ちわびていた私の両足は芝を耕すように地面を蹴っていく。初っ端からスパートをかける必要は無いけど、一番前には出たい。集団に埋もれることだけは避けなくては。そう思えば足がどんどん前に出る。200mを過ぎたあたりでトップに躍り出た。横目にほかのウマ娘を見ながら、その娘よりも速く走る。風を切って、その娘が見えなくなってももうちょっと前へ。第1コーナーへ差し掛かったあたりで加速をやめて、こんなものかな、と落ち着いた。
走りながら実況にも耳を澄ます。私の名前が連呼され、私が先頭に立っていることがなんども叫ばれる。次いで実況は後ろの方に推移していく。おや、キングちゃんは思ったより前の方の集団にいるみたい。そこからさらに一個後ろの集団にスペちゃんがいて、なかなか怖い位置。ちょっと脅かされた気分になって、僅かにギアを上げた。スペちゃんもバ群の半分より前にいる。
第3コーナーを回ると、第2コーナー付近での息の苦しさがちょっとやわらぐ。ウマムスコンドリアのはたらきはヒトのそれよりも強いらしく、ヒトだと短距離のエネルギーが40秒ほどで尽きてしまうところ、もうちょっとだけ長く走れるらしい。代わりに有酸素系への切り替わりも遅い。その一番苦しいところを耐えても、まだ最後のスパートが残っている。一息入れて、前を見る。先頭を走って、風を浴びて、芝を蹴り飛ばす。
第4コーナーを回った。息が苦しい。足は赤熱しているように感じるし、腕もこのまま振り続ければもげてしまいそうだ。吸って、吸って、酸素が足りないのでもっと吸って、吸えない。余計な空気を吐き出す時間が惜しい。吐いて、吐いて、吸って。足が痛い。そんなことは関係ない。スパートをかけて、すぐ後ろの娘を突き放していく。ラチが流れていって、実況がすぐ後ろの娘と2バ身半の差をつけられたことを知らせてくれる。そして大外からキングちゃんが飛んできたことも。
キングちゃんの真っ赤になった顔が目に浮かぶよう。多分私の顔もそんな感じだろう。悪いけど、キングちゃんにも負けるわけにはいかない。キングちゃんの声が聞こえる。だんだんと近づいてくるのがわかる。でも、そんなんじゃ私には追いつけない。
もっともっと地面を蹴る。4バ身のリード。ゴールまでは300m。スペちゃんはまだ後ろ。このまま逃げ切る!そうは言っても、これ以上上げられるギアは無い。もう足は全力で回転しているし、私が暴走列車になったみたいに感じる。足も肺もごうごうと燃えて、ここでうっかり転びでもしたら大爆発してしまうんじゃないかというぐらいに。
スペちゃんの声がする、スペちゃんの走る音が迫ってくる。負けたくない。負けたくない!
あと200m。スペちゃんは3バ身半後ろ。ということはキングちゃんはその後ろに落ちてしまったらしい。まだ負けない。まだ逃げ切れる。あと150m。スペちゃんは2バ身半後ろ。速い。スペちゃんが速い。あと100m。スペちゃんは1バ身半後ろ。スペちゃんに負けたくない。とっくに100%中の100%の全力を出しているけど、もっと腕を振りたい、足を蹴り出したい。気持ちだけならいくらでも伸びるのに、体がついてこない!
あと50m。スペちゃんはたったの半バ身後ろ。スペちゃんの息遣いが聞こえる。息は乱れに乱れている。私だってもうゴールになだれ込むために呼吸の意味が無いような呼吸になっている。スペちゃんが腕を振る音が、スペちゃんの脚がスペちゃんを進ませる音が、ずしりずしりと頭に響く。私も全身を響かせて対抗しようとするが、もう私の脚はちょっとの音も鳴らしてくれないように思えた。
あと25m。スペちゃんに並ばれた。まだ、まだ負けてない!もっと脚を速く、腕を大きく、あと10m。スペちゃんの体が見える。今すぐ掴んで引っ張り去りたい。あと5m。掴む隙もなく半バ身先にスペちゃんがいた。あと0m。スペちゃんに……負けた。「はあっ、はっ、ひゅっ、はぁっ……」
うまく息が吸い込めない。ゴールしても惰性で走らないと危ないから、焼けた鉛のような脚をむりやり回して前に進む。前を見ると、スペちゃんは私を差し切って勝ったのに、もう観客席に手を振ったりしている。私にはそんな余裕は無かったけど、スペちゃんに倣って観客席を見回した。まずは後ろの方を見て、ついでにキングちゃんを見つける。私と同じぐらい息せき切っているキングちゃんと目があった。ばつが悪かったからすぐに目を逸らした。
観客席はずいぶんと湧いていたようだった。悔しさが滲み出てくる。滲み出てくるどころか、私が悔しさの女神になったみたいにすら感じてくる。観客席を湧かせたのは自分であってほしかったし、ぎりぎりのところで逃げ切りたかった。逃げが足りなくて、スペちゃんの豪脚に差されてしまったからには、もっと私の脚が早く動けばとかを思うよりほかにできることはなかった。
そんなとき、観客席の中で湧いていない部分を見つけるのは容易かった。スペちゃんや私を推していなかったから単純に落胆しているのかな、という部分もあったけれど、私の目に止まったのは……私のトレーナーさんだった。遠目から見てもわかるほどに固まってしまっていて、私がじいと見つめていても何の動きもしなかった。
これからウイニングライブのために一度控室に戻ってから、ちょうど差されたその当人の横に立って歌い踊らなければいけない。なかなかに憂鬱で、負けるのはこんなに悔しいのか、と思った。それから、メインじゃない立ち位置でちゃんと踊れるかどうかも憂鬱の要因の一つではあったはずだった。今からビデオを見て復習すれば付け焼き刃ぐらいにはなるはず……と思って、ウィナーズサークルにスペちゃんが向かったのに合わせて私は控室の方に戻った。